「Noton」と一致するもの

Sam Binga - ele-king

 ここ数年間、ドラムンベースを追っているリスナーたちの多くから賞賛のことばを浴びてきたアーティスト、サム・ビンガ。いや、むしろそのサポーターの枠はドラムンベースに限らず、フットワークからワールド周辺の刺激的な音を求めるディガーの方にも多いという事実に注目するべきなのかもしれない。たしかに、いくつかの点において、「重低音」というターム内だけで聴くには、あまりにも広い表現をするアーティストだ。

 前回のアルバム『ジョイント・ベンチャー』はバオビンガ名義で自身の〈ビルド・レコーディングス〉から2011年に発表され、それまでのキャリアを総括するような、ブレイクビーツをダブステップやドラムンベース上で巧みに組み合わせたサウンドを披露。それ以降、彼は名義をサム・ビンガに変更し2013年にリリースを再始動させた。その年に〈エグジット〉からオム・ユニットとの共作で発表された『スモール・ビクトリーズEP』を、今回彼の音に初めて接する方に薦めよう。UKアンダーグラウンドのメッカであるブリストルから、フットワークやトラップの要素までをも取り込んだ音は、リリースから2年経ったいまでもフォロワーを寄せ付けない金字塔になっている。

 そういった傑作を連発しているプロデューサーなだけに、この名義でどんなアルバムを発表するのか大きな期待がかかっていたことは間違いない。それに彼はすでに10年選手だ。ジャンルの変化やプロダクション・テクノロジーの進歩が、いかにひとりのアーティストに影響を与えうるのかという意味でも、サム・ビンガはリスナーの注目を集めていた(もしかしたらポシャってしまうという不安もあったかも漂っていたかもしれない)。

 そうして先日、とうとう『ウェイステッド・デイズ』が我々の手元に届いたわけだ。語弊があるかもしれないが、これは「ラップ」アルバムだ。サム・ビンガはほぼ全曲にわたって、さまざまなMCとコラボレーションをしている。そして、その声の使い方がとても素晴らしい。それは冒頭のウォーリアー・クィーンとの表題曲を聴けば一目瞭然だ。彼女が声を荒げるとき、バックトラックのベースも突き抜けるようにトーンを上げ、有機的にリズムを形成していく。ベース・カルチャーにおいては、トラックという絶対的な存在に、MCが即興でことばを被せていくのがひとつのマナーであったわけだが、サム・ビンガは他人のための作品ではなく、自身のアルバムにおいて他者との共存を選び取ったわけだ。

 アルバムを支えている強靭なトラックにも、やはり最後の最後まで目を離すことはできない。作品全体貫くのは、ドラムンベースとジュークの共通項である170BPM前後の速度なのだが、そのなかでの表情の付け方が……。いわゆるジュークの三連キックが出てくることもあれば、MCに空間を明け渡して、そこにUSのサグさを投入したり、グライムのクラップが高速で鳴らされたりと、雑食性は混迷を極めているのだが、なぜかそれがスッキリと成り立っている。謎だ。

 一聴するとジェット・コースター的なノリで時間が過ぎるのかと思えば、“マインド・アンド・スピリット”のような曲では、叙情性までもが溢れ出してくる。その辺で、このカオスを理解するのではなく、消化不良のまま飲み込むことが正解なんじゃないかとすら思えてきてしまう。再度、MCの話に戻ってしまうのだが、そこでマイクを握るライダー・シャフィークの声がまた……良い。恐らくは褒められるようなことなど歌っていないのだが、他のMCと比べてみても、フロウするところはフロウし、きっちりリズムにハメるところではそのタイミングを逃さない。こういうときに、歌詞カードが手元にないことを悔やみたくなる。

 やはりこの作品を「ラップ&リズム」アルバムと呼びたい。そこに踊るひとがいる限り、やはり音楽はリズムの呪縛からは逃れられないし、身体的に訴えかけるような声もやはりまだまだデジタル時代には必要なようだ。そのテーゼを突き進んだのがこの生産的な「無駄な日々」であり、たとえそれが「ベース・ミュージック」論争に巻き込まれようが、DJに使いづらいと罵倒されようが、そこでサム・ビンガが選択したリズムと声は、現代において想像以上に強いのである。

Rose Mcdowall - ele-king

 ローズ・マクドウォールと聞いてもいまいちピンとこないかもしれませんね。というわけで、“ふたりのイエスタディ”といえば話は早いだろうか(ちなみに吉川ひなのとトミー・フェブラリーもカヴァーしてましたよね!)?
 そうなんです。このローズ、何を隠そう──水玉模様の衣装とド派手なメイク&ヘアスタイルをキメこんで、時代を先取りしたゴスロリ・ファッションと甘くはじけるシンセ・ポップで80年代のお茶の間を席巻した──グラスゴー出身の女の子デュオ=ストロベリー・スウィッチブレイドの片割れなのだ。

 突然の名声により2人が抱えた精神的ストレスは相当なものだったのだろう。スウィッチブレイドはわずか1枚のアルバムを残して86年に解散。その後、ソロへの道を歩んだローズが唯一発表している作品『カット・ウィズ・ザ・ケイク・ナイフ』(2004)がこの度リイシューされた。そして、そのリイシュー元が、現行ポストパンク〜ノイズ〜シンセポップ・シーンのなかでもとりわけセンシブルでトンガった連中の作品を輩出するレーベル〈セイクリッド・ボーンズ〉と〈ナイト・スクール〉ということからだけでも、この作品がいまこそ聴かれるべき状況にあることを容易に察知できるはずだ。

 さて、その内容はというと、88年〜89年に録音されたデモ音源に、88年にリリースされたEP『ドント・フィア・ザ・リーパー』(「死神を恐れないで〜」なんて歌うブルー・オイスター・カルトのカヴァー曲!)の2曲を追加収録したものである。そして、このデモ音源。ずばり! ストロベリー・スウィッチブレイドのセカンド用に作られた曲も多く含まれているので、(相方ジル・ブライソンのいない)ひとりスウィッチブレイドの未発表曲集としても十二分に楽しめる。しかも、スウィッチブレイド時代のポップスター然としたゴージャスなサウンドの装飾(それはそれで重要なのだけれど)が取りはらわれているぶん、ハッとしてグー! なメロディの豊かさがよりくっきりと浮かび上がり、雲の間から射しこまれる「天使のはしご」のごとくローズの歌声とソングライティングの妙がゆらめきながら光り降り立つのだ。

 そして、もはや説明不要かもしれないけれど、ローズ・マクドウォールといえばコイル、サイキックTV、カレント93からデス・イン・ジューンに至るまで、いまも語り草となっている当時のインダストリアル〜ゴシック〜ネオフォーク〜オカルティックな音響シーンの最重要バンドを渡り歩いた歌姫としても知られている。なので、本作はパンク上がりの田舎の不良少女があれよあれよと表舞台に駆け上がり世界をカラフルに彩ったポップ・サイドと、まったく同じ時期に地下に潜りこみ世界を禍々しい黒に染めた暗黒サイドをつなぐ奇跡的な軌跡としても聴きどころたっぷりである。いかんせん太陽の光が強い分、裏に潜む影の部分がいっそう存在感を増し、その強いコントラストを存分に楽しめるってわけだ!

 アルバムはカレント93のデヴィッド・チベットとの失われた友情について歌われる悲しい哀しいナンバー“チベット”から幕を開ける。そして、続く“サンボーイ”ではスロッビング・グリッスル〜サイキックTVのジェネシス・P・オリッジと、80年代ニューロマを代表したバンド・パナッシュのメンバーにして後にサイキックTVに参加するポール・ハンプシャーについて歌われている。とはいえ、そのサウンドにドロリとした重さはなく、とびきりポップで軽快だ。ポコポコとしたチープなリズムが小気味良いドラムマシンのビートに、ソーダ水のように清涼感あるシンセとクリアなギターがピチピチはずむ。そこに乗っかるシュガーコーティングされたローズの歌声は、どれだけリアルで悲しみにあふれて陰鬱な内容を描き出そうとも、辺りにぱっと華やいだ真紅の花を咲かせる。まさに甘くて美味しい毒入りキャンディー。地上世界からドロップアウトした地下世界のフェティシストたちを虜にしたのも納得である。

 また、美しいハーモニーと情緒あふれるグッド・メロディが短編映画のように紡がれ、ローズの心の中に秘められたさまざまな心象風景を覗かせる“シックスティー・カウボーイズ”。シンセによるセンチメンタルなリフをバックにドラムマシンが疾走するイントロだけでインディー・ギターポップ・ファンのハートを打ち抜くキラー・チューン“クリスタル・ナイト”(最近のダムダム・ガールズ・ファンにも聴いてほしい)など、シンプルながらも繰り返し聴きたくなる現代性と中毒性はかなりのものだ。

 というわけで、王道シンセ・ポップ好きからアヴァンギャルド好きまでをもそわそわさせるこのリイシュー。水玉模様のファンシー・ドレスからタイトな黒のレザー・スーツに衣替えし、天使も悪魔も困惑させてしまうローズのコケティッシュな魅力だけでなく、彼女の想像力豊かでずば抜けたポップ・センス(というか罪深き魔力ですね、これは)をこれでもかと再確認できるリリースとなっている。

 余談になるけれど、これを機にローズがノイズ・ユニット「ノン」のボイド・ライスと結成していたデュオ=スペルが発表した60Sポップスのカヴァー集『シーズンズ・イン・ザ・サン』(1993)。そして、ロバート・リーと結成していたデュオ=ソロウによるケルティック色も漂う夢見心地アルバム『アンダー・ザ・ユー・ポゼスト』(1993)のリイシューも密かに願う。

UN.a - ele-king

 菊地成孔によって牽引された00年代初頭の日本のジャズは、90年代的なクラブジャズに対して、現場のジャズ・ミュージシャンからの反撃でもあった。著作や講義を通じて行われる和声とリズムの楽曲構造分析と、つぎつぎに発表されるDCPRGなどのアルバムの両方から、聴き手の耳を教育した氏の功績は大きい。

 また00年代初頭は、90年代末期のグリッチ・ムーヴメントを契機にして、日本でもエレクトロニカや電子音響が人気を博していた時代でもあった。ハードディスクの大容量化とラップトップ・コンピューターの高速化に伴い、これまでは不可能であった複雑なサウンドの生成が可能になった。
 00年代初頭の日本のジャズ受容と00年代初頭のエレクトロニカ・ムーヴメント。これらはいっけん無関係でありながら、00年代初頭の時代性を刻印するコインの表裏のようなものである。共通するのは90年代的なサンプリング感覚以降という感性と知性であろう。そして、現在は、00年代初頭の音楽的状況に大きな影響を受けている世代が活躍をしている時代だ。

 このUN.aは、そのようなジャズとエレクトロニカの00年代初頭的な成果を見事に統合させた類稀なユニットである。
 ピアノとエレクトロニクスを担当する中村浩之(電子音楽家としても知られている)と、サックスとエレクトロニクスを担当する宇津木紘(ミキシングエンジニアでもある)によるUN.aのファースト・アルバムには、ジャズと電子音とクラシカルな要素が極めて自然に共存している。それは作曲と演奏によるものであり、コラージュ/サンプリング的な拮抗でも対立でもない点が重要だ。
 本作で展開される多様な音楽の交錯は、単なる混在でもないし、単なる越境でもない。クラシックからアルゼンチン・タンゴ、アンビエントからビート・ミュージック、さらにはインディ音楽からブラジルまで、こぼれ落ちそうなほど豊穣な音楽性がきちんと整理・精査され、楽曲として無理なくコンポジションされているのだ。このエレガント、かつスムーズな作曲・編曲の能力の高さこそUN.aの魅力といえる。

“インターセクティング”、“アマチュア”、“アルボス”と続く冒頭3曲においては、ボーカル・メロディとコードとリズムとサウンドが絶妙な均衡の中で美しく溶け合っていく。ピアノは音楽の中で美しい響きを描き、サックスはジャズの不意にイディオムを導入し、ベースのフレーズはジャズの慎ましく主張するだろう。そうして描かれるアルバム全体のヴィジョンは、季節のような円環する時間ではないか。春から夏、そして秋から冬へ。円環する時の中で、華やぎ、そして枯れていくものたちへの慈しみ。
 その叙情がもっとも濃密に込められている曲が“イン・メニィ・ウェイズ”といえよう。秋の訪れのようなメロディと、トラックの絶妙な浮遊感は何度でも聴きたくなる中毒性がある。ピアノのフレーズに導かれて始まる“8 1/2”は、どこかアルゼンチン・タンゴのような雰囲気の楽曲であり、刹那と永遠が交錯する美しさに満ちている。濃厚な空気を自在に泳ぐようなピアノとヴァイリンの見事な交錯が、とにかく素晴らしい。そして絶妙に介入する電子音!
 そう、ジャズも、クラシックも、エレクトロニクスも、ひとつの音楽として生成し、消えていく。手法に溺れず音楽へと昇華させている。私はその点に何より感動した。

 ジャズとエレクトロニカの交錯には15年かかった。ジャズ的な和声と演奏の情報量と、エレクトロニカ的なサウンドの情報量の両立が難しいはず。なかなか成功例のなかった領域だが、彼らはこのファースト・アルバムで見事に成果を出した(私見だが、UN.aは東京ザヴィヌルバッハの系譜を拡張する貴重なユニットではないかと思う)。
 00年代初頭の決定的な変化を引き継ぐ、極めて2015年的なポップ/ミュージックのカタチがここにある。

Various - ele-king

 中国はたしかに脅威である。安倍晋三が何をしにブラジルやコロンビアなど何カ国も中南米を飛び回っていたかは不明だけれど(自分では「懸命に働いてきた」とコメントしていた)、同時期に習近平はリオ・デ・ジャネイロから太平洋側のペルーまで南米横断鉄道の建設を軌道に乗せてきた。これが完成すればアメリカの影響下にあるパナマ運河は一気に力を失うだろうし、ラテン・アメリカ内のダイナミズムも急激に変化していくに違いない。大西洋を挟んでスペインと結びついていたアルゼンチンの映画や音楽も、もしかしたら中国資本との連携を強めていくかもしれないし、映画産業がハリウッド以前の状態に戻ってしまうことも予想しやすい。すでにして現在のハリウッドはヒスパニック系を抜きにしては語れない形勢になってきたわけだし。

 米議会でキャロル・キングに心を撃たれたとアピールしていた安倍晋三は、そして、当然のことながらベネズエラのタンボールやキューバのクバトン、そして、ハイチのラバダユ(Raboday)といった最新のダンス・ミュージックを南米から持ち帰ってくれるわけでもない。文化的にも役立たず極まりない。岸信介は1959年に初めて中南米を訪問した日本の首相だったので、祖父のマネをしたかったというだけだったのだろうか。ちなみに岸信介は戦後、獄中で『レ・ミゼラブル』を翻訳している。どうせやるなら、監獄に入って、アリソン・キャッスル『Saturday Night Live: The Book』でも訳してもらいたいものである(僕が読みたいので)。

 〈ストラット〉傘下に設立された〈タイガーズ・ミルク〉はこれまでペルーのヴィンテージ音源を発掘してきた。それが、ここへ来て、いきなりトロピカル・ベースとも称されるペルー産のディジタル・クンビアを1枚にコンパイル。コロンビアが起源とされるクンビアは、近年、アルゼンチンに飛び火してディジタル・クンビアとしても知られるようになり、さらにこれがペルーにも浸透して、まったく表情を変えていたことがよくわかる。エッジを立てながらもそれこそチル・アウトといいたくなるほど全体に穏やかで、アルゼンチンよりはコロンビアからの巻き返しだったメリディアン・ブラザースに通じる部分も多い。ブラジルのファベーラやヴェネズエラのチャンガ・トゥキが激しくなる一方だったことを思えば、太平洋側はチリのヴィラロボスやルチアーノといい、概して平穏なム-ドを好むのかなーと、知りもしないのにいい加減なことを考えてしまう(つまり、ジャケット・デザインはかなり間違っている)。

 全16曲中、トリビリン・サウンド(Tribilin Sound)が4曲を占めているので、この人が中心人物なのだろうか。アルヴァロ・エルネストの名義でディープ・ハウスやミニマルのリリースを重ねてきた人なので、ともすればここへ来てルーツを意識したということになるのかもしれない。聞かせ方は心得ているし、洗練された作風にはなるほど連続性が強く感じられる(トリビリンというのはディズニー・キャラ、グーフィーのことらしい(?))。ペルーの俗語で並外れたものや不快なものを意味するアニマル・チュキ(Animal Chuki)はディジタル・クンビアをプッシュしてきたZZKともすでに繋がりがあり、ここでは重層的なシンセサイザーでオープニングを飾っている。リミックスをカウントすると、デルタトロンも3曲で存在感を示し、ティト・プエンテをソローで再生しているようなカクルーナやMGMTがクンビアに手を出したようなケチュアボーイなどモダンとルーツはかなり入れ乱れている。

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 南米に生息するさまざまな鳥をテーマにしたコンピレイションも少し前につくられている。細かく書き写してもしょうがないけれど、11種類の鳥をテーマにチャンチャ・ヴィア・シルクウィートやトレモール、あるいはシロサンプルズといった、この手ではすでに人気のプロデューサーたちと、あまり聞いたことがないマタンツァやバリオ・リンドといったエレクトロニック系からのエントリーがこれもまた穏やかなチル・アウト・ミュージックをさまざまに展開している(オープニングは『アンビエント・ディフィニティヴ』でも大きく取り上げたコロンビアのルラクルーザ)。曲調もディジタル・クンビアや鳥の声を使い倒したミュージック・コンクレート歌謡、あるいはラテン・ハウスにフォークトロニカと、地味に豊富。正直いって全曲、素晴らしい仕上がり。南米のプロデューサーが全体にいま、非常に高い創作モードのなかにいることが実感できる。

 じつは、この2種類の編集盤はどちらにもデング・デング・デング(Dengue Dengue Dengue)が曲を提供していたので僕は興味を持ったのでした。3年前にリリースされたデビュー・アルバムが今年になってアナログ化されたペルーの「トロピカル・ストーム・オブ・エレクトロニック・サイケデリア」に関しては、長くなってきたのでまた機会があれば。

第六回:「身に纏う音楽」 - ele-king

 最近はまっている携帯型スピーカーがある。LuxSoundというスピーカーで、充電式ワイヤレスで、左右分離しているスピーカー(https://nuzeestyle.jp/products/detail.php?product_id=4)。音質が特別良いわけではない(そこまで悪くもなく、価格相応)し、結構不具合もあって開発段階であることは否めない。だけど、旅先や野外で、音楽を聞いて過ごしたい人には、このスピーカーはオススメできると思う。

 ワイヤレスなので、屋外でも屋内でもLとRのスピーカーを、その空間に合わせて、自分の好きな場所に、好きな距離で好きな音量で配置ができる。そして、何より僕が面白いと思っているのは、このスピーカーが洋服のポケットに収まる。ということだ。

 胸ポケにi-podを入れて音楽を再生すると、両サイドのポケットからはずっと音楽が流れ、やろうと思えば1日中、そこから流れる音楽に包み込まれて過ごすことができる。

 もちろん、このスピーカーは他人を不快にする可能性がある。その危険性はどんな場所でも、音が発生する場である限り、全ての時間に孕まれている。けれど逆に言えば、このスピーカーで流すことのできる、他者を妨害しない音楽あるいは音を「アンビエント・ミュージック」と呼ぶのではないかと思うのだ。だから僕は、「アンビエント・ミュージシャン」が「ステージに立つ」ということには、どうも抵抗がある(ちなみに僕や友人がライヴで演奏している音楽はアンビエント・ミュージックではないし、僕自身が作ってきた音楽も、アンビエント・ミュージックと名乗るには、まだまだ随分遠いところにあると思っている)。本来、僕が考えるアンビエント・ミュージシャンは、存在として無であるべきだと思う。少なくとも僕自身が日常生活のなかで身に纏う音楽は、無のような存在であってほしい。何もない静かな無のなかにさす、ほんのり浮かぶ、ほのかな灯りであってほしい。

 例えば、あるコミュニティーのなかで、そこに住む人の多くがこのスピカーを身につけて、その日に自分の世界を包む音を選べるようになったとしたら。それは服とかマフラーとか靴とかに、音の発生する機械が着いているのかもしれない。するとある人とある人がすれ違ったり、あるいは話し合ったりしているときに、その2人の音楽が絶妙なバランスで混ざったり、混ざらなかったりする。3人とか4人とか集まったときに、それぞれの音楽や音が、うまく調和したりしたら、それは分かり合える親友と、語らい合っているときのような特別な喜びを覚えるだろう。

 もちろん、問題はそこで流れる音楽が、「録音物」という過去の時間軸である。という問題はある。本来であれば、それがそのときにその人から生まれた音楽であるとしたら、それは録音物よりも、どんなに素晴らしい音楽がそこに発生しうることになるだろうか。と想像するだけでも楽しい。

 でも、考えてみれば、音楽でなくても、自分自身のそういった何かしらの周波数のようなものは、音楽以外の情報として、つねに発信されている。ファッションにしても、言葉にしても、表情や「所作」ひとつひとつにしても。そういう周波数が、合うときもあれば合わないときもある。それは音楽のセッションをしているときと、同じことなんじゃないかと思う。どんなに仲が良い友だちでも、長い生涯を考えてみれば、その周波数が合う時期も、合わない時期もある。それは悲しむべきことではないし、またいつか、来世かもしれないけど、それはそれでいいじゃないか。と思える。

 それにしてもすごい時代になったもんだ。

 僕は、人類の歴史、こと身体の歴史というのは、生物学的なある方向性を持って動いていると思っている。そういうなかで音楽が生まれて、それが「録音された」ということは、音楽史にとって、とてつもない出来事だと思う。とくに「アンビエント・ミュージック」について考えるときは、ひとしお大事だ。

 アンビエント・ミュージックというのは、環境として在れる音楽で、他者を妨害することなく空間を変えることのできる音楽。だと僕は思っている。そういった音楽が現代に、ある程度の生物学的な方向性を持っているものだとしよう。そうするといま、アンビエント・ミュージックというものが、都会のなかから生まれて来たということの意味があるのではないか。というのを前々々回までに書いた。

 そう考えると、「アンビエント・ミュージック」というのは、「演奏者がそこにいない」ということが、非常に重要な要素になる音楽だと思う。だから、「録音する」というテクノロジーが生まれなければ、「アンビエント・ミュージック」という概念も音楽も生まれなかった。僕はサティが家具の音楽の構想を実現できなかった理由には、そこに演奏者がいたからである。という理由が一番大きいんじゃないかと思っている。

 それがね、今度はポケットから音楽を1日中流すことすら可能にしたテクノロジーっていうのも、それはすごいことだなぁ。と思うのです。これから、そういうテクノロジーの発達とともに人間と音楽の存在し合い方も変わってくるだろうし、変わるのが当たり前なのです。


Dâm-Funk - ele-king

 2000年代後半から現在まで続く80sサウンド・リヴァイヴァルの最大の貢献者であるデイム・ファンクことデイモン・ギャリック・リディック。80sサウンドにもいろいろあるが、彼の場合はモダン・ファンクやシンセ・ブギーで、自身の出生地であるUSカリフォルニア産のサウンド(LAの〈ソーラー・レコード〉などがその典型)がベースとなっている。2009年に〈ストーンズ・スロー〉から『トゥイーチゾーン(Toeachizown)』を発表し、一躍その名を轟かせた彼だが、それ以来となるニュー・アルバム『インヴァイト・ザ・ライト』が発表された。じつに6年ぶりの新作だが、その間もデイム・ファンクにとっては憧れのヒーロー格にあたるスティーヴ・アーリントン(元スレイヴ)とのコラボ・アルバム『ハイアー』(2013年)を発表し、スヌープ・ドッグの変名であるスヌープジラと組んだ7デイズ・オブ・ファンク、コンピューター・ジェイ、Jワンと組んだマスター・ブラズターでの活動や、ほかにもシングルやEP、リミックス、ミックステープ類や過去の作品集などをいろいろと出していたので、制作作業から遠ざかっていたどころか、かなり精力的に動いていた。

 こうした作品でも一貫してモダン・ファンクや、それに隣接するGファンク系ヒップホップを聴かせてきたのだが、とくに近年はダフト・パンクやファレルによってディスコ・リヴァイヴァルに火が点き、今年に入ってからもメイヤー・ホーソーンとジェイク・ワンによるタキシードがモロにシンセ・ブギー路線のアルバムを出したりと、改めてデイム・ファンクの功績を再検証する機会が増えてきたように思う。そうしたタイミングもあって、発売前から大きな話題を呼んでいたアルバムだ。〈ソーラー・レコード〉のレオン・シルヴァーズ3世(ファミリー・グループのシルヴァーズのメンバー)がプロデュースした『トゥイーチゾーン』は、ほぼ一人での宅録に近い内容だったが、『インヴァイト・ザ・ライト』はとにかくたくさんのゲスト参加があり、予算も内容も格段にスケール・アップしている。それはすなわち、この6年でデイム・ファンクの評価がいかに高まったかを物語る。そのゲストをあげると、レオン・シルヴァーズ3世と4世の親子、オハイオ・プレイヤーズのジュニー・モリソン、ジョディ・ワトリー(彼女も〈ソーラー〉を代表するグループのシャラマー出身)、そしてスヌープ・ドッグ、コンピューター・ジェイ、ナイト・ジュエルなど過去にコラボをしてきた面々、さらにQティップ、アリエル・ピンク、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのフレアと多士済々だ。西海岸勢が占める中で東海岸を代表するMCであるQティップとのコラボ、異種顔合わせの最たる例であるアリエル・ピンクやフレアとのコラボなど、実に興味深いセッションが行われている。

 アルバムの楽曲を見ると、フューチャリスティックな“フローティング・オン・エア”、レフトフィールドなエレクトロ“ザ・ハント&マーダー・オブ・ルシファー”のようにさらに進化した姿を見せてくれる曲がありつつも、基本は『トゥイーチゾーン』や『ハイアー』のラインを受け継ぎ、シンセ・ベースによる重低音が貫くモダン・ファンクは相変わらずだ。というか、彼にはこれしかないし、またリスナーもそれ以外のものを望んではいない。古いとか新しいとか、時流や流行などいっさい関係ないし、ゲストに誰が来ようが日和ることもない。ここまで自身の道を貫けるのは潔いし、だからこそ説得力のある音だ。そうした中、ファンキーなサウンドももちろん素晴らしいが、彼の真骨頂は“サムホェア、サムハウ”で聴けるようなメロウなシンセ・ブギーにあると思う。これこそ西海岸の音だし、80sの匂いも残しつつ、いまの時代にもしっかりとフィットする普遍性を備えている。本作はアップにしろスローにしろ、そうしたメロウ・サイドがより洗練された印象で、“O.B.E.”には初期のラリー・ハードが持っていた美的センスと同種のものを感じさせる。そして、そのタイトルどおりスキャットを交えた“スキャッティン”は最高のAORではないだろうか。


Helen - ele-king

 最高のノイズ・ポップ・アルバムがここに誕生した。そう、グルーパーことリズ・ハリスがメンバーでもあるバンド、ヘレンが、2013年の7インチ盤から2年もの月日を経て、待望のファースト・アルバムをリリースしたのである。
 しかし、リズなのにヘレンとはこれいかに、という謎は、そのメンバー編成にある。リズ・ハリス(ボーカル/コーラス)、イート・スカルのスコット・シモンズ(ギター/ベース)、本年〈スリル・ジョッキー〉から大作をリリースしたエターナル・タペストリーのジェド・ビンデマン(ドラム)の3人に加え、謎の女性ヘレンがコーラスに参加しているというのだ(?)。

 バンドの音楽性は、イート・スカルのトラックに、グルーパーのヴォーカル・ワークが折り重なっていくタイプのものといえるだろう。じっさい、楽曲は二人の共作によるものと思われるが、イート・スカルとのちがいは強烈なノイズ・ギターにある。コードを無化する強烈なノイズの横溢。
 それゆえ楽曲の骨格は、ほぼベースによって作られているといっていい。音楽的にはギター・ノイズをマイナスすれば、“モーターサイクル”や“カバード・イン・シェード”などを聴いてもわかるように、多幸感溢れる60年代的なバブルガム/サイケポップ的である(グローパー『ルインズ』がキャロル・キングを思わせる70年代SSW的な楽曲であったのとは対照的。このあたりにスコット・シモンズの個性を感じる)。
サイダーの炭酸のような甘いノイズ。切ない明るさを漂わせるベースのコード進行。そしてリズの透明なコーラス。それらが混然一体となることで生まれる圧倒的な快楽をどう形容にすべきか。まさに至福の音としかいいようがない。シューゲイザーからアンビエント/ドローン、そしてチルウェイヴからドリーム・ポップを経由した2015年型のティーンエイジ・ノイズ・ポップの誕生だ(彼らが10代というわけではない)。

 さらに注目すべきは、その音質である。まるでカセットテープに録音されたような歪んだサウンドは、単なる轟音ノイズともちがう独特のアトモスフィアを生んでいる。私などは、この使い古された痕跡のような音にこそ本作の最大の意義を受け取ったのだが、どうだろうか(ちなみに本作はステレオ録音だが音はセンターに集中しており、モノラルな質感を醸し出している点も重要に思えた)?
 アルバムはカセットプレイヤーの再生か録音ボタンのような音と、歪み切ったテープのような音質の“ライダー”からはじまり、ラスト1曲まえの“ヴァイオレット”ではカセットプレイヤーを止めるような音が挿入されている。次いでラスト曲“ジ・オリジナル・フェイシズ”がまるでエンディング・テーマにより鳴り始めるのだから、アルバムがカセットテープの録音/再生というコンセプトとして構成されていることは明白ではないか。となれば、このカセットテープなような音質もまた本作の重要な要素とわかってくる。
 私は本作を聴きながら、まるで打ち捨てられたカセットテープに残された見知らぬバンドの録音を聴いているような気分になった。グローパーでもイート・スカルでもエターナル・タペストリーでもない。まるで20世紀の後半の、誰とも知らないバンドの録音の痕跡を聴くような感覚。

 そう、ヘレンのアルバムには、まるで末期資本主義のゲーム(つまりつねに進化を、つねに新品を、つねに消費を!)を、その内側から止めてしまい、ゴミのようなポップの残骸を、新しいポップへと生成変化させてしまうような「新しさ」がある(何かをリサイクルしたようなアートワークも象徴的)。……と、そんな妄想を思わず繰り広げてしまうほどに、本作のローファイさはイマジネティヴなのであった。
 20世紀の痕跡と残骸に刻まれたポップなメロディとノイズの炸裂。これこそが2015年以降のポップ・ミュージックのモードに思えてならない。

高橋源一郎×SEALDs - ele-king

 「民主主義ってなんだ?」というコールは天才的だと思った。疑問形のコールは英語ではあったけれど、日本語では難しそうだと思っていた。それどころか、私が2000年くらいに行った古いタイプのデモでは、「勝ち取るぞー」「勝利するぞー」と叫びながら歩いていた。いったい誰が誰になにを訴えたくてそんなことを叫んでいるのか全然わからなくて(すごく自己満足っぽくて)、ついに私はそのコールに声を合わせることが出来なかった。あれから10年以上の間に、街を行くデモの形態は劇的に変わってきた。コールだって「勝利するぞー」なんて聞かなくなった。テンポはロックンロールの歴史のように速くなったり、誰でも(どこから来た人でも)声を合わせやすいものになってきたと思う。
 そして「民主主義ってなんだ?」へ。レスポンスは「なんだ!」から次第に「これだ!」になっていく。何度も何度も繰り返し、先週も今週も来週も繰り返す。そのたびに「なんだ?」と考えたり、「これだ!」と確信したり、そしてまた問いに戻る。あの「これだ!」には、そんなふうに粘り強くデモをする人たちの実感がこもっていた。ある意味、「勝利するぞ」と同様にデモの力を誇示しているかのようだけれど、あれがどうも空元気にしか聞こえなかったことを思い出すと、執拗な「なんだ?」という問いかけは、「民主主義ってなんだろう」という自問を瞬時に、その場にいる人たちの脳みそに去来させ、自分たちがやっていることへの自信につながっていたようにも感じたし、疑問はデモが続く限り、いや終わってからも継続して頭に残るんじゃないかと思えたのだった。

 そんなコールを発明したSEALDsの最初の単行本だという本書は、最初の3分の2がSEALDsの自己紹介だ。奥田愛基、牛田悦正、芝田万奈の三人の生い立ちからはじまる。まさに世界をまたいだ3人3様のストーリーを持った彼らが偶然出会ってSEALDsが生まれ、それにそれぞれがどう関わってきたかをそれぞれの個人的視点から話している。どうしてそうなったか、どう考えてそうしたか、単なる年表ではなく、個人史でもあり日本社会史でもある、知的であり同時に野性的だったりもする。まるで青春小説のように楽しい“歴史”だ。
 そして後半は『ぼくらの民主主義なんだぜ』(朝日新聞出版)がヒット中の高橋源一郎先生を中心にした民主主義ゼミナール。叫び続け、あたため続けた「民主主義ってなんだ?」の問いを、「これ」の中身を、古代ギリシャの直接民主主義、西欧で成長して来た議会制民主主義だけでなく、ネイティブ・アメリカンやアフリカの民主主義や、そもそも人が言葉を得た時に民主主義は生まれたんじゃないかとか、戦後民主主義から「戦後」の取れたいまの「民主主義」まで、話はどんどん広がって深まっていく。民主主義は危険なものだ、立憲主義って人間を縛る、とか、ネガティヴな話もしながら、それでもやっぱり「民主主義」しかない、民主主義ってどう作っていくんだ、などなどなど。
 数年前、親の荷物を整理していたら、『あたらしい憲法のはなし』という小冊子が出て来た。これは戦後、まだ自衛隊も安保もない日本でほんの短い間、中学1年生の教材だったものだそうで、新しい日本国憲法をそれはもう誇らしげに楽しげに解説している。戦後の日本社会は、こんな大いなる希望ではじまっていたのだ、少なくともこれを教材にしていた子どもたちは。そしてその子たちはやがて大学生や労働者になり、60年安保闘争で国会前を埋め尽くした。
 私は高橋先生とSEALDsの会話を読みながら、この小冊子を思い出した。安保法制が可決されてすぐに刊行された緊急行動の緊急出版は、大急ぎで作ったらしいダイナミックで新鮮な作りのところもそうだが、なにより「はじめの一歩」のような初々しい決意が似てる。
 会話の言葉なのでとても読みやすくて、思考のプロセスがよく見えるので中高生にも充分理解できそうだし、友だちと回し読みしてもすぐに順番が回ってきそうだ。そして自分でも考えたくなる。民主主義ってすごく身近なことなんだ。「日本は民主主義の国ですからデモをやっていただいてもかまいませんが……」だの「デモなんてヒマ人のやること」だの「あれっぽっちで民意だなんて笑わせるな」だの「デモは感情だけ」だのだの、インターネット時代のオープンな陰口がいろいろ聞こえてきて、消沈しているひともいるかもしれない。何ヶ月も国会前に通って疲れた人も多いだろう。いつもなら使わないはずの交通費で出費が増えたとか、友だちと遊べなかったとか、本が読めなかったとか、いろいろ少しはいつもの生活を犠牲にしただろう。それならちょっと休んでもいいじゃない。休んで、何度も声にした民主主義って「これだ!」の中身を少し深く考えてみるのも楽しいに違いない。デモは嫌いだけど民主主義は気になるって人にもぜひとも読んでみて欲しいと思う。考えてるうちにまた、デモに出かけて行くときが来るんだな、きっと。

 ところで「SEALDsは個人の集まりだ」といろいろな人が言っている。それはいい! でも私がいままで行っていたデモもほとんどは「個人の集まり」だった。2003年、イラク反戦のパレードに「孤立を求めて連帯を恐れず」というプラカードがあった(あのころはプラカードはまだ各自の手製だった)。これは全共闘が好んでいたスローガンのひとつだったという、谷川雁のフレーズ「連帯を求めて孤立を恐れず」のもじりだ。今回と同じように家族連れも多い、集合場所になった新緑の公園でその「孤立」の文字は寂しさではなく、シャイな表情の清々しさを放っていた。70年代以降の、とくに団塊世代より若い日本人は「連帯」が恐かった。連帯していがみ合うくらいなら孤立している方がよほどいいと思っていたのだ。それが、「個人」が独立するということではなく、単に分断されているだけだと気づきもせずに、労働組合も政治運動も衰退して来て、政治参加と言えば「選挙で投票すること」だと割り切り、しかしその投票はあまりにも空しい行為になり続けて来た。だからそのデモにひとりで来ているようだった若者が掲げる「連帯を恐れず」というプラカードが、なにかを吹っ切ったあたらしい時代の到来のように感じられたのだ。
 その年からたしかに、反戦や労働運動や脱原発、反ヘイトなど、「個人」の集まりで行われるデモは増えていった。だけど待って。「連帯」ってなんだっけ? それってどうやって作るんだっけ? そういうことをなにも伝承していなかったあたしたちは、それぞれが試行錯誤しながらいろいろやって来たけれど、どこか、「連帯」に対して臆病であり続けていたように思う。
 ところがですね、安保法案が強行採決されるとき、SEALDsはなんと「野党はがんばれ!」とコールしていたのだ。「屁理屈いうな!」には笑ったが、この「野党はがんばれ!」にも私は驚いた。市民運動が野党にこんな屈託のない「連帯」の表明をするところも初めて見た。“国会前でやること”の意味が、抗議だけでなく励ましにもあったとは! ディスるだけじゃなく、誰かを応援するデモに、私は初めて立ち会って、事態の深刻さにも関わらず、思わず笑ってしまったのだ。なんか、いままでの市民運動にはなかなか言えないよなあ。過去の失敗から長い分断を経て、“経験のなさ”から発生するこういう屈託のなさが、こんなに多様でたくさんの人びとを惹きつける力になったのではないか。
 もちろんSEALDsのやり方が唯一の正解というわけではないし、正解のひとつかどうかさえ、本当はまだ分からない。だけど今のところかなりうまくいっていそうだ。昔の人たちが失敗したから、その内容までもダメだった証拠にはならない。次にはもっといいやり方を考える。人間にはそれが出来ると信じること──それ自体が民主主義でもあって、「戦後」の取れた「(僕らの)民主主義」には必要なんじゃないだろうか。焼け野原になった日本で「あたらしい憲法」を学んだ子どもたちの多くが、おそらくはそうだったように。

文部省 あたらしい憲法のはなし
https://www.aozora.gr.jp/cards/001128/files/43037_15804.html

Yomeiriland - ele-king

 マムダンス&ノヴェリストといえば、いまやUKグライムの最強のタッグ。マムダンスは、今年はロゴスとの共作アルバムを出したトラックメイカー、そしてノヴェリストは期待大の若手MCだ。夏前には、彼らは正式にコンビを組んでXLから12インチを出している。
 そのふたりの2014年のコラボ曲“Take Time”を、なんと日本の3人組ラップ・グループ、嫁入りランドがカヴァー。先日SoundCloudで発表すると、さっそくFACT MAGは、「当然ながらブリリアントである」と賛辞を寄せている。
 ※引用訳につきまして「驚きはしないが、ブリリアントである」を「当然ながらブリリアントである」に訂正いたしました。関係の皆さま読者さまにお詫び申し上げます(2015.9.25)

 ちなみに、こちらがマムダンスのオリジナル。

 で、こちらが嫁入りランドのカヴァー。

ルビー・ローズ、ガリポリ、安保法案 - ele-king

 またしてもネットフリックスが当てた海外ドラマ『OITNB(オレンジ・イズ・ザ・ニュー・ブラック)』(囚人服のこと)の「シーズン3」で一般的にも完全にブレイクを果たしたルビー・ローズは、日本で人気のミランダ・カーと同じくオーストラリア出身のファッション・モデル。ローズの全身にはタトゥーが入っていて、ハイエイタス・カイヨーテのナイ・パームといい、さすがオーストラリア、『マッド・マックス』みたいなキャラが次から次へと出てくるなーと思っていたら、なんと、彼女はガリポリの戦いで生き残ったオーストラリア兵の子孫だという。オーストラリア軍は全滅したと思っていたので、生存者がいたことにも驚き、その子孫が「髪を切ったらジャスティン・ビーバー」などと言われて、いまやレズビアンのアイコン的存在になっているとはなかなか言葉もない。

 100年前、イギリス軍がトルコに上陸するためにオーストラリア兵を人間の楯として使ったのが、いわゆる「ガリポリ」で、ハリウッド進出前にピーター・ウイアーが『MASH』や『キャッチ22』と同じ手法で映画化している。要するに前半は兵士たちがふざけているだけ(邦題はなぜか『誓い』)。『マッド・マックス』と同じ主演のメル・ギブスンは、最初は戦争に行くことを拒否している。「パッとしないから」という理由で志願する友人たちに非国民とそしられても彼は「僕たちの戦争じゃない」「イギリスが勝手に」といって取り合わない。しかし、「ハクがつく」という理由で彼も宗主国であるイギリスとオーストラリアの合同作戦に志願。しまいには「♪イギリスさんが困ったら~ 僕たちがかけつける~」と陽気に合唱し、自分たちがイギリス軍の下部組織であることに大した自覚は持っていない。そして、彼らを取り巻く事態は急変する。イギリス軍が全員無事に上陸し、「お茶でも呑んでいるころ」にオーストラリア軍は上官も含めて全部隊が敵の銃弾に向かってダッシュしていく。エンディングは凄絶なものがある(ブライアン・メイとジャン・ミシェル・ジャールの音楽がいまとなってはかなりダサい)。

 衆参両議院で安保法案について審議されている間、僕の頭には「ガリポリ」が何度もよぎってしまった。前線と後方支援ではまったく意味が異なるし、自衛が人間の楯として使われるという局面が訪れるとはさすがに思わないけれど、実質的には自衛隊が米軍のパシリになるという法案にしか思えなかっただけでなく、最高責任者がどちらの軍に心を寄せているのかという部分でも「ガリポリ」と安部政権は正反対を向いていたとしか思えなかった。僕はずっと安倍は、イランでいえばホメイニ以前のパーレビみたいな存在だと考えていたこともあって、今度のことも独立性の面では右翼の方々が怒ってしかるべき法案ではなかったかと思えたし、スイスなど一国平和主義の国防意識を引き合いに出す賛成派も右翼の不在を過剰なレトリックとして使っていたに等しく、安保法案に関心を示していたテンションの高さに対して、それこそ安倍内閣の答弁はあまりにゆるゆるで、「♪アメリカさんが困ったら~ 僕たち皆がかけつける~」という鼻歌程度のものとしか考えていないような印象さえあった。日本が戦後の方針を大転換させるにしては、なんというか、理屈も弱いし、パッションも低いし、女性の口説き方でいえば「いいじゃん、ちょっとぐらい」とか「先っぽだけ」に近い感触で言い寄られたような法案だったというか。

 政府ではなく、法案に賛成する人のなかには耳を傾けてもいい意見はあった。賛成派にも反対派にもバカな意見というのはもちろんあって、とくに賛成派でも保留派でもバカバカしかったのは個別的自衛権と集団的自衛権を取り違えているもの。影響力が大きい人では、松本人志や田村淳などお笑いで、それが目立ったのはちょっと気になった。アメリカのコメディアンにはリベラルが圧倒的に多く、とはいえ、政治家をからかう時には民主党であれ共和党であれ、とにかく容赦がない。近年で最大のヒットといえばティー・パーティ後ろ盾にして出てきたサラ・ペイリンをまずはティナ・フェイが完コピし、さらにはペイリンが言いかねない政策を先回りして吹きまくるというものがあった。

 ヘタをすれば政治家のスタッフ・ライターになれる域である(ティナ・フェイのサラ・ペイリンが見たいばかりにティー・パーティに復活して欲しいぐらいだと思っていたらドナルド・トランプに呼応して、先週、「私がエネルギー大臣!」とブチあげてペイリンが復活してきました。いやー、お笑い的には面白くなるかも~)。
 ティナ・フェイが辞めた後に「サタデー・ナイト・ライヴ」のヘッド・ライターに就任したセス・マイヤーズがホワイトハウスのディナー・スピーチでドナルド・トランプを叩き潰した瞬間もなかなかのものがある。カメラに抜かれたトランプの表情は完全に固まっていた。

 ジミー・ファロンやクリス・ロックなど、この辺りは例を挙げれば切りがない。本誌15号でも取り上げたようにウィル・フェレルとスティーヴ・カレルが右翼報道で知られるフォックスTVを笑いのめす映画
『俺たちニュースキャスター』も最高でした。

 お笑いが政治にコミットするというのはこういうことであって、一国民として政治に振り回されるのではなく、個別的自衛権と集団的自衛権の区別がついてから、それを笑いのネタにしてもらいたいものだと思うばかりである。

 話を戻そう。賛成派のなかで耳に残ったというか、僕にもそういう気持ちがあるのは国際貢献である。かつて国境なき医師団(以下、MSF)はルワンダで武力行使を要請した事があり、それを聞いて僕は非常に葛藤を覚えたことがあった。MSFというのは目の前にケガ人がいれば黙々と救援活動を行うだけで、それ以上のことはしないと思っていたのに、最近の政治用語でいえば僕が思っていたよりも「積極的」だったのである。
 そして、そのことによって多数を救うことができると彼らは早期に判断し、実際には国連が武力行使どころか、ほとんど黙って見ていたために、MSFが恐れていた通り、市民同士の虐殺はマックスへと登りつめていく。ジャン=ステファーヌ・ソヴェール監督『ジョニー・マッド・ドッグ』(『憎しみ』のマチュー・カソヴィッツがプロデュース)のような展開を経て現在のルワンダがIT大国として飛躍的な経済成長を遂げたという後日談を知ると、これもまたなんともいえない気持ちにはなるけれど、100万人以上の死者を見過ごしたことはたしかであり、自衛隊がその主体になることはないにしても、国連軍が武力行使をする時に日本が何をできるのかということは、以来、気になり続けていた。
 今回の安保審議では、論点が米軍との連携に集中し、PKOが具体的にどう変わるのか、僕にはよくわからなかった。政府が「国際情勢の変化」というならば、イエメンの内戦やムガベの横暴、あるいはネパールやウクライナでは今年、憲法改正をめぐって暴動や警官の殺害まで起きているし、ISISの空爆に踏み切ったトルコはついでにクルド人まで空爆し始めるなど世界のどの部分を見ても「国際貢献」をしたいという気持ちを掻き立てられた人は少なからずだったのではないだろうか。安陪内閣の答弁を聞いていると、40%前後の支持率のうち、どれぐらいを占めているのかはわからないけれど、そういった真面目に国際貢献をしたいと思う人の気持ちは完全に裏切られていると僕には思えたし、それこそアメリカのニーズに応えて日本政府が憲法を破るというなら、アメリカのニーズがあれば日本国民も刑法や民法を破っていいのかな~と、法に支配される国民としての方針も大転換させたくなってしまう。


 多ジャンルで活躍するルビー・ローズはこのところDJとしてもめきめき評価を上げている。

 ジェンダー・フリーを呼びかけるルビー・ローズからのメッセージ・ヴィデオ。

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