血縁があってもいっしょにいると傷つけ合ったり苦痛だったりするのであれば、それは無理に家族でいる必要がないと思う。
忘れもしない。田亀源五郎が一般誌で連載を開始すると聞いたときのことである。それは単純に、ゲイ雑誌や国内外のゲイ・アート・シーンで長く活躍してきた人物がこれまでとまったく異なるフィールドに挑むことに対する興奮もあったが、いまから振り返れば、それ以上に時代の変化を嗅ぎ取っていたのだとも思う。もしかすると、日本もゲイ・テーマの物語が広く伝えられる季節が来たのではないか……。実際にその作品、『弟の夫』が話題を呼び、時代を代表する一作となったのは周知の通りだ。
だから、このたび『弟の夫』がNHKでドラマ化され、大きな話題と高い評価で迎えられたことはやはり画期的な出来事だったと思う。それは同性愛がお茶の間に受け入れられたとかそういったレベルの話ではなく、同性婚や多様な家族のあり方、新しい時代の人権について社会が真剣に考え始めたということを端的に示しているからだ。3月にはBSのみでの放送だったが、盛り上がりを受けて地上波での再放送が早々に決定している。まだ観ていないという方はこの機会にぜひご覧になってほしい。(公式サイトはこちら)奇しくもこの連休は東京レインボープライドが開催中であり、セクシュアル・マイノリティと社会のあり方について考える絶好の機会だと言える。
![]() 田亀源五郎(著)/ 木津毅(編) ゲイ・カルチャーの未来へ |
以下の対話は田亀源五郎初の語り下ろし本である『ゲイ・カルチャーの未来へ』の発表から約半年が過ぎ、そのアフター・トークとして軽く振り返る目的で企画されたものである。だが、話題は自然と最新のセクシュアル・マイノリティ・イシューに及ぶこととなった。そう、毎日いろいろなことが起きている。社会は確実に変わろうとしている。相変わらず複雑な問題は山ほどあり、さらに新たな課題にもわたしたちは直面している。だがそれは、時代が前に進んでいるという証明でもあるだろう。
田亀氏は相変わらず明晰な語り口で『弟の夫』のドラマ化のこと、最近のセクシュアル・マイノリティ・イシュー、そして始まったばかりの新連載について話してくれた。ゲイ・カルチャー/ゲイ・アートにどこまでも真摯に向き合い、それを豊かなものにしようと取り組み続けてきた作家の最新の発言をお届けしよう。
■『弟の夫』のドラマは3月のBSでの放送から大反響でしたが、どんな風に受け止められましたか。
田亀源五郎(以下、田亀):やっぱり漫画が届く層とドラマが届く層の違いをものすごく感じました。そういう意味ではドラマ化はすごく有効なんだな、と思いましたね。
■具体的にはどのような違いを感じましたか?
田亀:それはやっぱり、漫画は全然読まないけれどドラマはいっぱい観るという層がいるので。私はそれほどテレビを観ない人間で、テレビドラマにもあまり縁がないんですけど、世のなかにはテレビドラマを楽しみにしている層というのがものすごくいる。テレビがレガシー・メディア的なものになったと言われているけれども、BSでもあれだけの反響になったというのは、まだまだ日本のなかではものすごい影響力を持っているんだな、とは思いましたね。
■ツイッターで『弟の夫』がトレンドに挙がりもしましたし、ネットでも話題になりましたよね。そういう意味では、普段NHKを観ないような若い世代にも届いたのかな、とも思いました。
田亀:それはあったのかもしれないですね。普段からドラマが好きで「今期のドラマの当たり作」として観てくださった層もいるし、普段はドラマを観ないけれどもモチーフが気になったので観てくださったという層もいるし。あと出版との相乗効果で言うと、(『弟の夫』を)出版のときに存在を知っていたけれど、アクセスはしていなかった人がドラマになったから観てみたというのもあったし、知っていて何となく興味はあったけれど、買うところまで至っていなかった人たちが「ドラマ化決定」という帯で背中を押されて買った、というような動きは目に見えてありましたので。そういう意味では、メディア・ミックスの力はやっぱり大きいのだなと思いましたね。
■なるほど。
田亀:もともと広い層に読んでほしいと思って描いた漫画だったので、ドラマ化の話が来たときも「それで広がってくれるのなら大歓迎」と思ってオッケーを出したんですけれど。そういう意味ではとても理想的な展開になったのかなと思います。
■あと僕がもうひとつ思ったのが、世のなかにゲイ・テーマの作品を受け止める準備が整ったのかな、ということでした。
田亀:うん、それは思いますね。ちょうど『弟の夫』の直前に『女子的生活』というトランスジェンダーのドラマをNHKでやっていて。セクシュアル・マイノリティがテーマの作品が連続したことでNHKがそっちのほうに力を入れているんじゃないかという想像もあったみたいですけれど、それはまったくの偶然で。単純に制作時期が重なったそうなんですよ。ただ、その企画がNHK内で通るか通らないかというのが大きいので、そういう意味では世相が反映されて、その準備が整ったという感じはしますね。
いまこそオープン・リレーションシップをヘテロのほうにフィードバックする時期なんじゃないかなと思うんですよ。
■ドラマの内容についてですが、田亀先生はどんな風にご覧になりましたか?
田亀:とても丁寧に真面目に、真剣に作っていただけたので、とてもありがたいなと思っています。私は原作者なので、ドラマにどれだけの距離を取って観られるかは自分でもよくわからなくて。自分が観て楽しめるかがすごく心配だったんですけれど、観ている間にすっかり忘れて引きこまれたので、そこはドラマとしての力があったのだと思います。
■みなさんの反応を観ていると、キャスティングも好評でしたね。
田亀:そうですね。
■把瑠都さんがかわいいと話題で。
田亀:あれは一種のアクロバティックなキャスティングでしたね(笑)。
■(笑)素のままなんじゃないか、っていう存在感が効いていましたよね。あと、僕がもうひとつ良かったと思うのが、原作のエピソードをすごく丁寧に拾っていることでした。
田亀:そうですね。
■たとえば、マイクと一家が温泉旅館に泊まるシーンで、耳栓を配るエピソードであるとか。あれは、ちょっとした配慮や思いやりで共生することが可能だと示唆するものじゃないですか。ああいった細かいエピソードが入ることで、ドラマとしての筋が通っているなと思いました。
田亀:ですね。自分が漫画のなかで描きたかったことのなかで、これは抜けているなというものも当然あるんですね。作者の立場からすると。ただ、観客の立場からすると、あの原作からどこをピックアップして、どこを切り捨てるかという点は考え抜かれてしっかり作られているなと感じられたので。なくなった部分に関しても、そこがないから背骨が抜けたみたいなことはなかったですね。独自の解釈も加えた良い作品を作っていただいたという感じです。
■独自の解釈の部分というのは、とくにどういったところでしたか?
田亀:一番はラストの変更です。私はとくに恒久的な幸せの保証とか、もしくは血縁でどんどん広がっていく家族の絆とかをそこまで肯定はしたくなかったので、そこら辺は違うニュアンスになっていますね。でもそれに関しても、漫画の展開をそのままドラマでやるとエンターテインメントから遠すぎるかな、という気もしますので。ドラマだと寂しいと思っちゃうかな、と。漫画のように自分のペースで能動的に読み進められるものと、テレビドラマのように基本的に受け身で観賞するものとでは、文法やメディア特性が異なるでしょうし。そういう意味では、あのラストシーンは演出の方からご提案いただいたんですけれど、これはこれで多幸感があっていいな、と思いましたね。
■なるほど。ほかにも原作にあったエピソードで言うと、マイクが弥一に「家事や育児も立派な仕事です」というシーンもしっかり反映されていて、あそこはすごく視聴者からの反響があったようですね。
田亀:そうですね。あれは常日頃から自分が考えていて、それで漫画に盛りこんだことではあったので。そこら辺は、専業主婦をしていてモヤモヤしている方も多くいらっしゃるだろうから、シングルファーザーの話で描いたとしても一般的な話題として反応してくれるだろうなとは思いましたね。
■そういった部分に反応があっとことも含め、『弟の夫』が現代の家族の多様なあり方を探る作品だということがすごく伝わっているように思えました。
田亀:そういう意味では、離婚の理由を入れちゃったところなんかは、どちらかと言うと私の趣味ではないんですけどね(笑)。あの離婚の原因というのは、ちょっと昔からあるパターンすぎるので、私が考えていたものとはまったく違うとか、そういうのは少しありますけどね。
■なるほど、たしかに。ただ、NHKは朝ドラなどで家族をテーマにしたドラマを多く作っていますが、そのなかではやっぱり新しいものだなと僕は感じましたし、意味のあることだなと思いましたね。
田亀:そうですね。
「おぎゃあ」と生まれたときからホモフォビアである人なんかいないわけですから。それは育っていく過程のなかで社会に植えつけられていく。そうすると我々にできるのは、社会がホモフォビアを植えつけてしまうことをどうやって防ぐか、ということ。
■そこで急に大きい質問になるんですけれど、田亀先生ご自身は家族とは何だと思いますか?
田亀:(少し考えて)私にしてみれば、基本にあったのはやっぱり血縁なんですね。ただ、それは単純に私が問題のない家庭環境で育ったからであって、血縁があってもいっしょにいると傷つけ合ったり苦痛だったりするのであれば、それは無理に家族でいる必要がないと思う。だから……なんでしょうね。でもひとつ思うのは、ひとり暮らしの友人なんかで鬱病になったりする例を見ていると、何かがあったときにクッションになってくれる人や愚痴をこぼせる人が身近にいるというのは、精神衛生上とても有効なんじゃないかな、とつくづく年を取ると感じます。そういう意味では、サポートし合える環境を家族と呼べるのが一番かな、と思います。
■そうですね。そういう意味では同性婚のイシューというのも、社会的な意味で時代がいかに前に進んでいるかということでもあるんですが、個人にいかに還元するかという問題でもあるということを、ドラマを観てあらためて感じたんですよね。
田亀:うん。ちょっと話が飛んじゃうんだけど、この間ちょっと面白いレポートを見て。『ゲイ・カルチャーの未来へ』のなかでもオープン・リレーションシップの話があったじゃないですか。特定のパートナーがいても、その外での性交渉についてお互いに許容し合うという。それがゲイならではのスタンダードみたいな言い方がされていたけれど、何かの研究で、若年層の――ティーンや20代のゲイのなかでは、モノガミー(一対一の性愛関係)のほうが主流になっているという結果が出たそうで、「へえー」と思って。
■へえー!
田亀:それはアメリカの研究だったんだけれど、これはひょっとしたら同性婚の合法化によって、刹那的な「現在の幸福」でしかなかったゲイ・ライフというものを、ノンケと同じように結婚したり子どもを育てたりという、将来性も含めた長いスパンで捉えるようになった兆しなのかな、と思いましたね。
■なるほどなー。でもたしかに、そうですよね。海外であればゲイも結婚できるだけじゃなくて子どもを持てる可能性であるとか、ライフ・プランニングの幅が広がっているということですもんね。
田亀:たとえば自分の若い頃を振り返ってみても、「自分は大人になったらどうなるのか」というモデル・ケースが日本社会にはなかったわけですよ。ゲイの大人の姿というものが。でも、ゲイ/ヘテロ関係なく「結婚したければ結婚して、子どもを持ちたければ子どもを持って家庭を築く」というような選択肢も存在するのであれば、それを望みたくなる気持ちもすごくわかるんですよ。
■たしかに。『弟の夫』でも、マイクと涼二は自然な選択として結婚を選んだカップルとして登場しますもんね。
田亀:私は逆に、いまこそオープン・リレーションシップをヘテロのほうにフィードバックする時期なんじゃないかなと思うんですよ。
■おおー。でもそれは、僕も思いますね。
田亀:ゲイだからオープン・リレーションシップという時代ではないかなと思いました。どちらかと言うと、すでに結婚をしている人たちで、結婚生活を破綻させたくないけれどセックスレスの問題なんかに直面しているカップルに有効なのかな、と。ゲイ/ヘテロ関係なく、パートナーシップをいかに存続させていくかという選択肢としてオープン・リレーションシップをみんなで考えたほうがいいんじゃない、と思いますね。
■そうですね。実際、そういう動きも一部で顕在化し始めているように思いますしね。
[[SplitPage]]「真面目な性について語る」のではなくて、「性について真面目に語る」という、この違いをはっきりさせておかないと面倒くさいことになると思いますね。
![]() 田亀源五郎(著)/ 木津毅(編) ゲイ・カルチャーの未来へ |
■『ゲイ・カルチャーの未来へ』の発売から半年経ちまして、僕も個人的にいろいろと反響を聞いていますけれど、田亀先生は何かリアクションをお聞きになりましたか?
田亀:うーんと、そうですね。「しんぶん赤旗」での取材の件もそうなんですけど、『ゲイ・カルチャーの未来へ』をきっかけとして、そこに載っていない部分も含めて私に取材したいという話が増えたのは興味深いですね。
■それは僕もすごく嬉しいです。
田亀:はい。アーティストとしてのフィロソフィの話を面白がってくれる人もいるし、社会の考え方という部分を面白がってくれる人もいるし、という。自分のなかでひとつあるのは、(とくにゲイ・イシューに関して)何かの記事が炎上したり勘違いした記事が出てきたりしたときに、昔だったらブログに書くとかツイートしたりということがありましたけど、最近は「まあ、あの本のなかで全部言っちゃったからいいか」と。
■はははは。
田亀:『ゲイ・カルチャーの未来へ』と『弟の夫』でベーシックなところは全部言ってるから、あらためて繰り返さなくてもいいなって感じになっちゃって(笑)。
■たしかに(笑)。ただひとつ思うのは、とくに僕の周りだと、第3章のゲイ・エロティック・アーティストとしてのポリシーを語っていただいた箇所にとてもいいリアクションをいただいているんですね。それって、とくに日本では田亀先生のエロティック・アーティストとしてのお話がまとまって出る機会があまりなかったということだと思うんですね。
田亀:はい、なかったですね。それはやっぱり、エロティック・アートを真面目に取り上げようという文化が日本になかったからだと思いますよ。『弟の夫』を描くようになって取材の数はすごく増えましたけれど、それ以前はごく限られたものでしたしね。海外では『弟の夫』を描く以前から、固いのから柔らかいのまでいろいろな取材があったことと比較すると、そこら辺の壁があるなと感じていたので。
■なるほど。日本ではいまでもアクティヴィズム的なものとエロティックなものが対置されがちなのかな、と思うんですよね。
田亀:うん、少なくとも昔のゲイ・ブームのときはそうでしたよね。
■もしいまでも、「社会運動をするLGBT vs ハッテン場に行くゲイ」みたいなステレオタイプが繰り返されているとしたら、すごく不毛というか残念だな、と。ハッテン場に行きながらアクティヴィズムに参加する生き方だってじゅうぶん可能だと思いますから。
田亀:うん、ただしね、昔はどちらかというとアクティヴィズム側がエロティックなものを隠しておきたい、アンモラルなものを世に出したくないみたいな意識があって、切断が起こっていたと思うんです。でも最近のLGBTリブみたいなものは、社会のなかでLGBTをどう可視化していくかがメインのイシューなので。同性婚なんかがその典型ですよね。いっぽうで、下半身の話というのはヘテロでも公ではそれほど語られたりはしないわけですよ。「社会のなかで可視化する」という前提があれば、誰がどこでセックスをしているかとか、どこにどういったエロティック文化があるかとか、あまり関係がないことなんですよね、正直な話。
■なるほど。あと『ゲイ・カルチャーの未来へ』の話で言うと、偶然ではあるものの『弟の夫』の連載が終了し、初の長編作『嬲り者』の復刻版が出たタイミングで出せた本だったのですが、田亀先生のなかでもキャリアを振り返るようなところはありましたか?
田亀:うーん、どうなんだろう。『弟の夫』をやったことがエロティック・アートの本にフィードバックされるのかと思ったら、まったくなかったから(笑)。
■そうですか(笑)?
田亀:まったくその気配はない、という(笑)。まったくないどころか逆ぐらいで。
■ほんとですか。それはちょっと寂しいですね。
田亀:ポット出版の人が、私がメジャーな仕事をしたから離れちゃったファンがいるんじゃないかと心配するぐらいで。まあ、よくある話ではありますよね。売れたから離れちゃうっていう。音楽でもよくありますよね。
■ああ、カルト作家に対する忠誠心みたいなところからってことですよね。
田亀:そうそう。私も若い頃、ずっと好きだったグループが何かの瞬間に爆発的に売れるとちょっと引いちゃう、それ以降のアルバムは熱心に買わなくなる、みたいなところはありましたからね(笑)。
■なるほど(笑)。とはいえ、内容的にはキャリアを総括するものにはなっているので、その辺も楽しんでもらえたらなと僕としては思いますね。
田亀:そうですね。
主人公のモヤモヤだけではなくて、同時に主人公の横にいる人物のモヤモヤも描きたかったんですよね。だから、たんにひとりの男の子が悩んで成長する話にはしたくなかった。
■それで、これは大阪で開催したトーク・ショウのときにした質問でもあるんですが。30年を超える田亀先生のキャリアを振り返って、もっとも変わらない部分、もっとも変わった部分は何だと思いますか?
田亀:また来たか、この質問。どう答えたか覚えてない(笑)。
■ふふふ。そのタイミングを狙いました(笑)。
田亀:変わらないことは、自分の好きなことをずっとやっているということですね。自分が読みたいもの、自分が好きなものをやっている。変わったことというと……何だろうなあ。率直な話、仕事の幅がものすごく広がったというのはここ数年であります。あとは何だろう……まあ、絵はうまくなったと思いますけど。そのかわり、エネルギーは落ちました。
■いやいや。ちなみに大阪のイベントのときは、「小学生の女の子からファンレターをもらった」とおっしゃっていましたね。
田亀:ああー、はいはい。あとサイン会に子連れの妊婦さんが来たりとかね。そういうのはまったくなかったからね(笑)。
■これはあくまで僕の意見ですが、田亀先生ご自身のご興味や、表現したいことの幅も広がったのかなと思うんですよね。
田亀:そうですね、それはあるかも。「これはやったらから次は別のことをやろう、新しいものを取り入れよう」というのはつねにあるので、結果として広がってはいます。ただひとつ言えるのは、私の興味や活動の幅の広がりの裏にあるのは、幻滅という要素もあって。私は日本のゲイ・カルチャーを何とかしたいと思って、ゲイ業界の内部でずっとやってきたんですけれども、あまりの進歩のなさや酷いことの連続で、そこを真面目にやろうという気がなくなってしまったというのがあるんですね。
■とくにどういった部分ですか?
田亀:それは単純な話、作家に対して稿料を出さないとか、契約書の内容が詐欺みたいなものであるとか、ビジネスとしての問題点は私がデビューした頃からいろいろあちこちであって。たとえば私がデビューした頃は、私は『さぶ』と『薔薇族』と『アドン』に描きましたが、そのなかで原稿料が出たのは『さぶ』だけでしたからね。『さぶ』の版元は、ゲイ雑誌に限らずいろいろな出版物を出していた一般の会社なんですよ。でも『薔薇族』と『アドン』の版元は、ほぼゲイ雑誌しか出版していなかった会社なんですよ。そういうところが原稿料を一切出さないとか、もしくは権利を一切無視して洋物の写真なんかをバンバン掲載するとかしていた。それでいて、『アドン』なんかがそうですけど、誌面ではゲイの権利みたいな綺麗ごとを言っているっていう世界だったんですね。そういうことに問題を感じていました。やがて『Badi』みたいなゲイ資本の雑誌ができましたし、私が『G-Men』に加わったのもそういう問題意識からだったんですけれど、結局『G-Men』でも同じような酷いことが行われたり裏切られたりっていうことがあったので。ゲイ・メディアに対する「頑張っても仕方ないかな」っていう幻滅みたいなものはすごくありましたからね。
■うーん、それは根が深い問題ですね。アンダーグラウンド・カルチャーがビジネス面とどう向き合っていくかという。そこもまた、LGBTやそのカルチャーが可視化されていくなかで、真剣に取り組んでいかなければならないテーマですね。
[[SplitPage]]ゲイを自覚していて、でも公表はできていなくて、自己保身の術は身につけているけれども、ときにそれが破綻してしまう……というのは、ティーンに限らず日本のアダルトのゲイにも多く見られるものだと私は思うんですね。
■そういった話とも少し関係するかもしれないですが、最近、LGBTブームに対するネガティヴな側面にフォーカスしたり、コミュニティ内での複雑な対立を取り上げたりするものが注目されるなど、いろいろと物議を醸していますよね。田亀先生もそういった流れを受けて、「自身の抱えるホモフォビアにどう向き合い対処していくかという話と、社会がホモフォビアを補強/増幅してしまうのをどう防ぐかという話を、まぜこぜにしないほうが良いと思う」とツイートされていましたが、この辺りについてもう少し説明していただけますか?
田亀:はい。個人のホモフォビアをどうするのかについては、それは自分のなかで解消するしかないわけですよ。周りの環境としては、それを解消するための情報は提供できるけれども、克服できるかできないかというのは当事者の問題でしかない。だからこれはちょっと申し訳ないですけれども、ひとりひとり頑張ってくださいとしか言いようがない。
ただ、そのホモフォビアがどこから来てその人のなかに植えつけられたのかというのは、当然社会からなんですよ。「おぎゃあ」と生まれたときからホモフォビアである人なんかいないわけですから。それは育っていく過程のなかで社会に植えつけられていく。そうすると我々にできるのは、社会がホモフォビアを植えつけてしまうことをどうやって防ぐか、ということ。これなら対処ができるんですよ。で、ポリティカル・コレクトネスが有効なのは、そういうことだと私は思うんですね。ホモフォビアを露にすることに対して「それは良くないことである」と言うことによって、ホモフォビアを持っていて当然という風にはならなくなるわけです。自分にはホモフォビアがあって、それを知られたらポリティカル・コレクトネスに晒されてしまって差別者にされてしまうことが怖い人というのは、それはその人がホモフォビアを乗り越えられなければ「お気の毒です」としか言いようがないんですけれども。でも、ではなぜホモフォビアに対してポリティカル・コレクトネスが作用してくるかというと、次の世代や若い世代がそれ(ホモフォビア)を再生産してしまうことを防ぐためなんですよ。
■ああ、それはとてもクリアなご意見ですね。個人のホモフォビアに関しても、基本的には乗り越えたほうがいいと思われますか?
田亀:それはそうです。フォビアなんてものはないに越したことはないです。ましてや当事者だったらなおさらですよね。
■そうですね。僕がこうした議論で少し思ったのは、「理解することと差別しないということは違う」と指摘するときに、「理解しなくてもいい」ということを強調するあまりフォビアを放置することになりかねないのがちょっと怖いということなんですよね。
田亀:でもそこは、「わからない」ということがホモフォビアではないから。ホモフォビアというのは嫌悪感を抱くということだから。わからなくても「気持ち悪い」と言わなければいいんです。
■「気持ち悪い」と思ってしまうことを肯定しないようにする、という。
田亀:そうです。いままでの世のなかというのは、「気持ち悪い」と思うことがみんな当たり前、という世界で。それが長く続いた結果ホモフォビアが続いているわけだけど、それはやめましょうよ、という話なので。それは「理解できる/できない」という話とちょっと違いますよね。
たとえば私はゲイです。男の人が女の人のマンコに興奮するというのは理解できないし、クンニとか想像すると「ウエッ」となりますから。でもそれはヘテロフォビアというのではなくて(笑)。でも、私が「クンニするのが気持ち悪い」とか言っちゃうとそれはひょっとしたらヘテロフォビアになるかもしれないわけですよ。そんなことを言う必要ないじゃないですか。でも、「女性の身体に興奮しません」と言うことはフォビアとか差別にはならないから、そこら辺の線引きなんじゃないかなという気がしますね。
■なるほど。もうひとつあらためてお聞きしたいのが、LGBTという言葉が流通していくなかで、セクシュアル・マイノリティとか性的少数者とかいうときの「セクシュアル」「性的」という部分がぼかされてしまう、ということです。
田亀:「性」というニュアンスに対して固い場では語りづらいというのはあるんだな、と思いますね。ちょっと最近興味深いなと思ったのが、性的少数者という言葉に「性」が入るからLGBTになってしまうという話と、性的犯罪や性的暴行とかを「いたずら」なんかに言い換えるという話が――まったく違う話ではあるんですけれど、根底にあるのは同じなんじゃないかな、ということなんですね。性を大っぴらに語りづらいというところですね。やんわりと、直接的じゃない表現にするというところでは、同じなのではないかと思いますね。で、それは一種の要らない配慮みたいなものだと思うんですよ。
■性の議論をどこまで出すのか、というのはLGBTイシューでつねに問題になることで、なかなか解決しないテーマではあるんですけれども。
田亀:あと厄介のは、「じゃあ議論しましょう」となると、今度は勘違いから「正しい性のあり方」みたいなものを持ってくる人たちもいるわけですよ。そうではない、というところを共通認識とするのはなかなか難しいかなとは思います。誤解する人は多いだろうなと。
■なるほど。
田亀:だから、「真面目な性について語る」のではなくて、「性について真面目に語る」という、この違いをはっきりさせておかないと面倒くさいことになると思いますね。
■そうですね、それは重要なことだと思います。いつもの話になってしまうんですけれど、そういうデリケートだったり複雑だったりする問題には、僕としてはカルチャーに期待したいなというところがあって。何が正しいか/正しくないかみたいなところで割り切れない問題を扱うのが文化だったり表現だったりするのではないかな、と。
たとえばですが、オーランドのゲイ・クラブでの銃乱射事件のときに#twomenkissingという男性同士のキス写真が流行りましたよね。男性ふたりのキスが事件の火種になったという報道がきっかけで――まあ、これについては犯人がおそらくゲイだったということがのちに明らかになったので、そう簡単に済む話ではないのですが、それでもホモフォビアに対してある種の揺さぶりをかけるものになっている。そうしたポップな社会運動みたいなものが、日本でももう少しあってもいいんじゃないかなと思います。
田亀:ですね。でも、これはソサエティによって意味合いが変わってきますよね。たとえば日本でキスというと欧米のキスよりもずっとセックスに近づいてしまうので、#twomenkissingのプロテストを日本でやることが有効かというと私はそうは思わないですね。男女でも公衆の面前ではキスすべからずみたいな社会なので、そこでキスのプロテストをするのは意味合いが変わってきてしまう。でも、オランダでゲイ・カップルが暴行されたヘイト・クライムに対して、異議を唱えるために政治家なんかが男同士で手を繋いで歩いたことがありましたけど、こちらだったら日本でもオッケーかなと思いますね。
■なるほど。日本でもそういった前向きな動きがあればいいなとは思うのですが、一部では最近LGBTブームのバックラッシュが来ているのではないかと言われていますね。その辺りについてはどう思われますか。
田亀:うーん、まあ、そういうことを言う人もチラホラいますよね。でもそれと同時に、ネガティヴな話題が出たことに関して、昔だったら当事者の、しかもリブ団体だけが異議を唱えていたのが、最近ではゲイ/ヘテロ関係なくリベラルな人たちによる反論が出てきているので、私はどちらかと言えば健全かなと思います。
■そうですね。これについては、もう少し長期的な視点で考える必要がありそうかなという気がしますね。
田亀:でもまあ、いままでなかったものが出てくると目立ちますから、LGBTブームが目立ったようにバックラッシュも目立ったように感じられるのかもしれない。ただ、それはある意味議論が始まったということでもあるので。
■まあそれこそ、こういう議論ってとくに欧米では盛んに行われてきたものでもありますし、日本もそういう段階に入りつつあるのかなという気もします。
田亀:うん、だからバックラッシュが見られるようになったからといって、何かをやめようという方向にはならないと思うし、やめるべきではないと思いますね。
■そうですね。
田亀:私が一番バカバカしいと思うのは、「ほら見ろ」、「ほらバックラッシュが始まった」みたいな言論ですね。そういうことを言う人間が一番バカバカしいと思っています。そんなこと、社会にとって何の役にも立たない、自分には先見の明があったんだみたいな自己顕示欲以外は何もない言論だから(笑)。
[[SplitPage]]辛さを描いてもいいんだけど、我々は大人なんだからさ、その子を救ってあげるヒントをちゃんと出そうよ、という。
ゲイ・エロティック・アーティストとしてゲイ雑誌での作品の発表、海外でのイベントへの参加など変わらず精力的に活動を続けている田亀源五郎だが、一般誌での第2作となる『僕らの色彩』の連載がスタートした。『弟の夫』同様、月刊アクション(双葉社)での連載となり、公式サイトでは第1話の試し読みができる。
『僕らの色彩』は主人公の男性高校生・宙(そら)を中心とする青春群像劇。宙はゲイであることを自覚しているが、周りにそのことを打ち明けてはいない。また、クラスメートの男子に片想いをしている。そんななか、ある人物が現れて……というところから物語が展開する。もちろん、田亀にとってはじめての一般向けの青春漫画だ。
■そんななか、田亀先生も新しい段階に進まれたと言いますか、一般誌での新連載を始められたわけですが。『ゲイ・カルチャーの未来へ』でも次は中学生や高校生が読めるゲイ・テーマの作品に興味があるとお話しされていたので、いわゆるカミング・オブ・エイジ(子どもから大人に成長する時期)ものになるだろうなと思っていましたが、真っ向からそこに取り組む物語ですよね。海外のゲイ映画や小説でもカミング・オブ・エイジものはたくさん作られてきましたが、田亀先生がそれで行こうと思った理由からお聞かせください。
田亀:ひとつには、『弟の夫』で一哉くんという悩める中学生のキャラクターを描いたときに、「ああ、この子が読めるものがあったらいいのにな」と作者ながらに思ったことです。あと、こういう子どもを描くという可能性を自分のなかで発見したというのがありますね。そのなかで、じゃあ自分がミドルティーンやハイティーンを主人公にしてどういう話を描けるか考えたときに――いまおっしゃったように、そういうものはたくさんあるんですよ。そのなかで自分だけのもの、新しいものをどうやって出せるかということを考えたときに、「こういうものは少なくとも私は見たことがない」という方向性を思いついたので、それを実行したという感じですね。
■連載の告知があったときに僕が「おっ」と思ったのが、タイトルが「僕ら」という複数形になっていることだったんですよね。群像劇であることを想定されているのでしょうか。
田亀:そうですね。メイン・キャラクターがふたりいまして、そのふたりをまずは対比させて、さらに周囲の人間を描くという。これは『弟の夫』といっしょで、「この人にはこういう内面があって、この人はこういう内面があって」というもので世界は広がるかなというのがあるんですね。で、今回はちょっと冒険して、主人公をゲイにしてその内面を描いているんですね。これは読者の多くがヘテロであることを考えると、共感というところでハードルがすごく高くなっているので、はたして成功するかどうかわからないんですけれど。で、それをやってみたいなと思ったときに、主人公のモヤモヤだけではなくて、同時に主人公の横にいる人物のモヤモヤも描きたかったんですよね。だから、たんにひとりの男の子が悩んで成長する話にはしたくなかった。
■なるほど、わかりました。あと僕が驚いたのは、けっこう田亀先生の自伝的な要素というか、ご自身の経験が投影されているなというところでした。これは僕が『ゲイ・カルチャーの未来へ』のときに実際に田亀先生の生い立ちについてお聞きしていたからでもあるのですが。
田亀:いやあ、それは印象的なエピソードをプロローグで入れただけ、みたいな感じですよ。
■ほんとですか(笑)? でも、主人公がアート志望で美術部に入っているというのは。
田亀:でもそれは、描きやすいからですよ。私はほら、運動部の経験とかないから(笑)。
野田:運動部も描いてるじゃないですか(笑)。
(一同笑)
田亀:ポルノなら描いてますけど(笑)。
■(笑)でも、僕としては田亀先生と近いエピソードが入っているのが何だか嬉しくて。
田亀:これはね、『弟の夫』を描いたときにつくづく思ったんですけど、どんなキャラクターでも自分のリアルな経験であるとか、そういったものを反映させると、キャラクターがいきなり動いたり肉がついたりするんですよ。たとえば『弟の夫』のユキちゃんなんかでも、本が大好きで、大人が言ったことに対して納得がいかなくて、みたいな部分は小学校の頃の私だし。
■あ、なるほど。
田亀:夏菜が家まで我慢できずに『ロミオとジュリエット』を公園で読んで泣いちゃう、みたいなものも小学校の頃の私のエピソードだし、そういったものを入れることでキャラってリアルに育っていくんだなという体感があったので。だからこの宙くんに関しては、ちょっと積極的にそういうところを取り入れてみた、という感じですね。
■そうかー。ゲイというアイデンティティだけでなく、美術というモチーフがどう物語と関わってくるのか、すごく楽しみにしています。そういった田亀先生ご自身のご経験やバックグラウンドも反映されていると思うのですが、いっぽうで、設定は現代にしてあってLINEなんかも出てきますよね。
田亀:ええ。
■ご自身の高校生時代と、いまの高校生のゲイの男の子とでは、どの辺りが違うなと思われますか?
田亀:いやあ、それはわからない(笑)。
■(笑)
田亀:それはわからないね。私の時代にはゲイ雑誌というものがあったけれど、この世代だと雑誌はまったく意味がないだろうし。じゃあ高校生で出会い系アプリをもう使っているのかというと……ちょっとわからない部分があるし、描きづらいなというのもあるし。いかんせん私が高校生だったのも、もう40年ぐらい前なわけで……それで高校生を主人公にしようなんて、我ながら無謀なことをやろうとするな、と。
(一同笑)
田亀:しかも、『弟の夫』で何とか幼女は描けるようになったけれど――で、美人とか婆さんとかは昔からよく描いてたけど、ミドルティーンの、いわゆるアイドル世代の女の子って一番苦手なのよ。それをメイン・キャラにするなんて、我ながらよく無謀なことをやったと思って(笑)。
■(笑)でもそれは、新しい挑戦をしたいという欲求から来ているんじゃないですかね?
田亀:うーん、でも、必要だからしょうがなくやってるって感じかなあ。実際少し考えたんですよ。いまの高校生に自分がどれだけ寄れるかわからないから、いっそのこと昭和の話にしてしまって、過去の話にしようかとも思ったんです。けれどそうすると、個人のゲイが社会とどう繋がっていくかという私が描きたい部分がまったく違う意味になってしまうので、やっぱりこれは現代でなければいけないなというのがあって。いまから「こんな高校生いねーよ」と言われないようにしないと……。
■ふふふふ。
田亀:担当編集さんが幸い平成生まれなので。ヒロインの髪型を最初「こんなのどうでしょう」と見せたら、「昭和っぽいです」と言われたり(笑)。
(一同笑)
■少女漫画や女性漫画はとくに、髪型や服装、もしくはメイクのトレンドが大変と聞きますもんね。でも、いち読者としては無責任ながら、いまのティーンを田亀先生がどう描くかという点も楽しみにしていますよ。僕が高校生のときといまの高校生も、もう全然違うと思いますからね。何と言ってもインターネット以降だし、ゲイの高校生が知りたいと思う情報がどういう風に流通しているのか……。
田亀:ですね。まあ個人差もあるし、地域差もあるし、というところで何とか乗り切ろうかな、と(笑)。
■ははは。でも、個人差というところで言うと、主人公の宙くんがすごくいいキャラクターだなと思いました。高校生としては自立しているなと思って。僕はまだ1話だけ拝読している状況ですけど、宙くんは自分がゲイであることを自覚していて、かつ、ややディフェンシヴではありつつも自尊心を持っていることはちゃんと伝わってくるんですよね。それこそクラスメートが同性愛を「気持ち悪い」と言っても、「こんなことで傷つかない」と考えたり。現時点でお話しできる範囲でだいじょうぶなのですが、宙くんのキャラクターはどのように生まれたのでしょうか。
田亀:傷ついたり悩んだり、というのは世のなかにいっぱいありますし、それで悲惨な結末を迎えるというのを私は山ほど見てきた。たしかにそれは現実の問題ではあるんだけど、それをフィクションで再生産することに私はあまり意味を感じなかったんですね。これに関しては、読んでいて嫌な気持ちにはなってほしくない、と。どちらかと言うと励まされてほしいかな、と――とくに若いゲイ当事者の子たちに。それプラス、自分で感じている社会のリアルを描きたい。宙くんのようにゲイを自覚していて、でも公表はできていなくて、自己保身の術は身につけているけれども、ときにそれが破綻してしまう……というのは、ティーンに限らず日本のアダルトのゲイにも多く見られるものだと私は思うんですね。ただ、アダルトはそのことに鈍感になってしまっている気がする。それを逆にティーンに持ってくることによって、その鈍感さというのを再度考え直すことがフィクションのなかでできるんじゃないかなという目算があったんですね。
■なるほど!
田亀:そういう意味でこういうキャラクターにしたんですけれど、ぶっちゃけ最初は自分の高校時代に寄せすぎてしまって、編集者に「達観しすぎていて感情移入が難しい」と言われてしまって(笑)。
■はははは! 田亀先生には申し訳ないですが、それめっちゃわかります(笑)。
田亀:それでもう少し、ウェットな方向に調整していますね(笑)。
■でも結果として宙くんのこの感じというのは、共感もできるラインでありつつ、自分を持っている子だなというところで好感を持ちましたね。
田亀:自分のなかでは瑞々しい感じにしたかったんですね、イメージとして。瑞々しいけれど、傷つきやすいというものにはしたくない、そんな感じかな。傷ついてはいるんだけれども、ある程度以上は自分で癒せる。ストラグルする状況にはなるんだけれども、感触としては爽やかに描きたいなというのがあったので。ちょっと話ズレるけど、あれ観た? 『ハートストーン』(註1)。
註1
ハートストーン:2016年アイスランド/デンマーク映画。グズムンドゥル・アルナル・グズムンドソン監督作。アイスランドの小さな漁村を舞台に、少年少女の心の機微を描く青春映画。
■観ました、観ました。
田亀:いや、映画としてはすごくよくできてたんだけど、「21世紀でまたこれ?」って。自分がティーンのときに観てたら、二度と観たくない映画になってたんじゃないかと思って。
■まああれは、田舎の閉鎖的なコミュニティというのもありますしね。
田亀:ゲイの男の子のお父さんがすごくホモフォーブな人で、そのお父さんが町でゲイバレした人とケンカして、その人が引っ越しちゃったとか。そういうところですごくマッチョな教育を受けていた男の子が主人公のことをじつは好きで、でも誰にも言い出せなくて……というところで追いつめられていく。映画としての出来が良いだけに、何ともね。
■ゲイ・アイデンティティであることの辛さみたいなものって、たしかに昔からフィクションでよくあるし、しかも辛いだけに受けてしまうんですよね。
田亀:辛さを描いてもいいんだけど、我々は大人なんだからさ、その子を救ってあげるヒントをちゃんと出そうよ、という。
『弟の夫』のドラマの反応を見ても、「ゲイのドラマというよりも家族のドラマ」、「ゲイのドラマだと思ったら人間の話でした」みたいなものがあるんですけれど、あれも私はちょっと違和感があるんですね。
■なるほど。いや、まさにその辺の話をしたかったんですよ。この間日本でも公開されたブラジルの映画『彼の見つめる先に』(註2)にしても、Netflixで観られる『ぼくたちのチーム』(註3)にしても、まさにカミング・オブ・エイジもので、ゲイの男の子たちが登場するんですけれど、すごく爽やかなんですよね。そうした前向きさこそが、ゲイのティーン向けのフィクションの現代性なんじゃないかと僕は思っていて。体育会系のホモフォビアとぶつかるだけじゃなくて、和解することや、あとゲイ当事者の自尊心もきちんと描かれている。そういう意味で田亀先生の『僕らの色彩』についても、ムードとして現代的な前向きさを感じました。
註2
『彼の見つめる先に』:2014年ブラジル映画。ダニエル・ヒベイロ監督作品。ブラジル・サンパウロを舞台に、目の見えない少年レオの恋や友情を描く青春映画。ちなみに重要なモチーフとして使われるのがベル&セバスチャンの“トゥー・マッチ・ラヴ”。
註3
『ぼくたちのチーム』:2016年アイルランド映画。ジョン・バトラー監督作品。ラグビー人気の高い寄宿制男子校に通うゲイの高校生ネッドが、同室のラグビーのスター選手であるコナーと友情を育む姿を描く。
田亀:ぶっちゃけた話、『ムーンライト』(註4)がやっぱりすごくヒントになったんですよ。あれだけセンシティヴでありながら、暗くないというか。個人の内面の話と社会の話がシームレスに繋がっている感じがして。『弟の夫』を描くときには『ウィークエンド』辺りに刺激されたところがありましたけど、次の作品をどうしようかとボチボチ考えているときにちょうど『ムーンライト』を観て、「しまった、やられた」と思ったところがあるので。
註4
『ムーンライト』:2016年アメリカ映画。フロリダ州マイアミの貧しい地区で育った少年シャロンの成長を3つの時代に分けて描く。第89回アカデミー賞受賞作。
■『ムーンライト』もそうですし、田亀先生は同時代のものをしっかりチェックしてらっしゃるので、時代の空気を読んでいらっしゃると思いますよ。『君の名前で僕を呼んで』(註5)もある種のカミング・オブ・エイジものですけれど、それもゲイ・アイデンティティに悩みすぎない現代的な空気があります。
註5
『君の名前で僕を呼んで』:2017年イタリア/フランス/ブラジル/アメリカ映画。ルカ・グァダニーノ監督作品。1983年の北イタリアを舞台に、17歳の青年エリオが年上の青年オリヴァーに抱く恋心を瑞々しく描く。主題歌はスフィアン・スティーヴンス。
田亀:『ゲイ・カルチャーの未来へ』でも話したけれども、自分の内面のほうはアダルト作品のほうで思いっきり表現できているので、一般で描くときは外に広がっていく感じにはなっていて。当然、「いま描くなら何だ」という意識はあります。『ハートストーン』を観て「いまこれはちょっと」と思ってしまうように、「いま私はこういうのがいいな」と思う部分が出てきているとは思います。
■田亀先生が世代を超えて、若者を描かれているのがいいと思うんですよ。ゲイってとくに、生まれる時代によって生き方が左右されてしまうところがありますよね。そこで切断が起こってしまうのも寂しい話だと思いますから。
田亀:ですね。切断で思い出しましたが、『弟の夫』のドラマの反応を見ても、「ゲイのドラマというよりも家族のドラマ」、「ゲイのドラマだと思ったら人間の話でした」みたいなものがあるんですけれど、あれも私はちょっと違和感があるんですね。「ゲイのドラマであって、家族のドラマである」っていうものなので。ゲイであることを描くのであればゲイのことも描くし、その家族のことも描くし、という風に、私のなかでそこはシームレスに繋がっているんだけれども、どうも世のなかにはゲイというところで切断したがる傾向があって。
■ありますね。
田亀:私はゲイものということにこだわりたくて、そこは切断したくないという想いがありますね。そうすることで「ゲイが存在する社会」「ゲイ・キャラクターが登場するフィクション」というものを、当たり前のものとして描きたい。
■なるほど。ゲイ・テーマの物語が普遍性を持つというところで挑まれている、ということですね。では、次で最後の質問にしたいと思います。『弟の夫』は「ヘテロ向けゲイ漫画」というコンセプトでした。『僕らの色彩』も、もちろんそんな風に多くの方に読んでいただきたい作品ではあると思うのですが、敢えて言えば、とくにどういった人に届けたい作品なのでしょうか。
田亀:ティーンのゲイに届けばいいな、とは思いますが、『弟の夫』みたいに明確にコンセプチュアルなものではないので、誰それに届けたいというよりは、自分で描きたかったもの、という気持ちのほうが強いです。
■でも、仮にゲイのティーン向けのものであったとしても、それ以外の人にも十分届くと僕は信じたいですけれどね。
田亀:それは狙っているんですよ。そこから普遍的なものに引っ張っていきたい。ただ、単純に一般誌で描くときに「ゲイのティーン向けです」というのでは、企画を通すのは難しい(笑)。
■なるほど。ただ、『弟の夫』のドラマの話と同じで、ゲイ向けのものが受け入れられる土壌もできてきたように僕は感じますけれどね。
田亀:それはそうなんですけれど、現場ではゲイものということで過剰な反応が起こるのもやっぱり見てきていますからね。
■ああ、なるほど。
田亀:あ、一番届いてほしかったのはね、13歳から18歳の自分ですね。
■ああー!
田亀:それが一番あります。自分が13歳から18歳のときに、欲しかったけれどもなかったもの、という。それは、いまの社会を見ていてもあるとはどうも思えないので。ロマンスものでもなくて、性的なエンターテインメントでもないゲイものということですね。それを描きたかった。
■田亀先生のこれまでのモチベーションとまったく同じというところに感動します。
田亀:ふふふふ。
■ゲイ・ポルノの分野でも世になかったものを描き続けてきた田亀先生が、カミング・オブ・エイジものでも世になかったものを描かれるというのはすごく筋が通ったお話だと思います。
田亀:アウトラインだけ聞くとよくある話になっちゃうから、読んでもらわないと始まらないという話ではあるんです。
■わかりました。物語の続きを楽しみにしています!
※ ドラマ『弟の夫』全3話は、5月4日(金)にNHK総合テレビにて放送(第1回13:05~、第2回14:00~、最終回15:05~)。











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