Home > Reviews > Album Reviews > 井手健介と母船- Contact From Exne Kedy And The P…
1.
かつてアメリカのボストンに、霊媒として名を馳せた「マージャリー」ことミナ・クランドンというひとがいた。彼女には、あのコナン・ドイルも惚れ込んでいたそうだ。橋本一径の『指紋論』によると、マージャリーは1923年から自宅でラップ音やテーブル浮揚といった超常現象を来客たちに披露していた。「支配霊」のウォルターを呼び出して客と会話をさせたり、エクトプラズムを生成したり……。さらにエクトプラズムはウォルターの手として実体化し、歯科用の蝋型に親指を押し付けて指紋を残した。幽霊が存在することを自ら証明するためのその指紋は、幽霊との「コンタクト」の場であった交霊会の出席者たちに手土産として配られたという(皮肉にもその「幽霊指紋」は、マージャリーのいんちきを証明してしまうことになるのではあるが)。
映画『リング』の透視能力者である山村志津子(山村貞子の母で、実在した超能力者の御船千鶴子をモデルとする)しかり、幽霊、超能力者、オカルトなどなどは、証しを立てることを常に要求されてきた。それらは現実の「いま、ここ」にないものであったり、「いま、ここ」を超え出たものであったりするからだ。けれども、ないものがあること、現実の規範や決めごとを超えたなにかがあることを明らかにするのは、きわめて難しい。なぜなら、それらは「ない」のだから。あるいは現実を超えてしまっているのだから、現実の規律に縛られ、そこから逃れられずに生きるわたしたちにとって、理解できるものであるはずがない。心霊とは、現実のまったきオルタナティヴである。
2.
『エクスネ・ケディと騒がしい幽霊からのコンタクト』において井手健介と母船は、現実にないものを歌っている。井手は「エクスネ・ケディ」、バンドは「ザ・ポルターガイスツ」というオルターイーゴを纏って。そのペルソナは、現実を超え出るためのものだ。
“ポルターガイスト” では「どうして触れられないの?」、「どうして目に見えないの?」、「もいちどさわって/さわらせて」と、エクスネ・ケディが跳ねるビートにのってだみ声で呼びかける。ラップ現象にも近い「ポルターガイスト」とは、実体がない、いたずらな幽霊ないしは心霊現象であり、黒沢清の映画で言えば(赤い服を纏った女やジュラルミンケースから出てくる少女ではなく)、消化器や瓶を倒したり、看板を落っことしたりする、あれである。だから、ポルターガイストに触れられるわけがないのだ。いっぽうでポルターガイストは、現実の生を超え出てしまった死者たちからのコンタクトである。そのコンタクトをたしかなものとするために、エクスネ・ケディは霊に証しをねだる。「夜明けの足あと」、「寝床はどこなの?」。「足あと」とは「ウォルターの指紋」であり、「寝床はどこなの?」とは幽霊の身元確認だ。
あるいは、ものがなしげな “人間になりたい” でエクスネ・ケディは、「人間になりたい動物」と「人間をやめたい人間」を混在させた「ぼく」を歌う。“人間になりたい” は、あの有名な洞窟の比喩についての歌だろう。「人間になりたい動物」は、「きらきらの影絵」を恍惚として見つめる縛られた「人間」にあこがれている。そのほうが楽だからだ。いっぽうの「人間をやめたい人間」は、影絵に見惚れたまま受動的な「かなしいYES」を「繰り返す」人間の態度に飽き飽きし、くだらない現実からイグジットしたい。エクスネ・ケディは現実を生きる人間(あるいは、人間がつくりだす現実を生きること)と現実を超え出た非人間とに引き裂かれている。
ざっくりと言ってプラトンは、「影絵」を目に見える現実に、「影絵をつくりだす実体」をイデアにたとえたわけであるが、ここで前者を心霊現象、後者を「霊それ自体」のアナロジーとして考えてみたらどうだろう。ポルターガイストは幽霊の影絵だ。現実に縛られた人間たちは、霊それ自体という実体には決して触れらない。心霊現象を通してコンタクトすることしかできないのである。現実を超え出た霊とのコンタクトを求めれば求めるほど、人間は現実に括りつけられていることに自覚的にならざるをえない。
とにかくエクスネ・ケディは、現実にないものを執拗に歌う。「人の子だってバレないように/過去から来たって知られないように」(“ささやき女将”)。「宇宙の果てで踊ろう」、「地球の外で歌おう」(“おてもやん”)。「妖精たちが泳ぐ海で/わたしはずっと待っている」(“妖精たち”)。がしかし、それらの歌はむなしいのぞみや祈りのようにも聞こえる。「映画は終わるものでしょう?」(“ぼくの灯台”)と、エクスネ・ケディはこのアルバムの最後で諦念を口にしている。
いっぽう、映画の起源に影絵を見るならば、「映画の終わり」は現実に立ち戻ることではなく、逆説的に現実からの解放を意味する。はりつけにされたままで影絵を見つづけるのはもう終わり。さあ、くもりのない心の瞳でもって、完全な形を保った世界の真の姿を見よう。──霊それ自体と触れ合おう。かように “ぼくの灯台” の詞は両義的である。
3.
霊、妖精、地球の外にある宇宙、時間のねじれ。オルターイーゴを纏い、現実の外をシアトリカルな発声と発想で歌う『エクスネ・ケディと騒がしい幽霊からのコンタクト』は、音楽それ自体も現実を超え出ようとする響きを持つ。
石原洋がプロデュースした『エクスネ・ケディと騒がしい幽霊からのコンタクト』の音楽的なテーマは、「人工的でギラッとしたロック」であり、「グラム・ロック」であり、「70年代の黄金期のブリティッシュ・ロック」であったと井手は言う(https://www.ele-king.net/interviews/007600/)。たしかに “ささやき女将” では、井手と墓場戯太郎、北山ゆう子、羽賀和貴といった母船のメンバーたちが、霊媒となってT・レックスを降霊している。“イエデン” では井手がマーク・ボランを口寄せするも、ぴったりと憑依させることに失敗し、ずれたままコミカルかつシアトリカルなファルセットでねちねちと歌いつづける。デイヴィッド・ボウイの『ロウ』からの残響がみだらにこだまするのは、“妖精たち” である。“ロシアの兵隊さん” のメロトロン、(ブリティッシュではないものの)“ぼくの灯台” でのアル・クーパーふうの大山亮のオルガンの音も忘れがたい。
とくに印象に残るのは、北山のドラムの響きだ。ドラムを色彩豊かに鳴らすため、ミキシングを自在に操り、一曲ごとにミュートの具合い、チューニング、録りかたなどを変えているようにも感じる。フィルインから始まる “妖精たち” や “おてもやん” ではスネアドラムやバスドラムの胴鳴りが強調され、それによってサイケデリアが生まれている。打数の多さによって陶酔的で不穏なビートの織り物を編み上げた、まるでグル・グルのような “おてもやん” は、ほとんど北山のドラムが主演の曲だと言っていい。
サイケデリック・ロックを直接的に想起させる意匠が少ないにもかかわらず、『エクスネ・ケディと騒がしい幽霊からのコンタクト』にサイケデリアを感じるのは、そうした「人工的でギラッとしたロック」である点による。かつての「グラム・ロック」や「70年代の黄金期のブリティッシュ・ロック」を夢見ること。ジェントリフィケートさせずに野卑で軽く、安っぽいムードを音に宿すこと。頽廃的なロックを人工的に演出すること。そうすることで生まれた音楽は、「2020年のニッポン」という現実から優雅に遊離するという意味でサイケデリックにほかならない。
4.
「イデケンスケ」と何度か、もごもごとゆっくり口に出して言ってみると、次第に「エクスネケディ」の音が立ち現れる。井手健介からエクスネ・ケディへの変態は、現実を超え出るためのトランスフォーメーションである。現実の外からのコンタクトの証しとして、ここに『エクスネ・ケディと騒がしい幽霊からのコンタクト』というアルバムが残された。それはまるで、幽霊の指紋のようだ。
天野龍太郎