Home > Reviews > Film Reviews > イニシェリン島の精霊
オリジナルのポスターは「The BANSHEES」とタイトルが大きく書いてあり、その下に小さく「Of Inisherin」と続けられている。デザインも曇った空のヴィジュアルが使われているので、前回のアメリカンな感じやその前のイギリス的なブラック・ユーモアとは異なり、新作はゴシック調なのかなと思って自動的に脳内でスージー&ザ・バンシーズ〝Spellbound〟が鳴り始めた。しかし、そういった作品ではまったくなかった。どちかというと舞台は100年前のアイルランドで、まだしもポーグスだったけれど、〝Dirty Old Town〟が鳴り響くわけでも、ましてや〝A Rainy Night In Soho〟が奏でられるわけでもない。むしろ音楽が生まれることが楽しい気分とは結びつかない作品であった。音楽はなんのためにつくられるんだよと、マーティン・マクドナー監督にちょっと文句を言いたくなるというか。なにも音楽をダシにしなくてもよかったじゃないかと。
オープニングは海の波濤。カメラが引かれると孤島が舞台だということがわかってくる(もう少し後のシーンでは対岸のアイルランド本島で戦火の炎が上がっているのも目に入る)。コリン・ファレル演じるパードリック・スーラウォーンが軽快な足取りで山道を歩いている。これはあとで思い知らされることになるけれど、『ロブスター』や『聖なる鹿殺し』といったランティモス作品でファレルが演じてきた都会のダンディとは似ても似つかない素朴な島民を最初から全身で表現しきっていて、彼の演技にはいきなり唸らされる。始まってまだ2分も経っていない。パードリックは毎日お決まりとなっているパブで一緒にビールを飲むためにブレンダン・グリーソン演じるコルム・ドハティの家を訪ねる。家の前にはコルムの飼っている犬が座っていて、パードリックは犬を可愛がる。家のなかには、しかし、コルムがいない。どうやらそんなことは初めてで、昨日まで2人は毎日一緒にビールを飲みに行くのが習慣だったらしい。1人でパブに行ってみるも、やはりコルムはいない。どうしたんだろうとパブの店主とともにパードリックは首を傾げる。そこへ少し遅れてコルムが現れる。コルムは自分のビールを受け取ると店の外に置いてあるテーブルに座って1人で飲み始める。どうしたんだよと、後を追ってパードリックも同じテーブルに座り、コルムに話しかけると、コルムはパードリックにお前とは絶交だと告げる。パードリックには思いあたる節がなく、自分が何かしたのかとコルムに問う。コルムは理由を説明しない。
コリン・ファレルとブレンダン・グリーソンの演技が上手すぎて、前半ではぜんぜん気がつかなかったのだけれど、この映画は「神話」として描き出されている(傷口を止血しようとしないシーンでそうだとわかった)。「神話」というのは物語に軸が置かれすぎて、個々の登場人物に膨らみがなく、僕はあまり好きではない。今年、亡くなったばかりなのであまり批判的なことは書きたくないけれど、青山真治監督の映画はそのせいでどうも作品に入り込めず、『共食い』(13)を観るまではいつも距離を感じていた。『イニシェリン島の精霊』もこれが「神話」だと気がついた時点で、冒頭のシーンに立ち返ってみると、一気に解釈が変わってくる。2人の男の友情や亀裂の話に見せて、この作品が問題にしているのはブレクジットであり、トランプ現象である。どうしてこんなことになってしまったのか。(以下、ネタバレというか解釈。映画を観てから読むことをお勧めします。ほんとに)コルムが絶交を切り出したのは、遡れば「宗教改革」の喩えである。孤島で素朴に生きているパードリックはいわばカトリック信者で、作品中の言葉に倣えば「いい奴」であることが最も大事なこと。彼は毎日、牧畜業に精を出し、働いた後は友人たちと楽しくビールを飲む。それ以上は望まない。神の恵みがそれ以上ではないからである。コルムも以前はそのような生き方をしていたのだろう。しかし、彼はパードリックに絶交を言い渡してからは毎日、作曲にのめり込み、「生産的」であろうとする。そのためにはパードリックのバカ話をこれ以上、聞いているヒマはないと判断する。コルムはいわばマルティン・ルターである。物語はかつてのような親交を取り戻したいとパードリックが悩み、コルムとのコミュニケーションを取り戻そうとする過程で悲劇的な流れが加速していく。2人の対立関係は最終的に後戻りできないものとなり、パードリックはコルムに「終わらない方がいい戦いもある」と、絶望的なひと言を告げて映画は終わる。「生産性」を重視するプロテスタントに、人間の力ではなく「神の恩寵」を重視するカトリックが反撃を開始し、いわば「宗教改革」に対する逆襲が始まったのである。ブレクジットもトランプ現象も根底にあるのは宗教戦争で、陰謀論とかフェイクというかたちをとっているかに見えるけれど、「一生懸命に信仰すること」が「一生懸命に働くこと」に取って代わった16世紀から現在の新自由主義に至る500年の流れを反転させたいのである。それをマクドナー監督は「終わらない方がいい戦いもある」と表現し、もしかすると無意識に支持している。妥協点はない。繰り返すけれど、舞台はカトリックの国アイルランドが選ばれている。
宗教戦争というとブレクジットやトランプ現象に急に距離を感じる人は多いだろう。僕もヨーロッパの一神教とは無縁なので、この映画を観るまで宗教改革とそれらを結びつけることはなかった。そして、距離があるということはこの問題を俯瞰的に眺める位置にいるということであり、宗教改革によって「一生懸命に信仰すること」が「一生懸命に働くこと」にすり替わったことよりも、かねてから西欧人が「一生懸命」なことが問題なのではないかと思っていたことが確信に変わった。プーチンによるウクライナ侵攻が始まった時、「まだ戦争なんてことが起きるのか」と驚いていた誰かのひと言に触発されて、僕は「国家対国家」の戦争というのは、近代以降、西欧に特有の現象ではないかと思い、アジア、アフリカ、そしてラテン・アメリカでは西欧諸国が絡まない「国家対国家」の戦争がどれだけあるのか調べてみた。全部を調べ切れたわけではないけれど、日本を除くアジアでは西欧が絡んだインドネシア戦争の余波で起きたカンボジア-ヴェトナム戦争などを除くと、19世紀の泰越戦争やネパール~チベット戦争、20世紀に入ってからの印パ戦争ぐらいしか起きていず、アフリカでは(モシ王国やダホメ王国、それとキューバを巻き込んだ南アフリカ国境紛争は説明が難しくなるので省略し、小さな国境紛争を除くと)やはりオガデン戦争、ウガンダ~タンザニア戦争、第1次コンゴ戦争、第2次コンゴ戦争ぐらいで、ラテン・アメリカは西欧人の流入があったせいか、ペルーがチリ、コロンビア、そしてエクアドルとは3回も戦争をしたのが最多で、ブラジルとアルゼンチンのシュプラティーナ戦争、最も悲惨と言われた三国同盟戦争、ブラジルとボリビアのアクレ紛争、ボリビアとパラグアイのチャコ戦争、エルサルバドルとホンジュラスのサッカー戦争などで、アメリカが絡んだサンディーノ戦争やグレナダ侵攻に南米諸国が巻き込まれた例をいくつかを加えてもやはりそれほどの数ではなく、西欧諸国同士や西欧諸国がアジアやアフリカに仕掛けた戦争の数とは圧倒的な開きがあるのだとわかった。アジア、アフリカ、南米ではむしろ内戦の回数が尋常ではなく、問題なのは内輪揉めであって、そうなると考える内容はまた別なことになると思うけれど、日本やトンガが何度か先制攻撃をかけて侵略戦争を始めた国だということもこれまでとは感じ方が変わってきた。いずれにしろ戦争を生み出してきたのは圧倒的に西欧人の「一生懸命」であり、『イニシェリン島の精霊』でもプロテスタントの「一生懸命」は中盤から理解不能な行動様式へとエスカレートしていく。そう、マクドナー監督はプロテスタントの行動様式やそれをドライヴさせているリベラル思想に異様なイメージを貼りつけようとしていると僕には見える。そうは見えなかった、教養のないパードリックの方がやはり共感できないという人もいるのかもしれないけれど(妹の存在がその気持ちを後押しする)、パードリックにはもう戦いをやめる気はない。『イニシェリン島の精霊』はブレクジットやトランプ現象はこれからが始まりだと告げている。宗教改革は短く捉えても133年は続いている。
いまから思えばブレクジットやトランプ現象を予見させるひと言はローラン・ガルニエの口から最初に聞いたことを思い出す。remixのインタヴューだったと思うけれど、フランスの大統領選にニコラ・サルコジが勝利したことについて感想を求めたところ、彼は「初めて隣人が信じられなくなった」と語っていた。あの時、明らかにガルニエは分断を肌で感じとっていた。パードリックがコルムに絶交だと告げられた時と同じショックをガルニエは言葉にしていたのである。あれが始まりだったとすれば133年のうち15年が経過したことになる。映画のストーリーはもっと複雑多岐で、登場人物も多いけれど、ここには書かない。女性問題もあるし、警察権力や教会権力の問題も丁寧に織り込まれている。生活感もあれば、スピった要素もあって(バンシーズだしね)、物語の奥行きは実にだだっ広い。「いい奴」を定義するために動物と人間の距離もしっかりと描かれ、どこをとっても雑な部分はない。『スリー・ビルボード』から5年が経っているだけのことはある。ele-kingは音楽情報サイトなので、ひとつだけ主題と関係ないことを書いて気晴らしをすると、コリン・ファレルと共に『聖なる鹿殺し』に出演していたバリー・コーガンがここではまるでシェイン・マガウアンにしか見えない。ニュー・ウェイヴのファンなら誰もがそう感じることだろう。しかも、音楽に勤しむコルムがフィドルを弾く姿はザ・ポーグスのメンバーとダブって見え、余計にそれらしさが増している。そういえばおとといはクリスマスだったのに〝Fairytale of New York〟を聞かなかったな。いまからでも聴いて、そして、もう寝よう。世界は溟い。
三田格