Home > News > RIP > R.I.P. Chick Corea - 追悼 チック・コリア
1970年代から現在に至るジャズの歴史を変えた重要なピアニスト、チック・コリアが2月9日に癌で亡くなった。1941年6月12日生まれで、享年79歳だった。彼のフェイスブックによると非常に珍しい種類の癌を患っており、それが死因となってしまった。日本とも交流が深かったチックの死はニュースでもいち早く報じられ、たびたび共演してきた上原ひろみ氏や小曽根真氏らがメッセージを寄せている。いつ頃癌を発症したのかは定かではないが、最後まで元気に演奏活動や制作活動を行なっていて、2019年にクリスチャン・マクブライドとブライアン・ブレイドによるトリロジーで来日公演も果たした。実は死去後の2021年もアメリカやヨーロッパではツアーも組まれていて、最後の最後まで演奏することを諦めていなかったようである。小曽根氏によると、彼の60歳とチックの80歳を祝うツアーも計画していたそうだ。
訃報のニュースの中でチック・コリアは、「ハービー・ハンコックやキース・ジャレットと並ぶ20世紀を代表するピアニスト」、「グラミー賞を23回受賞」といった文句で紹介されている。幅広い年代に渡って活躍し、現在も多大な影響力を持っていたチックは、聴く人にとってさまざまな思い出があり、好きなアルバム、好きな時代も異なるだろう。そうした中でもやはり輝いているのは、1970年代初頭にリターン・トゥ・フォーエヴァー(以下RTF)を結成し、その後のクロスオーヴァーやフュージョンというジャズの新たなタームをもたらした頃ではないだろうか。アコースティック・ピアノとエレクトリック・ピアノの両翼をもってジャズの世界で羽ばたき、ロックなど異種ジャンルとも融合していった点では同時期のハービー・ハンコックとも共鳴しており、1970年代のチックはジャズの冒険者であり、それまでのジャズの価値観を覆す存在であった。
スペイン系のアメリカ人で、ジャズ・トランペッターだった父親の影響で幼少から英才教育を受け、同時にクラシックも学んでハーモニーなどの音楽理論を身につけてきたチックだが、自由に自己のアイデンティティを表現できるということでジャズの道を選んだ。ラテンからハード・バップまで演奏していたチックの転機は、1968年のマイルス・デイヴィスのグループへの加入で、前任者のハービーに代わって『イン・ア・サイレント・ウェイ』(1969年)、『ビッチェズ・ブリュー』(1970年)という歴史的作品にも参加している。このグループでマイルスはチックにフェンダー・ローズを弾くように指示しており、その後のチックの活動の道筋をつけた。
また1970年にマイルス・グループを脱退した後は、デイヴ・ホランドらとのサークルでフリー・ジャズなど前衛的な手法も試みており、クラシックからラテン、ハード・バップ、エレクトリック・ジャズ、そしてフリー・ジャズに至る幅広い音楽性を身につけたことが、後のフュージョン時代の自由な表現力へと繋がっていった。
そして1971年、スタンリー・クラーク、ジョー・ファレル、アイアート・モレイラ、フローラ・プリムとRTFを結成。ソロ名義ではあるが『リターン・トゥ・フォーエヴァー』(1972年)がグループの実質的デビュー作で、マイルスともハービーとも違う新たなジャズを見せる。エレクトリックな仕様ではあるがアコースティックな味わいも融合した独特の清涼感溢れる作風、テクニカルな中にも抒情性を湛えたヒューマンな演奏は、1960年代のジャズが持っていたエモーショナルで熱量が高く、ある種の混沌とした空気を一変させ、1970年代の新しいジャズの到来を告げた。表題曲や “ラ・フィエスタ” におけるスペイシーでマジカルな音の洪水が流れ出す光景は圧巻であり、一方で “ホワット・ゲーム・シャル・ウィ・プレイ・トゥデイ” でのラブリーで素朴な味わいも印象に残る。そして “ラ・フィエスタ” に見られるチックのルーツであるスパニッシュ~ラテン風味、アイアートやフローラ・プリンらによるブラジル的アクセントもグループの持ち味で、ジャズとさまざまな音楽的要素の融合であるフュージョンという方向性を示したと言える。このように演奏だけでなく、作曲やアレンジ、コンセプト・メイクなどにまたがるプロデューサー感覚は、ハービーと同じくマイルスのもとで身につけたものであり、1970年代のジャズを語る上で欠くことのできない資質でもあった。
1973年に発表した『ライト・アズ・ア・フェザー』はグループの最高傑作に位置付けられる作品で、“アランフェス協奏曲” のフレーズを用いた “スペイン”、フローラもソロで取り上げる “500マイルズ・ハイ” やブラジリアン調の “キャプテン・マーヴェル” など、チックの代名詞的な作品が並ぶ。中でもフローラが歌う “ユー・アー・エヴリシング” の幻想的な中から優美に飛翔していく、夢と悦びと希望に満ちた演奏は筆舌に尽くしがたいものがある。
アルバム発表後はアイアートとフローラが脱退し、その後メンバー・チェンジを経てレニー・ホワイト、ビル・コナーズが参加したRTF第2期を迎える。チック、スタンリー、ビル、レニーのラインナップで『ヒム・オブ・ザ・セヴンス・ギャラクシー(第7銀河の賛歌)』(1973年)を発表。グループとしてはジャズ・ロック化が進み、ダイナミックでパワフルな表現力が増す一方、チック本来のメロディアスで官能的な表現も兼ね備えた演奏となっている。次作『ホエア・ハヴ・アイ・ノウン・ユー(銀河の輝映)』(1974年)ではビルに代わってアル・ディ・メオラが参加し、彼の12弦ギターを用いた洗練された演奏がグループの売りのひとつとなる。テクニカル面でも最高を極めた時期であり、続く『ノー・ミステリー』(1975年)でグラミー賞のベスト・ジャズ・インストゥルメンタル・パフォーマンス部門を受賞。名実ともに世界のジャズ/フュージョン界を代表するバンドとなった彼らは『ロマンティック・ウォリアー(浪漫の騎士)』(1976年)を発表。RTF史上もっともテクニカルなプレイが披露されるアルバムであり、プログレ的とも言える作風はジャズ界のみならずロック界にもセンセーションを巻き起こした。
この第2期のメンバーはグループ活動と並行してソロ活動もおこなっており、チックは『ザ・レプラコーン(妖精)』(1975年)を発表。のちに夫人となるゲイル・モランはじめ、生涯の盟友であるスティーヴ・ガッドも参加し、“ルッキング・アット・ザ・ワールド” や “ソフト・アンド・ジェントル” などジャズ・ファンのみならず、広く一般の音楽ファンにアピールするポップな側面も見せる。こうしたいい意味での大衆性やポピュラリティもチックの魅力のひとつで、多くのファンから愛された所以でもある。
その後RTFはさらなるメンバー・チェンジがあり、そしてチック、スタンリー、ゲイル、ジェリー・ブラウン、そして再加入のジョー・ファレルの形で『ミュージックマジック』(1977年)を発表。この第3期はよりファンキーな方向性となっており、最終的にライヴ・アルバムの『ザ・コンプリート・コンサート』(1977年)をもってグループは解散する。後に再結成されているが、1970年代におけるRTFの活動は幕を閉じた。その後チックはソロ活動からビッグ・バンド、さまざまなアーティストとの共演やコラボなど幅広い活動をおこない、おのおのアコースティック・ピアノとエレクトリック・ピアノを使い分け、ときに併用している。作風も正統的なジャズからクラシック、ときにラテンやサンバ、ときにジャズ・ファンクやプログレと幅広く手掛け、晩年まで精力的な活動を続けていたが、私個人ではRTF第1期の活動がもっとも鮮烈に印象に残る。
チックは最終的に自分の死期を悟って受け容れていたようで、フェイスブックに生前最後となるメッセージを残している。それをもってこの追悼文を終えたい。「私と旅を共にし、音楽の火を明るくともし続けることに協力してくれたすべての人に感謝したい。私の願いは、演奏や制作、パフォーマンスなどをしたいという気持ちがある人には、それをしてほしいということ。自分のためでなくとも、ほかの人々のために。世界にはもっとアーティストが必要だというだけでなく、単に本当に楽しいものなのだから」。
小川充