Home > Reviews > Film Reviews > トム・アット・ザ・ファーム
わたしたちは眩い才能が開花する瞬間に立ち会っている。グザヴィエ・ドランの話だ。1989年生まれ……25歳。初監督作は19歳のときに撮られた。わたしたち日本の観客の多くが彼の映画にはじめて出会ったのは長編3作め『わたしはロランス』だったが、それは、ある日「女になる」ことを決めた青年が痛切に愛を求めて彷徨する姿が鮮烈で幻惑的なイメージと甘いポップ・ミュージックに彩られつつ描き出されたもので、観る者の胸を激しくかき乱したのだった。そこにはたしかに狂おしい若さと、それを飛翔させるだけの大胆さと詩情があった。ゲイであることを公言しているこのハンサムな青年は、すでにアイコニックな存在として――「神童」などと言われながら――未来を嘱望されている。
ドランの4作めとなる『トム・アット・ザ・ファーム』は、自身が脚本・主演・編集を務めながらも、彼のこれまでの作風とやや距離を置く心理スリラーだ。ジャンル映画と言ってもいい。しかもミシェル・マルク・ブシャールの戯曲を基にしているため、はじめて他者の原作に由来する物語を扱っており、結果としてこれまでのやや過剰なセンチメントは抑えられ、非常に醒めた一本となっている。そして、驚くほどに明確に「同性愛者として生きること」がどういうことかを突き放してえぐり出している。
戯曲を下敷きにしているため舞台はほぼ田舎の農場に限定されている。ドラン本人演じる主人公トムは、交通事故で喪った同性の恋人ギヨームの葬儀に出席するため彼の故郷の農場を訪れるが、ギヨームは生前、母に自分の存在を隠していた。事情を知るギヨームの兄・フランシスに「母に真実を語るな」と脅され、やがてトムはフランシスからの暴力に晒されるようになっていく……。ブシャールの戯曲には序文で「同性愛者は、愛し方を学ぶ前に、嘘のつき方を覚える」と書いているそうだが、まったくもってその通りで、恋人ギヨームが自分の存在を隠していたことにトムは傷つくが、そのこと自体は別段驚くことではない。カミングアウトを受け入れない土壌が根強く残っていることは、日本で暮らしていればじゅうぶん理解できることだ。
この物語で問題となっているのは、トムと恋人の乱暴な兄・フランシスとの関係だ。「真実を告げる」と言うトムに、フランシスは物理的な暴力で「黙らせる」。ここでのフランシスはホモフォビアの表象である……たしかにそうだろう。しかしながら、トムは同時にフランシスに強く惹きつけられてもいる。フランシス演じるピエール=イヴ・カルディナルはヒゲを生やした筋肉質な体格の男として最初の登場シーンでは上半身裸で現れ、度々トムに息のかかる距離に接近してみせる。また、幾分唐突にフランシスとトムがタンゴを踊るシーンの官能性は、映画の色気そのものになっている。自分たちに嘘を強要し、精神・肉体両面に対して暴力をふるう存在あるいは社会に、同性愛者たちが自らすすんで囚われの身となってしまうことを、『トム・アット・ザ・ファーム』は一種エロティックにあぶり出しているのだ。嘘をつき続けていたほうが楽だということを自分の幸福と錯覚し、あまつさえ、そうした状況と「契り」を交わすようにすら、なる。
だからこそ、本作は後半で脱出もののスリラーとなるのだ。トムは逃げなければならない。フランシスの暴力から、非寛容から、あるいは、重ね続ける嘘から。そうした社会的なアングルはブシャールの戯曲の時点ですでに確立してはいただろうが、ドランがここでやっているのは、ヒッチコックが比較に挙げられるような「映画」的な文法にそれを乗せることである。弛むことのない緊張感。パーソナルな度合いが強かったドランのフィルモグラフィのなかで、明らかに『トム・アット・ザ・ファーム』は自分自身と、世の同性愛者が置かれた状況を異化して見つめることでそのフォルムの完成度を高くしている。
ラストで流れるのはルーファス・ウェインライトの“ゴーイング・トゥ・ア・タウン”だ。「僕はアメリカにはうんざりなんだ」……。その歌声はそこで、逆説的に希望として響いている。「自由」はもしかしたら囚われの身でいることよりも困難で、不安なことかもしれないが、だからこそ踏み出す価値がある。逃げなければならない、僕たちは逃げなければならない……。
予告編
木津毅