Home > Interviews > interview with Downy - インド、ビートルズ、沖縄、朔太郎。
踊らない身体
僕はだから、踊らないんですよ。
■なるほど。いっぽうで音楽的な意味でこの10年を見てみますと、2000年代の初頭は、まだポストロックっていう言葉が機能していたと思うんですけども、その状況は変わりましたね。つい最近だったらアンビエントとかドローンとかダブとかに影響力があるように、構築性の高さやバンドのセッションのダイナミズムみたいなものよりも、どちらかといえば、そういうものを解体していく流れっていうのがこの10年を作ってきたようにも感じます。ダウニーの方向性と世間の流れみたいなものとを比べたり、あるいはそこで迷ったりってことはありましたか?
青木:新作に関してってことですか?
■そうですね。
青木:3年ぐらい前から、僕はもう一回曲作りしようと思って――まあもとからちょこちょこ家で触ったりはしてたんですけど、ほんと趣味程度にはやっていて。なんというか、音楽をほんとに「聴く」耳にやっと戻ったんですね。自分の飲食店で流す音楽を、当時は絶対聴かなかったカフェで流れるような音楽にしたりとか。やっぱり心地いいんですよね、そこでコーヒーを飲むと(笑)。それが居心地の良い空間を作ってあげるという、自分のひとつのデザインであり、作品でもあるので……。飲食店という仕事においては、ですが。沖縄に移り住んで、海沿いでレッチリ聴いたりして、「気持ちいいなー、レッチリ。やっぱ海沿いなんだなー」とか(笑)。
■(笑)
青木:なんだろうな、ほんとに作り手の耳ではなくなって。沖縄ではクラブ関係者の友だちが多いんですが、その子たちのイヴェントに行っても、「いまかかったの何!?」じゃなくて、「あー気持ちいいなー」みたいな、やっとそういう風に音楽が聴けるようになってですね。僕は、自分で音楽をやろうと思ったときから、聴き方が全部「あれは何の音だ、何のエフェクターだ」っていうふうになっていたので……。ほんとに単純に、子どもといっしょに子どもの音楽を聴いたりして、「俺もこんなの聴かされたんだろうな」とか思ったりするようになったし、音楽って、みんなにとっては生活にもっと密接したものだし、そのときそのときでチョイスするものなんだっていうことがようやくちゃんと理解できて。
ダウニーの制作の話に戻ると、僕の作る音楽はもともとやりたいことが明確にあるので、最初は全部打ち込みで作ったものをメンバーにやってもらおう、ぐらいのつもりで、デモをバーッと作りました。じつはEDMの要素も少し入っていたんですけど、メンバーと話して、ダウニーってバンドでそれをやると、なにか古い音楽になってしまうんじゃないかっていうことで、一回解体して。で、今度はスタジオ・セッションをメインに構築していきました。だけど、それはそれで前のままじゃないかと。それで、いまの形になりました。データのやり取りをする。僕が、もらったデータをどんどん曲にしていって、投げて、もう一回作り変えてもらって、みたいなやり方です。
肉体とエレクトロニックの狭間といいますか、そういうものを作りたくてですね。今回悩んだってところは、すごくボツったことですかね。30曲ぐらい書いて、残った曲でやっているんです。もはやネタになってますけど、自分のなかでは7枚目のアルバムにしたいぐらいの心境です、はい。
僕らメンバーがいちばん「ダウニーはこうだ」って決め込んでいるのかもしれません。
■へえー! いまエレクトロニックっていう言葉が出てきましたけど、たしかにキーになっている音楽性ですよね。65デイズオブスタティックとかは、やっぱり一時代を作ったと思うんですけど、ポイントだったのはやっぱりそこにエレクトロニックなものが介在していたことです。ポストロックって、エモに行くものもあれば、フィジカルをストイックに追求したマス・ロックみたいなものもあれば、ハードコア・パンクの流れ――ビッグ・ブラックとか、シェラックとか――から続くものもありますよね。そんななかで、65デイズオブスタティックはすこし違う身体性を持ってたと思うんですよ。あるいは、ダウニーっていうバンドも。そのエレクトロニックっていう部分に寄っていったきっかけというか、アイデアみたいなものについてお訊きしたいです。何かに触発されたものなんですか?
青木:僕が若い頃からクラブにしか足を運ばない人間になっていたので、結局自分の身体に入ってくるものがすんなり出てくるんですね。父親がヒップホップのお店をやっていたりとか、いろいろ経緯もあるんですけど。
野田:すごいですね、それ。お父さんが?
青木:そうですね(笑)。インド人なんですけど。
野田:へえー!
■青木さんは沖縄で育って、お父様がインドの方で、ヒップホップのお店をやってらっしゃってという、けっこうルーツとしては複雑な方なんですよ。
野田:すごいよ。
青木:そうなんです。で、母がビートルズの追っかけだったんで。家では小さいときからビートルズやドアーズが流れていました。そのあたりの洋楽は普通に……まあ5歳まで香港に住んでいたので、イギリス圏だったということもあって、テレビでずーっとビートルズとかのPVが流れているようなチャンネルがあったので。それ観て、意図せずにそうした音楽が入ってきましたね。
で、クラブ・カルチャーにすごく傾倒する時期があって、自分はバンドマンとしてどうやってそれを表現していくかっていうことを、すごく考えたんです。それが結果としてダウニーの曲の作り方になっていますね。けっこう早い段階から、僕らは周波数の場所を決めてアレンジしていこうとか、そういう考え方をしていたので。当時、時代はシューゲイザーがガーッと音の壁を作って、みたいな感じだったんですけど、それはげんなりしていました。もっと音数が少なくていい。で、やっぱりミニマルですよね。それが大事だった。それを生でやるからこそ、体感できるリズムやノリがあるし、重ねれば重ねるだけ熱量が上がっていく。まあ、いまはPCでもそれができるんですけど、昔はもっとダンス・ミュージックの熱量が楽器によってプラスされていましたね。人間だからできることというか。僕らはずっとそれをやり続けて、いまに至っています。
■ダンス・ミュージックがいかにダウニーの音楽にとって大きな要素であるかということはわかったんですが、たとえばダウニーの変拍子とかって、もっと身体をがんじがらめにするようなものなのかなってイメージがあったんですね。もともとすごくストイックなバンドという思い込みがあったので、そういうクラブ的なルーツには意外な感じがしました。
青木:僕はだから、踊らないんですよ。
■あ、そうそう! わかります(笑)!
野田:(笑)
青木:とりあえず聴いていればいい、っていう、なんかそんな感じでした。
■ああー。先ほどから、青木さんがすごくしっかりとしたお考えと哲学をお持ちの方なんだということに感銘を受けまくっているんですが、遊び心みたいなことでいうと、あんまり感じないというか、すごくマジメな印象を受けますね――。
青木:そうですね(笑)。それが悪いところでもあり(笑)、まあいいところでもあると思うんですけど。
■実際に悪いと思ってらっしゃるんですか?
青木:そうですね。
■へえー。
青木:遊びの成分を入れてみたりするんですけどね。
■その遊びが「音の周波数」だったりすると、あんまり遊びって感じじゃないですけど(笑)。
青木:今回クラップが途中まであったんですけど、やっぱり結果的に「うーん、いらない」ってことになって。ミックスの最後の最後になくなっちゃったりとかしましたね。
■それを削いでいくのはやっぱり、みなさんのマジメさなのでしょうか?
青木:まあたぶん、僕らメンバーがいちばん「ダウニーはこうだ」って決め込んでいるのかもしれません。
■ああ、なるほど。
青木:「これはダウニーじゃない」「これはダウニーだ」みたいな。とくに彼らはずっと東京でミュージシャンをやってきて、周りからの反応をずっと感じてるんだと思うんですね。「こうだった、こう思ってた」とか。僕は逆にずっと離れていたので、そうでもありませんでした。まあ、ほんとにたまに、沖縄の店にも「ダウニー好きだったんですよ」って言って来てくれる子がいたりするくらいで。ダウニーTシャツを着たお客さんが来て、「カフェ、こういう感じなんですね」みたいなひとコマがあったり(笑)。なんかちょっと違う、みたいな顔されたりするんですけど(笑)。
■はははは! ちょっと開放的な感じとかが。
青木:自分はそこまでないんですが、メンバーのほうにはもうちょっと「ダウニーらしさ」っていうものがあるみたいですね。ダウニーっていうのはこうです、って。
■じゃあほんとに、この9年というのは、自分たちを客観的に見て対象化するとともに、音楽とも出会い直すような時間だったんですね。
青木:そうですね。そうだったと思います。
取材:橋元優歩(2013年11月28日)