7月25日、奇しくもよい子たちの終業式である。リキッドルーム恵比寿移転8周年を記念するイヴェント「電気グルーヴ vs 神聖かまってちゃん LIQUIDROOM 8th ANNIVERSARY 」が終わり、夏休みモードと猛暑が残した熱気にあてられながら帰路についた三田格と橋元優歩であったが......
以下、往復書簡形式にて本イヴェントのレヴューをおおくりします!

■神聖かまってちゃん1:橋元→三田
三田さんへ
たぶん今回はリキッドルーム自体のアニヴァーサリー・イヴェントということもあるので、なかばゲスト的なスタンスというか、ワンマンでがっつり魅せるときの構成ではなかったのかなとは思います。ですが、生で観るのは初めてだったので、ふつうに"ロックンロールは鳴り止まないっ"が鳴りだしてすごくテンションあがったりしました。これは2曲めでしたね。かつてはじめてこの曲を耳にしたのは、地元のツタヤでだったんですが、不思議とそのときの体験と同質なものを感じました。
というのは、ああいう場所でかかっているBGMって、ときどきびっくりするほどダイレクトに耳に届いたりするじゃないですか。それで、そのときはまずピアノのリフが聴こえてきたんです。今回も「わあはじめて観るなドキドキ」とか思ってぼーっとなっていたとこにピアノが聴こえてきました。そのあとはっと気づくと徐々にの子のヴォーカルが届いてくるんですね。ヘッドホンなんかでUSBメモリみたいに脳に音を直挿しすると、の子っていう意味性とか言葉から先に入ってくるんですけど、空間的に再生されるとあの強烈なピアノが先にきて、ノイジーな外気をなぎ払う。そしての子がそのノイジーなところ(≒社会空間)に入ってくるのを助けるんじゃないかなと思ったんです。かまってちゃんのバンド力学について、そんなふうにまずいろいろと考える部分がありました。MCのかけあいなんかでも同じ構図なんだな、とか。
しかしあの歪みない(笑)メロディ、奏法ってなんなんでしょう。三田さんが、音楽を聴くというのは感情の幅を聴くこと、というふうに以前におっしゃっていてすごく合点がいったんですけど、ピアノ教室とかだと一般的にはそれを音の強弱で表現するように教わるんじゃないかと思います。繊細なタッチの使い分けで陰影をつけろ、みたいな。monoのキーボードがそういうタッチに対応できるようになっているのかどうかは知りませんが、すごく平坦で明瞭ですよね。メロディも過剰にエモーショナルで、引きを知らないというか。でもすごく感情の幅を感じます。菊地成孔さんは『ele-king vol.6』で、テレビのサントラだと感情のはっきりしたところから使われてしまうというようなことをおっしゃってました。それで言えば、monoのは感情のピーク・ポイントばっかりずっとつづくアニソンとかに近い方法を感じますが、同時に作家主体や感情の幅......というか大きさなんですかね......もはっきりあって、感心します。

の子は感情そのものでした。すごく客観的に事態を見ていて、ステージを進行して構成していく意識も明確に感じるんですけど、そういう冷静さと食い違わずに、というかそれをなかに含みこんだ巨大な一個ですね。あの感情にふれているだけでなにかを観にきた気持ちになります。清志郎とかジョン・ライドンとかと比べてどうですか? あと、CDだと少しぼやけるんですけど、ライヴではあのヴォイス・チェンジャーがすごく自然に身体と結びついているのがよくわかりました。あれはシャウトなわけで、ふつうに叫ぶんじゃ限界があるから呼び出された表現だと思うんです。あれだと性別も超えられるから、表現できる感情の幅も単純に2倍になるというか。
だから"白いたまご"も"黒いたまご"もすごくよかったです。はやくライヴで聴くべきでした。わたしは『つまんね』が好きなんです。『つまんね』のときにチルウェイヴって言っといてよかったです! "黒いたまご"なんてとくにそうですけど、すごくディスコっぽく演奏されててなるほどと思いました。チルウェイヴからシルク(〈100%シルク〉)への流れがすっぽり収まってるじゃないですか! 無意識でしょうし、もしかしたら関連がないかもしれないですけど、時代ってそんなふうにとらえられていくものじゃないですか。
かと思えば"通学LOW"のノイジーでエクスペリメンタルなジャンク・サウンドは目も綾という感じで、これもかっこよかったです。中盤の腰の部分をすごく支える好演奏でした。ちばぎん、みさこといった個性はこういうところで頼もしいというか、リズム隊はゆったりと、あるいはふわっと後ろから見守りながら、ファンキーな表情とかミクスチャーっぽいヘヴィさみたいなものまで、けっこういろいろ地味に試している印象でした。"いかれたニート"なんかも面目躍如ですよね。これもすごくよかったです。
"聖マリア記念病院"は、恥ずかしながら知らなかったのですが、うちに帰って聴くとポニーテールとかもっと言えばダン・ディーコンとか、それからハイ・プレイシズとかをクラウドっぽくしたというか、シューゲイザー化したという感じの、しかもUSインディを勉強しましたというような道順をぜんぜん持たない、なにか別ルートからそれをやったという具合の、なかなかの子の次の展開を期待させる問題作なんですよ。PVもすばらしい。けどこれのライヴの印象がぼやけてるんですね。曲名だけすごい記憶に残って。だからおそらく、これだけはライヴでうまく表現しきれなかったんじゃないかと思います。動画では初見で驚く曲なんで、もっと衝撃を受けたはずなんですよ。(ちょっと、リンクは削除されててこれだけしかないんですけど https://www.youtube.com/watch?v=P8ayUSEP6Fs)
だいたいこういったところが大まかな感想です。会場の雰囲気も親密だけど閉鎖的ではなくて、よかったです。飛んでくるヤジとか声援がすごくニコ動っぽいというか、文字で見えました。「死ね」って超合唱してましたけど、ぜんぜんカラッとしてましたね。噴き上るとかでもなくて。メッセージというより、これはやっぱり歌になるまで練磨されたものだったんだなと思いました。イギリス人が"ホワットエヴァー"とか合唱するかんじで、むしろソングライティング力すら再確認させられるという「死ね」でした。
なんかかなり全肯定って感じなんですけど。

■神聖かまってちゃん2 三田→橋元
橋元さんへ
楽しんでますね。初めてみると、そうなのかもしれないけど、僕は全体にスランプなんだなと思いました。MCで枝豆ばかり食べていて、曲がつくれないといってた通り、次にどうしていいのかわからない感じがライヴにも出てた。これまでやってきたことを捨てるわけでもないから、まずは罵りが芸みたいになっていて、いまのままで固定すると泉谷しげるになるしかないし、オーディエンスと別なコミュニケイトのチャンネルを探ってる感じもあった。自然にやるのはまだ抵抗があるみたいだから、やたらと目を剥いて見せていたけど、やっぱり過剰だったよね。首も前はあんなに振ってなかったんじゃないかな。前みたいに曲に集中できないのかもしれないけど、無理に気持ちをアップさせる曲よりは"いかれたニート"のようにベターと這いずるような曲調は悪くなかったので、いろいろやらないで、ヘヴィな曲ばかりやるのも手だったんじゃないかとは思った。そこは電気グルーヴとの対バンという企画が災いした部分でもあるでしょう。電気グルーヴがステージで「神聖かまってちゃん」というバンド名を口に出したのは2回ぐらいだったと思ったけど、神聖かまってちゃんは何回、電気グルーヴと言ったかわからないぐらい連呼してたよね。それだけ意識してたんだろうし、だったら、電気グルーヴの曲を自己流にアレンジしてやった方がまだしもだったよね。
以前だったら、会場を本当に白けさせてしまうようなことも平気でやれたのに、そうはしないのか、そうはできなくなったのか、良くも悪くもプロフェッショナルになってはいるので、感情の幅が狭くなっていることも確かです。もしかするとそのことに葛藤があるのかもしれないし、いちばん気になったのは「若い」ということを2回もMCで言っていたこと。僕は少なくとも若いから神聖かまってちゃんに注目したわけではないので、そこに価値観を置いてもしょうがないと思うんだよ。もしも、以前のようにはできないという葛藤をそこに(無意識に)すり替えてしまうなら、あまりいい結果を生むとは思えないし、そもそもこういったことは言葉に頼らない方がいいはずなので、その辺りは早めに抜けて欲しいとは思った。いわゆる自分を見失っている状態というやつなんだろうけど、清志郎に言わせれば「自分を見失ってからが面白い」ということなので、いまの状態をなるべく楽しんでいただきたいとは思いますけど。ただ、の子のスランプがそれほど本格的じゃないのは、ほかの誰かが引っ張るモードではなかったので、まだまだ余裕があることも確か。バンドのいいところは全体をドライヴさせる人が交代できるところだよね。これがテクノのプロデューサーだと名義を使い分けたりして気分を変えるんだろうけど、バンドはひとりだけが消耗していくとすべてが終わってしまいかねないので、ホントにヤバかったら、ドアノブ少女ことみさこちゃんとかがもっと出張っていって、の子を休ませるようなステージングになっていくはずだから。つーか、みさこちゃんがぜんぜん喋ってくれなくて残念だった! 僕の場所からはハイハットの下側にみさこちゃんの意地悪そうな口だけが見えていて、顔がぜんぜん見えなかったんですよ! 口だけでもスゴいインパクトだったけど!
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■電気グルーヴ1 橋元→三田
三田さんへ
ああ......。三田さんのおっしゃることは、言われればどれもそのとおりだと思います。たしかに、こんなにきっちりしたものなのかというふうには感じました。ちゃんとしたライヴをやるんだなと。なにが起こるかわからないというふうではなかったです。そこは数々つたえられているような不安定で緊迫したステージを観てみたかったとは思います。ただ、そういう事件性が目的化してしまうのは最悪なので、そのときそのときの自然さに合わせてやるのは間違ってないとも思います。以前のような種類のエネルギーとのギャップをまだ肯定的に解決できていないことは、「目をむく」ことにあらわれているわけですから、在り方の模索が大きい課題になっているわけですよね。お客さんの雰囲気はほぼ見守る体勢だと思われますが、そのように流動性の低い客層を抱えることは諸刃というか、「泉谷しげる」を超先鋭化させる方法があればそれもよしと思いますが、なにかすごくオリジナルなやり方で、まためちゃくちゃな層を巻き込んでほしいです。
「若さ」の問題はわたしも気になりました。それは言わない方がいいというか、当人的にも偽りのある言い方じゃないかと思いました。「目をむく」同様に、過去と比較しての不全感とか焦りとかから出てきているように見えます。
電気グルーヴのほうもうかがっていきたいと思います。わたしでも知っている有名な曲ばかりでしたが、わー歴史的なユニットのライヴを観た! というミーハーなテンションの上がり方以外には、わたしのテクノ・ヴォキャブラリーの貧困さのせいかあまりどう楽しんでいいかわかっていなかった部分があります。いろんなジョークなんかが散りばめられているのかもしれない、でもきっと自分には何割かしかわかってないのかも、という具合です。そこのところを解説いただけませんでしょうか。トークもおもしろいし、笑顔もピースフルで、居酒屋のマスターが「楽しんでいってよ」って言って調理場に消えていく感じがよかったです。すごく上級の芸をみんなでおおらかに満喫するといったアダルトな雰囲気を感じました。
後ろの映像が「アシッド・ハウス」とか「ボディ・ジャック」とか身体的に音楽を受け取るようにというようなメッセージをサブリミナルに発信しつづけるのが不思議でした。脳でキャッチするメッセージを用いて、身体的快楽もしょせん脳で感じていることだというようなアイロニーを表現しているのでしょうか?
あとは「富士山」の大合唱がみるみるうちにビートを骨抜きにして、日本的な一気コールみたいにベタッとしたものへと変貌していったのが、インスタレーションのようでおもしろかったです。

■電気グルーヴ2 三田→橋元
橋元さんへ
ローリング・ストーンズは70年代にライヴで「サティスファクション」だけはやらなかったらしいんだけど、80年代になるとまた演奏し始めたんだって。要するに「お望みのローリング・ストーンズをお見せしましょう」という境地だよね。いまの電気グルーヴもそれだと思う。石野卓球という人は調子が悪くても絶対にそれを気取らせないから、本当に楽しいのか、楽しそうにしているだけなのか、まったくわからない。とんでもないショーマン・シップの持ち主だよね。の子と違って、音が鳴り出した途端に、自分が真っ先に音のなかに埋没していったように見えたし、それだけでオーディンスも引きずられる。余計なことを考えさせずに、掛け値なしに楽しませてくれたと思います。20周年のときは、あれが5時間続いてもまったく飽きなかった。最近、よく言っている「電気グルーヴでございます」というのは、僕にはどうしても「三波春夫でございます」に聞こえるよね。
神聖かまってちゃんのライヴが40点ぐらいだとしたら、電気グルーヴは90点以上の満足度だったかな。ただ、結果を知った上で、どっちかひとつしか見てはいけないといわれたら、やっぱり神聖かまってちゃんを観たいなと思うんだよ。それは、いま、かまってちゃんが変化し続けているからで、電気グルーヴはいつ観ても同じともいえるから。こういうのは週刊誌的な興味でしか観ていないとも言えるので、自分を「金髪豚野郎」並みの下衆だと自覚することも必要だとは思う。どっちに転ぶかわからない不安定な「人間」に対する興味が優先して、完成された芸を楽しめないんじゃ、ワイドショーと視線は同じだから。人間が大事なのか、音楽が大事なのか、切り離せるのか、切り離せないのか、といった議論はさておくとして。
「ジャック・ユア・ボディ」とかはサブリミナル・メッセージじゃなくて、曲に合わせてアシッド・ハウスの曲名を羅列してるだけで、「みんな、あの時は楽しんだよね」ということだと思うよ。『あの花』でアナルたちが「ハム太郎」の落書きを見つけた時と同じ? だから、橋元さんみたいに受け止めてしまう世代がいることはきっと想定してないだろうねw。「身体的快楽もしょせん脳で感じている」のは多分、橋元さんだけで、あの時、ときどき、橋元さんが視界に入ったんだけど、あれだけみんなが踊りまくっているフロアーでたったひとりだけ鍾乳洞かと思うほど微動だにしなかったでしょう。僕は橋元さんがいちばん恐ろしかった。しかも、本人的には「ミーハーなテンションの上がり方」だと言うじゃないですか。計り知れない溝を感じます。電気グルーヴが終わっていくとしたら、こういうところからかもしれない......とか。
あと、『ガリガリ君』を聴いていて、いまニコ動なんかでアニメのシーンにブレイクコアなんかを勝手に合わせている「作品」は全部、電気グルーヴの拡大再生産でしかないなーとも思った。コミュニケイション機能としての部分を除いてしまったら、20年前と同じことをやっているだけで、なにも新しさはないなーと。電気グルーヴが世の中に訴えかけたことがまだ有効だから、ああいうことになっているんだなと。
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■電気グルーヴ3 橋元→三田
三田さんへ
いやいや、ちがうんですよ! わたしの前にいたふたりくらいみませんでした? 女の人と男の人で、女の人は20代後半ぽくて、男の人は20代前半かへたしたら10代。このふたりがまたピクリともしなかったんですよ! どころか男性の方はなんかしらないけどどんどん後退してきて、ただでさえ背が高いのに真後ろのわたしにどんどん接近するものだから、前が見えないし、そのたびにわたしもうしろを気づかいながら後ずさりしなきゃいけないしで、ちょっとイライラしたくらいです。ふつう前になだれることはあっても、バックするなんてことありますか?
たぶん彼や彼女もよくわからなかったんだと思うんですね。自分もあんまり動いてない自覚はあるので、「ここの三角形ヘンだよな」とか思いながら、でもそのふたりが許されている空間なので、ありがたいな、とか思ってました。たぶんまだまだ同じような人がいます。あと、あれでも橋元はのっています。(ながらくヘッドホンのなかに音楽があると思っていたので、端的にライヴ空間で音を聴くことに慣れていないのと、壇上に人が立っていたら目を見て話を聞かなきゃいけないという父のしつけのために、超、壇上の人の目を見ていたため身体が動きにくかったのです。)
要は馴致の問題というか、三田さんがおっしゃるようにそれが完成された芸ならなおのこと、その芸の「見方」「楽しみ方」の学習が必要なのではないかと思います。われわれは学習が足りなかったということです。ただ、もし新しいものであれば、あるいはリアル・タイムで聴いていたら、すんなり理解していたかもしれません。新しい音楽を聴くことはやっぱりラクなことです。人間、歴史を知ってゆたかになるものだと思いますので、チルウェイヴをだらだら聴くだけじゃだめだなともわかってるんですよ。(そのこととチルウェイヴ自体の意義とは別ですが。)
この理屈は踊っている人にも同様に当てはまります。踊っているのは馴致の結果ではないのかという。それでべつになんの不具合もないのですが、踊らない人がいることに筋がとおります。もし、それをかけたらサルも踊る、草花がそっちに向いて咲いたり逆を向いたりする、そんなレヴェルでビートやリズムを正当化する人がいれば、そういう人には疑問を付さざるを得ないです。
「ショーマン・シップ」は本当によく理解できました。「若さ」という言葉の詐術というか暴力の大きさを飲み込んでいる感じはわたしにもよくわかったので、やっぱりすごいんだなと思います。『ガリガリ君』とニコ動のお話もよくわかるというか、ニコ動には大して通じていないのでなんとも言えないのですが、この前の〈100%シルク〉のイヴェントで、スーパー旅館など奇怪な施設のお座敷や、そこで供されるすきやき鍋、歌い騒ぐホワイト・カラーのイエロー・モンキー、そうしたものが消費社会のなかで演じたこっけいな役割を批評的に切り出そうとするように、昔のCMが使用されていたんです。そのヴィデオ作品の既視感たるや、『ガリガリ君』を1歩も超え出ないものではありました。ゴージャスなビーチや高層ビル街のイメージも批評なのかそのまんまなのか多用されていましたが、同様です。シルクの功罪を見る思いがしました。ジュリア・ホルターやアマンダ・ブラウンのいないシルクは、ああした解釈をたやすく許します。関係ないですけど、トロ・イ・モワが"タラマック"のヴィデオでみせたのは、枯野でセーターを着てやる手持ち花火であって、輝く摩天楼やイビサに上がる打ち上げ花火じゃないですよ。『ガリガリ君』を超えるなら、日本の"タラマック"を作らなければならないと思います。
そして、かまってちゃんの"聖マリア記念病院"のPVは"タラマック"に通じるものがあると思います。これはわたしとても好きなんです。このフィーリングをステージに持っていったりできたら、三田さんがおっしゃっていたような、これまでの在り方とはまったくちがうかたちで、会場をしらけさせたり夢中にさせたりできるかもしれないなと思います。

■まとめ 三田→橋元
橋元さんへ
電気グルーヴと神聖かまってちゃんという組み合わせはわかったようなわからないようなところがあるよね。最後まで観て「なるほどー」とも思わなかったし、だからといって、まったく合ってなかったとも思わなかったし。前に湯浅湾と相対性理論のジョイント・ライヴを観たときは、最後に合体ヴァージョンもあったので、接点をそのまま見せてくれたような気もしたんだけど、電気グルーヴのエンディングにの子が出てくるということもなかったし。そういう意味では別々のライヴを立て続けに観たという印象を超えなかったので、企画イヴェントとして考えると、そこはちょっと物足りなかったかなと。まー、でも、この暑いなか、橋元さんの挙動も含めて楽しいひと晩を過ごさせていただきました。あと、気がかりなのは、あれだけ卓球が「買うな、買うな」と連呼していたTシャツが実際には売れたのかどうかでしょう。頼むから、その結果を誰も教えないで欲しいけど。
Tシャツの商品名は「フォーエヴァーTシャツ」であった。どこかの田舎のおじいさんが描いたという触れ込みで、ふたりの似顔絵に「いつまでも...」と筆文字で添えられてある。
それは、三田格の指摘する「芸」をめぐるスタンスや経験の問題について、この日電気グルーヴと神聖かまってちゃんの双方を照らした奇妙な光源であったように、またいっけん無関係な両者が偶然にも交差してしまったモチーフでもあるように、橋元優歩には思われたのであった......La Fin












8月8日の七尾旅人『リトルメロディ』は、前作『
9月5日のコーネリアスは、これまでに手がけたリミックスやミックス作品のコンピレーション「CMシリーズ」の第4弾。1995年から2012年まで、国の内外を問わずオファーを受けた作品を一挙収録している。こちらは残念ながらオリジナル・アルバムではないが、定評ある小山田圭吾のリミックス作品をまとめて聴けるのは嬉しい。MGMT、相対性理論、アート、リンゼイ、小野洋子、布袋寅泰、三波春夫......などなどの曲のコーネリアス・リミックスが収録される。"赤とんぼ"のリミックスは必聴。
同日のトクマルシューゴは約2年半ぶりのリリースとなる。予定されているフル・アルバムに先駆けたシングルだ。タイトルは『デコレート』。CDやデジタル・フォーマットのほかにソノシートも予定されているところにインディ・シーンの時流がとらえられているようにもみえる。ご存知バグルスの名曲"ヴィデオ・キルド・レディオ・スター"カヴァーなどはアルバムへは収録されない注目トラックだ。
9月19日はオウガ・ユー・アスホール。演奏力もさることながら、若いバンドのなかではダントツに多種多様なレコードを買い、探求をつづける志高きバンドでもある。物事が移りかわったり終わったりしていくことは、悪いことではない......『