Home > News > RIP > R.I.P. Keith Tippett
サウス・ロンドン勢からゴー・ゴー・ペンギンと、英国のジャズが注目を浴びるようになってきた昨今だが、そもそもこうした英国ジャズの基盤が形成されたと言えるのが1960年代で、その中でもキー・パーソンのひとりだったピアニストのキース・ティペットが去る6月14日に亡くなった。1947年8月25日にブリストルで生まれたキース・ティペットは、かれこれ50年のキャリアを誇るベテラン・ミュージシャンで、2010年代に入ってからもソロ作やリーダー作、ほかのミュージシャンとの共演作などいろいろと出し、ソフト・マシーンに同行して来日公演なども行うなど元気な姿を見せてくれていた。2018年に心臓発作で倒れたが、2019年初頭には復帰してライヴを行っていて、最後まで現役で野心的な演奏を貫いた。
その死後に早速デヴィッド・シルヴィアンが追悼コメントを残しているが、彼がジャパンを解散した後の1991年に発表したソロ・アルバム『エヴリシング・アンド・ナッシング』にはキース・ティペットも参加していて、デヴィッドが即興演奏に進むうえでとても大きな指針となってくれたようだ。これに象徴されるように、キース・ティペットはジャズ、フリー・インプロヴィゼイション、ロックの中間に位置し、それぞれの世界を繋ぐ触媒のような存在だったとも言える。そもそも彼が頭角を表した1960年代後半は音楽界全体が革命期にあり、ジャズ界でもロックなどを融合した新しいサウンドが急速に広がっていた。もともとジャズ、ブルース、ロック界の交流が盛んだったロンドンはその一大中心地であり、キース・ティペットもその渦の中にいたひとりだ。最初はクラシック・ピアノを学んできたキースだが、ジャズに進んでからは1968年にエルトン・ディーン、マーク・チャリグ、ニック・エヴァンスらと自身のバンドを結成する。このキース・ティペット・グループのメンツは後にキング・クリムゾンやソフト・マシーンにも関わってくる面々で、すなわちジャズ・ロックとかプログレッシヴ・ロックの人物相関図の中心にキースはいたのである。そうしたジャズとロックに跨るキースのスタンスは、ファースト・リーダー・アルバムの『ユー・アー・ヒア・・・アイ・アム・ヒア』(1970年)にも表われていて、フリー・ジャズとジャズ・ロックの中間をいく演奏の中、ビートルズの“ヘイ・ジュード”の一説が飛び出すなどポップな側面も見せたアルバムである。
この時期のキース・ティペットは、彼のグループごとキング・クリムゾンへ参加して『リザード』(1970年)、『アイランズ』(1971年)を録音している。クリムゾンがもっともジャズに接近していた時期で、とくに『アイランズ』におけるクラシカルで幻想的な世界から、攻撃的で前衛的なジャズ・ロックへと転じる構成は、キースが大きな役割を担っていたことを物語る。この2作の間にはセンティピードという50人にも及ぶジャズ・ロック・オーケストラを主宰し、ライヴ演奏にアルバム『セプトーバー・エナジー』(1971年)のリリースと精力的な活動を行なっている。ロバート・フリップがアルバム・プロデュースを務め、クリムゾン、ソフト・マシーン、ニュークリアスらの面々が参加し、ジャズ・ロック、フリー・ジャズ、プログレッシヴ・ロック、カンタベリー・ロックなどが混然一体となったこの一大プロジェクトは、当時のロンドンのジャズ~ロックの集大成であり、それをまとめたキースのオーガナイザーとしての能力は並々ならぬものだった。その勢いで制作したキース・ティペット・グループのセカンド・アルバム『デディケイテッド・トゥ・ユー、バット・ユー・ワーント・リスニング』(1971年)は、彼らの最高傑作であると同時に英国ジャズ・ロックの金字塔に数えられる1枚だ。前作に比べてアヴァンギャルドな側面が目立ち、よりフリー色が強まっていった作品であり、ロバート・ワイアットを加えた大迫力の3連ドラムやゲイリー・ボイルのエッジの立ったギターなど聴きどころの多いアルバムである。
1970年頃のキース・ティペットの参加作品を見ると、ハロルド・マクネア、キース・クリスマス、シェラ・マクドナルド、イアン・マシューズなど、ジャズ、ロック、フォークと様々だ。そうした中でブライアン・オーガーのバンドと行動を共にしていたシンガーのジュリー・ドリスコールと出会って、彼女のソロ作『1969』(1971年)にピアノ演奏とアレンジで全面参加し、この共演をきっかけにふたりは結婚する。スウィンギン・ロンドンのヒップスターだったジュリー・ドリスコールの結婚はセンセーショナルな出来事だったが、その後ジュリー・ティペットと改名し、彼女の音楽もキースの影響で変わっていった。彼らはキース&ジュリー・ティペット名義でもいろいろ作品を残しているが、クラブ・ジャズ世代にとっては2009年にノスタルジア77が夫妻を招いてセッションしたアルバムが印象に残っている。ノスタルジア77のベン・ラムディンによるティペット夫妻へのリスペクトの念が高じて生まれたセッションだった。
キース・ティペットはとにかく多彩に活動してさまざまなアルバムを残した。ロバート・フリップのプロデュースによるソロ作『ブループリント』(1972年)、パーカッション奏者のフランク・ペリーや妻ジュリーらとのオヴァリー・ロッジでの2枚のアルバム、センティピードに続くビッグ・バンドとなったキース・ティペッツ・アーク、さらにトレヴァー・ワッツ率いる即興集団アマルガムへの参加、キース・ティペット時代からの盟友エルトン・ディーンのグループのナインセンスへの参加、同じく盟友ニック・エヴァンス率いるドリームタイムへの参加、元クリムゾンのデヴィッド・クロスとのロウ・フライング・エアークラフト、英国ジャズ界の重鎮スタン・トレイシーとのピアノ・デュオなど、ここに記していくといくらスペースがあっても足りない。ハリー・ミラーやルイス・モホロなど南アフリカ共和国出身のミュージシャンとも共演が多く、大編成のフリー・ジャズ演奏を行う一方で、アシッド・ジャズ期にはエース・オブ・クラブズというクラブ・ジャズ・ユニットでも演奏していたりと、本当に振れ幅が広く、多方面に影響力を持つミュージシャンだ。こうした振れ幅の広さでは現在の英国ではシャバカ・ハッチングスあたりを思い浮かべるのだが、そうした人たちのパイオニア的存在がキース・ティペットだったのである。
小川充