「ピカ」と一致するもの

作品情報

『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』
2017年2月18日(土)より、有楽町スバル座、アップリンク渋谷ほか全国順次公開

監督:チュス・グティエレス
参加アーティスト:クーロ・アルバイシン、ラ・モナ、ライムンド・エレディア、ラ・ポロナ、マノレーテ、ペペ・アビチュエラ、マリキージャ、クキ、ハイメ・エル・パロン、フアン・アンドレス・マジャ、チョンチ・エレディア他多数
日本語字幕:林かんな/字幕監修:小松原庸子/現地取材協力:高橋英子
(2014年/スペイン語/94分/カラー/ドキュメンタリー/16:9/ステレオ/原題:Sacromonte: los sabios de la tribu)

提供:アップリンク、ピカフィルム 配給:アップリンク 宣伝:アップリンク、ピカフィルム
後援:スペイン大使館、セルバンテス文化センター東京、一般社団法人日本フラメンコ協会

公式サイト
https://www.uplink.co.jp/sacromonte/

 エレクトロニックなクラブ系の音楽にとって、フラメンコといえば、チル・アウトの一要素として流麗なギターが使われる程度のことが多い。しかし映画『サクロモンテの丘』のフラメンコの音楽と踊りは、はるかに荒削りで強烈なものだ。歌詞のストレートなあけすけさはラップに負けず、手拍子(パルマ)と踊り手のステップ(サパテアード)と打楽器的なギターによるリズムは、ミニマルなダンス・ミュージックに通じ、ときにトランシーでさえある。
 映画が撮られたのは、スペイン南部アンダルシア地方のグラナダ。町の郊外のサクロモンテの丘の洞窟には古くからヒターノ(ジプシー)が暮らし、フラメンコで身を立てている。グラナダ出身の監督チュス・グティエレスは、その丘と住民に焦点を当てた。


チュス監督

「ドキュメンタリー映画を撮ったのはこれがはじめて。テーマに興味があって、身近なものだったので、何かが語れる自信はあったけど、企画の段階では、それが何なのか、まだわからなかった。映画を作るときは、信じるものを追求して撮るだけよ。サクロモンテの人たちにインタビューすることからはじめて、撮りながら作っていったの」

 フラメンコ・ダンサー/歌手/研究者のクーロ・アルバイシンを案内役に、映画は少しずつサクロモンテに暮らす人々の中に分け入って行く。世界中を旅して回った人もいれば、踊るために結婚生活を断念した人もいる。ヒターノではないのに踊りを教える人もいれば、大人顔負けのステップを踏む少年もいる。インタビューや歌や踊りに合わせて、登場人物の若いころの姿などの貴重なアーカイヴ映像も挿入される。

「フラメンコは若い人たちの力強い踊りを見るものと思われているけど、わたしが感動したのは、年配の人たちが体力の限界の中で表現している微妙な動き。若い人のような激しさはないけど、抑制された踊りの動きが、かえって新しく見えたりする。その人たちは、みんな見よう見まねでフラメンコを覚えた世代の人たち。マノレーテのように、アントニオ・ガデスの踊りを見て影響を受けた人もいる」

 実は1963年の洪水で丘の洞窟住居は大きな被害をこうむり、以後ヒターノたちの生活環境も変化を余儀なくされた。

「この映画の主役はフラメンコだけでなく、昔ここにあった共同体のゆくえでもある。往年のこの丘ではフラメンコが生活と密着していた。それがどうだったのかを知りたかった。いまの子供たちはそんな環境には暮らしていない。学校で先生について学んで、伝統を受け継いでいる」

水害で失われたものは大きかったが、伝統が時代の変化に対応しながら継承されている様子は、映画から伝わってくる。ところでサクロモンテのフラメンコはアンダルシアの他の地域のフラメンコと異なる特徴を持っているのだろうか。

「フラメンコはフラメンコね。本質にちがいはない。ただ、狭い洞窟の店で、舞台の上ではなく、同じ目線の高さで、目と鼻の先にいる客を相手に踊るから、その熱が伝わってくる。床はセメントで、舞台の板のようには響かないから、音を出すためのステップも激しい。ライヴの場面は身内のパーティのような形で撮ったので、みんな親密にリラックスした形で、楽しんで踊ってくれた。奔放に踊るフラメンコになったと思う」

 イベリア半島は、8世紀から15世紀までイスラム王国の支配下だった。グラナダは最後の王国が残っていたところだ。グラナダのイスラム建築の精華アルハンブラ(アランブラ)宮殿の姿も、丘の上の踊りの場面で遠望できる。イベリア半島に残ったアラブの音楽家たちが、フラメンコの成立に影響を与えたという説もある。

「イスパニア王国はイスラム王国と戦うとき、鍛冶屋だったヒターノを連れてきて武器を作らせたと言われています。踊りの場面を撮影したタブラオ(フラメンコ酒場)の壁に金属の調理道具が飾ってあるのもその名残。アラブの音楽はフラメンコにもきっと影響を与えたでしょう。いまも北アフリカの弦楽器バンドゥーラを使ってフラメンコを演奏する人がいるし、踊り手が額にアラブの貨幣をつけて踊ったりもする」

 両者の古い関係は文献では跡づけられなくて諸説あるが、交流がまったくなかったとは考えにくい。短絡は避けなければならないが、推測する楽しみは尽きない。
 海外でのイメージとちがって、「フラメンコはスペインでは外縁的な文化扱いされ、大切にされていない。優れたアーティストは国外に出ていってしまう」と監督は嘆いていた。でもインドに起源を持つヒターノたちがユーラシア大陸の西端でフラメンコの担い手になったように、文化のDNAは国境や民族を越えて繋がっている。「だからこの映画も日本まで来ることができたのだと思う」と語る監督の目はうれしそうだった。

予告編

special talk : Arto Lindsay × Caetano Veloso - ele-king

 どれでもいい、『ケアフル・マダム』から1曲抜き出してみよう。

WHERE HAIR BEGINS
WHERE IN THE AIR
LEAST WEIGHT DISPLACED
LIKES STRINGS AND SEAMS
CROSSED AND UNCROSSED ROADS

毛がはえはじめるところ
空中で
一番少ない重量が
とってかわった場所
糸や縫い目のように
交差し、交差しない道
“アンクロスト(交差しない)”(喜多村純訳)


Arto Lindsay
Cuidado Madame(ケアフル・マダム)

Pヴァイン

AvantgardeAvant PopBossa NovaNo Wave

Amazon Tower HMV

 ホウェアとヘアとエアーで韻を踏み、髪のイメージを糸や縫い目がひきとり、重力に逆らい逆巻き、縺れあったりあわなかったり――視覚と関係性の官能を二重写しにするこの曲はもとより、アート・リンゼイの歌詞のほとんどが短詩形で詩的ヴィジョンをもつのはDNAのころから変わらない。とはいえ、“Horse”の歌詞のネタ元が「リア王」だったとは、アートの基本姿勢が異質なものの同居にあるとしても、連想ゲームとしてはなかなかに高度である。なにがアートをアートたらしめるのか、詳しくは『別冊ele-king』を手にとっていただきたいが、歌詞、とくにポルトガル語での詩作において、アートはカエターノ・ヴェローゾを意識していたのはもって認めるところである。むろん、カエターノの歌詞は、ことばのイメージが科学反応をおこすアートの歌詞よりも、展開の妙味を読む散文詩的なものだが、詩の背負う世界の飛躍の距離と角度において通ずるものがある。
 本稿は『別冊ele-king』第五号に収録したアート・リンゼイとカエターノ・ヴェローゾの特別対談の、紙幅の関係で割愛した部分である。本書ではおもに音楽についての対話を掲載したが、以下はその前段にあたる、音楽におけることばについて、アートとカエターノふたりきりで語っている。いささか高踏的に思われる向きもあるやもしれぬが、やすっぽい感情やメッセージや思想によらない音楽のことばを考えるヒントに!

     

ドロレス・ドゥランの歌詞に感激したんだ。彼女の作詞は、ヴィニシウスより優れていると思うこともあった。(カエターノ・ヴェローゾ)

最初にぼくが歌詞に魅了されたうちのひとつは、ジミ・ヘンドリックスだったんだ。ある種ボブ・ディランに影響されているようなひと。(アート・リンゼイ)

アート・リンゼイ(Arto Lindsay、以下AL):歌詞と音楽の関係性について意識的に考えはじめたのはいつなの? 子どものころからだったの? コンポーザーか歌手か誰かきっかけになったひとがいるの? なにかそのへんのことについて憶えている?

カエターノ・ヴェローゾ(Caetano Veloso、以下CV):それが、子どものころからなんだ。ことばとメロディに関係がある、歌詞のある歌について考えることがあったんだ。そういうことが印象に残って、頭から離れなかった。子どものころからそういうことを考えるのが好きだった。ベターニア(註1)の名前も、ある歌にちなんでぼくが名づけたんだよ。あのときぼくは4歳だった。

AL:うわぁ。

CV:大好きな歌だったんだ。カピーバ(註2)の“マリア・ベターニア”。ペルナンブッコのひとだ。その曲はネルソン・ゴンサルヴェス(註3)が録音して、詞が大好きだった。「Maria Bethânia / Tu és para mim / A senhora do Engenho」の「Engenho(構想力、発明の才の意)」がなんなのかもわからなかったけど、なんて美しいんだって思ったんだ(笑)。

AL:はい。あははは。

CV:愛するひとに捧げた曲のタイトルで、至極美しい。成長しながら、そういうことに気づいていったこともある。なんというか、年長者からサインを受け取ったというか。少年だったころに、口笛などめったに吹かない、歌うことなんてなかった父が、母はね、よく歌っていて、いろんな歌を歌うひとだったんだけど、父はメロディとかそういうものが頭に入ることもなかったようでいっさいそんなことがなかった、その父が、誰かと話をしていて、こういったんだ「“Três Apitos(三つの笛)”(註4)はブラジルで作られた最高作だ。なんとすばらしい歌詞なんだ!」と。

AL:うわぁ。

CV:ぼくはすごくうれしい驚きを感じたんだ。ぼくがノエル・ホーザの“Três Apitos”に関心を寄せていたからさ。だって、曲のタイトルはすべてを語っていたし、どんな種類の笛だろうとあれこれ想像させるからね。工場から聞こえてくる汽笛なのか、「apito(笛)」はここで繰り返さないけれど、車のクラクションなのかと。最後にわかるわけだよ、曲の主役が夜勤の守衛なんだってことが。父は、曲が非常によくできているということがわかっていたわけだ。だからなおさら、歌詞について考えた。そうして、他にもいろいろあったわけさ。成長して、18歳のころだったか、ぼくはカイミ(註5)が誰よりも完璧だと思っていた。

AL:そういう理由から?

CV:歌詞と音楽の関係性においてね。「Você já foi a Bahia nega não / Então vá / Quem vai a Bonfim minha nega(愛しい人よ、バイーアに行ったことないのか?/じゃあ、行きなよ/ボンフィンに行く人はね……)」。人が語っているようだと思ったよ。だけど、メロディもそこにあって、語りのすべてのイントネーションが含まれているんだ。疑問符も、句読点も、それでいてこうコロキアル(話し言葉的)、誰かに話しかけているみたいでありながら完全に音楽なんだ。ぼくはそれにとても感激した。そうして、ぼくの音楽の素晴らしい二大素地でもあるノエル・ホーザとカイミのおかげでほかのことにも気がついていったんだ。どちらが先だったか憶えていないけどドロレス・ドゥラン(註6)とヴィニシウス・ヂ・モラエスの歌詞が世に出はじめたころのことを思い出すよ。どちらも同時期に出てきたと思う。ドロレス・ドゥランの歌詞に感激したんだ。彼女の作詞は、ヴィニシウスより優れていると思うこともあった。ヴィニシウスは詩人で、後から作詞家になったからね。彼の詩はより複雑で、彼女がしないようなことを書いていたけど、彼女の詞は音節ひとつひとつまでもが完全に音楽を成していた。アイデアもとても明確で、非常によく書かれていた。ヴィニシウスが優れているとわかるまで、時間がかかったくらいだよ。ドロレス・ドゥランはとても――

AL:カイミのようなんだね。とてもパーソナルで、コロキアル。

CV:そうとてもコロキアル。そしてとてもインスパイアされている。コロキアルなんだけれども、フラットではないんだ。その逆だ。

AL:ぼくの経験を語ると、ぼくはナット・キング・コール、それからドリヴァル・カイミをたくさん聴いた。青春時代の初期に母のレコードを聴いていたんだ。印象に残るものはあったけれど、歌詞と音楽にかんしてそこまで意識的に考えたことはなかった。最初にぼくが歌詞に魅了されたうちのひとつは、ジミ・ヘンドリックスだったんだ。ある種ボブ・ディランに影響されているようなひと。

CV:そうだね。すごくボブ・ディランっぽいね。

AL:完全にボブ・ディランに影響されている。

CV:彼がボブ・ディランの詞が大好きだったのがわかるものね。

AL:彼はそこからスタートして、だけどちょっと息切れしちゃった感じがあるよね?

CV:そう。

AL:ボブ・ディランより音楽的だとも思うんだ。彼はちょっと前衛的なアティテュードがあった。厳密にいえば、ボブ・ディランのケースではなかった。ボブ・ディランは結果的に前衛的になったけれど、ジミ・ヘンドリックスのようにみずから前衛的なスタイルをとらなかった。
 ボブ・ディランはまた詩的な意志を、他のアヴァンギャルドとは異なる詩的なアヴァンギャルドをミックスする。詩人のアヴァンギャルドで、それとフォークロアな音楽との類似性を認識させるね。

CV:アメリカのフォークロアとブルースもね。

AL:ブルースとかカントリーとか古いものすべてね。ヒルビリーとかそういうのもすべて。

CV:フォークとカントリー・ブルースもね。じつはぼくにとってアメリカの曲の歌詞も、とても存在感があったんだ。英語がまったくしゃべれないときから。いまはすこししゃべるけど、あのころはまったくしゃべれなかった。フランク・シナトラとか、ビリー・ホリデイとか、中学生のころみんなと同じように英語を勉強していたからね、なにを歌っているかわかったんだ。でもロックンロールが登場してからは、もう全然わからなくなっちゃった。

AL:そうだね。昔は理解できるように作詞がされたけど、ロックの後は、理解されないように作詞されるようになったからね。

CV:ふたつの意味でね。ことばそのものの選択という意味でも、発声の仕方においても。

AL:どちらかというと発声の仕方においてだと思う。

CV:でもどちらもだよ。歌詞を読んでもあんまりさ……わかる? なんか投げられた感じのフレーズで聴くひとの頭に残るような、とても刺激的じゃない? 聴きながら、歌詞を辿っていける感じのものではないというか……

1) Maria Bethânia:1942年生まれのカエターノの4歳年下の妹。トロピカリズモ周辺に出入りし、歌手デビューした65年の“Carcará”で早くも頭角をあらわす。78年の『アリバイ』でブラジル国内に広く知られた。2005年の『キ・ファウタ・ヴォセ・ミ・フェス(Que Falta Você Me Faz)』は全編、文中にも言及のあるヴィニシウス・ヂ・モラエスの楽曲からなるアルバム。カエターノは軍事政権下のブラジルを脱し、亡命したロンドンで1971年に発表した3作目の『Caetano Veloso』に妹に宛てた手紙を模した同名異曲を英語で吹き込んでいる。

2) Capiba(1904~1997):本名ロレンソ・ダ・フォンセカ・バルボサ。ノルデスチ(ブラジル北東部)のカーニヴァルを象徴する音楽形式フレーヴォの作曲家として知られる。

3) Nélson Gonçalves(1919~1998):リオグランデ・ド・スル州生まれ、サンパウロ育ちのシンガー・ソングライター。1950年代(カエターノの幼少期)もっとも人気を集めたラジオ歌手のひとりだった。

4) 20世紀ブラジルのポピュラー音楽を代表するシンガー・ソングライター、ギター/マンドリン奏者ノエル・ホーザ(1910~1937)が1933年に作曲した楽曲名。

5) Dorival Caymmi(1914~2008):バイーア州サルヴァドール出身の歌手、作曲家。のちにハリウッドで成功するカルメン・ミランダの映画『Banana-da-Terra』(1933年)に“O Que É Que A Baiana Tem?”を提供したことで名を知られる。54年に『Canções Praieiras』でデビュー。アントニオ・カルロス・ジョビンやジョアン・ジルベルトにも影響を与えた。カエターノが文中であげているのは“Você já foi a Bahia(君はもうバイーアに)”の一節。

6) Dolores Duran(1930~1959):ボサノヴァ成立前の1950年代に活躍した歌手、作曲家。ジョビンの“Por Causa de Você”、“Estrada do Sol”などの共作者でもある。

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DNAのやることは強烈だった。ロックの先端の、エッジというか、ぼくには非常に印象が強かった。ラディカルな経験を思い起こす。歌詞はそれでいて、コミュニケーションへの切迫感があった。(カエターノ・ヴェローゾ)

理念そのものにとても迷いや疑問があった。芸術に横たわっていた哲学的な理念や、60年代からきた、それらの理念の源に疑問があった。それで、ぼくたちはなにか突っ込んでいこうとするところがあったんだ。(アート・リンゼイ)

AL:ヘンドリックスのやったことがおもしろいと思うんだよね。ヘンドリックスは、三つ、四つ、五つくらいのパターンでことばと音楽とを関係づけるというか。ポルトガル語でなんて言うのかわからないんだけど、彼は「ポエティック・デヴァイス」のレパートリーをもっていた。詩的な仕掛けというのか、くりかえして、拍子やアップ、ダウンと関係があって、抑揚とリズムと……彼は早くに亡くなったんだよね。彼が27歳で亡くなったのを忘れるくらい。若すぎたよね。ぼくは作詞をはじめたとき、あなたの最初のインプレッションと似たような、歌詞を会話のようにしたかった。しかしよく聴いて、文字を追えば、より複雑で抽象的で独特なものになるように。歌ったときにまるで自然に響かなければいけないと。DNAの初期の歌詞はすべてそうだった。まるでなんというか……

CV:うん。DNA(の曲)は、ひとがまるで差し迫って主張している感じする。

AL:そう。とても……プレッシャーがかかっていた。

CV:そのスタイルに真の緊急性があるようだった。とても美しいと思う。とても、なんというか……DNAのやることは強烈だった。ロックの先端の、エッジというか、ぼくには非常に印象が強かった。ラディカルな経験を思い起こす。歌詞はそれでいて、コミュニケーションへの切迫感があった。フレーズがとても――

AL:投げられている感じ?

CV:そうなんだけど、よく聴くと、各パーツとても統合的で、いろいろなものが含まれている。とても濃い。

AL:ぼくが思うに、それはあの青春、衝動、願望とがすべて混ぜ合わさった――

CV:青春のバイタリティだね。

AL:そう、青春のバイタリティ。理念そのものにとても迷いや疑問があった。芸術に横たわっていた哲学的な理念や、60年代からきた、それらの理念の源に疑問があった。それで、ぼくたちはなにか突っ込んでいこうとするところがあったんだ。

CV:ぼくは66年から67年ころに確固たる意志をもってそうしようとしはじめた。ぼくは、ほんとうはわざと、子どものときに会得した美的感覚に背いたんだ。

AL:なるほど。でもその後背いたことにさらに背いたよね。

CV:そうだね。背いたことに背いた。いくつか美しい作詞をしたからね。

AL:いや、待って。たくさんだよ。

CV:幼少期から青年のときまで身につけた美的感覚に背いた、その多くが、世に出てきた当時は誰にもそう美しく捉えられなかったんだ。いまでこそ、容易に美しいと認識されるけれど。

AL:その通りだね。英語ではテレグラフと呼ばれるものがあるんだ。なにが言いたいかというと、ある文章が、その方向に要約されるというか。文章それぞれが、世界観がある。別々の異なった世界観が。

CV:それは、ぼくよりあなたのほうが強いよね。ぼくの作品にもいくつかそんなところに行き着くものがあるけれど、でもあなたのほうがずっとそうだよね。でも、よく考えてみたら、アメリカ文学の伝統は、ブラジル文学の伝統というかポルトガル語文学のそれよりその傾向があるよね。テレグラフに寄りかかるところが。

AL:そうね。でも、おもしろいよね。例えば、20世紀の終わりの詩をみてみると、ブラジルの詩はとても具体的で、なんというか、ミニマリストだ。

CV:そうだね。ミニマリストだね。長詩だったビート派と同じ時代にしてね。

AL:ジョン・アシュベリー(註7)とか、そのへんはみんなとても長いよね。苦痛にすら感じるほどに、終わりのない感じ、リズムがない。だけどこの会話とアシュベリーを関連させられる唯一の共通点はコロキアルということだ。彼はさまざまな文章を寄せ集めて、混ぜ合わせて、すべてどこからかとってきて小さな変更を施しただけのような。

CV:ちょっとレディ・メイドみたいなね。レディ・メイドのパーツを寄せ集めた感じ。でも興味深くて、美しい。彼特有の良質な空気感をそれで作り出すから。でも、おもしろいね、あなたがそう話し始めたとき、エズラ・パウンド(註8)について話しているように聞こえたよ。そうそれで、アシュベリーは、リオで見たことがあるよ。彼はリオでおこなった講演で、エズラ・パウンドは大嫌いだと語っていたよ。エズラ・パウンドが書いたものはすべて醜いといったんだ。「ugly」という言葉を使ったからね。彼はエリザベス・ビショップ(註9)が好きだと語っていた。彼にとってアメリカの偉大な詩人であると。

AL:うわぁ。クレイジーだ。

CV:フラメンゴ公園での講演だった。

AL:憶えているよ。たしかワリー(註10)とシーセロ(註11)とが招いたんだ。

CV:そう。それにジョアン・ブロッサもね。ジョアン・ブロッサと、それにジョアン・カブラル・デ・メロ・ネトもね。

AL:ジョアン・カブラルもいたのは知らなかった。

CV:ジョアン・カブラルはすごかったよ。信じられないようなことがあったんだ。ジョン・アシュベリーは唯一のアメリカ人だった。講演の最後に客席からの質問も受けたんだ。3人に対しての質問が客席からあった。こんな質問だった、「ご自身の作品を、声に出して読むことは好きですか?」と。ジョアン・カブラル・デ・メロ・ネトを敬愛するジョン・ブロッサが最初の回答者だった。彼はこう答えた「私にとって詩は、自分自身で声に出して読み、満足できたときにはじめて存在する。だから、ひとり読み上げて、詩の音も含め楽しむのだ」と。それから、ジョアン・カブラルにマイクが渡って彼はこう言った「いや。私は自身の詩を読むのが大嫌いだ。正直、この世にぼくの本を手にとって、ぼくの詩を声に出して読む人がひとりたりともいてほしくない。ぼくは年齢とともに視力が弱くなってきたが、耳が聞こえなくなった方がよかった」って。

AL:うわお。あはは

CV:それで、アシュベリーにマイクが渡って、「ご自身の詩を声に出して読まれることに対してどう思いますか」と質問されて彼は言ったんだ。「それでお金がもらえるならね」と(笑)。それぞれの特徴が表れているよね。ジョン・アシュベリーのユーモア・センスはとてもアメリカ的だ。この返答はハードな皮肉であると同時に、アメリカ的なものを反映している、アメリカン・ジョークだよね。

AL:とてもアメリカ的だ。わかる気がするんだ。エズラ・パウンドをいま読むと、彼はとても他の言語の形式を模倣する人だったのがわかる。それを英語で読む人は――

CV:まるで英語ではないように感じるんだね。

AL:なにか偽りのようなものがあって、まるで彼が英語そのものに喜びを感じていないように感じるんだよ。

CV:ぼくは英語話者ではないのでわからないけれど、エズラ・パウンドの作品をいくつか読んだとき、そのページでぼくは迷子になったよ。中国語の要素があったり、表意文字があったり。文章はオリエンタルなものに似ているかと思えばコロキアルな、ちょっとアメリカっぽい平俗なものが入ってくる。

AL:コラージュのようだよね。

CV:そうして語調が変わる。すごく魅力的だったけど、ぼくは迷子になってしまったよ。でも、ひとつ言っておくと、インターネットとかいう技術のおかげで、エズラ・パウンドが詩を読んでいる映像を見たんだ。なんとも美しいんだ。叫びがあって、そのうちに重低音な声ですごくコロキアルになって、そのあとまた別のものがくる……すばらしく美しかった。詩が非常に美しくなる。

AL:探してみる。彼が読んでいるのは見たことがない。

CV:ぜひ聞いて見てほしいね。

AL:ジョン・ケージ(の朗読)を聞いたことある?

CV:ケージはリオで見たよ。直接、読んでいるのを見た。

AL:彼自身の文章を?

CV:(ジェームス・)ジョイスの文章を(註12)。

AL:彼自身が語を刻みながら?

CV:そう。

AL:ぼくはニューヨークで見たよ。いままで見たなかで最高なパフォーマンスのうちのひとつだった。

CV:最高だよね!? すばらしいと思ったよ。彼は『フィネガンス・ウェイク』の一節を読むんだ。

AL:そう。ハシッ、キッ、ハシッ、キッ(とケージを真似る)。ぼくと同じ作品を見ているかわからないけど、彼は言葉を刻むんだ。

CV:ほんとうに小さなピースにしてしまう。

AL:音節の小さな一部だけが聞こえるんだ。

CV:子音の一部のあとに文章全体とかね。

AL:ぼくも見て、すごく感激したんだ。パフォーマスとして。経験として。芸術の……なんだか定義しないでおいて、とにかく信じられないパフォーマンスだった。

CV:T・S・エリオットが自身の詩を読んでいるのは見たことある?

AL:聞いたことがあるけど、実のところあまり憶えていないよ。エリオットを読むのは大好き。

CV:美しいよね。エズラ・パウンドのような苦しみはない。すべて美しく、英語も美しい。でもエズラ・パウンドが読んでいるのを聞くと、そっちの方がもっと好きなんだ。

AL:あなたがそういうのなら聞かないといけないな。エリオットは、ひととして最悪だったというか、抑制された、存在することに問題を抱えていたというか。プロテスタント的なものが強いというか。

CV:カトリックに改宗したんだよね?

AL:より一層人間らしくなくなっていったというか……

CV:それとも、英国国教か。彼は、アメリカの近代的なプロテスタンティズムよりもクリスティアニズムのよりフォーマルな伝統的なほうへ行ったんだね。

AL:あの当時はなかったものだけど。でも……ぼくはとてもよく聞いたのはバース(註13)だ。音読するバース…

CV:それは聞いたことがない。

AL:なんと! これこそ信じられないほどにすばらしいよ。彼はとても皮肉的で、本は……読んだことある?

CV:読んだよ。

AL:彼はとても気を楽にしてくれるというか…

CV:クレイジーだよ。

AL:そう、クレイジー。でもそこまでではないよ。2回読むと、とてもよく書かれているとわかるんだ。

CV:そうだね。とてもよく書かれている。

AL:彼はとても調節された韻律をもっていて、安定していて、とても……とても皮肉的でおもしろい。エリオットとはとても異なっていて、パウンドが音読しているのは見たことがないけれど、彼は南部の人で、アフリカの影響を受けたアメリカの要素があって、リズムがあり、グルーヴがあり、流れるようなグルーヴ感のある読み方なんだ。(了)

7) John Ashbery(1927~):現代アメリカを代表する詩人。アッシュベリーとも。作風はポストモダンを経由した実験的なもので、米国の主要な文学賞を数多く受賞している。翻訳書に『波ひとつ』(書肆山田)、『ジョン・アッシュベリー詩集』(思潮社)。

8) Ezra Pound(1885~1972):アイダホ州ヘイリー生まれのアメリカの詩人。20代でヨーロッパに渡り、イギリスでイェイツやT・S・エリオットらと親交をもち、パリ、イタリアと移り住むなかで、長文の自由韻律詩を発表し、俳句、漢詩、能などの東洋文化の紹介者として活発に活動した。第二次大戦中、ムッソリーニを支持し反ユダヤ主義をとったかどで告発され、米国に強制送還ののち、精神障害を理由に12年の病院暮らしをおくる。退院後イタリアで没したが、死後20世紀モダニズム運動の中心人物と見なされた。

9) Elizabeth Bishop(1911~1978)アメリカの詩人。マサチューセッツ州ウースター生まれ。1951年の南米旅行で立ち寄ったブラジルに15年間居住し、その間発表した『北と南/寒い春』でピューリッツァー賞を受賞。ほかに全米図書賞、全米批評家協会賞の受賞歴もある、20世紀アメリカを代表する詩人のひとり。

10) Waly Dias Salomão(ワリー・サロマゥン、1943~2003):詩人、作詞家、音楽プロデューサー。トロピカリズモ運動の立役者のひとりであり、ガル・コスタの“Vapor Barato”やベターニアの“Mel”、“Talisma”の作詞者でもある。

11) Antonio Cicero(アントニオ・シセーロ):1945年、リオ・デ・ジェネイロ生まれのブラジルの詩人、作曲家、作家。1993年ワリー・サロマゥンとともに「Banco Nacional de Idéias(アイデアの国立銀行)」をたちあげた。スペインの前衛詩人ジョアン・ブロッサ、具象派の詩人ジョアン・カブラル・デ・メロ・ネトらが参加した後述のイベントもその一環だと思われる。

12) ケージが講演などで話すことばを作曲作品と見なしていたことは主著『サイレンス』(水声社)所収の文章などでもあきらかだが、カエターノの言及する、ジョイスの集大成『フィネガンズ・ウェイク』を朗読するのは1970年の“ロアラトリオ”。ケージはこの曲で、『フィネガンズ・ウェイク』からのランダムなテキストの引用と、作中に言及のある音を録音した音源と、小説に登場するダブリン市内の環境音とを組み合わせる。

13) ピンチョンらとならぶ、米国ポストモダン文学を代表する小説家ジョン・バース(John Barth、1930~)を指すと思われるが、バースが朗読活動をおこなっているかは不明。またバースは南部出身でもない。発言者に問い合わせたが、期日まで回答を得られなかった。追って修正の可能性あり。

Arto Lindsay - ele-king

 ノーウェイヴの実験性とブラジル音楽の官能性を繋ぐことができる唯一無二のアーティスト、アート・リンゼイ。彼が卓越した音楽家であることはすでに知られているが、しかしその本質がどこにあるのかを見極めるのは非常に難しい。たとえば彼はいまはなき昔の『ele-king』でドラムンベースの偉大さについて語ったり、アウトキャストやウータン・クランに熱中していることを告白したりする一方で、暴力温泉芸者やメルツバウ、ボアダムスを褒め称えてもいる。「僕の見方だと、ノイズもポップなんだ。一般的にはそうは考えられてないけど。同じものを違った面から捉えたものなんだ」。そう言って彼は自身の作品でノイズとボサノヴァを両立させてみせるのである。
 『別冊ele-king』第5号は、そんなアート・リンゼイの全景を俯瞰する。
 あるときはノーウェイヴの尖鋭として、あるときはギターの弾けないギタリストとして、あるときはフェイク・ジャズのパフォーマーとして、あるときはアヴァン・ポップの職人として、あるときはブラジル音楽のプロデューサーとして、これまでじつに多様な音楽を世に送り出してきたアート・リンゼイ。その幼少期から現在までを、そしてDNAから最新ソロ・アルバム『ケアフル・マダム』までをあますところなく語り、みずからその多面性を振り返った最新ロング・インタヴューも興味深いのだけれど、それ以上にカエターノ・ヴェローゾとの対談がすさまじい。レヴィ=ストロースからゴダールまで、人種差別から脱構築まで、とてもミュージシャン同士の会話とは思えないほど人文学的な単語が飛び交っており、そのさまはまるで学者同士の対談のようだ。もちろん音楽の話題も多岐にわたっていて、ジェイムス・ブレイクからディアンジェロまでもが次々と俎上に載せられていく。
 いったいアート・リンゼイとは何者なのか? ノーウェイヴ世代最高のこの知性の本質を、ぜひあなた自身の目で確認してみてほしい。

別冊ele-king 第5号 アート・リンゼイ――実験と官能の使徒
contents


【LONG INTERVIEW】

●アート・リンゼイ、新作『ケアフル・マダム』とヒストリーを語る
Part 1:ニューヨーク前史から90 年代へ(松村正人/高橋龍)
Part 2:ソロ活動期(中原仁)
Part 3:付言と断片もしくは解題(松村正人/高橋龍)

【CROSS REVIEW】
●『ケアフル・マダム』クロスレヴュー(高見一樹、吉本秀純、松林弘樹)

【INTERVIEW】
●メルヴィン・ギブス「音の干渉主義者の名参謀」
●イクエ・モリ「いつでも、自分にすごく近い音楽をやってきた」
●菊地成孔「ジョイフルなのにエレガント」
●今福龍太「ブラジルから広がるアメリカの地平」
●オノ セイゲン「誰も聴いたことのない音楽をつくるとなったとき
 最初にコラボしたのがアートだった」
●三宅純「彼の魅力は自己矛盾を抱え込みそれを隠さないところです」

【COMMENT】
●大友良英:アート・リンゼイのギターを語る
●ドローイング、コラージュ、テキスト:やくしまるえつこ

【DIALOGUE】
●中原昌也×湯浅学「ノーウェイヴ放談」

【CRITIQUE, COLUMN, ESSAY】
●畠中実「初期アート・リンゼイにおける特異性」
●吉田ヨウヘイ「フェイクジャズは、その後本当のジャズになった」
●佐々木敦「歌えるか歌えないのか、弾けないのか弾かないのか、
 そんなことはどっちでもいいじゃないか」
●吉田雅史「イニシャルAL の裂け目たち」
●恩田晃「都市の変調」
●ケペル木村「アートをアートたらしめるもの」
●江利川侑介「ブラジルの混淆」
●ケペル木村「ディスクガイド アート・リンゼイから聞こえるブラジル音楽」
●松山晋也「表層の官能」

【SPECIAL】
●アート・リンゼイ「トロピカリスタたち」
●特別対談:
 アート・リンゼイ×カエターノ・ヴェローゾ(松村正人/宮ヶ迫ナンシー理沙)

【DISCOGRAPHY】
●アート・リンゼイ セレクテッド・ディスク・ガイド


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別冊ele-king 第5号
アート・リンゼイ――実験と官能の使徒
松村正人(編)
2017/1/7 Release
本体 1,850円+税
ISBN:978-4-907276-73-7
https://www.amazon.co.jp/dp/4907276737

アート・リンゼイは底しれない!

ブラジル音楽の官能、ノーウェイヴの雑音、アヴァン・ポップの華麗なる試み
──その偉大なる全貌をたどる、必読の1冊!

ソロ・アルバムとしては2004年の『ソルト(Salt)』以来13年ぶりとなる
新作『ケアフル・マダム(Cuidado Madame)』を発表するアート・リンゼイ。

坂本龍一やオノ セイゲン、三宅純といった日本人ミュージシャンとの親交も厚く、
官能的なブラジル音楽とパンク以降のNYノイズとを繋げることができる、
唯一無二のアーティスト。それがアート・リンゼイです。

『別冊ele-king』第5号は、そんなアートの幼少期から現在までを
あますところなく語ったロング・インタヴューを皮切りに、
その表現の核をかたちづくったアートや文学、
現在の活動拠点を置くリオでのサンバ・プロジェクトなどを詳述する、
日本はおろか世界にも類をみないアート・リンゼイを総覧する試みです。
カエターノ・ヴェローゾとの特別対談も必読!

2017年はアート・リンゼイ再評価の年です。

目次

【LONG INTERVIEW】
●アート・リンゼイ、新作『ケアフル・マダム』とヒストリーを語る
Part 1:ニューヨーク前史から90 年代へ(松村正人/高橋龍)
Part 2:ソロ活動期(中原仁)
Part 3:付言と断片もしくは解題(松村正人/高橋龍)

【CROSS REVIEW】
●『ケアフル・マダム』クロスレヴュー(高見一樹、吉本秀純、松林弘樹)

【INTERVIEW】
●メルヴィン・ギブス「音の干渉主義者の名参謀」
●イクエ・モリ「いつでも、自分にすごく近い音楽をやってきた」
●菊地成孔「ジョイフルなのにエレガント」
●今福龍太「ブラジルから広がるアメリカの地平」
●オノ セイゲン「誰も聴いたことのない音楽をつくるとなったとき
 最初にコラボしたのがアートだった」
●三宅純「彼の魅力は自己矛盾を抱え込みそれを隠さないところです」

【COMMENT】
●大友良英:アート・リンゼイのギターを語る
●ドローイング、コラージュ、テキスト:やくしまるえつこ

【DIALOGUE】
●中原昌也×湯浅学「ノーウェイヴ放談」

【CRITIQUE, COLUMN, ESSAY】
●畠中実「初期アート・リンゼイにおける特異性」
●吉田ヨウヘイ「フェイクジャズは、その後本当のジャズになった」
●佐々木敦「歌えるか歌えないのか、弾けないのか弾かないのか、
 そんなことはどっちでもいいじゃないか」
●吉田雅史「イニシャルAL の裂け目たち」
●恩田晃「都市の変調」
●ケペル木村「アートをアートたらしめるもの」
●江利川侑介「ブラジルの混淆」
●ケペル木村「ディスクガイド アート・リンゼイから聞こえるブラジル音楽」
●松山晋也「表層の官能」

【SPECIAL】
●アート・リンゼイ「トロピカリスタたち」
●特別対談:
 アート・リンゼイ×カエターノ・ヴェローゾ(松村正人/宮ヶ迫ナンシー理沙)

【DISCOGRAPHY】
●アート・リンゼイ セレクテッド・ディスク・ガイド

 毎年恒例でアイスランド・エア・ウエイブスのレポート。18回目のエアウエイズで、私にとっては4回目の参加。滞在期間は2日と短かったが、中身は濃かった。
 いったい、この国の良いバイブがどこから来るのだろう。アイスランドは、2008年に経済破綻したというが、初めてアイスランドに行った2013年にも、そんな様子はまったく見えなかった。レコード屋に行ったらエスプレッソが出て来るし、バーは夜中の3時でも列が出来ているし、高級レストランにも多くの人がいる。若くして子供を持っている人が多く、町は綺麗で、ホームレスもいない。どう言うこと?
 たしかに、オーロラは日常的に見れるし、ブルーラグーンや、この世の物とは思えない美しい自然が目の当たりに見れるから、観光客もエア・ウエイブスに関わらず多い。レイキャビックの町は小さく、NYで言うとベッドフォードくらいで、端から端まで歩いても1時間ぐらいなので、自転車に乗っている人が多い。町の中心にある、ミュージック・ホールのハーパ周辺の港と景色は、何処を写真撮っても絵になり(ピンク色の空)、歩くのがとても楽しい町である。
 どのようにアイスランドが、経済復興したのかと、地元の人に聞いたところ、やっぱり観光業のお陰だと言う。ただ、この小さな国にとって、クローナの価値が上がり過ぎて、またバブルが弾けるだろうと言う。エアbnbなどで、観光業が調整されず、アイスランド人にとっては家賃はどんどん高騰しているし、クローナがこのまま上がり、上がらないところまで達したら、後は下がるしかないので、政府が次にどんな対策に出るかがキーだと言う。それが資本主義だけど、もし政府が、観光業を調節しはじめ、家賃レートを守れるなら、滅茶苦茶な状態は避けることができるはず、と。とにかく2016年、アイスランドはバブリーな状態にある。因みに、NYから来た身としては、アイスランドは何でも高い。ビールが大体$9、サンドイッチを買ったら$15など。

   

 さて、私のメインの目的は、オフ・べニューと呼ばれる、昼間行われるイベント。日本やアメリカでは見れない、地元のアーティストからツアーバンドまでが、レイキャヴィックのバー、レストラン、洋服屋、洗濯屋、レコード屋、ホテル、銀行など、音楽をプレイできるところなら何処でもライヴをしている。バンドによっては1日3ステージこなし、エアウエイブス期間に10以上のライヴをこなすこともあるし、新しいバンドに出会うのに、こんなに良い機会はない。何となく予定は立てるが、もちろん予定通りにいかない。偶然良いバンドに出会ったり、知り合いに出くわしたり、人が親切なので、心地の良い所にずーっと居てしまったりする。エア・ウエイブスのいい点は、時間にきっちりしているので、何かをミスっても、すぐ予定を立てやすい。

 今回の新しい会場ベスト2は、港近くのbryggjan brugghúsとBar Ananas。どちらも、レストラン・バーで、普通のお客さんもいながら、オープン・スペースでバンドがプレイしてる。bryggjan brugghúsはビストロ風、Bar Ananasは常夏風でトロピカルなサーフ気分が味わえる。ハングアウトも出来、バンドも見れ、ご飯も食べれ、来た誰もが楽しめるようになっているのが、アイスランド風。

 新しいバンドで印象に残ったのは、Skrattar , GANGLY, GKRで、リピートとしてはSamaris, Mammút, Hermigervill, Fufanu, Mr.Sillaが良かった。キー人物がいろんなバンドでプレイしているので、それを追いかけると、だいたい良いバンドに出会える。例えば、SamarisのJofridurは、Samaris以外に、 Pascal Pinon, GANGLY,そしてソロのJFDRをやっていて、どれも彼女の個性で成り立っている。GANGLYはまったく知識がなく、感で見に行ったのですが、見てすぐに彼女がシンガーだと気づいた。何か、引き寄せられる物がある。
 見れなくて残念だったのは、やっぱりビョーク。私はDARLINGリストバンドをもっていたが(列に並ばず入れるVIPリストバンド)、それでも入れず、会場のハーパで雰囲気だけを味わっていた。見れた人は本当にラッキー。アメリカのバンドはNYでも見れるので、ことごとくスキップしたが、Santogold, Warpaint, Frankie cosmosは見たかった。
 2日の滞在だったが、新しいバンド、新しいものごと、上から下まで十分にインスパイアされた。気候がどんどん温暖化して、今年は軽装で行ったのだが、難なく快適に過ごせた。
 アイスランドは本当に、何を食べても美味しいし、人びとは、朝まで普通にパーティしているが、モラルがあり、嫌な目にあったことがない。何処でもクレジットカードが使え、Wi-Fiがあり、英語が通じる。そして、アイスランドは安全、親切。朝6時にバスを待っていると、シリアから来たという男の子と簡単に友だちになったり、バスの乗り場を間違えて待っていたら、ホテルの男の子スタッフが、わざわざ正解のバス停まで連れて行ってくれ、バス会社に電話して、私がミスっていないかを確認してくれ、バスが来たら、わざわざ止めて、そのバスがあってるかどうか確認してくれたうえで「良い旅を!」と、送り出してくれる。これが平均的なアイスランド人。涙が出そうになった(とくにNYにいると)、マジカルなアイスランド体験だった。

 

最後に今回見たバンドのリスト。

Fri 11/4
Just another snake cult @bio Paradis
Samaris @bryggjan brugghús
Mammút @bryggjan brugghús
Kótt grà pje @bryggjan brugghús
SiGRUN @12 tonar
THROWS (UK) @12 tonar
Gruska Babuska @ Bar 12
GKR @ American bar
Dolores Haze (Sweden) @gaukurinn
IDLES (UK) @gaukurinn
Hermigervill @ gamla bíó

Sat 11/5
asdfhg. @ Hlemmur Square
Kaelan Mikla @ Hlemmur Square
Fufanu @ Bar Ananas
Mr.Silla @ NASA
Skrattar @ Gaukurinn
GANGLY @ Gamla Bio
Chinah (DK) @ Gamla Bio

公式サイト
https://icelandairwaves.is/

エアウエイブス・サバイバルガイド
https://grapevine.is/culture/music/airwaves/2016/10/31/iceland-airwaves-survival-guide/?=rcar

Yoko Sawai
11/12/2016

追悼・蜷川幸雄(前編) - ele-king

 歳を重ねて、嫌だなと思うことは、わたしの場合あまりない。ただ、25歳前後に知り合いの結婚式ラッシュがあったように、歳を重ねると喪服を着ることが多くなるのだ。だが、この人は、まだ大丈夫と思い、覚悟をしてなかった人が逝った。80歳で、車椅子に乗り、鼻に管をしていたにもかかわらず、だ。蜷川幸雄さんは、その状態で、演出しながら怒り、あいかわらずの調子で台本を床に叩きつけている映像が流れたこともあったから、なんとなく油断していたのだ。
 蜷川さんは、女優としてのわたしと、歌手としてのわたしの両方でお世話になり、卑屈なわたしに、両方の自信をくれた人だ。
 亡くなる数年前にも、「サワコの朝」という番組で、まだ凄いことを言ってくださっていた。ソロになってからずっと好いてくださったのだ。自分で書くのは、あまりに恥ずかしいから、ネットで調べていただきたい。さいたまゴールド・シアターという、高齢者だけの劇団を作った、という話とともに、番組恒例の、今、心に響く曲、というコーナーでわたしの話をしてくれて、Vも流してくださっていて、テレビの前でわたしは涙が出るほど嬉しかった。勿論、俺は誰々に負けてるなあ、なんて、そんなことを言っても、世間的には「へー、負けてるんだあ」と誰も思わず、蜷川さんの巨星のような印象は全く揺るぎない、と無意識のうちに思っているから、そういう言葉が出たのだろう。それにしても、蜷川さんは、灰皿を投げる印象ばかりに思われてる人とは真逆に、とても謙虚な人でもあったのだ。だからこそ、巨星でありえたのだ。

 初めて接点を感じたのは、「レーダーマン」のレコーディングのときだ。そのときは、接点とは気づかなかった。これは何故だろう?という疑問だけだった。時間があったので、スタジオのロビーみたいなとこで、わたしは、たまたまながれていたNHKのテレビを見ていた。すると、局内の番組のCMで、あの、よく知られた怒鳴って激しく演出している蜷川さんが映り、CMは最後に
「特集・蜷川幸雄の世界。お楽しみに。」
でくくられていたのだが、そのCM中、ずっと、わたしの「諦念プシガンガ」がバックに流れていたのだ。わたしは当然、不思議で仕方なかった。
 それから少しして、わたしの所属していたレコード会社に、「諦念プシガンガ」と「蛹化の女」を劇中で使いたいのですが許可をください、という電話が入った。初日の前日であった。それで、NHKのCMと繋がった気がした。
(蜷川さんは、後日女優として使ってくださったとき「最初の3分が勝負なんだ。日常から劇空間に、観客を、かっさらっていかなくちゃならないからね。」と言っていた)
 わたしは、「タンゴ・冬の終わりに」という、平幹二朗と名取裕子主演、清水邦夫脚本の、そして蜷川幸雄演出という、そのメンツだけで、えらいことになっちゃった!と思う演劇の初日に招待されて、レコード会社のディレクターと観劇に行った。お芝居が始まるから客電が落ち、真っ暗になった。その中で、いきなり「諦念プシガンガ」大きな音で鳴り始めた。
 最初の3分が勝負、という演出家が最初の最初にわたしの歌う曲を使ってくれたのだ。そのときは、嬉しいというより、緊張してしまった。
 お芝居が終わってから、楽屋に挨拶に行った。すごくやさしい、嬉しそうな笑顔で、この芝居は戸川さんの曲なしではできませんでした!と言ってくださった。玉姫ツアーで東京でも、まだ狭いキャパでしかライブをやったことのない二十代前半のわたしにも、蜷川さんはそんな感じで接してくれた。わたしは恐縮してしまい、あがってしまったけど、それの緊張をほぐそうとするように、僕が自分でレコード屋さんに買いに行ったんですよー、誰かにもらったんじゃないですよー、とかいろいろ、無邪気な少年のように笑顔で次々言ってくれたので、わたしもやっと笑顔になれた。

 しかし、蜷川さんにとって、「諦念プシガンガ」は、ある特別な重い想いの意味が込められていたことを、のちのち知った。壮絶な想いであった。

 その前に、わたしの、やはり故人であるが、妹・京子の話をしたいと思う。
 妹は、その頃、雑誌「セブンティーン」の、真ん中のカラーページで、毎回いろいろな人にオシャレについてきくという対談ページを与えられていた。そのときの「セブンティーン」の編集部のことを考えると非常に面白い。なにしろ毎回、岡本太郎とか、蜷川さんに、オシャレについて京子にきくよう行かせてたのだから。勿論、名のあるモデルの方にきく回もあったが、「セブンティーン」のそのときの編集部は、企画会議でかなり笑いながら誰を取り上げるか決めていたのでは、とさえ思う。
 そこで、京子は蜷川さんと会う機会に恵まれ、気に入られた。
 近松心中物語の、ベルリン公演とベルギー公演で、狂言回しの、おかめという役をあてがわれたのだ(日本国内では、主演は太地喜和子、それを海外公演では田中裕子、そして市原悦子のやった役を、海外公演では京子がやることになった)。
 鴻上尚史に、京子が「実はあの芝居の本当の主役は、おかめなんだよなー」と言われて「もー、鴻上さん、そうやってプレッシャーかけるんだからあ!(笑)」と、さすがの京子も、おっかなびっくりであった。なんだか姉妹でお世話になってるなあ、とわたしは心底嬉しかった。京子も、それまでバラエティーや、キャピキャピの軽い役どころが多かったが、わたしは子役の頃からの京子を知っていたから、落ち着いた演技のできる実力派、と思っていて、狂言回しといえど、本格的な舞台で、実力を発揮できる機会を与えてくれた蜷川さんに、姉として心の中で感謝したのだ。蜷川さんは、ジャニーズ事務所のアイドルの人をよく使うことでも知られている。メインキャストには華がなければ、と思っていたからでもある。京子にもそれがあったのだ。誰からも、一目見ればそれはわかる子だった。その後、「ペールギュント」というお芝居に、広い青山円形劇場で前半の一ヶ月、後半の一ヶ月とジャニーズ事務所のアイドルの方がひとりずつ、主役だけを変えて出る公演に可燐なヒロイン役でも京子は出演した。主演以外、京子をはじめ大勢の蜷川さんのところの若い人たちが、同じキャストで出ていた。わたしは母と後半のほうを見に行った。母は、決してステージママではなかった。美空ひばりの母親みたいには絶対なりたくない、と、京子が子役のとき、仕事が夜遅かったり、泊まりだったりするので、付き人をやっている感じであった。「ペールギュント」のときには、京子はすっかり大人だったので、純粋にお客として、最初の一ヶ月の公演に、一回見に行き、お芝居が気に入り、また見たいというので、主演は違うけど、わたしと一緒にまた行ったのだ。

 わたしが、「ペールギュント」を見に行ったときに、終わってから京子の楽屋にいたら、そのときペールギュント役を演じていた男闘呼組という、もう解散してしまったがとても人気のあったジャニーズ事務所の岡本健一がその楽屋に入ってきて紹介されたり、いろいろな人に会った。そして、京子も母も、ちょうど別の楽屋に行っていて、わたしひとりになったとき、蜷川さんが、わたしが来ているというのできました、と入ってきてくれた。
 そのとき、蜷川さんは、「ペールギュント」とは関係のない、「諦念プシガンガ」について話してくれたのだった。決して短い軽い話ではなかったが、幸い、最後まできくことができた。重い話である。

 蜷川さんは、もとはアングラの出身であり、非常に左翼的な人であった。新宿の地下のコインロッカーの立ち並ぶ前で、演劇を敢行したりもしていた。メジャーの仕事も、俳優時代はしていたが、悪役や、特に斬られ役専門だった、というのは有名な話だと雑誌の記者や母からきいていた。メジャーが嫌いだったのだ。しかし、ある日、メジャー=商業演劇に呼ばれ、一応劇場を見に行ったところ、照明器具の豊富さ、大掛かりなセットを組める広さや美術装飾、そしてそれが好き放題に出来る予算、などに圧倒されたそうだ。演出家として、コインロッカーの前で、より、欲が出るのは当然のこととわたしは思う。その後の蜷川さんの作品を見れば。そして、悩みに悩んだあげく、蜷川さんはアングラから商業演劇に転向した。蜷川さんが、どんなにアートなことをやっても、自分の身を置いてる世界を、あくまで商業演劇、と呼んでいたのは、アート=アングラ、という図式が頭から離れなかったからだろう。
 そして、商業演劇に転向して少しした蜷川さんのもとに、ある青年が訪ねてくる。
 お芝居のあと、ファンだという青年がぜひ話をしたいというので、お茶を飲みに行き、蜷川さんとその青年が対峙したときのことである。ネットにも出回っている有名な話なので、知ってる方も多いと思うが、そのときは、わたしだから話すので聞いて欲しい、といってくれた。しかも、ネットに出回っている話とは内容が違う。わたしは、自分の記憶を信じている。自分につながる話だからだ。

 追悼番組やネットでの話ではこうだ。
 その青年は、蜷川さんの脇腹にナイフを突きつけ「あなたの芝居を見てきた。いま希望を語れますか。」ときいててきた。蜷川さんは落ち着いて「語らないよ、希望なんかあるわけないだろう。」と答えた。青年は去っていった。

 わたしがきいた話はこう。
 その青年は、蜷川さんの脇腹にナイフを突きつけ「あなたは商業演劇に行ったことを後悔しているか。」ときいてきた。青年があまりに思いつめた顔をしているので、こいつ本気だな、と蜷川さんは思った。蜷川さんは、俺はもうだめになるかもしれないけど、正直なことを言おう、と思った。「後悔してない。」すると青年は、ふっと柔らかい顔になり「それが聞きたかった。あなたはアングラを裏切り、商業演劇に転向して、その上で後悔してるなら、アングラのファンを二度も裏切ったことになる。もうあなたの演劇は観に来ないけど、頑張ってください。」そう言って青年は去っていった。

 なぜわたしが、自分の記憶を譲りたくないか、というと、そのあとがあるからである。
 蜷川さんは、あらためて俺は大変な選択をしたんだな、と思った。
 しかし、蜷川さんが自分に対して、お前はアングラを裏切って商業演劇に転向したんだ、という自責の念に苦しんだ結果、その青年に会って、あらためて自分の進む道を揺るぎなきもの、としたのだという。だから、蜷川さんは、生涯、商業演劇の現役で走り続けたのだろう。よくある言葉で恐縮だが、そのときあらためて信じた道をひたすらにまっすぐ、太く長く。あの青年の激しさと、道は違うけどひたむきさを、自分と重ねて。
 そんな蜷川さんでも、やはり人間だから、裏切りという行為が、吹っ切れたわけではなかったそうだ。そういうとき、蜷川さんはどうしてきたかというと、わたしが書くのが本当におこがましい話なのだが「「諦念プシガンガ」を聴いて、慰めてもらうのです。」と言った。
 僕の魂に似て、その魂をえぐられる気持ちが、逆に慰さまるのです、と。
 迷わず全力で走っていた蜷川さんに、諦念などという言葉は、到底浮かばない気が誰でもするだろう。でも蜷川さんは、ひとつの大事なことを諦めて、そうして初めていさぎよく商業演劇の世界を一心不乱に走ってきたのだ、と思った。
 実は、蜷川さんの規模と比べられたら小さい世界かもしれないが、わたし自身、そういう気持ちで、あの歌詞を書いたのだ。ひとつ、諦めているのだ。若い頃からのいや、小さい頃からの、大きなひとつを。人に話す気はない。なぜなら、絶対わかってもらえるとは思えないし、わかってほしいともおもわないからだ。人様に話すはなしではない、とも思ってることであるし。
 いろいろな人が、あの歌詞について、解釈をしてきた。リリースしてしまえば、曲は聴き手のものになり、わたしはどんな解釈をしていただいても、楽しみなり慰めなりになってくれれば恩の字だと思っている。娯楽を提供している身だと思っているのだから。しかし、ある日ネットで、あの歌詞について解説している人を見つけて、これは非常に困る!と憤慨したこともあった。二番の頭の
「空に消えゆく お昼のドン」
のドンとは、ピカドンのことである、と書いてあったのだ。せめて、
「と、僕は解釈している」
といったことが書いてあれば、仕方ないか、とも思うが、まるで、わたしにインタビューして、裏をとったような本当の解説者のように書いてあったのだ。
 あれは、炭鉱とかでお昼ご飯の時間を知らせる意味の空砲を、お昼のドンと昔の日本では呼んでいて、その空砲が空に消えていく虚しさみたいなものを映像や音で表したつもりであった。諦めの念の表現のひとつである。
 他にも、あれは一応ラブソングの体裁をとっているからだろう、前つきあってた人が、単純に、俺と別れたことを歌ってるんだ、と言ってたときいたこともあった。
 そして、以前紙版エレキングの連載で書いたように、ニューミュージックの女性歌手何人かに、
「ハタチそこそこで、人生知った風な」
と、叩かれたりもした。
 そのニューミュージックの女性歌手の、伝え聞く、十代までの放任主義の自由さを生きた人には、諦念という言葉を、人生知った風な、と感じても、 まあそうなんだろうな、と思うが、本当にわたしは子供のときから、あることを誰より重い無念を持って諦めざるを得なかったのだ。
 そして、わたしの知る限り、蜷川さんだけが、そういった深い、自分の人生の諦念と重ねてくれたのだ。

(文中敬称略・続く

Kaytranada - ele-king

 いまもっとも旬のプロデューサーと言っていいだろう。ケイトラナダことルイ・ケヴィン・セレスティンが初のアルバムをリリースした。ハイチ生まれで生後間もなくカナダのモントリオールに移り住んだ彼は、現在まだ23歳の若者だ。J・ディラ、マッドリブ、ア・トライブ・コールド・クエストなどの影響を受け、14歳でDJを、15歳で楽曲制作を始め、最初はケイタラダムス名義(シカゴのトラップ・プロデューサーのフラストダムスに憧れて命名している)で作品発表を行っていた。その頃はアンオフィシャルなリミックスものやミックス・テープが中心で、ヒップホップやトラップ、ビート・ミュージック系の作品が多かった。2013年からケイトラナダに名前を変えるのだが、その前後に手掛けたジャネット・ジャクソン、エリカ・バドゥ、ティードラ・モーゼスらのリミックスが話題を集める。姉の影響で幼少の頃からR&Bに慣れ親しんできた彼は、こうしたリミックスでR&Bやヒップホップ方面からの仕事をゲットしていくのだった。彼の手掛けたリミックスは公式、非公式も含めてビヨンセ、ファレル、ディスクロージャー、アルーナジョージ、ロバート・グラスパー、ミッシー・エリオット、アジーリア・バンクス、タキシード、フルームなど多岐に及び、プロダクションでもモブ・ディープ、タリブ・クウェリ、フレディ・ギブス、ミック・ジェンキンス、ジ・インターネットなどの作品制作を行っている。今年に入ってからもアンダーソン・パーク、ケイティ・B、チャンス・ザ・ラッパーと、彼が参加したアルバムには話題作が尽きない。

 ここ2、3年の間に大注目のプロデューサーとなってしまった彼は、ヒップホップ、R&B、ハウスなどあらゆるダンス・サウンドに通じ、ジャズ、ファンク、ブラジリアンなど多彩な音楽的モチーフを引き出しの中に持つ。メジャーとアンダーグラウンドの間を行き来できるプロデューサーで、ヒップホップを軸としつつもオールマイティな才能を持っている点では、マッドリブやDJスピナなどヒップホップの枠を超えた活動するプロデューサーを思い起こさせる。『99.9パーセント』では、そんなケイトラナダのプロダクションの魅力を十二分に満喫できるだろう。

 参加ゲストも豪華で、フォンテ、クレイグ・デイヴィッド、アルーナジョージ、ゴールドリンク、リトル・ドラゴン、ジ・インターネットのシド・ザ・キッド、同じカナダのバッドバッドナットグッドらがフィーチャーされる。トリッキーなエレクトリック・ブギーの“トラック・ウノ”、ドリーミーなジャズ・ファンクの“バス・ライド”、クレイグ・デイヴィッドのシルキーなヴォーカルが映えるR&Bナンバー“ゴット・イット・グッド”というオープニングからの3曲を聴いても、多彩なサウンドを操りながらもしっかりと自分の世界を構築していく能力が感じられる。アルーナジョージとゴールドリンク参加の“トゥゲザー”、リトル・ドラゴンをフィーチャーした“バレッツ”など、BPM110~120あたりのハウス系の作品が結構多いのだが、それでもヒップホップを出自とするトラックメイカーというのがわかるブレイクビーツのプロダクションだ。フォンテが歌う“ワン・トゥー・メニー”はハウスとヒップホップとR&Bの中間にあるような作品で、こうした全方向に通じるところがケイトラナダのいちばんの魅力ではないだろうか。フットワークにも通じるような“ライト・スポッツ”ではガル・コスタのトロピカリア期の作品を、“デスパイト・ザ・ウェザー”ではアンビエンスのスピリチュアルなボッサをサンプリングするなど、ジャズ系のネタ使いも多く見られる。そうした彼のジャズ・センスが発揮されたのがバッドバッドナットグッドをフィーチャーした“ウェイト・オフ”だろう。なお、ケイトラナダはこれからリリースされるバッドバッドグッドナットのニュー・アルバムにお返しとして客演している。

 ちなみに、アルバム発表に先駆けたインタヴューで彼はゲイであることをカミングアウトしている。最初、彼の母親にそのことを受け入れてもらえなかったのだが、だんだんと認めてもらえるようになり、いまは姉や弟とともにサポートしてくれているそうだ。そうしたことを含め、いままではどうしても自身を開放できないところを抱えていたケイトラナダだが、現在の心境はより100パーセントに近いハッピーなものへと変わってきているという。アルバム・タイトルの『99.9パーセント』には、そうした想いも込められているようだ。

Konono N°1 - ele-king

 クラップ・クラップの『タイー・ベッバ』(2014年)の評価とともに、トロピカル・ベースという言葉も広まってきた。マーラの『マーラ・イン・キューバ』(2012年)あたりから、UKベース・ミュージックとグローカル・ミュージック(辺境音楽)の融合がクローズ・アップされ、そうしたところから名づけられた造語だ。そして、こうしたトロピカル・ベースはいまやUKだけでなく、世界各地から発信されている。たとえばアルゼンチンのデジタル・クンビアなど、トロピカル・ベース以前から民族音楽とダンス・ミュージックの融合は世界のいろいろな場所に存在していたが、2015年にリリースされた作品ではンボングワナ・スターの『フロム・キンシャサ』がとくにおもしろかった。スタッフ・ベンダ・ビリリというコンゴ共和国の音楽集団の中心メンバーが、レ・リタ・ミツコやトニー・アレンとも活動してきたフランスのDJ/プロデューサー/ドラマーのドクトール・Lと組んだユニットである。スタッフ・ベンダ・ビリリはコンゴのキンシャサで路上生活を営むボリオ障害者とストリート・チルドレンからなるバンドで、ベルギーのアクサク・マブールのヴァンサン・ケニスに見出され、その盟友マルク・オランデルが主宰する老舗〈クラムド・ディスク〉からアルバムをリリースしている。

 〈クラムド・ディスク〉には他にもコノノ・ナンバーワンというコンゴのグループがいて、こちらはアンゴラ国境付近のバゾンボ族の居住区域出身の音楽集団だ。マワング・ミンギエディを中心に1966年頃からストリートで活動し、アンプに繋いだリケンベ(親指ピアノでアフリカの地域ごとにカリンバ、ムビラ、サンザとも呼ばれる)や廃品を用いたパーカッションにシンガーやダンサーが絡むそのサウンドは、人力トランスとも評される。2004年に〈クラムド・ディスク〉から発表したファースト・アルバム『コンゴトロニクス』で世界的に注目され、ビョークとのコラボ、ハービー・ハンコックが企画したイマジン・プロジェクトへの参加、グラミー賞ワールド・ミュージック部門でのウィナー獲得など、さまざまな話題を提供してきた。『コンゴトロニクス』は〈クラムド・ディスク〉のシリーズに発展し、コンゴの5つの部族が集まったカサイ・オールスターズも生まれた。コノノとカサイが合体したコンゴトロニクス名義での活動、ディアフーフ、アニマル・コレクティヴ、フアナ・モリーナ、シャクルトン、アクサク・マブールなど世界中のインディ・ロック~エレクトロニック・アーティストが組んだロッカーズとのセッションなど、次々と刺激的な試みを行っている。マワング・ミンギエディは2009年にグループのリーダーの座を息子のアウグスティン・マクンティマ・マワングへ譲り、自身は隠居して2015年4月に亡くなったが、その直後に発表されたンボングワナ・スターの『フロム・キンシャサ』でも、コノノ・ナンバーワンは1曲に参加している。そして、今回発表する新作はポルトガルのバティーダとの共作である。

 バティーダはポルトガルのDJ/プロデューサー/ミュージシャンであるムピューラことペドロ・コケォンによるユニットだが、彼の出身地はアフリカ南西部のアンゴラ共和国で、そこにはクドゥロという特有のストリート・サウンドが存在する。アンゴラの民族音楽であるセンバはじめ、アフロビートなどアフリカ音楽、ズーク、カリプソ、ソカなどカリビアンと、欧米から輸入されたヒップホップ、グライム、テクノ、ハウス、ダンスホールなど各種クラブ・サウンドを融合したもので、デジタル・クンビア、レゲトン、バイレ・ファンキなどとの共通項も見出せる。ブルカ・ソン・システマの活躍などでクドゥロはヨーロッパにも広まっているが、バティーダもこのサウンドに基づいてUKの〈サウンドウェイ〉から2枚のアルバムを発表している。そんなコノノ・ナンバーワンとバティーダが本作の中で激突する。

 電化リケンベの歪んだ音色が独特のサイケデリック感覚を呼び起こし、アフリカ音楽ならではのポリリズムにデジタルなダンス・ビートを結びつけた“ンレレ・カルシムビコ”や“キンスムバ”。クラップ・クラップのような密林系トロピカル・ベースの“ヤムバディ・ママ”。シンプルなビートにヴォイスとハンド・クラップのみの構成ながら、とてつもなく強力なグルーヴを作り出す“ボム・ディア”。トランシーな中にもアフリカ音楽が持つ牧歌性や瞑想性も感じさせる“トコランダ”。アフリカン・ブルースとグライムが出会ったような“ンゾンジング・ファミリア”。歌と踊りと演奏が一体となってシャーマニックな空間を作り出す“クナ・アメリカ”。ほとんどトライバルなビートのみで表情豊かなサウンドを作り出す“ウム・ンゾンジング”。ストリート・サウンド育ちの両者ならではの熱気が込められ、サウンドの中に没頭できるこのトランシーなエレクトリック・アフロ・アルバムは、クラップ・クラップの『タイー・ベッバ』やンボングワナ・スターの『フロム・キンシャサ』に続き、民族音楽とクラブ・サウンドが理想的な形で結び付いた新たなスタンダードとなるのではないだろうか。

Interview with Ryu Okubo - ele-king

 ただいま絶賛個展開催中の新進気鋭のイラストレーター、オオクボリュウ(通称ドラゴン)をつかまえて話を訊いた。
 90年代のある時期までは、新しいモノは新しいモノだった。しかし、新しいモノが必ずしも新しくはない。少なくとも90年代のある時期までは新しいモノが昔のモノよりも面白かった。しかし、新しいモノが必ずしも面白くはない。そんな現代の申し子であるこの若者は、構えることなく、いつも会うときと同じように話してくれた。

本当にそうですよ。絵に関してもそうですもん。これ以上の進化はしなくてもいいというか。でも古いものが好きなんじゃなくて、時間が経っても残る普遍的なものが好きなんです

ドラゴンくんと初めて会った頃に、ルーツを教えてくれたよね。水木しげるからすごく影響を受けたって。

ドラゴン(以下、D):この間、三田さんと水木さんのお葬式に行ったんですよ。

ヒップホップと水木しげるっていうのが、ドラゴンのユニークなところじゃない?

D:『ele-king』の文章、素晴らしかったですよね。ああいうキャッチコピーにこれからしようかな(笑)。

そもそもドラゴンが絵を描きはじめたきっかっけって、漫画だったんでしょう? 

D:でも僕は音楽が好きだったから、最初のきっかっけは映画の『イエロー・サブマリン』ですよ。母親に見せられたんですよ。

えー(笑)!

D:それが小1とかですね。いまでもビートルズは好きなんですよ。音楽がやっぱり良かったですよね(笑)。

リアルタイムの音楽よりもそっちなんだね?

D:当時流行っていたものも聴いていましたけどね。でもビートルズはずっと好きですよ。

日本語ラップもすごく詳しいでしょう。リアルタイムじゃないと思うんだけど、キングギドラの『空からの力』の曲名が順番通りに全部言えるじゃない?

D:あれはクラシックだからみんな言えるんじゃないかな(笑)。でもそれは僕の性格もあると思いますよ。調べ癖がヒドいというか。つまみ食いしないで何でも全部いってみるというか。

じゃあ最初は絵というよりも音楽だったんだね。

D:そうかもしれないですね。

能動的に音楽を聴きはじめたときに、自分の転機になったものは?

D:ビートルズを聴くようになる前に2年間アメリカにいたことがデカいです。4、5歳のときで、マイケル・ジャクソンがすごく流行っていました。『ヒストリー』が出たときですね。当時の4、5歳のアメリカ人はマイケル・ジャクソンを聴いていたんですよ。子供たちはヒップホップを聴いてませんでしたね。トライブとか流行っていたのかもしれないんですけど、子供の耳に入ってくるのは、マイケル・ジャクソンでした。

その体験が自分のなかの文化的方向性の何かを決めてしまったの?

D:そうでしょうね。ノーマルな状態にマイケル・ジャクソンが入ってきたわけですもんね。

それでビートルズを聴いたと。

D:日本に帰ってきてビートルズですね。日本語ラップは流行っていたときに聴きました。リップ・スライムとか、キック・ザ・カン・クルーとか。僕の世代はみんな聴いていますよ。それが小6から中1にかけてのとき。

「あがってんの? さがってんの?」って。

D:あれがスーパーで流れていて、お母さんにキック・ザ・カン・クルーのアルバムを買ってもらいましたね。当時はエミネムも流行っていました。D12とか。

懐かしい。エミネムの『8マイル』も流行ったよね。

D:あの頃って、ハードな曲でもみんな聴いていましたよね。ちょっと変な時代でしたよね。だってキャッチーじゃないのに、アメリカみたいにわけもわからず聴いていたんですから。

じゃあ中学から高校にかけての思春期に大きな影響を与えたものって何? 

D:一番影響を受けたのはザ・フーなんです。

な、なんなんだよ〜、それは! 

D:本当に好きで。ヒップホップは聴いていたんですけど、高校1年生のときに、『トミー』を先生に借りて、映画にものすごく感動しちゃって。そこから3年くらいはあの辺の音楽を聴いていましたよ。ビートルズより後のバンドといいますか。ぼくはいまでもああいうバンドが来日したら見に行きますよ。キンクスとかも、リーダーのレイ・デイヴィスがソロで来日したときもフジロックで見ました。

90年代もそうだったけど、ドラゴンくん世代だとタワーレコードとかで、旧譜とかも普通に手に入るもんね。逆にいうと、古い音楽と新しい音楽が同じように売られてしまっているところもあるからね。例えば、いま流行っている新しい音楽を買うくらいだったら、再発されたフーを買うって感じ?

D:本当にそうですよ。絵に関してもそうですもん。これ以上の進化はしなくてもいいというか。

それは要するに、いいものが出尽くしているから?

D:そうなんですよ。ピカソとかすごく好きですけど、あそこまでいっているから見栄えとしてはあのまんまでいいかなと。

でも自分でカタコトをやったり絵を描いたりする上でさ、すでに過去に素晴らしいものがあるのに、そこで自分が出ていくというのは矛盾じゃない?

D:そうですよねぇ……。いつも考えてはいるんですけど。

「新しさ」とはなんだろう?

D:最近思っているのは、パーソナルになることっていうか。

「新しさ」って必要だと思う?

D:この展示の感じでいうと、見栄えに関しては新しいことをしている意識はないです。本当にキャンパスに絵の具を使って書くだけというか。キャラクターに関しても、新しいものを生み出しているつもりも全然ないんです。白くて丸いキャラクターっているでしょう? キャスパーとか、スヌーピーとか。ああいうスタイルってあると思うんですよ。それにのっとっているというか。でも今回の扱っている「アイフォンを落として割っちゃった」みたいな、最近のひとの悩みというか、それはキャスパーの時代にはありませんでしたよね。ピカソの時代にももちろんない。だから別に外見に関して新しい素材を使うとかそういう気持ちはないですけど、そういうパーソナルな部分を意識していますね。音楽に関しても似ているかみしれません。リヴァイヴァルっていくらあってもいいけど、その時代のひとがやっていて、そのひとのパーソナルなところが出ていれば、俺は面白いかなと思います。

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その当時王道のベスト・ワンされていた音楽にはやっぱり力強さを感じられるんですよね。漫画に関しても似たものを感じます。もちろん例外はありますけど。

2〜3年前だっけ? 快速東京のライヴで知り合って、カタコトのカセットを買って、ドラゴンくんの絵をいろいろ見せてもらったんだよね。ドラゴン君にはすごくたくさんある引き出しのなかで、今回の初めての個展で、いろんな自分を見せるんじゃなくて、ひとつのコンセプチュアルな作品を見せたじゃない?

D:それは意識しましたし、現実的にも出せる作品が溜まっていなかったんです。僕、普段はクライアントワークばかりやっているんで、いざ個展をやろうとしたとき、そんなに作品は溜まっていないというか。だから個展やるときに、ひとつコンセプトを決めて展示するってアイディアにいきがちな部分もあります。

クライアント仕事へのストレスが作品に表れていたりする?

D:それはあるかもしれないです。とはいえ、仕事のようにスケジューリングをして、全部作るのに2ヶ月くらいかかりましたね。終わったのは個展が開始する1週間前でした。普段のクライアントワークで時間は厳守していたので、そこはきっちり守れましたね(笑)。

クライアントワークではどういう仕事が多いの?

D:東京メトロのCMで使われるような絵の仕事とかですかね。

アイフォンとかアマゾンとかって、現代の消費生活を象徴しているものだと思うんだけど、そういうものを屈託無く描くよね?

D:そう思いました(笑)?

うん。例えば僕なんかはアイフォンもアマゾンも利用するけど、複雑な気持ちになるもんね。むちゃくちゃ頭にきたりするけどね。でも仕方がねぇから使うか、みたいな。

D:僕は全然複雑な気持ちじゃないんですよ。でも、そう言ってもらえて良かったです。僕はこれが批判的に捉えられていたら嫌だなと。見方によればすごくベタな現代批判みたいに思われそうで。

あまりにも屈託が無さすぎると思ったくらいですよ(笑)。

D:でも僕はいつもそういう感覚ですよ。否定も肯定もせず、みたいな。

話は変わりますが、カタコトはどうなっているんですか?

D:セカンドは半分くらい進みました。やる気はあるんですが、忙しくて……(笑)。1回アルバム制作を経験しているから、もう1回あれをやるのかぁっていうか(笑)。サクッといかなかった思い出が強いんです。メンバー同士の話し合いもストレスになるし。ひととモノを作るってストレスが溜まりますよね。

カタコトの屈託の無さが好きなんだよね。ストリート系ヒップホップに対するリスペクトもすごくあるんだけど、ヒップホップは幅広いモノだから。でも、カタコトみたいなものは変種だよね(笑)。

D:もうちょっと頑張らないとダメだな(苦笑)。

いま普段聴いている音楽って何?

D:相変わらず何でも聴いていますね。ヒップホップも聴くし、新しいものも聴いていますよ。カニエの新作とか(笑)。聴いてもあんまりなんとも思わなかったですけど。

ドラゴンくんはPSGのMVをやったじゃない? あれはどうやってやったの?

D:あれはPUNPEEくんに「お金はないけど、一緒にやってみませんか?」みたいな感じで誘われたんです。

それはどこでどう繋がったの?

D:これも不思議な話なんですけど、ユーチューブに自分の短いアニメーションを何個か上げていたんですよ。そこに何も考えず、自分の好きなアーティストをたくさんタグ付けしました。例えば、鎮座ドープネスの下に自分のアニメがきたらいいな、ぐらいの気持ちです。そうしたら、PUNPEEくんがたまたま見てくれたんですよ。それが2009年ぐらいなんですけど、その頃ってPSGも出たばっかりのときで。僕はスラックのファーストを予約して買うぐらい好きだったんですよ。『My Space』のときです。だからけっこう早かったというか。

PSGとドラゴンの世界観がハマっていたよね。

D:いまでもあれは言われますからね。相変わらずあの動画の再生回数は伸びてます。



アニメーションはそのときから自分でやっているんだよね。しかもコマ撮りで。

D:やってますね。最初、アニメは能動的に作っていたんですけど、PSG以降は全部頼まれて作るぐらいなので、あまりアニメーションを研究している感じではないんですけどね。だからアニメの絵は見るひとが見れば下手くそだとバレるというか。上手く動かせるひとってもっといるんですよ。いわゆるアニメの作法とかは僕は無視してるんで。

レトロスペクティヴな感覚があるよね。現代の消費生活を象徴するものが描かれていながら、アニメで再生されているのはある意味懐古的だけど、ドラゴンくんのなかに失われてしまったものに対する郷愁ってあるの? 

D:どうなんだろう。無意識的にはあるかもしれないですね。

ドラゴンくんから見て、昭和的な面白さってなんだと思う? 

D:難しいな。何なんでしょうね。でも古いものが好きなんじゃなくて、時間が経っても残る普遍的なものが好きなんです。

古いものが好きなわけじゃないと。

D:スヌーピーって造形もかわいいですけど、ここまで残っているからには、それなりの強度も持っていると思うんです。そこに僕はやられちゃう。ビートルズももちろんそうですけど。

スヌーピーの絵がグッとくるの?

D:絵ももちろんですけど、考えさせられる部分でもグッときてますよ。願わくば、自分の作品においても百年後のことを考えてしまうというか。音楽も、その当時王道のベスト・ワンにされていた音楽にはやっぱり力強さを感じられるんですよね。漫画に関してもそうで、もちろん例外はありますけど。

そう言われると、やはり水木さんは大きな存在なんだね。

D:水木しげるの魅力って絵だけじゃないですよね。

ドラゴンくんの作品は同世代に向けて描いている?

D:特に対象を考えているわけではないです。子供向けに描いてみたいとも思いますけどね。でも、自分が子供の頃を考えると、子供むけじゃないものも面白がっていたので、そこはあんまり子供に合わせる必要はないと思ってます。

映画では何が好きなの? 

D:うーん、何だろう……。映画はいろいろ見ますよ(笑)。タイのアピチャッポンとかすごい好きです。世界観が水木しげる的ですよ。ありえないことが起きているけど、誰も驚かないみたいな。

 

オオクボリュウ「Like A Broken iPhone | アイフォン割れた」開催中

2016年4月8日(金)- 4月24日(日)
トーク・イベント:4月16日(土)19:00-21:00 進行:安部憲行(本展キュレーター)】
時間:12:00-19:00  
休廊日:月曜日
会場:CALM & PUNK GALLERY (東京都港区西麻布1-15-15 浅井ビル1F)

Tel: 03-5775-0825
URL:https://calmandpunk.com/
facebook:https://www.facebook.com/events/1860614200832209/

Frankie Cosmos - ele-king

 ああ、短い。1分、2分たらずのポップ・ソングが15曲。気がつけばすべて終ってしまっていて、しかしその終ってしまった時間のなつかしいこと……。

 いわゆる2ミニット・ポップというのとはニュアンスがちがう。楽天的でキャッチー、かつ鉄壁のポップ・フォーマットを持っている、というのではなくて、それはさながらため息のような、笑い声のような、問いかけであり独白であるような、とりとめのない一筆書きの感情の束というのに近い。「曲」という単位がふさわしいのかどうかもわからない。メモ紙が風に飛ばされるようにわっとこちらにやってきて、その白い残像を網膜にやきつけてどこかへ消えていく。なんと軽やかで、しかしなんという質量をもっていることか。

 ああ、いまのあれは何だったのだろう……心地よい渇きとともにあらためてわれわれはその名を記憶する。フランキー・コスモス。ニューヨークのシンガーソングライター、グレタ・クラインのプロジェクト。齢20歳ちょっと。2014年の『ゼントロピー(Zentropy)』をご存知のかたも少なくないはずだ。しかし彼女を聴くのに順序やバイオは関係ない。どこを切ってもそのままのフランキー・コスモスが姿をのぞかせるし、彼女に触れることがそのまま彼女を聴くことになるということを私たちはすぐ知ることになる。

 ローファイでシンプル。ギター主体のバンド・アンサンブルが基本だが、楽曲をつくるのは彼女であり、あくまでクラインのプロジェクトとして成り立っている。素朴ではあるが、それを天然と呼ぶにはあまりに聡明かつ理性的、そしてヘタウマというにはあざとさがない。ビート・ハプニングを思わせる。キャルヴィン・ジョンソンのあり余るタレント性の中から、ちょっとした露悪性というかクセの強さを差し引くイメージだ。あるいはそのキャルヴィンによる〈Kレコーズ〉のタイガー・トラップの自然体を思い出す。旋律のひとつひとつが生き生きとして、風のように力が抜けている。かつ構成的でも様式的でもない。音楽でなくてもよかったのではないかという普遍性と、音楽でなくてはならなかった特別なよろこびに満ちている。

 歌われていることは、基本的には一人称の、クライン自身の生活に根差すことがらのようだ。物語性や詩的な飛躍が強いわけではないが、体験を生々しくつづるというのでもない。まだとても若いのに、どことなくものを儚み、倦んでいるような調子があるのがとても印象的だ。いまは離別したとおぼしき思い人の町をひとりで歩き、いろんなものに相手の気配を感じとっていくというかわいらしい心情の歌われる"O・ドレッデッド・C・タウン"も、最終的に耳に残るのは「I don't know or care to know」という諦めのニュアンスばかり。バンドには彼氏さんだというポーチズのアーロン・メインも参加し、彼のポーチズにもクラインが参加していて、昨年はふたりで制作したEP『フィット・ミー・イン』もリリース、ポーチズに寄った柔らかいシンセ・ポップが収められているばかりか、ジャケットのアートワークにもふたりを思わせる男女のドローイングを用いていて、とてもよい関係の中に音楽が紡ぎ出されていることはわかるが、恋にはじけ夢中になるというテンションはまるでない。

 若いことは華やいだことでなくていい──クラインのみずみずしさはティピカルな若さのモチーフを解体してくれる。そう気づいたとき、彼女の感じているはずの風や光が、生々しい量感を帯びて肌に触れてくる。それは筆者にとっても「ニュー・シング」とよぶべき瞬間だった。

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