「Noton」と一致するもの

Fatima - ele-king

 先日ロンドンから帰ってきたばかりの友だちが言うには、いまは「ジャズが来ている」そうだ。流行りモノが好きな僕は、そういうひと言が気になってしまうのだが、UKは、クラブ・カルチャーにおいてジャズ/ファンク/ソウルがセットとなって周期的に流行る。ele-kingでもここ1~2年はその手のモノが紹介されているが、あるクラブ世代の固まりがある程度の年齢に達すると、ジャズ/ソウル/ファンクにアプローチする人は少なくなく、いまはダブステップ世代にとってそういう時期なのだろう。
 そういえば、昨年はセオ・パリッシュによる〈ブラック・ジャズ〉(70年代のスピリチュアル・ジャズを代表するLAのレーベル)の編集盤もあったが、今年はサン・ラー生誕100周年でもある。ラー100年の記事は、海外のインディ系の多くのサイトでも載っている(彼は1914年、大正3年生まれなのだ)。

 クラブ・ミュージックで言えば、フローティング・ポインツ(サム・シェファード)は、そのスジでもっとも評価の高いプロデューサーだ。彼はいまだにアルバムを出していないのだが、何枚かのシングルによって(とくに2011年の「Shadows EP」と「Faruxz / Marilyn」は必聴)、その他大勢のジャジーな連中との格の違いを見せている。ゆえに彼が運営に関わる〈エグロ〉からソロ・デビューした、スウェーデン出身ロンドン在住の女性シンガー、ファティマのフル・アルバムを楽しみにしていなかったファンなどいないだろう。

 録音はロンドンとLAでおこなわれている。アルバムをサポートするメンツはかなり良い。サム・シェファードはもちろんのこと、デトロイトのセオ・パリッシュ、〈ストーンズ・スロー〉のオー・ノー、サーラーのシャフィーク・フセイン、LAのコンピュータ・ジェイ、リーヴィングからもカセットを出しているナレッジ、ケンドリック・ラマーのアルバムにも参加しているスクープ・デヴィル、ロンドンのfLako……とまあ、一流(?)どころが揃っている。
 しかし、一流どころを揃えれば必ずしも試合に勝てるわけではないことは、ワールドカップをご覧の方にはおわかりだろう。チリやメキシコのようなチームは、がんばって最後まで見て良かった……と思わせる試合をした。ファティマの『イエロー・メモリーズ』がそのレヴェルに達しているかどうかは疑わしいが、確実に言えるのは、ここには過去を活かした魅力的な「現在」があることだ。

 現在──ローリン・ヒルやジル・スコットで育った90年代の子供の上品な歌の背後には、モダンなビートが軽やかに鳴っている。1曲目の“Do Better”(シェファードpro)は、70年代ソウル風のドラマティックなホーンセクションではじまるが、アルバムはレトロに囚われない。マッドリブの弟によるヒップホップ・ビーツの“Technology”、コンピュータ・ジェイ(とシャフィーク・フセイン)によるネバっこファンク“Circle”、スクープ・デヴィルのうねりをもった“Ridin Round (Sky High)”……と、前半は、ヒップホップ・ファンとしての彼女の好みが展開されている。
 そして、ジャズ/ソウル・スタイルの“Biggest Joke Of All”(シェファードpro)、最高にチルな“Underwater”(ナレッジpro)など、古さを活かした曲を混ぜながら、『イエロー・メモリーズ』はUKらしい折衷主義を更新する。真夜中のダウンテンポ“Talk”(シェファードpro)から最後の曲“Gave Me My Name”(シェファードpro)にかけてのメランコリーも悪くはない。 
 

Hercules & Love Affair - ele-king

 自由はどこにある? ついこの間もどこかの馬鹿な政治家が「ホモにHIVの啓蒙なんてしなくていい」と抜かしたそうだが、思いっきり脱力するとともにそのことに驚きも怒りもしない自分に心底がっかりした。この国のおっさんの平均的な認識を確認したまでだ。同性愛が犯罪として取り締まられ、マイノリティが殺されてしまうような国よりはまだ「マシ」なんだろうか? だけど、この国で同性愛者であることはつねに世のなかからヤジを飛ばされて生きているようなもので、そんな環境で暮らしていればひとは卑屈になるしシニカルにもなる。自由はどこにある? ……その問いは、むなしく消えていくばかりだ。

 アンディ・バトラーは……ハーキュリーズ・アンド・ラヴ・アフェアの首謀者は、それは四半世紀前のハウス・パーティにあったと迷わずに宣言するばかりか、その刹那的な快楽を現代に蘇らせることを企んでいる。彼は自分がフランキー・ナックルズの子どもたちのひとりであることを宣誓し、かつてのゲイ・アンダーグラウンド・パーティで鳴っていた音の再生を昨今のハウス・リヴァイヴァルよりも早くはじめた……2008年、あの素晴らしいシングル、ゲイの孤独とそれゆえに切望される愛をアントニー・ハガティがディスコ・ビートの上で歌った“ブラインド”とともに。ハーキュリーズがゲイ・アンダーグラウンド・シーンのもっとも重要なアーティストのひとりになるのは自然な流れだった。
 だからバトラーはこの2014年、ダンスフロアにハウス・ビートが鳴らされ、ゲイ・ライツ運動が沸く現在、あらtめて「自由」と題した曲をアルバムに2曲も収める。1曲めは“5:43・トゥ・フリーダム”といって、朝5時を回ったにしては激しいキックと跳ねるシンセ・サウンドともに踊り疲れた足をまだまだアップリフトする。繰り返し歌われる「Be Myself/Be Yourself」という挑発は同時にそこに集った性のはぐれ者たちへの魂をこめた励ましでもあるだろう。「お前自身であれ」……確固としたアイデンティティを持って生きることが「フリーダム」であるならば、もうひとつの自由、“リバティ”ではいくぶんダーティな風合いのシンセ・ハウスの上でジョン・グラントが半音階を多用するメロディと低音のヴォーカルで自分の人生を選択する権利について歌う。「お前は望むことをなんだってできる、お前は完全に自由だ」……ゲイ解放運動の歴史をヴィデオにしていたグラントがそう歌うことで、これはマイノリティたちが自分の人生を生きることを力強く歌ったトラックだと確信する。が、そこは自身の作品で孤独を痛切に綴るグラントを招聘しているので一筋縄にはいかない。続きで「お前はどこにだって行ける、だけど俺なしで」と彼が絶唱することで別れの歌でもあると明らかになるのだ。つまり二重の意味でゲイの人生と愛について表現されていて、うまいとしか言いようがない!

 重要なのは、これがファーストよりもセカンドよりも徹底してダンス・レコードになっていることだ。6年前にハーキュリーズが纏っていたようなミステリアスさはもうない。だが代わりに、傷ついたマイノリティたちをベッドルームに引きこもって寝かせない、立ち上がって踊らせるんだと意志がある。“ドゥ・ユー・フィール・ザ・セイム?”と題されたリード・シングルでは、「あなたもそう思うでしょ?」とセクシーなダンス、その快楽に誘おうとする。アルバム・タイトルが意味するところは「傷ついて壊れた心のごちそう」、そういうことだ。
 そして“ブラインド”に匹敵する傑作シングルを新たにものしたことも大きい。もう1曲ジョン・グラントをヴォーカルに迎えた“アイ・トライ・トゥ・トーク・トゥ・ユー”、そこではどこまでもハウシーなピアノ・リフとキック、エレガントなストリングスとともにグラントがHIVポジティヴであることがわかったときの心境が歌われているという。「理解できない、助けてくれ、すべてわかるように話してくれ」……そうそれは、20年前にエイズでこの世から消えていった亡霊たちの叫びでもあるだろう。あのダンスフロアで踊った、ただ愛を求めた同性愛者たちの。「どうか助けれてくれ、俺のところに来てくれないか」……。簡単なことだ。僕たちはそこに行けばいい。傷ついた魂たちとともに、ただすべてを忘れて踊り明かせばいい。

 ちなみに、“アイ・トライ・トゥ・トーク・トゥ・ユー”のゲイ・アンダーグラウンド・アート感満載のヴィデオも傑作だ。

第20回:ヤジとDVとジョン・レノン - ele-king

 先日、通勤バスの中で新聞を広げていると祖国の話題が出ていた。東京都議会で女性議員に対して性差別的なヤジが飛び、国内で大きな話題になっているという。『ガーディアン』紙のその記事は、日本が男女平等指数ランキングで常に下位にランクされている国であることを指摘し、ジェンダー問題の後進国だと書いていた。まあ、ありがちな「東洋は遅れてる」目線の批判的な内容である。
 こういう記事が出ると、「女性が強い英国では絶対にあり得ない」「アンビリーバブル」みたいなことを英国在住日本人の皆さんがまた盛んに言い出すんだろうな。と思った。わたしも10年前ならそう思っていた。
 が、今はそうは思わない。

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 BBC3で『Murdered By My Boyfriend』というドラマが放送されてちょっとした話題になった。「恋人に殺された」というタイトルの当該ドラマは、パートナーの青年にDVを受け続けて最後には亡くなってしまった若い女の子の実話をドラマ化したものだ。
 17歳で同年代の青年に出会い、すぐに妊娠して子供を産んだ少女が、嫉妬深くて幼稚なパートナーから家庭内で暴行され続け、4年後には殴り殺されていた。というストーリーは、英国のある階級では「あり得ない」話ではない。英国内務省が2011年に発表した資料によれば、英国でもっともドメスティック・ヴァイオレンスの被害に遭っているのは16歳から24歳までの女性だそうだ。このドラマのモデルになった事件では、恋人を殺した青年は、生活保護受給者でありながら血統犬のブリーダーをやって不法に収入を得ていた貧民街の男だった。
 例えば、ブライトンの病院やチルドレンズセンター(地方自治体運営の子供と親のためのサポートセンター)などのトイレに入ると、個室の内側にA4サイズのナショナルDVヘルプラインのポスターが貼られている。
「あなたはドメスティック・ヴァイオレンスの被害者ですか?虐待されている女性を知っていますか?」
というスローガンと共に、幼児の手を引く若い女性の後ろ姿の写真が印刷されている。まさに『Murdered By My Boyfriend』のストーリーみたいなポスターだが、そうしたイメージが使われているということは、やはりDVの被害者には子持ちの若い女の子が多いということだろう。
 英国における若きシングルマザーの数の多さはこれまでブログ(&拙著)で何度も書いてきた。日本では、「出来たら始末しちゃえ」というのがティーン女子の一般的対処法だったと記憶しているが、英国の場合は、何故か産む。といっても、わたしはミドルクラスから上の人の生活様式は知らないので、労働者階級だけの話かもしれない。が、わたしの知っている世界では、十代の女の子たちは堕胎より出産を選ぶ。
 それは先の労働党政権がシングルマザーに優しい福祉制度を確立したせいもある。ぶっちゃけ、無職者に子供がいれば、すぐ役所から家をあてがわれ、生活保護も貰えるという時代が長く続いたので、下層社会の女子には、就職や進学しない代わりに子を産んで生活保護受給者になるというライフスタイルのチョイスが存在したのである。
 キャリアを持つ女性たちが子供を産まなくなった代わりに、十代で妊娠したシングルマザーたちが生活保護を受けながら続々と子を産み続けて行く様は、この国では階級による女たちの分業がはっきりと出来上がっているようにも見えた。ミドルクラスの女たちは外で働き、下層の女たちは生活保護を貰いながら子供を産み増やす。実際、シングルマザーへの優遇は人口の老齢化に歯止めをかけるための国家戦略だったのではないかとさえ思えてくる。UKでは2011年に1972年以来最高の新生児出生数が記録され、過去40年間で最高のベビーブーム到来と騒がれたが、ヨーロッパでそんな報道があったのはこの国ぐらいのものだろう。

 英国の女は強い。というイメージが、マーガレット・サッチャーに代表される上層の働く女から来ているのは間違いない。確かにあの階級の女たちは、時代錯誤なセクシスト発言でも受けようもんなら言った男を完膚なきまでに叩き潰すだろうし、彼女たちが肩パッドで武装して戦って来た歴史があるからこそ、英国の上層の男たちは滅多なことは言えないのだ。
 が、同じ英国でも、下層の世界はまるで違う。
 下層社会には、家庭で「ビッチ」、「雌牛」、「淫乱女」と呼ばれて殴ったり蹴ったりされている女たちもいる。底辺託児所に勤めていた頃、顔の傷のあるアンダークラスの女たちを何人も見た。裏庭で恋人に蹴りを入れられている女性も見たことがある。彼女たちの子供は、そんな母親の姿を見ながら育つ。子供のために良くないとわかっていながら、早くこんな生活は清算しなければと思いながらも、彼女たちはいつも顔に傷を負っていた。そして彼女らの子供たちは成長し、母親を殴った男たちと同じことを自分の女にするようになる。その、乾いた現実の反復。
 いったいぜんたい、ここはほんとうに女が強い国なのだろうか。

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 以前、職場で顔に青痣をつくって出勤してきた若い保育士がいた。目の下のあたりが広域に青くなっている。寝ぼけて階段から落ちて手すりに顔をぶつけたと言っていた。彼女は20歳のシングルマザーで、同世代の恋人と同棲している。
 一見してぎょっとするような青痣だったので、彼女はオフィスに呼ばれた。保護者たちの反応を心配して、マネージャーが当惑しているようだった。
 10分ほどして、彼女は憤然としてオフィスから戻って来た。
 「しばらく自宅待機しないかって言われた。痣がひどくて子供たちが怖がるかもしれないから、もう帰れって」
 「・・・・それって、有給の自宅待機だよね、もちろん」
 「ノー。自分の有給休暇を使って休めって言われた」
 「違法でしょ、それ」
 「うん。だから帰らない。働く」
 彼女はそう言ってプレイルームに玩具を並べ始めた。
 その日、子供を預けに来たミドルクラスの母親たちが彼女の痣を見た時の表情は忘れられない。明らかに誰もがDVによるものだと思っている様子で、ハッと驚いてから憐れみを示す表情になる人もいたが、「こんな人間に子供を預けて大丈夫だろうか」という不安を顔に出す人、あからさまに嫌悪感を示す人もいた。
 医師やプレップ・スクールの教師といった高学歴の働く女たちの「顔に青痣のある女はうちの子には触らないでほしい」的なリアクションは、ある意味、日本の都議会で飛んだヤジぐらいあからさまで野卑だった。
 女という性をすべて一まとめにして「シスターズ」と叫ぶフェミニズムはいったいどれほど現実的なのだろう。少なくともUKでは、たいへんに嘘くさい。

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 ジョン・レノンが「一番嫌いなビートルズの曲」と言った歌がある。
「他の男と一緒にいられるぐらいなら
 死んでくれたほうがまし
 用心したほうがいい
 俺は分別がなくなるから」

 『Run For Your Life』は、英国では今でもDVを連想させる曲として語られる。レノンは、この曲の歌詞ははプレスリーの『Baby Let's Play House』にインスパイアされたとものだと言った。
 が、晩年には「書いたことをもっとも後悔している曲」とも発言している。

 亡くなる数年前、彼は最初の妻を殴っていたことを暗に認めるような発言をした。『プレイボーイ』誌のインタヴューでこう言ったのである。
 「僕は自分の女に対して残酷だったことがある。肉体的な意味で、どんな女性に対しても。僕は殴る人間だった。自分を表現することができないと殴った。男とは喧嘩し、女は殴った」

 英国には「強い女とジェントルメン」の構図とは全く別の世界が存在している。
 その世界は上のほうが先に進めば進むほど後方に取り残されて行く。格差が広がれば広がるほど、進んだ世界と遅れた世界のギャップは大きくなる。
 警察の発表によると、2013年第4四半期でDVの件数は15.5%増えたそうだ。

クラウトロック大全 - ele-king

ロック史における謎、壮絶な実験、
クラウトロックとノイエ・ドイチェヴェレの大カタログ、ついに刊行!

今世紀に入ってから、ますます影響力を発揮しているクラウトロック──レディオヘッドからデトロイト・テクノにまで絶大な影響を与えた1970年代のドイツ・ロック。いまだ根強い人気を誇り、いまだ再発盤のリリースが絶えず、プログレッシヴ・ロック世代から、オウガ・ユー・アスホールに代表される若い世代にまで、幅広く聴かれ続けている。70年代末からはじまるノイエ・ドイチェ・ヴェレも、パレ・シャンブルグの再結成ライヴが大盛況だったように、いまだにカルト的な人気が高い。『クラウトロック大全』は、60年代末クラウトロック黎明期から80年代初頭のノイエ・ドイチェ・ヴェレまでの主要作品、700枚以上を紹介。ポストパンク/テクノを通過した視点で捉え直す待望の1冊!

Clipping - ele-king

 気が抜けているわけでもなく、何かがみなぎっているわけでもない。緊張感はあるけれど、極限まで張り詰めてはいない。いい意味で隙があり、LA風のラフさに溢れている。いまにも倒れそうなのに、パンチだけはスルドいボクサーという感じだろうか。

 キャンプテン・エイハブとしてスラッシュ・ディスコ(?)のようなアルバムを4枚残し、スキリレックスにもヴォーカルで参加していたジョナサン・スナイプスは、マシュー・サリヴァン(『アンビエント・ディフィニティヴ』P246)とネックレイシングというノイズ・ユニットを組んでいたウイリアム・ハトスンと新たにヒップホップ・スタイルのクリッピングを09年に結成し、昨年、キューブリック・マニアを激怒させた『ルーム237』のサウンドトラックをケアテイカーらと共に手掛けた後、MCにデヴィード・ディッグスを得てデビュー・アルバム『ミッドシティ』を配信でリリース。これがハーシュ・ノイズとラップだけで構成されたような内容にもかかわらず、5ヵ月後には〈サブ・ポップ〉との契約が決まったという。

 ハーシュ・ノイズだけというのは言い過ぎだけど、ノイズないしは接触音だけでヒップホップ・ビートを構成し切ってしまうセンスはかなり耳新しいものがあり、仮りにカニエ・ウエストを(テクノでいえば)エイフェックス世代の代表格だとすると、クリッピングはアルヴァ・ノト世代ともいうべき世代の台頭と見なすことができる。徹底的にミニマルで、過剰なほどコンセプチュアル、照り返しのようなものとしてフィジカルは捉えられ、叙情性もあらかたカットされている(『マッドシティ』の“アウトロ”は空耳アワーで「テーマ、何? テーマ、何?」というループに聴こえてしまう)。しかもアナログ盤はフラッシュ音(=クリッピン・ノイズ)を使ったジョン・ケージのカヴァー“ウイリアムズ・ミックス”(59)で終わるほど、アカデミックとの境界も侵食していく(国内盤のボーナス・トラックには意表をついたようなパンク・ナンバーなども)。

 映像センスも同じくでデス・グリップスと共演しても……

 シャバズ・パレセズに続いて〈サブ・ポップ〉からは(『スター・ウォーズ』サーガを無視して)2番目のヒップホップ・アルバムとなる『 CLPPNG 』は……そう、気が抜けているわけでもなく、何かがみなぎっているわけでもない。文字通り、初期衝動は驚くほどの洗練へと向かい、ファンキーだとかグルーヴィーだと言い切れるような仕上がりでもないのに、ヒップホップの文脈には見事に落とし込まれた感がある(キング・Tやギャングスタ・ブーの客演もそれを物語っている)。ヒップホップとして変わったことをやったのではなく、変わったことをやっていたらヒップホップになったという感じに思えてしまうというか。そう、どう考えても『イーザス』よりもイーザンす。

 ノイズの霧を取り払っても、そこには同じものが残っていた。『CLPPNG』の完成度をひと言で表すなら、そういうことになるだろう。ノイズどころか“ドミノーズ”には子どもたちの合唱までフィーチャーされ、トランスを批評的に扱っているような際どいチャレンジもある。シンプルな割りに録音には8ヶ月もかかっているので、おそらくは試行錯誤に明け暮れたアウトテイクスが山と存在しているのだろう。歌詞は主にLAのやさぐれた日常を扱っているようで、先行シングルはコック・ピストル・クリーをフィーチャーした「ワーク・ワーク」。

ハナカタマサキ - ele-king

 ギターによる弾き語りを中心に演奏活動を行いながらも、映画やアニメーションの音楽も手がけ、あるいはミュージック・ビデオやアクリル画の制作から自主レーベルの運営まで、シンガー・ソングライターの枠に収まりきらない多才さをみせる音楽家、ハナカタマサキ。『Lentment』は、そうした彼のデビュー・アルバムとなる作品である。本盤に収録された数々の楽器による演奏、たとえばギター、ウクレレ、バンジョー、マンドリン、シタール、三味線、大正琴、グロッケンシュピール、シロフォン、メロディオン等々……打楽器や玩具楽器を含めればこの倍以上はあると思われるさまざまな楽器による演奏は、すべてハナカタひとりの手によるものだという。さらにはミックスからマスタリングまで、加えてジャケット・デザインも彼によるものである。3年近くもの歳月を費やして制作されたというこのアルバムは、その全行程をハナカタマサキひとりが手がけたと言えるものであり、ファースト・アルバムにふさわしい記念碑的な作品となっている。

 あくまで生楽器にこだわって生み出された音楽は、多様な弦楽器が織りなす無国籍的なエキゾティシズムが、ペンギン・カフェ・オーケストラのあらゆるジャンルを渉猟する室内楽的な響きを思わせもすれば、トイピアノや廃物となった空き缶を用いた不安定で不協和な響きを多用するところなど、パスカル・コムラードのラディカルな童心に通ずる部分もある。特徴的なのは、ハードロックに傾倒していた時期に鍛え上げられたという技巧的なギター・フレーズが、プログレッシブ・ロックの影響を匂わせる変則的な拍子と相俟って、複雑な構成美のうちに披露されている点だろうか。しかし技巧派の音楽にありがちな厚かましさは微塵もなく、優しく語りかけるような歌声がアコースティックな楽器による温かい音色と溶け合って親しみ深い音楽になっている。

 親しみ深さは音だけではない。本盤に収められた楽曲はどれも1分から3分、長くとも6分には満たない小品なのであるが、そのひとつひとつをテーマとしたさまざまな動物の絵と、最後の楽曲である“OWL”から連想されて描き進められたというフクロウの絵が、40ページにわたる画集となってブックレットに収められている。画家を生業とする両親の影響もあって描きはじめたという絵は、洗練された絵画というよりも、児童文学における挿画のようなものに近い。その暗い色調と多分に抽象的な動物の姿は、ともするとアール・ブリュットふうでもあるが、それがこの音楽とともにあることによって、愛らしさを帯びてくる。音楽も画集も、毒を含みながらそれを喧伝しないスマートな装いが心地いい。

 比較されることも多いと思われるトクマルシューゴのミニマリスティックでもある音楽に対して、生楽器に徹したチープな響きと、そうでありながら生演奏で再現することをはじめから目指していないかのような宅録でのこだわりが、ハナカタマサキに独自の魅力を生み出しているのではなかろうか。アルバムには収録されていないが、ここに挙げるキング・クリムゾンの誰もが知るだろう名曲をカヴァーした音源からも、その特異性は聴き取れるはずである。


Julianna Barwick - ele-king

 本作『ロサビ』は、デラウェアはミルトンのブルワリー、〈ドッグフィッシュ・ヘッド・ブルワリー〉と、ジュリアナ・バーウィックとのコラボレーション作品である。正確に言えばこのEPだけでは本作は不完全だ。なぜなら、『ロサビ』とはこの企画よって生まれたペール・エールの名であって、ボトルと10インチとが同梱されたものが出荷を待っている。やっぱり、それを味わいながら聴いてみたい。

 ロサビを飲みながら聴きたいというのは、気分の問題からというだけではない。この企画自体が、両者のあいだにおいて、時間的にも内容的にもわりとじっくりと進められたという背景を知ればこそである。スタートは2013年、バーウィックがドッグフィッシュ・ヘッドの新しい醸造所に招かれて従業員たちの前で演奏を披露するところからはじまる。そこはカテドラルのような環境だということだから、バーウィックの音楽と演奏スタイルにぴったりとはまっただろう。そののちに本作収録曲が編まれるわけだが、ドッグフィッシュ・ヘッド側からはビールの製造過程において生まれるさまざまな音──醸造、発酵、濾過、そしてボトリングにおいて発生するノイズが提供された。バーウィックはループ・ペダルによって自身の声をレイヤーしていくあの特徴的なスタイルに、ロサビのための一層を加える。

 ぶつぶつ、こぷこぷ、ガシャンガシャン。あらためてビールを製造している音だということに思いを馳せるとなんだか可笑しいが、そんなふうにどことなくコミカルな、弾むような炭酸っ気と、このエクスペリメンタルなブルワリーを支える従業員たちの心意気や精神、ビール好きだというバーウィックのキャラクターが、彼女のヴォーカル・ループにじつに気持ちよく、のびやかに織り合わされている。つけ加えると、ロサビにはわさびが入っているそうだ。筆者はわさびが苦手で、サビ抜きじゃない寿司を出されると親にキレたりしていたが、「苦みとホップのようなハーバル・ノーツが加わった日本の根菜類」なんて表現されるとちょっとトライしてみようかという気持ちになる。さわやかで、しかしちょっと実験的な性格をもったビールなのだ。

 波が寄せるように、一息ぶんのフレーズが穏やかに高低し、層を重ねていく。バーウィックについては何度も書いてきたので多くを割かないが、彼女をヴォーカリストや歌姫の類に括るのは正確ではないと思う。声楽も学んでいるけれど、彼女が明確な旋律と構成をそなえた「ソング」を歌った作品は『オンブレ』(2012、アスマティック・キティ)というヘラド・ネグロとのコラボ作のみである。むしろ即興性を軸としてサウンド・デザインを施していくスタイルが特徴で、どちらかというと音響派に連なるアーティストだ。そしてまた、リニアな時間性をもつ「ソング」が終曲とともにその単一の時間を完結させ、閉じるものであるのに対し、バーウィックのコンポジションは複数の時間を綴じるように成立している。その意味で、本来こうしたコラボレーションと相性のよいものなのかもしれない。
 ちなみに、“トゥー・ムーンズ”においてアナログ・シンセがフィーチャーされているところが小さな新機軸ではあるが、大部分はいつものジュリアナ・バーウィックである。工場のフィールド・レコ―ディングからのサンプリングが、低域をけずられてきらきらと輝いている。リヴァービーにひきのばされて、ホップが踊る愉快な時間と響き合っている。ブルワリーの創設者にして社長であるサム・カラジオーネは、バーウィックの習慣にとらわれない音楽スタイルが好きで、それは自身のビール製造への思いと変わらないのだと述べる。この企画の銘柄にかぎらず、どこか独創的で若々しい社風を想像させるメッセージだ。そんなブルワリーの気質と、ロサビの楽しくて気持ちのよい性格が、残響のなかから立ち上がってくる。


Marcus Schmickler & Julian Rohrhuber - ele-king

 マーカス・シュミックラーは1980年代後半から活動するドイツの電子音楽家である。彼が2010年に〈エディションズ・メゴ〉からリリースした『パレス・オブ・マーベラス[クイアード・ピッチ]』は、(知られざる)電子音楽の傑作としてマニアの耳を掴んで離さない。この作品は「シェパード・トーン=無限音階を新たに解釈した」という技法で作られたという。いわば初期電子音楽の現在的な解釈のような音なのだが、その剥き出しの電子音のシークエンスが刺激的であり、脳内で拡張ループされていくような感覚を覚えてしまうほどであった(ちなみに2010年の〈エディションズ・メゴ〉は、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー『リターナル』やエメラルズ『ダズ・イット・ルック・ライク・アイム・ヒア?』、マーク・マグワイアのソロ『リヴィング・ウィズ・ユアセルフ』をリリースするなど、現在のシンセ・ブームの下地作りをしたようなリリースが相次いだ重要な年だ)。
 
 今回、同じく〈エディションズ・メゴ〉からリリースされたマーカス・シュミックラーの新作も、硬質な電子音の快楽に満ちた傑作である。『パレス・オブ・マーベラス[クイアード・ピッチ]』と同様に、70年代的ともいえる硬派な電子音が鳴り響き、しかし2010年代的な高密度ノイズが嵐のように生成していく。楽曲の基本構造は、伸縮自在な電子ノイズに男女がテクストを読み上げるヴォイスがレイヤー・エディットされることで構成されている。声がノイズ生成のトリガーになっているかのようだ。
 コラボレーターはジュリアン・ローヒューバー。彼は音響合成用プログラム・スーパーコライダーの共同開発者・音楽情報システム工学教授/プログラマーであり、本作に工学的なエレメントを注入している重要人物だ。さらにレーベルのアナウンスによると、本作は哲学者アラン・バディウ(ジャン=リュック・ゴダールの『フィルム・ソシアリスム』にも出演した)の著作にも強い影響を受けているともいう。まさに音響・工学・哲学を横断する作品といえよう。
 
 コンセプトは数字と音の近似性。経済やデジタルデータなどの数字に支配される現在の状況に、音楽固有の数学性の問題をレイヤーし、現在社会のモノゴトを批判的に検証・実施している。その実験がもたらす聴取体験は、まるで映像のない実験映画を聴いているようでもあり、科学実験の成果を報告する架空の映画の音のみを聴いているようでもある(私はゴダールの『楽しい科学』を想起した)。
 本作の実験は、あらゆるモノゴトが飽和状態になった現在において重要な試みとはいえよう。私たちはこのアルバムから社会・経済・音楽という問題に思考を広めることもできるし、アラン・バディウの著作を手に取ることで哲学の問題体系に接することも可能だ(本盤のブックレットも詳細だ)。その意味で思想・音・体験が凍結された複製芸術時代のサウンド・インスタレーションともいえる。

 だが、である。やはり本作においても圧倒的な電子音の快楽が横溢しているのだ。それが何よりも重要である。いくらコンセプトが刺激的でも音が生温いのなら意味はない。本作は違う。デヴィッド・チュードアが暴走したような硬い電子音が運動し、伸縮し、変形し、電子の暴風のように耳の中を走り抜けていく。ああ、なんという気持ち良さ。それはオールドスクールな音などではない。最先端の電子ノイズである。そして男女の声がエディットされ、彼らの読み上げるテクストをトリガーにするようにノイズの嵐が巻きおこる。時折鳴るクリッキーなリズムも魅惑的だ。
 声とノイズ。ガラスのように鋭い電子音。聴覚を刺激する高音。そして球体のように柔らかい音。鼓膜から脳内に注入するような強烈にしてフェティッシュな電子の音のアディクション。何度も何度も何度も耳が求める電子の音の蠢き。この強烈な(電子)ノイズの官能。
 そして、その音響の生成と運動がもたらす官能は、マーカス・シュミックラーとジュリアン・ローヒューバーがプレゼンテーションする数字に支配される現在社会への批判的検証と遠くないはずだ。そう、ノイズの官能とは、管理を超えた余剰=エラーによる快楽であるのだから。

 個人的には(たとえるならば)ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー よりも、マーカス・シュミックラーの方を耳が求めてしまう。なぜか。ノイズ/ミュージック特有のピュアなノイズの残滓が抽出され、極めて官能的なノイズが煌いているからだ。〈タッチ〉からリリースされたトーマス・アンカーシュミットと同じく、まさしく2014年型の電子音楽/ノイズ作品の魅惑が圧縮された傑作と断言してしまおう。
 圧縮されたコンセプトを急速解凍するエクスペリメンス・エレクロニクス・ノイズの魅惑。まさに電子音フェティシュのマニア必聴のアルバムである。

mn - ele-king

 大友良英によるニュージャズ・プロジェクトをはじめとした国内外の即興音楽や、廃盤となった音源の再発、秘蔵音源の発掘など、数々のマイナー音楽を世に問うてきた気鋭のレーベル〈ダウトミュージック〉。その主宰者である沼田順が、非常階段やインキャパシタンツなどでノイズを駆使したラディカルな実践を続ける美川俊治とともに結成したユニットmnによる、ファースト・アルバムとなる『無理難題』が、同レーベルよりリリースされた。かつて「私は演奏者でも評論家でもなく、レーベル運営者である」とまで言っていたオーナーが自身の演奏を発表するというのは禁じ手にみえるかもしれないが、音楽活動というものを幅広い視野で捉えるならば、主宰者がその意向に沿った音楽を送り出すことは至極当然の試みであろう。いわば沼田の音楽に対する批評眼や選別眼が、聴こえる音として具現化されたのである。とはいえノイズを用いた即興演奏による本作品は、広く音楽業界に対して雑音を鳴らしつづける〈ダウトミュージック〉の、その内部における雑音とも捉えることができ、このレーベルがひとつの転換期を迎えていることを示唆しているようでもある。

 聴かれるように本作品においては、美川による電子音やサンプリングを用いたエレクトロニクス・ノイズと沼田による主にギターを用いたノイズが、それぞれ左右のチャンネルにわかれて収録されている。デュオという最小単位での共同作業において、このように各々の仕事が明確に分かたれているということは、演奏者のみならず聴取者であるわたしたちにとっても、いま鳴らされた音が誰によるものなのかという帰属先を即座に認識することを可能にしている。音の掛け合いはまるで「おしゃべり」するかのように繰り広げられており、沼田がノイズを出すと、それに美川が応答し、さらに沼田が返答し、あるいは話題が尽きたのだろうか、しばしの沈黙があたりを包む。この即興によるやりとりの緊迫感は、とくにノイズによって行われる場合、両者の出す音が渾然一体となっているならば、エクスタティックな解放感へと変わるだろう。そしてふたりはこのことを十全に理解しているのであって、最後のトラックでは、わかれたチャンネルが収束し、雪崩のような轟音の渦が聴取者を襲う。この瓦解の瞬間が本作品の白眉であるといっていいだろう。

 本作品はノイズ・ミュージックと呼ばれるもののひとつである。ノイズとはひとまずは楽音に対する雑音であり、静寂に対する喧噪であるといえる。それは音の質感に関わることであって、音の無形性や過剰性を表すものだ。だがポール・ヘガティも言うように、ノイズとは徹底的な否定性でもあり、秩序や規範に対する終わりのない侵犯行為を表してもいるだろう。かつては音の質感としてのノイズが、そのまま否定性を意味することができた。しかしノイズの正統性が形成されるにつれて、ふたつの意味は乖離し、いまや質感としてのノイズが肯定性のもとに謳われている時代である。だからわたしたちはノイズ・ミュージックに権威的な価値判断を下すことができるようになっている。この倒錯的な現状にあって、質感としてのノイズを用いた否定性の顕現はいかにしてなされ得るのか。この解決不能な難問に、沼田と美川は真正面から立ち向かう。美川俊治というノイズの「正統性」を担保にしながら生み出された彼らの音楽は、ならば何に対する否定性であるか? それは〈ダウトミュージック〉それ自体ではなかろうか。思えば演奏家として、大友良英とノー・プロブレムというバンドを組んでもいた沼田が、これまで自身の音楽をレーベルに並べてこなかったのは不思議なくらいである。無問題から無理難題へとすがたを変えて、あらゆる音楽を世に問うていこうとする沼田の覚悟が、本作品からは滲み出ている。

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 今回のワールドカップには、これまで感じたことのない異様な感覚が漂っている。たしかにワールドカップは、過去、生臭い政治にまみれることはたびたびあった。軍事政権下でのアルゼンチン大会のように、プロパガンダとして利用されることもあった。南アフリカ大会での反対運動も記憶に新しい。が、それにしても、おそらく、この地球上でもっともフットボールを愛している国、この地球上でもっとも華麗なフットボールをものにしている国──と世界中で思われてきた国──のなかで開催を反対する人たちが追い詰められた挙げ句の直接行動を起こし、落書きし、そのことが長く、そしてこれほどまでに顕在化するというのは、やはり、昔のように無邪気にワールドカップを楽しむということができなくなった時代の本格的な到来を意味しているのだろう。ロマーリオ(フランス大会のとき、デプス・チャージは彼を讃える12インチを出している)のように、現在の反対運動に共感を示している元セレソンもいる。もっとも、FIFAだけの仕業でもないし、本当に異様な感じだ。

 インガ・コープランドと呼ばれている女性の音楽は、こうした世界の異変を察知しているもののひとつだ。2010年、彼女とディーン・ブラントと呼ばれている男性とのふたりによるハイプ・ウィリアムス名義のアルバム・タイトル──『人が礼儀を捨てて、現実に目覚めたときに何が起こるのか見極めよ』は、いろいろな意味に解釈できるが、ひとつ言えるのは彼らが何らかの異変/乱れを感じて、それを伝えようとしていたことだ。
 また、彼らは、この高度情報化社会における錯乱を嘲るかのように、「ハイプ・ウィリアムスとはジェス・ストーンのサイドプロジェクトである」というホラ話を流し、自分たちは元八百長ボクシングの殴られ屋で、元アーセルだととか、虚言とケムリで人びとを煙に巻いていたことでも知られている。リスナーは、たんなる電子音以上のものをハイプ・ウィリアムスおよびディーン&コープランドの作品から引き出したわけだが、そうした「読み」がなかったとしても、彼らの作品にはサウンド的な魅力があった。何にせよ、彼らの来日ライヴの強烈な体験がいまだ忘れられない僕がインガ・コープランドのソロ・アルバムを聴かないわけがないのである。ディーン・ブラントとの謎の分裂(?)と、昨年の2枚のソロ・シングルのリリースを経て、彼女はつい最近アルバムを発表した。フィジカルはレコードのみで、レーベル名はない。名義は、彼女の名字だとされている、コープランド。

 ディーヴァとしての歌モノ路線というか異色のシンセ・ポップ、さもなければエクスペリメンタル、ざっくり言って彼女にはふたつ道があったが、本作で選んだのは、前者を装った後者であり、後者を取り入れた前者だ。
 エクスペリメンタルというのは曖昧な言い方だが、来日ライヴを見ている方にはあの凄まじい演奏の延長だと言っておこう。逃した人には、インダストリアルでもテクノでもハウスでもない、つまり焼き直しではない、新しい何かを目指した意欲作だと言っておこう。そう考えるとハイプ・ウィリアムス名義による、ダブの残響音のみで作られたかのようなあの音楽は、根無し草的なディーン・ブラントのソロを聴く限りは、インガ・コープランドが大きな役割を果たしていたのではないかと思えてくる。

 今回は、アクトレスがサポートしているのも大きいだろう。実際のところ、音的にはアクトレスの諸作、そしてアントールドのアルバムが思い浮かぶ。とはいえ、ノイズからはじまり、きぃぃーーーーんと、鼓膜を攻撃するような、危険な周波数のトーン(まさにあのときのライヴで発信されていたトーンである)が重なるこのアルバムは、ある意味では彼らの作品以上に挑発的で、耳障りだ。
 その高周波数音だけがきぃぃーーーーんと残され、音がピタッと途切れた瞬間にアクトレスが全面協力した“若い少女へのアドヴァイス”という曲が続く。この、アルバム中もっとも悲しい曲で、コープランドは都会で暮らす少女に向かって語りはじめる。「部屋を出て街に出るのよ/ロンドンはあなたの死ねる場所?/欺かれたときにはどんな感じがするの?/少女は何をすればいいの?/この街はあなたのものなの?」──こうして、アルバム・タイトルの『何故なら私にはその価値があるから』という、昨年のシングルと連続する自己啓発めいた言葉は反転され、前向きとされる未来への違和感が立ち上がる。

 実を言えば、最初このアルバムを聴いたときには、不完全で、焦点のぼやけた作品に思えたが、聴いているうちにどんどん音楽のなかにのめり込んでしまった。皮肉屋の作品だとも混乱を弄んでいるとも思えないし、間違っても社会派の作品ではないが、社会の異変に関わりを持っていることはたしかだと思えるのだ。また、たとえ音楽に曲名(言葉)がなくても惹きつけられるものがあり、彼女のエモーションを感じる。
 B面1曲目の“Fit 1 ”は、美しい平穏さと抑揚のない彼女の歌と緊張感、そして素晴らしいベースラインの、ポスト・ダブステップの先を見ているリズムがある。B面の最後から2番目の曲が、これまで彼女がシングルで披露してきたシンセ・ポップで、曲名は彼女の名前だとされている“インガ”。思わせぶりの曲名だが、自己主張の感覚はない。その曲では、彼女にしてはヒネりのない言葉、ひとつの真実──「私たちがすべき重要なこと/すべては数字が審査する」──が歌われている。さて、僕は家に帰ってニュースを見よう。今夜は早く寝なければ。なにせ明日の金曜日は早朝に起きなければならないからね。

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