「Noton」と一致するもの

Slackk - ele-king

 『イン・ディス・ワールド』や『グアンタナモ』など政治的な映画を撮ることが多いマイケル・ウインターボトム(日本では『24アワー・パーティー・ピープル』がもっともよく知られているか)の『グルメトリップ』を観ていて、久しぶりに会う親子がドアを開けるなり「ノー・ポリティクス、サンキュー」と言い放つシーンがあった。これまでにどれだけ言い争ってきたかということだけれど、このセリフが耳から離れなくなって、『ele-king vol.14』の第2特集で使うことにした。自分たちがノン・ポリだということもあるし、このところの政治の話題は本当に遠ざけたいほどヒドいものばかりだということもある。あれは本当に心の叫びなんですよ。驚いたのはリチャード・D・ジェイムズで、軽くあしらわれると思っていた政治の話題に彼は、セカイ系的なニュアンスではあるけれど、多少なりとも言葉を返してくれた。しかも、彼が伝えようとしている内容はそれこそ「ノー・ポリティクス、サンキュー」と同じようなことである。一冊の雑誌のなかで同じテーマが入れ子状に絡み合っていると評してくれたのは〈ゼロ〉の飯島さんだけれど、ある種の音楽と政治は似たような距離にあるのかもしれないと、それこそ錯覚を覚えてしまいそうな符号だった。これを編集部はコンテクストとして自覚するべきで、ビジネスマンたちが好んで使うバンドル・メディアの必須条件と考えるべきなんだろうけど、「ぼさ~っとすること」という105ページの見出しにいつも心は飛んでしまう。ぼさ~っとしたいよなー。ノー・ワーキング、サンキュー……。

 ラッカー(Lakker)の8枚めのシングル『マウンテン・ディヴァイド』は意表をつくノイジーな歪みが非常に気持ちよかった。そして、それ以上に予想外だったのがポール・リンチによるアンビエント・グライムである(……という言い方は誰もしていないけれど)。なるほど打ち込み方はグライムのリズム・パターンだし、そもそもデビュー・シングル「テーマEP」(2010)はベースメント・ジャックスが派手にブリープ音を撒き散らしているような曲だった。それがどんどんスタイルを変えていき、何をやろうとしているのかさっぱりわからない時期を経て(とくに『フェイルド・ゴッズ(Failed Gods)』)、ついに新境地を切り開いたのである。ガッツである。UKガラージはまだまだポテンシャルがあるんだなーというか、そもそもスラック(slack)というのは「ユルさ」という意味だから、字義どおりに収まったといえばそれまでなんだけど、それにしてもおもしろい展開である。『やしの木が燃える』というヴィジュアルもアーサー・ライマン(『アンビエント・ディフィニティヴ』P.21)とはきっとなんの関係もないだろうし、発想の源がまったくわからない。いや、とにかく変わったことをやってくれました。

 フロアユースか否かという耳で聴くと、このアルバムはおそらくどこにも行き場はない。クラブ・ミュージックであるにもかかわらず、そのような対立項とは無縁の場所で音は鳴りつづけ、アンビエント・グライムとは書いたものの、チル・アウトにはまったくもって適していない。中途半端に身体は触発され、気持ちだけが宙に吊り下げられたまま全15曲がさまざまなイメージを展開していく。なんというか悶え苦しみながら少しずつカラダが聴き方を覚えてくると、後半に入ってワールド色が薄く滲み出したり、さらにはエイフェックス・ツインめいたりしながら、いつまでも宙吊り状態を維持してくれる。いい感じである。何度聴いても的確な言葉が浮かんでこない。

 現在はロンドンがベースで、昨年末にUKガラージの変化球として『コールド・ミッション』が話題になったロゴスらとボックスドというDJチーム(?)も組んでいるらしい。ロゴスことジェイムズ・パーカーもけっこうな変則ビートを聴かせる逸材で、どこか通じるものもなくはないけれど、急速にファッション化しつつあるインダストリアルの要素を引きずっていたロゴスとは違い、スラックはむしろ 対照的にハッパの世界観を一気に更新した感がある。それこそブライアン・イーノ『アナザー・グリーン・ワールド』(1975)のガラージ・ヴァージョンというか。アーサー・ライマン→ブライアン・イーノ→『アーティフィシアル・インテリジェンス』→『パーム・トゥリー・ファイアー』と、20年おきに受け継がれたシミュレイションの引き延ばしがここまで達している。これは、つまり、「ぼさ~っ」としたい人たちがいつも一定数いるということだろうな……。

Christopher Owens - ele-king

 何がどう、ということもない。というのは、ガールズと名づけられたバンドのときからそうだった。レトロ・スタイルのロックンロールやロカビリー、R&Bを下地に、ほとんどが2、3分のポップ・ソングに乗せて甘ったるいラヴソングや痛みについて歌うだけ。だが、ブロンドのどうにも危うい青年のその歌にこめられた感情、その響きが混じりけなく聞こえてしまうことが、バンドへの批評的態度を無効化する力を持っていたことはたしかだ。ガールズのファースト・アルバムである『アルバム』に収録された“ヘルホール・ラットレース”はいま聴いても呆気にとられてしまうくらいの名曲だ――「僕は泣きたくない、だからいっしょに笑ってくれ」というほとんど幼児のようなつぶやきが、しかし何度聴いても迫真であるという恐ろしさによって。
 だからこそ、僕はガールズに入れあげることはなかった。なぜならば、特殊な生い立ち(カルト教団「チルドレン・オブ・ゴッド」で育ち、やがてそこを脱出した)を持つその歌い手……クリストファー・オーウェンスのナイーヴネスの前でおのれの繊細さや感受性が試されるような気がして、なんとも居心地が悪く思えたからだ。そのピュアなラヴソングに同化するにはたぶん僕は年を取り過ぎていたし、「若者の心の震えは素晴らしいね」と言って距離を置くにはまだ若かった。ガールズが終わったときも、ソロ前作『リサンドレ』がリリースされたときも、彼、クリストファーの「信奉者」でなければそれらについてコメントすることは許されていないような気分だった。

 だが、ふと発表されたソロ2作めをリピートするのを止められない。何がどう、ということもないという点では何も変わらないアルバムであるにもかかわらずだ。ただ痛みや、それを分かちあうための愛や、それが手に入らない痛みをピュアに歌っているだけのソングブックを本当に何度も何度も聴いてしまう。
 それはこのアルバムが、「ただの」ゴスペル・ロック・アルバムになっていることが関係しているのだろうと思う。多くのナンバーで黒人女性コーラスが導入され、とりたてて珍しくもない教会音楽になっていて……つまり、非常にアメリカの内側の匂いがするのだ。そのことは、この歌たちをクリストファー・オーウェンスそのひと個人の物語から引き離していく。ごくパーソナルな内容を歌っているだろうと思われる歌詞でありながら、しかしこの聖歌たちはかの国に住む取るに足らない人びとの取るに足らない人生と愛を歌っているように聞こえる。カントリーやR&Bを基調としたレトロ・スタイルも、クリトファー・オーウェンスによる天性のどうしようもなく甘く切ないメロディも、そのすべてが借りものにすぎないからこそ、そこにこめられた感情は古くから繰り返し繰り返し歌いつづけられてきたものとしての説得力を孕んでいく。

 クリストファー個人の生い立ちが赤裸々に歌われているスウィートなゴスペル・ナンバー“ステファン”を聴いていて、ふと諸星大二郎の傑作短編『生命の木』を僕は思い出していた。ある隠れキリシタンの村で巻き起こる聖書の再現。彼らの「宗教」は間違いだらけで偽ものにすぎないが、しかしその信仰心だけは本物だった。ライナーノーツによれば、本作のアルバム・タイトルは新約聖書のもじりだという。チルドレン・オブ・ゴッドで育ったオーウェンスがいま、ゴスペル・ロックを奏でることは皮肉でも何でもない。その聖歌が本物かどうかなど関係なく、ただその心の深さによってポップ・ソングとしての純度を高めていく。アルバム本編のラストから2曲め、8分の6拍子の“オーヴァーカミング・ミー”のセンチメントにはめまいがする。「なんて言えばいい ぼくに何ができる どうやってきみを忘れたらいいんだ」……そこに重なるコーラスとオルガンの泣き!

 何も変わらないと書いたが、しかしガールズの頃とはっきりとちがうところがあって、それはクリストファーのヴォーカルだ。かつてのカエルの鳴き声のようなダミ声ではなく、ジャケットに集まったバンド・メンバーたちを慈しむかのようなとても優しい歌い方をしている。最終曲のタイトルは“アイ・ジャスト・キャント・リヴ・ウィズアウト・ユー”と名づけられていて、やはり子どもが受けた傷についての甘いポップ・ソングが歌われている。だがそこにはカッコでそっと「バット・アイム・スティル・アライヴ」と付け足されている。だけど僕はまだ生きている。そんなアルバムだ。

Grouper - ele-king

 音楽の永遠性とは何か。普遍性ではない。普遍は世界の側に属しているが、永遠は個人の内側にあるのだから。永遠への希求。それは凍結した時間のようなもので、一種の「死」に近い感覚だ。
そして今年発表された音楽には、そのような永遠性を希求するようなアルバムが、とても多いように思える。刹那の情報の層に世界が覆われていく現在だからこそ、音楽は永遠性=タイムレスな感覚を希求しているのだろうか。たとえば、話題沸騰中のアルカ『ゼン』にも、インダストリアル/テクノのアンディ・ストットの新譜『フェイス・イン・ストレンジャーズ』にも、そして今回紹介するグルーパーの新作『ルインズ』にも、そのような凍結された時間=死のようなものを感じる。

 このアルバムにおいてグルーパー=リズ・ハリスは、ピアノと歌による弾き語りを披露している。これまでのようにギター、シンセなどをほとんど用いることなく、4トラック・レコーダー、アップライト・ピアノ、マイクという簡素な楽器や機材で用いて制作されたという。録音は、2011年、ツアーの合間に滞在したポルトガルのアルジェズールにて行われた。そのせいか、このアルバムには、そのときどきの微かな環境音が、あたかも声とピアノとのアンサンブルのように鳴り響いているのだ。鳥の声、水の音、木々の葉。まるで映画のフィルムから聴こえてくるような音の質感。

 言うまでもなくリズ・ハリスはソングライターであると同時に、2010年代的なドローン/アンビエント・アーティストである(そしてザ・バグの『エンジェル&デビル』にも参加した優れたヴォーカリストでもある)。しかし、このアルバムは、冒頭と最終曲以外は、歌とピアノと、簡素な録音機器のみで録音されたものだ。
 むろんよく聴いてみると、声が重ねられている曲もあるし、環境音も編集されている可能性もあるだろう。しかしそれらはひとつの時間の流れとして極めて自然にアルバムに置かれているので、全体の雰囲気は統一され、まるで凍結された時間のような感覚が生まれているのである。その意味で、本作はデモテープ・アルバムなどではない。きちんと構成されたアルバム作品だ。
 事実、リズは、1曲めに、暗闇の中で何かを打つような音のエクスペリメンタルなトラック“メイド・オブ・メタル”を、ラスト8曲めに、2004年に母親宅で録音されたという11分25秒に及ぶドローン/アンビエント・トラック“メイド・オブ・エア”を置くことで、アルバムに円環性を与えている。そんなエクスペリメンタル・トラックに挟まれるように、彼女の声とピアノ(そして微かな環境音)だけによる曲が収録されているのだ。

 これらの曲は、まずもってメロディが素晴らしい。2曲めのキャロル・キングのような“クリアリング”から3曲めのジョン・レノン・ソロ曲のような“コール・アクロス・ルームス”へ。この流れは完璧だ。特に後者の滴のようにはかないメロディの素晴らしさは筆舌に尽くしがたい。つづいてインスト・ピアノ曲の“レディリンス”。その瀟洒なミニマリズムは、巷のポストクラシカルを軽々と超えている。そして曲の終わりに唐突に鳴るビープ音。その音はノイズだが、まるでこの曲の、この瞬間に必要な音としてそこに鳴り響いているのだ。“ライトハウス”では蛙の声、自然音、雫のようなピアノ、ささやくような歌声がシルクの層のように重なっていく。メロディは“レディリンス”の変奏だろうか。耳を澄ますと、蛙の音などの環境音は彼女の声とピアノの後ろに鳴り続け、まるで演奏=アンサンブルをしているようにも聴こえる。天国のような平穏と美。曲はまたも環境音で終わり、掃除機でもいれるようなカタっという音がして、“ホロフェルネス”にシームレスに繋がる。この曲も1分33秒のインスト曲だ。ビートルズの“ビコーズ”のイントロのような曲。
 そして7曲め“ホールディング”は7分57秒におよぶヴォーカル曲である。澄んだミニマルなフレーズのピアノに、透明な歌声。構造的にはミニマルな楽曲だが、フローティングする感覚を保持しながら波打つように演奏されるので、まるで空気の流れのように旋律と和声が反復していくのだ(ロバート・ワイアットにカバーしてほしかった)。終盤直前に鳴る雷と雨の音。音楽はそこでいったん途切れ、やがてピアノの数音。そして本作唯一のアンビエント・トラック“メイド・オブ・エア”へと繋がる。淡いシンセ音がミニマルに鳴り響き、やがて記憶が空気の層に消失する……。見事なアルバム構成だと思う。

 このアルバムははじめと終わりの2曲以外は、すべてピアノとヴォーカルによるシンプルな編成の曲だ。しかし、私にはこれまでのグルーパーのアルバム以上に、フライジャイルなアンビエント感覚があるように思えた。これは歌とピアノのよる究極のアンビエント・ミュージックである。そして、アンビエントは記憶に作用する。ノスタルジアの生成。本盤は記憶=ノスタルジアの中に永遠性を凍結したような作品だ。凍結された永遠とは、ほとんど「死」と同義である。だが、それこそ音楽とはいえないか。

 思えば、2013年にグルーパーがリリースしたアルバムの名は『ザ・マン・デッド・イン・ヒズ・ボート』というタイトルであった。記憶の中の死。そして、このアルバムの名は『ルインズ』。つまり廃墟だ。廃墟とは記憶の痕跡であり結晶である。痕跡。結晶。凍結。死。彼女の音楽は、いつもそのような場所から鳴り響いている。そう、時間を越えている場所からの音楽。つまりタイムレス・ミュージックだ。

Scott Walker + Sunn O))) - ele-king

SCOTTO))) なる筋書き
Side:Sunn O)))倉本諒

 今年の春頃に「SCOTTO)))」とロゴのみのヴァイラル効果を狙ったウェブ・ページが〈4AD〉から表れ、音楽メディアを騒がせた。サンによる毎度スキャンダラスなコラボレーションは今回も大きな波紋を呼ぶのだろうか?
 その時どきの時代性を射抜く先駆的なコラボレーションを企ててきたサンは、もちろんドローン・メタル/パワー・アンビエントのバンドであるわけだが、僕はそれ以上に彼らをある種のカルチャー・ムーヴメントの立役者として捉えてきた。

 ヘヴィ、またはラウドと呼ばれるような音作りにおいて、その筋から絶大な信頼がおかれているアンプ──サン(sunn)だ──によって壁を築き、そのいまはなきメーカー・ロゴをそのままバンド名に冠し、カルトな垂れ流しドローン・ロック・バンド、アースへのトリビュートを謳うパロディ・バンドであったサン。彼らをはじめてコンテンポラリーな存在に仕立てたのは、2003年に発表したアルバム『White 1』でのジュリアン・コープとのコラボレーションだ。
 バーニング・ウィッチ(Burning Witch)、ソーズ・ハンマー(Thorr's Hammer)等で、ひったすらに重い、遅いメタルやハードコアを追求してきたスティーヴン・オマリーとグレッグ・アンダーソンがたどりついた、「スピードは死に、それでも地を這うメタル・リフとフィードバッグが延々とアンプから垂れ流される」という境地をカンテラの明かりで照らすようなジュリアンの朗読が冴える“マイ・ウォール”はいまも秀逸な響きを放っている。

 今回のスコット・ウォーカーとのコラボレーション『サウスト』を聴きながら、これまでのサンのコラボレーションに思いをめぐらせ、10年以上も前のジュリアンとの曲を振り返り見えてくるバンドの原点、それは舞台装置としてのサンだ。

 圧倒的な数のヴィンテージ真空管アンプとスピーカーの壁から放射される、まさに振動としての音波、やりすぎなスモーク、全身に纏うローブ、ギター・ミュージックの究極形にあるアンビエント化したロック・サウンド。舞台装置としてのサンのコンセプトは完成されている。それは文字通りショウとしての、エンターテイメント/見世物としてのロック史の、黒いパロディのようでもある。
 今回その舞台で披露された演目は、スコットとの、さながら『ファントム・オブ・パラダイス』のような悪夢のロック・オペラだ。フランスの舞台演出/美術家、『こうしておまえは消え去る』のジゼル・ヴィエンヌによるビデオ・クリップも発表され、ゴシックな舞台を彩っている。そもそもスティーヴンとピタによるKTLは当初ジゼルの演劇作品『キンダートーテンライダー(Kindertotenlieder)』の舞台音楽としてキャリアをスタートさせているわけだし、どうにも彼らはこういう方向性に強いようだ。
 10年以上前の“マイ・ウォール”でジュリアンがスティーヴンとグレッグの紹介を読み上げるセリフから、今回のスコットとのコラボレーションまでが、サンによる壮大なバンド活動計画の脚本のうち、とすら思われてしまうほど説得力を感じてしまう。

 過去のさまざまなアーティストたちとのコラボレーション同様、この作品が音楽のみならず、映画やファッション、現代美術など異なるフィールドを振動させてくれるのが楽しみである。

倉本諒

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ホラーと笑いのロック・オペラ
Side:Scott Walkerブレイディみかこ

 お。ポップになったじゃん。
 という表現が適切かどうかは不明だが、サンO )))と組んで聴きやすくなるアーティストというのもスコット・ウォーカー以外にそうはいないだろう。
 異色のコラボと言われるが、UKでは「すごくわかる組み合わせ」「もう音が想像できる」みたいなことが何カ月も前から言われてきた。思えば、スコットの前作『ビッシュ・ボッシュ』にもへヴィでオカルトなメタルっぽい音色はあったし、でも肉切り包丁を擦り合わせてきーきー言わせてた音がギターの音に変わったのだから、それはやはりポップになったのだ。が、だからと言ってスコット・ウォーカーとサンO )))のコラボに、ルー・リードとメタリカの『Lulu』のようなものを期待してはいけない。本作に比べれば『Lulu』はワン・ダイレクションのベスト盤のようなものである。
 わたしはだいたい音楽と名のつくものは何でも好きだが、一つだけどうしても駄目なのがメタルであり、のべつ幕無しギャーギャーわめくものが嫌い。という性格的なものだろうが、サンO)))の場合はわめくというより、唸ったり轟いたり歯ぎしりしたりという幅広い表現を追求しているのでスコットの声とは絶妙に合う。60年代には低音の魅力で売ったスコットも、前衛音楽に移行してからは妙な緊迫感のあるテノールを前面に出しており、本作は冒頭からまさにロック・オペラのようだ。
 スコットの音楽は映画的とも言われるが、たとえば、彼の『ティルト』以降のアルバムがタルコフスキー的だとすれば、本作はケン・ラッセルのロック・オペラ『トミー』だ。あれももともとはザ・フーのアルバムだったのに、ケン・ラッセルが映画化した途端にイロモノになったというか変なことになったが、スコット・ウォーカーもサンO)))と組んだ途端に変なことになった。ここでの彼は難解で崇高な芸術家ではなく、いい感じに力が抜けてイロモノ化している。

 歌詞にもそれは表れている。ああ見えて彼は以前からこっそり歌詞で笑わせることで知られていたが、『サウスト』ではそれが炸裂している。‟ブル”のソニック・ホラー風の緊迫した曲調でいきなり「leapin’ like a river dancer’s nuts(リバー・ダンスの踊り手の睾丸のように跳ね回っている)」などと歌われると、ぴょんぴょん跳ねながらアイリッシュ・ダンスを踊っている白タイツの男性を想像して吹きそうになったのはわたしだけではないだろうし、マーロン・ブランドが題材という‟バンド”でバシッ、バシッと鞭のパーカッションを使いながら「A beating will do me a world of good(ぶってくれたらとても僕のためになるのだけれど)」と劇的に歌い上げるのもナイスである。スコットは2008年にサンO)))からコラボの申し入れがあったときには断ったが、しっかりそれを覚えていてコラボ用の曲を書き溜めていたというのだから、きっとやりたくてウズウズしていたんだろう。

 2012年の『ビッシュ・ボッシュ』のレヴューを読み返していて、「スコット・ウォーカーはコードとディスコードの間にあるもやもやとした部分を追求している。この未知の領域は人間を不安にさせる。この不安に比べると、恐怖はまだいい。ポップだからだ」と自分で書いていたことに気づいたが、まさに『サウスト』の彼は、さらなる「不安」の探究を休み、よりポップな「恐怖」をやっているように思える。きっと彼はサンO)))という、それを形にする最高のパートナーを見つけたのだ。

 こうなってくると、気になることがある。それは、デヴィッド・ボウイやブライアン・イーノを羨望させたレジェンドが、このノリでつるっとステージに立ったりするのではないかということだ。そういうことを期待させるぐらい、本作のスコットは弾けている。そしてタルコフスキーよりケン・ラッセルのほうが100倍ぐらい好きなわたしにとり、本作は今年もっともチャーミングなアルバムだったと言ってもいいほど怖くておかしい。

ブレイディみかこ

Arca - ele-king

 ジェシー・カンダによる禍々しく、グロテスクなアートワークをじっと見つめながら音に意識を集中する。アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズのファースト・アルバムのジャケットを思い出したのは僕だけではないはずだ。徹底して異物であろうとすること。異物……両性具有あるいは無性であろうとすること。耳から入ってくるきわめて抽象的な音の応酬はやがて、男でも女でもない性が叫ぶ声とすすり泣く声に聞こえてくる。

 『FADER』のインタヴューは、この謎めいたプロデューサーがどういったところからやって来たのかを明らかにしているが、このアレハンドロ・ゲルシという青年の率直さと飾り気のなさにはずいぶん驚かされた。そして僕は、ベネズエラでゲイとして生まれることを想像してみる。たとえば今年、ソチ五輪開催時にロシアにおける同性愛者への弾圧が取り沙汰されたとき僕たちが知ったのは、かの国ではゲイだということが明らかになると暴力を受けて命を落とす可能性さえあるということだった。ベネズエラは……どうなのだろう。はっきりとはわからないがしかし、ゲルシ本人が「ベネズエラの社会ではそれに気づくことすら許されないんだ」と言うのだから、まあそういうことなのだろう。が、「ママがいなくなったら毛布をドレスみたいにし」、「高校の女の子とデートし」、「ゲイをやめたいって祈ってた」という部分はよくわかる。僕はこんなゲイがたくさんいることを……たくさん、日本にもいることを知っている。自分の場合は幸運なことに、海外の音楽やカルチャーに多感な時期に触れる機会があったためにそこで多くの同性愛者たちと「出会っていた」からよかったが、もしそうでなかったらと思うとぞっとする。かつてのゲルシ青年のように、どうかストレートになれますように、と毎日祈っていたのかもしれない……それがどれだけ自分を傷つけることになるかも知らずに。

 アルカがベネズエラで生まれたゲイであったからポスト・インターネット時代の寵児となり得たと言うのは乱暴だが、しかし自分はまったく無関係だとも思わない。僕の友人のゲイには、自分と同じような人間がいることを知ることができたというただ一点において、インターネットに救われたと真顔で言う者もいる。しかしゲルシは「自分のような人間」をただ探すだけに留まらなかった。竹内正太郎による国内盤のライナーノーツによれば、インターネット上のWAVファイルを拾い集めたことがアルカの創造性の萌芽だったそうだが、それはすなわち、ゴミを手に入れ配合し継ぎ接ぎすることによって、自分が生きる世界には存在しなかった、あるいは許されていなかった異物を、グロテスクな何かを生成する行為だったのではないか。そうして、折衷的と呼ぶにはあまりに情報過多なアルカの音楽は「異形」と呼ばれることになる。

 世間からの注目を存分に集めたのちついに世に放たれた『ゼン』は、しかし、ミックス・テープ『&&&&&』よりはるかに、音としてもコンセプトとしても内省的な一枚となった。もちろん、オウテカを聴いていたという彼のIDMからの影響が残るメタリックなトラックもあれば、ポスト・クラシカル的なストリングスが強く印象に残る“ファミリー・ヴァイオレンス”もあるし、先行して公開された“シーヴァリー”にはポップな感触がたしかにある。アルバム全体で言えば相変わらずきわめて断片的で散らかった内容だ。しかしながらたとえばタイトル・トラック“ゼン”の、“シーヴァリー”の、“バレット・チェインド”の、強迫観念的なビートと不穏さには頭を両手で掴んでシェイクされているような気分にもなるが、それと同じくらい……もしかするとそれ以上に、“フェイルド”、“ウーンド”における気が遠くなるほど優美なメロディが訪れる瞬間に引き込まれる。ドラマティックなストリングスとエフェクトのかかったエモーショナルなヴォーカルが聴けるトラックを“ウーンド”、すなわち「傷」と名づけているその衒いのなさに、アルカそのひとの横顔が見えてくるようだ。『ゼン』は、カニエもビョークもFKAツィッグスも意識から消えたところで、複雑怪奇なリズムと半音階と不協和音にまみれながら、アルカただひとりと対峙するアルバムである。

 もしかすると、この音楽の正体不明な佇まいゆえにゲルシの素顔は知りたくなかった、重要でないという向きもあるかもしれない。けれども僕は、アーサー・ラッセルの音楽に勇気をもらったひとりのアーティスト志望のゲイ青年が、ある晩はじめて男とセックスをするというエピソードの「普通さ」こそに胸を打たれる。なぜならば……彼はやがて、自身の内に抱え続けた異物をこしらえ、そして音楽の名のもとにそれを思う存分解放させたのだから。ここにはいびつだが、純粋な官能がある。奇怪でグロテスクで、この世のものとは思えない、エイリアンが作ったような音の蠢き……しかしそれは、僕にはもう、ひどく人間的な感情の揺らめきに聞こえる。

Burial Hex - ele-king

 ウェブ・レヴュー3度めの登場、久方ぶりのフルレンス・アルバム。え? 何枚めかって? 今年でデビュー10周年、CDRやカセットを含むと過去音源は通算80以上にのぼるブリアル・ヘックスのどれがスタジオ・アルバム仕様なのか、と遡るのを想像するだけでしんどい……。
 これがラスト音源だぜ! といったアナウンスが流れているが、過去に何度か同じことを言われ、騙されているわけで、今回もにわかに信じがたい……が、たしかに内容は最後を締めくくるにふさわしいと、言わざるをえないだろう。

 以前のレヴューでの紹介と重複するのでハショりますが、ブリアル・ヘックス(埋葬された呪い)は地底深くに隠されたある種のエネルギー・サイクルであり、それはヒンドゥー教の宇宙論において循環するとされる4つの時期の最終段階、万物が破滅にいたる終末の状態を表すそうだ。カリ・ユガ(Kali Yuga)である。
 クレイ・ルビー(Cray Ruby)にとってこのプロジェクトが自身の内包するドゥーム・スケープ(終末のヴィジョンとでも形容しようか)の具現化であることは過去十年間揺らがないのだ。ドゥーム/ドローン・メタル、パワー・アンビエントが台頭していたゼロ年代半ばにそのキャリアをスタートさせたブリアル・ヘックスはその後のネオ・サイケ・フォーク・リヴァイヴァルへの流れへと先陣を切りながら、自身が形容するところのホラー・エレクトロニクスという形で、近年〈デスワルツ・レコーディング(Death Waltz Recordings)〉がヴァイナルでの再発をおこなうようなカルト・ホラー・ムーヴィーのサントラから触発されたようなファンタジー性の高いソング・ライティングをおこなってきた。

 本作、ザ・ハイエロファント(The Hierophant)のタイトルは花京院のスタンドでお馴染み? の教皇のタロット・カードである。ステーク・ヘクセン(Sutekh Hexen)のケヴィンによる強烈な牛ジャケ・デザイン。そもそも教皇のカードを星座の牡牛に対応させるのは黄金の夜明け団による解釈であり、さまざまなオカルティズムにディープに精通するクレイによる暗喩がいつもより多めにこのアルバムに収められていることを象徴しているようだ。
 収録される楽曲も過去音源と比較してもダントツでキャッチーである。パワー・エレクトロニクス感は一切鳴りを潜め、同郷のゾラ・ジーザスばりにポップなアプローチを試みたと言っていいだろう。

 ちなみに過去の地元繋がりの両者による以下のコラボレーションは秀逸。)

 ハイエロファントの楽曲は上記のようなブリアル・ヘックスのポップ・センスが全面的にフィーチャーされたアルバムだ。ニューロマな方向にエモ過ぎる展開、じつはけっこう凝っているキャッチーな打ち込みビート、ファンキーな手弾きベース、やり過ぎなほどゴシックなオーケストレーション、そしてわりと全面通してウィスパーしたり唱いあげるクレイ。大聖堂のステンドグラスに降り注ぐ神々しい光と冬山に隠された洞穴でおこなわれる血塗られた儀式が交互にフラッシュバックする初冬に相応しいゴスな一枚。

Mohammad - ele-king

 ある種の「新しい音楽」を聴いていると、リアルな世界崩壊の予感・予兆の聴きとってしまうとの同じくらいに、新時代の「神話」が新しいフィクションとして生成されていくようにも感じられてしまう。2013年にドイツの実験音楽レーベル〈パン〉からリリースされた『ソム・サクリフィス(Som Sakrifis)』が話題を呼んだギリシャ/アテネを拠点とするユニット、モハンマドも私たちをリアル/フィクションの境界線上に立たせてくれる存在である。

 ムハンマドは、ニコス・ヴェリオティスのチェロ(彼はデヴィッド・グラッブスと『ザ・ハームレス・ダスト』というデュオ・アルバムを2005年にリリースしている)、コティ・K.のコントラバス(彼はアテネの実験音楽の中心的人物であり重要エンジニアでもある)、イリオスのオシレーター(サウンド・アーティストとして多くの作品を制作、彼もまた〈パン〉などからアルバムをリリースしている)という編成による3人組のアヴァン・クラシカル/ダーク・アンビエント・ユニットである。そして、その経歴をみてもわかるようにギリシャの実験音楽シーンにおけるキーマンたちによるユニットなのだ。

 その音楽/演奏スタイルは独特である。ユーチューブなどにアップされている映像を観るとわかるのだが、左右に弦、中央にオシレーター担当というシメントリーな配置で演奏しており、その簡素な音響の交錯と相まってミニマリズムを強く喚起させるものだ。しかし同時にその楽曲は痛切なまでにエモーショナルでもある。軋み響くふたつの弦の響きによって、痛み、哀しみ、悲劇、受難が音響化されているような印象なのだ。その印象は、今年2014年に〈アンチフロス〉からリリースされた新作『ゾ・レル・ドゥ』においても変わらない。このアルバムの「悲痛さ」はただごとではない。世界の受難を一身に背負った者(いや世界自身への?)への葬送曲のようである。

 冒頭1曲め“ウルソ・ネスト(Urso Nesto)”はフィールド・レコーディング・トラックだ。まずヨーロッパの民族音楽らしきものも聴こえてくる。牧歌的であり、穏やかで平和な光景が想起される音の記録/記憶だ。
 しかしその平和な音の光景は、続く2曲め“グラーベ(Grabe)”によって、突如、立ち切られる。暴風のような弦の介入弦楽器がノイズ発生機のように軋み、暗く重い旋律が反復する。どこか古楽のような独自の調律が鼓膜を揺らす。
 3曲め“カビラー・メース(Kabilar Mace)”も、硬質な弦のアンサンブルで幕を開ける。まるでディストーションの効いたエレクトリック・ギターのようなチェロによる音響空間。なんという刺激的な音か。
 一転して、4曲め“マリク(Marik)”は静謐なストリングス・アンビエントからはじまる。不安定な揺れを孕んだ弦に、オシレーターから発せられる淡い電子音が重なり、しかし終盤では、またもダイナミック、そして不穏な旋律を弦楽器たちが奏ではじめるのだ。続く5曲め“コウニー・ア・ザワゾ・ヨ(Kounye A Zwazo Yo)”では先の曲を受けるかたちで、空間を切り裂くような旋律/音響の饗宴が展開するだろう。荒れ狂う過酷な冬を思わせる。
 6曲め“サマリナ(Samarina)”ではオシレーターの発する音からはじまり、すぐにチェロとコントラバスがノイジーな音響が発生させ、不安定な旋律を奏でるのだが、しかし、この曲においてある「変化」も聴きとることができる。ほんの少しの希望を感じさせるようなメロディが生まれているのだ。厳しい冬の終わりか、土地を追われた民族の旅の終局か。しかし弦に電子音がこれまで以上に強く絡み合い、この音楽=旅がまだ終わらないことを予感させもする。終盤、狂ったように鳴り響く弦のフリー・ノイズが一瞬鳴りわたり、そこに微かな虫の鳴き声/フィールド・レコーディングの音が重なり、そのままフィールド・レコーディング曲である7曲め“シガル(Sigal)”にシームレスに繋がっていく。
 “シガル(Sigal)”は、一曲めと円環するようなフィールド・レコーディング・トラック 。この曲は4分ほどあり単なる添え物ではない。冒頭のトラックと同じようにアルバムを構成する重要なエレメントである。虫の声ということは夏だろうか。厳しい冬の荒野から真夏への夜へ? ここで、音楽/音響が季節を一気に超えていく感覚が生まれている。このアルバムはトリロジーの1作めだが、続くアルバムへの予感も感じさせる見事な構成ともいえよう。

 クラシカル、ノイズ、ミニマル、ダーク、緊張、不穏、不安。私は、モハンマドのこのような音楽/音響に「ロック」を感じる。ではここにおいてロックとは何か。壊れたブルース=リフによる拘束的/快楽的な音楽の折衷的な生成である。本作において、二つの弦楽器が放出するノイズ・ミニマルな旋律は、まるでエレクリック・ギターのよるロック・リフのようなサウンドを発している。むろん本作にはギターもドラムもヴォーカルも入っていない。ノイジーなチェロとコントラバスと電子音のみ。だがそれゆえ瀕死のロック・ミュージックのようにも聴こえるのである。極限まで痩せ細り、乾いた音響・轟音による最後のロック・ミュージック。〈パン〉よりリリースされた前作『ソム・サクリフィス(Som Sakrifis)』をダイナミックに推し進めた作品といえよう。

 そして何より重要なことは、その瀕死のロック的な音響には、西欧音楽や西洋の時代の「終焉への無意識」が、はっきり刻印されているのである。彼らはギリシャ的な幸福がすでに終焉を迎え、たとえようもないほどの受難の時代を生きていることを実感しているはず。その受難を音楽=ノイズで鳴らしているのではないか。そこに広がっているのは「西洋/西欧の終わり」の寒々とした「冬」の光景だ(グローバリスム以降の極度に洗練された消費社会も「人間の終焉以降」の「冬」の光景といえよう)。
 そして、いまという時代は、そんな不穏さに塗れた猛吹雪のようなノイズが、途轍もなく美しい音として響くのである。前回紹介したリー・ギャンブル『コッチ』とはまったく違う音楽性だが、その「崩壊への予兆と無意識」によって繋がっているようにも思えた(もしくはザ・ボディ『アイ・シャル・ダイ・ヒア』なども、そうだろう)2014年の世界音楽/音響の最新モードが、ここにある。

 ロックであれ、アシッド・ハウスであれ、イギリスの音楽に興味を持った人でパイレーツ・ラジオに関心を向けなかった人はいないだろう。たとえばアシッド・ハウスの台風が吹き荒れた際、キュアーのロバート・スミスはバンド活動をおっぽり出してキュアーFMというチャンネルを設け、日夜、DJに明け暮れた(その結果が『ミクスド・アップ』というリミックス・アルバムにつながる)。実際、当時のロンドンにいてラジオを点けるとアンディ・ウェザオールでも誰でも重箱の隅をつつくような選曲で、こんなものがラジオでかかるのかと驚かされたことはいまでもよく覚えている。ラジオは確実にムーヴメントの一部であり、どんなマイナーな音楽でもラジオはオン・エアしつづけた。人気の出たラジオ局はライセンスを取って合法的なチャンネルになったりもした(最近だとリンスFMも合法化された)。

 こうした海賊放送のはじまりが〈ラジオ・キャロライン〉である。1964年に設立され、今年で50周年を迎える……ということは、しかし、インターネットが普及するまでなかなかわからなかった。いまでも雑誌『ラジオライフ』の小さな記事を除いてラジオ・キャロラインについて書かれたものは日本にはなかったからである。海賊放送という呼称だけがイメージを広げていたに等しく、北海に浮かべた船から電波を飛ばせばイギリスの法律を適用されずに好きな音楽がかけられるというロジックが、その語源だった。海賊放送がはじまった当初、イギリスの公共放送ではポピュラー・ミュージックに割り当てられる時間は1日に45分以内と決められていた(あとは要するにクラシック。ダニー・ボイルが演出したロンドン・オリンピックをさして労働階級の文化を世界にさらしたといって非難する声もまだ存在する国ではある)。しかし、誰もがレコードを買えるわけではないし、若い人たちはとくにビートルズやザ・フーをもっと聴きたかった。ラジオ・キャロラインだけでなく、海の上に放送局がどんどんできたのは言うまでもない。ローリング・ストーンズやアニマルズをもっと売りたかった大手のレコード会社が広告費というかたちで費用は捻出していたらしい。

 ラジオ・キャロラインやいくつかのパイレーツ・ステーションが実際に残したエピソードを組み合わせた映画にリチャード・カーティス監督『パイレーツ・ロック』(2009)がある(フィリップ・シーモア・ホフマンやニック・フロストが出演)。ラスト・シーンは明らかにウソだけれど、イギリスの民衆がどれだけパイレーツ・ラジオを必要としていたかということは全編を通してよく伝わってくる。現在、ユーチューブからインディ・レーベルの音源が削除されると聞いても、あそこまで音楽に対する渇望が視聴者の間に起きるとは思えない。実際には海上を通行する船舶の通信を妨害するとして海賊放送の取り締まりは強化され、ラジオ・キャロラインのDJたちは行き場を失い、BBCが新たに設立した「ラジオ1」から後には(PiL『メタル・ボックス』でおなじみ)「ラジオ4」へと彼らはリクルートすることになる。まさに『反逆から様式へ』(ジョージ・メリー)を地で行った展開で はある。

 それにしてもラジオ・キャロラインについて詳しいことや正確なことはまだわかっていない。そこに、いわれてみればなるほどと思いましたけれど、イギリスでラジオ・キャロラインを聴いていたピーター・バラカン氏と、現在、ラジオ・キャロラインのドキュメンタリー映画を制作しているハンス・フェルスタッド氏が11月3日に〈恵比寿ガーデンホール〉で語り合うというのである(いい企画だ!)。謳い文句にいわく「英ラジオを変えた海賊放送局の知られざる事実にせまるレアなセッション」ときた。同プログラムは〈YEBISU MUSIC WEEKEND〉というイヴェントの一環として行われるそうで、もっと早い時間には「岡村詩野×田中宗一郎」による「音楽ライター講座 特別編」とかもあるようです(トーフビーツや大森靖子のライヴもあるらしい)。しかし、この日は先約があってもしかすると僕は行かれないかもしれないので、どなたかイヴェントの内容を録音して海賊放送で流してくれませんか! ……なんて。
(三田格)

■イヴェント詳細
https://musicweekend.jp/lineup/talk-hans-fjellestad-peter-barakan/

■ラジオ・キャロライン
現在はウェブ・サイトとして続いている。
https://www.radiocaroline.co.uk/#home.html


1914年アラバマ州バーミングハム。ハーマン・プール・ブラントとして生を受けた少年は長じてジャズを学び、ル・ソニール・ラー、略称「サン・ラー」を名乗ることになります。フレッチャー・ヘンダーソン、デューク・エリントンに範をとり、ハード・バップからフリー・ジャズを俎上に乗せ、エキゾチックかつコズミックに味つけしたサン・ラーの音楽は1993年5月30日に没してからも、いまにいたるまで彼の楽団であるアーケストラに受け継がれ(今年7月にも来日公演を行ったばかりです)、その独自性ゆえ欧米を中心にその評価は衰えるどころか、稀少性の高いオリジナルのレコード盤にマニアの垂涎は止まず、未発表音源の発掘はひきもきらず、おりからのジャズ・リヴァイヴァルに後押しされるかのように若いリスナーを中心に注目は増すばかりです。

圧倒的なスウィングとアンサンブルと即興、そのオリジナリティはなにものにもかえがたく、知ったら最後、深みにはまらずにはいられません。およそ21年前、サン・ラーの手になる純粋な新作は望めなくなったにもかかわらず。いやむしろ、サン・ラーの膨大な音楽と思想はいまようやく全貌がつかめるようになったといえるのかもしれません。

サン・ラーが地球に降りたって100年を数えるいまこそ!

本書はサン・ラー生誕100年を記念する2014年、満を持して刊行する音楽書です。

「蜃気楼を見たらサン・ラーを思う」との書き出しで、『ミュージック・マガジン』2001年1月号よりはじまった「てなもんや三裸笠」はこれまでに発表された数多くの音盤を手がかりにこの稀代の音楽家の足跡を辿り、その筆の運びから著者畢竟の名作の呼び声も高い連載でした。足かけ4年、46回に渡った連載終了時からおよそ10年、本書は新たに判明したサン・ラーがサン・ラーになるまでの前史を加え、没後なおも続く発掘音源を精査した圧巻の惑星間音楽批評です!

alt-J - ele-king

 2012年のマーキュリー・プライズを受賞したalt-J。というのが彼らのレヴューの普遍的なオープニング文のようだが、ele-king的にいえば、2012年ele-kingベストアルバム・ランキングで16位。わたし個人のリストでは2位だったalt-Jのデビュー・アルバム『An Awesome Wave』に次ぐ2作目が『This Is All Yours』だ。
 あれ? ほんでわたし1位は何にしてたんだっけ。と見てみると、パンク母ちゃんだのロックばばあだの言われているわりには、1位はジャズ系じゃん。と気づいたが、やっぱそれはロック系よりそっち側の人たちのほうが全然おもしろかったからだろう。
 が、alt-Jは相変わらずクールだ。彼らはジャズに負けてない。

              ******

 だいたい日本の地名を曲の題名にするにしても、彼らは“Nara”だ。京都でも、大阪でも、神戸ですらない。緑の芝の上で鹿が寝そべっている日本の古都、奈良を背景に、ジョー・ニューマンが「ハレルヤ、ハレルヤ」と独特のとぼけた哀愁のある声で歌う。フォーク・ステップと呼ばれるサウンドを生んだバンドの面目躍如といったところだろう。実際、2曲目“Arriving Nara”と3曲目“Nara”から、最終曲“Leaving Nara”まで、どうやら本作のalt-Jは、全編を通じて奈良を散策しているらしい。
 ギターの音が前面に躍り出て、ピアノ、フルート、鐘の音などが印象的に散りばめられている本作は、フォーク・ステップのフォークの部分が前作より遥かに強くなっている。よって前作の独特のアーバン・ギーク感は希薄になっているが、聴いているとサウンドから脳内に立ち上がる光景がやけに広がるようになった。というか、リスナーの意識が広がるというべきか。Alt-Jは本作で「マッシュルーム・ステップ」に移行した。と言う人がいるのも頷ける。チル。と呼んでしまうには、なんかこの眼前に広がる森林はドラッギーでいかがわしい。
 
 歌詞もまた、相変わらず淫猥である。

ハレルヤ、ボヴェイ、アラバマ
他の誰とも違う男と 僕は結婚する“Nara”

 アルバムの初頭では、同性愛婚を違法としているアラバマ州や共和党の創設者の1人ボヴェイの名を出したりして、芝に寝そべる鹿を眺めながらホモフォビアについて思索しているようだ。が、奈良を去る頃には

ハレルヤ、ボヴェイ、アラバマ
僕は恋人のたてがみの中に深く手を埋める“Leaving Nara”

 と想いはしっかり遂げたようだし、

女性の中に転がり入る猫のようにあなたの中に侵入したい
あなたをひっくり返してポテトチップスの袋みたいに舐めたい “Every Other Freckle”

 に至ってはもう、いったい彼らは奈良で何をしているのか。
 おタクのセクシネスが濡れぼそった森林の中から立ち昇るようではないか。
 音楽的な実験性いう点で、彼らはよくレディオヘッドと比較される。『ピッチフォーク』に至っては「レディオヘッドの2番煎じ。ギターとコンピュータが好きなUKバンド」などと乱暴に決めつけているが、わたしに言わせれば両者は似ても似つかぬ別物だ。
 alt-Jには、独りよがりではない、コミュニケイト可能な官能性があるからである。
 「ギターとコンピュータが好きなUKバンド」と『ピッチフォーク』が呼ぶジャンルの音楽、即ちナード・ロックを大人も聴けるセクシーな音楽にしたのはalt-Jである。

alt-Jの音楽は70年代のプログレッシヴ・ロックともよく比較される。が、わたしにとってプログレとalt-Jもまったくの別物だ。alt-Jの醒めた目で細部までコントロールし尽くしたサウンドは、自己耽溺性の強いプログレとは異質のものだからである。
前衛的インディー・ロックをすっきり理性的なポップ・ミュージックにしたのもalt-Jなのである。
 今年のUKロックは団子レース状態で似たりよったりゴロゴロ転がっていた。としか言いようがない。が、わたしはalt-Jには大きな期待を寄せている。
 セクシーさというのは、知性ではなく、理性のことだな。と最近とみに思うからだ。
 そして蛇足ながら、『ピッチフォーク』の評価とUK国内での評価が極端に違うUKバンドや個人ほど見どころがある。ということはもう広く知られていることだろう。

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