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RIP

追悼・蜷川幸雄(後編)

追悼・蜷川幸雄(後編)

文:戸川純 Jun 16,2016 UP

 前半では、おもに、蜷川幸雄さんと歌手としてのわたしについて書いた。後編では、女優として、蜷川さんの現場に立ったときの、思い出と感じたことを書こうと思う。そしてその後のことも。

  蜷川さんが、チェーホフの「三人姉妹」の、三女イリーナの役を、とオファーをしてくれたときは、天にも昇る気持ちであった。まさか、というか。メインキャ ストだったし、わたしにも、京子やアイドルの方のような華があるのかと、恐る恐るだが思えたし。そのときは、まだ緊張というものはなかった。劇場は今はなきセゾン劇場で、小劇場で演劇をやっていたわたしには、大きく感じた。それくらいのキャパの劇場は、歌手としてなら、幾らもあったが、マイクを使わない、 というのは全く違う。そして、ふと思った。
 蜷川さんは、大きな賭けをなさったんだ、と。わたしを大きな舞台で使う、という(経験でいうと、子役のときに新橋演舞場で出たことがあっただけであった)。しっかり応えなければ、と心で深く思った。
 だが、結論から言えば、うまくできなかったのだ。リアリティーを追求すれば、後ろまで、きっちり通るでかい声が出ない。でかい声を出せば、リアリティーに欠ける。よくある葛藤である。
 しかし、蜷川さんは、決してわたしに
「もっと大きな声で」と注意はしなかった。それどころか、当時、蜷川さんが『鳩よ!』で連載していた対談の連載に、わたしを呼んでくれて、そこでわたしの演技を
「本来の演劇の文法からははずれているけど、僕はあなたの演技を、全面的に肯定しているよ」
とまで言ってくださった。本当に嬉しかった。
 と、いうのも、やはり、現場に入ると緊張感が半端なかったからだ。リアリティーを優先してしまって、大きな声が出ないことも、自覚していたし。

  蜷川さんに、わたしは、一度も怒鳴られることはなかった。わたしが信頼している舞台演出家のうちの別のおひとかたも、怖いとか怒鳴るとかで有名だが、おふたかたとも、怒らないでくれたのは、わたしが無駄に緊張して萎縮し、のびのび演技ができなくなってしまうから、という理由もあるのでは、と思っている。必ずしも、愛され、かわれてる役者ほど、怒鳴られるとは、限らないと思う。
 ちなみに、信じている演出家を具体的に誰、というのではなく、こうしてぼかすことも、人間としての蜷川さんから影響を受けたことなのだ。「インタビュアーに、また一緒に仕事をしたいと思う役者をあげてください、といわれても 僕は答えないことにしている。そこに入ってない役者さんは嫌な想いをするだろうから」とおっしゃっていたのが印象的で、そういう細やかな配慮を、わたしもしなくちゃな、と人間として尊敬し、学んだからだ。

 舞台稽古の初日のことである。わたしは、ベテランの役者さんたちと顔を合わせたことだけで、プレッシャーを感じ、顔合わせが終わってから何気なくリハーサルのすみで壁に向かって、しゃがんでいた(わたしは、気をぬくと、よくしゃがむ癖があった)。蜷川さんは、わたしのところにきてくれて、寝釈迦のように横になった。そして、個人的に話をしてくれた。お芝居の稽古に入ると、それまでと違い、わたしに対して敬語じゃなくなって、それも、よそよそしくなくて、嬉しかった。そして、
「僕はね、戸川さんに、緊張して怖がっちゃうのでなく、逆に、このリハーサルスタジオに来るのが楽しみになってもらいたいんだよね」笑顔の寝釈迦の状態で、そう言ってくれて、わたしはすごく、リラックスできた気がした。

 しかし稽古が始まると、勿論、そういう訳にはいかなかった。なにしろ蜷川幸雄の現場である。

 蜷川さんは、セットの模型を触りながら、
「こうして こうして」
 と、カーテンだらけのセットのカーテンがどれもフワーッと内側に向かって風に揺らいでいる説明をキャストとスタッフにした。まるで、少年のように、わくわくしながら、という感じであった。本当に、本当に、お芝居を作るのが楽しくてしかたない、という風に。アイディアを語っているときの蜷川さんは、目がキラキラしていた。それから、一番後ろの暖炉のセットの上のほうに、誰かはよくわからないくらいのあまり目立たない程度の大きさの、三人の姉妹の亡くなったお父さまのモノクロ写真を立派な額に入れて飾っておくのだが、それが新劇の父、スタニスラフスキーの肖像写真なんだ、過去の人だからね! といたずらそうにニコニコと嬉しそうに言った。
 そして、よりいっそう目を輝かせて、蜷川さんは言った。
「セゾン劇場には、舞台と客席の間に、防火シャッターがあるんだ。」
 長女役の有馬稲子さんの、この劇の、最後のセリフ
「100年後、きっとこういうことで苦しむ人はいない世界になっているはず、そう信じましょう!」といったふうなセリフのあと、いや、100年経っても現代の世の中はこのお芝居と変わっていやしない、この話は古典ではなく現代にも通じる、この三人姉妹が抱いた100年後への希望は打ち砕かれるのだ、という現実の残酷さを表現する為に、すごい音を立てる防火シャッターを降ろしてピシャン! と閉めたいんだ、と、いう。
「だけど、今のところ、目的が防火以外には使えない、というんだよ、頑固だよなー、俺はそこをなんとかするつもりなんだよ!」と続けた。そんな情熱的な蜷川さんを見るのは、皆、好きだったと思う。

 お芝居は、全部で四幕あった。最初のシーンは、わたしが演じる三女イリーナの、今の日本でいう誕生日のような日に、次々と人がお祝いにやってくる、という設定になっていて、それが登場人物紹介、にもなっていたのだと、わたしでなくても解釈できたことだろう。
 ひとしきり登場人物の紹介シーンが終わると、わたしは 、わたしの叔父のような、椅子に座っているひとの、膝にもたれてセリフを言った。およそ100年くらい前の、貴族の娘が、労働に対して、夢を抱くセリフだ。このセリフは、学校以外、ほとんど家から出ることの許されなかった若い頃の自分にそっくり重ねることができる、大好きなセリフだった。叔父さんのひざにもたれて、うっとりと夢を語るわたしに、蜷川さんは、それならいっそ、ステージぎりぎり前まで、叔父さんの手をとって、走って連れてきて座らせてイリーナも座って、セリフ言って! と、蜷川さんが言うのでそうしたら、うっとりと語ったそのセリフが、すごく強調される形になった。セリフが、より立ったのだった。それはかなり度胸のいることだったが、その経験から、その後わたしは、すごく勇気が鍛えられて、「三人姉妹」内でも、他の演劇でも、大胆に演技ができるようになった。
 ところで、わたしの演技だが、わたしにはプランがあった。どんどん、いろいろな経験をして、四幕には大人に成長するイリーナを、演技の質を変えることで、それを表現したい、と思ったのだ。だから、一幕での演技は、大根というか、学芸会のそれ、のような感じに、あえて演った。通る声はしっかり出ていたはずだが、明るいだけの世間知らずの役に、一幕は徹したから、だからますます地もそんな薄っぺらいのではと、ベテランの共演者の方々は、不安に思われたことだろう。

 しかし、蜷川さんは、じっくり見てくれていた。我慢強く見てくれていた。二幕、三幕、四幕、と演技の種類を大人にしていくのを、見ていてくれた。その証拠に、日にちが経ち、四幕まで一通りリハーサルをやったわたしたちに、じゃ、一幕をもう一度、と言って演らせたとき、わたしの演技がケロヨン芝居(子供用の演技を、わたしはこう呼んでいる。ただし、ケロヨン芝居をさせてもらったのは、この一幕のときと、自分で演出して見せてくれと言われた一人芝居の一部だけだと思う)に急に戻ってしまったから、誰かが、やりにくいというようなことを言った。そのとき、蜷川さんは、
「戸川さんは、幕ごとに、演技の質を変えてるからね、許してね」
 と、その人に言ってくれた。
 わかってくれてるんだ! と感激したのを、はっきり憶えている。
 他にもある。三幕で、近所で火事があって、なにしろ貴族の屋敷だから、一階を、家を焼かれた人たちの、避難場所のようにする、という設定の、二階のわたしたちのシーンで、初めてそこを演ったとき、
「もうだめ、もうだめよ!」
 と、わたしの、イリーナの、おさえていたものが、噴出して、崩れていくところで、少し下を向いてカッと見開いたわたしの目から、ぼたぼたーっと涙が、椅子に座っている膝に落ちた。わたしは本来、 涙が出にくい体質なのだ。幼い頃、泣くことを嫌う厳しい父に、泣くと泣きやむまでひっぱたかれた、という教育のせいもあった。だが、そのシーンになると、気持ちが入ってぼとぼと涙がとまらず、さらに、頭がおかしくなってしまった風になって、それまでは「モスクワに行きたい」と言っていたのに、実際はそこのセリフが「モスクワになんて行けないわ!」で、わたしは、そのセリフをゲラゲラ笑いながら吐き捨てるように言った。そのときは、激しい絶望感に襲われ、夢なんか見ていた自らを嘲笑したくなるほど興奮を抑えられない、という意識だったのを憶えている。

 わたしは、しかし、慣れが怖かったから、このシーンはあまり、稽古をしたくないのだけども、と、実はこっそり思いもした。すると、蜷川さんは、皆の前で
「僕はね、このシーンはあまり稽古したくないんだ。慣れて欲しくないから」と、言った。

 思ってることが、まるで同じ、と思うことが、このことを含め、恐れ多いが、沢山あったから、ある意味充実した稽古だったが、わたしの神経は、かなりボロボロだった。
 精神がおかしくなってしまう演技だったのだから。
 新劇のエリートであった次女役の、佐藤オリエさんが、まるで違うタイプのわたしに、実のお姉さんのように、やさしく
「私、あなたのお芝居本当に大好きなんだけど、今のままじゃ、身体を壊してしまうわ、気をつけて。自分を大事にしてあげてね」
 と、涙を浮かべてまで、言ってくれた。有馬さんもそうだった。
 わたしは実生活では二人姉妹の長女だったが、そのときは
「ありがとう、お姉さん!!」
 と、二人もやさしい姉に恵まれた妹になった実感がわいてしまい、胸と目頭が熱く熱くなった。

 話が、わたしの役者として、になってしまっているが、お許しいただきたい。追悼文に相応しくもっと蜷川さんの話を、と思われる方が多いかもしれないが、蜷川さんの現場は、そういう、自分との戦いであったということを記しておきたいのだ。蜷川さんに怒鳴られない、というのは、それほど熾烈に自分を追い込まなければならないことだったのではと今、思い返すからだ。

 さらに、最後のほう、わたしの婚約者が決闘で撃たれて死んだ、ときかされたシーンで、わたしは役に入り過ぎ、本当に一瞬、失神してしまったのだ。有馬さんとオリエさんに抱きかかえられて、床には倒れないで済んだけれど、気がついたとき、「わたしは誰。ここはどこ」の状態だった。蜷川さんは、演劇だから、なにもそこまで、と、どっかいっちゃっても、必ず帰ってきて、と言った。でも、本当に笑顔だった。
 そのシーンは、かなり最後のほうで、有馬さん、オリエさん、わたし、で前へ出て、有馬さんの、100年後に希望を託すセリフで劇は終わるのだが、ある日、セゾン劇場の親会社の巨大企業、×武の、株主の方の奥様方だったと思うが、五人ほどが見学に来ていて、×武社員さんの方もその奥様方を前のほうに椅子を並べて、奥様方と一緒に観ていた。
 蜷川さんは、有馬さんの最後のセリフが終わると、すごいことを言った。ほぼ、奥様方と×武の社員さんの方に向かって、
「×武に良心があるなら、ここで防火シャッターが降りる!」と、大きな声で言ったのだ。
 残念ながら、本番ではとうとう防火シャッターを降ろすことは叶わなかったが。
 しかしわたしは、あのときの蜷川さんは、結構な年齢でも、反逆児だったんだと思った。自分の演出の為なら、大企業に牙をむく反逆児なのだ、と。
 あの、ナイフの青年に、伝えたい。蜷川さんは、アングラの魂の火を消したわけではなかったのだ、と。

 わたし自身、いまアングラ(とは、70年代の言葉のような気がする)、というより、まあほとんど同じ意味なのだけど、略さずアンダーグラウンド、に身を置いているのだろうなと思うが、アンダーグラウンドに身を置いているという重みや誇りみたいなものは、蜷川さんのようには、これといって別にない。世代の違いかもしれないが。蜷川さんは、オーバーグラウンド、メジャーの世界に身を置いて、しかし重いアングラの魂も本当は持ち続けていたのではと思う。そして、ときおりその魂から、その決して消えない火をゴーッと吐いていた気がする。と、いうより蜷川さん自身が、ひとつの大きな炎ではなかったか、という想いだ。
 わたしのことを、よく他の共演者の方々に
「こういう人は、日本じゃあまり見ないけど、外国にはいるの! けっこういるんですよ?メジャーとマイナーの両方で活動してる人は」
 と弁護してくれていた。
 蜷川さんが、わたしに、ちょっと違った良いあたりをしてくれたのは、わたしは半分アングラ、と思ってくれたからではなかったのでは、と思うのだ。

 しかし、あるとき、わたしはあの涙をぼたぼたーっと流していたシーンを、あれは特には涙を流す、とか、頭がおかしくなったように、などとはト書きにあったわけではなかったし、一度だけ新劇のように演じてみようと思い、やってみた。声は気持ち良いほど大きく出た。涙は流れなかった。演劇然、としたものだった と思う。これで良いなら、精神的にまだラクだし、それに声は張れるし、どうなのだろう、蜷川さんの意見がききたい、と思った。わたしがその芝居を始めるや否や、蜷川さんは、ストップをかけて、バーッと説得をしてくれたけど、つまりは元に戻してくれ、という内容だった。
 帰り、わたしが着替えたあと、蜷川さんはわたしのところに来てくれて、戸川さんのあの演技が好きだから、どうかやめないで欲しい、と言ってくれてから、小声で、
「実はね、僕は、お客さんには悪いけど、客席の半分かそれ以上、客席に戸川さんの声が届かなくても、もういい、と思ってるんだ。それくらい、あの芝居を演って欲しいんだ」
 と言ってくれた。
 役者を怒鳴るときは、大抵、
「お前は、志しが低いんだよ!!」
 が口癖だった演出家が、半分かそれ以上、客席に声が届かなくてもいい、と言ってくれたのだ。狭い劇場のアングラなら、問題なかったろう。蜷川さんは、わたしに最終的にそれをやらせることにすれば、他の共演者の方々の演技の質とは食い違い、統制がとれなくなることも承知だったはずだ。わたしに関してだけは、 アングラの魂で接してくれたのかもしれない。

 ただ、わたしが蜷川さんの現場に呼ばれることは、もうないんだな、と思うこともあった。
 対談のとき、わたしの演技を褒めてくれた蜷川さんだったが、紙面上には載らなかったことで、インタビュアーの方が、蜷川さんに
「戸川さんとお仕事なさって、じゃあ、安心なさったんですね?」
 ときいたときだ。蜷川さんは、
「安心じゃないよー! こんな危ない人使うのは怖いよー。ショックで失神しちゃうんだぜ?!」
 と答えた。すごく笑いながらではあったけど、わたしが蜷川さんの立場だったら、確かに不安だったと思う。こりごりだったろう。しかも、声は通らないし、という問題もあったと思う。
 だから、わたしは、そのときこの「三人姉妹」を、蜷川さんとご一緒できる最初で最後の機会、と思い(失神しない程度に)誠心誠意頑張ろう、と思った。

 だけど、「三人姉妹」は、批評家の間で、失敗作のように書かれた、と蜷川さんのところの若い出演者の人からきいた。わたしに関しては、やはり、声が小さい、と書かれていたという。まあ、わたしのことは、むべなるかな、という感じであったが、蜷川さんには、やはり、申し訳なかった、と思った。その若い出演者の方は
「王女メディアのときは、ゲテモノ、って書かれたんだよ?! 批評家なんて、だから気にすることはないよ!」
 と言っていたが、「王女メディア」は、写真しか見たことがなかったが、化粧や衣装が前衛的だったわけだし、今回とは違う、と思った。出演者の声が小さい、というのは、演劇の基本中の基本のダメ出しだから、なんだか責任を感じたりもしたのだ。
 他に、尺が長い、という批判もあったそうだ。それに関しては、何も感じてはいない。
「ペールギュント」のとき、全体の尺が長くなり、途中休憩も挟むことになって、全体で4時間以上になったとき、蜷川さんも悩んだ、という。これは京子からきいたのだが、ジャニーズの、出演者の方々が、
「気にすることなんて何もないじゃないですか! 帰りたいやつは帰らせたらいいんですよ!!」と言ったという。
 だから、わたしも、尺に関しては、普通に、帰りたい人は帰ればよいのでは、とも思ったのだ。

  こうして、「三人姉妹」は千秋楽を終え、打ち上げでは、蜷川さんのおかげで、有馬さんやオリエさんだけでなく、ベテランの出演者の方々から、若い人たちまで、みなさん、わたしにすごく暖かかった。最高齢の90歳を超えてらしたとても厳しい雰囲気の浜村純さんまでが、やさしい言葉をかけてくださった。わたしにとって、忘れられない経験になった。

 その後、しばらくして、わたしは、アンダーグラウンドの世界で生きることになってから、小劇場の形で、シェークスピアの「真夏の夜の夢」のブロークン版を、蜷川さんが演出して、京子も出演したとき、これも京子からきいた話だが、ヘレナという、可憐な、かわいそうな乙女の役に、わたしを起用したい、と最初は思ったそうだ。
 京子は気の強い、ヘレナとは対照的な役であった。それを姉妹でやったら、おもしろいのでは、と思ったという。
 しかしやはり、現実の姉妹でバチバチさせるのは気がひける、と途中でやっぱりやめたんだってー、と京子が言ってくれた。
 ここにも蜷川さんの、繊細さを見てとることができると思う。わたしが思うに、あそこまで超がつくほど大胆な人が、ここまで繊細な意識を持つ、ということは、それはそれは大変なエネルギーが必要だったはずなのだ。普通、どちらかでも大変で、精神的にまいってしまうものだと思うのに。世界のニナガワと呼ばれた、グローバルな視野を持ちいろいろな国で認められている演出家が、ほんの、たった二人の姉妹の間のことに思慮深く慎重にあたる、それほど振り幅の大きな、感性とエネルギー。蜷川さんの偉大さは、そういうところにも裏打ちされていたのでは、と思うのだ。

 そして、小劇場の規模なら、わたしの演技の、リアリティー重視による声の小ささでも、成立する、と思ってくれたのかな、とわたしは、その話だけでも嬉しかった。
 そのお芝居にも、他のお芝居にも、蜷川さんは、お客として招待してくれた。行くと、いつも変わらず、気さくに、やさしく接してくれた。

 それから、蜷川さんが文化勲章を授与された記念のパーティに、わたしはまた招待していただいた。そのときは、現在のように怪我のあとで、後遺症で腰を痛め、3分もシルバーカーなしでは立っていられない身体に、わたしはなっていて、運動ができないので太ってしまっていたから、蜷川さんに会うのが恥ずかしかったけど、寿ぎの席だから、会場に向かった。当然、本当に沢山の有名な役者さんが来ていた。身体を悪くして、役者なんて、途方もないリハビリをもっとして治さなければできない状態のわたしのところにきてくれて、蜷川さんは、やっぱり、やさしい声をかけてくださった。有名な、テレビや映画でも、かなり見るメジャーな世界で現役バリバリの人たちの中で、わたしは何者か自分でもわからなくなってしまうほど浮いていたはずなのに、とまた感動した。何故、こんなに、と不思議ですらあった。

 そして、あの「サワコの朝」を見た。
「諦念プシガンガ」の話ではなかった。蜷川さんは「パンク蛹化の女」も、気に入ってくださっていて、僕も戸川さんみたいにパンク精神で、なんて語る70代の方は、蜷川さんをおいて他にいないだろう。

 曲が番組で紹介されたとき、CDが、娘さんの蜷川実花さんの、
『蛹化の女~蜷川実花セレクション』
のジャケットだったから、蜷川実花さんからの流れで、知っていただいたのかもしれない。だから、あらためて、蜷川実花さんにも、心からお礼を言いたい。

 それから、一昨年の
「冬眠する熊に、添い寝してごらん」
というお芝居でも、蜷川さんはわたしの曲を使ってくれた。

 だから、油断していたのだ。

 そして、突然訃報を受けた。
 大きな大きな喪失感であった。大きな大きな人が逝ったというだけでなく、わたしの中で、これからはひとりで歩いていかなきゃいけないんだぞ、という、大きな大きな意識が、いきなり生じた。それほどの支えが、蜷川さんによって与えられていたんだ、と初めて知った気がした。

 ご葬儀に、わたしにも勿論、参列したいという気持ちはすごくあった。が、わたしのような者は、マスコミの前に出ると必ず、あの人は今、という扱いで、テレビには出ないところで、ゴシップをとりあげる雑誌とかに、そういう内容でマイクとカメラを向けられるのだ。決して自意識過剰というわけでなく、今のある程度の年齢の方以下の歳の人は、それ誰? 知らない、と言うと思うのだが、事務所にそういう取材のオファーが実際今でもあるので、わたしはマスコミの方々のいるところには出れない。ましてや、怪我の後遺症でシルバーカーでとか、太ってしまってとか、なんだか不幸そうな見た目をしていると、ますます、そういう人たちをひきつけてしまう。
 だから、わたしはそれを避けたくて、ご葬儀の朝、マネージャーに頼んで青山葬儀場に弔電を打ってもらい、喪服を着て、薄化粧をして、ふくさに入れた香典袋と数珠を持参し、お昼ちょうどに始まるご葬儀に合わせ、タクシーで葬儀場の近くまで行き、降りて遠くからでも、一瞬だけでも、手を合わせることだけはしたいと思ったが、ガードマンの方々が厳しくどこにも止められなかったのでタクシーの中から、ご葬儀が行われてるほうに向かって手を合わせた。それから、郵便局に寄り、薄墨で弔問文を書いた手紙を添えて、蜷川さんの事務所に喪主の、蜷川さんの奥様宛に香典袋を現金書留で出した。そして帰ってきて、家のたたきで、用意しておいた粗塩を頭からパラバラとかけた。
 それで、参列したこととかえさせていただいた。
 だけど、実際に参列したわけではないので当然のごとく、蜷川さんが亡くなったという実感が、まだはっきりしなかった。
 後日、蜷川さんの事務所の方から、丁寧なお返事をいただいた。わたしの知り合いが、わたしが葬儀場の近くで手を合わせたことを伝えてくれていた。言っていただけたら、マスコミの目に触れないご用意をしましたのに、とのことだった。蜷川家の方々にも感謝の念がたえない。この場をお借りして、蜷川さんの関係者の皆さま方にお礼を申し上げたい。

 それから、参列した知人から、ご葬儀で純ちゃんの「蛹化の女」が流れていたよ、と知らせてもらった。わたしは、それをきいて、やっと自分も参列できたような気持ちになれた。蜷川さんは亡くなったんだ、という実感もやっとわいた。
 そして、蜷川さんは最期の最期まで、わたしの歌を使ってくれたんだ、という想いが、ぐうーっと込み上げて来て、今にも泣きそうになった。

 蜷川幸雄という、ひとつの大きな炎は、めらめらとときには太陽のように燃えて、いろいろな役者を照らし、輝かせた。同時に、その炎に焼かれそうになり、役者も燃え尽きないほどに燃え戦い、結果、多くの役者が成長した。
 だから、蜷川さんの、巨星らしさとは、太陽のそれだったのだと思う。
 そして、演出家・蜷川幸雄の生き方は、それ自体が長く、しかしそれでも凝縮された濃さの、ひとつのドラマティックなドラマ、演劇のようであった、とわたしは思うのだ。
 蜷川さんの激しさは、太陽のそれ、わたしはしばらく、太陽を失った闇の中から出られないだろう。それでも、蜷川さんに、今、役者ができない身体なら、歌ってください! と言われてる気がして、精一杯、今は歌を続けなければ! それがたとえ闇の中であっても、蜷川さんに分けていただいた炎をわたしもめらめらと燃やして、それが一番のわたしなりの供養なのでは、と思う。
 蜷川幸雄という巨星と出逢えたことで、わたしの人生は幸運でした。ありがとうございます!
合掌。

(文中一部敬称略)


戸川純 ライヴ情報

7/8 新宿ロフト(ワンマン)

文:戸川純

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