Home > Regulars > 編集後記 > 編集後記(2018年2月1日)
刊行されてからだいぶ経つが、昨年読んだ小説で面白かったのは村上春樹の『騎士団長殺し』だった。物語の設定が、ここ数年個人的によく考えていることとリンクしたからだ。主人公の「私」は妻と別れ、谷間の入口の山の上の家に住むことになった。家にはパソコンもテレビもないが、ラジオと暖炉があり、レコードコレクションとその再生装置があった。屋根裏にはみみずくが住んでいる。「私」は肖像画を専門とする絵描きで、気が向けば家のレコードを聴く。外部との連絡はメールではなく、家電話を使っている(携帯も持っていない)。
谷間を挟んではす向かいの山の上には、ひときわ人目を引くモダンな家がある。白いコンクリートと青いフィルターガラスに囲われたその3階建ての家の外側には自動制御された照明があり、家のなかにはエクササイズ・マシンを備えたジムやオーディオルームもある。住人は、「免色」という(色のないという意味の)不思議な名字を持った男。若くして金融関係の事業で財を成した彼は、脱税かマネーロンダリングかで東京地検に逮捕されたことがあるが無罪となって釈放され、会社を売ったお金でその家を買った。なかば隠居的に、ひとりで暮らしている。たまに書斎に籠もってインターネットを使って株式と為替を動かしているらしい。
いうなれば「免色」は情報の世界に住んでいる。綺麗で明るく、そして脱魔術化された暗闇を持たない世界に住んでいると言える。対して「私」はいわばモノの世界に住んでいる。「私」の家にはみみずくが生息する屋根裏部屋がある。そこには知られるざる過去の記録が隠されている。こうした、谷間を挟んだ山のきわめて暗喩的なふたつの世界が出会うことで(あるいは暗闇をめぐって)物語は展開していく。この設定が、ぼくが音楽文化について切れ切れながらも考えをめぐらせていることと繫がる……というかぼくが勝手に繋げている。
音楽のストリーミング・サービスは、定額制でどれだけの数量の音楽が聴けるのかというコンテンツ量が重要なポイントになる。どこも似たり寄ったりの量だから、サービスによってJポップが多いか、洋楽が多いかという“傾向”も決め手にはなるだろうが、基本は、自分が聴くであろう数量=情報量に対するコストパフォーマンスが優先される。
いま音楽は“情報”だ。レコードという“モノ”を買って聴くという行為から得られる体験とは同じであり、違ってもいる。ぼくも定額制のサービスを利用している。自分のプレイリストを作ったりして、それなりに楽しんでいる。聴いていなかった曲をこんなにも簡単に聴けるなんて便利な世のなかだと感心する。ファンカデリックのアルバムだってぜんぶ聴ける。買うことはないであろうが聴きたいとは思うセックス・ピストルズの1976年のライヴとか、ジョイ・ディヴィジョンのライヴとか、そういう微妙な録音物を聴けるのは少し嬉しい。しかし失ったものもある。なんども言われ続けていることだが、それはアナログ固有の音質であり、アートワークのインパクトだ。
やっぱりモノの強さというのはある。1979年、高校生だったぼくが通っていた輸入盤店の壁の新譜コーナーにザ・ポップ・グループの『Y』とザ・スリッツの『カット』が並んだときの衝撃はそうとうなものだった。恐怖の感覚さえ覚えたものだ。レジデンツやイエロのアートワークもショックだった。輸入盤を買う文化がまだ定着する前の話だ。得体の知れないこれらのレコードを欲することは、自分に悪魔が憑依したのではないかと思うほどぞっとする感覚だった。初めてジョイ・ディヴィジョンの『クローサー』のジャケットを手にしたときもものおそろしさを感じた。写真とデザインもさることながら、あのざらざらの紙はレコード・ジャケットではまず使われない材質だ。1枚のアルバムは、フェティッシュな魅力も携えていた(PiLの『メタル・ボックス』やCRASSのポスタージャケットも)。
そんなフェティシズムはCDの登場によって後退したのだから、老いたる者の思い出話もいいかげんにしろだろう。もともとの12インチの文化だってヴィジュアルを捨てている。が、アナログ盤はもちろんのこと、CDにしたってリスナーは明瞭に1枚の作品と向き合うことになる。読み応えのあるライナーノートが封入されていれば、さらにその作品の深いところまで聴こうとするだろう。ストリーミングには、そうした音以外に踏みとどまらせる要素がない。すぐ飛ばせるし、どんどんどん他の曲を聴けてしまう(ヘタすればスマホの画面を切り替えて、『サッカーキング』と『BuzzFeed』を見てしまっている)。深い聴き方ができないとは思わないが、どうにもぼくの場合は質よりも量に向かってしまう。
Spotifyの“人気曲”という機能も良し悪しだ。ラモーンズの人気曲には“ニードルズ&ピンズ”が入ってないし、ウルトラヴォックスの人気曲には“ヒロシマ・モナムール”も入ってないし、カンの人気曲には“ピンチ”も“マザー・スカイ”も入っていないじゃないか(カンの場合はほとんどのアルバムがSpotifyにない。レインコーツもないし)。まあ、こういう突っ込みがタチの悪いことぐらいはわかっている。すべてが網羅されていたら、それこそおそろしい事態だ。まだまだレコードやCDでしか聴けない曲はある。そして、買うほどではないが聴きたい曲を聴ける、しかも移動中に聴けるという便利さがストリーミングにはある。あの音質にさえ慣れてしまえば。
ぼくが洋楽にのめりこんだ理由のひとつには、アートワークが日本のレコードよりも圧倒的に洗練されていたし、実験的だったということがあった。ストリーミング・サービスの画面に出てくる無数のアートワークはどれもが絵文字のように見えてしまう。それらは、情報としての音楽と同じようにフラットに並んでいる。高度情報化社会では情報がモノと同価である。モノはいらないけれど情報だけが欲しいというひとは多いし、この先もっと増えるだろう。実際のところ、文化は更新されている。何を言っても後の祭りかもしれない。そして音楽は時代の変化を敏感に感じとり、作品に反映させる。
こうした情報としての音楽と対峙しながら批評的に創作しているのがハイプ・ウィリアムスであり、ジェイムス・フェラーロのような人たちだ。ベリアルの『アントゥルー』がフェイク時代を予見した作品だという議論が昨年の英米では盛り上がったという話だが(紙エレキングの髙橋勇人の原稿を参照)、忘れてならないのは、高度情報化社会に対するシニカルな反応として、謎かけのようなカオスを展開したのはハイプ・ウィリアムスだったということ。何度も書いているけれど、2018年のいまになっても、心底衝撃的だったと言えるライヴは2012年のハイプ・ウィリアムスだ。あれはエレクトロニック・ミュージックの歴史において、ぼくがそれまで経験したことのない、旧来とはまったく違うアプローチだった。匿名性ではなく、偽名性において表現する彼らは、本来であれば暗い照明が好まれるライヴ会場を最終的には目が明けられないほど明るく照らした。あの暗闇のない世界、異様なまぶしさは、インターネット社会の明るさのメタファーだろう。これは幻覚ではない、現実だ。そう言わんばかりの明るさ……。
チルウェイヴ~ヴェイパーウェイヴないしはヒプナゴジック・ポップなどと言われたいっときの現象は、いま思えば、ひとから睡眠を奪う24時間フル稼働のネット型消費社会への抵抗/渇きのような反応であり、ミステリアスさ/いかがわしさを奪取せんとする動きだったと言える。個人的に苦手ではあるけれど、現在のニューエイジ・ブームがその延長にあるのはたしかだ。ちなみに日本では、元Jesse Ruins/現CVCが主宰するGrey Matter Archivesなるサイトが、サイバースペースにおける妖しい輝きを発している。ぼくがかつて感じたアートワークへの衝撃は、ひとつはいまはこういうところ、デジタル・アンダーグラウンドな世界で起きている。
その明るさに懐疑的で、高度情報化社会にどこかで抗おうとしている自分がいる。『騎士団長殺し』をぼくのように読む人は多くはないだろうけれど、あの小説はアナログ盤にかじりついている音楽ファン目線で読んでいくとそれはそれで面白いのだ。「私」の親友がカセットテープで音楽を聴きたいがために車を古いのに買い換えたというエピソードはちとやり過ぎじゃないかと思ったけれど、カセットテープを買ってダウンロードで聴くという行為よりはスジが通っている。
小説のなかでもっとも好きなフレーズは、その親友から「今はもう二十一世紀なんだよ。それは知ってたか?」と問われるところだ。「話だけは」と私は言った。──と小説では続く。ぼくはなんとか21世紀を生きている。シーンにおけるキーパーソンや注視すべきポイントもより見えてきている。年末年始の休みのあいだはコンピュータを持たず、本とスマホだけを持って帰省した。この1〜2年は移動中はストリーミングでひたすら音楽を聴いている。近年は12インチ・シングルが少量しかプレスされないので、すぐに売り切れる。アナログ盤にこだわっていると良い曲を逃してしまうことになる。自分はいまのリリース量/リリース速度についていけてないので、こういうときにインターネットやストリーミングはありがたい。リー・ギャンブルが見いだした、グラスゴーを拠点とするLanark Artefaxは、〈Wisdom Teeth〉のLoftなどとともに、近々間違いなくテクノ新世代としてより広く注目されると見た。Spotifyに入っている人は、「Whities 011」というシングルを聴いて欲しい。21世紀を生きるドレクシアがここにいる!
(※リリース元は、抜け目のない〈ヤング・タークス〉傘下の〈ホワイティーズ〉です)