Home > Reviews > Album Reviews > Mohammad- Zo Rel Do
ある種の「新しい音楽」を聴いていると、リアルな世界崩壊の予感・予兆の聴きとってしまうとの同じくらいに、新時代の「神話」が新しいフィクションとして生成されていくようにも感じられてしまう。2013年にドイツの実験音楽レーベル〈パン〉からリリースされた『ソム・サクリフィス(Som Sakrifis)』が話題を呼んだギリシャ/アテネを拠点とするユニット、モハンマドも私たちをリアル/フィクションの境界線上に立たせてくれる存在である。
ムハンマドは、ニコス・ヴェリオティスのチェロ(彼はデヴィッド・グラッブスと『ザ・ハームレス・ダスト』というデュオ・アルバムを2005年にリリースしている)、コティ・K.のコントラバス(彼はアテネの実験音楽の中心的人物であり重要エンジニアでもある)、イリオスのオシレーター(サウンド・アーティストとして多くの作品を制作、彼もまた〈パン〉などからアルバムをリリースしている)という編成による3人組のアヴァン・クラシカル/ダーク・アンビエント・ユニットである。そして、その経歴をみてもわかるようにギリシャの実験音楽シーンにおけるキーマンたちによるユニットなのだ。
その音楽/演奏スタイルは独特である。ユーチューブなどにアップされている映像を観るとわかるのだが、左右に弦、中央にオシレーター担当というシメントリーな配置で演奏しており、その簡素な音響の交錯と相まってミニマリズムを強く喚起させるものだ。しかし同時にその楽曲は痛切なまでにエモーショナルでもある。軋み響くふたつの弦の響きによって、痛み、哀しみ、悲劇、受難が音響化されているような印象なのだ。その印象は、今年2014年に〈アンチフロス〉からリリースされた新作『ゾ・レル・ドゥ』においても変わらない。このアルバムの「悲痛さ」はただごとではない。世界の受難を一身に背負った者(いや世界自身への?)への葬送曲のようである。
冒頭1曲め“ウルソ・ネスト(Urso Nesto)”はフィールド・レコーディング・トラックだ。まずヨーロッパの民族音楽らしきものも聴こえてくる。牧歌的であり、穏やかで平和な光景が想起される音の記録/記憶だ。
しかしその平和な音の光景は、続く2曲め“グラーベ(Grabe)”によって、突如、立ち切られる。暴風のような弦の介入弦楽器がノイズ発生機のように軋み、暗く重い旋律が反復する。どこか古楽のような独自の調律が鼓膜を揺らす。
3曲め“カビラー・メース(Kabilar Mace)”も、硬質な弦のアンサンブルで幕を開ける。まるでディストーションの効いたエレクトリック・ギターのようなチェロによる音響空間。なんという刺激的な音か。
一転して、4曲め“マリク(Marik)”は静謐なストリングス・アンビエントからはじまる。不安定な揺れを孕んだ弦に、オシレーターから発せられる淡い電子音が重なり、しかし終盤では、またもダイナミック、そして不穏な旋律を弦楽器たちが奏ではじめるのだ。続く5曲め“コウニー・ア・ザワゾ・ヨ(Kounye A Zwazo Yo)”では先の曲を受けるかたちで、空間を切り裂くような旋律/音響の饗宴が展開するだろう。荒れ狂う過酷な冬を思わせる。
6曲め“サマリナ(Samarina)”ではオシレーターの発する音からはじまり、すぐにチェロとコントラバスがノイジーな音響が発生させ、不安定な旋律を奏でるのだが、しかし、この曲においてある「変化」も聴きとることができる。ほんの少しの希望を感じさせるようなメロディが生まれているのだ。厳しい冬の終わりか、土地を追われた民族の旅の終局か。しかし弦に電子音がこれまで以上に強く絡み合い、この音楽=旅がまだ終わらないことを予感させもする。終盤、狂ったように鳴り響く弦のフリー・ノイズが一瞬鳴りわたり、そこに微かな虫の鳴き声/フィールド・レコーディングの音が重なり、そのままフィールド・レコーディング曲である7曲め“シガル(Sigal)”にシームレスに繋がっていく。
“シガル(Sigal)”は、一曲めと円環するようなフィールド・レコーディング・トラック 。この曲は4分ほどあり単なる添え物ではない。冒頭のトラックと同じようにアルバムを構成する重要なエレメントである。虫の声ということは夏だろうか。厳しい冬の荒野から真夏への夜へ? ここで、音楽/音響が季節を一気に超えていく感覚が生まれている。このアルバムはトリロジーの1作めだが、続くアルバムへの予感も感じさせる見事な構成ともいえよう。
クラシカル、ノイズ、ミニマル、ダーク、緊張、不穏、不安。私は、モハンマドのこのような音楽/音響に「ロック」を感じる。ではここにおいてロックとは何か。壊れたブルース=リフによる拘束的/快楽的な音楽の折衷的な生成である。本作において、二つの弦楽器が放出するノイズ・ミニマルな旋律は、まるでエレクリック・ギターのよるロック・リフのようなサウンドを発している。むろん本作にはギターもドラムもヴォーカルも入っていない。ノイジーなチェロとコントラバスと電子音のみ。だがそれゆえ瀕死のロック・ミュージックのようにも聴こえるのである。極限まで痩せ細り、乾いた音響・轟音による最後のロック・ミュージック。〈パン〉よりリリースされた前作『ソム・サクリフィス(Som Sakrifis)』をダイナミックに推し進めた作品といえよう。
そして何より重要なことは、その瀕死のロック的な音響には、西欧音楽や西洋の時代の「終焉への無意識」が、はっきり刻印されているのである。彼らはギリシャ的な幸福がすでに終焉を迎え、たとえようもないほどの受難の時代を生きていることを実感しているはず。その受難を音楽=ノイズで鳴らしているのではないか。そこに広がっているのは「西洋/西欧の終わり」の寒々とした「冬」の光景だ(グローバリスム以降の極度に洗練された消費社会も「人間の終焉以降」の「冬」の光景といえよう)。
そして、いまという時代は、そんな不穏さに塗れた猛吹雪のようなノイズが、途轍もなく美しい音として響くのである。前回紹介したリー・ギャンブル『コッチ』とはまったく違う音楽性だが、その「崩壊への予兆と無意識」によって繋がっているようにも思えた(もしくはザ・ボディ『アイ・シャル・ダイ・ヒア』なども、そうだろう)2014年の世界音楽/音響の最新モードが、ここにある。
デンシノオト