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UKダブのレジェンドのひと組、昨年みごと復活を果たしたクリエイション・レベル。その歴史をたどるのにうってつけのCDボックスセットが〈On-U〉より発売される。題して『High Above Harlesden 1978-2023』。エイドリアン・シャーウッド初のプロデュース作品にあたる『Dub from Creation』(1978)からレアで高額だった『Close Encounters of the Third World』(1978)、代表作『Starship Africa』(1980)はむろんのこと、最新作『Hostile Environment』(2023)まで6作を収録。ブックレットには貴重な写真も掲載されているそう。詳しくは下記より。
CREATION REBEL
エイドリアン・シャーウッド主宰の〈ON-U SOUND〉が
クリエイション・レベルの豪華CDボックスセット
『High Above Harlesden 1978-2023』と
アナログ盤再発を発表
エイドリアン・シャーウッド率いる〈On-U Sound〉が、故プリンス・ファー・ライのバックバンドを務め、ザ・クラッシュ、ザ・スリッツ、ドン・チェリーらとステージを共にしてきたクリエイション・レベルの偉大なる歴史を詰め込んだ豪華CDボックスセット『High Above Harlesden 1978-2023』のリリースを発表! 待望のアナログ盤再発も決定した。
Creation Rebel - High Above Harlesden 1978-2023
YouTube >>> https://youtu.be/lw0SROhafOE
元々は、若きエイドリアン・シャーウッドが初めてのアルバム・レコーディング・セッションを実現するためのスタジオ・プロジェクトとして結成し、そこから名盤『Dub From Creation』が誕生した (UKレゲエ/ダブ・ミュージックのもう一人の巨匠、デニス・ボヴェルがエンジニアを担当)。
そこからプリンス・ファー・ライのツアー・バンドとして活躍すると同時に、バンド・リーダーであり中心的存在であるクルーシャル・トニー・フィリップスを中心にUKダブ/レゲエのシーンを語る上で欠かすことのできない重要作品をリリースしてきた。ベースのリザード・ローガンが投獄され、プリンス・ファー・ライが殺害されるという悲劇に見舞われた後、バンドは1980年代半ばから長期にわたって活動を停止するが、2017年、エイドリアン・シャーウッドのプロジェクト、シャーウッド・アット・ザ・コントロールのロンドン公演のために再結成。そしてエイドリアンとともにバンドはスタジオに戻り『Hostile Environment』を完成させた。クルーシャル・トニーは現在もバンドを率い、チャーリー・エスキモー・フォックス、ランキン・マグーとともに活動を続けている。
今回の再発企画では、『Dub From Creation』や『Starship Africa』といった1970年代後半から1980年代前半にかけてリリースされたUKダブ/レゲエを代表する名作5枚がフィーチャーされ、ファン垂涎のレア盤『Close Encounters of the Third World』を含め、5タイトルがアナログ盤で再リリースされる。またそれらの5タイトルに昨年40年振りにリリースされた最新アルバム『Hostile Environment』を加え、一つの作品としてまとめた6枚組CDボックスセットも同時発売される。CDボックスセットには、36ページのオリジナルブックレットが封入され、国内流通仕様盤はブックレット対訳/解説書付きとなる。
CDボックスセットのタイトル『High Above Harlesden 1978-2023』は、バンドが活動をスタートしたロンドン北西部の労働者階級地域に敬意を表してつけられている。
昨年、40年振りに届けられたアルバム『Hostile Environment』は、DJ Mag、The Quietus、The Wire、その他多くのメディアによって、2023年を代表する一枚として賞賛された。今回の企画は、〈On-U Sound〉の人気再発シリーズの最新プロジェクトとなっており、これまでにアフリカン・ヘッド・チャージ、ダブ・シンジケート、ニュー・エイジ・ステッパーズの再発に続くものである。

Dub From Creation (1978)
UKダブの総帥エイドリアン・シャーウッドによる最初のスタジオ作品。エンジニアはデニス・ボヴェル。ドラムはブラック・ルーツ・プレイヤーズのエリック ‘フィッシュ’ クラークで、レゲエのスーパースター、ジョニー・クラークの弟である。オリジナル・リリースは〈On-U〉の前身となる伝説的レーベル〈Hitrun〉より。
Close Encounters Of The Third World (1978)
ジャマイカのチャンネル・ワン・スタジオで録音され、ロンドンでプリンス・ジャミーがミックスした、クリエイション・レベルのカタログの中で最も人気のあるタイトル。
中古市場においてはコンディションの良い中古盤は超高額で取引されている。オリジナル・リリースは〈On-U〉の前身となる伝説的レーベル〈Hitrun〉より。
Rebel Vibrations (1979)
伝説的なルーツ・ラディックスのドラマー、リンカーン・“スタイル”・スコットをフィーチャーした、オリジナル・リリース以来入手不可能な、ヘヴィなベースラインとビッグ・チューンの正統派コレクション。オリジナル・リリースは〈On-U〉の前身となる伝説的レーベル〈Hitrun〉より。
Starship Africa (1980)
ダブのクラシック作品。惑星間サウンドエフェクト、星の彼方から聞こえてくる幽霊のような声、そして鳴り響くパーカッション。ルーツ・ラディックス、ミスティ・イン・ルーツ、プリンス・ファー・ライ・アラブスのメンバーが参加。近年ではMojo MagazineのHow To Buy... On-U Sound特集で、全カタログの中で最もお薦めのリリースとして第1位に選ばれた。
オリジナル・リリースは〈On-U〉の前身レーベル〈4D Rhythms〉より。
Psychotic Jonkanoo (1981)
ジョン・ライドン(セックス・ピストルズ、パブリック・イメージ・リミテッド)のバッキング・ヴォーカルをフィーチャーし、伝統的なジャマイカのルーツ・レゲエにUKらしい実験的なアプローチを取り入れた結果、独特のハイブリッド・サウンドが生まれた。
Hostile Environment (2023)
40年以上にわたる宇宙からの追放から帰還したバンドによる凱旋セット。クルーシャル・トニー、エスキモー・フォックス、ランキン・マグーのトリオは、プロデューサーのエイドリアン・シャーウッドと再結集し、ヘビー級のダブワイズ・リズムに現代的なスピンを加えた。
High Above Harlesden 1978-2023
上記の全アルバムを収録した6枚組アンソロジー・ボックス・セット、貴重な写真やライナーノーツを収めた36ページの豪華ブックレット、ボーナス・トラック7曲収録。

label: On-U Sound
artist: Creation Rebel
title:High Above Harlesden 1978-2023
release: 2024.03.29
CD Box Set 国内仕様盤:
(6枚組/解説書付き/38Pブックレット封入)¥8,000+tax
CD Box Set:
(6枚組/38Pブックレット封入)¥7,500+税
https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=13905
TRACKLISTING
DISC 1 (Dub From Creation)
01. Dub From Creation
02. Basic Principals
03. Rebel Rouser
04. Creation Vibration
05. Creation In A Iration
06. Dub Fusion
07. Mirage
08. Liberation
09. Rising Star
10. Vision Of Creation
11. Frontline Dub
DISC 2 (Close Encounters of the Third World)
01. Know Yourself
02. Conspiring
03. Beware
04. Dangerous And Deadly
05. Shouldn’t Do That
06. Creation Fever
07. Natty Conscience Free
08. Joyful Noise
DISC3 (Rebel Vibrations)
01. Rebel Vibration
02. Jungle Affair
03. Hunger And Strife
04. Ian Smith Rock (Dub)
05. Diverse Doctor
06. Mountain Melody
07. Black Lion Dub
08. Doctor’s Remedy
DISC4 (Starship Africa)
01. Starship Africa Section 1
02. Starship Africa Section 2
03. Starship Africa Section 3
04. Starship Africa Section 4
05. Starship Africa Section 5
06. Space Movement Section 1
07. Space Movement Section 2
08. Space Movement Section 3
09. Space Movement Section 4
10. Creation Rock
11. Give Me Power
12. Original Power
DISC5 (Psychotic Jonkanoo)
01. The Dope
02. African Space
03. Chatti Mouth / Threat To Creation
04. Highest Degree
05. Mother Don’t Cry
06. Yuk Up
07. Drum Talk
08. Independent Man
09. Creation Rebel
10. Monkey Grinds The Organ
DISC6 (Hostile Environment)
01. Swiftly (The Right One)
02. Stonebridge Warrior
03. Under Pressure
04. That’s More Like It
05. Jubilee Clock
06. This Thinking Feeling
07. Whatever It Takes
08. Salutation Gardens
09. Crown Hill Road
10. The Peoples’ Sound (Tribute To Daddy Vego)
11. Off The Spectrum
ドキュメンタリーに伝記映画、ライヴ映画など、近年ますます秀作が公開されている音楽映画を一挙紹介!
3月公開の『モンタレー・ポップ』とフェス映画の系譜
インタヴュー
ピーター・バラカン──音楽映画祭を語る
大石規湖(映画監督)
『ムーンエイジ・デイドリーム』『ストップ・メイキング・センス』などのロックの映画を中心に、『サマー・オブ・ソウル』や『白い暴動』、『自由と壁とヒップホップ』といった社会派音楽ドキュメンタリーまで、近年盛り上がりを見せる音楽映画の秀作・傑作を大紹介!
目次
巻頭特集 『モンタレー・ポップ』
Review ポップ・カルチャー史のエポックとなった伝説のフェス──『モンタレー・ポップ』 柴崎祐二
Column フェス映画の系譜 柴崎祐二
Interview
ピーター・バラカン さまざまな場所、さまざまな音楽──音楽映画祭をめぐって
大石規湖 「そこで鳴っている音にいかに敏感に反応できるか」
Review
マニアも驚かせた大作ドキュメンタリー──ザ・ビートルズGet Back』とビートルズ・ドキュメンタリー映画 森本在臣
断片の集成から浮かび上がる姿──『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・ デイドリーム』とデヴィッド・ボウイ映画 森直人
説明の難しい音楽家──『ZAPPA』 てらさわホーク
微笑ましくも豊かな音楽とコント──『フランク・ザッパの200モーテルズ』 てらさわホーク
伝記映画の系譜──『エルヴィス』ほか 長谷川町蔵
トム・ヒドルトンが演じるカントリーのレジェンド──『アイ・ソー・ザ・ライト』 三田格
ザ・バンドを語る視線──『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』 柴崎祐二
今こそ見直したい反時代性──『クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル トラヴェリン・バンド』 柴崎祐二
ヴェルヴェッツを取り巻くNYアート・シーン──『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド』『ソングス・フォー・ドレラ』 上條葉月
1984年と2020年のデヴィッド・バーン──『ストップ・メイキング・センス』『アメリカン・ユートピア』 佐々木敦
メイル兄弟とエドガー・ライトの箱庭世界──『スパークス・ブラザーズ』 森直人
パンクが生んだ自由な女たち──『ザ・スリッツ:ヒア・トゥ・ビー・ハード』 上條葉月
セックス・ドラッグ・ロックンロールに明け暮れた栄枯盛衰──『クリエイション・ストーリーズ 世界の音楽シーンを塗り替えた男』 杉田元一
アウトロー・スカムファック(あるいは)血みどろの聖者に関する記録『全身ハードコア GGアリン』+『ジ・アリンズ 愛すべき最高の家族』 ヒロシニコフ
改めて注目を集めるカルト・クラシック──『バビロン』野中モモ
甦る美しき革命の記録──『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』 シブヤメグミ
帝王の孤独──『ジェームス・ブラウン ~最高の魂(ソウル)を持つ男~』三田格
総合芸術としてのヒップホップ──『STYLE WARS』 吉田大
壁の向こうの声に耳を傾ける──『自由と壁とヒップホップ』 吉田大
ショーターの黒魔術に迫る──『ウェイン・ショーター:無重力の世界』 長谷川町蔵
ジョン・ゾーンのイメージを刷新する──『ZORN』 細田成嗣
ルーツ・ミュージックのゴタ混ぜ──『アメリカン・エピック』 後藤護
シンセ好きの夢の空間──『ショック・ドゥ・フューチャー』森本在臣
フィジカル文化のゆくえ──『アザー・ミュージック』 児玉美月
愛のゆくえ──『マエストロ:その音楽と愛と』杉田元一
徹底した音へのこだわりによるライヴ映画──『Ryuichi Sakamoto: CODA』『坂本龍一 PERFORMANCE IN NEW YORK : async』 杉田元一
失われた音楽が甦る瞬間──『ブリング・ミンヨー・バック!』 森本在臣
スペース・イズ・ザ・プレイス —— 渋サ(ワ)知らズと土星人サン・ラーが出逢う「場」──『NEVER MIND DA 渋さ知らズ 番外地篇』 後藤護
生きよ堕ちよ──『THE FOOLS 愚か者たちの歌』森直人
コロナ禍におけるバンドと生活──『ドキュメント サニーデイ・サービス』 安田理央
天才の神話を解いて語り継ぐ──『阿部薫がいた-documentary of kaoru abe-』 細田成嗣
坂道系映画2選──『悲しみの忘れ方 documentary of 乃木坂46』』『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』 三田格
勢いにひたすら身を任せる──『バカ共相手のボランティアさ』 森本在臣
Column
政治はどこにあるのか 須川宗純
ポリスとこそ泥とスピリチュアリティ──レゲエ映画へのイントロダクション 荏開津広
映画監督による音楽ドキュメンタリー 柴崎祐二
歌とダンスの(逆回し)インド映画史 須川宗純
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お詫びと訂正
このたびは弊社商品をご購入いただきまして誠にありがとうございます。
『ele-king cine series 音楽映画ガイド』に誤りがありました。
謹んで訂正いたしますとともに、お客様および関係者の皆様にご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。表紙
誤 大石紀湖
正 大石規湖
意識せずともいつの間にやら季節は過ぎて、サウス・ロンドン界隈のバンドも気がつけばポスト・パンクよりもフォークのアプローチをとるようなバンドが増えてきている。こういうのは徐々に変化していくものだからどのタイミングでこうなったのかはっきりとした答えは出ないものだけど、しかし2022年にキャロラインの1stアルバムが出たというのはひとつのターニング・ポイントだったのではないかと思う。そもそもそれが受け入れられる土壌があったということで、やはりロックダウンを経て音楽を作る側のみならず聞く側の心境を大きく変えたのかもしれない(デスクラッシュのギタリスト、マット・ワインバーガーが20年の『ラウド・アンド・クワイエット』のインタヴューで「世界が僕たちの音楽に合うように変化した」と表現していたことをよく覚えている)。塩分をとり過ぎた体が水を求めるように、鋭く性急な音楽よりも、心がゆったりとした慈しみのある音楽を求め、そんな音楽を奏でるバンドをよりいっそう魅力的にしているのかもしれない。それこそキャロラインもそうだがフォークそのものではなく、フォークのフィーリングを取り入れて他の要素と混ぜ合わせたような音楽をやっているというのもミソだ。古きに学び新しさに変えていく、そんなインディ的な精神はもちろんこの流れのなかでも発揮されている。なにはともあれ空気はすっかり変わった。
サウス・ロンドンを拠点に活動する6人組テイパー!はまさにこの文脈にあるバンドだ。鼻の飛び出た揃いの赤いなんだかわからない覆面をして、なんだからわからないポーズをとったアーティスト写真から興味を持って(夜の闇と鮮やかな赤のコントラストがなんとも魅力的だった)、22年にデビュー作「Act 1 (The Pilgrim)」を聞いたのだけど、その音楽は写真同様に不思議な感覚に陥るような音楽だった。ジム・オルークの『Eureka』を彷彿とさせるようなフォーキーで柔らかな感触と、子どもの頃に見た紙芝居や人形劇を思い出すようなノスタルジーを感じるサウンドがなんとも優しく交じり合い、そしてなんとも優しい心持ちにさせてくれたのだ。
そのEPはまるごとこの1stアルバムに収録されている。「Act 1 (The Pilgrim)」というタイトルが示すようにEPの音楽をひとつの塊とし、それを三部構成の物語としてとらえアルバムとしてまとめあげている。“Act 1 (The Pilgrim)”、“Act 2 (Their God)”、“Act 3 (The King Of My Decrepit Mountain)”、章のはじまりのそれぞれにフィールド・レコーディングされた物音とリトル・ウイングス、カイル・フィールドによるナレーションが挟まれて物語へと導く道筋が語られる(それはちょっと想像力を刺激するラジオドラマみたいにも思える)。ジャケットにも描かれ、またかぶり物にもなっている赤い奇妙な生き物ピルグリムが緑の丘の上で仲間の声を聞き、引き寄せられるように巡礼の旅に出て不気味な森や山々を駆け巡り、海を渡り、神秘的な風景の中を冒険するという物語、それがアコースティック・ギター、ピアノ、コルネット、サックス、チェロなどの楽器を使い柔らかに語られる。壮大な物語だが、テイパー!の音楽は丸っこいキャラクターが活躍するアニメのように親しみやすく、やたらとノスタルジックで、日常の愛おしさを感じてたまらなくなるほどに優しい。
オープニング・トラック “Act 1 (The Pilgrim)” のつま弾かれるギターとピアノの絡み、そしてハミングからしてそれがにじみ出ているし、“Swallow” の繰り返しのなかで響くファルセットの歌声はやはり郷愁をこれでもかとかき立てる。海へ出たAct 2、“Broken Ark” ではギターを歪ませ、ストリングスのフレーズとベースでひとり孤独の航海を続けるピルグリムの姿を描き出す。ひとりではいたくないから、だから誰かのいる場所へと彼は向かうのだ。
Act 3の “My God” はまた素晴らしく胸を締めつける曲だ。それまでの神秘的な世界を離れたモノにまみれた物質的な世界での冒険で、あるいはそれはピルグリムの見た夢(その夢の世界こそがきっと我々の生きる現実だ)なのではないかという考えが浮かぶが、とにもかくにもiPhone 6、ヒューゴ・ボスの時計、メイベリンといった名前の羅列が日常へと続く道筋を作り上げこれでもかと心をくすぐり続ける(思い出と結びつくモノ。消費主義の現実のなかで、しかし我々はモノに愛を感じて生きてもいる)。この曲もそうだが “On A Grassy Knoll (We'll Be Together)” や “Swallow”、“Mountain Song” などの楽曲でドラムマシンと組み合わせていることもこの不思議な旅の奇妙な感触を強めているのかもしれない。柔らかく丁寧に積み重ねられる繰り返しのフレーズとコーラス・ワーク、そしてわずかな異物感がこの旅を味わい深いものにしているのだ。
このアルバムをプロデュースしたのがハニーグレイズの Yuri Shibuichi であるというのもまた注目すべき点だろう。彼は高い関心を集めている新人バンド、メアリー・イン・ザ・ジャンクヤードの曲のプロデュースもしておりバンド活動のみならずプロデューサーとしても今後ロンドンのインディ・シーンで存在感を放っていくようなそんな気配が感じられる(ロイル・オーティスや Vijin などダン・キャリー関連のアーティストのレコーディング時に呼ばれ、しばしばドラムを叩いているということもこうした活動と無関係ではないだろう)。本作でもジャケットに描かれている広がる草原のような音象を作り上げ、手作り感を残したままに、この絵本のような不可思議な世界の広がりを表現するのに大きな役割を果たしている。
あぁそれにしてもこのアルバムに聞いたときにやってくる感情はなんなのだろう。聞くたびに胸が締めつけられるようなノスタルジー、ジワジワと湧き上がってくるような愛おしさ、ちょっと哀しくだけども優しく包み込むように音楽が鳴り響いていく。現実から引き継がれた寓話の世界のフォークロアのようなおとぎ話のなかにあるリアル、優しい色使いの世界の中でテイパー!は日常に接続する感情を描いているように僕には思える。音楽だけにはとどまらないというこのプロジェクトがこの先どんな風に変化していくのか楽しみで仕方がない。
昨年は新作『Fine Tune』をリリース、来日公演もおこなわれたLAのマルチ奏者テラス・マーティン。彼が率いるバンドがグレイ・エリアだ。そのライヴ・アルバムが3月6日にリリースされる(LPは6月5日)。収録されるのは2020年に配信限定で披露された音源で、なんとカマシ・ワシントンがゲスト参加している。ジャズのライヴの魅力が詰まった1枚、チェックしておきましょう。
テラス・マーティン率いるバンド、グレイ・エリアが2020年に行ったライヴの模様を収録した配信限定ライヴ・アルバムが待望のフィジカル・リリース! ケンドリック・ラマーの名曲“For Free?”の超熱演ジャズ・カヴァーや、カマシ・ワシントンがゲスト参加した20分越えの絶品ジャム・セッションなど、現行ジャズにおける最高峰のライヴ・パフォーマンスがここに!
ロバート・グラスパーとのR+R=Nowや、同じくグラスパーに、カマシ・ワシントン、ナインス・ワンダーまで擁するディナー・パーティーと、数々のプロジェクトで現代ジャズの推進に余念がないテラス・マーティンが、自らのバンドとして結成した「グレイ・エリア」。そのバンドのお披露目として、2020年にJammcard主催のイヴェント「JammJam」で行ったライヴ・パフォーマンスの模様を収録した配信限定のライヴ・アルバム『Live at the JammJam』が遂にCD、レコードでリリース!!!
テラス・マーティンをリーダーに、ケンドリック・スコットやカマシ・ワシントンの作品で重宝され、自らリーダー作もリリースしている若手最重要ベーシストのジョシュア・クランブリー、ルイス・コールとジェネヴィーヴ・アルターディによるポップ・ユニット:ノウアーのバンド・メンバーでもあるキーボーディストのポール・コーニッシュ、そしてあのサンダーキャットの兄であり、プリンスやカマシのドラマーとして腕を振るってきたロナルド・ブルーナー・JRというジャズ界のキーマンが勢ぞろいしたバンド、グレイ・エリア。
その気になるライヴの内容は?と言うと、2分ほどのイントロを終えた後に突如として始まる“For Free?”で一気に爆発。曲名通り、テラス・マーティン本人がプロデュースしたケンドリック・ラマーの傑作『To Pimp a Butterfly』に収録された名曲“For Free?”のジャズ・カヴァーで、8分を超える超熱演を披露。キーボードのソロ・プレイを前面に押し出した甘味の強いバラード“Great Is Thy Faithfulness”を間に挟みつつ、テラスの盟友、カマシ・ワシントンがゲストとして参加した“Juno”、“Stop Trippin’”の二曲では、なんとどちらも20分近くにも及ぶ白熱のジャム・セッションを繰り広げる。これぞまさにジャズのライヴの魅力が120%パッケージされた極上のライヴ・アルバム!
「Juno feat.Kamasi Washington」(ライヴ映像)
https://youtu.be/ZWQ3ANEjTsQ
【Pre-order】
https://p-vine.lnk.to/ghXOiwjl

【リリース詳細】
アーティスト:TERRACE MARTIN'S GRAY AREA / テラス・マーティンズ・グレイ・エリア
タイトル:Live At The JammJam / ライヴ・アット・ザ・ジャムジャム
フォーマット:CD/LP
発売日:CD 2024.3.6 / LP 2024.6.5
品番:CD PCD-25383 / LP PLP-7404/5
定価:CD ¥2,750(税抜¥2,500) / LP ¥6,600(税抜¥6,000)
レーベル:P-VINE
*日本語解説付
【Track List】
1.Intro
2.For Free?
3.Great Is Thy Faithfulness
4.Juno
5.Stop Trippin
【Gray Area】
Terrace Martin - saxophone
Ronald Bruner Jr. - drums
Paul Cornish - keys
Joshua Crumbly - upright bass
Featuring:
Kamasi Washington - saxophone
Ben Wendel - Alto Saxophone
Maurice Brown – Trumpet
【Official】
https://twitter.com/terracemartin
https://www.instagram.com/terracemartin
モスクワのエレクトロニカ・ユニット、Piper Spray & Lena Tsibizova の新作『Debtor of Presence』が、シドニーのエクスペリメンタル・エレクトロニカをリリースする新興レーベル〈Theory Therap〉からリリースされた。
Piper Spray & Lena Tsibizova。その名のとおり Piper Spray と Lena Tsibizova のユニットである。モスクワを拠点とする電子音楽家の Piper Spray は、2011年に、ジャイアント・クローなどのヴェイパーウェイヴ系の音源で知られる〈Orange Milk Records〉から発表した『Omnicrom Girls』あたりから音源のリリースをはじめているので、すでに10年を超える活動歴である。一方、同じくモスクワ出身のフォトグラファー/アーティストでもある Lena Tsibizova は2019年頃から音源のリリースをはじめ、チェコのレーベル〈Baba Vang〉から『3rd Track』を発表している。
ふたりは2020年あたりからコンビを組み、「Air Krew」というユニットで、ロサンゼルスのレーベル〈Motion Ward〉から『Discuss And Come Back』を発表した(2021年には4作ほどリリースする)。Piper Spray & Lena Tsibizova としては、2020年にEP「Piper Spray / Lena Tsibizova」を〈Radio.syg.ma〉からデジタル・リリースし、2022年にロシアのサンクト・ペテルブルグのエレクトロニック・ミュージック・レーベル〈[картаскважин] 〉からミニアルバム『Regressive Youth』を送り出した。
その2作を経て、ニューヨークのレーベル〈Patience / Impatience〉から初のアルバム『Leaving Memory』をリリースするに至ったわけだ。『Leaving Memory』は、IDM、アンビエント、インダストリアルの要素を絶妙にミックスしたアルバムで、機械的でありながらも、どこか官能的なサウンドでわれわれエレクトロニカ・マニアの耳をざわつかせた。クラッシュした車のアートワークも印象的であった。
そして2024年初頭にはやくも届けられた新作『Debtor of Presence』は、なんと3年の月日をかけて制作されたアルバムだという。じじつ『Debtor of Presence』を聴いてみると、その緻密に、かつ巧みにレイヤーされたエレクトロニックな音の層に耳をうち抜かれた。なんて透明で精密で、なんて華麗な、なんて緻密な、美しい電子音だろうか、と。何より、緻密/多層的なデジタルなサウンドがエモーショナルに鳴り響くさまが、とても新鮮なのである。ミニマルではなく、エモーショナル。これこそいまの時代において重要な要素ではないかと思う。エレクトロニカやエクスペリメンタル・ミュージックにおいても「エモ」が重要なキーワードになるのではないか。
ともあれ『Debtor of Presence』は、聴き手に新しい時代のIDM/エレクトロニカを実感させるサウンドである。本作には全14曲が収録されているが、全曲、どの曲も、細やかなノイズとエモーショナルな電子音のレイヤーによって仮想空間音楽のごとき多層レイヤー的音響世界が構築されているのだ。さまざな電子音と電子音が共存し、ときに衝突し、ときに融解し、より大きなサウンドスケープが生成されていく……。
1曲目 “Fisher” からして、このアルバムの世界観が一気に伝わってくるような曲だ。電子音、ピアノの音が交錯し、薄いカーテンのようなアンビエンスと環境音楽的な旋律が生成・交錯し、音の海を漂うかのような曲に仕上がっている。曲の中盤からは分断されたリズムの音が重なり、ダヴィなムードも漂わせもする。ときおりミックスされる「声」のような音の使い方も実に見事だ。対して2曲目 “Four Chords” もやわらかいアンビエンスの電子音と刺激の強い電子音が交錯し、聴き手の感覚を広げてくれるようなサウンドスケープを展開している。いわば環境音楽+ネオ・アンビエントとでもいうべきか。
個人的なお薦めとしては、7曲目 “Georgian Doc” や13曲目 “Tushino” を聴いてほしいと思う。80年代の環境音楽を20年代のアンビエント・ミュージックへと変化・拡張させたような音楽性だが、なぜかそこに深いエモーショナルが潜んでいるように聴こえるのだ。瞑想的でもあり感情的でもあるような不思議な感覚である。また8曲目 “Ad Morning Theme” のミューザック的なピアノ曲に電子音がレイヤーされるさまは、どこかヴェイパーウェイヴ的でもある。過去に夢想された未来を見る/聴くような不思議なノスタルジアを感じもした。
つまり本作を簡単に評すると「未知と郷愁の感覚を同時に想起させてくれるエモーショナルなIDM/エレクトロニカ」とでもいうべきだろうか。瞑想的であり、不安定な記憶のようでもあり、未知の世界の自然現象のようでもある。「精密さ」と「密度」と「透明さ」を希求しつつ、そこに「エモーショナル」という新しいエレメントを兼ね備えた00年代以降(グリッチ以降)のエレクトロニカを継承する作品といってもよいかもしれない(言い過ぎか?)。
何よりこのようなIDM/エレクトロニカが欧米諸国でも日本でもなく、ロシアから出てきたことは、とても重要なことに思えるのだ。エレクトロニカの音楽地図がまた描き変わったような思いを持ってしまうのである。
最後に。『Debtor of Presence』のリリースに伴い、Piper Spray & Lena Tsibizova のふたりは、「私たちは進行中の戦争とあらゆる形態の帝国主義に反対します。このリリースによる利益は、戦争の犠牲者に寄付されます。 当面は、「セーブ・ザ・チルドレン・ガザ緊急アピール」と「ガザ子ども基金」に資金を送る予定です」という声明を発表していることも付け加えておきたい。
音楽でもそうだけれど、古典はときに現代の作品以上に刺戟的だったりする。古典というくらいだからそれが生み落とされた年代は古く、一見わたしたちの暮らす日常からかけ離れた世界や価値観が描かれているように映るかもしれない。にもかかわらず古典というやつは「これってまさに今日の問題じゃん!」と思わせる要素を少なからず含んでいるもので……長い年月をサヴァイヴしてきたがゆえにもつことを許された魅力というか、まあ、だからこそ古典は古典たりえているのだろう。かのマルクスもその代表選手のひとりである。
新しい解釈を誘発しない古典は古典とは呼べない。マルクスもまた一世紀以上にわたりさまざまに読み解かれてきた。たとえばフランスの哲学者ジャック・デリダ──宣伝しておくと、もうすぐその伝記をele-king booksから刊行します──はソ連崩壊後の1993年に『マルクスの亡霊たち』なる本を上梓している。『共産党宣言』が呼びかけるプロレタリア革命のメッセージそれ自体ではなく、その文章にあらわれる「亡霊」なる単語に着目し、幽霊のように過去から回帰してくるものをめぐる思考=「憑在論」の端緒をひらいた重要作だ。それがのちにサイモン・レイノルズやマーク・フィッシャーに少なからぬ影響を与えたことはすでにele-king読者にはなじみ深いかもしれないけれど、そのような読み方がマルクス当人の意図していなかった解釈であろうことは疑いない。テクストはテクストを誘発し、また新たなテクストが紡がれていく、と。
若手のマルクス研究者、斎藤幸平による『マルクス解体──プロメテウスの夢とその先』もそうしたオルタナティヴなマルクスの読みを提供してくれる一冊だ。想像してみてほしい。動物の健康を憂うマルクスを。感染症のリスクを意識するマルクスを。西欧ではなくアジアやアフリカ、ラテンアメリカを研究するマルクスを。この本からは「階級闘争の鬼」みたいなイメージを覆すマルクス像がつぎつぎと浮かびあがってくる。ずばり、エコロジストとしてのマルクスだ。従来相性が悪いとみなされてきた「緑」と「赤」のあいだに橋を架けること──それが本書最大の狙いといえる。
じつは氏にはかつてele-kingでも何度か原稿を依頼したことがある。その後彼が知識人としてこれほど大きな存在になろうとは予想だにしていなかったけれど、それはきっと今日、多くの人びとが資本主義の横暴や気候変動に戸惑っていることのあらわれなのだろう。大ヒットした『人新世の「資本論」』(集英社新書)と同時並行で進められていたのがこの本で、いわばそのデラックス版ないしディレクターズ・カット版みたいなものかもしれない。オリジナルの英語版が出版されたときはUKでも話題になったようで、『ガーディアン』がインタヴュー記事を掲載している(https://www.theguardian.com/environment/2023/feb/28/a-greener-marx-kohei-saito-on-connecting-communism-with-the-climate-crisis)。原題は『人新世のマルクス──脱成長コミュニズムの理念に向けて』。本書はその英語で書かれた学術書の翻訳という体をとっているものの、著者自身が日本語としての読みやすさを意識し大幅に手を入れてくれているおかげで、この手の本にしてはだいぶハードルが下がっている。
最初のほうでマーク・フィッシャーが登場するところは興味を引くポイントかもしれない。音楽のみならず映画やドラマ、大衆文学などなど、ポピュラー・カルチャーの論じ手として頭角をあらわしてきた彼が最初の本で打ち出したのが「資本主義リアリズム」なるコンセプトだった。もはや資本主義以外の社会のあり方を想像することができなくなってしまったというその感慨が、まさに『資本論』を執筆したマルクスを研究する専門家によってどのように整理されているのか、それを目撃するのも本書の楽しみのひとつだろう。
エンゲルスがつくりあげたマルクスのイメージを解体する第二章、西欧マルクス主義の代表者ルカーチにたいする誤解をほどく第三章、話題の「人新世」なるタームへの批判を検討する第四章なんかもおもしろいのだけれど、個人的にもっとも興味深く読んだのは左派加速主義が扱われる第五章だ。当該論者たちはテクノロジーの発展で環境危機を乗り越えられると、技術革新こそが未来を用意すると主張しているらしい。そのためにはガンガン生産力を上げ、経済をまわしていかにゃならん、と。それが片手落ちの議論であることを暴き出していくさまは読んでいて素朴に痛快だ。
ちなみにここでも何度か「資本主義リアリズム」の語が登場するのだけれど、著者は慎重にフィッシャーの名をあげることを避けている。誤解されないよう配慮しているのだろう。日本語版ウィキペディアで「マーク・フィッシャー」のページをのぞくと、なぜかフィッシャーは左派加速主義者ということになっている。ネットが信用ならない最たる例というか、どれほどフィッシャーがそのような考え方から離れたところにいるか、読者であればすでにご存じにちがいない。
時間がない方は最終章だけ読もう。そこではマルクスを「脱成長コミュニスト」として再解釈する、著者のオリジナリティが最大限に発揮されている。主著たる『資本論』よりもさらに後、晩年のマルクスの抜粋ノートを丹念に読みこむことによって、まったく新しい──経済成長を望まない、進歩主義や生産力重視ではない──マルクス像が、すなわちデリダが亡霊を見出した『共産党宣言』の若き楽観主義ではなく、人間と自然の関係を真摯にとらえなおす老マルクスの姿がそこからは浮上してくる。
最後に将来の展望が記されている点も重要だろう。実現可能かどうか、あるいは賛同するかどうかはべつにして、著者は本書で明確に「資本主義リアリズム」の呪縛に抗っている。「失われた未来」を突破しようと試みている。ただ資本主義のあり方を批判し気候危機に警鐘を鳴らすだけではなくて、よりよい将来を想像してみることのたいせつさを教えてくれる一冊にもなっているのだ。想像するとはまさにカルチャーの分野、音楽や映画や文学が得意とするところにほかならない。オルタナティヴはいくらでもある──マルクスという古典の読みなおしがその血路となることを、あらためて本書は伝えてくれている。
昨年末からTikTokが『ソルトバーン』を観た人のリアクションであふれている。とくに目立つのはバリー・キヨガン(と聞こえる。日本ではコーガンと表記)演じるオリヴァー・クィックがバスタブの残り湯を啜るシーンで、ガールフレンド(?)が撮影しているのか、このシーンを観ている男たちが一様に気持ち悪がり、「ノー」と叫んだり、あっけにとられたりしている。バスタブの残り湯にはジェイコブ・エロルディ演じるフィリックス・キャットンのザーメンが混じっているという設定で、同作のプロモーションのためにエロルディがジミー・ファロンのレイト・ナイト・ショーに出演した際は、バスタブの残り湯を連想させるロウソクのビンが6種類ほどデスクに並べられ、ひとつを選んでエロルディが口をつけようとするとスタジオの観客から悲鳴が漏れる。多岐に渡るTikTokのショート・ムーヴィには押し黙って観ている老夫婦をどうだと言わんばかりに映し出すものや2人組の女子がバスタブのミニチュアに白濁した液体を入れて飲み干すなどあまりに品がなく、リアクションの数が増えれば増えるほど僕が最初に『ソルトバーン』を観た時の印象からはどんどん遠ざかっていく。さすがにハイプだと非難する声も上がり、しかし、「ソルトバネスク」などという言葉が生まれるほど作品の訴求力が高いことも確かで、考察系の動画などTikTokや他のSNSではシリアスな内容のものも増えている。イギリス流のブラック・ユーモアを理解するために過去の映画や文学の知識が総動員され(イギリスを代表するブラック・ユーモアの作家、イヴリン・ウォーは「キャットン家の先祖を題材に小説を書いていた」というセリフもある)、あれこれと観ていたら迷路の中心に置かれたミノタウロスのほかにも作品のあちこちに銅像がちりばめられていたことや窓の外のドッペルゲンガーなど指摘されるまで気がつかなかったことも多かった。
06年、オックスフォード大学の入学式。オリヴァーはおどおどと大学の構内に足を踏み入れる。食堂では「お前、友だちいないだろ」と嘲られ、出身地がリヴァプールに近いプレスコットというだけで指導教官からも妙な表情をされる。ポッシュ(富裕層)とサイコパスがオリヴァーの周囲ではひしめき合い、導入部だけで気が滅入ってくる。ある日、オリヴァーが自転車で図書館に行こうとすると、フィリックスが壊れた自転車の前で座り込んでいる。自分は歩いて行ける距離だからといってオリヴァーはフィリックスに自転車を貸す。フィリックスは有力者の息子で、陽キャに手足が生えているようなリーダー的存在。人に指図することに慣れきった風で、フィリックスがオリヴァーに礼を言ってもどうも素直な感じは伝わらない。ここからはスクール・カーストの存在を思い知らされるようなエピソードが畳み掛けられる。オリヴァーはフィリックスの「おもちゃ」にされながら、しかし、フィリックスには「おもちゃ」を大切にする側面もあり、対等なのか主従なのか、簡単には割り切れない奇妙な関係が育まれていく。ある日、オリヴァーの元に父親が倒れたという報が入る。オリヴァーはフィリックスの部屋に飛んでいき、オリヴァーの境遇に同情したフィリックスは優しく彼を慰めてくれる。舞踏会の日、タキシードを着込んだオリヴァーに級友たちが「似合ってるじゃないか。レンタルだろ」と続けざまに皮肉をぶつけていくなか、フィリックスはオリヴァーを会場とは正反対の方向に連れていく。小川を目の前にしたフィリックスは死んだ父親の名前を石に書いて川に投げ込めとオリヴァーに促す。しかし、石は川沿いのゴミの上に落ちて水の中には落ちなかった。
夏休みになると、フィリックスはオリヴァーを屋敷に招待する。タクシーを降りるとオリヴァーの目の前には広大な敷地が広がっている。巨大な玄関が開くと高圧的な執事が慇懃無礼にオリヴァーを招き入れ、フィリックスが広大な屋敷の内部を案内していく。部屋の装飾はヘンリー7世の飾り棚やヘンリー8世のザーメンなど王侯貴族の遺産にルーベンスの絵画やシェイクスピアの初版本など計り知れない資産価値のものが並んでいる。フィリックスは適度に下品な言葉でそれらを紹介し、家族が待つ部屋にオリヴァーを連れていく。オリヴァーの到着を待っていた家族が「去年の人…」という言葉を使ったところで2人が部屋の扉を開け、オリヴァーは様々に声をかけられるものの、その内容はあまりに無神経でオリヴァーは体を硬くするしかない。「夕食は正装で」と言われたオリヴァーは「カフスは持ってきた?」と訊かれても「持ってない」と答えるしかなく、貸してもらうことに。
その日からポッシュの暮らしぶりが毎日、繰り広げられる。BGMはMGMT〝Time to Pretend(それらしく振舞う)〟。イギリスのポッシュが性的に乱れると下品極まりないのはロネ・シェルフィグ監督『ライオット・クラブ』(14)と同じくで、オリヴァーの行動も少しずつ妙な方向に走り出す。フィリックスがマスターベーションしていたバスタブの残り湯をオリヴァーが啜るシーンは前述した通り。フィリックスの妹に誘惑されて自分はヴァンパイアだといって生理の血に顔を埋めたり(水の中から撮ったようなショットはとても秀逸)。ヘンリー7世や8世とつながりがあるかのように想像させる友人一家を招いたディナーでは食後にカラオケ大会が開催され、客人が自分は金持ちだという趣旨のフロー・ライダ〝Low〟をラップし、オリヴァーはペット・ショップ・ボーイズ〝Rent〟を歌わされる。歌いながら、歌詞の内容が金持ちに養われている人の気持ちだと気づいたオリヴァーは続きを歌えなくなり、キャリー・マリガン演じる友人のパメラが「自立すべきだ」とキャットン夫妻に言われて、事実上、屋敷を追い出されるエピソードも前後して差し挟まれる。パメラの生き方を評して「悲劇のヒロインぶってこちらの同情を集めている」というオリヴァーのセリフは後々に重要な意味を持ってくる。様々な心象風景が矢継ぎ早に展開し、フィリックスはオリヴァーの誕生日にサプライズがあるといって彼を車に乗せる。最初は喜んでいたオリヴァーだけれど、車の向かう先が自分の実家だと悟るや、行きたくないと騒ぎだす。オリヴァーの家に着いてみると普通に暮らしている夫婦が彼らを出迎え、すぐにもオリヴァーがフィリックスに話していたことはすべて嘘だったことがわかる。(以下、ネタバレ)オリヴァーは実は『聖なる鹿殺し』と同じく、計算通りにキャットン家に入り込んだのである。そして、フィリックスの父親による提案で200人規模の仮装パーティが開かれることとなり、翌朝、思いもかけない事件が起こる……。
『ソルトバーン』をひと言でまとめると「中産階級が下層階級の悲惨さをエサにして上流階級の富を脅かす話」となるだろうか。『太陽がいっぱい』のように持てる者と持たざる者を対極におくのではなく、「少し持てるもの」と「多く持てるもの」の対比であり、富裕層(ここでは代々の資産を受け継ぐソーシャライト)の価値観もグロテスクに映るなら、手段を選ばずにのし上がろうとする中流の欲望も醜く歪んでいる。富裕層がことさらに悪として描かれるわけでもなく、中流が野望を持つに至った動機もとくに説明がない。TikTokなどのソーシャル・メディアでは富裕層を批判する言葉として「イート・ザ・リッチ(eat the rich)」というフレーズが2010年代後半に広まり、映画だと『パラサイト』や『ジョーカー』がそれを映像化した例といえ、現実の政治でも2021年には地方選挙のスローガンとして使用されたり、中国では富裕層の屋敷が襲われたりもしている。いずれにしろ現在の格差社会において富裕層はそれだけで悪という気分が広く共有されているから成立している話だと思うしかなく、『太陽がいっぱい』も殺人の動機には説明がなく、当時は自明の理だったものがいつしか風化してしまったために、39年後に新たな動機を付け加えてリメイク作『リプリー』がつくられたように『ソルトバーン』も時代が変われば理解不能な作品になってしまうのではないだろうか。ここで共有されている気分は、そして、フランス革命が最底辺の人々には無縁のブルジョア革命だったことにも通じている。富の偏りに耐えかね、憤っているのは最底辺の人々ではない。中産階級が「悲劇のヒロインぶって同情を集めている」のだと。
ラスト・シーンはオリヴァーが全裸で屋敷のなかを延々と踊ってまわる。『ジョーカー』の階段のシーンを意識しているのは明らかで、これには賛否がかなり分かれる。僕も「イート・ザ・リッチ」という趣旨を体現するなら整合性のある表現だと思ったけれど、このシーンに使われているソフィー・エリス・ベクスター〝Murder On The Dancefloor〟のMVを観たところ、ダンス・コンテストで競争相手を次々と失脚させていくプロセスがあまりにチープで、オリヴァーの行動をこれになぞらえているとしたら確かに「Ruin(台無し)」だなと思うようになった(だから〝Murder On The Dancefloor〟のMVは観ない方がいい)。オリヴァーがキャットン家を「イート」していく過程はバリー・キヨガンにしか出せない説得力があり、その総仕上げとして全裸で踊っているというなら、こうした悪趣味にも意味があると思えたのに。
バリー・キヨガンという俳優が最初に目に止まったのはクリストファー・ノーラン監督『ダンケルク』(17)だった。戦場の臨場感をひたすら描く作品で、キヨガンはチョイ役だったにもかかわらず、どこか物言いたげな表情は妙に印象に残った。2ヶ月もしないうちに同じ顔に再会できた。 ヨルゴス・ランティモス監督『聖なる鹿殺し』(17)でキヨガンはマーフィー家を恐怖のどん底に突き落とす悪魔のような役だった。「ような」どころか後半は悪魔そのものに見えた。とんでもない存在感だった。かつて『狼たちの午後』が表していた失意をオバマ時代の終わりと重ねたバート・レイトン監督『アメリカン・アニマルズ』(18)でもキヨガンは腺病質な学生強盗団の一味を演じ、クロエ・ジャオ監督『エターナルズ』(21)ではアマゾンに隠れ住んでいた不老不死の宇宙人と、もはや彼に普通の役はオファーされないという感じになってきた。かつてデニス・ホッパーが歩いた道である。その道をキヨガンは着実に歩き出している。マット・リーヴス監督『ザ・バットマン』(22)ではジョーカーの演技を研究したそうで、本編だけでなく未公開シーンも強烈。マーティン・マクドナー監督『イニシェリン島の精霊』(22)でもややこしい役割が当てはめられていた。
エメラルド・フェネル監督 『ソルトバーン』を僕が観ようと思ったのは、そう、単にバリー・キヨガンが出ていたからだった。フェネルは『ソルトバーン』にも陰を落とす『アルバート氏の人生』(11)や『リリーのすべて』(15)などセクシュアリティを扱った重要作で役者を務めたのち(『バービー』にも出演)、イギリスで近年、問題となっているフェミサイドをひっくり返した『プロミシング・ヤング・ウーマン』(20)で初監督を務めたばかり。『ソルトバーン』は長編2作目にあたり、本作について本人は「狂気じみた愛の強迫性」を表現したとコメントしていて、参考にした作品は『時計じかけのオレンジ』『召使い』『テオレマ』『クルーエル・インテンションズ(『危険な関係』のリメイク)』『バリー・リンドン』と、わかったようなわからないラインナップを挙げ、パトリシア・ハイスミスによる『太陽がいっぱい』の原作ももちろんリストに加えられていた。また、上下を逆さにした構図や夜の植物の撮り方などフェネルの映像センスはかなり素晴らしく、スパイダーネットの衣装や『真夏の夜の夢』の仮装、そして、ポッシュの生活様式に『スーパーバッド』やDJシャドウなど隙間なくポップ・カルチャーが詰め込まれているところもたまらない。(2月16日に加筆・訂正)
「今」だけを生ききった旅人
松山晋也
昨日(2024年2月10日)の深夜にダモ鈴木さんの訃報をツイッターで知った時、まっさきに思ったのは、やっぱりダモさんの最新インタヴューもとっておくべきだったな、ということだった。2020年秋に私の編集・監修で出た『カン大全――永遠の未来派』には、本人の回顧録『I Am Damo Suzuki』の紹介記事(崎山和弥)と、セレクテッド・ディスコグラフィ(小柳カヲル)、そして私が96年にやったインタヴュー原稿を掲載したが、総ページ数に制限があったため、最新情報までは載せられなかった。まあ、ガン治療で大変そうだと聞いていた上、インタヴューしても肝心なポイント(言葉)はだいたい予想できるという思いもあったわけだが。
ダモさんには過去4回インタヴューした。「日本でのちゃんとしたインタヴューは初めて」だと言っていた最初の取材はたぶん88年だったと思う。70年代後半から勤めているドイツ企業の社員として日本出張中だった合間を縫って高円寺の喫茶店で会ったと記憶している。ダモ鈴木という芸名が、森田拳次による60年代半ばの人気漫画「丸出だめ夫」からとられたと知ったのもこの時だ。彼はカン加入前のヨーロッパ放浪中、自身を「だめ夫鈴木」と名乗っており、それがいつの間にかダモ鈴木になったのだという。
しかし、96年に2度目のインタヴュー(これも高円寺の喫茶店だった)をした時は「本当にダメな奴だと思われてきたから、最近は芸名の由来についてはあいまいにごまかすようにしている。はっきり言って、僕は模範社員なんですよ」と笑っていた。実際目の前の彼は、実にきちんとした生真面目な人で、「虹の上から小便~」と歌っていたあのダモ鈴木と同一人物とはとても思えなかった。『Future Days』リリース直後の73年秋にカンを突然脱退したダモさんはこの時のインタヴューで「カンのサウンドが過剰に緻密になり、洗練されすぎたのが息苦しくなって」と脱退理由を説明したが、ダモさんをカンにスカウトしたホルガー・シューカイに数年後にインタヴューした際、彼は「結婚した女性の影響で《エホバの証人》の信徒になったせいだよ」と語った。真相は、おそらくその両方だったのだろう。ダモさんはカン脱退後は専門学校に通って石畳の道を作る職人になり、更に、デュッセルドルフの企業で正社員として働きだした。カン脱退からドゥンケルツィファーに参加する83年までの約11年間、彼は音楽活動とはほぼ無縁だ。
そして3、4回目のインタヴューは2010年。聴衆を前にした某イヴェントでの公開インタヴューと「めかくしプレイ」の取材2本を同日におこない、翌日には一緒に朝食をとりながらあれこれとよもやま話もした。「18才からずっとヨーロッパ(スウェーデン、アイルランド、フランス、ドイツ)で暮らしてきたので、最近、日本のことをもっと理解したいと思うようになった。こうして一人で日本を演奏して回っているのも、もっと日本のことを知りたいからなんです。47都道府県を全部回るという目標を死ぬまでになんとか達成したい」。日本に息苦しさを感じて18才で飛び出したダモさんは、しかし日本をとても愛していた。「本当は政治家になりたかった」という言葉も本心だったと思う。
こうしたインタヴューを通じて、特に印象深かったのは、彼の言葉、あるいは哲学のすべてがいつも最終的には「今」と「自由」に収斂されていくことだった。
彼は亡くなるちょっと前まで、90年代後半から続けていたダモ・スズキズ・ネットワークとして世界各地で精力的にライヴを続けたが、そのほとんどは、行った土地土地のミュージシャンたちを交えた一期一会の即興ライヴだった。ネットで様々なミュージシャンたち(彼はこれを「サウンド・キャリアー Sound Carrier」と呼んでいた)と自分で連絡を取り合い、打ち合わせもリハーサルもなく、ぶっつけ本番で即興コラボレイションを繰り広げた。それが音楽的に成功するかどうかなど関係なく。ダモさんは最期まで一度もマネジャーを付けず、すべてを自分で決め、行動したし、コラボ相手に関する情報(音やキャリア)を事前にインプットすることもほとんどなかった。情報は完全な「自由」を殺してしまうことを知っていたから。
96年のインタヴューで彼はこう言っている。「即興にこだわるのは、プロダクト化されてしまうのが嫌だからです。即興はプロダクトではなく、プロセスだからね」。あるいは「音楽は生き物です。そして、音楽だけがあらゆるアートの中で時間の流れを活き活きと表現できる。だから、毎日同じ曲をやるようであれば、あんまりちゃんと生きていないってことだと思う。僕は過去には興味ない。大事なのは“今"だけです」とも。
ダモさんにとって即興とは、「今」をいかに真剣に生きているかの証だったのだと思う。その哲学は、まだ高校生だった日本でのヒッピー時代から亡くなるまで、ぶれることなく貫かれた。もちろんカン時代のヴォーカルも、その場で無意識に口をついて出てきた言葉をそのまま発したもの――彼が言うところの「宇宙語」だった。「だから、歌詞の意味も後から考えたものが多い。俺は何を歌ってたんだろうって」。ホルガー・シューカイは私に、70年5月にミュンヘンの路上で初めてダモさんを見た時の印象を「その男は太陽に向かって呪文を唱えていた」と語ったが、今その瞬間を生き、荒々しく変容し続けるダモさんの呪文=宇宙語の生命力と覚悟こそが、厳しい修練を経た手練れ揃いのミュージシャン集団だったカンを更に高い次元へと引き上げ、新たな扉を開く起爆剤になると直観したのだと思う。
ダモさんは2014年に大腸ガンで生存確率10%と宣告され、以後40回もの手術を受けたが、苦しい治療を続けながらもライヴ活動はやめなかった。未知の人々との新しい出会いを通して「今」を表現し続けるために。2022年に公開されたドキュメンタリー映画『ENERGY:A Documentary About Damo Suzuki』(監督はミシェル・ハイウェイ)に刻まれているのは、最期まで「今」だけを愛し「今」だけを生ききった旅人の姿だ。見事な人生だったと思う。
[[SplitPage]]追悼、ダモ鈴木さんについての回顧録
小柳カヲル
ダモ鈴木さんの訃報は文字どおり青天の霹靂だった。今は悲しみというよりは言葉にならない虚無感しかない。彼の偉大な功績、とりわけカン時代の活動はすでにたくさんの方々がさまざまな角度から評論されているし、これからも数限りなくされるのは間違いない。そこで自分にしかできない追悼はなんだろうとあれこれ考え、仕事上とはいえ近しい関係だった私から見たダモ鈴木さんという人物を回想し、記録に残すことではないかという結論にいたった。そんなわけで個人的な追憶にしばらくお付き合いいただきたい。
私がダモさんと初めて会ったのは、1996年の秋に東高円寺のU.F.O.CLUBで行われたシークレット・ライヴだった。古くから知られていた〈日本人ロック・ヴォーカリスト〉でありながら、日本での公演はこの日が初めてだった。開演前に楽屋の椅子に座りパイプをくゆらしているダモさんの姿をはじめて見たときの衝撃は、四半世紀以上たった今でも鮮明に覚えている。ダモさん本人による「きれいな空気もきれいなメシもありませんが」というカンの〈Doko E(何処へ)〉の歌詞を引用した口上からライヴは始まった。バックを務めるGHOSTのメンバーの演奏は圧巻で、公演の告知がされていなかったにもかかわらず会場はほぼ満員だった。そこにいる誰もが目の前で動き、肉声を発しているドイツ・ロックの伝説的ヴォーカリストに目が釘付けになっていたのは言うまでもない。終演後、帰りの電車がよくわからないというダモさんを、たまたま自宅が同じ方向だった私が小田急線で途中まで送ることになった。ダモさんのご実家は小田原方面、当時の私は藤沢方面。路線が分岐する相模大野駅でいったん下車し、ホームでハグしながら翌年から始まる新たな計画の協力を約束した。このことがきっかけでダモさんとの交流が急に近くなったように思う。
翌1997年4月、新たなプロジェクト〈ダモズ・ネットワーク(のちのダモ鈴木ネットワーク)〉が始動した。日本では東京をかわきりに3公演が予定され、メンバーはダモ鈴木(ヴォーカル)、ミヒャエル・カローリ(ギター)、マンジャオ・ファティ(ベース)、マティアス・コイル(キーボード)、そしてドラムスには当初予定されていたヤキ・リーベツァイトに代わり、グルグルのマニ・ノイマイヤーがツアー直前に決定した。ダモさんによれば、マニさんのことは昔から名前だけは知っていたが、会うのはこのときが初めてだったという。いま思えばとんでもなく豪華な顔ぶれだったことを再認識させられる。ツアーそのものも実験的な試みがあり、ライヴを観に来た観客全員に観覧当日のライヴ音源を収録したCDが後日送付され、そのジャケットにはダモさんの肉筆による巨大絵画を小さく裁断した紙片がCD1枚1枚に設えられるという独創的なものだった。このときの演奏もかなり変わっていて、すべての曲は打ち合わせなしの即興で、カン直系のケルン・スクールらしい曲からフリースタイルのヴォーカル・パフォーマンス、果ては蕗谷虹児の児童唱歌「花嫁人形」まで飛び出し、興に入った観客をステージ上に招き入れて躍らせるなど、かなり規格外な様相だった。観客の多くは戸惑いながらもこの空間を心から楽しんでいた。このとき招待されていたダモさんのお兄様は、演奏が終わるやいなや物販ブースにいた私の元に来て「俺にはわからん」と苦笑しながら首をひねっていたのが印象的だった。そして2日目の東京公演の直前、ダモさんは携帯電話で「てっちゃん」と呼ばれる人物と親しげに話していた。通話の相手は〈フリー〉の山内テツ氏で、海外で活躍する同じような境遇の日本人ミュージシャンとして古くから交流があったと話してくれたが、彼の意外すぎるバックグラウンドを垣間見た瞬間だった。このときは知る由もなかったが、ふたりは数年後に横浜で共演することになる。
大阪公演の翌日は、会場近くの美術学校のアトリエでCDジャケット用の巨大絵画が制作された。床一杯に敷き詰められた大きな紙に向かって色とりどりの絵具やスプレーを振り回し、ツナギ姿のダモさんは熱心に絵に取り組んでいた。作業の途中で、私は都合ですぐに大阪を去らなければならない旨を伝えたところ、まるで子どもでも抱きかかえるかのように両手で私を持ち上げ「ありがとう」と言ってくれた。
ダモ鈴木ネットワークは同年に若干のメンバーチェンジをし、米国シアトルでの公演を手始めに世界ツアーを始め、1999年には一新したラインナップで再来日をとげた。この時の演奏も特異なもので、ステージと観客スペースの境界線があいまいになり、人々が入り乱れる白熱ぶりだった。こうしたお祭り騒ぎのようなライヴ形態は継承され、音源は2枚組CDとして毎回リリースにされた。カン脱退後のダモ鈴木にとって〈ダモ鈴木ネットワーク〉は、〈ドゥンケルツィッファー〉、〈ダモ鈴木バンド〉に続く3番目のプロジェクトで、この中でもっともインプロヴィゼーション色が強く、参加ミュージシャンも毎回入れ替えられていた。回を重ねるごとにミュージシャンを現地で起用する傾向が強くなり、しまいには世界各地のバンドにダモさんひとりがヴォーカリストとしてゲスト参加するような〈ネットワーク〉形態へと変わっていった。そのコラボレーション相手は欧米のネオ・クラウトロック・バンドにとどまらず、ネパールのローカル・バンド〈カトマンズ・キラーズ〉、インドの〈ホーリー・ヘッド・ハンターズ〉などじつにグローバルで、現地ミュージシャンたちと違和感なく溶け込んだダモさんの記念写真がメーリングリストを通じて幾度となく送られてきたものだ。当時、私が所属していたレコード会社で、ダモ鈴木関連のアルバムの輸入とディストリビューションを担当していた。仕事中にケルンから国際電話がかかってきて「50歳になったよ」などという報告をダモさんから直々に受けたこともあった。インターネットがまだ普及していなかった時代ならではの話だ。あるときは事務所に突然ふらっと現れて、空腹だというからラーメンを作ってあげたこともあった。2006年のツアーでは末の息子さんと来日され、そのとき東中野にあった拙宅に父子で宿泊していき、芋焼酎をいっしょに飲んだのも良い思い出だ。こうしてダモさんが来日(はたまた帰国とするべきか?)のたびに私はライヴを訪れたり、いっしょに食事をしたり、ときにはスタッフとして働いたりした。
ふり返ってみると、ダモさんはあまり昔を語りたがらない人だった。特にカン時代のことを私の前で話題にしたことがほとんどない。おそらく何度も質問されてきたことだろうと思ったから、あえてこちらから取材のような質疑応答をするつもりもなかった。もしかしたらダモさんはそんな雰囲気が居心地よかったのかもしれない。こんなふうにつかず離れずの関係が続いたが、2013年に高円寺で会いファミレスに行ったのが最後になってしまった。そのとき翌日から行くという温泉旅行について楽しそうに話していた笑顔が忘れられない。そして、これはいつのことだったか正確には思い出せないが、何かの新しい取り組みについて話しているときに「何年かかってもいいんだ。10年かかっても、20年かかっても実現できれば。私の動きはゆっくりだから」というような発言があった。ああ、この人は年齢やいろいろなしがらみに制限されず行動できる人なのだなと感銘を受けたものだ。このようなダモさんの姿勢は今の自分の生き方の指標になっているといっても過言ではない。そしてダモ鈴木というひとりのミュージシャンが残した遺伝子は、多種多様に変化し現在の音楽シーンのいたる所に影響をおよぼしているのは間違いない。だから今後もまったく無縁な音楽を聴いたとき、なにかの拍子でダモさんの幻影が見えてしまうことがあるかもしれない。そのたびにあの屈託のない笑顔を思い出してしまうだろう。ダモさん、本当にありがとうございました。安らかにお眠りください。
音楽メディアにおける批評の時代は終わり、いまは「ファンダム」(ファン文化)の時代だそうだ。言葉の使い道は賞賛のためか、さもなければ人気者にぶらさがって、売れているものがどうして売れている(=どうして成功している)のかを分析し解説すること──ではないようだ。要するに、ファンダムこそが音楽の販売促進の有力な機動力で、アーティストにとってもレーベルにとっても必要なのはファンダムであると、そういう話だと。この解釈で合っていたら、なるほどそりゃそうだと思う。が、しかし音楽文化はそれだけでは語れない、より複雑なものなのだ。およそ1世紀前にアイシュタインが解読した宇宙空間のように。
去る1月、コンデナストによる『ピッチフォーク』の『GQ』への吸収が欧米で話題になった。『ニューヨーク・タイムス』から『ガーディアン』といった大手メディアが大きく記事にしているくらいだからこれはひとつの事件といっていいだろうし、ファンダムの時代において、この騒がれ方には考えさせられるものがある。現在の『NME』が名前は同じでも70年代〜90年代のそれとはまったく別物であるように、買収によって編集方針やスタッフは変えられるだろう。しかも買収したのがいまどきもっとも不要だと思われる男性誌(GQ)なるものの親会社とあっては、ある種の文化闘争の気配さえ生じるのは喜ばしい話で、なんとデモにまで発展したそうである。
正直にいうが、ぼくは『ピッチフォーク』を読んでいなかったとはいわないけれど、定期的にチェックするほど熱心な読者ではなかった。理由のひとつには、日本のレーベルや関係者が「『ピッチフォーク』で●●点!」とかいってみたり、「日本には『ピッチフォーク』のようなメディアがないから云々〜」とかいわれたりするのは、ニュートン力学以前に戻って宇宙の中心は『ピッチフォーク』にありといわれているようで、ぼくのなかの嫉妬心ないしはちっぽけな逆張りが働いてしまったからである。詩人ウィリアム・ブレイクにいわく「逆張りなくして進歩なし」、まあ許して下さいな。だからその対抗馬だった『タイニー・ミックス・テープ』(すでに終了)やUKでは編集方針が変えられる以前の『ダミー』と『ファクト』、そして現在も活動中の『クワイエタス』のほうを読んでいたし、『クワイエタス』はいまも読んでいる。当初は、『ピッチフォーク』も『ローリング・ストーン』(あるいは形骸化した『NME』)のような古株ロック・メディアに対する逆張りだったわけだが、いつの間にかこっちが主流になってしまったのだ。
音楽文化史的にいえば、『ピッチフォーク』の功績は、まずはゼロ年代初頭のアニマル・コレクティヴをはじめとする、それこそ主流が相手にしなかったインディの存在を広くアピールし、時代を更新したことにある。それまでは、70年代の『クリーム』をのぞけば、アメリカのロック・メディアは自国のアンダーグラウンドな文化を率先してフォローすることはなかった。ヤン・ウェナーがパンクを認めたがらなかったように、アメリカのロック文化には保守的な側面があって(日本もそうだし、UKにもそれはあるわけだが)、NY生まれのヒップホップを最初に表紙にした音楽メディアは、おそらく1982年8月の『NME』(とうぜんグランドマスター・フラッシュである)だったし、シカゴ・ハウスもデトロイト・テクノも、アメリカが見向きもしなかったアメリカの音楽を積極的に取り上げ、真っ先にそれらを評価したのはイギリスのメディアだった(フランキー・ナックルズやデリック・メイなどは、80年代後半の『NME』のほとんどレギュラーだった)。そう考えれば、『ピッチフォーク』は自国のブラック・アンダーグラウンドのことも、ロッキズムが排除したダンス・カルチャーのことも、それ以前にくらべればそこそこフォローしてきた最初の米メディアといえるのかもしれない。白人男性ロックが宇宙の中心にはならないよう配慮していることだって、よくわかる。
とはいえ同サイトのもっとも大きな功績は、オンライン音楽メディアのテンプレートを作ったこと、1枚のアルバムについて多くの言葉で語るというスタイルを定着させたことだろう。音楽作品に対する点数制は英米メディアのお家芸で、ゲームとしては面白いが、『ミュージック・マガジン』のそれを見ればわかるように茶番もしくは悲劇にもなりかねない。たとえ点数が低くても、それなりの文字数を擁した『ピッチフォーク』の論評には(すべてがそういうわけではないのだろうけれど)ちゃんとした考察もしくは愛情が表現されいるようだし、文章のクオリティはおしなべて高い印象がある。最近というか、もう1年以上前になるが、現代音楽家クセナキスの編集盤のレヴューはよく憶えている。学術用語をならべただけの、わかるひとにしかわからないよくあるそれではなく、クセナキスの極めて複雑な人生を描きながら、なにゆえ彼が「人間以外のテーマ」をもたなけばならなかったのかを論じた内容で、ちゃんと大衆に読まれることを意識した、エリート主義に染まらない知的かつみごとな構成力をもった文章だった。それから、2年ほど前にele-king booksから『ピッチフォーク』の副編集長だったジェン・ペリーの本(『ザ・レインコーツ──普通の女たちの静かなポスト・パンク革命』坂本麻里子訳)を出してみて、語り口のうまさや洞察力など音楽ジャーナリストとしてのたしかな力量に舌を巻いたものだった。しかしながらその他方では、毎日複数枚のアルバム・レヴューを掲載するその大量な情報の放出は、音楽が溢れかえりファストフードのように消費されている現代のリスニング文化と極めて親和性の高いものではあったが……(他人のことを言える立場でないことはよくわかっている)。
まあ、それはそれとて『ピッチフォーク』の買収騒ぎを、音楽メディア文化がいま危機に瀕していることへのリアクションだというならぼくもそこに一票投じたい、などと悠長なことをいってる場合ではない。『クワイエタス』は、このところ毎年年末になるとだいたい弱音を吐いた編者の(身につまされる)原稿が載っているので、ここは音楽ジャーナリズムの踏ん張りどころだ。
『ピッチフォーク』の買収騒ぎのなかで、『クワイエタス』(あるいは『ワイアー』などに寄稿)の名物ライター、ニール・クルカルニが死去したことも音楽ジャーナリズム的には最近のトピックだった。アジア系イギリス人ライターのこの人こそ逆張りの王様というか芸のある毒舌家で、ストーン・ローゼズのファーストをクソだと言える数少ない書き手だった(彼によれば、1989年のマンチェスターで最高のアルバムは、ドゥルッティ・コラムの『Vini Reilly』で、聴いてみるとたしかにその意見は説得力がある)。クルカルニにかかればオアシスも『スクリーマデリカ』もボロくそで、フランク・ザッパの全作品など無理して聴く必要はないなどと言い切った勇敢な人だ(日本でいえばある時期の三田格や磯部涼に近い)。彼のような名物ライターがいなくなったことをUKでは多くのひとたちが惜しんでいるが、ぼくが彼の文章を読んでいたのは必ずしも彼の毒舌が好きだったからというわけでもない。クルカルニは魅力的なレゲエ・ライターでもあったからだ。
音楽に関する文章はいまでも重要な文化だ。より深い理解を助けてくれるし、自分にはなかったより面白い解釈を与えてくれもする。ときには神話を強化し、エネルギーを伝達してもくれる。ハイ・カルチャーとロー・カルチャーの境界を曖昧にする文化的経験としての音楽リスニングの言語化、知性派なら、現代思想を援用し既成理論への挑戦の手がかりにするだろう(面白いことに、UKの音楽批評にペダンチックな文章がたびたびみられるようになったのはパンク・ロック以降である)。自分の知らなかった音楽を紹介してくれる記事はありがたいしデータ重視の文章もリスニング生活では役に立つが(もともとぼくは、音楽雑誌のレヴューすなわち新譜情報から読むタイプだった)、記憶の書棚に残るのは、繰り返すがその音楽の理解を深めてくれる文章(正確でネットを頼りにしていない豊富な知識の共有や労を惜しまない現場主義者によるレポートもここに入る)、音楽から連想される感情的な強さやエネルギーを有し、音楽を聴いていて良かったと思える記事やエッセイ、知的な内省および書き手の人生におけるその音楽の意味をうまく表現している優れた自分語り、非学術的な文化論や自分には思いもよらなかった解釈(当たり前すぎるそれではなく、破壊的で見当違いな解釈はときに魅力だ)や共感しうる強いオピニオンをもった(反論にびびっていない)文章のほうかもしれない。ひとを酔わせる力、教養、そしてユーモアがあればなおのことよい。文章が良かったから音楽を聴いてみたなんていうことは多々ある。これはもう、アルゴリズムの牢獄からの脱出であり、だからぶっちゃけたところ、音楽の趣味でいえば『クワイエタス』とぼくはそれほど合っているわけではないのだが、それでも読んでいるのはウィットに富んだ文章が載っているからだ。
じつをいえばこのele-kingはファンダムにはじまっている。雑誌を創刊する数年前からぼくはダンス・ミュージック/エレクトロニック・ミュージックに夢中で、言葉のないこれこそ音楽の未来だと真剣に思っていた。UKやドイツのダンス・カルチャーの熱気を日本に伝えたい、自分はこのシーンの一部になりたい、そういう思いで執筆やメディアをはじめている。その際のハウスやテクノに関する情報は、みずから現地に取材に行くか、(いまでもそうだが)先ほど申し上げたようにイギリスのメディアに頼るしかなかった。必然的にぼくはそれらを読むことが習慣となり(ぼく程度の英語力しかない人間がインターネット以前の時代に英語の雑誌や書物を読むことは、なかなかたいへんな作業だった)、そしてイギリスの音楽メディアに親しんでいくうちにファンダム以上の文化がそこにあることをぼくは認識していったというわけだ(サイモン・レイノルズによれば、それは「多趣味で独学」の文化だ)。それに準じてele-kingの中身もファンダムからは離れ、ライターとしてのぼくも変わっていったように思う。
ダンス・カルチャーの重要な要素にDJカルチャーがあり、なんども書いているようにそれはリスナー文化の発展型ともいえる。DJが特定のジャンルに縛られがちなように、我が身を振り返ってもわかる話だが、ファンダムも外側で起きていることに無関心になりがちなところがある。聴いている側における言葉の醸成といったもうひとつの文化圏は、ともすれば生じる近視性、閉鎖性ないしは排他性を突き抜けることができる。センスの競い合いでもマウント合戦でもない、もっといえば音楽への単純な付加でさえない、そのもうひとつの文化を育てたいというのが編者としてのぼくの野心だし、音楽に関する文章が面白い、価値のあるものだと理解してもらいたいからメディアをやって、書籍や翻訳物も出している。ぼくはスポーツも好きで、スポーツに関する文章もよく読むほうだが、そのほとんどはくそつまらない勝利至上主義に支配されている。「ポピュラー文化はポピュリストである必要がない」(byマーク・フィッシャー)ことは歴史が証明しているのだし、もし音楽メディアが売れている音楽のことばかりの文章に占められていったら、どうだろう? 少なくともぼくはそんな世界に住みたくはない。
