「Noton」と一致するもの

 6月に入り、ニューヨークはイヴェントで目白押し。





 まずはいま、ブルックリンでいちばん面白いアート・エリア、ブシュウィックで、「ブシュウィック・オープン・スタジオ」が、6月第一週末に開催された。
 アーティストのスタジオを、その週末だけ一般開放して、スタジオを見学をするイヴェントである。ブシュウィックには数えきれないほどのアーティストがスタジオを構えているので、場所によってはミュージック・ショーがあったり、ヴィデオ上映会があったり、ライヴ・ペインティングがあったり、盛りだくさんなのである。
 たくさんあるので、案内所として、いくつかのハブ・スタジオがあり、そこで地図やインフォをもらい、オススメを教えてもらえる。駅でいうと、3、4離れて固まっているので、プランをたてて行動するのが良い。デタラメに行っても、そこそこ面白いものが見れる。みんなフレンドリーで、アーティストと触れ合えるし、フリードリンク、フード、見る物満載、楽しい週末イヴェントである。
 私がチェックしたのは、デカルブ・アベニューとブロードウェイの角にある「ロード・サインズ」。道の角に、大きなサインが作られていて、サインの先には、このサインを作ったアーティスト(スコット・グッドマン、サキ・サトウ)も含む10人ぐらいのアーティストのスタジオ「1100broadway」があり、その近所の「ブルックリン・ウェイ・フェアーズ」にもお邪魔した。友だちの家に来たかのようで、スナックなどが持ち寄り。アーティストの作品は、ドローイング、ペインティング、彫刻、クリスタル、ボトル、ヴィデオ......などなど。作者は、気軽に作品について説明してくれる。

 同じ週末には、「ブルックリン・フィルム・フェスティヴァル」のキックオフ。ニューヨークでは、次々とフィルムフェスティヴァルが開催されるが、有名所では「トライベッカ・フィルム・フェスティヴァル」がある。私が個人的に好きなのは、監督の顔が見える、インディ感漂うフェスティヴァルで、「Res fest」(レス・フェスト)、「ニューヨークUFF」(ニューヨーク・アンダーグラウンド・フィルム・フェスティヴァル)、「BFF」(バイスクル・フィルム・フェスティヴァル)などが印象に残っている。
 今回のブルックリン・フィルム・フェスティヴァルも、私の心を動かすインディ・フェスティヴァルである。アメリカ、ロシア、イタリア、トルコ、スペイン、ドイツなどの映画が集まっているのだが、監督やロケ地、ストーリーなどが、ブルックリンに関連していて、ブルックリンが映画の中心であることをアピールし、インディの映画制作、アーティストの素晴らしさ、アーティストの創造の自由を促進している、ブルックリンから世界に発信するフェスティヴァルだ。

 こちらがトレーラー。






 このなかからひとつ、「lefty loosey righty tighty (レフティ・ルージー・ライティ・タイティ)」をピックアップする。
私が昔働いていた音楽オンラインショップで、現在働いていて、私のレーベルの物もいつも扱ってくれるパトリックが脚本を書いたというので、個人的にも親近感をもっていた。
 ストーリーは彼と同世代の典型的なアメリカ人30代男の生活、その恋愛模様が描かれている。3人の友だちが、これまでのバブルの崩壊を悟り、歳を取るごとに直面する自分自身や生活の変化のなかでドラマは繰り広げられる。
 撮影場所はブルックリンのパークスロープ。ここは、ブシュウィックとは対象的な、家族が住む地域で、ストローラーを押したお母さんを良く見かける。エッジさはないが、別面のブルックリンという感じが伝わる。
 ブルックリンと言っても、とても広く、インディ・ロック界でいうブルックリンはウィリアムスバーグ、ブシュウィック、グリーンポイント辺りなので、機会があれば、他の地域も紹介していきたい。例えば、どこに住んでいるの? と聞いてブシュウィックというと、「ああ、ミュージシャンかアーティストなのね」と、パークスロープと言うと、「ああ、落ち着いてるのね。子供がいるの?」などと、会話がはじまる。地域ごとに「顔」がある。

 さて、席は100席もなかったが、ほとんど埋まっていた。監督が言うには、DIYでどこまでできるかがテーマで、脚本家、俳優、映画音楽(ミュージシャン)、いやいや、お客さんもほとんどが彼の友だちだったかもしれない。見に来ている人は登場人物が経験していることを自分と照らし合わせ「ああ、わかるわー」という、共感を楽しんでいるように思えた。
 日本人の私から見ると、30代の微妙なお歳頃のアメリカ人が作った、ローカル感満載の映画で、「まったくアメリカ人はルーズでイージー(良い意味で)」と、表面的に思えるのだが、そのなかに見える登場人物の、微妙な心の動きや葛藤には、共感できるものがある。
 結局この映画で伝えたかったメッセージは、特異性を越え、生活を混乱させ、壮大で恐ろしい現実に自分の心を開いていくことだろう。ちなみに映画の最初に出てくる制作者のクレジットが、デリのサインを使って表され(つまり、かなりニューヨーク的)、オーディエンスにもしっかり受けてたが(拍手まで起こった)、ただこれは、アメリカの地方に住んでいる人にも理解し難いかもしれない。日本で言うと、町の商店街のサインを使って、名前を載せるという感覚なのだが、そのユーモアのセンスが、ここにいるからわかるという限定的なもの。笑いは、世界共通で有りながらツボは違う。上映後の監督への質問には、これでもか、というぐらい質問する(的外れな質問でもお構いなし)。

 もうひとつ見た映画は、「Cat Scratch Fever(キャット・スクラッチ・フィヴァー)」。こちらはルームメイトで親友のふたりの女の子が主人公、彼女たちは自分たちの生活を別次元の世界で見れることを発見する。そう、現在の生活とテクノロジーの数えきれない可能性の暗喩でもある。 こちらも、ストーリーからロケーションからとてもDIYで親近感を感じた。いずれせによ、これもまた、今日的なテーマである。

 話しは飛ぶが、たまたま見つけたこのプロモ・ヴィデオ(https://news.aol.jp/2012/06/04/italian-supermarket-lip-dub_n_1537380/)、イタリアの生協のスタッフが、オープン記念で作っているのだが、素人でここまでできるのは、イタリア人の血筋(ジェスチャーに長けている国民)なのか!

Traxman - ele-king

 8歳といえば、日本では小学2年生だ。シカゴのトラックスマンは、小2か小3のときにDJをはじめているという。早熟というには度が過ぎているように思えるが、ブラック・コミュニティではそれだけDJの地位が高いのも事実だ。子供にとっても憧れの存在。うちの子供はいま7歳だけれど、家に2台のターンテーブルとミキサーがあっても、はっきり言ってまだDJという存在すらよくわかっていない。この文化に触れさせるため、メタモルフォーゼに連れて行ったりとか、自分なりに努力はしているが、これは僕の教育の問題ばかりでもないだろう。日本社会全体として、まだDJの地位が欧米にくらべて低いのだ。
 たとえばデトロイト・テクノの連中は、毎年8月に、デトロイト川に浮かぶベルアイルという島で、子供のためのフェスティヴァルを開いている。デリック・メイ、UR、ムーディーマン、ホアン・アトキンス、テレンス・パーカー......ビッグネームたちがみんなで協力しあっている。今年ですでに7回目で、小学生たちにDJカルチャーとテクノ/ハウス・ミュージックの面白さを伝えているのだ(入場料もたしか1500円ぐらい)。8歳の子供がローランドのシンセサイザーに興味を持って、ラップトップと同時にターンテーブルとミキサーを操れたとしても不思議ではない。

 トラックスマンにとっての最初のアルバムは、ベテランDJだけあって、『フライト・ミュージック』にくらべて洗練――この言葉ほどフットワークに似合わないものはないけれど、敢えて言えば――洗練されているように聴こえる。おそらくは本能的に生まれたであろうフットワーク/ジュークのリズム・パターンを対象化し、咀嚼しているのだ。曲によってはメロウなサックスやソウル・ヴォーカルまでミックスされている。それが違和感なくまとまっている。
 日本盤のライナーにはトラックスマンのインタヴューが載っている。面白いのは、彼がフランキー・ナックルズやロン・ハーディの時代のことを知っていることだ。たしかに『ダ・マインド・オブ・トラックスマン』には、ディスコからハウスへの時代の記憶がある。そして、フットワーク/ジュークの高速ハイハットやスネアからはずっと遠い昔のジャズのドラミングの記憶を喚起させる。そういう意味でこのアルバムは、殺気立つフットワーク/ジュークの攻撃性、DJダイヤモンドの『フライト・ミュージック』における破壊的な展開とは別の方向性を見出している。マッドリブめいたループ使いもあるし、ジェフ・ミルズのようなストリングスもある。ゲットー・ハウスならでのファンクネスがあり、伝統的なブラック・ミュージックとしての光沢がある......また、何よりもここには控えめながら性的衝動がある。そう、ディスコ/ハウスの記憶どころではない、現在進行形の衝動である。エロティシズム......、これもまたゲットー・ハウスからフットワークに受け継がれた重要な遺伝子だ。
 もちろん『ダ・マインド・オブ・トラックスマン』はフットワークのアルバムだ。ループするソウル・ヴォーカルの向こう側で、メロウなジャズのサックスの傍らで、激しい倍速のマシン・ビートが、分解されて鳴っている。アルバムのところどころで、盟友DJラシャドほど露骨ではないにせよ、性へのほとばしりも顔を出す。8歳が聴くにはまだまだ早いが、あと5年も経てば毎日聴いているはずだ。

Neu! - ele-king

 「NEU!――その大文字と感嘆符、アート・ポップ・スローガン。労苦や障害を破壊するかのようだ。2、3分後、退屈なセットが歌い出す。唐突に何かがクリックする。目的地を持たない旅。実にファンタスティックなダンスビート、上機嫌な音、純粋に脈打つ推進力、エゴのない悦びの表現、激しく、本能的で、身体的な経験かつトリップ。これがノイ!体験。これを知ったあとでは、伝統的な歌の構造は......平凡で、つまり不要!」
 2009年にUKで出版された『クラウトロック』において、ノイ!はこのように紹介されている。宇川直宏は文章中に、メールでも原稿でも対談でも「!」を多用するが、その源流はノイ!だろう。ノイ!が「ノイ」だったら、やはり寂しい。「ノイ!」は「「ノイ!」なのだ!!!!!!!

 クラウス・ディンガーが東京にやって来たとき、僕はステージを見ながら、「ああ、この人は本当にヒッピーで、純粋なロックンローラーなのだ」と思ったものだった。本作に収録されている"ドライヴ(グルントフンケン)"を聴けばわかるように、ノイ!はもともとはシンプルなロックのバンドだ。バンドのトレードマークであるミニマル・ビートは、ディンガーいわく「自動車を運転しているような気持ち」「どんどん進んでいくような気持ち」を表していることから、モータリック・サウンドと呼ばれているが、この気持ちよさの恩恵に授かっているロック・バンドはいまでは世界中にいる。我が国ではオウガ・ユー・アスホールがそうだ。
 実を言えば僕は、中学生のときにジョン・ライドンがファンだからということで、初めてノイ!のファーストを聴いたものの、これのどこが良いのか最初は理解できなかった。迫力あるセックス・ピストルズのデビュー・アルバム、迫力満点のベースと残酷なギターのPIL、あるいはザ・フォールのニヒルな展開......といったノイ!の子供たちの音楽のほうが親身になれた。ノイ!の「エゴのない悦びの表現」その「上機嫌」な音、その「推進力」を充分に感じ取るには、いろんな意味において、まだ未熟で、狭量で、若すぎたのだ。
 だから1970年代初頭、ドイツのロックを"クラウトロック"とバカにしたイギリスのジャーナリストの気持ちがわかる。グラムやハード・ロックやプログレ全盛の時代においてこのペラペラとした軽さ、なかば間の抜けた空間は、アングロサクソンの高慢で保守的な耳にとっては嘲笑の対象だったのだ。いまとなっては立場は逆転している。コニー・プランクとともに彼らが作ったファーストから『ノイ!75』までの3枚は、今日のインディ・ロックやテクノおける大きな影響、すなわちクラシックな作品として広く認識されている。

 ノイ!とは、ふたりの男の喧嘩の物語だ。セカンドをリリース後にいったん別れ、レコード会社との契約上、もう1枚作らなければならなかったため、ふたたび一緒にやることになったクラウス・ディンガーとミヒャエル・ローターは、パンクの青写真となった1975年の『ノイ!75』の録音途中で結局、喧嘩別れしている。そして、10年後の1985年10月、またしても一緒にドュッセルドルフのスタジオに入って録緒をはじめている。が、1986年になってもそれは完成しなかった。ふたりの仲はまたしても険悪になり、レコード会社もその事態に関心を寄せず、プロジェクトは消えた......。
 1995年、クラウス・ディンガーが〈キャプテン・トリップ〉を通じてリリースした『ノイ!4』はそのときのセッションの記録だが、のちにミヒャエル・ローターが所有していたマスターテープをエディットし、選曲したものが『ノイ!86』。何曲かは『ノイ!4』と重なっているが、こちらはミヒャエル・ローター主導でリリースされたという点がミソである。
 ローターはそもそも、アンビエントな方向性への関心が深まって、ディンガーから離れて、1973年、クラスターのふたりと一緒にハルモニアを結成している。ハルモニアの素晴らしい2枚のアルバム、そして『ノイ!75』のA面の3曲とそれ以降のソロ作品を聴けばわかるように、この頃の彼は穏やかさ、メロウな感性に向かっている。
 しかし、ローターが2010年に監修した1986年の録音物は、紛れもなくディンガーとローターふたりのノイ!だ。上機嫌なモータリック・サウンドは走り、ところどころでディンガーの野性味もよく出ている。"クレイジー"はパンク・ソングの"ヒーロー"(『75』収録)の再現のようだし、"ドライヴ"は歴史的名曲"ハロガロ"(ファーストの1曲目)の発展型だ。"エラノイツァン"のようなアンビエントもある。
 そのいっぽうで、"ウェイヴ・マザー"のような陽気なジョイ・ディヴィジョンに聴こえる曲もある。"デンツィン"や"ラ・ボンバ(ストップ・アパルトヘイト・ワールドワイド!)"のようなシンセ・ポップは笑えたが、"ユーフォリア"にいたってはほとんどニュー・オーダーじゃないかという......当時のニューウェイヴを強く意識している。
 美しくも幸福な"ノーヴェンバー"を経て、そして『ノイ!86』は、"KD"の豪快な酔っぱらいっぷりで終わる......"KD"とは当然クラウス・ディンガーのことだろうが(彼は2008年に死んでいる)、彼はそういう人だった。大酒をかっくらって、ギターを抱え、「バーバールッバー!」をわめいている人だったのだ。結局、それがノイ!の最後のメッセージとなった。
 あらためて言えば、ノイ!とは水と油が同居した奇跡的なバンドだった、そうした奇跡的な、必然とも偶然とも取れる混乱こそ、強度のある音楽を生む、セックス・ピストルズのように。僕はいまでも"ハロガロ"を聴くと気持ちが舞い上がる。

Ursprung - ele-king

 サード・アルバム『ブラック・ノイズ』で叙情派ミニマルのトップに躍り出たパンタ・デュ・プリンスが、古巣に戻って、同作にも参加していた写真家でワークショップのメンバーとしても知られるステファン・アブリーと新たに結成したミュージック・コンクレート-ミニマル・テクノ-クロスオーヴァーの1作目。ユニット名は「起源」を表し、アルプス山中で何度かセッションを繰り返し、自分たちでも「なんだろうね、これは?」と思うようなものが出来上がったという。ワークショップはちなみにマウス・オン・マースの運営するゾーニッヒから6作目と、いまのところ最後となる7作目をリリースしているクラウトロックの「はぐれ雲」。元はといえばパンタことヘンドリック・ヴェーバーが10年前に、まだハンブルグでステラというシンセ-ポップのユニットに加わっていた頃、ワークショップとは〈ラーゲ・ドー〉(ラドマット2000のサブ・レーベル)のレーベル・メイトだったことがふたりを近付けたらしい。

 鈴を転がすような柔らかい音が特徴的だった『ブラック・ノイズ』に対して、ウーシュプルンクは人を寄せ付けない緊張感のある音に支配され、なるほど「ギターをメインとしないドゥルッティ・コラム」というレーベルのアナウンス(https://www.kompakt.fm/releases/ursprung)もそれなりに頷ける。それこそフェネスやティム・ヘッカーなど、快楽的な音から遠ざかりはじめたゼロ年代初頭のエレクトロニカともオーヴァーラップするところが多く、このところヴォルフガング・フォイトが勢いを取り戻している感覚とも符号は合う。快楽主義に水を差すような動きは、レイヴ/テクノは何度も経験してきたことだし、結果的にはそれがダンス・ミュージックの幅を大きく広げてきたことも否めない。ハード・ワックスがはじめたダブステップのレーベル、〈ヒドゥン・ハワイ〉ではAnDがノイズ・ドローンに最小限のリズムを足すことでダブステップを成立させる試みなど、フォーマットの更新は常におこなわれている(ちなみにヴェーバーは2010年からゲイズ名義でノイズ・カセットを3本リリースしている)。

 とはいえ、『ウーシュプルンク』の85%はまだミニマル・テクノの範疇に収まっている。異様な物音にエレクトロのリズムが打ち込まれ、ギターのアルペジオが乱舞する「リジー」など、ややこしいことこの上ないにもかかわらず、観たこともない景色に連れ去られる感覚はレイヴ・カルチャーの王道からそれほどズレているとはいえないし、不安を煽るようなベース・ラインとシンセサイザーの合唱が異様なほど気分を左右する"ナイトバーズ"、多種多様なSEがこれでもかと詰め込まれた"イークソダス・ナウ"......と、繰り返し聴いていると『ブラック・ノイズ』からそれほど離れた作品ではないことが少しずつわかってくる。『ブラック・ノイズ』はいささか完成され過ぎたアルバムだったし、ひとりでは破れなかった完成度という名の壁をアブリーの力を借りて破壊したというのが実際のところではないだろうか。クラシック・ピアノと波の音が混沌としたイメージをつくりだすエンディングはあまりに荘厳で、彼(ら)なりの大袈裟なカタルシスの表現とも受け取れる。

Beach House - ele-king

 歌はつねにパフォーマンスであり、歌の言葉はつねに声に出して発せられる――声を運ぶものなのだ。(略)歌は詩よりも劇に近い。(略)
 ポップ・ソングでは、明瞭さではなく不明瞭な発声が歓迎される。そしてポップ歌手の価値は、歌詞にではなく、サウンド――歌詞にまつわる雑音――にかかっている。日常生活では、もっとも直接的で強烈な感情の表現は、あえいだり、うめいたり、笑ったり、泣いたり、などなどの、たんなる雑音と関わっている。感情の深さや真正しさは、言葉を見つけられないことによって計られる。「怖い」とか、「愛している」のような言葉になった表現だけでは、説明しようとしている心の状態には不適切に思えるのだ。これこそが歌がうたわれる第一の理由だ。そして、日々の生活で人びとは、雄弁家、女たらし、政治家、セールスマンなど、多舌の才に恵まれた人に不信を抱く。詩的であることでなく、不明瞭さこそ、ポピュラー・ソングの作詞家の誠実さの徴なのだ。
      サイモン・フリス『サウンドの力』(細川周平、竹田賢一訳)


 ヴィクトリアの歌は、まさにそのパフォーマンス、その不明瞭さにおいて圧倒的な生命力を持っている。彼女の声は中性的で(二コやマリアンヌ・フェイスフルの系譜)、そして実にありふれた、たわいものない主題を、しかし力強い、何か特別なものに変換する能力を持っているのだ。
 重厚なストリングス・サウンドがその感情の起伏をうまくサポートする。『ティーン・ドリーム』が出た2010年の1月、個人的に人生の崖っぷちに立っていた時期でもあってので(まあ、つねにそうだとも言えるが)、僕は新幹線のなかで、流れる景色を追いながら初めてそのアルバムを聴いたときに、おそろしく深い感動を覚えたのである。ポップにおいては「何が歌われるかではなくいかに歌われるか」が重要だというサイモン・フリスの分析は、我々日本人が長いあいだ洋楽に親しんでいることの根拠でもある。だからといって、『ティーン・ドリーム』を『ラヴレス』と比較しようとは思わないけれど。

 とにかく、『ティーン・ドリーム』はドリーム・ポップの代名詞となった。『デヴォーション』の薄明かりの憂鬱は、"浜辺の家"というバンド名のちょっとした逆説の延長線上にあったに過ぎなかった......が、『ティーン・ドリーム』は海から遠く離れて、いわば夢のなかを自由に歩くソウルだった。自分の感情を抑えずに行動することが自由と呼べるのなら、ビーチ・ハウスの3枚目のアルバムにはそれを誘発する力がある。"ゼブラ"、そして"ウォーキング・イン・ザ・パーク"......これらある種凡庸な主題も、しかしヴィクトリアの歌とストリングスによって、不明瞭さのなか、何か別の意味をふくらませるのである。
 我々がラヴ・ソングを好むのは、動物的な本能から来る性愛もさることながら、愛の告白にマニュアルがないように、求愛という行為が創造的でなければならないからだ。優れたポップスはときとしてそうした生活のなかの創造を後押しするものだが、2010年において『ティーン・ドリーム』はその行為におけるエースだった。最強のカードであり、切り札だった。鳴っていたら耳に入ってくる音楽であり、大衆操作や商業的戦略に支配されたポップスを本来の無垢な姿に戻すという意味においても、それは正真正銘のドリーム・ポップだった。

 買ってからまだ10日ほどしか経っていない現時点で、『ブルーム』を批評するのは難しい。基本的には『ティーン・ドリーム』の方法論の焼き直しと言える。たしかに魅力的なドリーム・ポップではある。憂鬱やためらい、それら説明しづらい感覚は、"神話(Myth)"や"時間(The Hours)"といったビーチ・ハウス節と呼べる曲からズキズキと伝わってくる。"野生(Wild)"の気だるく甘美なメランコリーも自然と耳に、いまもなお、無垢に入ってくる。彼らは自分たちの良さをわかっているし、おそらく、ファンの期待にも応えているのだろう......が、完成度という点で前作を上回っているとは言い難い。
 『ブルーム』の重大な欠点をひとつ挙げるなら、センチメンタリズムの王道が少なからず混在していることだ。とくに"他人(Other People)"のような、テレビのコマーシャルにでも使われそうなほどのMORには違和感を覚える。いわゆる「前作以上にポップになった」というクリシェで説明されるのだろうが、たんなる迎合的なメロディにも思える。
 とはいえ、まあ、たとえば1枚のアルバムを買って、そのなかに3~4曲、胸がときめくようなポップスがあれば充分に満足できるのであれば、『ブルーム』は間違いなく良いアルバムだ。2曲であれば先に挙げた"神話"と"時間"。3曲であれば"アイリーン(Irene)"。俗事におけるささやかな夢が待っている。夜、街が静かになったときに再生しよう。

Turntable Films - ele-king

 ボン・イヴェール(というかジャスティン・ヴァーノン)を見るために今年は珍しく真面目にグラミー賞を見ていたのだけれど、いざ受賞して本人が出てくると、それはやはりどこか妙な光景だった。ヒゲ面の普通の、いや、地味めの青年が述べたスピーチで印象的だったのは、「自分はこの会場に縁のないようなミュージシャンでも素晴らしい才能があるひとたちを知っているから、彼らに感謝を述べたい」という部分と、「ウィスコンシンのオー・クレアのみんなに感謝」した部分だった。『リーマン・ショック以降のUSインディ』で書いたことの続きとして述べるならば、それは現代のアメリカで市井に生きる人びとのネットワークの充実がグラミー賞のような権威の場で、しかし権威とは無縁のまま可視化された瞬間だった。

 京都を拠点とするターンテーブル・フィルムズのフォーク・ロックは、間違いなく昨今のUSインディにおけるフォークやカントリーの充実とシンクロによって生み出されたものだ。しかしたとえば、バンドの最大の影響元であるウィルコが宿命的に追っているような重さや痛切さはここにはない。土臭さもない。むしろ洒脱さや軽やかさこそが魅力となっているこのデビュー作を聴いていて僕が思い至ったのは、シンクロしているのは音楽性よりも、経済とは別の場所で豊かであろうとするアティチュードそのものではないかという考えだ。
 とはいえ、ターンテーブル・フィルムズの音楽はアメリカのフォークやカントリー、ブルーズからの直接的な影響を受けている。デビュー作となる『イエロー・イエスタデイ』にもそれはしっかりと刻まれていて、何よりもアコースティック・ギターの音の響きが非常に丁寧に鳴らされているし、鍵盤打楽器やフルートを使った音色の多彩さにしてもそうだろう。しかしながら、USインディといってもヴァンパイア・ウィークエンド辺りを連想させるような軽妙なポップネスや、クラウトロック調の"アニマルズ・オリーブス"のサイケデリアやダンサブルな"ゴースト・ダンス"を聴いていると、ここには影響元から少し距離を置こうと腐心した跡が見受けられるように思えるのだ。言い換えるならば、いまもアメリカのフォーク・ミュージックが背負う「アメリカの物語」から。結果として、ここにはたとえばフリート・フォクシーズの潔癖さを伴うコミューナルなフォークとはまた別の文脈にある、京都の若者が鳴らすポップスが存在している。
 つまり、これは自分たちのことを「ターンテーブル」「映画」と名づけたバンドがそのアイデンティティを確立した作品だ。海の向こうで生まれた豊かな文化と物語を、あくまで自分たちの生活する場所で味わうこと。アメリカの若い世代が発掘したカントリーやフォークを自分たちの時代を背景として更新したように、ターンテーブル・フィルムズは海外で発見した音楽をその豊かさを損なわないままに、しかし遠慮せずに翻訳する。何しろ「恋をしなくちゃ」という言葉で始まる本作には、期待や不安、苛立ちや退屈といった日常の些末な感情が表れては消えていく。それらには洒落た言葉と音がつけられ、全編がクリアな発音の英語詞でもって甘いヴォーカルで歌われる。「(夏のドラッグの)効き目の切れた今日に、僕らは終わってしまったね」"サマー・ドラッグ"......たとえばそんな風に呟かれる夏の終わりの感傷。そのあくまで清廉とした佇まいは、大阪の雑然とした街に慣れている僕としては......いやきっとそうでなくても、京都の街の瀟洒さが産み落としたものだと思える。アメリカを経由した、京都訛りのフォーク・ミュージックである。ボン・イヴェールが自らの孤独をウィスコンシンの冬の風景に託したように、ターンテーブル・フィルムズはこの国で生きる青年たちの日常を鴨川沿いの風に乗せている。

 70%の20代が現状に満足していると言われても、30%どころかつねに1%ぐらいの感覚で世のなかとズレて隅っこで生きている僕のような人間には正直まったくピンとこないわけで、だから自分にとっては、たぶんに取るに足らない普通の青年たちの日常を精一杯の輝きを乗せて歌っているという点で、ターンテーブル・フィルムズは「自己充足」なんて矮小な価値観を軽やかに後にしているように感じられる。ここでは想像力と好奇心は海の遥か向こうまで広がり、だけど心はいま目の前ではじまりそうな恋に向かって動いている。

Madalyn Merkey - ele-king

 圧倒的に女性ファンが多かったグルーパーと、背の高い男ばかりが目立っていたマーク・マッガイアのライヴを続けさまに観て少し考えるところがあった。これまで2007年がドローンのピークだと何度か書いてきたものの、それはダブル・レオパードやイエロー・スワンズに代表される男性的な傾向=音圧を高めていくことに拘泥してきた流れが臨界に達したのであって、この1~2年はモーション・シックネス・オブ・タイム・トラヴェルやセラー、あるいはポカホーンテッド以降は加速度がついてバーズ・オブ・パッセージにノヴェラー、さらにサトミ・タニヤマやジュ・シ・ル・プチ・シェヴァリエと、腕づくではないフェミニンな変奏に力点が移っていたのだと(セラーはDJヨーグルトにコラボレイトを持ちかけてきた直後にダニエル・バケット-ロングが死亡)。なかでもグルーパーは『エイリアン・オブザーバー』でもっとも美しいモーメントをつくり出し、バーニング・スター・コア『オペレイター・デッド...』でピークを迎えたある種の強迫観念からは完全に脱却したことが伝わってくる。『ドラッギン・ア・デッド・ディア・アップ・ア・ヒル』(裏アンビエント190)から3年も間を空けたということは、そのような時期が来るのを待っていたということだったのではないだろうか(『ワイド』の頃はもっとヘヴィだったし、ダブル・レオパードやダイアモンド・カタログとそれほど変わるところはなかったのだから(ダブル・レオパードの中心人物は女性で、男性的な傾向を示すサンドラ・イレクトロニクスや初期のUSガールズなども、それはそれで格好いい)。

 そのようなフェミニンな価値観のなかでひと際、異彩を放っているのがシカゴのメデリン・マーキーだろう(正確にはマダリンとメイデイリンの中間の発音)。陽光を思わせる柔らかさだけでなく、彼女がとくにユニークだと思うのはイーゼングランのようにアコースティック楽器を増やしたりするわけではなく、手法自体はノイズ・ドローンをそのまま踏襲しているにもかかわらず、これまでとは正反対の効果を引き出したことにある。簡単にいえば「テンションを持続させること」=ドローンだという思い込みから解放されて、むしろテンションをぶつ切りにし、間に多くを語らせ("ネプチューン")、サンソ-クストロのように牧歌的なパーカッションを導入したり("ネクサス")、かつてはグルーパーもダイアモンド・カタログのリミックスで試していたやり方で、アンビエント・ドローンにスクリューをかましたり"サイレン")、ミニマルとのクロスオーヴァーさせるなど("マルチ")、実に発想が自由自在。『香り』と題されたファースト・アルバムには彼女のフロント・ラインが詰め込まれ過ぎていて、僕もその特徴を理解できるまでに少し時間がかかってしまった(彼女が従来のアンビエント・ドローンの作り手としてどれだけ優れているかは、"F2"(https://soundcloud.com/cyndi/inertia)をダウンロードして確認して欲しい。モーション・シックネスの"オート・サジェッション"と互角かそれ以上のできだと思う)。アフリカ系だという情報もあって、定かではないけれど、裏ジャケットではオカッパ頭の白人女性が右手でコードの端末に触れ、左手で花びらに触れているという象徴的な構図が実に印象的。

 そのような変化を敏感に察知したデザインだと思わせたオモーリー&レウバーグによる5作目は、しかし、グルーパーやメデリン・マーキーを聴きなれた耳にはやはりとんでもなくヘヴィで、久しぶりに...胃にもたれてしまったw。かつてほどパラノイアックではなく、いい意味で散漫になり、地面を這いつくばろうとする意志の代わりに、虚無感だけがひたすら増幅される。初期作のようにどこかに向かって動き出す予感はなく、"スタディA"では寂寥としたメロディまで奏でられる。ここ数年で観た映画のなかでは(ラース・フォン・トリーアーよりも)デヴィッド・マッケンジー監督『パーフェクト・センス』ほど終末観が剥き出しになった作品もなかったけれど、"フィル1"や"トニー"が訴えかけてくるものも、基本的には同じような時代のサウンドトラックであることは確か。フランスの大統領選を左右した右翼の存在感、イタリアに続いて秒読みに入ったスペインやポルトガル経済、オランダやシリアの政情不安など、いま、ヨーロッパにいて明るい気持ちになれる訳がないとは思うけれど(つーか、それがヨーロッパ精神の専売特許なんだけど)、ローラン・カンテ監督『パリ20区、僕たちのクラス』やグザヴィエ・ボーヴォワ監督『神々と男たち』を観ても、あらゆる努力が無に帰していく感触は嫌でも伝わってくる。しかし、"フィル2"にはどこか甘美な響きもあって、実のところ、そうした危機感が好きなんだとしか思えない面もあったりはする......

 アナログは初回限定で"スタディB"から"E"を収めた12インチ・シングル(アルバムのメイン・パートから外したのもわかるほど、情緒的なノイズ・ドローンで埋め尽くされ、スロッビン・グリッスルやSPKではもはやこの世を憂うには不足だということがこれでもかと印象付けられる)をプラスした3LP仕様。

Dean Blunt & Inga Copeland - ele-king

 真実を言うことだけが音楽の役目なのだろうか......とにかく、まあ、ようやくハイプ・ウィリアムス(映像作家)本人からクレームが来たのかもしれない、ハイプ・ウィリアムスあらためディーン・ブラント・アンド・インガ・コープランド(DB&IC)と、新たな策も考えずにふたりの名をそのまま名乗っているところが、そしてまた、曲名を最初の1曲目のみ付けて、「あとは面倒くさいからいいか」とばかりに、最後の15曲目までをすべて数字にするというやる気のなさを見せながら、『ブラック・イズ・ビューティフル』は傑作だ。アクトレスの新作と並んで、ここ1ヶ月にリリースされる作品のなかでは群を抜いている。

 『ブラック・イズ・ビューティフル』には、諧謔性がある。1曲目の壮絶なドラミングのあとには、拍子抜けするほど軽いシンセ・ポップの"2"が待っている。わけのわからない"3"、Jポップ(相対性理論?)のパロディの"5"、わけのわからない"6"とか"8"とか......リスナーは、ディーン・ブラントの口から吐かれる煙にまかれる。『ワン・ネーション』のドリーミーな感覚とはまた違っている。ディーン・ブラントは、日銭を稼ぐために賭博のボクシングの試合に出てはぶん殴られて負けていたという話だが(負けるのが彼の役だった)、たしかに彼らの音楽は、頭を打たれ、視覚がぶれ、そして記憶が飛んで地面に倒れたときのようである。クラクラして、感覚がなくなり、わけがわからない......。そもそもハイプ・ウィリアムスとしては、"超"が付くほどのローファイで脈絡のない電子音楽を作っているが、『ブラック・イズ・ビューティフル』ではナンセンスがさらに際だっている。彼らにトレードマークがあるとしたら「ごほごほ」と咳き込むループだが、それはスモーキーな感覚というよりも喘息を思わせる。不健康で、だがそれを良しとしている。
 『ブラック・イズ・ビューティフル』は嘘を付いているかもしれないが、誠実なアルバムである。半年後に何が起きてもみんな驚かないでろうこの社会の危うさをものの見事に表しているかもしれない。彼らの意味の放棄は、ツイッターやネット掲示板で見られるタチの悪い虚言、崩壊するマスメディアへのアイロニカルな反応かもしれない。

 『ガーディアン』の取材では、ディーン・ブラントはラップは嫌いでオアシスばかりを聴いていると話している。彼の将来の計画は、レスリングの学校に通っているあいだにデトロイトに行ってレーサーになることだそうだ。「僕は、世界の終わりを恐れることに僕の人生すべてを費やしてきた。そして、僕の10代すべてはその研究のためにあった」と、ディーン・ブラントは『ガーディアン』の記者に話している。「世界の終わりの徴候は、人があまりにたくさんの情報で満たされるときだ」
 それがいまだ。いわゆる"情弱"を差別するデジタル社会のカースト制度への反発心が彼らにはあるようだ。いっさい喋らないというインガ・コープランドは、最近、アーセナルの女子チームの試験を受けたそうである。

The New House - ele-king

 先にはっきりと説明しておくと、本作はパンダ・ベア『パーソン・ピッチ』/アニマル・コレクティヴ『フィールズ』にそ  っ  く  り な 作 品である。ほんとうにそっくりだ。リズム、ハーモニー、ヴォーカリゼーション、クセのあるループ、あたたかいリヴァーブ......ユーチューブには英語で「なぜこれがアニコレじゃないのか?」という感想も書き込まれている。ニュー・ハウスなる東京の5人組、そのアニコレ「的」といった次元を超えてアニコレなファースト・アルバム『バーニング・シップ・フラクタル』を心愉しく聴いた。彼らの方法をめぐっては諸論あってしかるべきところだが、すくなくともこんなフィーリングを日本の音楽のなかに聴けるのはうれしい。いや、結局のところ日本の音楽ではなかったという点にかぎりない惜しさを感じるのだが、ぜひとも大切に蒸留してこれを日本の音楽として精製していただきたいと思う。日本のインディ・ロックの息苦しさから、あるいはなぜかしら一種のエリーティズムに誤解されてしまう日本の「洋楽」受容文化からわれわれを解放してくれるものが、そこにはただよっているのだから。パンダ・ベアからチルウェイヴへとベッドルームを介して流れこむ、あのあかるくアルカイックな、新しいフィーリングが。

 ところで、なぜこれほど堂々とパンダ・ベアでアニコレな音楽をやるのかという疑問をめぐって、筆者には勝手な想像になるニュー・ハウス物語ができあがっている。それは非常に有名なある句を連想したことにはじまる。

船焼き捨てし
船長は


泳ぐかな 高柳重信

 『バーニング・シップ・フラクタル』というタイトルでただちにこの句を思い浮かべた。初句7音の斬り込むような韻律は、焼ける船のすがたを直線のような抽象性をもって鮮やかにとらえるが、よくみればそれはフラクタルで無限的な輪郭を持って燃え上がるのではなかったか......そしてそのばっちりと印象的な像からすこし目をそらすと、むこうには船長が泳いで逃げていく姿。筆者はこの「泳ぐかな」が好きだ。ここで壮絶ながらもどこか滑稽なニュアンスが生まれる。2行あけが船と船長との距離をあらわしているようにみえてくると、あなただって笑うだろう。やがて船長は視界のなかで小さくなっていくはずだ。うける。そこにダメ押しで「かな」とくる。口語であえて訳せば「泳ぐのであるなあ」「泳ぐことよ」「泳ぐのである」だ。うける。大真面目で、シニカルな、しかし冗談のような詠嘆でもって句は結ばれる。いわゆる前衛俳句を代表する、非常に有名な一句である。昭和24年あたりの作品、重信は26歳だ。

 無論ニュー・ハウスが重信の句を念頭にこのタイトルをつけたとは思わない。だが音を聴くにつけ、この連想はなかなかしっくりくるものではないかという思いを深くした。『バーニング・シップ・フラクタル』は「泳ぐかな」の音楽だ。自分で火を放った船から全力クロールで逃げる、逃げる姿が遠方へと消えてゆく。燃やした船とはなにか?

 それは現在のUSインディ・ミュージックだ。ことにパンダ・ベアからチルウェイヴにいたる一大ストリームである。自らにもシーンにもいまもっとも大きな影響をおよぼす対象に、火を放ちたいと彼らは思わなかっただろうか。火を放ってわーっとか言いながら騒ぎ、遊び、それが焼け朽ちていくのを眺めたいとは思わなかっただろうか。あの屈託ないまでにそのまんまパンダ・ベアな音を鳴らすモチヴェーションとしては、筆者にはそれ以外説明がつかないように思われる。

 だがその放火がいたずらレヴェルに終わりかつまったく悪びれる様子がないところがニュー・ハウスの可愛らしさだ。"スモール・ワールド"のけろりとしたたたずまいはどうだろう。"ウォーター・カーシズ"や"ファイアワークス"など『フィールズ』以降のアニコレ名曲にはつきものといえる中抜き3連符のリズムに南国的なコーラスが独特の節回しで唱和し、ループする。これは楽しいにちがいない。"ヒー・ハウルズ"のながい冒頭も遊び心がある。

 木や草や生き物たちのおびただしい息づかいを感じさせる、これまたアニコレ一流のサイケデリックなハーモニーが模倣され、曲名に掛けられたユーモアがたちあがってくる。そして燃やして騒いであとはどうしたものか、逃げちゃえとばかり「泳ぐことよ」、泳いだのである。ちょうど曲名が"ポンド(Ⅰ)"だ。音がやみ、あとに波のたゆたいばかりがのこされたとき、われわれはこの真面目なようでいたずらのようでもある、切実だが可愛げのある、一種のおかしみと愛嬌を思い、破顔するだろう。ここには愛情や敬意とともに彼らなりの引導を渡すべく、おもいきりバーニングさせたパンダ・ベア/アニマル・コレクティヴがある。

 終盤を飾る数曲はその意味では重要かもしれない。"コラージュ・オブ・シーズン"のアンビエントはアニコレよりも淡くかそけき情感をたたえている。和音の色が信号のように一定間隔で置き換わり、小さくカタカタと弦の音が響いてくる中盤からはじっと耳をそばだててしまう。"スパイラル・クラウド"もパンダ・ベア的な歌唱スタイルではあるが、トラック自体にオリジナルな感覚があって、非常になだらかな、繊細な起伏をふくんだ展開をみせる。この淡さこそは筆者が日本のチルウェイヴのなかに期待したいもっとも大きな要素だ。こうした網目の細かい織布のような音で、あらゆる歴史や文化を乾燥させ砕いたあとのような、われわれの顆粒状のエモーションをすくいあげてほしいのである。

Miami Angels in America - ele-king

 本誌5号にてドッグ・レザー(Dog Leather)のインタヴューにも名前があがったボルチモアの男女ふたり組、ノイズ・フォーク・デュオ、エンジェルス・イン・アメリカ(Angels in America)の新作テープは(ナイトピープル)よりドロップ。
 エンジェルス・イン・アメリカのエスラ嬢(Esra)に出会ったのは本誌5号でも触れた昨年のSXSWでのハウス・パーティの夜で、その日はもうホント、マジ混沌を極めていた。いや、たしかにロスからオースティンまでの風景がループしているかのような砂漠を僕のバンドのペーパー・ドライバーのふたりと無免許で無職のフランス人(もちろんハイウルフです)を乗せて18時間の運転を経て、スリープ∞オーバー(Sleep∞Over)やピュア・エクスタシー(Pure X)をサポートし、サウザント・フット・ウェイル・クロー(Thousand Foot Whale Claw)として活動するアダムとマットに到着後はじめて出会ったにも関わらず、快く寝床を提供してくれただけでなく、最高に強烈なウィードを大量に御馳走になり(ニューメキシコ、テキサスはメキシコとの国境がすぐ近くにある事ことあり、検問が厳しいので同ふたつの州では違法であるメディカルウィードをロスから持っていくことを僕は前もってキャメロンとゲドに口すっぱく止められていたので、これは効いた)、ロクに寝ずに次の日遊び回った末がこのパーティだったので、僕の疲労と体内に循環するTHCの量は半端じゃなかったことを差し引いたとしても、この日のパーティは狂っていた。
 集合時間にだいぶ遅れ、〈NNF〉主宰のブリットに軽く怒られながら(僕はこの日自分のバンドのサポート・ギターを彼に頼んでいた)、僕はこの日のパーティに集まっていた連中にあんぐりさせられていた。前日すでに会っていたが、サヴェージ・ヤング・テイターバグ(Savage Young Taterbug)のチャールズが引き連れて来たクルーはまるでゴミ捨て場の妖精のようで、洗っていない一線を越えた彼らの服が放つクラスティな甘い香りが部屋には充満していて、「ジョイント吸おうよ。拾ったタバコを混ぜたから味ちょっと変だけど、えへへへへ」と語りかけながら、つねにテンパっているように見えるトレーシー・トランス(Tracy Trance)のタイラーは、カシオトーンで超絶テクを披露し、僕の度肝を抜くものの、何故誰も彼の絶対拾ってきたであろうワンピースとハイヒールにはツッコまない事が不思議でならないし、ソーン・レザー(Sewn Leather)、ドッグ・レザーことグリフィンのママに「うちの息子のソーン・レザーとDJドッグディック(DJ Dog Dick)はご存知なの?」と訊かれた僕とブリットは裏庭でその日のライヴのリフと展開を話していたものの「母ちゃんが犬チンって言っちゃうのかよ!」という思い出し笑いで、練習にならないし、そんな状況だから僕の手もおぼつかなくなり、キッチンの床にまき散らしてしまったビールを拭いていたところをいつの間にか横で手伝ってくれていたエスラのはにかんだ笑顔に僕のハートは一気に持っていかれた。
 彼氏にメチャメチャ睨まれながらも、僕は朦朧とした意識のなか、彼女との会話を弾ませることに全神経を集中した。「PYG(ショーケン、ジュリーのアレ)のレコードをずっと探しているのよ! 見つけたらぜひ私のためにゲットしてよ!」と言われ、何でそんなもん知ってるのかとそのときは思ったものの、(もちろんボリスのカヴァーで知ったのだろうが)たしかに彼女のエンジェルス・イン・アメリカの前作のレコードと今回のテープを聴いていると何となく合点する。冒頭でノイズ・フォークと形容したのは、このバンドは弾き語りではなくシンセ・ノイズだからだが、全身全霊を込めて絶叫する彼女のポエトリー・リーディングをきいて背筋に走る冷たいものは日本のあの時代のズブズブでドロドロの怨念フォークのそれだ。
 そもそもDJドッグ・ディックといいソーン・レザーといい、ボルチモアのこのノイズ+ポエムという方法論は、パンクは楽器を弾けなくてもいい、ヒップホップはビートと哲学があればいい、という流れの最終型にあるんじゃないかと思ってしまうのは大袈裟だろうか? エンジェルスやドッグディックはシンセこそ使っているもののソーン・レザーやまた先ほど話に出たサヴェージ・ヤング・テイターバグなんかほぼカラオケだし、それは本人のポテンシャルがすべてであり、それがショウとして成立しちゃってるのだ。

 話をあの日の夜に戻そう。自分のライヴも終え、エスラともさらに打ち解けてきた僕はようやく彼女の電話番号とアドレスを交換するために自分の携帯を取り出した。そこにブランク・リアルム(Blank Realm)のサラが現れ、「兄貴に迎えに来てもらいたいから電話かりるわね」と携帯を取られてしまった。もう読者は気付いているだろうが、このレビヴューを書いているのも、もし今後ボルチモアに行く機会があり、彼女のところに転がり込む日が来るならば何かあればいいなと期待しているからに過ぎないのだ。
 あの日の僕の最後の記憶はテイターバグの連れであるサムのワンマン・プロジェクト(名前失念)がゴーグルと猫耳、そしてもはやハミチンとかそういうレヴェルではないブーメランを装着し、ステージで絶叫していた。現在ヨーロッパをツアー中のエンジェルス・オブ・アメリカとソーン・レザーはきっとあのような混沌とした日を過ごしているに違いない。あぁ、ライフ・イズ・カオス。

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