「Noton」と一致するもの

Kevin Richard Martin - ele-king

 ザ・バグキング・ミダス・サウンド、テクノ・アニマルのケヴィン・リチャード・マーティンによるアンビエント作品がリリースされた。リリースはケヴィン・リチャード・マーティン自らが主宰するデジタル・レーベル〈Intercrannial Recordings〉から。
 本作は三作の連作で、世界の終わりから再生を喚起するような壮大なアンビエント・サウンドとなっている。
 重々しいムードの音響だが、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)感染拡大によるロックダウン中に作曲から録音、マスタリングまでされたものらしい。まさに時代のムードをリアルタイムで反映した「コロナ禍のダーク・インダストリアル・アンビエント」といえよう。
 マスタリングを手掛けているのは世界湯数のドローン作家にして、現行エクスペリメンタル・レーベルの最高峰〈ROOM 40〉を主宰する
ローレンス・イングリッシュ

 思えばソロ名義の前作『Sirens』も、ローレンス・イングリッシュの〈ROOM40〉からリリースされた作品であった。『Sirens』は圧倒的なサウンドの強度とパーソナリティか交錯するアルバムだ。対して本作『Frequencies for Leaving Earth』シリーズは、『Sirens』の音響的な強度を継承しつつも、どこかSF映画の音響のような、地球規模のサウンド・スペースを形成している。

 まず『Frequencies for Leaving Earth - Vol.1』には長尺の3曲が収録されている。1曲め “i left my body” は唸るような重低音のドローンから始まるトラックだ。重力のしがらみからしだいに解放されるようにゆっくりといくつかのサウンドがレイヤーされていく。アンビエントへと引き延ばされた後期ロマン派交響曲の序曲のごとき楽曲に思えた。
 2曲め “i lost my miind” は重力から遠く離れていくような清冽なドローンから幕を開ける。やがて暴風のような、もしくは炎のようなノイズが鳴り始め、世界の事象を俯瞰するような音響空間を生成していく。
 3曲め “i became light” は波のように、もしくは静かに揺れるカーテンなように反復するミニマルなサウンドだ。重力から解き放たれ、天井にある静謐な場へと辿りついたかのごとき楽曲に仕上がっている。全3曲、それらは組曲のように有機的に構成されており(モチーフの変化と拡張など)、ドローン/アンビエントによる交響曲とでも称したいほどであった。

 長尺3曲を収録した『Vol.1』に対して、『Frequencies for Leaving Earth - Vol.2』は10曲の小品が収められているアルバムだ。サウンドトラックのように多彩な曲調が展開するが、全体を包み込むSF的かつ不穏なムードは共通している。
 加えて曲調にヴァリエーションがあることから、ケヴィン・リチャード・マーティンならではの電気/電子的自然現象のようなゴリゴリの音響工作も聴きとることができた。その意味でこちらはアンビエントというよりは、ビートレスのインダストリアル・サウンドに思える。キング・ミダス・サウンド『K.M.S. - Solitude Instrumentals』のオリジンのような音響といえるかもしれないし、テクノ・アニマルの『Re-entry』のディスク2を思わせるサウンド・スペースともいえる。

 そして『Frequencies for Leaving Earth - Vol.3』は全7曲を収録。前二作とは一変し、穏やかな、しかし人間以降世界のような、不穏な静けさを放つ音響世界が展開する。オルガンのようなシンセサイザーのゆったりと反復し、聴き手の意識を瞑想状態へと連れて行くような曲調はシンプルだが、絶大なアンビエント効果がある。
 特に11分に及ぶ4曲め “lost in you” は大変素晴らしい。静けさのなかに穏やかな展開があり、穏やかさのなかに不穏さがある。また乾いたノイズの向こうに微かな光を感じさせくれる5曲め “I will be your light” も卓抜なアンビエントを展開している。時代に闇夜から光が差してくるような構成も含めて、アルバムとしての構成は全3作中、もっとも完成度が高いと思う。

 全作、コロナ禍の地球全体に鳴り響くようなアンビエント/インダストリアルな音響空間を生成し展開している。〈ROOM40〉からリリースされた『Sirens』は極めてパーソナルなサウンドインスタレーション作品だったが、この連作は地球規模の危機を緻密にしてダイナミックな筆致で描き切る音響劇に思える。特に『Vol.2』の7曲め “Angel of Death” 以降の黙示録的な展開には圧倒されてしまった。

 神も天使もヒトも「地球」という巨大な自然に呑み込まれ絶滅していく黙示録的な光景と、しかし、その先にある再生の光を夢想すること。「個」のアンビエント・サウンドから「地球・天体規模」のアンビエンス/サウンドへ。想像力とリアルな感覚に満ちたアンビエントな電子音楽。これは紛れもなくレジェンド、ケヴィン・リチャード・マーティンの新たな挑戦である。

Cafe OTO - ele-king

 ロンドンにおけるエクスペリメンタル・ミュージックの最重要拠点として、海外でも多くのファンを持つ〈Cafe OTO〉。最近のele-kingでは、高橋勇人によるムーア・マザーのライヴ・レポートでも触れられているが、〈Cafe OTO〉は、フリージャズ世代のアンソニー・ブラクストン、気鋭のテクノ・アーティストのNKISI、ディス・ヒートのチャールズ・ヘイワード……(枚挙にいとまがない)など、最高に尖った連中が出演するヴェニューで、ほかにも灰野敬二、大友良英、三上寛、中村としまる、池田謙、中島理恵、食品まつり、Phew……などなどコスモポリタンかつ妥協無しの作品を出している日本人アーティストが多数出演している。

 さて、コロナによって以前のようなライヴができなくなったいま現在において、〈Cafe OTO〉は新レーベル〈TakuRoku〉をスタートさせている。(とくに即興をするアーティストにとって)ライヴの現場という発表の場を無くしたことは大きく、もちろん会場側も存続しなければならない。〈TakuRoku〉は、余儀なくステイ・ホームされたアーティストによる“宅録”作品でアーティストとCafe OTOに利益が半分ずつは入るという仕組みになっている。アーティストからの共感も呼んだのだろう、早くも36作目がリリースされている。

 以下、OTOのホームページに掲載されているラインナップです。試聴できるので、気になる作品はチェックしてみよう。
https://www.cafeoto.co.uk/shop/category/takuroku/

 このように、ヴェニューがレーベルとして出演アーティストの音源を出すことで互いの利益を生んでいくことは、アリですよね。

vol.128:迷惑な花火ブーム? - ele-king

 7月4日はアメリカの独立記念日。本来なら野外でBBQし、ビーチではライヴショー、元気いっぱいのパレード、ネイサンズのホットドッグの早食いコンテスト(104回目)、恒例メーシーズの花火を楽しむところだが、今年はショーはなし、早食いコンテストは未公開の場所でオーディエンスなし、メーシーズの花火は6日前の6月29日からはじまっていた。今年は大きな花火を一回にドカンと上げるのではなく、毎日夜9時から10時の間の5分間、場所を変え数日かけて上げるという、コロナ・パンデミックを意識して行われたものだった。グランドフィナーレの7月4日は、この美しい花火を見て(例えオンラインでも)、心が救われた人は多かったはず。

https://gothamist.com/arts-entertainment/macys-july-4th-fireworks-light-empire-state-building-illegal-fireworks-explode-citywide

 なのだが、私がいたブッシュウィックのルーフトップではメーシーズの花火がどれだったかわからないくらい、違法花火が上がりまくっていた。夜の8時頃から深夜3時過ぎまで、花火がずっと上がり続けるのだ。一度に50箇所ぐらいたくさんの場所で上がるので、どこを見たら良いのか。
 ニューヨークでは花火は違法なのだが、6月あたりから毎日のように花火が上がり続けている。ペットたちは怯えるし、人は夜、騒音で眠れないと苦情も絶えない。花火は好きだが、こんなに毎日見ているとありがたみも無くなってしまう。アパートの前のプレイグラウンドで花火を上げている人もいたし、隣のルーフから花火を上げている人もいたし、間違ってこっちに飛んでこないかとビクビクしていた。なぜこんなに花火がNYにあるのだろう。こんなに間隔もなく上げれるのは、かなりの量の花火を持っているということだが、今年はエンターテイメントもないのでその反動なのか。
 リッジウッドの住人は、彼女のアパートから外を見ていたとき、ひとりの男性が交差点で花火に火をつけ、そのまま車で走り去ったというし、知り合いは抗議活動のときにランダムな人から花火をあげると言われたらしい。この日すべての花火を使い尽くし、次の日から花火のないNYになればと切実に思う。

https://gothamist.com/news/nearly-two-dozen-arrested-nyc-illegal-fireworks-guns-alligator-carcasses

 NYでは7月6日から第3段階:レストラン、飲食サービス、ホテルがオープンする。レストランの中での飲食は延期されたが、引き続きアウトドアでの飲食は大丈夫ということで、レストランやバーの前はテーブルと椅子、パラソルなどが置かれ、歩行者天国状態になっている。マンハッタンはまだまだゴーストタウン状態だし、アメリカでの感染率は増えている。
 ショーもまだまだだが、レストランで食事ができるのが切実に嬉しいし、NYは再オープンに向けて着実に進んでいる。まだ、家にいる時間が長いが、花火でストレスを解消するのではなく、違うことに目を向けてほしいものである。この夏、ライヴストリーミングからアウトドアショーに移行できることを期待して。

【編注】トランプ大統領も、独立記念日の演説でど派手に花火の打ち上げを強行しました。

第11回 町外れの幽霊たち - ele-king

※この記事にはゲーム「Night in the woods」のネタバレが含まれます。

 トンネルを抜けたら、そこは雪国だった……というようなことはなく、ただ「藤田孝太郎死ね」と書かれている。一応仮名にしてある。グラフィティを阻むためにトンネルいっぱいにペイントされたクソつまらん動物と子どもの絵、その端っこに、黒く細い線で書かれた七文字がぎりぎりと張り詰めていた。こんなに剥き出しの殺意であるのに、なぜかクソつまらん絵の邪魔にならない場所に配置されているのがなんともおかしい。これが誰の名前なのかは知らないし、誰が書いたものなのかもわからない。いたずらなのか切実な呪詛なのかもわからない。ただその殺意はここ1ヶ月、パンデミック騒ぎの渦中に出現して、あっという間にこの町に馴染んだのであった。どうにもならなくなっちゃったんだろうな、多分。

 わが「地元」──この名称を使うことにはそれなりのためらいがあるが、ひとまずそう呼んでみる──首都の郊外だ。治安もそれなりに悪く、洗練された場所では決してないが、ここを田舎と呼んだらただちに数千万の列島住人を敵に回すだろうというぐらいには、都市である。数分に一度来る電車がひっきりなしに大量の人間を運んできて、また運び去っていく。駅前には虫の巣みたいにビルがびっしり立ち並んでいて、夜中でも量販店の看板が光る。アジア圏からの観光客がドラッグストアで化粧品を品定めしている。遠くの花火はビルが邪魔で見えない……これは別にどうでもいい。早朝の駅前、信号待ちの交差点で、ドン小西によく似たやくざがわかりやすく舎弟を引き連れてでかい声で話している。「おい、パンツ売ってっとこ空いてねえのか? お前らお揃いで買ってやろうか?」「へへへ、マジすか、へへへ」……早く青に変わってくれないか、意識して無視しながら、真横が気になってしょうがない。
 自分は生まれてから今までの四半世紀、ずっとこの町を離れずに暮らしてきた。この町のことは「普通に好き」だ。嫌な思い出は何もない。いつも明るくて、家がつらいときには一人でふらふらと逃げこめて、だいたいのものはここで手に入る。それは多分、この町に友人と呼べる人がほとんど誰もいないことも関係しているのだろう。たとえ歩いている最中にこの町の人間が全員別人に入れ替わったとしても、自分は絶対に気がつかない。こんなに長い時間を過ごした空間であるけれど、私のコミュニティはない。私はこの町に「いる」はずだというのに、同時に「いない」のだ。
 パンデミックの渦中、私はこの自分がいる/自分がいない町を、何度も何度も無目的に徘徊した。閉鎖された家にいるのがつらいから、何も書けない抑鬱状態の中で新しいヒントを得るための施策は散歩ぐらいしか採択できなかったから……そういう理由から始まった徘徊だったが、歩き回るうちに、町の閉塞感のようなものを、生まれて初めて感じとるようになった。町を歩きながら「ここから出してくれ」と思ったのは、これが初めてだった。
 町の風景がぎくしゃくして見えた。休業中のシャッターや閉店のお知らせにまみれた通りに、臨時で出現した飲食店の屋台から漂う肉を焼く匂いが広がっている。人はいつもより少なく、誰かが咳をするとみながそっちを見る。
 おかしいのは町の方だけではなかった。歩いても歩いてもどこにもたどり着かず、何も新しいことを思いつかないことがこの上なく苦しい。あれだけ便利で豊かだと思っていた「地元」がのっぺりとした虚無に見えてきたことに、自分でもいまいち納得がいかない思いがした。そして同時に、歩いているうちに気がついた……自分は特定の道しか歩いていないのではないかと。だってさっきから同じ風景ばかり見ている。都市は家みたいに閉じていた。徘徊するための徘徊なのだから、どこへ足を伸ばそうとよいはずなのに、私は奇妙なぐらい、特定の位置まで来ると自ら引き返していたのだった。遠回しにお前はここから出られないよ、そうなってるんだよ、と言われているような気がしてぞっとしたが、ぞっとしているくせに私はまた同じ場所で引き返してしまう。
 家も町もクソ閉じている苦しさを吐露していたら、何人かの友人が「ホテルを取らないか」「うちに来ないか」と声をかけてくれた。私はその全てに死ぬほど感謝しながら、同時にその誘いに乗る想像が全くできず、全てを断ってしまった。断ってからぼろぼろ泣いた。こんなに自分が「ここ」に閉じ込められているなんて、これまで知らなかった。
 そういうとき、町外れにちまちまと書かれた「藤田孝太郎死ね」の落書きが私の視界に現れたことは、それなりに象徴的に見えた。どうしようもなくなっちゃったのだ。全部。

 この〈囚人の気持ち〉に浸りながらゲーム「Night in the woods」をプレイしたのも、何だか妙な縁だった。同作はアメリカの「ラストベルト」──かつて工業で栄えたが、今やそれも潰えてしまった地域──に属する田舎町「ポッサム・スプリング」を舞台にしたアドベンチャーである。プレイヤーは主人公であるメイ(同作のキャラクターはみな動物の姿で示される。メイはネコだ)を操作し、住人たちと語らいながら、町で起きている奇妙な事件に首を突っ込んでいくことになる。
 物語はメイが大学を退学し、2年ぶりにポッサム・スプリングへ戻ってくるシーンから始まる。ポッサム・スプリングは炭鉱の町だった。もちろん過去形だ。20世紀初頭に栄えた炭鉱は数十年前に閉鎖され、その後に作られた工場も今やほとんど残っていない。メイの祖父も父も炭鉱労働者だったが、父親は炭鉱閉鎖後にガラス職人などの職を転々とし、今は大資本スーパーの精肉コーナーで働いている。ゲームの中では住人たちの会話を幾度となく聞くことになるが、みな失業するか、不本意な非正規労働に苦労してしがみついている。いかに長く働ける仕事を見つけるか苦心する人たちがたむろする街角に、若者を海軍に勧誘する軍人がにこにこと立っている。
 街のあちこちに設置された炭鉱を開発した資本家たちの銅像や炭鉱労働者を描いた壁画は、今や全く顧みられていない。町議会はどうにか街に人を呼び戻すべく、街の「歴史遺産」的なものを探し求めたり、収穫祭をどうにか盛り上げようとしたりと試行錯誤しているが、それも振るわない。一方で町議会は、街の教会にホームレスの男性を寄宿させる計画について「イメージが悪くなる」と言って拒絶していたりもする。明らかに「おしまい」に近い状況を打開しようとする人たちが、架空の観光客や移住者のために、目の前にいる弱者を排除しているわけである。何度も見た光景だ。いつもどうすることもできない。
「終わった町」なのだ。ポッサム・スプリングは。そして同時に、メイにとっては無二の「居場所」であるはずだった。少なくともそれを期待して、メイは帰ってきたのである。

 「Night in the woods」のすさまじさは、その「終わった町」に暮らす人々の行き場のなさがぎちぎちとひしめき合っている点であり、同時にそれらの苦痛がメイの目から語られる点にある。
 メイはポッサム・スプリングでかつてのバンド仲間に再会する。軽薄で情緒不安定な大親友のグレッグ、グレッグと同棲する恋人の青年・アンガス、ぶっきらぼうでいつもタバコをふかしているビー。みんなこの2年で変わっていた。いい変化、と言うことは難しい。大人になって、この町がどういう状況にあるのか、自分がどう生きていくのかを考えるほかなくなってきたのだ。
 アンガスとグレッグはどうにか最低賃金で働きながら、別の町へ引っ越す計画を立てている。引っ越しを決めた背景はいくつもあるが、この町が決してゲイカップルに優しい場所ではないというのも理由の一つだ。「成長させてくれよ、メイ」……グレッグはメイにそう告げる。大人になるためには、この町を出なくてはいけない。ここにいたら望む変化を迎えられないことを、グレッグもアンガスも、そしてメイも、本当は痛いほどよく知っている。
 ビーは最近母親を失い、アルコール中毒で働けなくなった父親の所有する店を一人で切り盛りしている。かつてメイとずっと一緒にいてくれたビーも、メイに対しては複雑な気持ちでいるようだった。この店から、この町から、今も動けずにいるビーは、この町ではごくめずらしい大学進学者であったメイを憎まずにはいられなかったのだ。
 これらのダイアローグがメイの前に現れ、メイがそれに痛みを感じるのも、メイ自身の体があたたかくあいまいな「地元」の包摂から剥離し始めているからだ。中学の頃から漠然と抱えていた不安──もしかして全部が、最初から何もかもが、「終わっちゃってる」としたら? 自分が愛着を感じてきた風景の全てが無意味だったとしたら?──に耐え難い痛みを覚えてきたメイは、地元を出て進学した大学でその痛みを背負いきれなくなり、決壊し、最後の力を振り絞って「地元」に戻ってきたのである。ここなら痛みから逃げられるんじゃないかと信じた。でももうだめだった。昔と同じ目でこの町を見ることは、もうできない。目の前に広がる町は、すでに安住の地ではない。不安でいっぱいの現実だ。

 この閉じた町に充満した不安から、いかに逃げ切れるのだろう。プレイしながら川端浩平『ジモトを歩く』(御茶の水書房)を思い出した。
 同書の著者である川端浩平氏は岡山出身で、長い間アメリカやオーストラリアで日本を対象とした地域研究を行ってきた研究者である。川端氏は長い海外生活ののちに岡山へ戻り、友人の親が経営する会社で働き、週末には在日コリアンの人々に話を聞きながら、10年かけて「ジモト」のエスノグラフィを書き上げた。
 タイトルの「ジモト」とは、異化して見つめ直した地元のことだ。腐るほど見てきた地元を丹念に歩き、人に出会い、話を聞くなかで、今まで目に入ってこなかったものの存在が立ち上がってくる。このプロセスを経て、「地元」は「ジモト」へ再構築される。
 これは一面には苦しい作業だ。これまで自分と癒着していた人や風景を引き剥がし、他者化し、対象を批判していく行為は、当然ながら大きな痛みを伴うだろう。例えば川端氏が務めた会社では、北朝鮮バッシングを含んだジョークが「労働の潤滑剤」として機能し、職場という集団への貢献として受け止められていた。川端氏はそのような現実逃避的な営みを、他者から、そして自分の内側からも他者性を奪い去っていく行為であると批判している。この批判は「地元」の生暖かいサークルから一歩出ていく行いに他ならない。容易にできることではない。
 しかしながら川端氏は、「むしろ今までよりも自分が育ったまちが面白い場所へと変わっていく注1」希望の可能性をはっきりと示している。それは「町おこし」や「地域ブランド」のような資本主義/市場原理におもねった「価値の再発見」などでは決してない。「「このまちには何もない」と思って後にしたジモトや自分が生活している場所に、実は存在している何かを発見すること注2」であり、それは「夢をみることのできる地域社会(注3)」を探求するための重要な手がかりなのだ。
 夢をみること。それは叶わない想像に身を委ねて目の前の虚無を無視しようと試みることではなく、そこそこ遠い将来に関する明るい想像を、「現実的に」巡らせられるだけの余裕を持つことである。そしてこれは、個人の問題ではなく、常に社会環境の問題だ。

 メイにとってのポッサム・スプリングも、すでに「ジモト」へと剥離し始めていた。メイは地元/ジモトを歩き回り、自らの心を苛む存在〈幽霊〉の影を追ううちに、奇妙な敵と対峙することになる。敵とは「町の繁栄」というすでに失われた虚像の実現に固執する保守的な「おじさん」たちだ。そのような人々が町の裏でカルト教団を形成し、廃炭鉱の陥没穴に棲まうという神「黒いヤギ」の生贄として、町に貢献しないと判断した無職の若者やホームレスたちを殺害していたのである。黒いヤギの飢えさえ満たせばこの町は再生するのだと、やつらは信じ込んでいた。
 メイとこのカルト教団との対立は、極めて象徴的なものである。まずこのカルト教団について重要なのは、やつらの根城がポッサム・スプリングの郷土史を研究する「史学会」であることだ。カルト教団が拾い上げようとしている歴史とは、各地に残された炭鉱経営者の銅像に象徴されるような、炭鉱と工業で栄えた輝かしい過去である。いかにも権力者が好きそうな話だ(「明治日本の産業革命遺産」とやらを思い出してしまうではないか!)。実際には管理の不備による大規模な爆発事故や、ストライキを起こした炭鉱労働者たちの虐殺など、ポッサム・スプリングの歴史には凄惨な事件がいくつも起こっているというのに、それらが拾われることはない。地域を愛していると本気で誓えるやつらだからこそ、すでにそこにあるものに盲目である。
 一方でメイと旧友たちが追う〈幽霊〉は、この町で悲劇的な死を遂げた一人の人間に関する伝承である。メイが〈幽霊〉の正体として目星をつけるのは、不可解な死を遂げたとされ、たびたび幽霊話のタネになってきた炭鉱労働者「リトル・ジョー」だった。
 〈幽霊〉は確かに生者を脅かす。しかし、秩序を撹乱する〈幽霊〉話というもの自体、虐げられた人の声が強者を脅かす一つの抵抗運動であり、誰からも耳を傾けられない声を可視化する仕組みであり、最も弱い人たちの歴史そのものではなかったか。つまりメイたちの〈幽霊〉の追跡は、まさにカルト教団が積極的に掲げようとする「栄光の歴史」に捨象された人の声を拾う行為なのである。メイの祖父が炭鉱におけるストライキの主導者であったことが発覚する流れが挿入されるのも、この「栄光の歴史」/〈幽霊〉の声、という対抗軸を強調する。
 メイは別に真面目な過去の探索者ではない。リトル・ジョーの墓だって勝手に暴いてしまったし、そもそもメイにとって〈幽霊〉は頭の中に入り込んで自らを脅かす者として想定されていた。それでも結果的にメイが〈幽霊〉の声に連なる人たちの擁護──すなわち町の中でも立場の弱い人たちの側に立ったのは、メイがこの町を徘徊し、飛び回り、そこにいる人と話を続けたからではないか。それはメイを操ってあちこちを歩いたプレイヤー自身がよく知っていることだ。メイの不安の源はこの町をめぐる暗い歴史としての〈幽霊〉であったが、同時にメイをこの世につなぎとめる重りとなったのも、この町で途方に暮れる〈幽霊〉予備軍たち──つまり現在進行形で資本家や権力に追い詰められている友人たちなのだ。〈幽霊〉とは強い不安であり、「そこにいる」ことで不思議とわれらを温めてくれる希望であり、これらがないまぜになった「現実」そのものであった。
 最後、メイたちはカルト教団から「逃げ切る」ことに成功する。「打ち破る」と言うほど積極的な攻勢ではなく、ただ追ってくるカルト教団を撒いて、炭鉱の外へ出ていくのである。弱いものを切り捨てて立ち上がる「栄光の歴史」から、〈幽霊〉予備軍たちが抜け出していく。これは間違いなく、ひとつの希望だ。
 メイがこれからどうするのかは描かれない。ただ、両親にこれまで自分に起きた奇妙な経験──全てが虚無のかたまりにしか見えないような強烈な恐怖と痛み──について語ることを初めて約束し、自らの状況を語りによって他者に開いていく可能性を示唆して、物語は幕を閉じる。物事はすぐには好転せず、不安は続く。それでもメイは〈幽霊〉とともに立った。だからこれはハッピーエンドなのだ。メイはもう、この痛みが虚無ではないことを知っている。

 本、どうやって持ってけばいいんだろうな。一箱にあんまりたくさん詰めると引っ越し屋さんが腰を痛めそうだから、何箱にも分けないといけないだろう。机はどうしよう。出ていくなら処分して行けと言われているが、この大きさの家具を処分したことがないからやり方がわからない。そもそもうちエレベーターないしどうしよう。のこぎりで解体するとか? ちょっと現実的じゃない。ていうか誰かルームシェアできる相手を探さなきゃいけないんじゃない?
 最近引っ越しのことばかり想像している。金も行くあてもなく、出ていく覚悟もまだ決まっていないのに、何をどう詰めてどこへ持っていくか考え、安そうな物件を検索している。

あたしは、超でかい巨人になって、
みんなを抱えて、
どっか安全なとこへ連れてっていきたい。

でもあたしは信じたい。
逃げられるってことを。

 メイは旧友たちにそう語る。巨人というなれやしない存在に仮託した、「逃げる」ことの不安定な非現実的イメージと対比されているのは、あいまいではあるが現実的に必要とされている逃走である。メイは後者を「信じる」と言った。信じる。それしかできないことはすごく多いけれど、それはものすごく大事なことだ。
 「マジ100億欲しい……100億あったら誰でも救えるじゃん……」と言いながら、私は今日も物件を調べる。不安と希望で構築されたひとつの現実たる私も、〈幽霊〉の側に立っている。

注1 川端浩平『ジモトを歩く』(御茶の水書房、2013年)245頁。
注2 前掲注(1)。
注3 前掲注(1)。


都知事選直前座談会 - ele-king

■野党一本化に失敗

土田 今回の東京都知事選では、れいわ新選組の山本太郎さんの出馬が話題をさらいました。早々と出馬を表明していた弁護士の宇都宮健児さんと政策が似通っているだけに「野党共闘は組んで一本化できなかったのか?」と残念がる声も聞こえてきました。

望月 実は、ある党の調査でも、野党候補を一本化しても現職都知事の小池百合子さんにダブルスコアで負けてしまうという調査結果が出たと聞きました。「そこまで小池さんは強いのか」と野党の幹部は意気消沈してしまったそうです。山本さんが記者会見で話をしたように、それでも次期衆院選に向けて、野党の候補一本化は必要ですから、山本さんと協議はしていたようです。でも山本さんは、自分が野党統一候補として出る場合には「消費税5%減税」を明文化し、確認団体を「れいわ東京」とすることを要望したようですが、国民民主党はその要望を呑んだものの、最終的には、立憲民主党が踏み切れなかったという流れがあったと聞きました。
 今回、宇都宮さんと山本さんのお2人が出たことで、選挙戦は小池さんが圧勝との予測が流れる中で、野党での主導権争いもテーマになっている様相です。山本さんとして野党が戦わないと無党派層の掘り起こしができないと踏んでいるのでしょう。安倍政権の支持率は下がっても、自民党の支持率は下がらない現状では、野党支持者ではない無党派層を掘り起こしていきたいという思いがあったのではないかと思います。
 山本さんの出馬によってリベラルの分裂、という側面は確かにありますが、一方で、リベラル陣営の本気度も増しており、都知事選はテレビでは討論会をしていませんが、ネットなどでの論戦は面白くなりました。過去22人の立候補者という点も含めて、多種多様な候補者が出ています。ネット世代の若者の投票率が上がることを願います。山本さんの演説力には人を惹きつける力がありますし、宇都宮さんの立憲民主・社民・共産の共闘も山本さんには負けられないと総動員体制で臨み、山本さんとの差異化をはかり、応援にも力が入っているように見えます。
 コロナ感染がやや拡大している中で、都知事選はどうなっているのかとチェックしようという機運も出てきていますし、選挙を盛り上げて投票率を上げるという意味では、小池さんが強くても、山本さんが出馬したことで政策論議が選挙戦の中で切磋琢磨されているようにも思います。懸念されるのは、都知事選後の野党共闘の枠組みがどうなるのかという点だと思いますが、都知事選の結果を見ながら野党の中での共闘の枠組みや論議がまた進むことを願います。

水越 山本さんが立候補した時には戸惑いましたが、左派の経済政策を語る候補が2人もいる都知事選挙なんて初めての経験で、長いこと右に移動し続けてきた「中心線」が、この選挙戦で多少とも元に戻っているのではと私も感じています。極端な左右がかみ合わないまま対決するのも選挙として面白くありませんが、もっと悪いのは中道同士でどっちがなっても似たようなもの、「今回は鼻をつまんで投票しましょう」と、左派は何度も言われてきました。今回は、街頭スピーチをネットで見たり、少ないですが討論会も見て、私も今では2人の立候補はいいと思うようになっています。

■開催されないテレビ討論会

土田 小池さんは強いにしても、山本さんと宇都宮さんのどちらが票数で上回るかによって今後の野党内の主導権争いに影響を与えませんか?

望月 山本さんの狙いは恐らく、消費税減税さえ一致する方向を見いだせない立憲民主に対して立場を明確にする意味でのジャブを放つことだったのではないでしょうか。今回、山本さんの支援に入った立憲民主の須藤元気さんは離党届を出していますが、まだ認められていないようです。立憲民主を離党した山尾志桜里さんは、国民民主に移りました。今後、立憲民主が山本さんとどう折り合いをつけていくのか、もしくはいかないのかということも含めて、今後注目していかなければなりません。
 政治学者の中島岳志さんは、選挙の時に有権者が熱狂するのは、政治家がひとつの物語を作っていくことだと指摘していました。そういう物語のある野党を作り、その魅力を打ち出していくことが必要なのではないでしょうか。小泉元首相が「自民党をぶっ壊す」と言って選挙で圧勝したように、ひとつの物語の中に有権者を取り込んでいく。都知事選後の野党再編では、内輪の論理で考えるのではなく、野党の中での物語をどう有権者に見せていけるかという視点をもっと掘り下げていく必要があるのではないかと思います。

野田 コロナの時代で特に重要な都知事選にもかかわらず、テレビは討論会をやらないようですね?

望月 信じ難い対応ですね。小池陣営は、コロナ禍での会見は別として、討論会にはなるべく出ないという方向でやっているようにも見えます。6月27日にネット番組である「Choose Life Project」のオンライン討論会には小池さんは出ましたが、ネットですから視聴者は多かったとはいえ2、3万人でした。1%の視聴率で100万人が見るといわれているテレビのように、多くの有権者に見られているわけではありません。
 小池さんが強いのは、女性の都知事ということで、公明はもちろん、立憲民主から共産まで幅広く支持者がいるという点にあります。小池さんには「カイロ大卒業」を含めて学歴詐称の疑惑も出ましたが、各社の出口調査の分析などを見ると、さほど有権者の判断に影響を与えていないようにも見えます。小池さんは討論会には参加せず、コロナ会見を重視することで、政治的なアピール、メリットを享受しているのではないでしょうか。
 オンライン討論会では、関東大震災の朝鮮人虐殺についての追悼文の送付を取りやめたことについて重ねて司会者に質問されていましたが、なぜ、送付を取りやめたかについては明確な答弁を避けていました。追悼文送付の取りやめは、小池さんの歴史修正主義的な側面を理解する意味ではもっと追及されるべきテーマだと思っています。コロナ禍は最重要事項であることに変わりはないですが、1400万都民のトップに立つ知事を決める重要な選挙なのですから、小池さんには逃げずに政策論争を通じて有権者に判断材料を提供するようネットをはじめ、NHKや民放テレビ各局でも討論会を開催してほしいと思います。

■政府との違いを演出した小池知事

望月 東京新聞、共同通信、東京MXテレビ3社の世論調査(6月30日付け東京新聞朝刊で掲載)で、都のコロナ対策「評価」7割、小池都政「評価」8割、東京五輪は「見直し」「再延期」「中止」と微妙に分かれていました。小池さんがどうのというより、都の政策は国に比べればまだマシ、よくやっている方ではないかという相対的な評価があるとも思います。首相と小池さんの会見を比較すると圧倒的に小池さんの方が、答弁が饒舌で、その場での切り返しもうまいと思います。
 一方、都職員の意見が反映されている「都政新報」によると、都職員からの評価は低く、「再選出馬」への賛成が21.5%しかありません。なのに、世論調査で「都政を評価する」が7割もあるのは、「小池アラート」のパフォーマンスや記者会見での発信を含め、「よく仕事をやってくれているのでは」という高評価に結びついているのかもしれません。
 国が減収世帯に30万円給付と言っていたのに、公明党の要請で一律10万円給付に切り替わるなど官邸の方針が揺れている最中に、都は感染拡大防止の協力金を出すとか、都独自の方針を出していました。私がびっくりしたのは「ネットカフェ難民をどうするのか?」という記者の質問に、ネットカフェ難民用のホテル費用など12億円を「これから予算で計上します」と迅速な予算対応を発表していました。しかし、後日、報道を見ていると、この都が提供したホテルは土日が過ぎると、追い出されたというネットカフェ難民が出てくるなど、実際、どこまでネットカフェ難民対策を本気で考えているのかが見えないような点もありました。

水越 そうですよね。私の周囲でも協力金の気前の良さで「小池さんは意外に良いのではないか」とそれまでの見方を変えた人がけっこういました。あの時の印象がなんとなくずっと残っているんでしょうね。

望月 東京オリンピックについてですが、官邸と恐らく示し合わせて「100%完全な形で実施する」と3月中旬までかなり強いトーンで言っていました。実はその最中の週末に感染爆発が起こりそうでしたが、その週は自粛要請も含めて何もせずに、翌週、IOC委員会で「見送り論が浮上」という報道が出た直後に、いきなりロックダウンとか、オーバーシュートが起こりうるということを官邸より早く大々的に言い出しました。ある意味、巧みだなと思いました。IOCの方向性が見えた瞬間に得意の横文字を使って、安倍首相よりも早く注意喚起を都知事として打ち出す小池さんは意図的に「私は官邸とは違う」というイメージを出したようにも見えます。官邸はやるつもりもなかった「ロックダウン」という言葉を使われたことに大激怒していたとも聞きました。
 今回の都知事選では、自民党の支援を断っており、一定の距離があるようにも見えます。この点、自民党の都連側も小池さんへの一定の警戒感はいまだに持っているようにも思えます。都知事選を糧にして9月解散と言われている衆議院選で、小池さんが何かをまた仕掛けてくるのではないかという警戒もあるのかもしれません。

■次期衆院選を見通す維新

土田 今回の都知事選は今後の国政にどのように影響しますか?

望月 野党が分裂している状況の中でどこが伸びてくるのかが問題です。9月に解散があった場合、テレビに出ずっぱりの大阪府の吉村洋文知事が、東京も含めて全国を走り回って運動したとすると、前回の総選挙を上回る形で、日本維新の会が伸びて立憲民主党に競り勝つ選挙区も出てくる可能性があります。政府からすると、自民が負けても、維新が勝てば、自公維という連立や閣外協力を組むことになるかもしれません。これは自公よりも右寄りで歯止めが効かない政権ができる懸念があります。前の国会で検察庁法改正案を含めて維新はほとんど賛成でしたし。

水越 そんなことになったらすごく怖いですね。トランプ並みの稚拙な右派ポピュリズム政治になるでしょう。大阪のコロナ対策も、それ以外の大阪維新の政策も東京には詳しく伝わっていないと思いますが、全国的にもっと知られる必要がありますね。

土田 今回の都知事選で小野さんが維新の推薦を受けて出馬したのは、次の衆院選を見すえてのことだろうと思います。維新は大阪では圧倒的に強いですが、今回、東京でどれくらいの票が取れるのか、リトマス試験紙のつもりではないでしょうか?

望月 昨年7月の参院選挙東京選挙区で、維新の音喜多駿さんが立憲民主の山岸一生さんに競り勝っていますし、神奈川でも維新が立憲民主を落とした選挙区がありました。想像以上に維新は関東でも浸透しつつあります。政治経済評論家の古賀茂明さんは、立憲民主やれいわに必要なのは、バラマキだけでなく、改革路線の方向性も打ち出すことだと指摘していました。その点、維新の推薦を受けた元熊本副知事の小野泰輔さんは、天下りの見直しということを掲げていました。改革路線を意識した政策なのでしょう。

土田 都はコロナ対策として1兆円以上を投入し、都の貯金にあたる「財政調整基金」が9300億円余から500億円余に減ったと言っています。山本さんは都債(地方債)の発行で総額15兆円を調達できると主張し、街頭演説でも聴衆にインパクトを与えています。これに煽られるように宇都宮陣営も告示後になって、コロナ対策の財源を具体的に示しました。それは、まず財調基金の残額5百億円に特定目的基金などを合わせて1兆円、そして外環道など不要不朽の大型道路の建設を先送りして1兆円です。そして、やはり地方債の活用にも踏み込み、公共施設の建て替え費用を都債に振り替えることで1兆円の予算を生み出すということで、結局、計3兆円を捻出するという内容でした。山本さんの総額15兆円に触発されて、現実的な政策案として打ち出してきたようです。
 都債で捻出したコロナ対策費の使い道についても山本さんは具体的に考えています。まず、都民全員に10万円を給付し、中小・零細、個人経営、フリーランスにほぼ無審査で各100万円ずつ給付します。次に、学校の授業料を1年間無料にします。それで数兆円。その後、第2波、第3波が来た場合にさらに数兆円と、何回かに分けて総額15兆円ということです。だから第2波や第3波が来なければ5、6兆円とか7、8兆円で済むかもしれないとも言っています。

望月 政府の打ち出した経済対策は総額108兆円規模で、安倍首相は「過去にない強大な規模」だと説明しましたが、国が新たに支出する一般会計補正予算は16兆7000億円規模でした。“真水” が17兆円規模でしたから、山本さんの総額15兆円は国の経済対策とあまり変わりません。一方、小池さんが言っているように将来、都民税がどれだけのしかかってくるのかという懸念があるのも確かです。小野さんも「15兆円はさすがにどうかと思うが、自分が知事になったら緊急時には、都債の発行は検討材料のひとつだ」と言っていました。

水越 選挙でこうした政策がここまで現実的に語られるのは過去にはあまりなかった珍しいことだと思います。これは経済左派の2人がライバルとしているからだと思います。例えば冷戦期、社会主義国がいたからこそ、資本主義国の福祉政策はあそこまで進んだと私は考えています。日本の政治でも大きな社会党があったからこそ、もっと言えば都知事の美濃部亮吉さん(在任期間1967年~1979年)がいたからこそ、自民党は福祉に力を入れたわけですよね。

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■「ロスジェネ世代」へのアピール

土田 山本さんは災害対策基本法に基づいて国がコロナ禍を災害指定にすべきだったとも主張しています。そうすれば台風や地震など自然災害の被災者と同じように仕事や住居を失った人たちを救済できたということです。ただ、都には権限がないので全国の知事に呼びかけて災害指定を国に強く求めるとのことでした。これに対して宇都宮さん側はコロナ禍は災害指定の適用要件に当たらないとし、特措法があるので国は応じないだろうと説明していました。こういう議論が起きているのも山本さんの出馬のおかげですね。

野田 それに山本さんは「ロスジェネ世代」を口にしています。YouTubeを見ている人がその世代に多いので戦略的に言っているのかもしれませんが、多くが非正規雇用など不安定な状態にあるロスジェネ世代を含めて、今一番、皆が不安に思っているのは自分たちの生活がこれからどうなっていくのかということではないでしょうか。それだけに山本さんの発言は説得力があるように思えます。

望月 山本さんはかつて街頭で原発被災の話をしていると、聴衆から「自分がいる非正規雇用やブラック企業の状況を知ってほしい」と言われ、そこから不安定な非正規雇用の実態などについても調べ始めたそうです。事前告知のない飛び込みの街頭で話すとたくさんの人が足を止めてくれることが分かった。そういうことが血肉化されて彼の今の演説につながっていると思います。山本さんは路上生活者らへの炊き出しなどの支援の現場にも足を運び、その人たちから直接、話を聞き、その声を体の中に吸収してため込んだ思いや言葉を発信しています。
 長年、たくさんの政治家を見てきた政治部のベテラン記者は「(山本さんは)10年に1人いるかいないかの逸材だ。言葉に力があるし、発信力がある。あのセンスは持って生まれた才能と努力の賜物としか言いようがない」と言っていました。誰に向かって何を伝えたら一番響くのかを候補者の中で徹底して分かっているのが山本さんだと思います。それが彼の演説力と発信力につながっています。

土田 山本さんは知事になったらロスジェネ世代とコロナ失業者計3000人を、都の正規職として雇用すると言っています。非正規雇用が全労働者の4割近くに上っているといわれる「貧困と格差」の時代に、非常に重要な政策だと思います。この政策はロスジェネ世代にはアピールしているのでしょうか?

望月 つい最近、政府が毎年150人、3年で450人、ロスジェネ世代に向けた国家公務員の中途採用を行う方針を発表しました。都知事選の動向を見て、ロスジェネ世代や非正規労働者をターゲットにした政策を取り入れていかないとまずいと判断したのか、これからも正規雇用を増やしていくと言っています。

■都立病院の “実質” 民営化の問題

水越 維新は公務員の削減を主張していますが、検査をはじめコロナ対策が遅れるなか、実は日本は公務員をすでに減らしすぎてきたのではないかという現実が見えてきました。そうした意識は世論調査でも浸透していると感じられますか?

望月 東京新聞で掲載した世論調査では、都に望むコロナ対策で押して「PCR検査や保健所のなどの態勢強化」を求める声が全体の3割と最も多く、60代では4割を超えています。小池都政が進めている都立病院と公社病院の地方独立行政法人(独法)化の問題も議論すべき争点のひとつです。大阪府では府立病院の独法化で医療現場が弱体化したためコロナ災害で医療現場が混迷したと言われています。都立病院の独法化に反対する宇都宮さんや山本さんの主張には、コロナ禍を受けて、もう一度、立ち止まって考えてみなければいけないものがあると思います。

水越 たとえば都立病院の独法化と言われても、具体的になにがどう変わるのかよく分かっていない人も多いんじゃないでしょうか? 特に都内では公立病院のありがたみは今回のコロナ危機でこそ言われるようになったけれど、これまで新聞でもあまり解説記事を目にした記憶がありません。現実には公立でも私立でも、病院はわずかな想定外の出来事でシステム崩壊しかねないくらい綱渡りの経営をしているのかもしれないと、この数ヶ月で知ったこともあるので、もっとその先を知りたいです。

望月 その通りですね。まだまだ有権者に独法化についてのメリット・デメリットをメディアがきちんと説明できていないようにも見えます。

土田 東京都が8つの都立病院と7つの公社病院・癌検診センターの2022年度内をめどにした独法化の方針を打ち出したのは今年3月のことです。独法化は都の財政負担の軽減が目的ですが、法人側が自前で運営資金を調達しなければならないので実質的な民営化といえます。
 大阪府では2006年に5つの府立病院を独法化することで17億円の収支改善があったそうですが、これは人件費のカットによるものです。都立病院などの独法化はコロナ禍で疲弊し切った医療現場を今後さらに人件費の削減などで痛め付けることになると思いますが、まさに新自由主義的政策による福祉・医療の切り捨てでしかありません。コロナ災害の第2波が予想される中、どうして都立病院の実質民営化が都民の怒りを買わないのか不思議でなりません。

水越 病院の民営化でなにが起きるか、よく分かっていないんです。私はずっと都内で生活していますが、公立病院にはほとんど行ってません。気づいたらなくなったり、普通外来をしなくなっていたんですね。でもそれで今まで困らなかった。コロナで久しぶりに公立病院のことを考えました。
 それから小池知事のコロナ対策の評価についてももっと報道してほしいですね。このところの感染者増加にも関わらず、小池さんの言動はちょっと不可解なほどそっけない。病床を確保されていても、後遺症のこと、公共トイレが感染源として危険なことなど、4月には分かっていなかったこの病気の知見は増えているのに小池知事は4月の感覚で話しているように私には見えます。そのあたりを、科学的視点で評価してほしいです

■民主主義を形成する政策論議

土田 他にも都知事選の争点となる問題がたくさんあると思いますが、カジノ誘致について小池さんは「メリット・デメリットがある」と明確な回答をしていません。実際には臨界副都心の青海地区(江東区)が候補地と言われ、3月に開始された羽田空港の新飛行ルートによる増便問題とも絡んで、米企業が東京を最有力候補地として狙っているとも言われています。「稼ぐ東京」をキャッチフレーズにしている小池さんも実は前向きなのではないでしょうか?

望月 大手カジノメーカーからするとカジノ誘致は横浜より東京がなんと言っても魅力的です。横浜市の林文子市長は、候補地で手を上げていますが、海外からみたらその魅力は、集客力や外国人観光客も多い東京になるのでしょう。それもあり、宇都宮さんが指摘していますが、江東区が都の候補地になっているのではないかという話があります。あまり争点化されていないのですが、選挙が終わって、コロナが落ち着いた来年の夏以降くらいに、東京が候補地として手を上げる可能性は十分ありうると思います。この問題ももっと注目されてもいいのではないでしょうか。

水越 2人の左派、リベラル寄りの候補が出てうれしい反面、有権者として考えると、山本さんと宇都宮さんという甲乙付け難い2人の候補者が目の前にいるわけです。反ネオリベ経済、反ヘイト、弱者のための都政を望む有権者にはどちらに投票しようか迷っている人も多いのではないでしょうか? 私もすごく迷っています。望月さんはこの葛藤についてどう考えていますか?

望月 政治をずっと見てきた人たちは、山本さんが、あれだけ演説で人を虜にする力を改めてすごいと思う一方で、都議会を傍聴して地道に都政をよくするための活動を続けてきた宇都宮さんのぶれない姿勢や、ジェンダー問題に対する意識、学校給食の無償化といった政策に心を動かされている人もたくさんいます。全体として、リベラル派の人たちの中でさまざまな政策について具体的に議論を深める良い契機になっているように感じます。考え方を深めているなという印象を持っています。“百合子山” が高いにしても、山本さんや宇都宮さんの陣営が選挙戦を展開する中で、独自に考えている政策が、選挙戦の中で論戦を繰り広げ、よりブラッシュアップされていくことで、有権者に伝わり、広がっていることは良いことだと思います。選挙後に、一定の評価があった野党の政策を、与党や都知事が取り入れるということはよくあることです。例えば地方債の発行にしてもこれだけ注目されると、都の財政調整基金が500億円ほどしかない中で、都債の発行は、債務負担を考慮しつつ、総務省との間で検討されるべきではという認識が生まれたのではないでしょうか。どの候補が勝ったとしても、負けた側の主張も含めて、何かしらの相互作用は必ずあるはずですし、結果としてそういうことが、最後には民主主義を形作っていくのではないでしょうか。有権者の方々が、それぞれの頭で政策を考え、自分の考えや思いに近い候補者に一票を投じていってほしいと思います。

Gary Bartz & Maisha - ele-king

 長くジャズを聴いてきた者としては、いま現在の注目の若手アーティストを聴くことからはもちろん新たな興奮を得られるのだが、一方でかつて素晴らしい作品を残してきたベテラン・アーティストの新作が出れば、やはりチェックせずにはいられない。そして、そんな新旧アーティストが共演したとなれば黙ってはいられないものだ。こうした新旧アーティストの共演は、たとえばロザンゼルスなどで結構盛んに行なわれており、ハーヴィー・メイソンのバンドにカマシ・ワシントンマーク・ド・クライヴ・ロウが参加したことがあったし、昨年のフィリップ・ベイリーの『ラヴ・ウィル・ファインド・ア・ウェイ』もそうした新旧の力が組み合わさって作られたアルバムだ。最近ではエイドリアン・ヤングとアリ・シャヒード・ムハマドの『ジャズ・イズ・デッド 001』で、ロイ・エアーズ、ダグ・カーン、アジムス、マルコス・ヴァーリらレジェンド級ミュージシャンとのコラボも実現した。

 その『ジャズ・イズ・デッド 001』に参加したひとりのゲイリー・バーツは、以前にもザ・ロンゲッツ・ファウンデーションの『キッス・キッス・ダブル・ジャブ』(2015年)に参加するなど、若手ミュージシャンとのセッションに積極的なアーティストのひとりである。1960年代にアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズでプロ・デビューし、マイルス・デイヴィスのグループへ参加したほか、マックス・ローチ、スタンリー・カウエル、マッコイ・タイナー、アリス・コルトレーンらと共演してきたゲイリー・バーツは、ポスト・コルトレーン的なスピリチュアル・ジャズから、マイゼル・ブラザーズをプロデューサーに迎えたジャズ・ファンク、さらにはルーカス=エムトゥーメイによるブギー~フュージョン路線と、長きに渡って活躍してきたサックス奏者だ。レア・グルーヴやクラブ・ジャズ世代からも人気が高く、ザ・ロンゲッツ・ファウンデーションやエイドリアン・ヤングもそんなところからラヴ・コールし、共演へと繋がったのだろう。

 そして、今回はロンドンのジェイク・ロング率いるマイシャがラヴ・コールを送って共演が実現した。マイシャはアフリカ色の強いスピリチュアル・ジャズを指向していて、ちょうどバーツの〈マイルストーン〉や〈プレスティッジ〉時代のサウンドやコンセプトと共通項がある。バーツは1970年にウントゥー・トゥループというグループを率いて、『タイファ』と『ウフル』という連作からなる『ハーレム・ブッシュ・ミュージック』を発表している。マルコムXとコルトレーンに捧げられたアフロ・フューチャリズムに富む『ハーレム・ブッシュ・ミュージック』は、現在のブラック・ライヴズ・マター運動にも繋がる作品なのだが、その中の “ウフル・ササ” を取り上げている。原曲はアンディ・ベイが歌うジャズ・ファンク調のナンバーだが、今回はヴォーカルが入らないぶんバーツ本人のサックス・ソロがより引き立てられるものとなっている。もう1曲バーツのナンバーをやっていて、“ドクター・フォローズ・ダンス” は『フォロー・ザ・メディシン・マン』(1973年)の収録曲。こちらもジャズ・ファンクだが、アフロ・リズムにブロークンビーツのエッセンスを加えたジェイク・ロングのドラムと楽曲が見事に合致している。そのほかの “ハーレム・トゥ・ハーレム” や “ザ・スタンク” は今回のセッションのための新曲だが、どちらも『ハーレム・ブッシュ・ミュージック』あたりに入っていても違和感のない楽曲で、マイシャがバーツの音楽をいかに研究し、理解してきたかがわかる。“レッツ・ダンス” はマイシャのカラーが強いアフロ・ジャズで、ダンサブルなリズムと牧歌性に満ちたバーツのサックスが素晴らしいコンビネーションを見せる。

 ゲイリー・バーツと同時期にデビューして活躍してきたアーチー・シェップも、コルトレーンとの共演を経て開花していったサックス奏者である。ドン・チェリーやセシル・テイラーなどとのフリー・ジャズから、ゴスペルやソウルなどを取り入れたジャズ・ファンク~スピリチュアル・ジャズなど幅広く演奏し、1980年代以降はバラード奏者としても高い評価を得ている。ジャズ・ファンク期の作品はバーツ同様にクラブ・ジャズ・ファンから人気が高く、『アッティカ・ブルース』(1972年)はじめカヴァーやサンプリング・ソースとしても愛されてきた。そんなアーチー・シェップが、ワシントンDCのヒップホップ・プロデューサーであるダム・ザ・ファッジマンクの新作にフィーチャーされている。ロウ・ポエティックとK・マードックとのデュオであるパナセアをトラックメイカーとして支え、MCインサイトとのユニットのY・ソサエティでの活動やMFドゥームやブルーなどとのコラボにより、ジャジーでソウルフルなトラック作りに定評のあったダム・ザ・ファッジマンク。今回のアルバムは彼にとって初めてのジャズ・プロジェクトとのことで、自身でドラムスやヴィブラフォンを演奏し、ミュージシャンと組んだバンド形態のプロジェクトとなっている。エイドリアン・ヤングとのコラボでア・トライブ・コールド・クエストが完全にミュージシャンとして組んでいるのと同じことだろう。そしてアーチー・シェップはサックスのほかにピアノ演奏でも参加し、ロウ・ポエティックがシンガー/ラッパーとして加わっている。

 基本的にジャズの即興演奏にヒップホップのエッセンスやラップ・パフォーマンスを交えたもので、“ラーニング・トゥ・ブレス” や “チューリップ” のようにクールでソリッドな楽曲が収められている。1970年前後のエッジの立ったシェップの諸作に通じる匂いを感じさせるもので、ジャズとヒップホップが底辺で繋がっていることを改めて感じさせる。そしてバーツとマイシャの場合もそうだが、このコラボもダム・ザ・ファッジマンクからのシェップに対するリスペクトの念が滲み出たものとなっている。

「戸川純の人生相談 令和弐年」がますます面白くなっています! 深夜に営業している歯医者情報から戸川純の本名である「戸川順」がどのような経緯でつけられたかなど、初めて聞く話がまだまだ出てきます! 何を隠そう『疾風怒濤ときどき晴れ』のインタヴューは、かなりの部分が脱線でした! ありがち! その話ともまったくかぶっていない。どこにどれだけエピソードが詰まってるんでしょうか。そして、毎回、エンディングで歌われる曲も素晴らしく、個人的には「夏は来ぬ」のバックトラックにもやられてしまいました。これ、レコーディングしないのかな~。


戸川純の人生相談 令和弐年 第五回

戸川純の人生相談 令和弐年 第四回

戸川純の人生相談 令和弐年 第三回

戸川純の人生相談 令和弐年 第二回

Denki Groove - ele-king

 ウィー・アー・バックといえば LFO だが、ちがう、電気グルーヴだ! 2019年3月の騒動以来、長らく配信停止となっていた彼らの音源が、去る6月19日、SpotifyApple MusicYouTube などの各種ストリーミング・サイトにてふたたび視聴可能となっている。フィジカル盤の出荷も再開されているようだ。めでたい。
 
 ちなみに、石野卓球は6月6日に配信再開を切望するツイートをしているが、これがきっかけとなったのだろうか。

 なお、レーベルサイドによる配信停止や商品回収といった「自粛」には抗議の署名運動も起こっており、最近では宮台真司/永田夏来/かがりはるき著『音楽が聴けなくなる日』(集英社新書)という本も出ている。あらためて「自粛」の意味について考える良い機会になるだろう。

井手健介と母船 - ele-king

1.

 かつてアメリカのボストンに、霊媒として名を馳せた「マージャリー」ことミナ・クランドンというひとがいた。彼女には、あのコナン・ドイルも惚れ込んでいたそうだ。橋本一径の『指紋論』によると、マージャリーは1923年から自宅でラップ音やテーブル浮揚といった超常現象を来客たちに披露していた。「支配霊」のウォルターを呼び出して客と会話をさせたり、エクトプラズムを生成したり……。さらにエクトプラズムはウォルターの手として実体化し、歯科用の蝋型に親指を押し付けて指紋を残した。幽霊が存在することを自ら証明するためのその指紋は、幽霊との「コンタクト」の場であった交霊会の出席者たちに手土産として配られたという(皮肉にもその「幽霊指紋」は、マージャリーのいんちきを証明してしまうことになるのではあるが)。

 映画『リング』の透視能力者である山村志津子(山村貞子の母で、実在した超能力者の御船千鶴子をモデルとする)しかり、幽霊、超能力者、オカルトなどなどは、証しを立てることを常に要求されてきた。それらは現実の「いま、ここ」にないものであったり、「いま、ここ」を超え出たものであったりするからだ。けれども、ないものがあること、現実の規範や決めごとを超えたなにかがあることを明らかにするのは、きわめて難しい。なぜなら、それらは「ない」のだから。あるいは現実を超えてしまっているのだから、現実の規律に縛られ、そこから逃れられずに生きるわたしたちにとって、理解できるものであるはずがない。心霊とは、現実のまったきオルタナティヴである。

2.

 『エクスネ・ケディと騒がしい幽霊からのコンタクト』において井手健介と母船は、現実にないものを歌っている。井手は「エクスネ・ケディ」、バンドは「ザ・ポルターガイスツ」というオルターイーゴを纏って。そのペルソナは、現実を超え出るためのものだ。

 “ポルターガイスト” では「どうして触れられないの?」、「どうして目に見えないの?」、「もいちどさわって/さわらせて」と、エクスネ・ケディが跳ねるビートにのってだみ声で呼びかける。ラップ現象にも近い「ポルターガイスト」とは、実体がない、いたずらな幽霊ないしは心霊現象であり、黒沢清の映画で言えば(赤い服を纏った女やジュラルミンケースから出てくる少女ではなく)、消化器や瓶を倒したり、看板を落っことしたりする、あれである。だから、ポルターガイストに触れられるわけがないのだ。いっぽうでポルターガイストは、現実の生を超え出てしまった死者たちからのコンタクトである。そのコンタクトをたしかなものとするために、エクスネ・ケディは霊に証しをねだる。「夜明けの足あと」、「寝床はどこなの?」。「足あと」とは「ウォルターの指紋」であり、「寝床はどこなの?」とは幽霊の身元確認だ。

 あるいは、ものがなしげな “人間になりたい” でエクスネ・ケディは、「人間になりたい動物」と「人間をやめたい人間」を混在させた「ぼく」を歌う。“人間になりたい” は、あの有名な洞窟の比喩についての歌だろう。「人間になりたい動物」は、「きらきらの影絵」を恍惚として見つめる縛られた「人間」にあこがれている。そのほうが楽だからだ。いっぽうの「人間をやめたい人間」は、影絵に見惚れたまま受動的な「かなしいYES」を「繰り返す」人間の態度に飽き飽きし、くだらない現実からイグジットしたい。エクスネ・ケディは現実を生きる人間(あるいは、人間がつくりだす現実を生きること)と現実を超え出た非人間とに引き裂かれている。

 ざっくりと言ってプラトンは、「影絵」を目に見える現実に、「影絵をつくりだす実体」をイデアにたとえたわけであるが、ここで前者を心霊現象、後者を「霊それ自体」のアナロジーとして考えてみたらどうだろう。ポルターガイストは幽霊の影絵だ。現実に縛られた人間たちは、霊それ自体という実体には決して触れらない。心霊現象を通してコンタクトすることしかできないのである。現実を超え出た霊とのコンタクトを求めれば求めるほど、人間は現実に括りつけられていることに自覚的にならざるをえない。

 とにかくエクスネ・ケディは、現実にないものを執拗に歌う。「人の子だってバレないように/過去から来たって知られないように」(“ささやき女将”)。「宇宙の果てで踊ろう」、「地球の外で歌おう」(“おてもやん”)。「妖精たちが泳ぐ海で/わたしはずっと待っている」(“妖精たち”)。がしかし、それらの歌はむなしいのぞみや祈りのようにも聞こえる。「映画は終わるものでしょう?」(“ぼくの灯台”)と、エクスネ・ケディはこのアルバムの最後で諦念を口にしている。

 いっぽう、映画の起源に影絵を見るならば、「映画の終わり」は現実に立ち戻ることではなく、逆説的に現実からの解放を意味する。はりつけにされたままで影絵を見つづけるのはもう終わり。さあ、くもりのない心の瞳でもって、完全な形を保った世界の真の姿を見よう。──霊それ自体と触れ合おう。かように “ぼくの灯台” の詞は両義的である。

3.

 霊、妖精、地球の外にある宇宙、時間のねじれ。オルターイーゴを纏い、現実の外をシアトリカルな発声と発想で歌う『エクスネ・ケディと騒がしい幽霊からのコンタクト』は、音楽それ自体も現実を超え出ようとする響きを持つ。

 石原洋がプロデュースした『エクスネ・ケディと騒がしい幽霊からのコンタクト』の音楽的なテーマは、「人工的でギラッとしたロック」であり、「グラム・ロック」であり、「70年代の黄金期のブリティッシュ・ロック」であったと井手は言う(https://www.ele-king.net/interviews/007600/)。たしかに “ささやき女将” では、井手と墓場戯太郎、北山ゆう子、羽賀和貴といった母船のメンバーたちが、霊媒となってT・レックスを降霊している。“イエデン” では井手がマーク・ボランを口寄せするも、ぴったりと憑依させることに失敗し、ずれたままコミカルかつシアトリカルなファルセットでねちねちと歌いつづける。デイヴィッド・ボウイの『ロウ』からの残響がみだらにこだまするのは、“妖精たち” である。“ロシアの兵隊さん” のメロトロン、(ブリティッシュではないものの)“ぼくの灯台” でのアル・クーパーふうの大山亮のオルガンの音も忘れがたい。

 とくに印象に残るのは、北山のドラムの響きだ。ドラムを色彩豊かに鳴らすため、ミキシングを自在に操り、一曲ごとにミュートの具合い、チューニング、録りかたなどを変えているようにも感じる。フィルインから始まる “妖精たち” や “おてもやん” ではスネアドラムやバスドラムの胴鳴りが強調され、それによってサイケデリアが生まれている。打数の多さによって陶酔的で不穏なビートの織り物を編み上げた、まるでグル・グルのような “おてもやん” は、ほとんど北山のドラムが主演の曲だと言っていい。

 サイケデリック・ロックを直接的に想起させる意匠が少ないにもかかわらず、『エクスネ・ケディと騒がしい幽霊からのコンタクト』にサイケデリアを感じるのは、そうした「人工的でギラッとしたロック」である点による。かつての「グラム・ロック」や「70年代の黄金期のブリティッシュ・ロック」を夢見ること。ジェントリフィケートさせずに野卑で軽く、安っぽいムードを音に宿すこと。頽廃的なロックを人工的に演出すること。そうすることで生まれた音楽は、「2020年のニッポン」という現実から優雅に遊離するという意味でサイケデリックにほかならない。

4.

 「イデケンスケ」と何度か、もごもごとゆっくり口に出して言ってみると、次第に「エクスネケディ」の音が立ち現れる。井手健介からエクスネ・ケディへの変態は、現実を超え出るためのトランスフォーメーションである。現実の外からのコンタクトの証しとして、ここに『エクスネ・ケディと騒がしい幽霊からのコンタクト』というアルバムが残された。それはまるで、幽霊の指紋のようだ。

R.I.P. Keith Tippett - ele-king

 サウス・ロンドン勢からゴー・ゴー・ペンギンと、英国のジャズが注目を浴びるようになってきた昨今だが、そもそもこうした英国ジャズの基盤が形成されたと言えるのが1960年代で、その中でもキー・パーソンのひとりだったピアニストのキース・ティペットが去る6月14日に亡くなった。1947年8月25日にブリストルで生まれたキース・ティペットは、かれこれ50年のキャリアを誇るベテラン・ミュージシャンで、2010年代に入ってからもソロ作やリーダー作、ほかのミュージシャンとの共演作などいろいろと出し、ソフト・マシーンに同行して来日公演なども行うなど元気な姿を見せてくれていた。2018年に心臓発作で倒れたが、2019年初頭には復帰してライヴを行っていて、最後まで現役で野心的な演奏を貫いた。

 その死後に早速デヴィッド・シルヴィアンが追悼コメントを残しているが、彼がジャパンを解散した後の1991年に発表したソロ・アルバム『エヴリシング・アンド・ナッシング』にはキース・ティペットも参加していて、デヴィッドが即興演奏に進むうえでとても大きな指針となってくれたようだ。これに象徴されるように、キース・ティペットはジャズ、フリー・インプロヴィゼイション、ロックの中間に位置し、それぞれの世界を繋ぐ触媒のような存在だったとも言える。そもそも彼が頭角を表した1960年代後半は音楽界全体が革命期にあり、ジャズ界でもロックなどを融合した新しいサウンドが急速に広がっていた。もともとジャズ、ブルース、ロック界の交流が盛んだったロンドンはその一大中心地であり、キース・ティペットもその渦の中にいたひとりだ。最初はクラシック・ピアノを学んできたキースだが、ジャズに進んでからは1968年にエルトン・ディーン、マーク・チャリグ、ニック・エヴァンスらと自身のバンドを結成する。このキース・ティペット・グループのメンツは後にキング・クリムゾンやソフト・マシーンにも関わってくる面々で、すなわちジャズ・ロックとかプログレッシヴ・ロックの人物相関図の中心にキースはいたのである。そうしたジャズとロックに跨るキースのスタンスは、ファースト・リーダー・アルバムの『ユー・アー・ヒア・・・アイ・アム・ヒア』(1970年)にも表われていて、フリー・ジャズとジャズ・ロックの中間をいく演奏の中、ビートルズの“ヘイ・ジュード”の一説が飛び出すなどポップな側面も見せたアルバムである。

 この時期のキース・ティペットは、彼のグループごとキング・クリムゾンへ参加して『リザード』(1970年)、『アイランズ』(1971年)を録音している。クリムゾンがもっともジャズに接近していた時期で、とくに『アイランズ』におけるクラシカルで幻想的な世界から、攻撃的で前衛的なジャズ・ロックへと転じる構成は、キースが大きな役割を担っていたことを物語る。この2作の間にはセンティピードという50人にも及ぶジャズ・ロック・オーケストラを主宰し、ライヴ演奏にアルバム『セプトーバー・エナジー』(1971年)のリリースと精力的な活動を行なっている。ロバート・フリップがアルバム・プロデュースを務め、クリムゾン、ソフト・マシーン、ニュークリアスらの面々が参加し、ジャズ・ロック、フリー・ジャズ、プログレッシヴ・ロック、カンタベリー・ロックなどが混然一体となったこの一大プロジェクトは、当時のロンドンのジャズ~ロックの集大成であり、それをまとめたキースのオーガナイザーとしての能力は並々ならぬものだった。その勢いで制作したキース・ティペット・グループのセカンド・アルバム『デディケイテッド・トゥ・ユー、バット・ユー・ワーント・リスニング』(1971年)は、彼らの最高傑作であると同時に英国ジャズ・ロックの金字塔に数えられる1枚だ。前作に比べてアヴァンギャルドな側面が目立ち、よりフリー色が強まっていった作品であり、ロバート・ワイアットを加えた大迫力の3連ドラムやゲイリー・ボイルのエッジの立ったギターなど聴きどころの多いアルバムである。

 1970年頃のキース・ティペットの参加作品を見ると、ハロルド・マクネア、キース・クリスマス、シェラ・マクドナルド、イアン・マシューズなど、ジャズ、ロック、フォークと様々だ。そうした中でブライアン・オーガーのバンドと行動を共にしていたシンガーのジュリー・ドリスコールと出会って、彼女のソロ作『1969』(1971年)にピアノ演奏とアレンジで全面参加し、この共演をきっかけにふたりは結婚する。スウィンギン・ロンドンのヒップスターだったジュリー・ドリスコールの結婚はセンセーショナルな出来事だったが、その後ジュリー・ティペットと改名し、彼女の音楽もキースの影響で変わっていった。彼らはキース&ジュリー・ティペット名義でもいろいろ作品を残しているが、クラブ・ジャズ世代にとっては2009年にノスタルジア77が夫妻を招いてセッションしたアルバムが印象に残っている。ノスタルジア77のベン・ラムディンによるティペット夫妻へのリスペクトの念が高じて生まれたセッションだった。

 キース・ティペットはとにかく多彩に活動してさまざまなアルバムを残した。ロバート・フリップのプロデュースによるソロ作『ブループリント』(1972年)、パーカッション奏者のフランク・ペリーや妻ジュリーらとのオヴァリー・ロッジでの2枚のアルバム、センティピードに続くビッグ・バンドとなったキース・ティペッツ・アーク、さらにトレヴァー・ワッツ率いる即興集団アマルガムへの参加、キース・ティペット時代からの盟友エルトン・ディーンのグループのナインセンスへの参加、同じく盟友ニック・エヴァンス率いるドリームタイムへの参加、元クリムゾンのデヴィッド・クロスとのロウ・フライング・エアークラフト、英国ジャズ界の重鎮スタン・トレイシーとのピアノ・デュオなど、ここに記していくといくらスペースがあっても足りない。ハリー・ミラーやルイス・モホロなど南アフリカ共和国出身のミュージシャンとも共演が多く、大編成のフリー・ジャズ演奏を行う一方で、アシッド・ジャズ期にはエース・オブ・クラブズというクラブ・ジャズ・ユニットでも演奏していたりと、本当に振れ幅が広く、多方面に影響力を持つミュージシャンだ。こうした振れ幅の広さでは現在の英国ではシャバカ・ハッチングスあたりを思い浮かべるのだが、そうした人たちのパイオニア的存在がキース・ティペットだったのである。

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