「Low」と一致するもの

Mika Vainio + Ryoji Ikeda + Alva Noto - ele-king

 2002年9月23日。英国のニューキャッスルにあるバルティック・センター・フォー・コンテンポラリー・アーツにて、ミカ・ヴァイニオ、池田亮司、アルヴァ・ノト(カールステン・ニコライ)らによる最初で最後の競演が行われた。今から16年も前の出来事である。しかし、その音響は明らかに「未来」のサウンドだ。今、『Live 2002』としてアルバムとなったこの3人の競演を聴くと、思わずそう断言してしまいたくもなる。
 この『Live 2002』には、音響の強度、運動、構築、逸脱、生成、そのすべてがある。11のトラックに分けられた計45分間に及ぶ3人のパフォーマンスを聴いていると、00年代初頭のグリッチ・ノイズ/パルスを取り入れた電子音響は、この時点である種の到達点に至っていたと理解できる。強靭なサウンドで聴き手の聴覚を支配しつつも、無重力空間へと解放するかのような音響が高密度に放出されているからだ。このアルバムのミニマル・エレクトロニック・サウンドは、00年代初頭の電子音響・グリッチ・ムーヴメントの最良の瞬間である。
 2002年といえばカールステン・ニコライはアルヴァ・ノト名義で『Transform』を2001年にリリースし、いわゆる「アルヴァ・ノト的なサウンド」を確立した直後のこと。池田亮司も2001年に『Matrix』をリリースしそれまでのサウンドを総括し、翌2002年には弦楽器を導入した革新的アルバム『op.』を発表した時期だ。ミカ・ヴァイニオも Ø 名義で2001年にアルヴァ・ノトとの競演盤『Wohltemperiert』を、ソロ名義で2002年にフェネスとの競演盤『Invisible Architecture #2』を、パン・ソニックとしてもバリー・アダムソンとの共作『Motorlab #3』、翌2003年にはメルツバウとの共作『V』もリリースしており、コラボレーションを多く重ねていた。
 つまり彼らは、これまでの活動の実績を踏まえ、大きく跳躍しようとしていた時代だったのではないか。逆に言えばそのサウンドの強度/個性はすでに完成の域に至っていた。そう考えると『Live 2002』の充実度も分かってくる。3人の最初の絶頂期において、その音が奇跡のように融合したときの記録なのだ。この種の「スーパーグループ」は単なる顔合わせに終わってしまうか、今ひとつ個性がかみ合わないまま終わってしまう場合が多い。しかし本音源・演奏はそうではない。以前から3人が競作していたようなノイズ/サウンドを発しているのだ。

 とはいえ3人揃っての競作・競演はないものの、カールステン・ニコライと池田亮司はCyclo.としてファースト・アルバムを2001年にリリースしていたし、ミカもカールステン・ニコライ=アルヴァ・ノトと共作『Wohltemperiert』を2001年にリリースしているのだから、すでに充実したコラボレーションは(部分的にとはいえ)実現していた。
 ゆえに私はこの『Live 2002』の充実は、才能豊かなアーティストである3人がただ揃っただけという理由ではないと考える。そうではなく2002年という時代、つまりはグリッチ以降の電子音響が、もっとも新しく、先端で、音楽の未来を象徴していた時代だからこそ成しえた融合の奇跡だったのではないか、と。
 むろん『Live 2002』を聴いてみると、このパルスは池田亮司か、このノイズはミカ・ヴァイニオか、このリズミックな音はアルヴァ・ノトか、それともCyclo.からの流用だろうか、などと3人のうちの誰かと聴き取れる音も鳴ってはいる(M4、M5、M6、M10など、リズミック/ミニマルなトラックにその傾向がある)。
 しかし同時にまったく誰の音か分からないノイズも鳴っており(クリスタル・ドローンなM7、強烈な轟音ノイズにして終曲のM11など)、いわばいくつもの電子音の渦が、署名と匿名のあいだに生成しているのである。それは3人が音を合わせたというより、この時代に鳴らされた「新世代サウンド、ノイズ」ゆえの奇跡だったのではないか。グリッチ電子音響時代の結晶としての『Live 2002』。

 90年代中期以降に世界中に現れたグリッチ的な電子音響音楽は、グリッチの活用による衝撃というデジタル・パンクといった側面が強かったが(キム・カスコーン「失敗の美学」)、00年代初頭以降は、それを「手法」として取り込みつつ、電子「音楽」をアップデートさせる意志が強くなってきたように思える。つまり電子音響が、大きくアップデートされつつある時期だったのだ。彼ら3人の音もまたそのような時代の熱量(音はクールだが)の影響を十二分に受けていた。先に描いたようにちょうどこの時期の3人のソロ活動からその変化の兆しを聴きとることもできるのだ。
 膨大化するハードディスクを内蔵したラップトップ・コンピューターや独自のマシンによって生成された電子音響/音楽/ノイズは、和声や旋律、周期的なリズムなど「音楽」的な要素を持たなくとも、その多層レイヤー・ノイズやクリッキーに刻まれるリズムによって聴き手の聴覚を拡張し、音楽生成・聴取の方法までも拡張した。90年代以降の電子音響は、21世紀最初の「新しい音楽」であったのだ。
 そのもっとも充実した時期の記録が本作『Live 2002』なのである。このアルバムは2017年に亡くなったミカ・ヴァイニオへの追悼盤ともいわれているが、〈ラスター・ノートン〉からの「分裂」(という言い方は正しくはないかもしれない)以降、カールステン・ニコライが主宰する新レーベル〈ノートン〉のファースト・リリースでもある以上、単に過去を振り返るモードでもないだろう。「追悼と未来」のふたつを、21世紀の最初の新しい音響/音楽に託して示しているように思える。
 じっさい『Live 2002』を聴いていると、そのノイズ音響は明晰で、強靭で、もはや2018年のエクスペリメンタル・ミュージックにしか思えない瞬間が多々ある。2002年という「00年代電子音響の最初の充実期」において、ミカ・ヴァイニオ、池田亮司、カールステン・ニコライの3人は2018年に直結する刺激と破格のノイズを鳴らしていた。16年の月日を感じさせないほどに刺激的な録音である。

 2002年、電子音楽には未来のノイズが鳴っていた。そして2018年、その過去との交錯から今、電子音楽/音響の歴史が、また始まるのだ。


Courtney Barnett - ele-king


 コートニー・バーネットは左利き。ジミ・ヘンドリックスも左利き、カート・コバーンもそう。
 コートニー・バーネットはミニマリズムの短編作家のような歌詞をあたたかいメロディとグルーヴィーな8ビートに乗せる。
 彼女は空想して、曲を書いて歌う。
 傑作『サムタイムス・アイ・シット・アンド・シンク、サムタイムス・アイ・ジャスト・シット』から3年、待望のセカンド・アルバムがリリースされる。
 『テル・ミー・ハウ・ユー・リアリー・フィール』。
 君は本当にどのように感じているんだい?



Courtney Barnett - Nameless, Faceless


コートニー・バーネット (COURTNEY BARNETT)
『テル・ミー・ハウ・ユー・リアリー・フィール (TELL ME HOW YOU REALLY FEEL)』

発売日:2018年5月18日(金)

Amazon: https://amzn.asia/19I5TnP
iTunes/ Apple Music: https://apple.co/2EsIthe
Spotify: https://spoti.fi/2Hgdoem

■COURTNEY BARNETT プロフィール
1988年、豪生まれ。2012年、自身のレーベルMilK! Recordsを設立し、デビューEP『I’ve got a friend called Emily Ferris』(2012)をリリース。続くセカンドEP『How To Carve A Carrot Into A Rose』(2013)は、ピッチフォークでベスト・ニュー・トラックを獲得するなど彼女の音楽が一躍世界中に広まった。デビュー・アルバム『サムタイムス・アイ・シット・アンド・シンク、サムタイムス・アイ・ジャスト・シット』(Sometimes I Sit and Think, Sometimes I Just Sit)を2015年3月にリリース。グラミー賞「最優秀新人賞」にノミネート、ブリット・アウォードにて「最優秀インターナショナル女性ソロ・アーティスト賞」を受賞する等、世界的大ブレイクを果たし、名実元にその年を代表する作品となった。2018年5月、全世界待望のセカンド・アルバム『テル・ミー・ハウ・ユー・リアリー・フィール』をリリース。
https://courtneybarnett.com.au/

スリー・ビルボード - ele-king

 年頭からH&Mの広告と日本テレビの番組に人種差別があったとして騒ぎになり、2社はかなり異なる対応を示した。南アで起きた店舗の打ち壊しやコラボレーターからの契約解除などH&Mに選択の余地はなく、即座に謝罪した上で「多様性と包括性のためのグローバル・リーダー」を新たに雇い入れたと発表、つまりは落ち度があり、そのマイナスは改善されることになるとアナウンスが行われたのに対し、一方の日本テレビは「差別意識はなかった」という声明を出したのみで、新たな世界観を企業が取り入れていくという姿勢は見せなかった。H&Mと同じ対応でもいいし、世界的にポリティカル・コレクトネス(PC)の行き過ぎで表現がいま非常に窮屈な思いをしているから日本テレビはあえてPC表現に挑戦していきますと宣言するとか、何かしら主体性を見せるいい機会だったと思うのに、それをせず、実質的に旧態依然としてやっていくとしか言っていない。「差別意識がなかった」ということは単に勉強不足だったということを自白しているだけで、それをいったらH&Mにも差別意識はなかっただろうし、世界の動向をトレンドとして学習した上でさらに面白い番組をつくっている例はいくらでもあるんだから、日本テレビだけでなく今後のTV業界のためにももう少し何かステートメントや企業としての方向性を出すべきだったのではないだろうか(韓流に駆逐されるまで日本のTV業界が東アジア全体に番組を売っていた時代もあったんだし~)。たとえばマーティン・マクドナー監督『セヴン・サイコパス』はコリン・ファレル演じる主人公が映画の脚本を書きながら、ああでもない、こうでもないとストーリーを考えるたびにPCが立ちふさがり、PCとの格闘自体がひとつの見せ場となっていた。あれがすでに6年前。日本テレビも自分たちが置かれている現状をそのままドラマ化してしまうとか、やり方はいくらでもあるだろうに。

 PCと格闘しながらいかにしてB級アクションを成立させるかという課題に取り組んだ『セヴン・サイコパス』に「目には目をではマイナスにしかならない」とかなんとかいうセリフがあった。それは全体を貫くテーマではなく、話の勢いに押し流されて出てきた思想のようにも思えたけれど、マクドナー監督にとってはそれが堂々とした新作のメイン・テーマとなった。『セヴン・サイコパス』から一転、非常にシリアスな演出とブラック・ユーモアが混ざり合った『スリー・ビルボード』は「目には鼻を、鼻には口を、口には顎を」とすべてのボタンがかけ違う復讐の連鎖が核となっている。娘をレイプで殺された母親ミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は町の入り口に立つ3枚の広告看板をすべて買い取り、警察に早く犯人を逮捕しろという広告文をデカデカと載せる。『セヴン・サイコパス』でマフィアの親分を演じたウッディ・ハレルソンが引き続き、今度は警察署長のウィロビーとして登場し、警察はサボっているわけではなく、手掛かりが何もないことをミルドレッドに説明する。ウィロビーは町の人気者で、彼が末期ガンに犯されていることは町の誰もが知っている。同じく『セヴン・サイコパス』でとびきりのサイコパスを演じたサム・ロックウェルはウィロビーの部下ディクソンとしてタッグを組み、ここでもかなり乱暴な役回りを演じている。黒人と見れば叩きのめし、広告会社に乗り込んで社長を窓から放り出す。町はだんだん騒然となっていき、誰もがミルドレッドさえ広告を出さなければこんなことにはならなかったと思い始めた頃、ウィロビーはガンを苦にして自殺してしまう。

 この作品に描かれているのはあからさまなリベラルの理想である。ミルドレッドが娘を殺したレイプ犯を何が何でも捕まえようとする理由は追って明らかになっていくにせよ「正義を行え」という主張に間違いがあるわけではない。彼女は方法論に過剰な逸脱があり、問題があるとしたら「性急さ」ということに尽きるだろう。彼女の行動はウィロビーの死を早めたように受け取られ、そのことで多くの軋轢を生み出すけれど、実際には彼女の行動とウィロビーの死には関係がない。自殺を選んだウィロビーにはそれがわかっている。(以下ネタばれ)ウィロビーは自殺するにあたってミルドレッドやディクソンに手紙を残しておく。この手紙が人種差別主義者であり、とんでもない暴力警官だったディクソンを変えることになる。サム・ロックウェルの演技は誰もが感嘆するところで、大いなる説得力を持っていた。僕もまったく文句はない。しかし、冷静に考えてみると、オルタ右翼やネトウヨは「愛されることがなかった」からヘイトに走っているだけで、そうでなければもっといい人間だったはずだという考え方がディクスソンの変化を裏打ちしていることにも思い当たる。スティーヴン・キングは映画『エクソシスト』を評して、ヒッピーは子どもたちに悪魔が取り憑いた状態で、悪魔を取り除けば子どもたちはまたいい子に戻るというメッセージを読み取っていた。それと同じで、ヘイトや人種差別をする人たちも元はいい人で、一時的に悪魔が取り憑いているような状態だとリベラルは考えていると、そのように『スリー・ビルボード』は設定しているとしか思えなくなってくる。教育程度の差もこの作品では丁寧に表現されているので一筋縄ではいかないけれど、共和党主義者からしてみればリベラルこそ悪魔憑きなのである(さらにご丁寧なことにアメリカ南部が舞台であるにもかかわらず宗教は無力だとして否定される場面もきちんと挿入されている。そういう部分も抜かりがないというのか、甘く見ているというのか)。ヒッピーも思想であり、オルタ右翼も思想であって、どちらも一時的な気の迷いではすまないライフ・スタイル以上のものがある。「愛されたか」「愛されなかったか」ではこの溝を飛び越えることは不可能だろう。だけど、それを観せようとして、実際に最後まで観せてしまうのが『スリー・ビルボード』なのである。

 この作品が上手いなと思うのはマイノリティの配置の仕方である。実にさりげなく、目立たない場所にメキシコ移民や黒人たちが置かれている(『ゲーム・オブ・スローンズ』のピーター・ディンクレイジもキャスティングされている)。話がクライマックスに入ってくると、その人たちがあっと思うようなところにいたことに気づかされる。デル・トロ『シェイプ・オブ・ウォーター』のようなわざとらしさがない。ミルドレッドは彼らのおかげで決定的な孤立には追い込まれない。マイノリティがすべからく「いい人」であることもリベラルの価値観に裏打ちされている側面だし、主要な役回りを与えられていないだけだろうとも言えるけれど、誰ひとり悪い人がいるわけではないのに悲劇は起き、それがどんどん深まっているというのがこの作品の背景をなしている現実認識なのである。物語の終盤、ミルドレッドとディクソンは仮想の「敵」を共有するまでとなり、この映画のブラック・ユーモア性は最骨頂に達していく。誰もがやるべきことをやっている。それは間違いない。

『スリー・ビルボード』予告映像

JASSS - ele-king

 〈Modern Love〉のアンディ・ストットやデムダイク・ステアらが(結果的にだが)牽引していた2010年代のインダストリアル/テクノの潮流は、2016年あたりを境界線に、ある種の洗練、もしくはある種の優雅な停滞とでもいうべき状況・事態になっている。それはそれで悪くない。インダストリアル/テクノはロマン主義的なテクノという側面もあるのだから退廃こそ美だ。
 しかし、その一方でサウンドは、ボトムを支えていたビートはレイヤーから分解/融解し、複雑なサウンドの層の中に溶け込むようなテクスチャーを形成する新しいフォームも表面化してきた。分かりやすい例でいえばアクトレスローレル・ヘイローの2017年新作を思い出してみれば良い。ビートとサウンドの音響彫刻化である。
 つまり洗練と革新が同時に巻き起こっている状況なのだ。すべてが多層化し、同時に生成していく。時間の流れが直線から複雑な線の往復と交錯と層になっている。いささか大袈裟にいえば2020年以降の文化・芸術とはそのような状況になるのではないか。

 今回取り上げるスペインのサウンド・アーティストJASSSは、そのような状況を経由した上での「新しさ=モード」を提示する。彼女にとって「新しさ」とはフォームではなくモードに思えた。スタイルや形式は、その音楽の中で並列化しているのだ。
 JASSSは、2017年に、ミカ・ヴァイニオと共作経験のある(『Monstrance』)、カルト・ノイズ・アーティスト、ヨアヒム・ノードウォール(Joachim Nordwall)が主宰する〈iDEAL Recordings〉からファースト・アルバム『Weightless』をリリースした。私はこの作品こそ現代のエクスペリメンタル・テクノを考えていくうえで重要なアルバムではないかと考えている。
 2010年代以降のインダスリアル、ドローン、テクノなどの潮流が大きな円環の中で合流し、2017年「以降」のモードが生まれているからだ。どのトラックも形式に囚われてはいないが大雑把に真似ているわけでもない。個性の檻に囚われてもいないが猿真似の遠吠えにもなっていない。ときにインダスリアル(の応用)、ときにアフリカン(の希求)、ときにタブ(の援用)、ときにアシッド(の記憶)、ときに硬質なドローン(の生成)、ときにEBM(の現代的解像度アップ)、ときにジャズ(の解体)など、1980年代以降の音楽要素を厳選しつつも自身の音楽へと自在にトランスフォームさせているのだ。それゆえどのトラックにも「形式」を超える「新しさ」が蠢いている。「個」があるからだ。

 JASSSは『Weightless』以前もベルリンのレーベル〈Mannequin〉からEP「Mother」(2016)、EP「Es Complicado」、〈Anunnaki Cartel〉からEP「Caja Negra EP」をリリースしていたが、『Weightless』で明らかにネクスト・レベルに至った。そのトラックメイクはしなやかにして、柔軟、そして大胆。そのうえ未聴感がある。
 何はともあれ1曲め“Every Single Fish In The Pond”を聴いてほしい。メタリック・アフリカン・パーカッシヴな音とインダストリアルなキックに、硬質で柔らかいノイズや微かなヴォイスがレイヤーされる。そして中盤を過ぎたあたりからアシッドなベースが唐突に反復する。どこか「インダストリアルなバレエ音楽」とでも形容したいほどのコンポジションによって、重力から逃れるような浮遊感を獲得している。続くA2“Oral Couture”も同様だ。ミニマル・アシッドなサウンドを基調にさまざまな細かいノイズが蠢くトラックメイクは優雅ですらある(スネアの入り方が人間の通常の身体性から少しずれたところをせめてくる気持ちよさ)。そしてB1“Danza”もアフリカン・インダストリアル・ミニマルとでも形容したいほどに独創的。さらに電子音のカットアップによる解体ジャズとでもいいたいB2“Cotton For Lunch”は、フランスのミュジーク・コンクレート作家ジーン・シュワルツを思わせもした。C1“Weightless”以降はインダスリアル・ミニマルなサウンドにダブ効果を導入したEBM的なトラックを大胆に展開する。
 全8曲、テクノ、インダスリアル、電子音響、ダブなど、さまざまなエレクトロニック・ミュージックのモードを自在に操りながらJASSSはわれわれの使われていない感覚を拡張する。どのトラックも、ビートはあっても重力から自由、硬質であっても物質的ですらない。ちなみに本作の印象的なアートワークを手掛けたのは、2017年に〈PAN〉からアルバムをリリースしたPan DaijingでJASSSのサウンドが持っている独特の浮遊感をうまく表現しているように思えた。

 『Weightless』を聴くとJASSSが特別な才能を持ったサウンド・アーティストであると理解できる。そしてその音からは壊れそうなほどに鋭敏な感受性も感じてもしまう。例えばミカ・レヴィ=ミカチューのように映画音楽にまで進出してもおかしくないほどのポテンシャルを内包した音楽家ではないか、とも。いや、もしかするとポスト・アルカと呼べる存在は彼女だけかもしれない(言い過ぎか?)。
 なぜなら、JASSSは技法やスタイルの向こうにある「音楽」を構築しているからである。ポスト・インダストリアルからアフター・エクスペリメンタル。コンセプトよりも分裂。もしくは物語よりもテクスチャー。 新しい音、モード。 その果てにある「個」の存在。
 20世紀以降、大きな物語が終焉したわけだが、それは21世紀において小さな物語が無数に生産されたことも意味する。それを個々のムーヴメントと言いかえることもできるが、JASSSはそのような個々の潮流ですらも手法(モード)として取り込み、単純な物語化に依存していない。テクノもエクスペリメンタルも包括した「音楽」の実験と創作に留まり続けている。それは停滞ではない。自分の音楽を希求するという意味では深化である。

Mark Pritchard - ele-king

 ベース・ミュージックへの傾倒から一転し、穏やかで叙情性に満ちた美しいアルバム『Under The Sun』を作り上げたUKテクノのベテラン、マーク・プリチャード。その新たな作品『The Four Worlds』が3月23日にリリースされる。先行公開された“Come Let Us”のドローンとヴォイスを聴く限り、前作の路線を引き継ぎつつもまた新たな試みをおこなっているようである。はたして「4つの世界」とは何を意味するのか? 待て、しかして希望せよ。

MARK PRITCHARD

新作『THE FOUR WORLDS』3月23日リリース決定
新曲“WATCH COME LET US FEAT. GREGORY WHITEHEAD”公開
MVを手がけたのは気鋭アーティスト、ジョナサン・ザワダ

マーク・プリチャードが、トム・ヨークやビビオが参加した2016年のアルバム『Under The Sun』のサウンドをさらに追求した8曲入りの新たな作品集『The Four Worlds』を3月23日にリリース決定。アートワークを手がけた気鋭アーティスト、ジョナサン・ザワダによるミュージック・ビデオとともに、新曲“Come Let Us feat. Gregory Whitehead”が公開された。

Mark Pritchard - Come Let Us (feat. Gregory Whitehead)
https://youtu.be/Eq8uo6dv4Y4

label: Warp Records
artist: Mark Pritchard
title: The Four Worlds

iTunes: https://apple.co/2nPwaAg
Apple: https://apple.co/2nLw8do

GEIST - ele-king

 昨年出た YPY 名義のアルバムも記憶に新しい日野浩志郎。バンド goat の牽引者でもある彼が2015年より続けている大所帯のオーケストラ・プロジェクトをさらに発展させた公演が、3月17日と18日、大阪の名村造船所 BLACK CHAMBER にて開催される。イベント名は《GEIST(ガイスト)》。マルチチャンネルを用いた音響により、空間全体を使って曲を体験できる公演となるそうだ。ローレル・ヘイロー最新作への参加も話題となったイーライ・ケスラー、カフカ鼾などでの活動で知られる山本達久らも出演。詳細はこちらから。

GEIST

Virginal Variations で電子音と生楽器の新たなあり方を提示した日野浩志郎(goat、YPY)の新プロジェクトは、自然音と人工音がいっそう響き合い光と音が呼応、多スピーカー採用により観客を未知なる音楽体験へと導く全身聴取ライヴ……字は“Geist

島根の実家は自然豊かな場所にあって、いまは、雨が降っている。その一粒一粒が地面を叩く音をそれぞれ聞き分けることはもちろんできないから、広がりのある「サー」という音を茫と聞く。やがて雨があがり陽が射すと、鳥や虫の声が聞こえてくる。家の前の、山に繋がる小さな道を登っていけば、キリキリキリ、コンコン、と虫の音がはっきりしてくる。好奇心をそそられ、ある葉叢に近づくと音のディテイルがより明瞭に分かる。さらに、たくさんのほかの虫の声や頭上の風巻き、鳥の声、葉擦れ衣擦れなどを耳で遊弋し、小さな音を愛でる自分の〈繊細な感覚〉に満足、俄然興が乗り吟行でもせんかな、いや、ふと我に返る。と、それまで別々に聞いていた音が渾然となって耳朶を打っていることに気づきなおしてぼう然する。小さな音が合わさって、急に山鳴りのように感じる。……。「〈繊細な感覚〉なんてずいぶんいい加減なものだ」と醒めて、ぬかるんだ山道で踵を返す。きっと、あの時すでに“Geist”に肩を叩かれていたのだ――。

【日時】
2018年 3月17日(土)
昼公演 開場:13:30 開演:14:00
夜公演 開場:19:00 開演:19:30

2018年 3月18日(日)
昼公演 開場:13:30 開演:14:00
夜公演 開場:19:00 開演:19:30

【会場】
クリエイティブセンター大阪(名村造船所跡地) BLACK CHAMBER
〒559-0011 大阪市住之江区北加賀屋4-1-55
大阪市営地下鉄四つ橋線 北加賀屋駅4番出口より徒歩10 分
https://www.namura.cc

【料金】
前売り2500円 当⽇3000円

【ウェブサイト】
https://www.hino-projects.com/geist

【作曲】
日野浩志郎

【出演者】
Eli Keszler
山本達久
川端稔 (*17日のみ出演)
中川裕貴
安藤暁彦
島田孝之
中尾眞佐子
石原只寛
亀井奈穂子
淸造理英子
横山祥子
大谷滉
荒木優光

【スタッフ】
舞台監督 大鹿展明
照明 筆谷亮也
美術 OLEO
音響 西川文章
プロデューサー 山崎なし
制作 吉岡友里

【助成】
おおさか創造千島財団

【予約方法】
お名前、メールアドレス、希望公演、人数を記載したメールを hino-projects@gmail.com まで送信ください。またはホームページ上のご予約フォームからも承っております。

【プロフィール】

日野浩志郎
1985年生まれ島根出身。カセットテープ・レーベル〈birdFriend〉主宰。弦楽器も打楽器としてみなし、複合的なリズムの探求を行う goat、bonanzas というバンドのコンポーザー兼プレイヤーとしての活動や、YPY 名義での実験的電子音楽のソロ活動を行う。ヨーロッパを中心に年に数度の海外ツアーを行っており、国内外から様々な作品をリリースをしている。近年では、クラシック楽器や電子音を融合させたハイブリッドな大編成プロジェクト「Virginal Variations」を開始。

Eli Keszler
Eli Keszler(イーライ・ケスラー)はニューヨークを拠点とするアーティスト/作曲家/パーカッション奏者。音楽作品のみならず、インスタレーションやビジュアルアート作品を手がける彼の多岐に渡る活動は、これまでに Lincoln Center や The Kitchen、MoMa PS1、Victoria & Albert Museum など主に欧米で発表され、注目を浴びてきた。〈Empty Editions〉や〈ESP Disk〉、〈PAN〉、そして自身のレーベル〈REL records〉からソロ作品をリリース。ニューイングランド音楽院を卒業し、オーケストラから依頼を受け楽曲を提供するなど作曲家としても高い評価を得る一方で、最近では Rashad Becker や Laurel Halo とのコラボレーションも記憶に新しく、奏者としても独自の色を放ち続けている。

山本達久
1982年10月25日生。2007年まで地元⼭⼝県防府市 bar 印度洋を拠点に、様々な音楽活動と並行して様々なイベントのオーガナイズをするなど精⼒的に活動し、基本となる音楽観、人生観などの礎を築く。現在では、ソロや即興演奏を軸に、Jim O'Rourke/石橋英子/須藤俊明との様々な活動をはじめ、カフカ鼾、石橋英子ともう死んだ⼈たち、坂田明と梵人譚、プラマイゼロ、オハナミ、NATSUMEN、石原洋withFRIENDS などのバンド活動多数。ex. 芸害。青葉市子、UA、カヒミ・カリィ、木村カエラ、柴田聡子、七尾旅人、長谷川健⼀、phew、前野健太、ヤマジカズヒデ、山本精⼀、Gofish など歌手の録音、ライヴ・サポート多数。演劇の生伴奏・音楽担当として、SWANNY、マームとジプシーなど、主に都内を中心に活動。2011 年、ロンドンのバービカン・センターにソロ・パフォーマンスとして招聘されるなど、海外公演、録音物も多数。


Event details - English -

Following “Virginal Variations”, a project which explored a new way of merging electronic and acoustic sounds, Koshiro Hino (from goat and YPY) presents his latest composition, titled “Geist”. Set in an immersive environment with interacting sounds and lightings, “Geist” invites audience to a new world of live music experience which people listen sounds with their whole body.

My home in Shimane is located in a nature-rich environment, and now, it’s raining outside. Needless to say, I cannot hear each of the raindrops hitting the ground, so I hear the rain’s “zaaaaa” sound that spreads in space. Soon after, the rains stopped and sunshine began to pour, and I started to hear the sounds of birds and insects. As I walk up the small path that connects from my home to the mountain, those insects’ buzzing and creaking sounds became more clear. As I get closer to the trees, the sound details became more distinct. With my ears, I observed closely a myriad of sounds from other insects, the wind blowing above, birds, rustling leaves and my own clothing. I enjoyed my ‘delicate sensibility’ that appreciates those little sounds, thinking, “Maybe I suddenly get excited and start composing a poem…” But soon later, I came back to myself. And suddenly, I got stunned, realizing that the sounds I heard separately now forms a harmonious whole and hits my ears. Those little sounds became one, and I hear it as if the mountain is rumbling... “The ‘delicate sensibility’ is so unreliable. “ I recalled myself and walked back the muddy path. — And by then, I now believe that I had already made my encounter with “Geist”.

[Date / Time]
Saturday, March 17, 2018
Day time performance Open: 13:30 Start: 14:00
Night time performance Open: 19:00 Start: 19:30

Sunday, March 18, 2018
Day time performance Open: 13:30 Start: 14:00
Night time performance Open: 19:00 Start: 19:30

[Venue]
Creative Center Osaka (Old Namura Ship Yard) BLACK CHAMBER
4-1-55, Kitakagaya, Suminoe Ward, Osaka City, Osaka 559-0011
https://www.namura.cc

[Price]
Advanced ¥2500 Door ¥3000

[Website]
https://www.hino-projects.com/geist

[Composed by]
Koshiro Hino

[Performers]
Eli Keszler
Tatsuhisa Yamamoto
Minoru Kawabata (*only on the 17th)
Yuuki Nakagawa
Akihiko Ando
Takayuki Shimada
Masako Nakao
Tadahiro Ishihara
Nahoko Kamei
Rieko Seizo
Shoko Yokoyama
Koh Otani
Masamitsu Araki

[Staff]
Stage direction - Nobuaki Oshika
Lighting design - Ryoya Fudetani
Stage art - OLEO
Sound engineering - Bunsho Nishikawa
Co-direction - Nashi Yamazaki
Production - Yuri Yoshioka

[Supported by]
Chishima Foundation for Creative Osaka

[Reservation]
To reserve your seat(s), please send an email to hino-projects@gmail.com with your name, your contact, number of people, and the performance date you wish to visit.

yahyel - ele-king

 続報が届きました。ヤイエルが3月7日リリースのセカンド・アルバム『Human』から新曲“Pale”を解禁、MVも公開されています。一見静かで落ち着いた曲に聞こえますが、後ろのほうで色々とおもしろいことが起こっています。ビデオも独特の雰囲気を醸し出していて、ますますアルバムへの期待が高まります。あわせて全国ツアーの詳細も発表されていますので、下記よりチェック。

ヤイエル、待望のセカンド・アルバム『Human』から
新曲“Pale”をミュージック・ビデオとともに解禁!
初となるレコ発ツアーのチケット一般発売は明日から!
新たに仙台公演も決定!

yahyel
- Human Tour -

2016年12月に渋谷WWWにて行われたワンマンは、デビュー・アルバム『Flesh and Blood』の発売日を前に完売。その後も、FUJI ROCK、VIVA LA ROCK、TAICOCLUBなどの音楽フェスへの出演も果たし、ウォーペイント(Warpaint)、マウント・キンビー(MountKimbie)、アルト・ジェイ(alt-J)ら海外アーティストの来日ツアーでサポート・アクトにも抜擢されるなど、活況を迎えるシーンの中で、独特の輝きを放ち続けたyahyel(ヤイエル)が、1年3カ月の時を経て、2度目のワンマン・ライヴ、そしてレコ発ツアーが決定!

anemone - ele-king

 ユニットとは「虚構的存在」である。二人以上、三人未満で何らかの名を名乗ること(4人以上はグループ、もしくはバンドだ)。その類まれな「虚構性」。名乗った時点でそれぞれの人格は、ユニットという虚構的存在へと吸収される。いや包括されるとでもいうべきか。人格とも違う「存在」がそこに生成する。ユニットという「存在」の「現実化」。
 日本のエレクトロニカ・レーベルの老舗〈PROGRESSIVE FOrM〉からリリースされた anemone のファーストアルバム『anemone』を聴いたとき、私はそんな「ユニットという存在」がもたらす虚構性の魅惑を強く感じた。存在と非存在のあいだに鳴り響く、ロマンティックな光のようなエレクトロニカ・ポップ・ユニットの誕生とでもいうべきか。
 まるで繊細な和菓子のようなエレクトロニック・サウンドの折り重なりと、華のように、もしくは夢のように、やがて消え入りそうな儚いヴォーカルが交錯し、全曲12曲アルバム1枚にわたって、ひとつの(そして12の)小さな物語が語られ、意識の欠片のような詩情を鳴らす。それはときに光のように強く、ときに空気のように儚く、ときに消失する心のように切ないものだった。まさにニュー・ロマンティック。それが私を強く魅了した。世界のむこうへ。音の彼方へ。意識の儚さへ。電子音楽の美しさへ。声の官能性へ。電子音、シンセサイザー、ピアノ、声、ギター、グリッチ・ノイズ、エレクトロニクスが光の雨のように降り続ける感覚……。

 anemone は日本在住、1992年生まれのトラックメイカー ninomiya tatsuki と中国在住のヴォーカリスト Yikii による「日中デュオ」とアナウンスされている。2015年、ninomiya tatsuki と Yikii はSoundCloud上に公開していたお互いのトラックに惹かれ、競作を始めたという。そうして名曲“夢うつつ”が2016年に生まれたらしい。「初めて人と音楽を作る楽しさを見出した」。そう思った ninomiya は、Yikii にユニットの結成を提案する。anemone の誕生である(記念すべき“夢うつつ”は本作10曲めに収録されている)。アルバムは1年ほどの時間をかけて丁寧に制作されたのだろう。夢の光のようなアトモスフィアを放ち、誕生の祝福と消失の儚さの両方を持っている作品に仕上がっていた。

 本アルバムの曲は、どれも儚い光のようだ。Yikii のヴォイスも、ninomiya tatsuki のトラックも、ロマンティックな虚構性をまとっているのである。
 例えば2曲め“killing me softly”を聴いてほしい。ゆっくりと時間に浸透するかのごとき可憐なピアノのアルペジオと、シルキーな声が交錯する中、さまざまなサウンド・エレメントが優しくトラックをコーティングする。そのサウンドの虚構のような脆さ、儚さ。そして何より曲が良い。細やかな和声・コード進行で展開し、単なるミニマリズムでは終わらない慎ましやかなドラマ性が生まれている。

 記憶を慈しみ、しかし、その純粋性ゆえ、自らの手で記憶を消失させてしまうようなイノセントな残酷さを象徴するようなソングライティングとアレンジメント。そのムードは“insomnnia”という曲にも強く感じた。

 さらには光の粒子のごとき電子音と淡いアンビエンスに Yikii のヴォーカルがレイヤーされ、液晶のロマンティシズムとでも形容したい“tablet”(曲中盤のラップパート? も素晴らしい)、光と影がガラスの欠片の中に結晶するかのような短いインスト・トラック“vain”、Yikii のリーディング的なヴォイス/ヴォーカルと深海の交信を思わせるエレクトロニクス、ファットなビートの交錯が耳に心地よい“pain”、グリッチ・ノイズと旋律が交錯する“requiem”など、どの曲も、どのトラックも声と電子音が記憶の深層心理に響くような見事な出来栄えである。フランス印象派の響きに、オリエンタリズムの香水を落としたエレクトロニカ・ポップ・アルバム。

 ここでアートワークに改めて目を向けてみると、やや逆光気味のアートワークにも「光」の儚さが満ちていた。まさに「夢うつつ」である。それは虚構への希求でもあるのかもしれない。このユニットは自らを虚構の中に封じこめることによって世界の醜さを一掃し、類まれな美的感覚を差し出そうとしているのではないか。いわば「虚構内存在」としての「印象派オリエンタル・エレクトロニカ・ポップ・ユニット」として……。
 ともあれ、エレクトロニカ・ポップという領域において、近年稀にみるアルバムである。ぜひともアルバムを聴いてほしいと思う。リスニング後、あなたの感覚が浄化されるだろうから。

interview with Rhye - ele-king


Rhye - Blood
Loma Vista / ホステス

R&BSoul

Amazon Tower HMV iTunes

 シャーデーを好きな男は当然、昔からたくさんいた。だが、シャーデーのような男、はどうだろう。姿を明かしていなかった登場時、その声の主は女性であると多くの人間が思いこんだ。が、そうして愛の憂鬱を呟いていたのはマイケル・ミロシュという男だった。

 ジェンダーとセクシュアリティの自由が拡張され続ける現在、ライはそんな時代にふさわしい性の新しい価値観をもっとも先鋭的かつポップに繰り広げようとするアーティストだ。ジャジーでスムースなソウルに乗せて囁かれる愛の歌……はけっして新しいものではないが、女性性の内側にまで男が入りこもうとする事態は、旧来の性のあり方を湯煎でチョコレートを溶かすようにゆっくりと無効にしてしまう。そう、ライの音楽は成り立ちのメカニズム自体がエロティックだ。性の境界を生理において越えること。ファースト・シングル“Open”のヴィデオが女性監督によるセックスする男女を映すものであったことは、完璧にライの音楽をリプリゼントした。
高い評価を受けたデビュー作『ウーマン』から5年を経たセカンド・アルバム『ブラッド』は、『ウーマン』の色香に悩殺されたリスナーの期待に応える仕上がりになっている。バンドの演奏はよりオーガニックになり、アルバム全体のトーンも前作よりまとめられているとはいえ、基本的な路線は変わらない。ジャズ、ソウル、R&B、香りづけとしてのディスコとハウス、それにファンク。ブラック・ミュージックの官能はあくまできめ細かく調理され、どこまでもエレガントに立ち上がる。スロウなテンポでストリングスがミロシュのアンニュイな声と絡み合う“Waste”。ファンキーなベースラインが品よく躍動する“Taste”。本作からのファースト・シングル“Please”におけるスウィートな愛の憂いに聴き手が辿りつくころには、前作同様の、あるいは前作よりも深くまで染みこむ恍惚が静かに押し寄せている。

 個人の性愛がインターネットを介してあっという間に晒されてしまう現在では忘れられがちなのかもしれないが、性の快楽は閉ざされた場所でこそその真価を発揮する。誰にも奪われない私だけの悦び。そしてそれは、秘めごとであるがゆえに限りなく自由であっていいはずだ。だからライの音楽にダンス・フィールはあってもダンスフロアの公共性には向かわないし、ライヴ会場にあっても一対一の関係を結ぶようなインティマシーを生み出そうとする。どこか不穏な緊張感が途切れずに漂う“Blood Knows”は『ブラッド』におけるハイライトのひとつだが、そこで音に集中していると、普段は押し隠したありったけのエロスを開放しろと迫られているような心地になる。
だが、ひとりだけの快楽だけでは『ブラッド』は終わらない。それをもっとも大切な誰かに明け渡すことで、このラヴ・ソング集は完成するのだとミロシュは言う。それほどエロティックな体験はないということなのだろう。

愛は愛だし、ジェンダーは関係ない。

ライの登場は衝撃的でした。というのも、シンガーの姿が明かされないまま洗練されたソウルが展開されていて、聴き手の興味と想像力を掻き立てたからだと思います。なぜ当初は姿を隠し、匿名的に登場したのでしょうか? また、なぜ現在は姿をオープンにすることにしたのでしょうか?

マイケル・ミロシュ(Michael Milosh、以下MM):最初も、とくに姿を隠したいとかそういう目的はなかったんだ。ただ、音楽をイメージで判断して欲しくなかったから、写真に自分が写らないようにしていただけなんだよ。でも、前のアルバムをリリースしてからパフォーマンスをするようになって、オーディエンスはもちろん僕が誰なのかをもう知っているわけだよね。だから、いまはもっと普通に姿を見せるようになった。それだけさ。ダフト・パンクみたいに、覆面になってまで自分を隠そうとしていたわけではないんだ(笑)。自分が写真に写らない、ということを考えていただけさ。

ファースト・アルバム『ウーマン』は日本も含めて、非常に大きな反響がありました。高い評価を受けた作品でしたが、どのようにリアクションを受け止めましたか?

MM:ただ自分が作りたいものをベッドルームで作っただけだったから、正直リアクションには驚いたよ。だんだん慣れていったけど、受け取るまでには時間がかかった。子どもから手紙をもらったり、僕の音楽を聴いてハグしあったり、泣いたりするひとを見たり、みんながすごくエモーショナルになっている姿を見たりすると、自分の音楽が彼らの感情にまで届いてるんだなというのを実感することができる。それって本当に素晴らしいことだし、本当に嬉しいよ。

また、『ウーマン』においてはバンドの姿が隠されていたぶん、ミュージック・ヴィデオが非常に重要な役割を果たしていました。音楽を映像で見せるとき、あなたからどのようにコンセプトやテーマなどが提示されたのでしょうか?

MM:自分に実際に起こっていることがヴィデオのコンセプトになった。でも、それをダイレクトにヴィデオで表現はしたくなかったから、チームには具体的なことは言わないでいたけどね。それを映像で表現しようとすると、あまりにも何を表現しようとしているかが明らかになってしまうときもある。だから、それが赤裸々になりすぎないよう、少し気をつけなければいけないと学んだよ(笑)。ヴィデオには、そういった自分の中の何かがアイディアになることもあるし、物語性を持ったものもあれば、動きを楽しむものもある。その多様性をみんなに楽しんでほしいんだ。

その意味で、あなた自身が監督した“Please”のヴィデオは昨年の7月には発表されましたが、ライのセカンド・アルバムを想像するための重要なものだったと思います。ダンサーの身体の躍動が観ているこちらにも伝わってくるものでしたが、このヴィデオのコンセプトやテーマについて教えてください。

MM:あのヴィデオのテーマは謝罪。ガールフレンドと実際に口論をしたんだけど、それに関して彼女に謝っている姿をダンスで表現しているんだ。

血というのは、命が生まれるときも出てくるものだし、女性も連想されるし、家族の繋がりにも関係がある。すべての曲に繋がりがあるし、「ブラッド」という言葉がそれをうまく表していると思ったんだよ。

あなたのヴィジュアル表現には身体、とくに裸体がその多くでモチーフとなっていますが、それはなぜですか?

MM:僕たちは人類なわけで、その表現の基本は、身体を動かすことなわけだよね。自分が少しフェミニンであることもわかっているし、裸体というよりは、女性の身体を身近に感じるんだ。でも、それだけが理由なのではなくて、たとえばアルバムのジャケットは、裸体の写真なのではなく、僕のガールフレンドの写真。ただ身体や裸体の写真を使いたかっただけではなくて、彼女の写真を使いたかったんだ。裸体がモチーフのメインではない。モデルや、誰か知らない人を使ってまで裸体で何かを表現したいというわけではないんだよ。

ライの音楽においては、その身体というモチーフもそうですし、性やセクシュアリティが重要なテーマになっているように感じます。あなたにとって、音楽と性、セクシュアリティはどのように結びついているのでしょうか?

MM:僕の曲は、愛についてのものが多い。そうなると、性やセクシュアリティというのは欠かせないテーマだと思う。それらは愛と自然に、そして必然的に結びついているものだからね。

また、ライの音楽は両性具有的としばしば評されたように、非常にジェンダーが曖昧なものになっています。実際のところ、ライにおいてジェンダーのアイデンティティはどのように捉えられているのでしょうか?

MM:僕自身、ジェンダーがはっきり分かれているような環境で育っていないんだ。子供の頃は長い間ダンスをやっていたんだけど、バレエの中でなんかはとくに、男性らしさが求められることもないし、男性の役割、女性の役割というものがはっきりとしていない。だから、僕にとっては男性も女性らしさを持っているし、女性も男性らしさを持っているし、あまり境界線を感じないんだ。だから、僕が何かを表現するとそれが自然と現れてくるんじゃないかな。

わたしがザ・エックス・エックスに取材したとき、彼らはジェンダーレスなラヴ・ソングを歌うことをとても意識していると話していました。あなたの歌も多くはラヴ・ソングですが、ジェンダーレスであることに意識的なのでしょうか? そうであるならば、それはなぜでしょうか? 

MM:意識もしているとは思うよ。それが愛というものだから。愛は愛だし、ジェンダーは関係ない。この前『Call Me By Your Name』という映画を見たんだけど(木津註:ルカ・グァダニーノ監督による映画。1980年代の北イタリアを舞台に、年上の男性に惹かれる少年の夏を描く作品。日本では『君の名前で僕を呼んで』のタイトルで4月公開予定)、あの作品は素晴らしかった。ふたりの男性の愛の物語なんだけど、自分がこれまでに見たなかでも、もっとも美しい愛を描いた映画のひとつだったね。映画を見ていると、彼らがホモセクシュアルということさえ考えない。性別関係なく、ふたりの人間の間に起こるラヴ・ストーリーとして自然に自分のなかに入ってくるんだ。線を引かず、あるがままに愛を表現するというのは、すごく大切なことだと思う。

男性であるあなたがフェミニンな表現をしていることは、聴き手の多くの男性に、ジェンダーやセクシュアリティにおいて自由であることに関して勇気を与えているようにわたしは感じます。ただあなたからすると、世の男性というのは「男らしさ」に囚われすぎだと感じますか?

MM:そう思うこともある。筋肉をつけて強くならなければというストレスや考えは、男性が持ちやすいものだと思うね。それは文化的なものだと思うけど、僕は、それは必要なことだとは思わない。筋肉がついていてもいなくても、強くても弱くても、そんなのどうでもいいこと。世のなかにはもっと大切なことがあって、男性として自分が愛するひとにとって良い存在であることのほうがよほど重要なことだと思う。お互いに戦わないことのほうが大切なのに、あえて線を引いて違いを深めることによって戦いを起きやすくしている。性別に限らず、国籍、宗教、そういったものすべての境界線を越えて、僕たちはみんな一緒に動くべきなんだ。それがいま起こっている深刻な問題の解決策なんじゃないかな。それができれば、そういった問題が生まれさえしないのかもしれないしね。

以上のような話を踏まえてお訊きします。今回のタイトル『ブラッド』が象徴するものは何でしょう?

MM:このアルバムの曲のほとんどすべての曲の歌詞が、それぞれの個性を持ちながら類似性を持っているからこのタイトルにしたんだ。血というのは、命が生まれるときも出てくるものだし、女性も連想されるし、家族の繋がりにも関係がある。すべての曲に繋がりがあるし、「ブラッド」という言葉がそれをうまく表していると思ったんだよ。

セカンド・アルバムの音楽的な側面についてもお訊きします。ツアーのライヴが今回の制作に影響を与えたそうですが、レコーディングもバンドでの演奏をベースに行われたのでしょうか? そのときとくに心がけたことはありますか?

MM:今回もこれまでのライのサウンドに近いものを作りたかった。だから、今回もすべてをライヴでレコーディングしたし、ドラムも全部自分で叩いたし、コンピュータのテクニックは使わず、すべて生演奏をレコーディングしたんだ。意識したのは、純粋な作品を作ること。サウンド的には、すごくアナログなものを求めていたね。70年代や80年代から感じられた、自分が好きなあのサウンドを思い起こすような。エレクトロニック・レコードを作らないことは、自分にとって大切だった。そうではなく、アーシーなレコードを作りたかったんだ。あと、前回はただ作りたいものを作ったけれど、今回はアルバムをリリースした後にパフォーマンスする機会が多く待っていることがわかっていた。だから、ステージでズルをすることなく曲をそのままライヴでパフォーマンスできることを考えながら曲を作ったんだ。

ライの音楽はメロウかつスムースで、ベッドルーム・リスニングに適したものでもあるのですが、“Taste”や“Phoenix”のベースラインはディスコ的なダンス・フィールを感じます。ダンス・ミュージックはライの音楽にどのような影響を与えていますか?

MM:ダンスは確かに少し意識したんだ。ライヴをしていて、人々が踊る瞬間が大切だということを学んだから、今回は、ライヴで身体を動かせるような曲も作りたかったんだ。みんながダンスしている瞬間って、美しいからね。僕も子供のころにダンスをやっていたからわかるんだけど、踊っている間、みんながひとつになっているような感覚になるんだ。でも、クラブ・ミュージックを作りたかったわけでもないから、ベッドルームでももっと大きな場所でもどちらでも楽しめる音楽になっていると思うよ。

僕は個人的には政治的な人間だけど、バンドとしては政治的になりたくない。政治的なメッセージを発信して、人びとをさらに分けるようなことはしたくないから。

あなたはこのアルバムにおいて重要なものは「親密さ(Intimacy)」だと説明していますね。これはファースト・アルバムから重要な要素だったと思いますが、その「親密さ」を作り上げるために、音楽的には、具体的にどういったことが重要でしたか?

MM:ヴォーカルをレコーディングする時は、自分が一緒に音楽を作った近いひとだけがそこにいるようにした。親密さは、自分自身に正直に、素直であることから生まれると思うんだけど、大勢でなく、近い少人数のひとだけが周りにいることでリアルになれるし、それをヴォーカルで表現することができるんだ。

『ブラッド』はメランコリックでもあり、同時にスウィートで官能的なためどこか幸福感も感じられます。実際のところ、あなたが『ブラッド』というアルバムにおいて、掴もうとしたフィーリングはどんなものなのでしょうか?

MM:ひとつではなく、様々なフィーリングがこのアルバムには込められている。それを全部ひっくるめて、このアルバムは喜びに満ちたアルバムに仕上がっていると思うよ。人生や変化、新しいものを祝福している作品。悲しみももちろん表現されているし、様々なフィーリングが複雑に絡み合ってはいるけど、全体的にはハッピー・レコードなんだ。

ボノボの作品(『マイグレーション』)でゲスト・シンガーとして登場していましたが、シンガーとしてもっとも意識していることは何でしょう? お手本にしているシンガーはいますか?

MM:ズルをしないことだね。僕は音程を修正するソフトウェアは使わないし、トーンを変えたりもしない。自分の声のトーンを感じるというのは、すごく大切なことなんだ。あと、自分の声、喉の震えから生まれるその瞬間の緊張感も大切だと思う。手本にしているというわけではないし、彼女のように歌いたいと思っているわけではないけど、ビョークは素晴らしいと思うね。尊敬してる。彼女のヴォーカルはすごくクレイジーだから。

社会が荒れるなか、政治的あるいは社会的なメッセージを含めたポップ・ミュージックが現在多く見られます。いっぽうでライの音楽は徹底して逃避的だと感じますが、あなたにとって、音楽が逃避的であることが重要なのでしょうか?

MM:僕も政治に関しては色々なものを読むし、目にするけど、政治について誰かが書いた本、新聞、批評はすでにいくらでも存在しているんだ。僕にできること、僕がやりたいのは、それをさらに増やすことではない。僕が自分の音楽でできるのは、人びとをひとつにすることだと思うんだ。政治に深く関わることだけが生活や人生じゃない。テレビが政治の重要さを押しつけてくるけど、人生において大切なのは、政治よりも分け合うことなんだ。僕は個人的には政治的な人間だけど、バンドとしては政治的になりたくない。政治的なメッセージを発信して、人びとをさらに分けるようなことはしたくないから。ラヴ・ソングで、皆に同じものを感じて欲しい。それが僕が音楽でやりたいことなんだ。あと、政治的になってしまっては、その曲が持つ世界観も限定されてしまうしね。

『ブラッド』はリスナーにどのようなシチュエーションで聴かれてほしいですか?

MM:レコードを理解するまで、ひとりでヘッドフォンで聴いて欲しい。ひとりでなくても、少人数でそれぞれヘッドフォンをつけながらでもいい。で、レコードを聴きこんだら、その経験を誰かとシェアして欲しいな。自分が愛するひとと作品を共有できるようになってくれたら嬉しいね。

最後に、カジュアルな質問です。あなたがもっともセクシーだと思う音楽をいくつか挙げてください。

MM:プリンスの“エロティック・シティ”。すごく官能的だし、美しい曲だから。あとは、オウテカのアルバムの『ガービッジ』(註:4曲入りEP作品)。あのアルバム全体がエロティックだと思う。ひとつの作品で、様々な雰囲気が表現されているんだ。同じ部屋のなかの雰囲気がどんどん変化していく感じ。思いつくのはそれかな。

ありがとうございました!

MM:こちらこそ、ありがとう。日本でまたパフォーマンスできるのを楽しみにしているよ!

編集後記(2018年2月1日) - ele-king

 刊行されてからだいぶ経つが、昨年読んだ小説で面白かったのは村上春樹の『騎士団長殺し』だった。物語の設定が、ここ数年個人的によく考えていることとリンクしたからだ。主人公の「私」は妻と別れ、谷間の入口の山の上の家に住むことになった。家にはパソコンもテレビもないが、ラジオと暖炉があり、レコードコレクションとその再生装置があった。屋根裏にはみみずくが住んでいる。「私」は肖像画を専門とする絵描きで、気が向けば家のレコードを聴く。外部との連絡はメールではなく、家電話を使っている(携帯も持っていない)。
 谷間を挟んではす向かいの山の上には、ひときわ人目を引くモダンな家がある。白いコンクリートと青いフィルターガラスに囲われたその3階建ての家の外側には自動制御された照明があり、家のなかにはエクササイズ・マシンを備えたジムやオーディオルームもある。住人は、「免色」という(色のないという意味の)不思議な名字を持った男。若くして金融関係の事業で財を成した彼は、脱税かマネーロンダリングかで東京地検に逮捕されたことがあるが無罪となって釈放され、会社を売ったお金でその家を買った。なかば隠居的に、ひとりで暮らしている。たまに書斎に籠もってインターネットを使って株式と為替を動かしているらしい。
 いうなれば「免色」は情報の世界に住んでいる。綺麗で明るく、そして脱魔術化された暗闇を持たない世界に住んでいると言える。対して「私」はいわばモノの世界に住んでいる。「私」の家にはみみずくが生息する屋根裏部屋がある。そこには知られるざる過去の記録が隠されている。こうした、谷間を挟んだ山のきわめて暗喩的なふたつの世界が出会うことで(あるいは暗闇をめぐって)物語は展開していく。この設定が、ぼくが音楽文化について切れ切れながらも考えをめぐらせていることと繫がる……というかぼくが勝手に繋げている。

 音楽のストリーミング・サービスは、定額制でどれだけの数量の音楽が聴けるのかというコンテンツ量が重要なポイントになる。どこも似たり寄ったりの量だから、サービスによってJポップが多いか、洋楽が多いかという“傾向”も決め手にはなるだろうが、基本は、自分が聴くであろう数量=情報量に対するコストパフォーマンスが優先される。
 いま音楽は“情報”だ。レコードという“モノ”を買って聴くという行為から得られる体験とは同じであり、違ってもいる。ぼくも定額制のサービスを利用している。自分のプレイリストを作ったりして、それなりに楽しんでいる。聴いていなかった曲をこんなにも簡単に聴けるなんて便利な世のなかだと感心する。ファンカデリックのアルバムだってぜんぶ聴ける。買うことはないであろうが聴きたいとは思うセックス・ピストルズの1976年のライヴとか、ジョイ・ディヴィジョンのライヴとか、そういう微妙な録音物を聴けるのは少し嬉しい。しかし失ったものもある。なんども言われ続けていることだが、それはアナログ固有の音質であり、アートワークのインパクトだ。
 やっぱりモノの強さというのはある。1979年、高校生だったぼくが通っていた輸入盤店の壁の新譜コーナーにザ・ポップ・グループの『Y』とザ・スリッツの『カット』が並んだときの衝撃はそうとうなものだった。恐怖の感覚さえ覚えたものだ。レジデンツやイエロのアートワークもショックだった。輸入盤を買う文化がまだ定着する前の話だ。得体の知れないこれらのレコードを欲することは、自分に悪魔が憑依したのではないかと思うほどぞっとする感覚だった。初めてジョイ・ディヴィジョンの『クローサー』のジャケットを手にしたときもものおそろしさを感じた。写真とデザインもさることながら、あのざらざらの紙はレコード・ジャケットではまず使われない材質だ。1枚のアルバムは、フェティッシュな魅力も携えていた(PiLの『メタル・ボックス』やCRASSのポスタージャケットも)。
 そんなフェティシズムはCDの登場によって後退したのだから、老いたる者の思い出話もいいかげんにしろだろう。もともとの12インチの文化だってヴィジュアルを捨てている。が、アナログ盤はもちろんのこと、CDにしたってリスナーは明瞭に1枚の作品と向き合うことになる。読み応えのあるライナーノートが封入されていれば、さらにその作品の深いところまで聴こうとするだろう。ストリーミングには、そうした音以外に踏みとどまらせる要素がない。すぐ飛ばせるし、どんどんどん他の曲を聴けてしまう(ヘタすればスマホの画面を切り替えて、『サッカーキング』と『BuzzFeed』を見てしまっている)。深い聴き方ができないとは思わないが、どうにもぼくの場合は質よりも量に向かってしまう。
 Spotifyの“人気曲”という機能も良し悪しだ。ラモーンズの人気曲には“ニードルズ&ピンズ”が入ってないし、ウルトラヴォックスの人気曲には“ヒロシマ・モナムール”も入ってないし、カンの人気曲には“ピンチ”も“マザー・スカイ”も入っていないじゃないか(カンの場合はほとんどのアルバムがSpotifyにない。レインコーツもないし)。まあ、こういう突っ込みがタチの悪いことぐらいはわかっている。すべてが網羅されていたら、それこそおそろしい事態だ。まだまだレコードやCDでしか聴けない曲はある。そして、買うほどではないが聴きたい曲を聴ける、しかも移動中に聴けるという便利さがストリーミングにはある。あの音質にさえ慣れてしまえば。
 ぼくが洋楽にのめりこんだ理由のひとつには、アートワークが日本のレコードよりも圧倒的に洗練されていたし、実験的だったということがあった。ストリーミング・サービスの画面に出てくる無数のアートワークはどれもが絵文字のように見えてしまう。それらは、情報としての音楽と同じようにフラットに並んでいる。高度情報化社会では情報がモノと同価である。モノはいらないけれど情報だけが欲しいというひとは多いし、この先もっと増えるだろう。実際のところ、文化は更新されている。何を言っても後の祭りかもしれない。そして音楽は時代の変化を敏感に感じとり、作品に反映させる。

 こうした情報としての音楽と対峙しながら批評的に創作しているのがハイプ・ウィリアムスであり、ジェイムス・フェラーロのような人たちだ。ベリアルの『アントゥルー』がフェイク時代を予見した作品だという議論が昨年の英米では盛り上がったという話だが(紙エレキングの髙橋勇人の原稿を参照)、忘れてならないのは、高度情報化社会に対するシニカルな反応として、謎かけのようなカオスを展開したのはハイプ・ウィリアムスだったということ。何度も書いているけれど、2018年のいまになっても、心底衝撃的だったと言えるライヴは2012年のハイプ・ウィリアムスだ。あれはエレクトロニック・ミュージックの歴史において、ぼくがそれまで経験したことのない、旧来とはまったく違うアプローチだった。匿名性ではなく、偽名性において表現する彼らは、本来であれば暗い照明が好まれるライヴ会場を最終的には目が明けられないほど明るく照らした。あの暗闇のない世界、異様なまぶしさは、インターネット社会の明るさのメタファーだろう。これは幻覚ではない、現実だ。そう言わんばかりの明るさ……。
 チルウェイヴ~ヴェイパーウェイヴないしはヒプナゴジック・ポップなどと言われたいっときの現象は、いま思えば、ひとから睡眠を奪う24時間フル稼働のネット型消費社会への抵抗/渇きのような反応であり、ミステリアスさ/いかがわしさを奪取せんとする動きだったと言える。個人的に苦手ではあるけれど、現在のニューエイジ・ブームがその延長にあるのはたしかだ。ちなみに日本では、元Jesse Ruins/現CVCが主宰するGrey Matter Archivesなるサイトが、サイバースペースにおける妖しい輝きを発している。ぼくがかつて感じたアートワークへの衝撃は、ひとつはいまはこういうところ、デジタル・アンダーグラウンドな世界で起きている。

 その明るさに懐疑的で、高度情報化社会にどこかで抗おうとしている自分がいる。『騎士団長殺し』をぼくのように読む人は多くはないだろうけれど、あの小説はアナログ盤にかじりついている音楽ファン目線で読んでいくとそれはそれで面白いのだ。「私」の親友がカセットテープで音楽を聴きたいがために車を古いのに買い換えたというエピソードはちとやり過ぎじゃないかと思ったけれど、カセットテープを買ってダウンロードで聴くという行為よりはスジが通っている。
 小説のなかでもっとも好きなフレーズは、その親友から「今はもう二十一世紀なんだよ。それは知ってたか?」と問われるところだ。「話だけは」と私は言った。──と小説では続く。ぼくはなんとか21世紀を生きている。シーンにおけるキーパーソンや注視すべきポイントもより見えてきている。年末年始の休みのあいだはコンピュータを持たず、本とスマホだけを持って帰省した。この1〜2年は移動中はストリーミングでひたすら音楽を聴いている。近年は12インチ・シングルが少量しかプレスされないので、すぐに売り切れる。アナログ盤にこだわっていると良い曲を逃してしまうことになる。自分はいまのリリース量/リリース速度についていけてないので、こういうときにインターネットやストリーミングはありがたい。リー・ギャンブルが見いだした、グラスゴーを拠点とするLanark Artefaxは、〈Wisdom Teeth〉のLoftなどとともに、近々間違いなくテクノ新世代としてより広く注目されると見た。Spotifyに入っている人は、「Whities 011」というシングルを聴いて欲しい。21世紀を生きるドレクシアがここにいる!
 (※リリース元は、抜け目のない〈ヤング・タークス〉傘下の〈ホワイティーズ〉です)


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