黙殺された歴史
「極北実験音楽の巣窟」を掲げ、一般的なメディアでは取り上げられることの少ないコアな音楽を数多く取り扱っているレコード・ショップ「オメガポイント」の新譜紹介コメントに、英国の即興集団 AMM がいま現在置かれている状況が端的に示されているように思う。まずはその文言を引用しよう。
説明の必要もない英国実験音楽の象徴だが、10年くらい前にピアノのティルバリーが抜けて、残りの二人だけでAMMを名乗っていた。それがいつの間にか三人に復活!(*1)
紹介文として適切だから引用したのではない。むしろここに書かれていることには致命的な誤謬が含まれている。およそ10年前に AMM を脱退したのはジョン・ティルバリーではなくギタリストのキース・ロウだ。さらに言えばティルバリーはそもそも AMM に途中から加入したメンバーであるし、結成から50周年という記念すべき節目に三人が集った極めてモニュメンタルな出来事を「いつの間にか三人に復活」とするのも正確ではない。だが何もこうした不正確さを論うために引用したのでもない。なぜこのような紹介文を引用したのかと言えば、これは AMM がすでに50年以上もの活動歴を誇りながらもいまだに無理解に晒されているということの一つの例証であり、そしてそうであるにもかかわらず、いや「英国実験音楽の象徴」と見做され得る巨大な存在であるがゆえに、「説明の必要もない」とされて正確な記述に至らないということ、こうしたことが現在の AMM がどのように受容されているのかを端的に示していると思ったからだ。たとえ多くの誤解と表層的な理解に晒されているのだとしても、すでに確立された評価があると思われていて、当たり前の存在であるがゆえに、あらためて振り返る必要はないとされてしまう。その結果半ば必然的にこうした紹介文が登場する。だがそうであればこそむしろ AMM を「説明」することは不要どころか急務であるはずだ。
とはいえもちろん AMM 50年の歴史をすべて詳らかにすることは容易ではない。そこでまずはその成立過程をあらためて確認するところからはじめたい(*2)。主に1940年前後に生まれたメンバーによって構成されているAMMは、もともとハード・バップのグループで活動していたサックス奏者のルー・ゲアとドラマーのエディ・プレヴォー、それにゲアとともにマイク・ウェストブルックのジャズ・バンドに参加していたギタリストのキース・ロウが、1965年にロンドンの国立美術大学である「ロイヤル・カレッジ・オブ・アート」で週末にセッションをおこなっていたことからはじまった。この時点では彼らにグループ名は無かったものの、ほどなくしてウェストブルックのもとでベーシストとして活動していたローレンス・シーフと現代音楽の世界ですでに知られた存在だった作曲家/ピアニストのコーネリアス・カーデューが加入し、翌66年には AMM と名乗って活動をおこなうようになる。AMM というグループ名はラテン語の「Audacis Music Magistri (Audacious Music Masters)」すなわち「大胆不敵な音楽の熟達者たち」の略称だとされているものの、たとえば同時期に発足した自由即興集団のムジカ・エレットロニカ・ヴィヴァ(MEV)やスポンティニアス・ミュージック・アンサンブル(SME)が、略称よりもむしろ活動の方向性を体現する本来の名称で知られているのとは異なって、彼らはもっぱら AMM という三文字で知られている。グループ名については2001年のインタビューでキース・ロウが「AMMの成立過程は非常に複雑だった」のであり「何を略したのかは秘密」だと語っているように(*3)、たとえ本来の名称があったとしてもその意味に還元することはできないのだろう。かつて音楽批評家の間章はAMMを「冒険的音楽運動」(*4)の略称だとしたものの、これは「Adventurous Music Movement」をあてがって翻訳したのではないだろうか 。
ちなみに1966年には米国に留学していたエヴァン・パーカーが英国ロンドンへと移住し、そのころニュー・ジャズ揺籃の地として賑わいをみせていた「リトル・シアター・クラブ」に通い詰めていた。同スペースにはのちにパーカーと共闘関係を結ぶことになるデレク・ベイリーや SME を先導するジョン・スティーヴンスらも頻繁に出演しており、もしも AMM のメンバーがここで盛んに交流をしていたら英国即興音楽史はまったく異なる様相を呈していたかもしれない。だが彼らはパーカーとは接近するもののベイリーやスティーヴンスとはほとんど関わることがなかった。接点だけでいえば AMM はピンク・フロイドやクリームと同じギグに参加しているほかポール・マッカートニーとも関わるなど広範に及ぶものの、英国の自由即興という文脈で同列に語られることの多い SME やその周辺の人脈と深い交流がなかったことは意外にも思える。後年ベイリーは AMM について「よく知らないな」(*5)と述べており、ロウも「私がデレクに対してそうであるように、彼はAMMについて無知なのかもしれない」(*6)と語っている。だが彼らが関わらなかったことは不幸というよりも、むしろ言語に喩えられた音楽の語法から離れようとするベイリーらの即興アプローチと、言語化以前の音響それ自体をやりとりする AMM の即興アプローチの、それぞれに特徴をなす明確な差異を形成することに役立ったに違いない。
またカールハインツ・シュトックハウゼンのもとで研鑽を積み、その後ジョン・ケージやデイヴィッド・チュードアなどアメリカ実験音楽の成果を独自に継承し発展させることで、当時すでに現代音楽方面で名を馳せていたカーデューの名声にあやかったのか、AMM は不本意にもメディアによって初期のいくつかのパフォーマンスが「コーネリアス・カーデュー・クインテット」として宣伝されていた。67年にリリースされたファースト・アルバム『AMMmusic』も「ザ・コーネリアス・カーデュー・アンサンブル」(『Musical Times』)や「ザ・コーネリアス・カーデュー・クインテット」(『Jazz Journal』)などのクレジットで記事にされていたという(*7)。そのためかのちに「AMMはコーネリアス・カーデューが率いるグループである」という誤った認識が蔓延していくことになった。だがこれはまったくの誤解である。先のインタビューで「多くの人々はカーデューがAMMの創設メンバーだと勘違いしています」と言われたロウは、即座に「それは違う、むしろ私がカーデューをAMMに招き入れたんだ」と応えている(*8)。
AMM の活動について多くのページを費やしたデイヴィッド・グラブスの名著『レコードは風景をだいなしにする』でさえ、「AMMは、作曲家コーネリアス・カーデューを中心に、彼と長年演奏や仕事を一緒にしてきた若手のミュージシャンやアーティスト志望の学生から成るグループであった」(*9)といったふうにこの誤った認識が共有されている(ただし後のページでは「プレヴォー、ロウ、ルー・ゲアが1965年の創設メンバーであったが、すぐにローレンス・シーフ、そして次にカーデューが加わった」(*10)と正しい記述もなされているものの)。だがグラブスだけならまだしも、それがそのままなんの引っかかりもなく翻訳され流通しているのは、はっきり言ってわたしたちの AMM に対する理解の低さを示している。それは単に AMM に対して無知であるということにとどまらず、より広い視野で眺めてみるならば、こと日本語の実験音楽と即興音楽をめぐる言説において、わたしたちがあまりにも長い間、ジョン・ケージとデレク・ベイリーというたった二人の思想を中心に置いてきたのではないかという懸念を彷彿させる。この二人を取り巻く言説の多さ、そしてそれに比したときの AMM に関する言説の圧倒的な少なさ。
無論これから述べるように AMM に語るべき魅力や思想がなかったというわけではない。それは端的にケージとベイリーという二人に著作があり、そしてそれが手に届くようになっていたということによるのではないだろうか。AMM をめぐる言説自体が無かったわけでもないからだ。アルバムにはしばしば長文のライナーノーツが付されていたし、プレヴォーには AMM の活動を詳らかに綴った『No Sound is Innocent』をはじめ複数の著作もある。こうした文章がほとんど読まれていないことは音楽の歴史を少なからず貧しくしてきたことだろう。さらに言えばそれは AMM に限らず、たとえばアンソニー・ブラクストンの『Tri-Axium Writings』が届いていたら黒人音楽の捉え方も偶然性や不確定性の意味合いも変わっていただろうし、たとえばアルヴィン・ルシエのインタビューとスコアに加えてルシエ自身のテキストも収録された『Reflections』が届いていたら「音響派」の受容のされ方も変わっていたかもしれない。言うまでもなく歴史は単線的に進むものではない。あるいはそのように単純化されたものが歴史であるのだとするならば、わたしたちが即興音楽の系譜を歴史の外側であらためて考え直すためにも、AMM に対する理解を少しでも深めることは有意義であるはずだ。歴史に残らなかった音楽があるのではなく、特定の音楽を残さない歴史があるだけだということは、なんにせよ心に留めておかなければならない。
- (註)
- *1 https://omega-point.shop-pro.jp/?pid=133192886
- *2 AMM の略歴については主に次の記事を参照した。
Eddie Prévost "AMM", European Free Improvisation Pages, https://www.efi.group.shef.ac.uk/mamm.html.
Wikipedia "AMM", https://en.wikipedia.org/wiki/AMM_(group).
AllMusic "AMM", https://www.allmusic.com/artist/mn0000574175.
John Eyles "AMM At 50", ALL About Jazz, December 18, 2015, https://www.allaboutjazz.com/amm-at-50-by-john-eyles.php.
Dan Warburton. "Keith Rowe Interview", Paris Transatlantic Magazine, January 2001, https://www.paristransatlantic.com/magazine/interviews/rowe.html. - *3 Dan Warburton. "Keith Rowe Interview".
- *4 間章『時代の未明から来るべきものへ』(イザラ書房、1982年)85頁。ただし間章はラテン語の「Audacis Music Magistri」の翻訳が「冒険的即興運動=危機の音楽への先導」だとしていた。
- *5 ベン・ワトソン『デレク・ベイリー インプロヴィゼーションの物語』(木幡和枝訳、工作舎、2014年)511頁。
- *6 Dan Warburton. "Keith Rowe Interview".
- *7 Edwin Prevost "An Unintended Legacy", An Unintended Legacy, 2018.
- *8 Dan Warburton. "Keith Rowe Interview".
- *9 デイヴィッド・グラブス『レコードは風景をだいなしにする』(若尾裕・柳沢英輔訳、フィルムアート社、2015年)211頁。
- *10 同前書、256頁。
AMM の足跡を音盤で辿り返す
ここで AMM の活動の変遷を音盤を参照しつつ辿り返してみよう。なおアルバムに付随する年号は彼らのアーカイヴの表記の仕方に従ってリリース年ではなく録音年を中心に記している。

『The Crypt』(1968)
【コーネリアス・カーデュー在籍時代――60年代】
最初期の録音として先に触れた「ロイヤル・カレッジ・オブ・アート」での1966年のライヴ演奏が収録されたコンピレーション『Not necessarily "English music"』がある。ただし同作品はデイヴィッド・トゥープが2001年に編纂したもの――英国実験音楽/電子音楽の歴史の再検証として注目に値する仕事だった――であり、リアルタイムでは日の目を見ていない。実質的なファースト・アルバムとしては AMM 史上もっともよく知られているだろう『AMMMusic』(1966)がある。フリー・ジャズのエネルギッシュな箇所を音響的に取り出したかのような極めてノイジーな作品だ。だがこの録音ののちローレンス・シーフは AMM を去り、音楽活動をもやめてしまうことになる。そして入れ替わるようにして1968年にはカーデューの教え子でもある打楽器奏者のクリストファー・ホッブスが加入。そしてこのメンバーで同年にロンドンのスペース「ザ・クリプト」でおこなわれたライヴが1970年に MEV とのスプリット盤『Live Electronic Music Improvised』としてリリースされることになる。このときのライヴの長尺版はおよそ10年後に『The Crypt』として、1979年にプレヴォーが立ち上げた〈Matchless Recordings〉から発表された。ファースト・アルバムに引き続きノイジーであるもののより持続音が主体となった演奏は、グラブスが言うような「音色という側面におけるAMMの即興的な反応のあり方」(*11)を確立させた記念碑的作品だった。フリー・ジャズ由来の集団即興におけるようにそれぞれの演奏家の発語的な対話に焦点が当てられるのとは異なり、むしろ「音色の変容は各パフォーマーに、探究的な聴取を要求する」(*12)という極めて特異なアンサンブルの在り方。またこの作品には AMM の活動をアーカイヴした冊子の復刻版が付されており、その中の「AMM活動報告書1970年10月」には「1965年6月(AMMがロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートで11ヶ月にわたり毎週行なったセッションの開始時期)から1970年9月25日までの間にグループが行なったコンサート、ワークショップ、録音セッション、メンバー個々が行なったレクチャーのすべてが記載されてい」(*13)た。そこに記されている公演のなかには、1969年におこなわれた AMM のメンバーを含む総勢50名以上もの集団によってプレヴォーの「Silver Pyramid」という図形楽譜を演奏するという試みもあった。ドキュメンタリー的なその模様は2001年にリリースされた『Music Now Ensemble 1969』というアルバムから聴き取ることができる。

『It Had Been an Ordinary Enough Day in Pueblo, Colorado』(1979)
【第一次分裂時代――70年代】
プレヴォーは1971年に「今や、物たちのみが、変化する時に変化するのであり、その方がよっぽどよい」(*14)と言ったそうだ。AMMの音楽が円熟の境地に達しつつあることを示した言葉だが、他方では70年代に入るとグループ内部に亀裂が走りはじめることにもなる。毛沢東主義に傾倒したカーデューとそれに従ったロウが、音楽においても自らの政治を反映しなければならないとする一方、プレヴォーがそうした二人の意向を批判することによって、グループ内部の関係が悪化していったのである(*15)。1972年にはカーデューとロウがグループを脱退し、AMM にはプレヴォーとゲアの二人が残されることになった。カーデューの弟子クリストファー・ホッブスもこのころにはグループを離れている。こうした事情もあって70年代の AMM の活動は停滞するが、その間の記録としてゲアとプレヴォーのデュオによる『At the Roundhouse』(1972)と『To Hear and Back Again』(1974)が残されている。この二枚のアルバムについて誤解を恐れずに述べるとするならば、まったくもって AMM の良さが感じられない内容になっている。つまりフリー・ジャズのデュオとしては極めてスリリングで白熱した記録なのだが、サウンド・テクスチュアを探求してきた AMM の音楽性とはまるで別物なのだ。その後1976年に関係解消の兆しが見え、カーデュー、ロウ、プレヴォー、ゲアの四人で非公開セッションをおこなうこともあったものの、翌77年にはこうしたいざこざに愛想を尽かしたゲアがこんどは脱退する。カーデューもまた自らの活動に専念し――1974年にはエッセイ本『シュトックハウゼンは帝国主義に奉仕する』を出版して自らの60年代の活動さえ批判していた――、結果的にプレヴォーとロウが残されることになった。その頃の模様は「AMMⅢ」とクレジットされた『It Had Been an Ordinary Enough Day in Pueblo, Colorado』(1979)で聴くことができる。〈ECM Records〉からリリースされたこのアルバムは異色作と言ってよく、フィードバックを駆使したリリカルなギター・フレーズを奏でたりボサノバ風のバッキングを奏でたりするロウを聴くことができる貴重な作品だ――ただしこの意味でやはり AMM 的とは言い難い内容ではあるものの。

『Generative Themes』(1983)
【ジョン・ティルバリーの参加――80年代】
コーネリアス・カーデューが轢き逃げに遭いわずか45歳にしてこの世を去ったのは1981年12月のことだった。この痛ましい事件が発生した直後に、ジョン・ティルバリーが AMM に参加することになった。ティルバリーはモートン・フェルドマンの作品を演奏する逸材として知られ、これまでにも60年代にときおりカーデューの代わりに AMM とともに演奏をおこなっていたピアニストである。当時は思いもよらなかったのかもしれないが、彼の加入によって20年以上も継続する AMM のラインナップが揃うことになる。トリオとなった最初の成果は『Generative Themes』(1983)として発表された。教育思想家パウロ・フレイレの「生成テーマ」をタイトルに冠したこの作品は、それまでの持続音主体の騒音的合奏からは大きな変化を遂げ、トリオというもっともミニマムな合奏形態によりながら節々に切断の契機を挟んでいく。こうした傾向は続く『Combine + Laminates』(1984)でも聴くことができるが、同作品のリイシュー盤にはカーデューの「Treatise」の演奏も収録されており、ティルバリーを迎えたトリオとなってからもカーデューの仕事を継承しようとしていたということがわかる。1986年から94年にかけてはさらに新たなメンバーとしてチェリストのロハン・デ・サラムが参加しており、その唯一の記録として『The Inexhaustible Document』(1987)が残されている。デ・サラムの演奏が聴こえるたびに室内楽的あるいはクラスター的に響くアンサンブルは、13年ぶりにゲアが参加した『The Nameless Uncarved Block』(1990)とは対照的な内容だ。後者の録音ではジャズ的なゲアのサックス・フレーズが奏でられると一気に全体がジャズ・セッションの趣を呈していくのである。非正統性を貫く AMM はカメレオンのようにサウンドの意味を変化させることができるのだ。また80年代後半には例外的な試みとしてトム・フィリップスのオペラ作品を複数のゲストを交えてリアライズした『IRMA – an opera by Tom Phillips』(1988)もリリースされている。作曲家のマイケル・ナイマンは74年の著作『実験音楽』のなかで「初期の頃には、AMMは、もっと意識的に、新しい音、普通でない音の実験を行なっていたようだ」(*16)と述べ、その一方で「年を追うに従って、楽器による新しい手法は、少なくなってゆき、音響は、川の自然な流れのように、それ自身のカーヴを描くように放っておかれるようになった――優しく、単調で、速い流れもあれば、驚きもあるような」(*17)と書いているものの、こうした特徴は70年代初頭よりむしろ80年代以降のトリオ編成での彼らに当て嵌まるだろう。もっと言えばその後も90年代からゼロ年代にかけてこうした傾向は深化していった。あるいはナイマンはそうした AMM の行く先を予言的に感じ取っていたのかもしれない。

『Before Driving to the Chapel We Took Coffee with Rick and Jennifer Reed』(1996)
【「音響的即興」との共振――90年代】
90年代以降のAMMはますます「物たちのみが、変化する時に変化する」と言うべき自在境に到達し、音響の襞をあるがままに揺蕩わせていく。この時期のトリオの豊穣な記録として、カナダでのライヴを収めた『Newfoundland』(1993)、ペンシルベニア州アレンタウンでの『Live in Allentown USA』(1994)、来日時の記録『From a Strange Place』(1995)、さらにテキサス州ヒューストンでの『Before Driving to the Chapel We Took Coffee with Rick and Jennifer Reed』(1996)と、彼らは世界中を巡りながら矢継ぎ早に年一回のペースで録音を残していった。さらに1996年にリリースされた『1969/1982/1994: LAMINAL』では、60年代のクインテット時代、80年代のティルバリー参加初期、そして90年代という三つの時代を比較しながら聴くことができる内容になっている。持続から切断へ、騒音から静寂へと変化してきた彼らが、90年代には物音の接触する微細な響きをアンサンブルの基層に置いていることがわかる。それは録音環境が向上し微細な響きを記録できるようになったというテクノロジカルな条件もあったには違いないが、少なくともそのような条件を含めて変化した彼ら自身の新たな音楽性を打ち出すためにこの音盤をリリースしたのだと言うことはできるだろう。薄層が重なり合う微弱音への接近は『Tunes without Measure or End』(2000)で物音の動きそのものが中心にくるほどにまでクローズアップされ、『Fine』(2001)ではダンサーとの共演において踊る身体の痕跡と分け隔てなく立ち上がる響きを聴かせるまでになる。この頃のAMMの演奏がどのようなものだったのかについては、一つの証言として「現在の彼らは、音楽的なクライマックスに向かうほど音数は減っていく。(註:ライヴ演奏の)半ばを過ぎたあたりから、幾度も終曲と間違えそうな沈黙が訪れ、やがて退屈すら通り過ぎて、会場の衣擦れの音まで鮮やかに聞こえ始めた。初期とは隔世の感がある」(*18)という2000年のライヴ・レポートを読むことができる。また他の作品としてはエイフェックス・ツインらが参加したアンビエント・ミュージックのコンピレーションに「Vandoevre」(1994)と題したトラックを、メルツバウとのスプリット盤には「For Ute」(1998)と題したトラックを寄せている。カーデュー没後20年の節目には「Treatise」をリアライズした『AMM & Formanex』(2002)を出し、同楽曲を取り上げたアルバムを制作していたグループの Formanex と共演。またおよそ30年振りの MEV との共作アルバムとして『Apogee』(2004)がリリースされている。幾分物語的な演奏を聴かせる MEV と比べたとき、物語の彼岸で物音の変化に焦点を当てるAMMの特徴は一層際立って聴こえてくる。

『Norwich』(2005)
【第二次分裂時代――ゼロ年代以降】
MEV と共演する前年にロウはティルバリーとのデュオ・アルバム『Duos For Doris』(2003)を録音している。これに限らずロウは90年代終盤からゼロ年代初頭にかけて、AMM での活動とは別にソロをはじめ集団セッションまで短期間に数多くのアルバムをリリースしていた。そのなかの一枚であり2000年にリリースされたソロ作品『Harsh』が、その2年後に刊行されたプレヴォーの著書『Minute Particulars』のなかで批判的に言及されてしまう。これを一つの契機としてプレヴォーとの関係は再び悪化し、ロウは二度目の AMM 脱退を経験することになる。『エクスペリメンタル・ミュージック』の著者フィリップ・ロベールによれば、プレヴォーが「ソロ・アルバム『Harsh』の極限的な騒音経験は人々の苦痛への感情移入を生み出すだけだったとしてロウを非難した」(*19)そうだ。そのため AMM はプレヴォーとティルバリーのデュオとして活動することを余儀なくされる。実はロウが脱退する直前にすでにこのデュオによるアルバム『Discrete Moments』(2004)はリリースされていたのだが、AMM 名義で最初に発表されたデュオ作品は全曲無題の『Norwich』(2005)だった。それまでの AMM の弱音を基層に置く志向をさらに推し進めた内容になっているものの、ときに耽美的に奏でられるティルバリーのピアノ演奏が前面に出てしまうデュオ編成は、それぞれのサウンドが屹立しながらも淡く混じり合っていたトリオ時代とは異なるものであり、あえて言えばやはり AMM 的とは言い難い。即興というよりも楽曲のように構成的に響くこうした傾向はその後リリースされた複数のアルバム『Uncovered Correspondence: A Postcard from Jaslo』(2011)『Two London Concerts』(2012)『Place sub. v』(2012)『Spanish Fighters』(2012)においてより洗練されていくことになる。またジョン・ブッチャーを招いた『Trinity』(2009)、そしてブッチャーの他にクリスチャン・ウォルフとウテ・カンギエッサーが参加した『Sounding Music』(2010)もリリースされており、とりわけ後者のアルバムはデュオよりも AMM らしい音響の襞の重なりを揺蕩わせている。ちなみに同年にはティルバリーとロウによる『E.E. Tension and circumstance』(2010)も録音されていて、この二人の関係は続いていたことを明かしている。また2014年には英国即興音楽シーンの現代の揺籃の地「カフェ・オト」において、エヴァン・パーカーの古希を祝したイベントがおこなわれ、その際に AMM とパーカーが共演した演奏が『Title Goes Here』として翌2015年に音盤化された。同じく15年にはベイルートのアコースティック即興グループ A trio とコラボレーションした『AAMM』も録音されている。
- (註)
- *11 同前書、250頁。
- *12 同前書、同頁。
- *13 同前書、235~6頁。
- *14 マイケル・ナイマン『実験音楽 ケージとその後』(椎名亮輔訳、水声社、1992年)240頁。
- *15 この騒動に関してカーデューは「AMMは神秘主義者と社会主義者に分裂した」といった言い方をしている。次を参照。小杉武久「コーニリアス・カーデューと語る」(『音楽のピクニック』書肆風の薔薇、1991年)、松平頼暁「コーネリアス・カーデュウ」(『音楽=振動する建築』青土社、1982年)「反応する集団」(『現代音楽のパサージュ』青土社、1995年)。
- *16 マイケル・ナイマン『実験音楽』238頁。
- *17 同前書、240頁。
- *18 野々村禎彦「AMM&エヴァン・パーカー 来日公演より」(『季刊エクスムジカ第3号』ミュージックスケイプ、2000年)93~94頁。
- *19 フィリップ・ロベール『エクスペリメンタル・ミュージック 実験音楽ディスクガイド』(昼間賢・松井宏訳、NTT出版、2009年)115頁。
AMM を特徴づける要素
これまで「コーネリアス・カーデュー在籍時代」「第一次分裂時代」「ジョン・ティルバリーの参加」「『音響的即興』との共振」「第二次分裂時代」と、おおよそ年代ごとに五つに区切ることで AMM の足跡を辿り直してきた。それぞれの時代には異なる特徴があるものの、ほぼすべてに一貫している「決まりごと」もある。それは他でもない、AMM のパフォーマンスは決して計画されることがなく、リハーサルもしなければライヴの後にその日の演奏について議論することもなかったということだ。つまりその時その場にしか起こり得ない完全即興を貫いてきたわけだが、同時代の多くの自由即興演奏と比したとき、AMM のアプローチは非常に独創的でもあり、それはしばしば次のような言葉によって語られてきた。
AMMがきわめてユニークなのは、彼らが目指しているのが、音を、そしてそれに付随する反応を探求することであり、音を考え出し、用意し、つくり出すことではないからだ。つまり、音を媒介として探求を行なうことであり、実験の中心にいるのはミュージシャン自身なのだ。(*20)
明晰かつ当を得た指摘である。だが実はこの文章はコーネリアス・カーデューによる1971年の論考「即興演奏の倫理に向かって」(*21)の一節が元になっており、自らがメンバーとして活動していたカーデューだからこそ言い得た表現だったのだろう。いずれにしても AMM は音をあらかじめ用意するのではなく、むしろその時その場に発生した音を通して探求をおこない、ミュージシャンはそうした出来事の只中にその身を置いていた。それはまずは楽器を非器楽的に使用することからはじめられた。非規則的であったとしてもリズムを形成するフリー・ジャズ的なドラムスとは明らかに異なるプレヴォーの演奏や、ギターを卓上に寝かせた「テーブルトップ・ギター」によってボウイング奏法やさまざまな音具を駆使してギターを音響生成装置として扱うロウの演奏。こうしたことは SME やデレク・ベイリーがあくまでも器楽的演奏によって即興的自由を模索していたこととは好対照をなすだろう(*22)。音楽批評家の福島恵一が慧眼にも指摘したように、「AMMは、フリー・ジャズ演奏における主要な構成原理である対話(コール&レスポンス)に頼ることなく、サウンドの次元での複合的/重層的な重ね合わせのみを構成原理としている」(*23)のである。それは必然的に「非正統的な音響の探求に没頭」(*24)することになり、「圧縮されたミクロなポリフォニーを聴き取ろうと耳を澄まし、対話もなく、リズムの構造もなく、演奏の全てをサウンドの次元へと送り返し、空間へと捧げた」(*25)音楽になる。つまり音は何かを伝達するための道具ではなく、むしろ音それ自体が AMM の音楽を構成しているのであり、演奏家は発することより聴くことを、そして時間を構成することよりも音の行き交う空間を意識することが要求される。こうした「聴くこと」と「空間性」から生まれるサウンドの層状の自由即興が旧来の音楽の三要素とは別の原理に従っていることについては、ロベールも「ミュージシャン間の全面的な相互作用と『拡張的実践』にもとづいた複数の層の重なりによって、複雑な音の絡まりはアクシデントさえも組み込み、その音楽は電子音響に近い抽象性を帯びながら、メロディや、ハーモニーや、リズムの概念は忘れ去られてしまう」(*26)と書きあらわしている。
またこのようにジャンルはもちろんのこと音においても正統性を索めることのない活動は、とりわけコーネリアス・カーデューにとって「いかにして対等な関係性を取り結ぶか」というテーマ、すなわち音楽における社会的/政治的な課題へと流れ着いていった。AMM 加入時期に並行して「Treatise」を完成させたカーデューが、脱退後は非音楽家による演奏集団スクラッチ・オーケストラを創設し、音楽の民主的な参加の可能性を探ることを中心的なテーマに据えるようになったことにも、AMM での経験が大きな影響をもたらしていたことは疑いないだろう。音楽批評家/大正琴奏者の竹田賢一が述べるように AMM はカーデューに対して「音楽と社会の関係に眼を開かせることにな」(*27)ったのである。いわば「社会的作業としての音楽の制作」(*28)であり、単なる楽しみや美しさに還元し難いアンサンブルのプロセスには「一人一人の、そしてメンバー全体を規定する文化の歴史的段階が透視され、各々の精神界も含めた生活が反応される」(*29)ことになる。カーデュー自身も「私が以前には見付けられずに、AMMの中に発見したものの一番よい見本は、ちょうど、私がそこへ行き、演奏することができる、それも、まさしく欲しているものが演奏できる、ということ」(*30)だと述べていたが、それは AMM が参加メンバーに等しく自由をもたらすような音楽の開かれたありようを体現していたことを物語っている。
他方ではカーデューの参加はジャズを出自に持つ他のメンバーにとっても大いなる刺激をもたらした。振り返ってみるならば、カーデューだけでなく、クリスチャン・ウォルフ、クリストファー・ホッブス、ロハン・デ・サラム、そしてジョン・ティルバリー等々、AMM には現代音楽を出自に持つミュージシャンが作曲家ではなく演奏家としてつねに参加していた。それはグループが複数の視点を保つための方策だったとも言えるが、キース・ロウ自身が「AMMにおいて重要なことの一つは現代音楽の演奏家を引き入れたことだった」(*31)と述べているこうした重要性は、具体的な音としても、現代音楽の演奏家が不在だった「第一次分裂時代」の時期に収録された音源が、AMM らしからぬ音楽を奏でていたことからも逆照射できるだろう。
こうしたなか、現代音楽との差異として注目に値するのが AMM に特徴的な要素の一つであるラジオの音声の使用である。正体不明の音響の層が重なり合う AMM の音楽のなかでふと訪れる、ニュースのナレーションやポップスからクラシック音楽までの具体的で意味が認識できる響き。それは不確定性をもたらす要素というよりもグループの外部にある音の具象性をもたらす手段だった。「実験音楽における初期のラジオの使用が、音楽のコンテンツの並置(……)によって新奇だったのに対して、AMMの音楽におけるラジオは、どうしようもなくわけのわからないグループが演奏する音のレパートリーに対して、認識可能な音響を提示するという意味がある」(*32)とグラブスが述べるように、AMM の音楽においてはラジオの使用それ自体に意味があるというよりも、むしろラジオのサウンドそのものが明確な役割を果たしていた。それは非正統的な音響の重なり合いにおいて、その非正統性を照らし出すことに貢献する。グラブスはラジオが参照する世界を「日常」と捉えているが、そこでポップスやクラシック音楽が流されるとき、それらは「ノイズ」を排除してきた「楽音」であり「音」を体系化してきた「音楽」であり、そうした正統性が AMM の世界ではむしろ「ノイズ」でありアンサンブルの彼岸にある「音」であるといったふうに逆転しているところに、その役割の過激さがあると言うことができるだろう。
- (註)
- *20 清水俊彦『ジャズ転生 現代ジャズの展開』(晶文社、1987年)34頁。
- *21 Cornelius Cardew "Towards an Ethic of Improvisation", https://soundartarchive.net/articles/Cardew-1971-Towards%20an%20Ethic%20of%20Improvisation.pdf.
- *22 デレク・ベイリーらの「演奏」と AMM における「音響」という対比は、たとえば次の論考でも詳述されている。杉森大輔「芸術/音楽、そして世界と主体3 即興の到来」(『アラザルvol.10』HEADZ、2017年)。
- *23 福島恵一「AMM 現代音楽を超えた冒険的即興運動」(『アヴァン・ミュージック・ガイド』作品社、1999年)180頁。
- *24 同前書、181頁。
- *25 同前書、同頁。
- *26 フィリップ・ロベール『エクスペリメンタル・ミュージック』114~115頁。
- *27 竹田賢一「スクラッチ&レボリュショナリー Cornelious Cardew」(『CHRIS008』アリス出版、1986年)https://www.asahi-net.or.jp/~ee1s-ari/takeda2.html。
- *28 同前書。
- *29 同前書。
- *30 マイケル・ナイマン『実験音楽』237頁。
- *31 Dan Warburton. "Keith Rowe Interview".
- *32 デイヴィッド・グラブス『レコードは風景をだいなしにする』247頁。
「音響的即興」再考
メロディーやハーモニーやリズムに根拠を置くことのない、薄層状のサウンドを重ね合わせることによって現出する音の交歓。そこから導き出されてくる音の空間性に対する意識と「聴くこと」の称揚。以上で見てきたような AMM の特徴は、2000年前後に盛んになった即興音楽の一つの潮流と多くの点で共通するように思われる。潮流とはすなわち彼ら自身が同時代を過ごしてきたいわゆる「音響的即興」である。言うまでもなくいくつかの特徴が共通するからといって AMM を「音響的即興」と同じものだとしてしまうわけにはいかない。かつて杉本拓が批判したように「音響的即興」をめぐる言説は特徴を共有するかに思えるまったく別の試みを捉え損ない、その可能性を停滞させる原因にもなってきた(*33)。だからここでは言説による囲い込みではなくあくまでも言説の辿り直しを通して、AMM と「音響的即興」がどのように共振し、あるいはどのように異なっていたのかを探りたい。
「音響的即興」という言葉それ自体の起源は不確かであるものの(*34)、この言葉によってどのような動向が指し示されていたのかについては、ゼロ年代初頭に音楽評論家の野々村禎彦が『季刊エクスムジカ』で連載していた「『現代音楽』の後継者たち」という論考に見ることができる。「前衛の時代」における現代音楽の語法や精神が、1970年代半ば以降の広義のポピュラー音楽の領域にどのように受け継がれていったのかを、即興をいかに扱うかという問題を底流に据えつつ検証していくこの連載の中で、第七回まで漠然と「音響派」と呼ばれていた動向が、第八回に至って「音響的即興」と呼び直されることになる。野々村は長大な註というかたちをとった「『音響的即興』外観」のなかで、シカゴ、ボストン、ニューヨーク、ベルリン、東京、ウィーンそしてロンドンにおける「音響的即興」の主要なミュージシャンたち、および彼らが90年代後半からゼロ年代初頭にかけて発表した音盤に言及しつつ、それらをたとえば「凝縮と構築」への志向とは対照的な「浮遊し拡散する音楽」であり、「繊細な持続音主体の抽象的な世界」であり、「エレクトロニクスとの親和性が高い」ものであるとして特徴づけていた(*35)。これらを「音響派外観」ではなく「音響的即興外観」としたことには、「音響派」の即興音楽シーンにおける展開を捉えるという目的があったと言えるものの、それだけでなく、ジャーナリズムによって次第に広まりゆく「音響派」という言葉が、その実質を欠いて有象無象に当て嵌められていくという「メジャーによる言葉の収奪に対抗」(*36)する意味もあったのだろう。それまで「音響派」という言葉で言いあらわされてきた同時代的傾向の核心部分が、「音響的即興」と呼び直されることによってあらためて俎上に乗せられる。野々村による「外観」からは、しばしば言われるように「音響的即興」が日本発祥のムーヴメントというわけではなく、むしろこの時代を貫く同時代的かつ世界的――厳密には欧米が中心の世界であるものの――な潮流としてたしかに聴き取られていたということがわかる。
「浮遊し拡散する音楽」あるいは「繊細な持続音主体の抽象的な世界」、これらの言葉によってあらわされていた動向が同時多発的であった必然性を批評家の佐々木敦は原理的に考察した(*37)。彼によれば「音響的即興」は次のように展開していく。まずはじめに「音響」という語の意味として、彼は「コンポジション/コンストラクションの次元では捨象されてしまう『音』のテクスチュアルな相を専ら問題にするということ」(*38)を出発点に置く。だがあらゆる音楽は音を介している限りテクスチュアルな相と切り離すことはできないため、どのような音楽であってもこの相を問題にすることはできてしまう。そのため「音響」は二段階のアプローチへと分かれていく。第一段階では「テクスチュアルな相」を特定の響きへのフェティッシュなこだわりとすることによって問題を限定する。だがこのようなフェティシズムは「音響」が演奏者と聴き手それぞれの趣味判断へと収束していくことになり、それは昔ながらの「音色」の議論から逸脱するものではない。そうではなく音楽における「音響」の可能性を問うとき、第二段階として「モノとしての『音』とコトとしての『聴取』という双つの主題をワンセットとして前景化したもの」(*39)へと向かっていくことになる。果たして「音」とは何であり、それを「聴くこと」とはどのような出来事なのか――こうした問いの即興音楽への導入は、「楽音=楽器からの離脱」と「『聴取』の問題化」という二つの要素をもたらしたと佐々木はまとめている(*40)。たとえばアコーディオンの筐体を擦る、あるいはアンプをオン・オフするだけといった演奏のように、楽音や楽器から逸脱した「ノイズ」を使用することによってあらかじめ決められていない音を探求すること。なかでも誰にでも可能と言っていいだろう方法によって生じた音は、これまでの即興演奏における演奏家の個性のような音の帰属先を持たず、むしろそれが何の音なのかというふうに「聴くこと」のほうが重要なものとして浮かび上がってくる。「ノイズ」の使用と「聴くこと」の称揚という、このどちらをも AMM が最初期からその音楽に取り入れていたことは驚異に値するが、ともあれ「ノイズ」にせよ「聴くこと」にせよ、そこには楽音=楽器あるいは演奏という広義の制度性に絡め取られることのないモノとしての「音」があるということ、すなわちどちらも「音楽」から切り離された「音」の存在が前提になっている。ならばなぜ、このように「音楽」から「音」を切り離そうとする欲望は生まれたのか。
「やみくもに『音楽』から『音』を分離したいという、正体不明の欲望」(*41)こそが当時の音楽シーンを駆動させてきたと書いたのは音楽批評家の北里義之だった。北里は「音響的即興」を「ポストモダニズムに対するモダニズム復権の試みの多彩なヴァリエーション」(*42)とする作業仮説を打ち立て、『臨床医学の誕生』の中でミシェル・フーコーが描き出した近代医学の成立時期における医師たちの「まなざしの変容」とアナロジカルな構造を見出すことによって論証していった。そして「欲望」の源泉として彼が措定したのが「音響の臓器性」なるものだった。一見すると言葉の神秘化に向かいかねないこの奇妙な造語は、しかしながら極めて具体的な意味を持っているようにも思う。つまりそれは屍体を初めて切り開いたときに露わになる臓器が「いまだ名前をもたない構造を支える可視的なものだけで成り立つ空間」(*43)であるのと同じように、「音」を「いまだ名前をもたない構造と、可聴的なものだけで成り立つ空間」(*44)として解釈しようとする試みだった。人体を切開(decomposition)するように音楽を解体(decomposition)するとき、そこにはこれまでの体系では捉えられないような音楽以前の「音」が顔を出す。だが臓器が人間によって差異化される以前からそれ自身の構造を保持しているように、「『音楽』という生体から切り離され、すでに屍体化しているはずの『音』にも、なにがしかの構造が影のように寄り添っている」(*45)。それは「音」が単にそれ自体としてあるのではなく、つねに複数の「音楽」へと変化し得る力動性とともにあるということを意味している。あらゆる「音楽」が検討され尽くしたとされるなか、それでも「音楽」をモダニスティックに前進させるためには、あり得たかもしれない別の「音楽」を見出すことへと、つまりは「音楽」から切り離された「音」の潜在性をいちど検討してみることへと駆り立てられることになるだろう。すなわち「欲望」の源泉とは、つねにすでに「音楽」としての潜在性を秘めているような「音」のありように触れることからもたらされているということを、北里は「音響の臓器性」という言葉で言いあらわそうとしたのではないだろうか。だがならばなぜ、そのような「音響の臓器性」に触れることができたのか。
北里の議論の背景には大谷能生による即興論があった(*46)。大谷は2000年前後の日本の即興音楽シーンにおいては録音メディアが「経験の基盤」となっていたと述べる(*47)。わたしたちが「音楽」と「音」を区別するのとは異なって、録音メディアは物理的な振動を「圧倒的に非人間的」(*48)な仕方で記録する。もちろん録音メディア自体の起源は19世紀にまで遡ることができる。だが「音響的即興」盛んなりし頃、「音」は「デジタル・メディアによって、完全な非直進性・非破壊性・非空間性」(*49)を得ることになり、それは極めて人間的な儀式性を温存していたレコードやその衣を纏ったCDとは異なって、徹底して生とは切り離されたもの、すなわち完全なる「死の空間」(*50)を獲得していった。こうした「死の空間」が特別なものではなく、誰もが触れることができてしまうという状況であればこそ、それは「経験の基盤」たり得ていたのだろう。そして大谷はそのようにしてサウンドを記録することは「フォームを持たない音、意味づけの済んでいない音を聴くこと=音楽化することができる世界」(*51)でもあると述べていた。このことはわたしたちに次のような考察をもたらしてくれる。つまり「すでに屍体化しているはずの『音』」とは極めて具体的に録音メディアがもたらす「死の空間」なのであり、そしてそこからもう一度「音楽」を立ち上げようとする試みを触発することが「音響の臓器性」なのだと言えるだろう――そして即興とは「音楽」を解体するのではなくむしろ再編成するために、繰り返しのきかない剥き出しの「生の空間」で「あらためて『音楽』と呼べる体験を作り上げてゆく」(*52)実践だった。デジタル・データ化した録音メディアが「経験の基盤」となることがこうした「音響の臓器性」へとわたしたちを導き、そして「音楽」から切り離された「音」を欲望することへと駆り立てていく。図らずも北里はフーコーを経由して大谷が書き記した「経験の基盤」を「欲望の源泉」として見出していたのだ(*53)。
以上のことをまとめると次のようになる。「音響的即興」なるムーヴメントは90年代後半からゼロ年代初頭にかけて同時多発的/世界的に出来し、その「浮遊し拡散する音楽」あるいは「繊細な持続音主体の抽象的な世界」には、「音楽」から「音」を切り離すことによる「ノイズ」の探求と「聴くこと」の称揚があった。さらにこのような乖離現象を欲望する源泉として「音響の臓器性」があり、それは「音」が「音楽」になる動的な潜在性を意味するとともに、完全なる「死の空間」としてのデジタル・データ化された録音メディアが「経験の基盤」となることがその入口を用意していた。ここで思い起こさなければならないのは、このように録音メディアが音楽の意識的あるいは無意識的な基盤となっている「音響的即興」に対して、AMM はあくまでも録音を忌まわしきものとして捉えてきたということである。だが AMM にとって録音の経験は表面上は拒絶していたものの、感覚的には受け入れていたのだと言うことはできないだろうか。たとえば大谷は「個人的な好みを排した、匿名的な音の世界」を、すなわち「音楽」と録音メディアがもたらす「音」とのあいだにある領域を説明するために、高橋悠治のワークショップに言及した大友良英の文章を引用していたが、その元になった文章の別の箇所で大友が、その領域を「今自分を取り巻いている音が、まるでAMMの演奏のよう」(*54)だと形容していたことは、このことを聴覚的に裏付ける証言であるように思う。
- (註)
- *33 杉本拓「音響的即興を巡る言説」(『ユリイカ 2007年7月臨時増刊号 総特集=大友良英』青土社、2007年)。
- *34 かつて北里義之は「音響的即興」という語について「海外で一般に使われている(らしい)サウンド・インプロヴィゼーション sound improvisation を翻訳したと思われる」(「即興解体論 in progress (24)」)と述べていたが、誰が・いつ・どこで翻訳したのかは定かではなく、憶測の域を出るものではない。本稿で「音響的即興」としている動向のうち、とりわけ日本のミュージシャンについては海外では音響系 Onkyokei という名称で知られている。また電子音響を取り入れていることに力点を置くエレクトロアコースティック・インプロヴィゼーション Electroacoustic improvisation 、弱音であることを強調するローアーケース lowercase (この語はスティーヴ・ロデンによる発案)、還元や制限という方法論に注目したリダクショニズム Reductionism など、ここで「音響的即興」と呼んでいる動向が他の様々な名称でも語られることがあるということには留意しておきたい。
- *35 野々村禎彦「『現代音楽』の後継者たち 第8回 否定の果てのジャズ ~大友良英 後編」(『WEB版エクスムジカ』ミュージックスケイプ、2003年)https://web.archive.org/web/20040215071534/https://www.exmusica.com/rensai/nonomura/rensai_08/7_nono_top.html。
- *36 同前書。
- *37 佐々木敦「音響的即興とは何か?」(『即興の解体/懐胎 演奏と演劇のアポリア』青土社、2011年)。
- *38 同前書、134頁。
- *39 同前書、135頁。
- *40 同前書、136頁。
- *41 北里義之『サウンド・アナトミア 高柳昌行の探究と音響の起源』(青土社、2007年)104頁。
- *42 同前書、117頁。
- *43 同前書、142頁。
- *44 同前書、同頁。
- *45 同前書、187頁。
- *46 経緯としては、はじめに大谷が『Improvised Music from Japan EXTRA 2003』に寄せた「Improv's New Waves ―論考―」があり、同論考に批判的に言及した北里による「即興と音響の合流点で」という書評への反論として大谷による「ジョン・ケージは関係ない」という文章が書かれ、そしてさらに再反論というかたちで「音響の臓器性」について触れた北里による論考「ケージではなく、何が」(『サウンド・アナトミア』)が執筆されている。
- *47 大谷能生「Improve New Waves」(『貧しい音楽』月曜社、2007年)。
- *48 同前書、209頁。
- *49 大谷能生『ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く』(本の雑誌社、2013年)26頁。
- *50 大谷能生「二重化された死の空間について」(『貧しい音楽』)。
- *51 大谷能生「Improve New Waves」(『貧しい音楽』)210頁。
- *52 同前書、同頁。
- *53 北里は大谷の論考が「すぐれてポストモダン的」であり、「経験の基盤」という「共同性の論理、あるいは公共圏の創出」は「理論的な混乱」であると断定しているものの、北里自身が「『無底』をキーワードにしていたポストモダンのことを考えれば、(註:経験の基盤は)見逃すことのできない『新世代』の特徴だと思う」と述べていたように、大谷による論考は「『モダンの復権』という文脈」に即して読み解かれるべきなのではないだろうか。
- *54 大友良英『MUSICS』(岩波書店、2008年)36頁。
意図されざる遺産
AMM が録音を否定的に捉えてきたことは次の事実からもわかる。たとえば「AMM活動報告書」が付された冊子には「この音楽は明らかに機械的な再生には適していない。(……)再生という目的では『その役に立たなさ』を披瀝している」(*55)と書かれていた。さらに1989年に『AMMMusic』がCD化されたときには「われわれ(AMM)はLPレコードのフォーマットがAMMの音楽の本質を伝えるのに適しているとは決して思っていません。このCDも十全ではなく、複製と反復聴取は即興の豊かな意味を変容させ、歪める可能性さえあります」(*56)という文言が付されていた。カーデューもかつて「即興演奏のテープ録音のような記録は本質的に空虚である」(*57)と述べていたことがある。だが同時に彼らは数多くの録音を残してきたこともまた事実である。それは AMM が録音作品を単に忌み嫌っていただけだと言い切ってしまえないことを意味しているのではないだろうか。
2015年11月、英国で10日間にわたって開催されたハダースフィールド・コンテンポラリー・ミュージック・フェスティバルの最終プログラムに、結成から50周年を迎えた AMM が出演した。そこには11年前に脱退したキース・ロウの姿があった。どのような経緯があったのかはわからない。だが AMM はトリオ編成として再始動し、翌月にはロンドンの「カフェ・オト」でライヴを敢行。翌2016年もパリ、トロンハイム、ブダペストでコンサートを開き、グループの歴史に新たなページを刻んでいった。このたびリリースされた『An Unintended Legacy』には、そのうちのロンドン、パリ、トロンハイムでのライヴの模様が収められている。ジャケットにあしらわれているロウによる絵画――彼は AMM の多くの作品のジャケットを手がけている――は、実はもともとファースト・アルバムで使用される予定だったものだそうだ。本盤は半世紀を経た AMM というグループがあらためて出発点を設定し直すことによって、逆説的にこれまでの活動を総括した紛うかたなき歴史的作品だと言っていいだろう。なお本盤は収録後にこの世を去った AMM 創設時のメンバーであるルー・ゲアの死に捧げられている。
どのコンサートにおいても構造的な始点も終点もなく、また合奏にはカタルシスをもたらすような起伏もなく、聴き手による様々な音楽的期待を多方向に裏切っていくなかで、延々と続く川の流れにも比すべき融通無碍な音が発生しては消えていく。トリオ最後期の作品『Fine』に近いところがあるものの、より一層音楽的な展開からは遠くなっている。プレヴォーはティルバリーとのデュオ時代に次第に傾倒していったような、シンバルを弓奏したり横置きのバスドラムに物を擦り付けたりすることによって繊細な響きを生み出す奏法を中心におこない、またフィードバック音や電子ノイズを駆使するロウは、以前に比してさらに抑制された響きを生み出していく。ラジオの使用も微弱音かノイズが多く、印象に残るのはロンドン公演で用いた際に合奏にかき消されながらも流れたビーチ・ボーイズの楽曲だろうか。そうしたなかでときにロマンティシズム溢れるフレーズを反復するティルバリーの演奏はアンサンブルを構造化するかに聴こえるものの、デュオ時代にみられたような牽引力があるわけではなく、プレヴォーの擦過音やロウの持続音の響きが入り混じることによって構造がいわば宙吊りにされていく。こうしたたしかにそれとわかる三人の個性が聴こえてくる一方で、擬音語によってしかあらわし得ないような即物的かつ匿名的なサウンドも多々現れる。三人になるとやはり誰がどの音を発しているのかわからなくなる場面が多くなり、音の帰属先を探す耳の思考が活発化される。だがそもそもロウにとって AMM には「三つの要素」がなければならなかったという。
私たちはいつもAMMには三つの要素がなければならないと思っていた。もし二つの要素しかないのであれば、それはAMMではない。AMMには二人だけで活動していた時期もあるものの、私はそれをAMMとして考えてはいない。(*58)
即興演奏においてソロやデュオと異なるトリオ(あるいはそれ以上)という編成。その特異性をコミュニケーションに喩えて考えてみるならば、自分自身と対話するソロ、あるいは決められた一人の相手と対話するデュオとは異なって、トリオではまずは対話相手を探すところからはじめなければならない。とりわけ非正統的な音響を扱う場合、音の帰属先が判別し得るソロやデュオに対して、トリオではときに自分以外の音が誰によって発されたのかわからなくなることがある。それは単に人数が多いというだけでなく、即興演奏における合奏の在り方がソロやデュオとは根本的に異なるような極めて複雑な過程を経ることを意味するだろう。コール&レスポンスに代表される音楽の「対話」とは縁遠い AMM にあって、こうした複雑性こそが特徴だとするならば、分裂時代の彼らがなぜ AMM らしからぬ音楽を奏でていたのかもわかる。そしてほとんどの場合 AMM における「三つの要素」というものは、キース・ロウとエディ・プレヴォーというジャズを出自に持つ両極に、第三項としての現代音楽の作曲家が加わることによって成立していたのだった。
こうした複雑性を考えるとき、音盤となることは決して否定的な結果だけをもたらすとは限らないはずだ。音盤においては実際に演奏した彼ら自身でさえ、「誰がどの音を発したり、止めたりしているのかと思い、考えてみるとそれは自分自身であったことに気付くことも珍しいことではなかった」(*59)と述べていたように、音はより匿名性を帯びたものへとなっていく。だがそもそも AMM は音の意味が不分明であること、だからこそ「聴くこと」が活性化されることにその魅力の一端があった。たとえばデイヴィッド・トゥープによる「私は1966年以降、AMMのライヴによく足を運んでいたが、いつも暗がりの中での演奏だったため、ロウが何をやっているか見ることはできなかった」(*60)という証言にあるように、彼らはライヴにおいても結果的には視覚的要素を遠ざけるような試みをしていたのであるが、それはその魅力をより一層引き立てることに資しただろう。だとすれば音に手がかりを与える視覚的な要素がないという録音作品の在り方を、AMM の特徴をよりよくあらわすための手段として考えることができるのではないか。「聴くことを聴くこと」と題されたライナーノーツの中で、AMM の録音作品を聴くことについてアレン・フィッシャーとペイジ・ミッチェルは、新奇な音や不明瞭な音に接する視覚的な手がかりがわたしたちにない場合、むしろ聴覚のプロセスの重要性が高まるがゆえに、「AMMのコンサートを聴くことのいくつかの側面は録音作品によって強化されると論じることは可能だ」として次のように述べている。
録音作品を聴くことは、私たちを、音が意味を獲得し始めるような聴覚的なシステムの一部分へと、より一層駆り立ててくれる。それはまた、音に対して一段と集中し、そして聴くことのコンディションを変えるという特権を、私たちに与えてくれる。大まかなアウトラインを除いて、その体験は繰り返すことの難しいものであるだろう。なぜならAMMの本質と聴くことの本質は、私たちがいつも同じシグナルを拾い上げることなどありそうにもないということを意味しているからだ。(*61)
AMM の演奏とわたしたちが聴くことは同じ本質を、すなわちつねに移り変わりゆくことを意味している。ここで演奏だけでなく「聴くこと」もまた繰り返し得ないとされていることは重要だ。たとえ同じ一音が延々と続く演奏だったとしても、「聴くこと」は時間の経過とともに異なる要素を拾い上げていく。あるいは反復再生が可能な録音物であったとしても、わたしたちは「聴くこと」の反復のなかから差異を掴み取る。二度目の聴取は一度目の聴取とは異なる要素を拾い上げるからだ。それはまさしく複数の「音楽」への潜在性を秘めた「音」が「聴くこと」によって再編されているということ、すなわち「音響の臓器性」に触れる経験でもあるだろう。AMM は録音作品が「生の空間」にある音楽的経験を骨抜きにしてしまう「役に立たないもの」として捉えていた。しかし同時に「空間性」と「聴くこと」の称揚、あるいは「ノイズ」を探求することによって、「いまだ名前をもたない構造と、可聴的なものだけで成り立つ空間」すなわち「死の空間」を「生の空間」に積極的に持ち込む術を模索してもいた。ならば彼らの録音作品には「死の空間」が二重に織り込まれていることになる――一つは非正統的な音響の探求によって、もう一つは録音によって(*62)。わたしたちが AMM の録音作品を聴くということは、単に「生の空間」における音楽の仮初めの姿を追体験する空虚な営みなのではなく、むしろ彼らが触れていた「死の空間」の体験をその作用方式において反復するための方法なのだ。それだけにとどまらず、わたしたちが「聴くこと」の対象となるのが他でもない AMM の演奏であることは、つまり二重化された「死の空間」に接するということは、ライヴによっては決して現出しなかっただろう「音」の二重化された潜在性をわたしたちに経験させてくれることにもなるのである。
これまでの言明からは意外にも、実はキース・ロウは AMM の過去の作品を聴き返すと語っていたことがある。彼は「これまでにリリースしてきたアルバムのうちのいくつかには容易には受け入れ難いところがあると思う。けれどもそれが録音作品の偉大さだとも思う」(*63)と言い、AMM に限らずその時代の最も重要な録音作品の一つとして『The Crypt』を挙げていた。彼が言う「受け入れ難さ」をこれまで述べてきた「音響の臓器性」と言い換えてもいいだろう。あるいは録音作品が生演奏の不完全な再現だとするならば、まさしくその不完全性によって生演奏には成し得ない音楽的な価値を持つ。そしてそうした余白があればこそ、プレヴォーはレーベル運営を通して精力的に音源を、単なる記録ではなくタイトルを付した作品としてリリースしてきたのではないだろうか。彼らは録音を拒絶する素振りを見せながらも録音によって可能になる音楽体験があるということをも否定していたわけではないのだ。カーデューによる「録音が作り出すものは(実際の演奏とは)別の現象であり、実際の演奏よりも遥かに見知らぬ何かである」(*64)という言葉を肯定的に捉え返そう。空虚なのは録音自体ではなくそれが「生の空間」と見做されたときに生じる齟齬に起因する。その意味でふたたびわたしたちはカーデューの言葉――「音を媒介として探求を行なうこと、そしてミュージシャン自身が実験の中心にいるということ」――へと、こんどは録音作品を肯定するために還ってくることができる。彼らは完全即興を本懐とし、音を媒介とした探求という実験の只中に居続けることによって、結果的に数多の録音を残してきた。スタジオ・レコーディングを含めて録音作品を意図的に残すために演奏をおこなってきたわけではないのである。だがこのことによってまさしく AMM のレコーディングの数々は、「生の空間」のなかで「死の空間」を呼び込もうとする彼らの姿が、つまりは「聴くこと」によって毎回異なる音楽へと編成される二重化された「音」が織り込まれた、かけがえのない遺産として残り続けることになるだろう。
- (註)
- *55 デイヴィッド・グラブス『レコードは風景をだいなしにする』232頁。
- *56 同前書、230頁。
- *57 Cornelius Cardew "Towards an Ethic of Improvisation".
- *58 Dan Warburton. "Keith Rowe Interview".
- *59 デイヴィッド・グラブス『レコードは風景をだいなしにする』251頁。
- *60 デイヴィッド・トゥープ『フラッター・エコー 音の中に生きる』(DU BOOKS、2017年)68頁。
- *61 Allen Fisher and Paige Mitchell " Listening to Listening", An Unintended Legacy, 2018.
- *62 大谷能生は「二重化された死の空間について」と題したエッセイのなかで、現代の聴き手は録音と記譜という「二重化された『死の空間』のその両方に我が身を映しながら、音楽を享受している」と書いていた。ここで「死の空間」とは「音楽のエクリチュール化」のことであり、一見すると「話し言葉」にも等しい AMM の即興演奏に「死の空間」を見出すことは奇異に思えるかもしれない。だが「音楽のエクリチュール化」とは「音楽をさまざまなやり方で対象化し、さらなる多様性の中に解きほぐしてゆく」こと、言い換えるならば「日常的な時間のながれをいったんたちきって、それと自覚的に向かい合う行為」(里見実「対話的創造としての教育――パウロ・フレイレ」)のことを指している。ならばラジオの使用に象徴されるように「日常的な時間のながれ」を対象化する AMM の非正統的な音響は、まさしく「音楽のエクリチュール化」の一つなのだと言うことができるだろう。
- *63 Dan Warburton. "Keith Rowe Interview".
- *64 Cornelius Cardew "Towards an Ethic of Improvisation".






