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RIP

追悼・蜷川幸雄(前編)

追悼・蜷川幸雄(前編)

文・戸川純 Jun 03,2016 UP

 歳を重ねて、嫌だなと思うことは、わたしの場合あまりない。ただ、25歳前後に知り合いの結婚式ラッシュがあったように、歳を重ねると喪服を着ることが多くなるのだ。だが、この人は、まだ大丈夫と思い、覚悟をしてなかった人が逝った。80歳で、車椅子に乗り、鼻に管をしていたにもかかわらず、だ。蜷川幸雄さんは、その状態で、演出しながら怒り、あいかわらずの調子で台本を床に叩きつけている映像が流れたこともあったから、なんとなく油断していたのだ。
 蜷川さんは、女優としてのわたしと、歌手としてのわたしの両方でお世話になり、卑屈なわたしに、両方の自信をくれた人だ。
 亡くなる数年前にも、「サワコの朝」という番組で、まだ凄いことを言ってくださっていた。ソロになってからずっと好いてくださったのだ。自分で書くのは、あまりに恥ずかしいから、ネットで調べていただきたい。さいたまゴールド・シアターという、高齢者だけの劇団を作った、という話とともに、番組恒例の、今、心に響く曲、というコーナーでわたしの話をしてくれて、Vも流してくださっていて、テレビの前でわたしは涙が出るほど嬉しかった。勿論、俺は誰々に負けてるなあ、なんて、そんなことを言っても、世間的には「へー、負けてるんだあ」と誰も思わず、蜷川さんの巨星のような印象は全く揺るぎない、と無意識のうちに思っているから、そういう言葉が出たのだろう。それにしても、蜷川さんは、灰皿を投げる印象ばかりに思われてる人とは真逆に、とても謙虚な人でもあったのだ。だからこそ、巨星でありえたのだ。

 初めて接点を感じたのは、「レーダーマン」のレコーディングのときだ。そのときは、接点とは気づかなかった。これは何故だろう?という疑問だけだった。時間があったので、スタジオのロビーみたいなとこで、わたしは、たまたまながれていたNHKのテレビを見ていた。すると、局内の番組のCMで、あの、よく知られた怒鳴って激しく演出している蜷川さんが映り、CMは最後に
「特集・蜷川幸雄の世界。お楽しみに。」
でくくられていたのだが、そのCM中、ずっと、わたしの「諦念プシガンガ」がバックに流れていたのだ。わたしは当然、不思議で仕方なかった。
 それから少しして、わたしの所属していたレコード会社に、「諦念プシガンガ」と「蛹化の女」を劇中で使いたいのですが許可をください、という電話が入った。初日の前日であった。それで、NHKのCMと繋がった気がした。
(蜷川さんは、後日女優として使ってくださったとき「最初の3分が勝負なんだ。日常から劇空間に、観客を、かっさらっていかなくちゃならないからね。」と言っていた)
 わたしは、「タンゴ・冬の終わりに」という、平幹二朗と名取裕子主演、清水邦夫脚本の、そして蜷川幸雄演出という、そのメンツだけで、えらいことになっちゃった!と思う演劇の初日に招待されて、レコード会社のディレクターと観劇に行った。お芝居が始まるから客電が落ち、真っ暗になった。その中で、いきなり「諦念プシガンガ」大きな音で鳴り始めた。
 最初の3分が勝負、という演出家が最初の最初にわたしの歌う曲を使ってくれたのだ。そのときは、嬉しいというより、緊張してしまった。
 お芝居が終わってから、楽屋に挨拶に行った。すごくやさしい、嬉しそうな笑顔で、この芝居は戸川さんの曲なしではできませんでした!と言ってくださった。玉姫ツアーで東京でも、まだ狭いキャパでしかライブをやったことのない二十代前半のわたしにも、蜷川さんはそんな感じで接してくれた。わたしは恐縮してしまい、あがってしまったけど、それの緊張をほぐそうとするように、僕が自分でレコード屋さんに買いに行ったんですよー、誰かにもらったんじゃないですよー、とかいろいろ、無邪気な少年のように笑顔で次々言ってくれたので、わたしもやっと笑顔になれた。

 しかし、蜷川さんにとって、「諦念プシガンガ」は、ある特別な重い想いの意味が込められていたことを、のちのち知った。壮絶な想いであった。

 その前に、わたしの、やはり故人であるが、妹・京子の話をしたいと思う。
 妹は、その頃、雑誌「セブンティーン」の、真ん中のカラーページで、毎回いろいろな人にオシャレについてきくという対談ページを与えられていた。そのときの「セブンティーン」の編集部のことを考えると非常に面白い。なにしろ毎回、岡本太郎とか、蜷川さんに、オシャレについて京子にきくよう行かせてたのだから。勿論、名のあるモデルの方にきく回もあったが、「セブンティーン」のそのときの編集部は、企画会議でかなり笑いながら誰を取り上げるか決めていたのでは、とさえ思う。
 そこで、京子は蜷川さんと会う機会に恵まれ、気に入られた。
 近松心中物語の、ベルリン公演とベルギー公演で、狂言回しの、おかめという役をあてがわれたのだ(日本国内では、主演は太地喜和子、それを海外公演では田中裕子、そして市原悦子のやった役を、海外公演では京子がやることになった)。
 鴻上尚史に、京子が「実はあの芝居の本当の主役は、おかめなんだよなー」と言われて「もー、鴻上さん、そうやってプレッシャーかけるんだからあ!(笑)」と、さすがの京子も、おっかなびっくりであった。なんだか姉妹でお世話になってるなあ、とわたしは心底嬉しかった。京子も、それまでバラエティーや、キャピキャピの軽い役どころが多かったが、わたしは子役の頃からの京子を知っていたから、落ち着いた演技のできる実力派、と思っていて、狂言回しといえど、本格的な舞台で、実力を発揮できる機会を与えてくれた蜷川さんに、姉として心の中で感謝したのだ。蜷川さんは、ジャニーズ事務所のアイドルの人をよく使うことでも知られている。メインキャストには華がなければ、と思っていたからでもある。京子にもそれがあったのだ。誰からも、一目見ればそれはわかる子だった。その後、「ペールギュント」というお芝居に、広い青山円形劇場で前半の一ヶ月、後半の一ヶ月とジャニーズ事務所のアイドルの方がひとりずつ、主役だけを変えて出る公演に可燐なヒロイン役でも京子は出演した。主演以外、京子をはじめ大勢の蜷川さんのところの若い人たちが、同じキャストで出ていた。わたしは母と後半のほうを見に行った。母は、決してステージママではなかった。美空ひばりの母親みたいには絶対なりたくない、と、京子が子役のとき、仕事が夜遅かったり、泊まりだったりするので、付き人をやっている感じであった。「ペールギュント」のときには、京子はすっかり大人だったので、純粋にお客として、最初の一ヶ月の公演に、一回見に行き、お芝居が気に入り、また見たいというので、主演は違うけど、わたしと一緒にまた行ったのだ。

 わたしが、「ペールギュント」を見に行ったときに、終わってから京子の楽屋にいたら、そのときペールギュント役を演じていた男闘呼組という、もう解散してしまったがとても人気のあったジャニーズ事務所の岡本健一がその楽屋に入ってきて紹介されたり、いろいろな人に会った。そして、京子も母も、ちょうど別の楽屋に行っていて、わたしひとりになったとき、蜷川さんが、わたしが来ているというのできました、と入ってきてくれた。
 そのとき、蜷川さんは、「ペールギュント」とは関係のない、「諦念プシガンガ」について話してくれたのだった。決して短い軽い話ではなかったが、幸い、最後まできくことができた。重い話である。

 蜷川さんは、もとはアングラの出身であり、非常に左翼的な人であった。新宿の地下のコインロッカーの立ち並ぶ前で、演劇を敢行したりもしていた。メジャーの仕事も、俳優時代はしていたが、悪役や、特に斬られ役専門だった、というのは有名な話だと雑誌の記者や母からきいていた。メジャーが嫌いだったのだ。しかし、ある日、メジャー=商業演劇に呼ばれ、一応劇場を見に行ったところ、照明器具の豊富さ、大掛かりなセットを組める広さや美術装飾、そしてそれが好き放題に出来る予算、などに圧倒されたそうだ。演出家として、コインロッカーの前で、より、欲が出るのは当然のこととわたしは思う。その後の蜷川さんの作品を見れば。そして、悩みに悩んだあげく、蜷川さんはアングラから商業演劇に転向した。蜷川さんが、どんなにアートなことをやっても、自分の身を置いてる世界を、あくまで商業演劇、と呼んでいたのは、アート=アングラ、という図式が頭から離れなかったからだろう。
 そして、商業演劇に転向して少しした蜷川さんのもとに、ある青年が訪ねてくる。
 お芝居のあと、ファンだという青年がぜひ話をしたいというので、お茶を飲みに行き、蜷川さんとその青年が対峙したときのことである。ネットにも出回っている有名な話なので、知ってる方も多いと思うが、そのときは、わたしだから話すので聞いて欲しい、といってくれた。しかも、ネットに出回っている話とは内容が違う。わたしは、自分の記憶を信じている。自分につながる話だからだ。

 追悼番組やネットでの話ではこうだ。
 その青年は、蜷川さんの脇腹にナイフを突きつけ「あなたの芝居を見てきた。いま希望を語れますか。」ときいててきた。蜷川さんは落ち着いて「語らないよ、希望なんかあるわけないだろう。」と答えた。青年は去っていった。

 わたしがきいた話はこう。
 その青年は、蜷川さんの脇腹にナイフを突きつけ「あなたは商業演劇に行ったことを後悔しているか。」ときいてきた。青年があまりに思いつめた顔をしているので、こいつ本気だな、と蜷川さんは思った。蜷川さんは、俺はもうだめになるかもしれないけど、正直なことを言おう、と思った。「後悔してない。」すると青年は、ふっと柔らかい顔になり「それが聞きたかった。あなたはアングラを裏切り、商業演劇に転向して、その上で後悔してるなら、アングラのファンを二度も裏切ったことになる。もうあなたの演劇は観に来ないけど、頑張ってください。」そう言って青年は去っていった。

 なぜわたしが、自分の記憶を譲りたくないか、というと、そのあとがあるからである。
 蜷川さんは、あらためて俺は大変な選択をしたんだな、と思った。
 しかし、蜷川さんが自分に対して、お前はアングラを裏切って商業演劇に転向したんだ、という自責の念に苦しんだ結果、その青年に会って、あらためて自分の進む道を揺るぎなきもの、としたのだという。だから、蜷川さんは、生涯、商業演劇の現役で走り続けたのだろう。よくある言葉で恐縮だが、そのときあらためて信じた道をひたすらにまっすぐ、太く長く。あの青年の激しさと、道は違うけどひたむきさを、自分と重ねて。
 そんな蜷川さんでも、やはり人間だから、裏切りという行為が、吹っ切れたわけではなかったそうだ。そういうとき、蜷川さんはどうしてきたかというと、わたしが書くのが本当におこがましい話なのだが「「諦念プシガンガ」を聴いて、慰めてもらうのです。」と言った。
 僕の魂に似て、その魂をえぐられる気持ちが、逆に慰さまるのです、と。
 迷わず全力で走っていた蜷川さんに、諦念などという言葉は、到底浮かばない気が誰でもするだろう。でも蜷川さんは、ひとつの大事なことを諦めて、そうして初めていさぎよく商業演劇の世界を一心不乱に走ってきたのだ、と思った。
 実は、蜷川さんの規模と比べられたら小さい世界かもしれないが、わたし自身、そういう気持ちで、あの歌詞を書いたのだ。ひとつ、諦めているのだ。若い頃からのいや、小さい頃からの、大きなひとつを。人に話す気はない。なぜなら、絶対わかってもらえるとは思えないし、わかってほしいともおもわないからだ。人様に話すはなしではない、とも思ってることであるし。
 いろいろな人が、あの歌詞について、解釈をしてきた。リリースしてしまえば、曲は聴き手のものになり、わたしはどんな解釈をしていただいても、楽しみなり慰めなりになってくれれば恩の字だと思っている。娯楽を提供している身だと思っているのだから。しかし、ある日ネットで、あの歌詞について解説している人を見つけて、これは非常に困る!と憤慨したこともあった。二番の頭の
「空に消えゆく お昼のドン」
のドンとは、ピカドンのことである、と書いてあったのだ。せめて、
「と、僕は解釈している」
といったことが書いてあれば、仕方ないか、とも思うが、まるで、わたしにインタビューして、裏をとったような本当の解説者のように書いてあったのだ。
 あれは、炭鉱とかでお昼ご飯の時間を知らせる意味の空砲を、お昼のドンと昔の日本では呼んでいて、その空砲が空に消えていく虚しさみたいなものを映像や音で表したつもりであった。諦めの念の表現のひとつである。
 他にも、あれは一応ラブソングの体裁をとっているからだろう、前つきあってた人が、単純に、俺と別れたことを歌ってるんだ、と言ってたときいたこともあった。
 そして、以前紙版エレキングの連載で書いたように、ニューミュージックの女性歌手何人かに、
「ハタチそこそこで、人生知った風な」
と、叩かれたりもした。
 そのニューミュージックの女性歌手の、伝え聞く、十代までの放任主義の自由さを生きた人には、諦念という言葉を、人生知った風な、と感じても、 まあそうなんだろうな、と思うが、本当にわたしは子供のときから、あることを誰より重い無念を持って諦めざるを得なかったのだ。
 そして、わたしの知る限り、蜷川さんだけが、そういった深い、自分の人生の諦念と重ねてくれたのだ。

(文中敬称略・続く

文・戸川純

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