「Noton」と一致するもの

手塚治虫記念館で「忌野清志郎展」 - ele-king

 クラブで会うような若い人に忌野清志郎が誰かを説明しなければならない時代になってしまった。クラブ・クラシックスでさえ、あまり聴かれていな いんだから、それはそうかと思うしかないのかもしれないし、自分だって若い時は目の前の音楽しか聴かなかった。それこそ忌野清志郎のラジオ番組で構成をやらせてもらえることになり、知らないとは言えずにロックの古典を聴き始めなければどうにも痩せた音楽観しか身につかなかったかもしれな い。アイク&ティナ・ターナー、ミラクルズ、遠藤賢司、リトル・リチャード、クレイジー・キャッツ……清志郎さんに教えてもらった音楽世界は計り知 れない。あまり知られていないところではシルヴィ・バルタンも彼は好きだった。ガロン・ドランクにインタヴューをした際、ジョン・リー・フッカーの話題で盛り上がった時は、どれだけ忌野清志郎に感謝したことか。『ボブ・ディランは何を歌ってきたのか』を萩原健太さんに書いてもらったのも、 個人的には清志郎さんの宿題を片付けたようなものだったと思っている。これについてはあまりにも多くのことを考えたので、それはまた別な機会があれば。

 彼の生前、僕は『忌野清志郎画報 生卵』(河出書房新社)という本を編集したことがある。『新明解国語辞典』の編集部をモデルにしたらしき石井裕也監督『船を編む』(13)を観ていて、その時のことをあれこれと思い出した。400ページもある辞書みたいな本だったからである。あまりにも作業量が多く、地下鉄サリン事件が起きたこと にも気がつかなかったほど忙しかったので、いまになって本を読み返しても思い出せないことは多い。どこでどうしてこのようなページがつくられることになったのか。ダブソニックの丈ちゃんが竜平くんのページが目当てで買ったと言ってくれたことは覚えているけれど、そのページが出来上がるまでのプロセスがまったく記憶にはない。イアン・デューリーの写真もどこで撮ったか、まったく覚えていない。僕だけではない。誰も覚えていないのが「新宿コナ劇場」のページで、そこには忌野清志郎が強く影響を受けた人たちのポートレイトがズラッと並べられているのだけれど、それがどうして「新宿コナ劇場」というフォーマットに収まることになったのか。わからない……

 覚えているのは、オーティス・レディングやヘッセの顔写真を並べようと言いだしたのは清志郎さんで、「手塚治虫も入れないと」と彼が言ったことだった。冷静に考えれば小学生の時にひとりでマンガ雑誌をつくったりしていたのだから、マンガ家の名前がひとりでもそこにあるのはごく自然なこと である。だけど、やはり、それは唐突に聞こえてしまった。「え、手塚治虫?」と僕は聞き返したかもしれない。それ以前にも以後にも清志郎さんと手塚治虫の話はしたことがなかったので、もうちょっと訊いておくんだったと後悔するだけである。そう、「忌野清志郎と手塚治虫」は僕のなかではわかるようなわからない組み合わせとして、そのまま宙ぶらりんになっていた。長い間、それは忘れていたに等しい。

 それからちょうど20年が経って、宝塚の手塚治虫記念館で『忌野清志郎展」が開かれることになった。またしても「え?」というしかなかった。企画したのは手塚治虫の長女で、実は忌野清志郎のファンでもあった手塚るみ子さん。どこでどうやって二人を結びつけたのか。展示の内容は僕は何も知 らない。それこそ想像もつかない。実際に行ってみるしかない。なんでまた宝塚とは思うけど、手塚治虫が生まれた場所なのだから仕方がない。そこに記念館があるのは理にかなっている。同会場では忌野清志郎が歌う手塚アニメ『ジェッター・マルス』のエンディング・テーマ『少年マルス』も販売されるという。リリース元はやはり手塚るみ子さんが主宰する〈ミュージック・ロビタ〉。同展示の特別入館券とセットでローソン・HMV でも限定発売されている。「少年マルス」の歌詞はいかにも清志郎らしい。悪を倒すことは正しいことかもしれないけれど、しかし……と、正義の味方が 躊躇してしまう歌詞である。もしかすると、彼の作詞法にも影響を与えたような気がしないでもない。これがコーザ・ノストラ(当時)の演奏を得てロック・ヴァージョンで蘇っている。元々は手塚治虫生誕70周年記念トリビュート・アルバム『アトム・キッズ・トリビュート・トゥ・ザ・キング“O.T."』(ワーナー)に収められていた曲で、16年を経てのシングル・カットとなる。(三田格)

●忌野清志郎 with KANAME (ex.COSA NOSTRA) 『少年マルス』(Music Robita)
HMV

●開館20周年記念 第63回企画展「忌野清志郎展~手塚治虫ユーモアの遺伝子~」
【会場】  宝塚市立手塚治虫記念館 2階 企画展示室
【会期】 2014年10月31日(金)~2015年2月20日(金)
https://www.city.takarazuka.hyogo.jp/tezuka/kikakuten.html#imawano

●手塚治虫の美女画展
【会場】  吉祥寺Gallery KAI
【会期】 2014年11月3日(月)~11月9日(日)
https://gallery-kai.jp/


Ssaliva - ele-king

 〈レッドブル・ミュージック・アカデミー〉が主催するイヴェントに招聘され、およそ2年ぶりに東京を訪れたマシューデイヴィッド。熱燗をグイグイ流し込みながら同じ話をえんえんと繰り返すさまを眺めながら、僕はこの男が短い休暇を存分に楽しんでいることを確信した。

 自身の作家活動とレーベル・ワークを持続させるのは難しい。〈リーヴィング・レコーズ〉はマシューの美意識の変容をDIYレーベルとして展開してきた。近年は〈ストーンズ・スロー〉のサポートによってLAビート・シーンの“ニュー・エイジ"サイドを担うカセット・レーベルの老舗といった風格すら漂よわせている。80~90年代のビザール・ニューエイジ系カセット・レーベルをディグることにもっぱら夢中になっていると漏らすマシューの最近の趣向が、なるほど、リーヴィングにも如実に表れている。とはいえ、新たなアーティストを発掘するだけでなく、レーベル・ファミリーといえるようなお馴染みのメンツたちもマシューと世界観を共有しながらそのサウンドを変容させているように思えるのは彼のカリスマ性ゆえであろうか?

 2011年、〈リーヴィング〉から『ソート・ハズ・ウィングス(Thought Has Wings)』をリリースしたベルギーのサリヴァ(Ssaliva)ことフランツ・ベーカーは、ヴェイパーウェイヴ黎明期を感じさせるそのズッコケ・テープワープ・ビートで当時密かな話題を呼んだ。別名義であるカップ・ケイヴ(Cup Cave)の精力的なエクスペリメンタル・ビートメイカーとしての活動を考慮すればサリヴァはフランツの考えるベッド・ルーム・ビートの定義なのかもしれない。

 約3年ぶりにサリヴァ名義で〈リーヴィング〉からリリースされた『パンターニ(Pantani)』は前作とは決定的に異なるビート・メイキングが収録されている。テープワープ、テープコンプといったローファイ・サウンドは鳴りを潜め、コズミック・シンセジスとスクリュード・ビートの融合とも呼べる新たなスタイルを提示。フラフラとした旅路で、日中は散歩をしながら写真などを撮り、夜な夜な異なる寝床でこのヘッドホン・ミュージックを制作したと語るフランツ。ヴァーチャルからリアルへ変化した彼のサウンド・スケープはまた我々に最高のトリップを約束してくれる。


Katakoto - ele-king

 2014年、衝撃のデビュー・アルバムを発表した、愉快なヒップホップ・グループのカタコト──人気絵描きのドラゴン(『ボブ・ディランは何を歌ってきたのか』の表紙イラストもこの人)、人気ラッパーのヤノシット、快速テツマルを擁する──がいっきに4つのPVを公開。そして、REMIX&マッシュアップ音源の絶賛フリーDLサイトも公開中です。1曲、group_inouのimaiがリミックス。これはけっこう、面白いです。ちなみに、借りたいDVDがわからないときは、木津毅か三田格かテツマルに訊くのが良いみたいです。


HELLO KATY MV

Man In Da Mirror MV

デス!プルーフ MV

ピアノ教室の悪魔MV

- ele-king

 ここ数年、戦前歌謡曲の熱が高まっている(と思う)。とくに、戦前のレア音源を積極的に発掘・紹介する〈ぐらもくらぶ〉というレーベルが、一部で好評を得ている。貴重な復刻作業を続けてきたその〈ぐらもくらぶ〉が満を持してリリースしたのが、泊の『霽月小曲集』だ。

 僕が泊の演奏を初めて聴いたのは、今年のゴールデン・ウィーク、江戸東京博物館でのことである。そのときはたしか、昭和初期のエロ歌謡や二村定一の曲などを歌っていた。このレパートリーからもわかるように、泊というバンドは、〈ぐらもくらぶ〉というレーベルにふさわしく、戦前から戦後すぐあたりの歌謡曲を基調にしている。笹山鳩(漫画家の山田参助である)の歌唱は、丸山明宏とあがた森魚を足したようだ。戦前の歌謡曲と言うと、いかにも古臭い民謡や、あるいは物騒な軍歌などをイメージするかもしれないが、必ずしもそうとは言えない。大衆モダン文化が華やいだ昭和初期の音楽は、ジャズを巧みに取り入れたハイブリッドなポップスとして展開されていたのである。「架空流行歌ユニット」を標榜する泊は、そのような時代の音楽の形態模写をしていると、ひとまずは言える。三拍子で小気味よくスウィングするアコーディオンとギター/マンドリンと、そのうえでのびやかに歌われる曲たちは、昭和初期におけるジャズソングの記憶を喚起する。とくに“マルゲリータ・ハポネサ”のスウィング感などは、現在の音楽ではなかなか聴くことのできないものである。

しかし、本作が一部の戦前歌謡曲ファンのものにとどまってしまうことがあるとすれば、それはあまりにも惜しい。戦前歌謡曲のスタイルとは言え、泊はもちろん現在のバンドとして活動しているし、聴き手もまた現在を生きている。泊自身、とくに本作では、当時の音楽をいかに現代的に響かせるか、ということを意識している感じがする。だから本作は、ele-king読者諸兄のなかにもいるだろう、オルタナ・ファンのような人にこそ届いてほしい。そう、『霽月小曲集』は、オルタナティヴ・戦前歌謡なのだ。
 いや、これはあながち冗談でもない。本人たちが意識しているかどうかは別として、本作を聴いていると、ときどき本当にオルタナ的な響きを感じ取ることがある。本作のライナーを書いている音楽評論家・小川真一は、武村篤彦の「相の手のような、呟きのような」ギターに、マーク・リボーとビル・フリゼールを思い出していたが、なるほど共感する部分はある。僕は、基本的に歌謡曲ファンとして泊を聴いていたが、本作については、ニック・ドレイク~デヴェンドラ・バンハートといったアシッド・フォーク/フリー・フォークの延長で聴いている感覚も間違いなくある。とくに“げんごろう小唄”は、和製アシッド・フォークの大傑作である。とても感動した。この格別に美しい曲は、途中、香取光一郎のフルートが挿入されるのだが、これが往年の木田高介(休みの国、ザ・ジャックス他)を彷彿とさせる。木田高介好きとしては、とくに感銘を受けざるをえない。
 本作は、戦前歌謡曲でありながら、かつオルタナである。それは単なる勘違いだろうか? もしかしたら、そうかもしれない。でも、そういう勘違いはたぶん大事だ。僕は、デヴェンドラ・バンハートやアニマル・コレクティヴが好きなようなリスナーに、本作をおすすめしてみたい。

トム・アット・ザ・ファーム - ele-king

 わたしたちは眩い才能が開花する瞬間に立ち会っている。グザヴィエ・ドランの話だ。1989年生まれ……25歳。初監督作は19歳のときに撮られた。わたしたち日本の観客の多くが彼の映画にはじめて出会ったのは長編3作め『わたしはロランス』だったが、それは、ある日「女になる」ことを決めた青年が痛切に愛を求めて彷徨する姿が鮮烈で幻惑的なイメージと甘いポップ・ミュージックに彩られつつ描き出されたもので、観る者の胸を激しくかき乱したのだった。そこにはたしかに狂おしい若さと、それを飛翔させるだけの大胆さと詩情があった。ゲイであることを公言しているこのハンサムな青年は、すでにアイコニックな存在として――「神童」などと言われながら――未来を嘱望されている。



 ドランの4作めとなる『トム・アット・ザ・ファーム』は、自身が脚本・主演・編集を務めながらも、彼のこれまでの作風とやや距離を置く心理スリラーだ。ジャンル映画と言ってもいい。しかもミシェル・マルク・ブシャールの戯曲を基にしているため、はじめて他者の原作に由来する物語を扱っており、結果としてこれまでのやや過剰なセンチメントは抑えられ、非常に醒めた一本となっている。そして、驚くほどに明確に「同性愛者として生きること」がどういうことかを突き放してえぐり出している。
 戯曲を下敷きにしているため舞台はほぼ田舎の農場に限定されている。ドラン本人演じる主人公トムは、交通事故で喪った同性の恋人ギヨームの葬儀に出席するため彼の故郷の農場を訪れるが、ギヨームは生前、母に自分の存在を隠していた。事情を知るギヨームの兄・フランシスに「母に真実を語るな」と脅され、やがてトムはフランシスからの暴力に晒されるようになっていく……。ブシャールの戯曲には序文で「同性愛者は、愛し方を学ぶ前に、嘘のつき方を覚える」と書いているそうだが、まったくもってその通りで、恋人ギヨームが自分の存在を隠していたことにトムは傷つくが、そのこと自体は別段驚くことではない。カミングアウトを受け入れない土壌が根強く残っていることは、日本で暮らしていればじゅうぶん理解できることだ。
 この物語で問題となっているのは、トムと恋人の乱暴な兄・フランシスとの関係だ。「真実を告げる」と言うトムに、フランシスは物理的な暴力で「黙らせる」。ここでのフランシスはホモフォビアの表象である……たしかにそうだろう。しかしながら、トムは同時にフランシスに強く惹きつけられてもいる。フランシス演じるピエール=イヴ・カルディナルはヒゲを生やした筋肉質な体格の男として最初の登場シーンでは上半身裸で現れ、度々トムに息のかかる距離に接近してみせる。また、幾分唐突にフランシスとトムがタンゴを踊るシーンの官能性は、映画の色気そのものになっている。自分たちに嘘を強要し、精神・肉体両面に対して暴力をふるう存在あるいは社会に、同性愛者たちが自らすすんで囚われの身となってしまうことを、『トム・アット・ザ・ファーム』は一種エロティックにあぶり出しているのだ。嘘をつき続けていたほうが楽だということを自分の幸福と錯覚し、あまつさえ、そうした状況と「契り」を交わすようにすら、なる。

 だからこそ、本作は後半で脱出もののスリラーとなるのだ。トムは逃げなければならない。フランシスの暴力から、非寛容から、あるいは、重ね続ける嘘から。そうした社会的なアングルはブシャールの戯曲の時点ですでに確立してはいただろうが、ドランがここでやっているのは、ヒッチコックが比較に挙げられるような「映画」的な文法にそれを乗せることである。弛むことのない緊張感。パーソナルな度合いが強かったドランのフィルモグラフィのなかで、明らかに『トム・アット・ザ・ファーム』は自分自身と、世の同性愛者が置かれた状況を異化して見つめることでそのフォルムの完成度を高くしている。
 ラストで流れるのはルーファス・ウェインライトの“ゴーイング・トゥ・ア・タウン”だ。「僕はアメリカにはうんざりなんだ」……。その歌声はそこで、逆説的に希望として響いている。「自由」はもしかしたら囚われの身でいることよりも困難で、不安なことかもしれないが、だからこそ踏み出す価値がある。逃げなければならない、僕たちは逃げなければならない……。

予告編

Deerhoof - ele-king

「あー残念」というタフさ木津毅

 「オー、バマー」と、このアルバムの最終曲のタイトルを口にしてみるときの、この脱力感をどう消化すればいいのだろう。たしかに6年ほど前、この言葉はもっと威勢よく、熱狂とともに短く「オバマ!」と発音されていたはずだ。だが、バンドの顔であるサトミ・マツザキ本人の手による対訳には、“Oh Bummer”の横に日本語で「あー残念」とはっきりと書いてある。あー残念……。結局軍需産業から逃れられない政府の下で暮らしていたら、こう言いたくなる気持ちもわからないではない。これがちょっとしたシャレであったとしても、いま、「オー、バマー」と言うことのアンビヴァレントな感覚は簡単に冗談で済まされないところもある(『安倍ンジャーズ』という風刺画を描くのとはわけが違う)。「オバマ!」とかつて大きく叫んだひとほど、先が見えづらい時代だ。

 ディアフーフは新譜が出るたびに「こんな音だったっけ?」と思わせる、独自の訛りを持ちつつもさりげなく新しい語彙を挿しこみ続けてきたバンドだが、それは彼女らがどんなトレンド=熱狂にも大きくは与してこなかったことが関係しているのだろう。サウンドの同時代性とは関係のないところで、あくまでマイペースに、外界とは異なる時空の流れで冒険を繰り広げるのがディアフーフの飄々としたサヴァイヴであった。前々作『ディアフーフvsイーヴィル』というタイトルそのものが、そうした自分たちのあり方の宣誓のように聞こえたものだ。

 結成20年となりますます結束が固くなっているであろうバンドの新作『ラ・イスラ・ボニータ』はそして、おそろしくソリッドな音が張り巡らされているように聞こえる。鉄線のように固く同時に肌をこするようにざらついたエレキ、タイトでキビキビとしたリズム、単刀直入に垂直に入ってくる各パート。チャイルドライクと形容され続けてきたサトミ・マツザキの声は変わらずチャーミングだが甘えた響きはなく、ときおり驚くほどドライに放たれている。攻撃的で、ミニマルかつエキセントリックで、怒りすら感じられる。バトルスの『グロス・ドロップ』とザ・フレーミング・リップス『エンブリオニック』の合いの子、ソニック・ユースとESGとボアダムスが集まって繰り広げるパーティ……。これまでもディアフーフはノイジーで獰猛だったが、その野性が極めて冷静に、かつダイレクトに放出されたアルバムである。

 アメリカに対して、いや、「アメリカで暮らすこと」に対して辛辣な視線が向けられている歌詞も相まって、その攻撃性が鋭く感じられるのかもしれない。“ドゥーム”(この曲名は「破滅」と訳されている)では「東海岸でどう暮らしたい? 西海岸でどう暮らしたい? 真ん中でどう暮らしたい?」と問いかけながら、オチで「それとも貯金してオランダかスカンジナビアにいく?」と明かせば結局そこに大した差はないという諦念が漂っているし、流行の移り変わりに言及していると思われる“ラスト・ファッド”の「悲しみのドル札で壁を覆いつくすんだ」という言葉も示唆的だ。アルバムでも一、二を争うスラッシーさのノイズ・トラック“イグジット・オンリー”では、「訪問ありがとう/いますぐ出て行ってくれ」と現在のアメリカの排他的なあり方を皮肉っているように聞こえる。直接的にポリティカルな言葉はなくとも、サトミ・マツザキの異邦人としての視点とバンドのアイロニカルな知性とが交錯し、たっぷりと含みが込められている。

 しかしながら、それでも『ラ・イスラ・ボニータ』は愉しいアルバムだ。先述した“ドゥーム”で「拒絶」を意味する「deny」が「ディナ、ハハイ」とサトミ・マツザキの独特のリズム感で発せられるとき、そこにはディアフーフ的、としか言いようのない脱臼感のあるダンスが生まれている。“ビッグ・ハウス・ワルツ”では「ディアフーフが君にカオスをプレゼントしたい」と叫ばれ、ヘヴィなギターが降り注ぐ。「耳をあそばせよう/解き放て/感じて/盛り上がろう」。

 現在の日本での息苦しさとアメリカでの暮らしづらさは単純に比べられるものではないだろうが、それでも「あー残念」と言いながら混沌とノイズを積極的に楽しもうとするディアフーフのサウンドには、ビリビリとした刺激を感じずにはいられない。この20年を生き抜いてきたディアフーフのタフさとはつまり何なのか、が明快に差し出されていて気持ちいい。

文:木津毅

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カオスをプレゼントしよう橋元優歩

  女子高生が「っょぃ」と小さい文字でツイートしていたりするけれども、近年のサトミ・マツザキとディアフーフに抱くのもちょうどこの「っょぃ」という感じである。通常の表記を意外な方向へと外すこの「小さい文字表現」からは、吃音に似た、発音不可能なことからくるインパクトや、あるいはどこか常軌を逸したような雰囲気が立ち上がってくるけれども、それがちょうど未知にして測りがたい性質をもった存在としての女子高生に重なって、ちょっとした恐れをかきたてる。結成20年、ティーンから遥か遠い年齢のディアフーフを「っょぃ」感じるのは、サトミ・マツザキのヴォーカル・パフォーマンスによるところも大きいけれども、それ以上に彼らがまだスタンスにおいても方法においてもそうした測りがたさを残しているからだ。

 前作『ブレイクアップ・ソング』(2012)から2年、〈ポリヴァイナル〉移籍後3作めにして通算で12作めにもなろうか(どう数えていいのか、資料・媒体によって混乱がある)、2000年代のUSインディ・ロックを牽引してきた重要バンドのひとつ、ディアフーフの新作フル・アルバムがリリースされた。グランジを経由したノイズ・ロック/アート・ロックというフォームや、エクスペリメンタルでエキセントリックな雰囲気は変わらず芯となってその音の中に埋もれているけれども、とてもフレッシュな、そしてとても反抗的でやんちゃな印象を残す作品になっている。ぜったいに思いどおりにはなってやらない──それはリスナーや業界が求めるディアフーフ像にはまらないといったケチなレベルの話ではなくて、もっと、世界や、世界の理や、時間、歴史といったものへ逆らうような、とびきり少年くさいやんちゃさだ。「ディアフーフが君にカオスをプレゼントしたい」(“ビッグ・ハウス・ワルツ”)とアルバム中盤においてあらためてなされる宣言には、そうした傲岸さがなんともクールに表れている。

 あの曲ではファンキーでダンサブルなリズムが印象的だが、やがてガーンガーンと鳴りつづけるノーウェイヴ・マナーなギターの上で拡声器でわめくようにマツザキの演説がはじまり、グレッグ・ソーニアのドラミングが騒々しく焦燥をあおるように追従していくところに最大の盛り上がりがある。「レディース・アンド・ジェントルメン」からはじまるくだんの宣言はこの部分で不気味になされる。しかしそれでいてどこかしらユーモアがあり、爽快だ。この感覚こそはディアフーフならではのもの。今作も全編にわたって明確に現アメリカ社会への批評が打ち出されているけれども、彼らの側からの社会への応答は、「カオスをプレゼント」することなのだ。そう、「周波数を合わせるのはぼくたちの義務じゃない」(“タイニー・バブルズ”)。まるで音楽と自分たちに何ができて何ができないかということを身体的に知っているかのような回答である。外から飛んできたカオスをそのまま打ち返す、あるいはディアフーフ・オリジナルのカオスをそこに打ってぶつける。それはかつて『ディアフーフ vs. イーヴィル』リリースの際に、「イーヴィルとは何か?」という問いに対して「これはゴジラ対キングギドラのようなものだ」と返答をくれたのと似ているなと思う。あからさまな社会風刺だけれどもふざけてもいる。真面目な事柄に対してふざけるなんてけしからん、批判には行動を伴わなければいけない、というような圧力にもまるで屈しない。彼らの「ふざけ」かたにはエクスキューズがない。そして信念と反抗がある。っょぃ。

 そもそもロブ・フィスクの個人プロジェクトとしてスタートしたこのバンドは、彼の早々とした脱退もあり、メンバーの入れ替わりも幾度か経て、初期からその存在意義や性格を大きく変えている。『レヴェリ』(2002)以降に各タイトルに対する注目や評価も跳ね上がり、いまに直結するようなディアフーフの輪郭を見ることができるが、いまはじめて彼らに触れる人からすればそれすら過去のことに過ぎないかもしれない。同様に90年代半ばのベイエリアのパンク・バンドといったイメージや、あるいは〈キル・ロック・スターズ〉の背後に広がる90年代オリンピアのインディ・シーン、ライオット・ガール・ムーヴメントといったものとの関連性もすでに薄く感じられるだろう。

 ディアフーフは本当にフレッシュだ。インディ・ロックというフィールドにドラスティックな変化をもたらしたというのとはちがって、つねに「周波数を合わせるのはぼくたちの義務じゃない」の精神で自分たちの遊びをつづけてきた。それが結果としてインディ史にひとつの道標を立てたこともあるだろうけれども、基本的にはスタンスの強靭な自由さがフォームのフレッシュさを生んできた、単独的で異分子的な存在だと思う。『ラ・イスラ・ボニータ』はその意味でも20年を記念し、しかも1曲ごとに別の充実をみせるアルバムではないだろうか。プロデューサーのニック・シルヴェスターは「ピッチフォーク」誌の寄稿者としても知られる〈ゴッドモード・レコーズ〉の主宰者。〈ポリヴァイナル〉移籍後はセルフ・プロデュースにこだわっていたようにも見えるバンドだが、評論気質のプロデューサーを迎えているのもおもしろい。

Lee Gamble - ele-king

 2014年、インダストリアル/テクノは変貌を遂げつつある。そのルーツのひとつといえる90年代テクノへの回帰が表面化しているのだ。たとえば本年にリリースされたマイルス・ウィッテカー(デムダイク・ステア)とアンドレア(=アンディ・ストット)によるミリー&アンドレア『ドロップ・ザ・ボウルズ』はインダストリアル/テクノを経由し、ドラムン・ベースへと変化してみせたし、レイモンド・カービー・プレセンツ・V/Vm『ザ・デス・オブ・レイブ (ア・パーティアルフラッシュバック)』は90年代テクノの亡霊を融解してみせる。むろん単純な回帰ではない。いわばテクノの機能性を変えている、といっていい。

 今回紹介するベルリンの実験音楽レーベル〈パン〉からリリースされたロンドンのアーティスト、リー・ギャンブルの新作『コッチ』も同様に(奇妙なかたちで/しかし必然的に)90年代的なテクノへと回帰している。『コッチ』のトラックは「躍らせる」という快楽構造にノイズを混入し、一瞬機能不全にさせるとかと思いきやリスナーの聴覚に、さらなる音の快楽(ノイズなど)を注入し、天地(ビートの重力性とノイズの天上性)をひっくり返す。これはリー・ギャンブルだけの個性ではなく、アンディ・ストットやデムダイク・ステア、ザ・ストレンジャー(=レイモンド・カービー)、ルーシーなどのインダストリアル・テクノにおける大きな特徴でもあり、彼らは「テクノイズ彫刻」とでも形容したいトラックを生み出している(インダストリアル/テクノは、ピエール・シェフェールが生みだしたミュージック・コンクレートの最新型だ)。

 いや、もともとリー・ギャンブルは、フランスの実験音楽レーベル〈エントラクト〉からリリースしたレビューEP『80mm O!I!O (Part 1)』(2006)や、ファーストアルバム『ジョイン・エクステンションズ』(2009)の頃からノイズを駆使したテクノ彫刻のような音響作品を作ってこなかったか、そして、ベルリンの音響レーベル〈パン〉からリリースした『ディヴァージョンズ 1994-1996』(2012)、『ダッチ・トゥヴァッシャー・プルームス』(2012)などは、ノイズ電子音楽からジャングルやミニマル・テクノをまったく独自の手つきでミックスしたような作品ではなかったか、そして本作は、そのテクノイズ彫刻のような音響に、テクノ(=アンビエント)へのルーツ・バックが次第に表面化した結果ともいえるのではないか、という疑問もあるだろう。

 だが、同時代の変化はすべて偶然のように思えながら、兆候=無意識の共有によって同時生成していくものだ。兆候とはモードであり、モードとは無意識の表象である。先のミリー&アンドレアやレイモンド・カービーらと同じ時代の無意識をリー・ギャンブルも共有している以上、彼もまた90年代へと回帰しつつ、まさに「現代的」としかいいようがないサウンドを生み出しているのだ。

 では、何が「現代的」なのか。まずは「ノイズの構築的使用方法」だ。本来、ノイズは誤使用・誤作用を積極的に構築するものなので構築性よりも操作性を重視しているものだが、インダストリアル/テクノは、90年代末期からのグリッチ・ムーブメントによるデジタル・エラーの活用をテクノ・ミュージックに導入したという側面もある。グリッチはデジタル・エラーによって偶然に生み出されるものだが、それを構築的にトラック化していくのである(カールステン・ニコライはその手腕が実に見事だ)。『コッチ』もまたノイズを構造的に用いている。

 次に「低音とリヴァーブの彫刻的作用」。霞んだ霧のように響く低音/リヴァーブは、音楽の残滓ともいえる存在だが、本作の音響彫刻において重要な要素だ。本作のキックは前作以上に強調されて深く響き渡る(アンディ・ストットも残響の彫刻ともいえるトラックを生みだしている)。

 そして最後に、「だらしなさ=崩壊的な感覚の生成による時間の混乱的作用」である。この「だらしなさ」は極めて2010年代的だ。テクノをベースにしながら、ビートは次第に希薄化し、構造も宙に浮く。その結果、躍らせるだけの機能性から遠く離れ、まるで空気に蠢く音の運動のように、トラックたちは変化していくのだ。たとえキックですらも、それはビートというよりは、楔のように音響空間に打ち込まれている。アルバムが進行するにつれ規則性と非規則性の領域が曖昧になる。

 硬質で鋭い音響が運動する1曲め“アンタイトルド・リヴァージョン”から、楔のようなキックのテクノ・トラックである2曲め“モーター・システム”を経て、3曲め“ユー・コンクリート”から時間感覚を狂っていく。中でも10曲め“ユーディー・ライツ・オーヴァートッテナム”は、聴き手の潜在意識へと問いかけてくるような不穏なダーク・アンビエントだ。ビートもサウンドも、すべてが不穏であり、そのノイズの向こうに打楽器のようなピアノが幻聴のように鳴る。12曲め“オルニ-ミミック”では壊れたガラスのような電子音の蠢きに、鼓動のようなキックが加わるだろう。14曲め“フラットランド”では霞んだ音色のダーク・アンビエントを聴かせてくれる。これらのアンビエントなトラックの合間には、ストレンジなテクノ・トラックが鳴り響き、聴き手の時間の感覚を狂わせていくのだ。まるで歪んだ迷路に迷い込んだような感覚である。テクノが内部崩壊していくような「だらしなさ」の生成。

 この「だらしなさ=崩壊していく」感覚こそ、2010年代的なモダニズムと私は思う。いっけんルーツ・バックとも思える90年代テクノへの参照が、しかし現代的な無意識を写しだす鏡のように作用しているのだ。不安な未来。不穏な現実。終末以降のどうしようもない現実の姿。複雑化する情報・工学社会・インターネットの闇。人間の浅はかさ。退化。不穏。不安。畏れ。崩壊。そんななし崩し的に「だらしなく崩壊していく」世界=現在の中で、『コッチ』を含めインダストリアル/テクノは、「だらしなさ」の感覚を(90年代的なフォームに接近しつつ)、「美と快楽」へと進化=変換させていく。それゆえ過酷ないまを生きる人間にとって最高の処方箋にもなりうるのだ。崩壊の感覚を美へとトランスフォームさせるのだから。このリー・ギャンブル『コッチ』は、その最新の成果といえよう。内部崩壊していくテクノ・ミュージックの奇妙な美しさと刺激を聴き尽くしたい。そして、『コッチ』に続いて〈パン〉よりリリースさえるオブジェクト『フラットランド』、〈モダン・ラブ〉から発表されるアンディ・ストットの新作『フェイス・イン・ストレンジャーズ』なども、絶望的な現実を美学的に変えていくビターな香水のように、私たちの心と体に深く作用していくだろう。今年も終わり迎えつつあるいまだからこそ、2014年の「現在」がようやく見えてきたように思える。

Cut Hands - ele-king

 ウィリアム・ベネットのカット・ハンズ(Cut Hands)の新譜、リージス(Regis)ことカール・オコナーとエインシェント・メソッズ(Ancient Methods)の二人によるウガンダン・メソッズ(Ugandan Methods)と、ドミニク・フェルノーことプリュリエント(Prurient)によるコラボレーション盤が届いた。現在のインダストリアル・リヴァイヴァルの発端となった連中の新譜を聴きながらムーヴメントを改めて振り返るのもいいかもしれない。

 まず、最初から薄々感づいていたのだけれども、このカット・ハンズの新譜、『フェスティヴァル・オブ・デッド(Festival of the Dead)』は例のごとく概出の曲がガンガン収録されていている。これ、そもそもダブルLPにしなくても入ったでしょ。

「勘弁してくださいよベネさ〜ん……4曲も被ってるじゃないスか〜」
「いや〜ローンの支払いがヤバくてさ〜、そこをなんとかしてよ! ね!」

 みたいなやりとりがレーベルと彼の間にあったかは知らんけども。
とりあえず、これが果たして本当に“待望のスタジオ・フル・ダブルLP!”なのかどうか、この人の音作りとサンプリングのヴァリエーションの少なさは措いといたとしても、相変わらずカット・ハンズのトラックは心地いい。ポスト・コロニアル的世界観を構築するかのようなパーカッションによるポリリズム、粗い電子音と音響処理によるいつものサウンドのワッショイ系トラックは相変わらず健在ではあるが、『地獄の黙示録』のパトロール・ボートがメコン川を上っていくようなメロウなトラック群に強いて言えば前作よりも深みがある。ディヴァイン・ホースメン的なお馴染みのイラストレーションも相変わらずカワイイ。
 そもそも劇的な進化をこのオッサンに求めるべきなのかどうか。ホワイトハウス→カット・ハンズは明らかに新たな音楽的境地ではあるのだが、そういえばホワイトハウスの音源はどれもかなり金太郎飴なサウンドだし、カット・ハンズもそうってことなのかしら? あ、でも金太郎飴を切ってる光景ってカット・ハンズっぽいよね。

 そして前回のレヴューでコキおろしてしまったウガンダンメソッズが、スタジオで綿密に作り上げたトラックに、プリュリエントがそのスタジオの便所で叫んだりウィスパーしたりしてるような『ダイアル・B・フォー・ビューティー(Dial B For Beatuty)』。この場をかりて深くお詫び致します。僕、これとても好きです。
 過去のウガンダン・メソッズの音源と同じく、昨今の雰囲気系インダストリアルとは一線を画すトラックの秀逸なコンポジションはハード・ミニマルにおける長年の歴戦を充分に感じさせるものであるし、安直にフィルターに頼らない展開や、限定的なエフェクト処理による徹底的に乾いた音作りは既存のテクノに寄らない姿勢すら感じさせる。毎度この合体ユニットの細かいこだわりを貫き通す制作には、感服いたします。

ele-king vol.14 - ele-king

特集:エイフェックス・ツイン
第二特集:ナショナリズムとグローバリゼーション
特別寄稿:現地取材による、シカゴ・フットワーク/ジューク・レポート    他
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Mr Twin Sister - ele-king

 「ツイン・シスター」から「ミスター・ツイン・シスター」への改名は、とくに音楽的な再出発を暗示したりするわけでなく、「ポリティカルな理由」からだというが、それでもトランスジェンダーなその名を気に入っているという旨の発言は複数のインタヴューからうかがわれる。彼女らは音においても越境的だったけれど、なるほどそれは同格のものを異種交配させるという手つきではなくて、ツイン・シスターに「ミスター」をつけることで名の意味を溶かすような、そういうあり方だったようにも思えてくる。今作においてミスター・ツイン・シスターは、たとえばハードでミニマルなテクノと溶け合い、ツイン・シスターという位相をずらす。

 はじまりは穏やかだ。ヴィブラフォンのような音がなぞるアルペジオに導かれて、わたしたちはあの緩くてドリーミーなツイン・シスターのサイケデリック・ポップへと踏み入っていく。嫌味なく洒脱なAOR調が心地よい。ジョナサン・ロウによるところだろうか、プロダクションはクリアさを増してアンドレア・エステラのポップ・シンガーとしての輪郭をさらに磨き出すように感じられる。あくまでエクスペリメンタルなサイケ・ポップであろうとするようなビーチ・ハウスよりも、上質なポップスへの志向性を強めたスティル・コーナーズに近くなった印象だ。

 ツイン・シスターは2010年の前後2年ずつくらいのインディ・シーンを彩った、ドリーミーなサイケデリック・ポップのトレンドのなかに現れ、その一角を象徴するように『イン・ヘヴン』(2011年)という傑作を生んだバンドである。一方の極にはディアハンターのようにシューゲイズと結びつけて語られる音があり、もう一方の極にはチルウェイヴなどがあり、そうしたいくつかの極を星形につないだゾーンに個性豊かなアーティストたちがひしめいていた。ツイン・シスターのシンセ・ポップにはフォーキーなテイストがあり、ブロードキャストに比較されるクラウトロック的な要素、あるいはマーク・マッガイアのギター・アンビエントへと接続するような広がりも感じられた。逃避的な音がことさらヒップに感じられる時期ではあったが、そのムードを飛びぬけて心地よくポップス側に転換した才能のひとつだともいえる。ケンドリック・ラマ―が彼女らのトラックをサンプリングしたという語られ尽くした話題も、この間のインディが何を発信していたのかということを物語るものだ。そして本作『ミスター・ツイン・シスター』は、その『イン・ヘヴン』ののち初となるフル・アルバムである。

 以前は「ポップス側に振れた」といっても、ラフでリヴァービーなプロダクションが気分であり、ツイン・シスターの音もその範疇だった。しかしまどろみの時期を抜けたいま、彼女らがテクノに、あるいはよりスマートなポップ・ソングに向かうのはとてもポジティヴなことだと思う。また、ミスター・ツイン・シスターはそれが得意だということがわかる。“トゥエルヴ・エンジェルズ”などはそうした新機軸を誇らかに象徴する曲で、アイデンティティを失わずに、むしろビートを飲み込むように成立しているダークなテクノ。ここでのエステラのパフォーマンスは、かつてのツイン・シスターからとても遠いところにあって驚いてしまう。ヴォーカルとしての運動神経が優れた人なのだろう。シルキーでアダルトなR&Bを基調とする前半の展開、とくにレトロなタッチのディスコ・ナンバー“イン・ザ・ハウス・オブ・イエス”などでは、こんなにフットワークの軽いバンドだったのかとため息さえ出るだろう。“メッドフォード”のアンビエントや、“クライム・シーン”などに残された以前の面影をたどりながらアルバムは閉じるが、ヴァリエーションがあるというような安直なまとめかたをゆるさない、奇妙で豪華な変貌を見せる新作だ。「ミスター」という装いのもとに、彼女たちは新しい夢を見はじめた。

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