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RIP

R.I.P 小杉武久

R.I.P 小杉武久

松村正人 Oct 16,2018 UP

永遠のピクニックにでかけた芸術家の背中をみおくる

 小杉さんの訃報に接して、どこからともなく聞こえていた風の便りのようなことも総合して、ああやはりそうだったのかと思う反面、心のなかにぽっかりと開いた穴を、便りをもたらせた風が音を立てて吹き抜けるような奇妙な感覚はいまもつづいている。小杉武久という芸術家の存在は巨大でひきかえがきかない。すくなくとも私にとってはそうだ。ケージやマース・カニングハム、フルクサス、タージ・マハル旅行団、グループ・音楽――現代音楽、現代アートうんぬんという教科書的な話はさておき、機会あるかぎり足を運んだその演奏はおおらかでありながら無骨で音そのものをその場に投げ出すようでありながら、メガネの奥の演奏家のまなざしは音の行方を見守り、耳はおそらく空間全体に指向性を注いでいた。ヴァイオリンであれエレクトロニクスであれ、インストラクション(ことばで行為などを指示する作曲作品)であれ、音は演奏の場に観念をともなった生成し、しかしその観念は主情的なものではなかった。すなわち他者をつねに期待していた、そのような音楽の在り方を小杉武久は芸大楽理科に入学してしばらくしたころにもう予感しており、1958年に水野修孝とはじめた即興演奏のこころみに最初に結実した。

 うすぐらい芸大の構内の一角ではじまった即興デュオに、翌年から翌々年にかけて、塩見千枝子(現・允枝子)、戸島美喜夫、柘植元一と刀根康尚らが加わり、学外のイベントに参加する必要から集団がグループ・音楽をはじめて名乗ったのは60年8月、この日本でおそらく最古の純粋な即興による音楽集団はそのように誕生し、六一年九月の草月ホールでの「即興音楽と音響オブジェのコンサート」をひとつの境に即興の方法をこころみる集団から自律した個々の芸術家の集まりに変容していく。

 60年代は小杉が海外への足がかりを築いた時代で、米国留学から帰国した一柳慧や、ジョン・ケージ(とカニングハムとラウシェンバーグ)の来日公演への参加や、邦人アーティストの海外渡航があいつぎ、フルクサスの首謀者ジョージ・マチューナスから招待状をうけとるにいたって、小杉も六五年にニューヨークに渡ることになる。二年におよんだ米国での活動は、フルクサス的反芸術性に則ったインストラクションないし行為芸術的な作品が中心だったが、代表作のひとつである「マノ・ダルマ、エレクトロニック」も滞在中にかたちになった。この作品は、天井から吊した複数のラジオや送信機が、来場者がドアの開閉や移動によりひきおこす会場内の空気の動きや、送信機を吊す糸の捩れが戻ったりすることで、多様なヘテロダイン効果を生むインスタレーション作品であり、波長、波動、波紋としての音の考え方は無意識を発見する方法としての即興であるキャッチ・ウェイヴとして七五年のアルバムで音楽に(原点)回帰する。すでにそのとき、タージ・マハル旅行団は、日本から欧州へ、さらにインドのタージ・マハルに到達しそこで24時間をすごし、その役割をまっとうしたが、木村道弘、小池龍、土屋幸雄、永井清治、長谷川時夫、林勤嗣ら非音楽家をふくむ彼らは70年代という日本におけるサイケデリック・エラを代表する集団としていまでも海外でもつとに知られている。タージ・マハル旅行団の演奏には、71年から75年にかけての実況盤でふれることができるが、重なり合う音のなかで起点も終点もなく伸縮する時間の扱い方は同時代の作品でも抜きん出ている。小杉自身はのちにその時代性のつよさを忌避するようにもなったが、私は純粋に即興演奏としてもフリージャズやフリーインプロヴィゼーションが弁証法の行程できりすてたもの、そもそも最初から問題にしなかったもの、できなかったものが、小杉武久の即興にはあっけらかんとしてのこっている、それが好きなのだ。演奏家としての小杉武久はこれからかならずや光があたるだろう。作品がすくないのはいくらか残念ではあるけれども、それもまた音楽は固定したものではなく、いまここにたちあがるという意思なのかもしれない。だから音楽であれアートであれ、その場に足を運ばねばならない。これは自分への戒めでもある。

 しかし私が小杉さんの生前最後の展覧会となった芦屋市立美術博物館での〈音楽のピクニック〉展に出かけたのは会期末が二日後にせまった2018年2月10日だった。その日の朝石牟礼道子さんの訃報があった。私はもちだした『西南役伝説』を読んで道中をすごした。新大阪から在来線に乗り換えて芦屋に着いたときは大粒の雨で、降車したバス停から美術感に歩くまでに濡れネズミになった。さいわいエントランスで小杉さんのマネジメントをつとめるHEARの岡本隆子さんにお会いし、この日展覧会の付随企画である小杉さんが音楽にたずさわった映画の上映会で司会をするのに訪れた川崎弘二さんにとも、すこしだけだけ話をした。思えば、川崎さんと知り合ったのも、雑誌編集者だったころにお願いした小杉さんのインタヴューだった。

 間宮芳生の音楽の手助けをした松川八洲雄監督の「ある建築空間」や久高島のイザイホーの記録映画資生堂の科学映画など五作品を鑑賞し、会場を巡ると、そこには写真やポスターなどで小杉さんの活動をふりかえる展示がつづいている。グループ・音楽からニューヨーク時代、タージ・マハル旅行団と、後期の軸のひとつだったマース・カニングハム舞踊団での活動など、小杉武久にまつわる人名や出来事の数々はそのまま60年代以降の(反)芸術の記録といっても過言ではなかった。「マノ・ダルマ、エレクトロニック」や「インタースパージョン」系の作品をふくむ10点のサウンドインスタレーションには作者の考えや感覚が擬態したかのようで、かすかな音や事物の動きはまるで演奏だった。思わず聴き入ってしまって、ふと気づけば閉館時間もちかく、結局数人で乗り合わせて芦屋の駅まで車でむかったのだが、岡本さんに車中でうかがったエピソードが私は忘れられない。

 ニューヨークにいたころのある日、ナム・ジュン・パイクが手に半ダースの無花果(イチジク)を提げて、小杉さんも参加していた集まりの席にやってきた。めずらしいものをみつけたよ、こっちではなかなか手に入らないからね、と部屋にいた数人にイチジクを示しながら、みんなで食べるのに買ってきたのだなと思う彼らを尻目にパイクさんは全部平らげたのだという。まるでフルクサス的な出来事(イヴェント)だと思ってしまうのは、そこにそのようなものをみようとするからなのか。日常がアートになり、楽器が実物に事物が音具になるとはどういうことなのか。その問いかけをのこし小杉武久は永遠のピクニックに旅立った。

 遠ざかる背中をみおくりながら私は小杉さんのインストラクション作品を思い出す。1963年の「THEATRE MUSIC」。演奏者(行為者)に以下の行為を指示した作品である。

Keep walking intently.

 きょうはみなさんと一緒にこの曲を「演奏」しながらだれもほかに喩える術をもたない唯一無二の芸術家を偲びたい。(了)

松村正人

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