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![]() Kyte Love to be Lost Hostess |
日本が世界に先んじて見つけだした才能として知る方も多いだろう。シガー・ロスやビョーク、レディオヘッドなどと比較されながら、情感豊かでスケール感のあるポスト・ロックを追求してきたバンドである。なんといっても美しいテナー・ヴォイスと轟音ギターの、ときに過剰ですらあるエモーションが彼らの個性だ。そしてまたアイスランドのミュージシャンたちを引き合いに出されるように、どこかつめたく清新なたたずまいを持つところもカイトらしさである。燃える雪というような形容矛盾をふところふかく抱え込んだような、熱くつめたい感情表現。じっくりとテンションを高めてゆき、そのピークでエモーションを解放するドラマチックな曲展開は、サントラとしても好まれ、アメリカの人気ドラマ『ソプラノズ』や、国内映画『余命一か月の花嫁』での楽曲使用も記憶に新しいところである。
さて、"サンライト"や"プラネット"といった名曲を生んだデビュー作『カイト』、日本先行でリリースされたセカンド・アルバム『サイエンス・フォー・リヴィング』、そのUK盤制作時に内容をリニューアルした(どんどん生まれてきたという新曲に再レコーディングしたテイクを加えている)裏セカンドともいうべき『デッド・ウェイヴス』ときて、昨年リリースされたのがリミックス集であることを考えると、カイトはその第一章を終えたかにもみえる。シーンの先端とはいかないが、ポスト・ロックやシューゲイザーのまじわる地点で自分たちの表現をみつめ、親密なファンを育ててきた彼らに、いま新しく登場する『ハーフ・アローン』の制作やその音世界の原風景について訊ねてみた。
さっきコンビニで買ったというグミをおずおずとすすめてくれたおだやかな雰囲気の3人には、彼らの音楽のとおり正直な人柄がにじんでいる、と思った。
いろいろなところへ行ってみて不思議な気持ちだね。世界をまわってみて、よっぽど自分の故郷よりもいい場所とかいい環境、おもしろい場所がいっぱいあったよ。あきらかにね。
■『サイエンス・フォー・リヴィング』と『デッド・ウェイヴス』とは、制作上の経緯から考えても双子のような作品で、ふたつあわせて完全なセカンド・アルバムということになるかと思います。今回の3作目とも4作目とも呼べる『ハーフ・アローン』までに、たくさんの曲が生まれましたね。リミックス集もリリースして、ひと区切りついたところでの今作ということになるのではないかと思いますが、どうでしょう? どのような気持ちで取り組んだ作品だったのでしょうか?
ニック・ムーン(ヴォーカル): そうだね、いまはすごくわくわくしてるよ。この作品ができたことにはすごくよろこんでる。ちょっと期間があいたぶん、すごくフレッシュな気持ちでのぞむことができたんだ。あいてる期間にいろいろ考えることもできた。ああいうことをやりたいとか。すごくよかったなと思ってるよ。
■実際に大きく変わったなと感じている部分はありますか?
トム・ロウ(ギター/キーボード):精神的な部分ですごく変わったところがあると思う。あとは長い期間をかけて制作しただけに、生まれ変わったっていうような気持ちもあるかな。これまでは長い時間をかけて制作したことがなかったから、そのへんも精神的な変化と関係してるのかもしれない。
■なるほど。ちょっと乱暴な質問なんですが、カイトの音楽って明るいものだと思いますか? それとも暗いものだと思いますか? いいかえれば、他者に訴えるような音楽か、自分のなかにもぐりこんでいくような音楽か、どのように感じているでしょう?
ニック:いい質問だね(笑)。
トム:音楽的にはすごくハッピーだなと思うし、自分もハッピーな気持ちだと思う......
ニック:そうだね。
トム:だけどすごく不思議なのが、それにのせるニックのリリックはかなしいものが多いんだよね。そういうところが、僕たちの音楽のメランコリックな部分を生んでいるのかなとは思うよ。
■ああ、たしかにそうですね。明るさのなかにつめたいかなしみみたいなものがありますよね。どうしてそのような対照が生まれるのでしょう?
ニック:おれは(自分の詞が暗いとは)思わないよ。
■ははっ!
トム:明るさと暗さのなかで深みを増すというか、ニックの詞がいろんなレイヤーをつけてくれるという気がしていて、なんか、聴く人の受けとり方を変えてくれるようなものになるって思う。自分の作った曲に対して、ニックがどんな詞をつけるのかっていう関係性もおもしろいし、そういうところでいろんな階層が生まれてるかな。
■レイヤーがつくというのはほんとにそのとおりですね。同時に最初の作品からこの新譜まで一貫して、すごく壮大でドラマチックなエモーションがありますが、これにはなにかヴィジュアル的なイメージがあったりするのですか?
トム:壮大さっていうのは僕たちもすごく意識していて、壮大なものにしたいなと思って音楽を作ってるよ。でもシンプルに自分の好きな音が見つかれば、それをループして重ねたりもする。でも、最終的には大きなものにしたいと感じているよ。
[[SplitPage]]日本に来ていつもいちばんびっくりするのは、みんなとても真剣に演奏を聴いてくれることなんだ。イギリスだと2~3人が真剣に聴いてて、あとの2~30人はうしろで飲んでるって感じだね。
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■あまり比較するのもよくないとは思うのですが、カイトはシガー・ロスやビョークと比べられることがありますね。われわれ日本人が彼らのようなアイスランドのアーティストのなかに幻想するものが、カイトにはあると思うんです。あなたがたの故郷のレスタシャーにはアイスランドと通じるような雰囲気があるのですか?
トム:どっちかっていうと、レスタシャーが僕らの音楽に影響しているというよりは、そこから遠く離れたいっていう気持ちが表れてるかな。故郷はすごく好きなんだけど、現実逃避的な気持ちでそこから出たい、なにか違うものを求めたいっていう感じがあるよ。
■どこかに行きたい、逃げたいというような気持ちは、こうしたツアーなんかで物理的に世界を移動することで解消されたりするものですか? ぴったりくるような場所はみつけられます?
トム:いろいろなところへ行ってみて不思議な気持ちだね。世界をまわってみて、よっぽど自分の故郷よりもいい場所とかいい環境、おもしろい場所がいっぱいあったよ。あきらかにね。でも帰ってみるとやっぱり故郷のよさだったり、そこに家族がいたり友だちがいたりして、大切な場所だっていう思いが強くなるよ。ほんとに不思議な気持ちだね。
■現実逃避的な気持ちでいることと、音楽が壮大になっていくこととはなにか関連がありますか?
ニック:うん。
■(笑)
トム:そうだね。あると思うよ。ただ説明するのが難しいな......。曲を書くごとに気持ちも変わってくるし。
■そうなんですねー......。では、ピアノとかグロッケンは今作で重要な役割をはたしていますけど、曲づくりはピアノからはじまるんですか?
トム:いや、だいたいギターで作りはじめるんだ。コードをギターで作って、それをプログラムしてコンピューターに取り込んで、作りこんでくっていうことが多いよ。けど今回はニックがピアノをたくさん弾いてくれて。
■"セプテンバー・フィフス"っていう曲がありますね。それは何があった日なんでしょう? とても印象的なピアノのアルペジオと、ストリングスの悲壮なテーマで、時間をかけてゆっくりゆっくり緊張を高めていく曲ですよね? だからこの日っていうのはよっぽどのことがあった日なのかなって思ったんです。あるいは忘れられないインパクトが刻まれたとか。
トム:9月5日にその曲を書いたんだよ。
(一同笑)
■ははっ。ええー残念。
トム:はははっ。
■歌詞もないし、他の曲と色合いも違うので、このアルバムのなかだとやっぱり注目せざるを得ない曲かなって思ったんですよ。
トム:その曲ができあがってみて、ほんとに曲というよりも、楽譜っていうか......。気持ち的にもほんとにほかの曲と違うものだったから、逆に、タイトルをつけるよりもその日の日付でとどめておいたほうがいいかなって感じで、日付をタイトルにしたんだよね。
■たとえばこの曲はすごく特徴的なものではありましたが、基本的には、音のテクスチャー、ソング・ライティング、実際のパフォーマンスのなかでは、なにがいちばん大事なものだと感じていますか?
トム:ええと......コードのシークエンスで、自分が感じるもの、感情が大切だね。それはほかの人でもそうだと思っているし、重要なことだと思う。
■なるほど。では故郷のレスタシャーについて教えてください。どんなところで、どんな音楽シーンを持っているのでしょう?
ニック:じつは地元では数回しかライヴをやったことがなくて、東京のほうが多いくらいだよ。地元の音楽シーンにはまったく属してないね。すごくちっちゃな町なので、ミュージシャン同士のつながりがほんとに強くて、残念ながらそのつながりのなかに僕らは入りこめていないんだ。地元でみんなが聴いているのはロックだったりハード・ロックだったり、あんまりそこから大きなアーティストって生まれてなくて、カサビアンくらいかな。
■カサビアンが同郷なんですね。
ニック:そうそう。でも彼らも地元のシーンのつながりのなかにはいなくて、突然出てきてメジャー・レーベルに属したって感じなんだよね。
■へえー。そういうみなさんは初めて音楽をもっと広いところにむけて発信しようとしたとき、どこで演奏したわけですか? ロンドンとかに出ていくんですか?
ニック:デビュー当時はよくロンドンに出ていってたね。近い町でノッティンガムとかバーミンガムとか、そういうところにいったり、ブリストルとかブライトンとかマンチェスターとか、地元ではないところでいろいろ活動してたよ。他のバンドとかも、ツアーをするときには、うちの地元にはとまらないで、近所の街に行くんだよね。
■日本は、カイトという存在を見つけるのが早かったなと思うんですけど、日本のリスナーと自分たちの音楽性との間になにか相性のようなものは感じますか?
トム:そうだよね。
スコット・ヒスロップ(ドラム):それはどこよりも感じるよね。
ニック:日本に来ていつもいちばんびっくりするのは、みんなとても真剣に演奏を聴いてくれることなんだ。イギリスだと2~3人が真剣に聴いてて、あとの2~30人はうしろで飲んでるって感じだね。
■ひどいですね(笑)。なにか日本と合うところがあるとすれば、それは風土とかってことなんでしょうか?
スコット:ちょっとしたポップ感のあるコーラスだったり、なにかを描写するような音楽が日本のリスナーに受けてるんじゃないかなって思うよ。
■カイトの過大なエモーションというのは、ヘッドフォンで聴くのとライヴで大きな音を共有するのとでは、よりライヴのほうで伝わるものなのかなと思うのですが、今後もそのような音作りは変わりませんか? なにか次の展開についてヴィジョンがあれば教えてください。
スコット:じつはいままでの作品は作ることに没頭してしまって、あとでどうやってライヴをやるのかということをまったく考えてなかったんだよね。けど今作はライヴを意識して、ライヴをどうやってやっていくかということをすごく考えた作品なんだ。今後もそうやってどうやってライヴをいかしていくかっていう音作りをしていこうと思ってるよ。
一聴してよく制御されたダブ・サウンド、という印象。快楽のポイントを衝くエフェクト、そして揺さぶりをかけるベース、とダブの基本をきっちり抑えている。20代前半のバンドと喧伝されているが、たしかに年齢を思うと完成度が高い。そして、ひょっとしたら渋い? 女性ヴォーカルに強力なバック・バンド、という編成からポスト・パンク世代のニュー・エイジ・ステッパーズを想起させる。もう30年も前のバンドだが、Tam Tamのルーツがその辺にあることは容易に想像がつく。いま、20代前半の子がどんな音楽を聴いてるのか詳しく知らないが、このバンドのメンバーは他の同級生から浮いていたに違いない。きっと、授業中に音楽誌を隠し読みしているようなタイプだ。
そう、Tam Tamは〈On-U〉、あるいはダブステップまで脈々と流れるブリストル・サウンドの魔力を体感している人なら好きになる音だ。レゲエとロックの混血、さらにはエレクトロニック・ミュージックまで呑み込んでしまうサウンドの生命力は強く、世紀をまたぎ、また遠い東京という地で装いも新たに登場した......というと話がでか過ぎるか。このアルバムはどちらかというとロックと親和性が強く、ゆえに聴きやすくキャッチー。黒田さとみの伸びやかで美しく、ときに力強いヴォーカルはスターのオーラを早くも漂わせている。決してセル・アウトを意識しているわけではない、ただ自分たちに気持ちのよい音を追求した良質なポップ。まずは、そんな評価ができると思う。
本作はファースト・フル・アルバムでリトルテンポのHAKASE-SAN(exフィッシュマンズ)をプロデューサーに迎えている。昨年、自主流通で発表したミニ・アルバム『Come Dung Basie』がレゲエやスカのルーツに忠実だったのにくらべ、今作はもっと色彩ゆたかで、軽やかにジャンルを横断している。ダブというフォーマットのうえでマッド・サイエンティストのごとく実験しているよう。でも彼らの場合、サイエンティストというよりはプロフェッサー(!)=博士だ。やはり優等生然としている感は否めない。良くいえばサウンドに対して誠実であり貪欲ということ。バック・バンドの3人が揃ってメガネ男子なのも、何かを物語っている。僕個人はそんな姿勢に親近感を持っている。弱肉強食の時代にメガネ男子は大変なのだ!
アルバム冒頭はヴォーカル黒田の北海道厚岸の音頭を素材にシャッフルした"Akkeshi Dub"からはじまる。ここから前半は"Dry Ride"のようなステッパーズ・リディムあり、ダンスホールに接近したものありとベースの疾走感が際立つナンバーが続く。アルバム中盤ルーツ・レゲエを奏でたあと、黒田のヴォーカルが引き立つラヴァーズ・チューン"Stop The Alarm"ではトロピカル・フルーツのような濃厚な甘さが空間を支配する。一転、インストに呟くようなリーディングが乗っかる8曲目から、ファンクが加味された曲があったり、"Train"はまさにブリストル・サウンドで、マッシヴ・アタックから現在のダブステップまでを彷彿とさせるナンバー。後半は深く、ポーティスヘッドやサイレント・ポエッツのような暗さを持っている。黒田の歌声は「叫び」にはならず呪文のように囁いている。繊細なニュアンスや謎を残し、アルバムは終焉へと向かう。
洗練していてスタイリッシュで、率直にいってすごく格好いい。紛れもないダブ・ミュージックだが、その範疇をときに乗り越えてしまう振幅があり飽きさせない。でもね......ひとつだけ注文したくなる。Tam Tamにそれを求めるべきではないかもしれないが敢えて言わせてもらおう。レゲエ=レベル・ミュージックであって欲しいと思う人間にとって、「レベル」は何処にあるのだ、とあら捜しをしたくなる。アリ・アップは「拝金主義者が消え去る(フェイド・アウェイ)」と歌っていたし、原発事故以降、デモを渡り歩く筆者にとってサウンド・デモで謳うリクル・マイの誠実なプロテストに純粋に感動していたので、どうしても、そこがね......と。
でも、本人たちはそんなこと百も承知のうえだろう。何の運命の悪戯か正真正銘「ジュネ」と読む名前を授かり、URやザ・ブルー・ハーブを愛するベースの小林樹音が作詞した"Inside The Walls"ではチェルノブイリで石棺され、いまも原子炉に埋もれる「壁のなか」の遺体のことを描き出しているという......。歌詞を読んでもそれは伝わらないかもしれない。そっと忍ばしているという感じ。たしかに、被害が明白で、世論の大勢がいまや異を唱える原発問題を表現するのは難しい。レベル・ミュージックとして、あまりにありふれた表現に陥る可能性はあるし、反原発の表現は、それでよいのかもしれない。"Inside The Walls"は熟慮し現れた表現なのではないか。より抽象的に表現することで広義に解釈できるというような。「レベル・ミュージック」などとTam Tamにいらぬ責任を負わせるよりも、いまはサウンド・プロフェッサーとしてさらなる進化を期待させる音にひたすらヤラれ、そして聴き惚れていればよいのかもしれない。自分たちの鳴らしている音楽が一体どんな出自を持っているのか、それが嫌でも突きつけられる日がくるだろう。
ちなみにベースの小林樹音はJitteryJackal名義で〈術ノ穴〉のコンピレーションにも参加しポスト・ダブステップ風味の曲を提供している。Tam Tamのダークサイドのような感じで印象的だ。また、アルバムに先攻して〈JET SET〉とコラボし制作された"Dry Ride"のEPも発売されている。
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Aphex Twin - Drukqs - Rhino/Wea |
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Moog - The Electric Eclectics of Dick Hyman - ABC Records |
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Heatsic - Intersex - Pan |
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Donato Dozzy - K - Further Records |
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Marumari - The Wolves Hollow - Carpark |
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Stewart Walker - Stabiles - Force Inc. |
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Billy Cobham - Crosswinds - Atlantic Recording |
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Moodymann - Forevernevermore - Peacefrog Records |
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Apparat - The Devil's Walk - Mute |
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Maino - Day After Tommorow - Atlantic Recording |
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Benjamin Herman - Haze - Benjamin Herman |
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Anthony Valadez - B-side for philly - Record Breakin |
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Black Monk - Northern Lights - Poo Bah Records |
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Mike Slott - Knock Knock - All City |
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Baptman - GROO - Melting Pot Music |
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C&C Edits - Bonbar - Point |
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Bushmind - Wakers Chant - Lazy Woman |
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Kissey Asplund - Move Me - Record Breakin |
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OBAH - Four Women - Bstrd Boots |
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Electric Conversation - Melodie - Futuristica Music |
cold dark : https://www.colddark.info/
madberlin : https://madberlin.com/
soundcloud : https://soundcloud.com/colddarkmadberlin
beatport : https://www.beatport.com/artist/satol/140790
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Nujabes - Blessing It - Hydeout Production & Tribe |
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Uyama Hiroto - Stratus - Hydeout Production & Tribe |
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Dj Krush - Kemuri - Mo Wax |
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The Blue Herb - 時代は変わる - THA BLUE HERB RECORDINGS |
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Goth Trad - Sublimation - Deep Medi Musik |
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FaltyDL - Regret - Hotflush Recordings |
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Satol - Biocritical - Cold Dark |
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Satol - Impressionable - Cold Dark |
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Satol - You Know Where - Cold Dark |
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Satol - Isla De Pascua - Cold Dark |
先にはっきりと説明しておくと、本作はパンダ・ベア『パーソン・ピッチ』/アニマル・コレクティヴ『フィールズ』にそ っ く り な 作 品である。ほんとうにそっくりだ。リズム、ハーモニー、ヴォーカリゼーション、クセのあるループ、あたたかいリヴァーブ......ユーチューブには英語で「なぜこれがアニコレじゃないのか?」という感想も書き込まれている。ニュー・ハウスなる東京の5人組、そのアニコレ「的」といった次元を超えてアニコレなファースト・アルバム『バーニング・シップ・フラクタル』を心愉しく聴いた。彼らの方法をめぐっては諸論あってしかるべきところだが、すくなくともこんなフィーリングを日本の音楽のなかに聴けるのはうれしい。いや、結局のところ日本の音楽ではなかったという点にかぎりない惜しさを感じるのだが、ぜひとも大切に蒸留してこれを日本の音楽として精製していただきたいと思う。日本のインディ・ロックの息苦しさから、あるいはなぜかしら一種のエリーティズムに誤解されてしまう日本の「洋楽」受容文化からわれわれを解放してくれるものが、そこにはただよっているのだから。パンダ・ベアからチルウェイヴへとベッドルームを介して流れこむ、あのあかるくアルカイックな、新しいフィーリングが。
ところで、なぜこれほど堂々とパンダ・ベアでアニコレな音楽をやるのかという疑問をめぐって、筆者には勝手な想像になるニュー・ハウス物語ができあがっている。それは非常に有名なある句を連想したことにはじまる。
船焼き捨てし
船長は
泳ぐかな
高柳重信
『バーニング・シップ・フラクタル』というタイトルでただちにこの句を思い浮かべた。初句7音の斬り込むような韻律は、焼ける船のすがたを直線のような抽象性をもって鮮やかにとらえるが、よくみればそれはフラクタルで無限的な輪郭を持って燃え上がるのではなかったか......そしてそのばっちりと印象的な像からすこし目をそらすと、むこうには船長が泳いで逃げていく姿。筆者はこの「泳ぐかな」が好きだ。ここで壮絶ながらもどこか滑稽なニュアンスが生まれる。2行あけが船と船長との距離をあらわしているようにみえてくると、あなただって笑うだろう。やがて船長は視界のなかで小さくなっていくはずだ。うける。そこにダメ押しで「かな」とくる。口語であえて訳せば「泳ぐのであるなあ」「泳ぐことよ」「泳ぐのである」だ。うける。大真面目で、シニカルな、しかし冗談のような詠嘆でもって句は結ばれる。いわゆる前衛俳句を代表する、非常に有名な一句である。昭和24年あたりの作品、重信は26歳だ。
無論ニュー・ハウスが重信の句を念頭にこのタイトルをつけたとは思わない。だが音を聴くにつけ、この連想はなかなかしっくりくるものではないかという思いを深くした。『バーニング・シップ・フラクタル』は「泳ぐかな」の音楽だ。自分で火を放った船から全力クロールで逃げる、逃げる姿が遠方へと消えてゆく。燃やした船とはなにか?
それは現在のUSインディ・ミュージックだ。ことにパンダ・ベアからチルウェイヴにいたる一大ストリームである。自らにもシーンにもいまもっとも大きな影響をおよぼす対象に、火を放ちたいと彼らは思わなかっただろうか。火を放ってわーっとか言いながら騒ぎ、遊び、それが焼け朽ちていくのを眺めたいとは思わなかっただろうか。あの屈託ないまでにそのまんまパンダ・ベアな音を鳴らすモチヴェーションとしては、筆者にはそれ以外説明がつかないように思われる。
だがその放火がいたずらレヴェルに終わりかつまったく悪びれる様子がないところがニュー・ハウスの可愛らしさだ。"スモール・ワールド"のけろりとしたたたずまいはどうだろう。"ウォーター・カーシズ"や"ファイアワークス"など『フィールズ』以降のアニコレ名曲にはつきものといえる中抜き3連符のリズムに南国的なコーラスが独特の節回しで唱和し、ループする。これは楽しいにちがいない。"ヒー・ハウルズ"のながい冒頭も遊び心がある。
木や草や生き物たちのおびただしい息づかいを感じさせる、これまたアニコレ一流のサイケデリックなハーモニーが模倣され、曲名に掛けられたユーモアがたちあがってくる。そして燃やして騒いであとはどうしたものか、逃げちゃえとばかり「泳ぐことよ」、泳いだのである。ちょうど曲名が"ポンド(Ⅰ)"だ。音がやみ、あとに波のたゆたいばかりがのこされたとき、われわれはこの真面目なようでいたずらのようでもある、切実だが可愛げのある、一種のおかしみと愛嬌を思い、破顔するだろう。ここには愛情や敬意とともに彼らなりの引導を渡すべく、おもいきりバーニングさせたパンダ・ベア/アニマル・コレクティヴがある。
終盤を飾る数曲はその意味では重要かもしれない。"コラージュ・オブ・シーズン"のアンビエントはアニコレよりも淡くかそけき情感をたたえている。和音の色が信号のように一定間隔で置き換わり、小さくカタカタと弦の音が響いてくる中盤からはじっと耳をそばだててしまう。"スパイラル・クラウド"もパンダ・ベア的な歌唱スタイルではあるが、トラック自体にオリジナルな感覚があって、非常になだらかな、繊細な起伏をふくんだ展開をみせる。この淡さこそは筆者が日本のチルウェイヴのなかに期待したいもっとも大きな要素だ。こうした網目の細かい織布のような音で、あらゆる歴史や文化を乾燥させ砕いたあとのような、われわれの顆粒状のエモーションをすくいあげてほしいのである。
大阪で20年以上生活してきたが、この数年で街がもっとも大きく変わったように感じる。ついこのあいだまで、都市部のどこに行っても工事中の箇所ばかりで迷路のように入り組んで歩きにくいことこの上なかったのだが、気がつけば新しいデパートやショッピングモールが次々に完成していた。小奇麗に整備された(しかしまだ工事中の場所も多く、これからも改装が続けられるのだろう)JRの大阪駅の周辺は、いまでは「OSAKA STATION CITY」と呼ぶらしい。
大阪でクラブの摘発が大々的にはじまったのは、「歩きにくい」と感じていた最中の2010年の末のことだ。西心斎橋の繁華街、通称アメリカ村のクラブが摘発されたことを報じる新聞にはお決まりの騒音や犯罪、ドラッグの問題(単にイメージでしかないものも当然あるだろう)が取り沙汰されていたが、摘発の理由はそのどれでもなく風営法違反であった。はじめの摘発はまさにイヴェントの最中におこなわれ、見せしめのようにしか感じられなかったのが僕としては率直なところだ。
風俗営業許可において、「客にダンスさせる行為」は3号もしくは4号の営業許可が必要となるが、いずれもダンスフロア面積が66m2以上必要であり(つまり小箱のクラブはこの時点で許可が取れない)、また、これを取得すると24時までの営業となる。そうではなく、バーや居酒屋のように深夜営業の許可を取ると、今度は深夜にダンスをさせるという営業行為ができなくなってしまう。いずれにしても、深夜のクラブ営業......24時以降酒を販売してダンスさせることは法律上規制されることとなってしまう。現行のクラブ・カルチャーと噛み合っていないのは明白だが、事実として法が改正されていない以上、深夜に酒を出して客を踊らせているクラブはいつ摘発されてもおかしくない、ということがその時点で改めて示されたのであった。実際、その摘発をきっかけに次々とクラブが警察に摘発されたり、厳重注意されたりすることが続いた。
以来、大阪では深夜営業を自粛するクラブが相次ぎ、さらには自主的に営業を中止する店も現れた。当然クラブ・イヴェント自体が減り、大物のDJが海外から来日しても24時でクローズせざるを得なくなり、大阪のクラブ・カルチャーは瀕死も同然となった......。それでも、大阪のDJたちやオーガナイザーたちは涙ぐましくも法に抵触しないように夕方から日付が変わる前ぐらいに終わるイヴェントを地道に続けていたし、さらにはそれまでのクラブ営業の問題点(治安や騒音、ゴミなど)を反省し、より地域と共存できる営業をするべきだという意見も多く挙がっていた。「法改正はすぐに実現しなくても、現行でできることもある」、と。今年のはじめ友人のDJが(もちろん夕方に)開催しているイヴェントに足を運び、ダンス・ミュージックのイヴェントをこの状況下で開いている彼の努力を讃えると、彼は「まあ細々とやるしかないよなあ」と言いつつ、若い世代がやっているエレクトロニック・ミュージックのイヴェントが面白いことを教えてくれた。こんな街でもまだダンス・ミュージックは鳴っているのだとそのときは感じたのだが......NOONの摘発が起こったのはその矢先だった。
今年の4月5日、老舗のクラブ/カフェであるNOONが21時50分ごろに「客を踊らせていた」事実で警察が押し入り、摘発された。この日のイヴェントは23時過ぎに終わる予定であり、深夜帯でないにもかかわらず、だ。釈然としないが、「より厳密に風営法を摘要した」結果だというのが警察の言い分だそうだ。こうなってくると、もはや営業形態の問題の範疇を超えているように思われてくる。現在のクラブを片っ端から公権力が潰そうとしているように感じられても仕方ないのではないか......。
「公共圏」がテーマであった紙ele-king5号のミタイタルトライアングルにおいて、三田格が言うように「特殊なところから一般的なところに応用範囲が広がっていくのは目に見えている」こと、まさにそれが起きている。しかしなぜ、そうまでしてクラブを取り締まらなければならないのか? その背景には、クラブが薬物や犯罪の温床であるというような短絡的なイメージの蔓延や、大阪でのここ数年の政治体制の変化や、都市部の再開発など、さまざまな要素が複雑に絡み合っていることだろう。その不透明な不気味さのなか、大阪の夜からはダンス・ミュージックは鳴り止んでしまった。東京や福岡でのクラブ摘発のニュースも記憶に新しいが、いつどこで、大阪で起こったことがはじまってもおかしくはない。そのDJの友人がイヴェントをやっていたクラブが閉店するという話をその後耳にしたが、悔しさはあってももはや驚きはなかった。LCDサウンドシステムがかつて歌ったことを自分の街で経験するとは思っていなかった。が、いまはまさに、大阪は俺を落ち込ませる......そんな気分だ。
それにしてもあらためて思い知らされて愕然とするのは、クラブ・カルチャーがこの国では文化としてきちんと認められていないという事実だ。経済とは別のところにある価値観は簡単に無視されてしまう。
個人的なことを書くと、僕自身も大阪のクラブで踊った経験は何度もある。たしかにケンカや酷い酔っ払いを目撃して嫌な思いをしたこともあるが、それ以上にたくさんの音楽やひととの出会いがあった。なかでも最高だったのは、20歳のときに観たオウテカのライヴで、フロントはなんとLFOという豪華さだった。オウテカが登場すると照明はすべて落とされ、真っ暗闇のなか、ビートと金属音が入り乱れ、カオティックに狂ったファンクネスに身体を無理矢理動かされた。そこには本当に純粋に音しかなかった。もちろんあんな強烈な体験は、いまの大阪では絶対にできない。
ただ、オウテカの名前を出したのは昔を懐かしむためではなくて、彼らがかつてクリミナル・ジャスティスが禁じた「反復的ビート」に対抗して「アンチEP」を出したことに何かしらのヒントがあるのではないかと思うからだ。「俺たちの音に反復的ビートはない」という皮肉めいた反抗心の根底にはもちろん、明確な意思表示がある(※)。
もういちど大阪の夜のフロアで踊るために、わたしたちにできることはあるだろうか? この気味の悪い夜の静けさの背後にある状況について、関係者や詳しい方々に話を聞きつつ、引き続き考えていきたいと思っている。
(参照:風俗営業許可申請ネットワーク https://www.e-fuei.net/102.html)
(※)「反復するビート(Repetitive Beats)」を禁止する法律、クリミナル・ジャスティスに対して、オウテカが『アンチEP』になら、アンドリュー・ウェザオールはRetribution (仕返し)という名義で、堂々と「Repetitive Beats」という題名のシングルを発表した。ドラム・クラブが"キル・ザ・ビル・ミックス"、プライマル・スクリームが"ノー・ユア・ライツ・ミックス"、ウェザオールは"ウェイストランド・イングランド・ミックス(不毛の英国ミックス)"などを手がけている。
遠くで沈む太陽
昇ってくるブルーでループ
ゆっくり死んでくいつでも
まったく悲しくならない"Come Together"
当然の話、いかなるインディ・ミュージックも、それがただ単にインディである、というだけの理由で称賛することはできない。それは単に、権威主義に負号を付した形式主義に過ぎないからだ。とはいえ、結果として、そこに一定の傾向があるのも否定しがたい事実だろう。「彼ら」は身を挺して、いまでもポップ・ミュージックの試行錯誤を繰り返している。しかも、誰よりも楽しそうに。先月4日に発売された本誌の紙版『vol.5』で、〈Maltine Records〉を軸とした、この国のインディ・ポップの一場面について書いたが、それは、ゼロ円音楽がいくつかの意味で決してメジャー・レーベル・ミュージックに劣っているわけではないこと、そして、このダウンロード文化が欧米の専売特許ではないことを証明している、そういう話だ。したがって、未練がましく昨年のアルバムを紹介するのはなるべく控えようと思う。もっとも、これに関しては『ele-king』的にもスルーをしてはいけないインディ・ポップだと思うので、どうか大目に見てほしいのだが(発売は半年以上前!)。
さて、本稿の主人公であるウィークエンドは、90年代のリアル・タイマーとして、あの時代の遺産を引き継ごうとする。メンバーの泉水マサチェリー(@masacherry)、MC転校生、MCモニカは、90年代をほぼきっかりとティーンとして過ごし、20代を折り返したゼロ年代の後期から活動を本格化させている。あるいは遅咲きの部類かもしれないが、そのポップ・センスにはまだフレッシュな輝きが宿っている。活動拠点は世田谷、ということだが、音楽的には、ファンクやディスコのカラフルなミックスで、あまり好きな表現方法ではないが(ウェブ上で接触できる音源が少ないので仕方がない)、"スチャダラパー×フィッシュマンズ×□□□(クチロロ)"となるだろう。ヒップホップ、ブレイクビーツ、レゲエ・ポップ、チープ・ディスコ、J-POP、アイドル・ポップ、そこにおセンチなメロディ、それを乗せる歌とラップがラフに、だがしっかりと撹拌/混合される。端的に言って、センスを感じる。レコード中毒者特有の、ヒップでドープでポップな、「製作者である以前にマニア・リスナーだ!」というあのセンスだ(彼らのmyspaceで過去曲を参照のこと。"また夏が来る"は再音源化希望!)。
とはいえ、90年代的な雑食趣味が、ポスト・ゼロ年代の焼け野原において、そのまま素朴に復権されるほど単純な時代でないこともたしかだろう(そのためには細分化/複雑化しすぎている)。実際、ツイッターにおける書き込みを見ていると、トラック・メイクなど、グループの根幹を担う泉水は、チルウェイブにもさしたる関心はないようだし、ベタともいえるポップ・メロディに対して、今なお大きな信頼を寄せている。その点からすれば、ウィークエンドを単に保守的なポップスと一蹴することも、あるいは不可能ではないだろう。だが、自分の出自とは関係のないトレンドよりも、自らの音楽体験に忠実であろうとする泉水の態度を、私は好ましく思う。とくに、この世代のミュージシャンがファンク/ディスコに対してこれほどまでに執着を見せる点は興味深い(これまた山下達郎の影響?)。なお、それは前作にあたる総括盤『Pet Sounds』(2011)においてより顕著で、サマー・ポップのお約束をひとつひとつ消化しながら("PINK"はクラシック!→https://www.myspace.com/music/player?sid=80086212&ac=now)、ディスコの軽薄さを思う存分に満喫するその姿は、奇しくもベッドルーム・ディスコによる共犯的なナイーヴィティを愛したチルウェイブに対するコインの表裏のようだった。
いつだって僕らこんな風に
錯覚ばかりのデイバイデイ
くりかえされるこんなミュージックに
またあの夏を感じているのさ
"夏をくりかえす~Playback Summer, ENDLESS~"
そして、昨年発表されたのが本作、『LEISURE』である。その開放的なタイトルを裏切るように、これまで描いてきた恋、夏、海、女子というクリシェの無根拠なアッパーさを捨てて、彼らはある種のダウナーさを選んでいる。少年期の延長を断念せざるを得ないような憂いが漂い、そのせいかメロディは甘さ控えめの微糖仕様となり、サウンド・プロダクションには砂糖やミルクの代わりに、なにかケミカルなものが混入されている。そう、スケベなヒップホップ・ディスコから、バッド・トリップ上等の、ドラッギーなヒップホップ・ダブへ。ファンク・ギターとスクラッチがビンビンに跳ねるヘビーなアシッド・ファンク、"Come Together"はその変化の象徴だ。
また、夏休みの最終日が持つ焦燥感を無限にリピートするようなサマー・ディスコ、"夏をくりかえす"。そして、元フィッシュマンズの柏原譲(アルバムのマスタリングにも携わっている!)がベースを弾くスペイシーなメランコリック・ダブ、"オトナのビート"は本作最高のチル・アウトで、さらにはすぐに彼のものとわかるの浮遊感が心地いい、トーフビーツによる半覚せい的なティーン・ポップ、"SKIRT"は、彼らのポップ・ポテンシャルをまざまざと見せつける。情感に富む詩作も良いが、それをそのままでは聴かせない、どこか茶化したような3人の声色、キャラ立ちまくりのマイク・リレーがまた良い。言わばそのどれもが、遠ざかる思春期への悪あがきとして花咲いているのだ。
おそらくは、と留保して言えば、彼らには現行のシーンに対する不満があり、おそらくは相応の野心もあるはずで、それはかつてゴールデン・エイジを築いた優れたポップ・ミュージックが、いまやマーケットのニッチ・ゾーンに追いやられ、言わばセミ・ポピュラーの領域に甘んじてしまうことへの憤りのようでもある(本作にはフラストレーションが通底している)。だからこそ、(悪く言えば)未練のようなその頑固な愛情が、彼らの音楽を歴史に繋ぎ止めようとしているのだろうし、過去への敬意は尽きないのだろう。とはいえ、彼らの先輩格に当たる□□□がたどり着けた場所と、たどり着けなった場所とを思うと、いまの時代は彼らに冷徹に振る舞うかもしれない。だが、そんな悲観に先回りした上でも、これは応援したくなる存在だ。更新されるべき現在と、引き継がれるべき過去とがあるのなら、いっそどちらも背負ってしまえ。こんなに遅れて取り上げておいてなんだが......今後の展開に期待したい。グッド・ラック!(いま現在、最新のプロジェクトはこちらを参照。→https://www.youtube.com/watch?v=NoUolfbyn5E)
80年代後半に広く手法として定着したサンプリングは部分から新たな全体を目指したり、再構築することが主な目的だった。言葉を代えていえば、それは「捨てる」ことから始まる作業だったともいえる。ナップスターの登場と前後して、90年代後半にはじまったサンプリングは「捨てる」ことよりも「足す」ことに目新しさがあり、元の曲を違う角度から聴かせる側面を持っていた。マッシュ・アップもそのヴァリエイションといえ、意外な面白さを引き出した例は無数にある。ここでいう「面白さ」とは、つまり、批評性ともいえ、なかではやはり、V/Vm(ヴォリウム・ヴァーサス・マス)が際立って意表をつく発想を展開し続けた。ライオネル・リッチーのラヴ・バラッドにノイズを重ね合わせることで時代遅れのサウンドプロダクションは不明瞭なものとなり、頭の中でアップ・トゥ・デイトされたヴァージョンを想像させてみたり、なかなか次の作品を出さないエイフェックス・ツインの新作を先取りした『ヘルプエイフェックスツイン/3.0』(02)ではリチャード・D・ジェームスが過去にやってきたこととやりそうなことを掛け合わせた全11曲が架空のベスト盤のようにして並べられた。どちらもいじられているのは記憶であり、サンプリングはそれを有効にするための手段として機能している。過去のものを現在に活かすというよりは、捏造記憶を作り出し、過去そのものをサルベージしていくという感じだろうか。
V/Vmことジム・カービイは、しかし、02年に同一のタイトルで2種類の異なる内容で構成された『時々、いいことがある(Sometimes, Good Things Happen)』をリリースした後、ポップ・ミュージックの神話性に限界を見たのか、わりとストレートにヨーロッパの伝統へと立ち返っていく。インダストリアル・ミュージックの原型だと考えられるショスターコビッチの再構築がその分岐点に当たり、シャープで攻撃的だった作風は陰を潜め、以後は悲愴感あふれる作品が洪水のように続くことになる(何よりもヴィジュアルがどんどん重苦しくなっていく)。それこそ、フランコ政権のダメージからスペインが立ち直った象徴として絶賛されたペドロ・アルモドバルが、初期の軽妙洒脱なコメディから、最近は重苦しいヨーロッパの悲劇を扱うようになっていくのと同じコースに乗ったといっていいだろう。アルモドバル監督の最新作『私の、生きる肌』もそれこそギリシア悲劇とどこも変わるところはなかったし、カービイが訴えかける強烈な悲愴感も、そのような悲劇性にエクスタシーを与える以外の何物でもない。
リリース量が下降線を辿っているV/Vmの名義に変わって、このところカービイが力を注いできたのがレイランド・カービイ(裏アンビエントP240)の名義で量産される枯れたアンビエント・ミュージックと、V/Vm以前から現在に至るまでコンスタントにリリースが続いているケアテイカーのそれだろう。30年代のSP盤と降霊会をおこなうためのホーンテッド・ボールルーム(詳しくは→https://kol.coldfront.net/thekolwiki/index.php/The_Haunted_Ballroom。アンディ・ウェザオールが題材にした『ホーンテッド・ダンスホール』はこのパロディでしょう)の喧騒を元に独特のアンビエント・ミュージックを作り出してきたケアテイカーは悪趣味なイギリス人たちの心をがっちりと掴んだようで、まさにカルト的な人気を誇り、昨年、英ファクト誌が選ぶアンビエント・アルバムのベスト20に『ア・ステアウェイ・トゥ・ザ・スターズ』(01)も選ばれたほどである(https://www.factmag.com/2011/07/19/20-best-ambient/)。悪趣味なイギリス人たちは、そして、ボビー・ビューソレイユやメインも入れてしまうし......
ケアテイカーの名義では7作目にあたる『ペイシェンス(忍耐)』は、グラント・ジー監督によるドキュメンタリーのサウンドトラック・アルバムで、2004年に交通事故で急逝したドイツの作家、W・G・ゼーバルドを題材にしたものだという(読んだことはない。文章に写真やイラストが組み合わさった独特のフォームで知られているとか。主要作はすべて白水社で訳出)。だからというか、全体にモーンフルで、様々なニュアンスを持った擦過音(やシンセサイザー?)の向こうから微かにピアノの音が聴こえてくるという手法はこれまでとまったく同じ。どこにもクレジットはなく、確かめようがないのだけれど、どれもサンプリングされているのは、おそらく30年代のSP盤なのだろう。ラフマニノフの嬰ハ単調のような曲ばかりよく集めたというか、考えようによっては失われたものを表すノイズと、記憶に関係付けられたピアノのマッシュ・アップと言えないこともない。そして、これがまたピアノしか使われていないせいか、ポスト・クラシカルに聴こえてくるところもマジックではある。インダストリアル・ミュージックがゼロ年代に入って形を変えたものがポスト・クラシカルだと位置づけている僕としては、あまりにも符号が合い過ぎて鼻白んでしまうぐらいなんだけど。
ポスト・クラシカルも、そして、ぜんぜん息が衰えない。アタラクシア、ディクタフォン、タバコニスツ、ソープ&スキンと今年に入ってからも新顔はどんどん増えていく。スフィアン・スティーヴンスが新たに結成したS / S / S (アンチコン)やクラークも新作では作風に取り入れ、デビュー・アルバムが大変な評判を呼んだベルザーリン・カルテットも4年ぶりにセカンド・アルバムをリリース。ケアテイカーのようなアート志向とは違って、スノッブな要素もそれなりに持ち込んだトーマス・ブッカーは、優しく奏でられる弦楽器に奇妙なSEを散りばめることで、トリップ・ミュージックとしても機能できる余地をふんだんに残している(ビートルズ"ア・デイ・イン・ザ・ライフ"のエンディングをザ・KLF『チル・アウト』に混合させたと思って)。完成度ではやはりファーストだろうか。方法論的な変化はなく、ヨーロッパの悲劇があっさりと高貴な恍惚感へと昇華されていく。いささか情緒過多になった分、トリップ度はアップしているので、あとは好みとか気分の問題でしょう。
放射能に消費税、本も売れないし、CDもダメで、夢も希望もないんだから、暗い音楽を聴くしかありませんなー。