「CE」と一致するもの

Ronin Arkestra - ele-king

 年明けに「日本」をテーマにした作品『Heritage』を発表したマーク・ド・クライヴ=ロウが、新たなプロジェクトを開始する。WONK や CRO-MAGNON、KYOTO JAZZ SEXTET や SLEEP WALKER などのメンバーたちと組んだ「浪人アーケストラ」がそれだ。『Heritage』に続いて彼のルーツである「日本」がテーマになっている模様。アルバム『Sonkei』は9月25日に発売。なお、明日7月27日にはマーク・ド・クライヴ=ロウ個人の来日公演も開催されるので、そちらもチェック。

マーク・ド・クライヴ=ロウ来日情報:
https://wallwall.tokyo/schedule/mark-de-clive-lowe-melanie-charles/

RONIN ARKESTRA(浪人アーケストラ)
Sonkei

MARK DE CLIVE-LOWE の呼びかけで、ジャズを中心に日本の精鋭プレイヤーが集結したニュー・バンド RONIN ARKESTRA (浪人アーケストラ)!!
WONK、CRO-MAGNON、KYOTO JAZZ SEXTET 等のメンバーが参加、待望のデビュー・アルバム完成!!

Official HP: https://www.ringstokyo.com/roninarkestra

マーク・ド・クライヴ・ロウが『Heritage』に続いて、自身のルーツである「日本」にフォーカスしたプロジェクトが、浪人アーケストラです。LAから東京へと場所を移し、日本人のプレイヤーたちと作り上げたアルバムは、日本のジャズの歴史に新しいページを刻む作品となりました。 (原 雅明 ringsプロデューサー)

アーティスト : RONIN ARKESTRA (浪人アーケストラ)
タイトル : Sonkei (ソンケイ)
発売日 : 2019/9/25
価格 : 2,800円 + 税
レーベル/品番 : rings (RINC56)
フォーマット : CD

Tracklist :
1. Lullabies of the Lost
2. Onkochishin
3. Elegy of Entrapment
4. The Art of Altercation
5. Cosmic Collisions
6. Circle of Transmigration
7. Fallen Angel
8. Tempestuous Temperaments
& Bonus Track 2曲収録決定!!

参加ミュージシャン:
MARK DE CLIVE-LOWE
荒田洸 (WONK)
コスガツヨシ (CRO-MAGNON)
藤井伸昭 (Sleep Walker)
類家心平 (RS5pb)
安藤康平 (MELRAW)
池田憲一 (ROOT SOUL)
浜崎 航
石若 駿
Sauce81

Bruce Springsteen - ele-king

 スプリングスティーン本人は本作を政治的なアルバムではないと説明している。だが、それはオバマの前でピート・シーガーと「我が祖国」を歌ったときのように直接的な政治への関与を目指しているわけではないということ。あるいは『レッキング・ボール』(2012年)のときに「We」で示した連帯のように直接的な表現を避けているということで、彼がずっと目をかけてきた庶民へのまなざしが失われているということではない。というより、カウボーイ・ハットをかぶってブックレットにたたずむスプリングスティーン69歳を見るだに、いまの彼がアメリカの「下」にいる人びとのことを考えているように思えてくるのである。
 ここ数年とくに、彼は回顧的なムードを深めている。自伝の出版、『ザ・リバー』の35周年ツアー、そして自伝の内容をもとにしたブロードウェイ・ツアー(この模様は Netflix でも観られる)。老境に差しかかったロックンローラーが自身の人生を振り返りたくなるのは自然なことだが、しかしスプリングスティーンの過去に触れるということは、アメリカの普通の人びとが生きてきたあり様に触れるということでもある。『スプリングスティーン・オン・ブロードウェイ』を観ていてつくづく感じたことだが、スプリングスティーンというロック・ヒーローが特異なのは、彼は自分の人生だけを生きていないということだ。彼が描いてきた庶民のメロドラマ、市井を生きる人びとのフィクションを通じて、光の当たらない片隅で生きる人間たちの生を一貫して鳴らしている。

アメリカの兄弟たちが国境を越え、昔のやり方を運んでくる
今夜は西部の星が再び輝いている
“ウエスタン・スターズ”

 『ウエスタン・スターズ』はロック・アルバムというよりポップ・アルバムだと言われる。本人いわく「グレン・キャンベル、ジミー・ウェッブ、バート・バカラックといった70年代の南カリフォルニアのポップ音楽に影響を受けている」。得意としてきたロック・バンドのアレンジではなく、オーケストラを大きく導入したスタンダード・ポップスを思わせる音が詰まったアルバムである。なかでもジミー・ウェッブを思わせる瞬間が多く、フォークやカントリーを下敷きにしながらもシアトリカルなアレンジでどこかレトロな洒脱さを醸している。
 アメリカでジミー・ウェッブを聴いていたのはどんな人びとだろうか。いまのスプリングスティーンと政治的に共鳴するようなコンシャスな人間や、現在のハリウッドで活躍するような典型的な「リベラル」ばかりではないだろう。というか、むしろ保守的な田舎でヒット・ソングばかりを聴いてきたような連中に向けて『ウエスタン・スターズ』は作られたのではないか。アートワークの馬とアルバム・タイトルははっきりと古き良き西部劇を想起させるものだが、それはアメリカのかつての開拓精神に拘泥する側の人びとの心情を射程に入れたものであるだろう。言い換えれば、メイク・アメリカ・グレイト・アゲイン……の標語に惹きつけられてしまう側のことを、このアルバムは突き放していないのである。
 けれども古き西部を思わせる本作で、スプリングスティーンは昔ながらの西部劇のヒーローを登場させない。いるのはしがないヒッチハイカー、年老いた西部劇俳優、苦悩するスタントマンといった、やはり片隅で生きる者たちである。彼らはそれぞれうまくいっていない人生のさなかで孤独を抱え、アメリカ西部のどこかを彷徨している。全体として歌のトーンとアレンジは軽快だが、描かれる物語はけっして明るいものではない。誰にも顧みられることのない者たちの、誰にも気に留められることのない感傷が現れては消えていく。“ドライヴ・ファスト(ザ・スタントマン)”の「2本のピンで固定した足首、砕けた鎖骨/鉄の棒が入った脚/それでなんとか歩くことができる」というフレーズを聴いて、あの悲しい映画『レスラー』を思い出さないのは難しい。古き良き西部劇を支えていたのは名もなき人間のくたびれた人生であったことを、スプリングスティーンは忘れていない。

 かつて『ザ・リバー』を聴いて涙した者たちは『ウエスタン・スターズ』を聴いているだろうか。いま、アメリカでスプリングスティーンの歌を必要としているのは、豊かな多様性文化を経済的に余裕のあるところで楽しみ、アンチ・トランプに溜飲を下げるようなエスタブリッシュされた「リベラル」ではない。わたしたちがアメリカと聞いていまだに連想する荒野のどこかで、彷徨いながら生きる人びとだ。いまスプリングスティーンが民主党支持者の連帯のためのスローガンを引き下げ、懐かしいポップ・サウンドを鳴らしていることには何か強い気持ちがあるように思えてならない。
 国内盤の対訳を担当した三浦久氏は終曲“ムーンライト・モーテル”の訳の難しさについて、時制が入り乱れていることをその理由として説明している。そこでは過去と現在が混ざり合い、溶け合っている。スプリングスティーンがずっと描いてきたはぐれ者たちの悲しみの物語が交錯するように。弾き語りのフォーク・ソング、優しい歌唱、歴史に名を残さない誰かへの慈しみ……。

Crystal Thomas featuring Chuck Rainey and Lucky Peterson - ele-king

 わたしの総体的な印象では、矮小な個人的感傷を擦り上げて、過剰な切なさを誇張し聞く側に同意を強要する、これが私生活も含めて、この世の春とばかりに我が世を謳歌している昨今の女性歌手の芸だ。特に高音域での行き過ぎた表現には、付いていけない事が多い。ここで紹介するクリスタル・トーマスは、1977年4月22日の生まれ。今どき彼女の年齢で歌を唄っていたら十把一絡げ的に歌姫(ディーヴァ)などと呼ばれて、マイクの前で「心が折れそうなのよ」と、悲鳴を上げていてもおかしくない。しかし彼女は、LP『イッツ・ザ・ブルース・ファンク!』で、まるで当たり前のように自然なブルーズを唄う、ルイジアナ州マンスフィールド育ちの南部女である。
 かつて「ブルースは暗い」と言い切って、収めようとした「音楽評論家」がいた。彼は北米の黒人音楽を愛好しつつも、この領域にはあまり馴染みがなかった事は認める。ただし、その一言でこの音楽を決めつけられては迷惑だ。
 ブラインド・ウイリー・ジョンスンの“ダーク・ヲズ・ザ・ナイト”のように、聞いていると恐怖を感じるほど寂しい演奏もあるけれど、こういう情感は、カントリー音楽からでも味わえる。今なら安価な組物CDで簡単に手に入る、ブラインド・レモン・ジェファスン(Snapper SBLUECD 502X)、チャーリー・パトゥン(Not Now NOT2CD508)、サン・ハウス(Not Now NOT2CD415)、ビッグ・ビル・ブルーンジー(Not Now NOT2CD401)など、第二次大戦直後までのエレキ導入前のブルーズを聞いてみればいい。ちっとも暗くない。哀調は漂うが、殊更にそこだけを強調してはいない。ここを誤解すると、非常に不自然な音楽になってしまう。ブルーズは日本人の大好きな感傷だけを擦り上げる歌ではない。希望と共に唄われる、前向きな音楽なのである。寂しさと暗さは違うのだ。クリスタル・トーマスは、このブルーズをあくまでも自然に唄う。
  
 下北沢の百円均一店の上りエスカレイタで彼女を見かけた。前の晩に同じ町の小さなクラブで、実演を観たばかりだった。そのショウの印象が良かったせいもあって、思わず呼びかけた。振り向いた彼女は、異国の私鉄沿線の百均店で突然に声を掛けられて驚いたようだったが、にっこり笑ってくれた。その時の来日に関わった親友の奥方の誘導で土産物を仕入れに来たらしい。一緒に店内を案内した。正月を前にした時期だったせいか、小さな縁起物が並んでいて、それらに興味を持ったようだ。書かれている漢字を、「これは幸運」、「こっちは長寿」、「安泰」などと説明したら、えらく興味を持って真剣に聞いてくれたので、当方は少々恐縮した。2018年12月の出来事だ。
 そのクリスタルが、自分名義のフルアルバムを録音中だという話は聞いていた。春が過ぎて例年になく長い梅雨が続いていた頃、もう少し詳しい情報が入って来た。テキサスのダラスで録音され、セッションには、ラッキー・ピータスン、チャック・レイニーが参加しているという。興味が湧いた。
 届けられたアルバム音源は2種類。CD『ドント・ウォリー・アバウト・ザ・ブルース』、その中から抜粋された10曲で作られたLPは、『イッツ・ザ・ブルース・ファンク!』となっていた。

 クリスタル・トーマスは冒頭に挙げた類のコンテムポラリー・フィーメイル・シンガーたちとそれほど年齢の差がないのに、大きな違いがある。
 まず、声だ。中音域を中心に幅があって柔らかく、聞く者の感情を逆撫でする突起がない。暖かいのである。発声は極めて自由自在、無理をしていない。リズム感の良さ、タイミングの適確さは随所に感じられ、バックトラックに載っかるのではなく、彼女の唄でリズム・セクションに控える男性4人の強者たちを引っ張る。節回しも曲線的で奥深く、聞く者を大きな渦に巻き込んで行く。北米黒人女性の獲得形質は遺伝しているのだろうか。断片的に聞いた人間からは、二世代前の唄い方だ、と簡単に片付けられてしまうかもしれないが、直接比較すれば、歌い出しからして伸び伸びとして、しなやかなクリスタルである。コーラス合間の何気ないひと言などでは、本来の若さが顔を覗かせるので、ああ今の唄い手だ、と分かる。
 楽曲はどれも特定の意匠を持たず、楽器を手にした誰もが簡単に思いつくようなリフを基に作られている。全てが演奏者に委ねられたジャムの延長とも言えるだろう。ただし、こういうのをカッコ良く仕上げるのは、とても難しいのである。下手をすれば、全員がそれぞれの受け持ち部分を弄んだだけで終わってしまうところだが、クリスタルによってそれぞれがひとつの「歌」に昇華している。
 冒頭曲“キャンチュー・シー・ワッチュー・ドゥイング・トゥ・ミー”を聞けば分かる。このテムポ、造り……、作者でもある御大アルバート・キングなら、その圧倒的な存在感で押し切れるだろうが、形にするのも難しい傾向の楽曲だ。それを力まずに流れるように決めてしまうのがクリスタルだ。
 続く2曲めの“ベイビ、ドント・リーヴ・ミー”は、クリスタルの自作曲となっている。やはり肝は彼女の唄だ。イントロなしで入る瞬間はスリルの絶頂で、コーラス毎にやって来る10小節めアタマのブレイクも、すんなりとカッコ良く決めている。こういうのは身体に付いた基本的なセンスが相当に冴えてないと、惨めな結果になるだけだ。同じようなストップ・ブレイクは9曲目の“アイム・ア・フール・フォー・ユー、ベイビ”でも出て来る。ここでも難なくこなせるのは天性の適確なタイム感を持っているからだろう。 
 クリスタルは、日本人ジャムプ・ブルーズ・バンドのブラッディスト・サクスフォーンのアルバム『アイ・ジャスト・ヲント・トゥ・メイク・ラヴ・トゥ・ユウ』(スペースエイジ SPACE-16 2018年)に、5番目の女性歌手として抜擢された。その前は、元々R&B歌手ジョニー・テイラーのバンドでトロムボーンを担当していたという。LPでは表題曲とも言える“ザ・ブルーズ・ファンク”で、唄わずにその実力の片鱗を披露する。若干の余裕と共に吹いているようだが、繰り返しのリフレインを聞くだけでも、重ねて来た歴戦の度合いは分かる。

 ギタリストとドラマーは白人だ。プロデューサーのエディ・スタウトが自信を持って推薦する、ジョニーとジェイスンのモーラー兄弟である。2015年に発表されたシャーウド・フレミングズの『ブルース、ブルース、ブルース』でもリズムを務めていたというが、わたしはその時、そして今回も何の過不足も感じなかった。ジェイスンのドラムズは着実で安定していて、彼の独特なタイム感がアルバム全体を支配している。音色も大変宜しい。ジョニーは、昨今数多蔓延るエフェクターと呼ばれる、余計な装飾無しでギターを聞かせてくれる。爪弾かれた弦が震えてスピーカを鳴らす物理現象が見える。
 ふたりの出しているのは、今どきの黒人演奏家では出せない音だ。それだけでなく若さ、謙虚さが感じられるのが、何とも嬉しい。立派な2019年型だ。

 メイヴィス・ステイプルの讃美歌集『マヘリア・ジャクスンに捧ぐ』(Dedicated to Mahalia Jackson Gitanes / Verve 535 562-2 1996年)で出会ったラッキー・ピータスンは、そこで、ピアノとオルガンをソツなく弾いていた。全曲オーヴァダビングなしのデューオという緊張度の高いセッションを程良い雰囲気でまとめていた。高度な演奏能力は当然として、「相当に賢い奴だな」というのが第一印象だった。わたしの前に登場した、久しぶりの有望な演奏者だったので、しばらく追いかけた。なかなかイカない男、という風にも見えた。
 それより遥か前の5歳で初録音、それも自身名義のソロ・アルバムというから、天才的な音楽能力を持っていたのだろう。ただし、彼は優れた脇役の道を選んだ。ソロ作品は順調に出しているけれど、ヒットを狙う野心は感じられない。その他では、いつも的確な援護射撃で主人公を助けている。
 驚いたのはA面最後の“レッツ・ゴウ・ゲット・ストーンド”だ。ジョー・コカーの実況録音盤(『マッド・ドッグズ・アンド・イングリッシュ・メン』 A&M 75021 6002 2 1970年)にこの歌が収められていて、そこで知って以来、40年以上に亘りわたしの重要楽曲表の上位に居座っている。ニック・アシュフォードとヴァレリ・シムプスンが書いた1965年の作品で、初出はアトランティック時代のザ・コースターズだそうだ。それを聞きたくて、他はダブりばかりの4枚組を買ったこともある。それはともかく、ここではラッキーは、まるでレイ・チャールズのように唄う。ラッキーは自作『ムーヴ』(Gitanes / Verve 314 537 897-2 1997年)でもこの歌を採り上げていたが、このクリスタルの新作では、本物以上にレイ・チャールズだ。声が全くのブラザー・レイである。何度聞いてもそのつど驚く。
 編曲感覚にも優れていて、1989年のソロ作品『ラッキー・ピータスン』(Gitanes / Verve 547 433-2 )に吹き込まれたウイリー・ネルスンの「ファニー、ハウ・タイムズ・スリプス・アウェイ」のアレンヂは、ブルー・ノート・レコードの社長にもなったドン・ヲズが、1994年の『リズム、カントリー・アンド・ブルーズ』(MCA MCAD-10965)で流用した程だ。ただ、今回ラッキーはこの『イッツ・ザ・ブルース・ファンク!』で、表立った編曲をしなかった、とわたしは見る。

 チャック・レイニーは電気ベイスの一時代を築き上げた男だ。器楽演奏が好きな人間なら、絶対に無視できない存在として70年代から80年代にかけて音楽界に君臨した。ネコも杓子もチャック・レイニーだった。
 わたしは世代的には恐怖のフュージョン・ブームを通り抜けてきた人間だが、あまりその領域を得意とはしないから、タレントのマギー・ミネンコが口にする程までに、彼が異常に持て囃された時も、その理由が分からなかった。
 わたしの印象としては、そもそも地味な人なのである。デーハなチョッパーをブチブチにキメる演奏家では決してなく、堅実な縁の下の力持ちだ。この『イッツ・ザ・ブルース・ファンク!』でも、目立つ事をあまりしていない。ただこの演奏が、本来のチャック・レイニーの姿だと断言しよう。その場で同時に演奏している人間たちに抜群の安定感を与え、作品への信頼につなげるという、いつもと同じ仕事に徹した姿だ。個人的にはこのベイスの音質に多少の不満があるけれどね。
 フュージョン・タイフーンが去って、黄金期のアリサ・フランクリン・セッションのような面子でブルーノート東京に来た時の終演後、文字通り手を合わせたら、チャック・レイニーの親指はわたしの人差し指より長かった。楽器が気持ちよく鳴るツボを心得ているのだろう、キイが違っても、ほとんど5フレットから10フレットの位置で弾くのも印象的だった。

 CDだけに収められている「ガット・マイ・モージョ・ワーキン」には脱帽だ。この取り替えようのない名曲は、ポール・バタフィールドやマイケル・ブルームフィールドらがマディ・ヲーターズやオーティス・スパンたちと一緒に作った『ファーザーズ・アンド・サンズ』(Chess / MCA CHD-92522 1969年)収録の実況録音アンコール仕様が、秀逸な吹き込みとして知られる。バンドスタイルの演奏で、ベイスはドナルド・ダック・ダン、ドラムズは、バディ・マイルズだ。ブルーズという音楽が、時空を超えて、地球上の全人種、全民族、全世代、に訴えかけた瞬間の記録とも言えるだろう。多くのブルーズ・バンドがお手本としているのも頷ける。
 それにひきかえ、こちらはラッキー・ピータスンのエレキ・ギター1本だけで、静かに始まる。「アタシが子供だった頃……」と浅川マキのように語りかけるクリスタルは、まるで泡瀬のユタだ。ふたりの関係は講釈師と曲師のようで、語りに対する直接的なギターの反応が素晴らしい。お互いに、出ている音をよく聞いている。
 クリスタルはまだ42歳、ラッキーだって55歳だから、こういうスタイルのブルーズに、「生」で同時代的には親しんでいないはずなのに、ふたりが紡ぐフレイズは、電気化以前の、あの「ブルーズ気分」そのものなのだ。このアンサムブルを提示したのがラッキーだと知って、わたしは大いに頷けた。ボーナスとして収められている別テイクには、控えめながらドラムズも参加していて、こちらの方が若干ミシシッピ風に聞こえたりする。
 ジャニス・ジョプリンがLP『コズミック・ブルーズ』で唄っていた「ワン・グッド・マン」では、冒頭の語りからも「ブルーズ気分」は滲み出て来る。ジャニス生涯のたったひとつの願いを主題にしたこの歌は、今回ごく当たり前に仕立て上げられているけれど、悲壮感が過度に濃厚でサイケデリック時代を引き摺った原仕様よりも、遥かに上手く行っているのではないか、正直そう感じた。自立したクリスタルは歌全体に力強い息吹きを与え、男性依存から離れられない性に泣く女の歌を新しく生まれ変えらせた。
 リヴィング・ブルーズ誌に載った紹介記事に、こんな行りがあった。

She loves this life.(中略)--even if life it tough. *

 そうなのだ。誰だってどんなに大変でもこの人生を愛して、生きていくのだ。LP『イッツ・ザ・ブルース・ファンク!』を聞いていると、クリスタルは当たり前のように、そうしているのが分かる。前回彼女が来日した時、この「ワン・グッド・マン」を唄っていると聞いて、ジャニスを以前から知っていたのか、とわたしは尋ねた。混乱した場所で話した事もあって詳細は忘れてしまったけれど、彼女はとても熱を入れて答えてくれた。そこにも彼女の前向に生きていく姿勢を、強く感じた。
 それとは別だが、今回のブルーズ・アルバムの中で“イトール・ビ・オーヴァ”は女性クワイアと一緒に仕上げたゴスペル作品である。人種的な制約を受け入れざるを得ず、そしてそれらを意識して抵抗した頃から時代は進み、このように楽曲の出自、領域にこだわる必要のなくなりつつある、今の現状肯定的な時の流れも見えてくる。

 ヒップホップという大津波を浴びた後、いま歌を唄い続けている女性たちは、絶対安全地帯から世の不公平や不平等を訴えながらも、美しく精緻なディジタルな映像の中で少々自意識過剰気味のように見える。男性は強がってはいるものの精気を削がれた遠吠えばかりで、よく見れば女性と同じ症候群に陥っている。そして現代ブルーズは、最新の例で挙げればフィンランドのイリア・ライチネンのような、「荒々しい音で激しくも弾ける」ヨーロッパのギタリストたちの慰みになってしまいそうな気もする。親しみ易くあらゆる表現を受け入れられるブルーズの単純な構造、無限の自由度は機能しているが、どれも薄っぺらなハード・ロックにあと二歩しかない。わたしはこれらの音楽を聞いて、満足出来ない。遣る瀬無くも、醒めて哀しい、無情な諦めと僅かな希望が混在する、肝心のブルーズ気分が、伝わって来ないのだ。
 このアルバムの各曲を、敢えて鮮やかな編曲で飾らなかったラッキー・ピータスンには、生々しい形の方がクリスタルを表現出来る、という思惑があったのではないだろうか。そして、ここまで述べてきたように、それは成功した。クリスタル・トーマスは「ブルーズ気分」を持ち、それを人に伝える事の出来る南部の女だった。

 このように、わたしにとって『イッツ・ザ・ブルース・ファンク!』は、何の抵抗もなく親しめる1枚である。ただしそれが「昔の響きを再現している」からでは、決してない。「昔の響き」が聞きたければ、昔のレコードを聞けば良いのだ。録音制作物の使命のひとつもそこにある。
 自分たちが生まれ育った環境から受け継いだ、逃れられない感覚を無理せずに使って、新しい何かを生み出さなくちゃ、という積極的な心の動き、これもブルーズ衝動の一つだろう。わたしは今回、LP『イッツ・ザ・ブルース・ファンク!』で、若々しくて心地良い「ブルーズ衝動」に浸れた。感謝しよう。
 吹き込み中の出来事として、クリスタルは移動中のダラスで白人警官に職務質問を受け、何の理由もなく大切な商売道具のトロムボーンを壊されたそうだ。彼女はまだ、絶対安全地帯にいるのではなかった。
 当たり前の事としてブルーズを唄うクリスタル・トーマス、この後はフジ・ロック・フェスティヴァルへの出演も控えている。そこで極東の島国の若者たちがどう反応するか、こちらも大いに楽しみだ。

 音楽そのものに疑いをもつこと、ジョン・ケージがいまだ影響力があることの理由のひとつだろう。ひとはいつの間にか音楽を小学校で習った譜面の延長のなかでのみ考えがちだが、ケージは音楽がもっと広く自由であることをあの手この手を使って証明した。もっとも有名な“4分33秒”はそのひとつだが、この曲を、〈ミュート〉レーベルが設立40周年のメイン・プロジェクトとしてレーベルのいろんなアーティストにカヴァーしてもらうという、なんともじつに度胸ある企画をやっていることは先日お伝えした通り(https://www.ele-king.net/news/006694/)。
 今回、レーベル創始者のダニエル・ミラー伝説のソロ・プロジェクト、ザ・ノーマルによる“4分33秒”が公開された。

■The Normal「4分33秒」

https://smarturl.it/STUMM433J

 “4分33秒”のカヴァー全58曲収録の『STUMM433』は、10月4日に発売される。おそらくアルバムのトータルタイムは、“4分33秒”×58ということだろう(あるいは、“4分33秒”をたとえば2分で演奏するアーティストはいるのだろうか)。
 なお、『STUMM433』は、ボックス・セットとしてレーベルの通販サイトのみで販売され、LPはダニエル・ミラーのサイン入り限定盤として、CDは5枚組として販売。またデジタル配信(ダウンロード、ストリーミング)は日本の各サイトより購入可能。

■『STUMM433』 購入予約リンク
https://smarturl.it/STUMM433J
・タイトル:『STUMM433』
・発売日:2019年10月4日
・ボックス・セット(LP, CD):MUTEレーベル通販サイト Mute Bankのみで販売
・デジタル配信(ダウンロード、ストリーミング):日本の各配信サイト


photo : Diane Zillmer

 ダニエル・ミラー(レーベル創始者)はこのプロジェクトに関して次のように語っている。「ジョン・ケージの ‘4分33秒’ は自分の音楽人生の中で長い間、重要で刺激を受けた楽曲としてずっと存在していたんだ。MUTEのアーティスト達がこの曲を独自の解釈でそれぞれやったらどうなんだろう?というアイデアは、実はサイモン・フィッシャー・ターナーと話してるときに浮かんだんだよ。私は即座に、これをMUTEのレーベル40周年を記念する”MUTE 4.0 (1978 > TOMORROW) シリーズ”でやったら完璧じゃないか、と思ったんだよ」

 ダニエル・ミラーは、自身のソロ・プロジェクト、ザ・ノーマルの7インチ・シングル『T.V.O.D.’ / ‘Warm Leatherette』を発売するためにMUTEレーベルを1978年に創設した。ザ・ノーマル名義の「4分33秒」は、その7インチ以来、実に41年ぶりの発売となる。彼は今回の楽曲の録音をノース・ロンドンのある場所で行った。 16 Decoy Avenueという住所は、MUTEのファンにとってはレーベル発祥の地としてお馴染みの場所である。


■サイモン・グラントのアート作品

 今回、各アーティストが自身の作品とともにビジュアルも作成しており、MUTE所縁のデザイナー28名がそれぞれ「4分33秒」から発想を得たアートワークを披露している。その中の一部を紹介すると、サイモン・グラント、彼は初期MUTE作品、ザ・ノーマルやファド・ガジェット、それにデペッシュ・モード等のアートワークを担当。スティーヴ・クレイドン、Add N To (X)のメンバーでもある彼はゴールドフラップのデザインを担当し、スリム・スミス、彼は1980年代から90年代を通してMUTEと仕事を共にした。マルコム・ギャレットはヴィンス・クラークとマーティン・ウェア(ザ・クラーク・アンド・ウェア・エクスペリメント)のハウス・オブ・イラストリアスのボックス・セットのデザインを担当し、トム・ヒングストン、彼はこれまでイレイジャーと仕事を共にし、2000年台初頭よりニック・ケイヴ・アンド・ザ・バッドシーズやグラインドマンのアートワークを担当している。アントン・コービン、彼は特にMUTEとの距離も近く、1980年代初頭からデペッシュ・モード、ニック・ケイヴ・アンド・ザ・バッド・シーズ、それにファド・ガジェット等と数多くの仕事を行っている。

 ヴァイナルのボックス・セットにはキャンドルセットが付属し、そのデザインは著名なシックス・センツ・パルファンのジョセフ・クオルターナが「4分33秒」から発想を得て作成したものである。彼は古い木造の劇場の中で光る一瞬の閃光をイメージした。それはコンサートの余韻を比喩的に表したものであり、静寂の香りとは?という問いに答えたものである。

 この作品から発生する純利益は英国耳鳴協会とミュージック・マインド・マターへ寄付される。この団体が選ばれた理由として、インスパイラル・カーペッツの創設メンバーでもあるクレイグ・ギルが、自身の耳鳴りの影響による心身の不安から不慮の死を遂げたことが挙げられている。このボックスセットは2019年5月にリリース予定、詳細はここ数ヶ月後にアップデートされていく。

■公開済み映像

ライバッハ 「4分33秒」
ザグレブにあるHDLU’sバット・ギャラリー・スペースで行われたインスタレーション「Chess Game For For」開催中に撮影・録音され、クロアチアのパフォーマンス・アーティストのヴラスタ・デリマーとスロヴェニア製の特製空宙ターンテーブルをフィーチャーした作品だ。

■「STUMM433」参加アーティスト一覧
A Certain Ratio, A.C. Marias, ADULT., The Afghan Whigs, Alexander Balanescu, Barry Adamson, Ben Frost, Bruce Gilbert, Cabaret Voltaire, Carter Tutti Void, Chris Carter, Chris Liebing, Cold Specks, Daniel Blumberg, Depeche Mode, Duet Emmo, Echoboy, Einstürzende Neubauten, Erasure, Fad Gadget (tribute), Goldfrapp, He Said, Irmin Schmidt, Josh T. Pearson, K Á R Y Y N, Komputer, Laibach, Land Observations, Lee Ranaldo, Liars, Looper, Lost Under Heaven, Maps, Mark Stewart, Michael Gira, Mick Harvey, Miranda Sex Garden, Moby, Modey Lemon, Mountaineers, New Order, Nitzer Ebb, NON, Nonpareils, The Normal, onDeadWaves, Phew, Pink Grease, Pole, Polly Scattergood, Renegade Soundwave, Richard Hawley, ShadowParty, Silicon Teens, Simon Fisher Turner, The Warlocks, Wire, Yann Tiersen

■MUTE 4.0 (1978 > TOMORROW) シリーズ
https://trafficjpn.com/news/mute40/

mute.com

第7回 ゆるい合意で、がんがん拡大 - ele-king

「愛はあ、地球をォ、救わねえんだよ!」
 何の脈絡もなかった。小学五年生の真夏である。外気温に比すれば信じられないほど快適な温度の部屋で、私は「関東地方で最も恐ろしい塾講師」とすら噂されていた先生に算数を習っていた。先生が冒頭のセリフを言った時、普段一切の許可なき発声を許されなかった私を含む子どもたちが、いっせいに声をあげて笑ったことをよく覚えている。我らの笑いについて、先生は何も咎めなかった。
 私はなぜ笑ったのだろう? 単純にその言葉の唐突さに勢いだけで笑ったのか、恐怖政治の最中に作られた「笑いを許す瞬間」を素直に察知したのか、あるいは「愛は地球を救う」をあっさりと否定する大胆さが小気味よかったのかもしれない。YouTubeの見方を知っているだけでクラスメイトから一目置かれるような時代である。24時間テレビはまだ活気があって、「みんなが見ている番組」だった。「愛は地球を救う」の否定は、「勉強しないで24時間テレビを見るあいつら」を「勉強をするので24時間テレビを見ないわれら」が嘲笑する響きを間違いなく持っていたのだ。
 24時間テレビがいかに陳腐でマジョリティの欺瞞を含んでいるのかは、これまでさんざん批判されてきた。それでもまだあの番組は存続している。まだ続いているということはまだどこかで求められていると捉えるべきなのだろう。公式サイト(参照:https://www.24hourtv.or.jp/total/ 最終アクセス2019年7月15日午後6時)によれば、2018年の寄付総額は8億9376万7362円だったそうだ。寄付金は年々減っているのかと思いきや、推移を見渡してみても如実に下がっている感じはしない。この寄付金で誰かが救われることもあるのだろうし、全否定するのもよくないとわかっているが、どうしても晩秋のゴキブリのようなしぶとさにはぞっとしてしまう。
 考えるほどわからないのだ。「愛は地球を救う」は全てが曖昧だ。愛とは何なのか? 半泣きで100キロ走りきることが愛なのか、障碍のある人にチャレンジをさせて「勇気をもらった」などと述べるのが愛なのか、同じTシャツを着た大量の人間が「サライ」を合唱することが愛なのか。毎年毎年同じことが繰り返されてきたが、いまだに地球は救われていない……というより、どういう状態になれば「地球が救われました!」と言えるのかがわからない。何一つ具体性がない。何を指すのか一切わからない目標は便利だ。「達成しました」も「達成できませんでした」も全部思うがままにできる。もっと言えば、裏に何がうずまいていようが、表向きの目標が「愛は地球を救う」であるなら、多くの人はそれを否定しないだろう。「愛は地球を救う」という字面には、「漠然としたfeeling good」が漂っている。「ねこはかわいい」とか、「お菓子はうまい」とかと同じレベルの解像度であるがゆえに、「愛は地球を救う」なる言葉は広く受け入れられる。

 最近話題になったキム・カーダシアンの「kimono」騒動――キムが自らプロデュースしたブランドの下着に「kimono」と名付け、文化の盗用であると批判され、最終的に名称変更が発表された事件――に際して、私はすさまじい違和感を覚えていた。違和感の対象はキムの決定ではなく、批判者たちのやり方だ(これはキムのやったことには問題がないという意味ではない)。
 例えば京都市が発表した抗議文には、以下のように書かれている。

 「きもの」は、日本の豊かな自然と歴史的風土の中で、先人たちのたゆまぬ努力と研鑽によって育まれてきた日本の伝統的な民族衣装であり、暮らしの中で大切に受け継がれ、発展してきた文化です。また、職人の匠の技の結晶であり、日本人の美意識や精神性、価値観の象徴でもあります。
(出典:https://www.city.kyoto.lg.jp/sankan/page/0000254139.html 最終アクセス2019年7月15日午後6時)

 この文章、本当に何も言っていないに等しい。「きもの」を「(任意の民族衣装)」に、「日本」を「(任意の国・地域)」に変更すれば、あらゆる地域に対して通用する内容だ。着物を「日本人の美意識や精神性、価値観の象徴」とまで言うのならもっと具体的な歴史について語ってもよさそうなものだが、そういう話は何も出てこない。
 そもそもここで「伝統的な民族衣装」と目されている「きもの」とは、何を指しているのだろうか。BBCの記事には、以下のような「one Japanese women」のコメントが紹介されている。

“We wear kimonos to celebrate health, growth of children, engagements, marriages, graduations, at funerals,”
“It's celebratory wear and passed on in families through the generations.”
「私たちは健康、子どもの成長、婚約、結婚、卒業を祝うため、また葬式の場において着物を着用します」
「それはお祝いの服であり、世代を超えて家族に伝えられました」
(出典:https://www.bbc.com/news/48798575 最終アクセス2019年7月15日午後6時、訳は筆者)

 「祝いの服」としての「着物」……この時点でもう怪しい。「民族衣装」と正装がイコールで結ばれる状況は、ものすごく近代的だ。少なくとも芝草山で刈敷にするための芝を刈る江戸時代の百姓が着ていた「着物」や、中世の被差別民が着ていた柿色の「着物」は、ここでは完全に切り捨てられている。
 前近代において、衣服は身分表象であった。多様な形と機能があることはもちろん、着る人間の置かれた立場を示す意味が付随していた。すなわち「着物」を列島の衣服の中で通時代的に位置付けるとき、ある特定の形の衣服に「着物」を代表させることは、大部分の人間を列島の歴史から捨象する行為と同義なのである。数え切れないかつての生者たちの汗や涙を吸っていた衣服の大部分は、名もない人が必要に迫られて仕立てた普段着であって、職人が気合いを入れて作った高級な晴れ着に「着物」全てを代表させるのは、あまりに偏っている。
 兒島峰「「日本」の身体化」(方法論懇話会編『日本史の脱領域』森話社、2003年)によると、現代における「着物」のイメージは、「身分による着衣規制が解かれた明治期になって確立したもの」(前掲書、235ページ)なのだという。明治初期から半ばにかけて帯の重要性が高まり、昨今イメージされるような大きく立派な帯を締める形に変化していくのだ。兒島氏はこの「着物」イメージの成立時期を、洋服の受容とほとんど同時であると指摘している。「着物」のアイコン化は、明らかにナショナリズムの波の中で起きた現象であった……というより、今われわれが当たり前のように用いている「着物」というカテゴリ自体、この時期に「外部」の目を気にしながら設定し直されたものだと言えるのかもしれない。
「着物」を「日本人の美意識や精神性、価値観の象徴」とすることのグロテスクさは、改めて批判するときりがない。繰り返しになるが、今「着物」として想像されるスタイルは日本列島の衣服の歴史を代表させられるものではない。かつての首都である京都市が自らを「きもの」文化の発信者であり擁護者であると自負している状況自体、セントリズムであると言ってよい。また現在日本国籍を所持している人の中には、当然「着物」に連なる文化圏以外にルーツを持つ人が数え切れないほどいる。「着物」という曖昧な言葉で示されたカテゴリ内部の変化、揺らぎ、多様性を無視しながら「文化」の守護者であるかのように振る舞うのは、実に奇妙だ。
 兒島氏の「着物文化」批判をさらに引用しておこう。

 着物を文化とみなすことは、自己肯定感を満足させる。本来、流動的で、固定した枠組みを持たない着物は、やはり曖昧な概念である「民族」とか「人種」と結びついて、個人の感情に働きかける。(前掲書、237ページ)

「着物は昔からあるよね」「伝統は守ったほうがいいよね」……抽象的であるからこそ、そして「日本人」を漠然と肯定するからこそ、これらの問いは人の首を縦に振らせる力を持つ。あやふやな概念であるからこそ、ゆるやかかつ広範に合意を回収するのだ。

 今一番警戒すべきなのは、この「ゆるい合意でがんがん拡大するあやふやな概念」なのではないかと感じている。先に挙げた「愛」や「文化」の他はその筆頭であろう。これらの響きは、よい。「漠然としたfeeling good」がある。さらになんとなく重厚な雰囲気と、いかようにも解釈できる曖昧さを持っている。どんな人間でも何がしかの形で自分の気持ちや営みを委ねることができてしまうのである。
 何が問題なのだと思われるかもしれないが、社会が一人一人が違う気持ちでいること以上に、たくさんの人間が抽象的で大きな気持ちをひとつ共有していることを優先するのだとしたら、大量の人間を思うがままに支配したい人間にとって、こんなに都合のいいものはないだろう。その共有されたひとつの気分を口にしてやれば、それだけで大量の人間の感情が喜んで動くのだから。
 洋画が日本で公開されるとき、他にもっと力を入れた部分があるにもかかわらず「愛と感動の物語」文脈に寄せて宣伝を打たれる様子をよく見かけるが、あれもまた「漠然としたfeeling good」によってより広い人びとにリーチすることを狙ったものだろう。「これは愛なんですよ」「こういう文化なんですよ」でなんだってすてきに説明できてしまうなら、一人の人間が自分の抱いた感情がどのようなものであったか、自分の実践がどのような背景でいかに遂行されたかを、細かく言葉にする必要はなくなってしまう。これが恐ろしい。自分の考えや行動を自分の手から離して大きなものに委ねるやり方を繰り返していれば、個人など消えてしまう。そうなれば行き着く先は(もうすでに到達しているのかもしれないが)、他者のいない世界だ。批判も自浄能力もない、ただ全てがなんとなく同じ形であると信じられているぼやけた人混みと、その人混みの一部になるよう強制する静かな圧力だけが残る。

 やっぱり気持ち悪いのだ。私は特に「愛」の語りに鳥肌を立てている。「漠然としたfeeling good」の全てを否定するわけではないが、世間でここまで「愛」が尊いものとして重んじられているのを見ると、なんとグロテスクな仕組みなのだろうと思わずにいられない。批判しないとまずい気がする。くどいようだが、みんな「愛」に具体的なものを委ねすぎなのだ。解像度を下げて大きい括りに回収させる、この繰り返しで「愛」はすっかり幅を利かせているではないか。「愛」の専制は「愛」をそもそも理解できない、必要としていない人たちをシャットアウトするセントリズムであるし、「愛」概念をよくないものの隠れ蓑として機能させてしまう危うさでもある(「これは愛だ」と銘打って振るわれた暴力の事例は枚挙に暇がない)。

 話題にするにはだいぶ遅い話だが、しばらく前に友人が米津玄師の“Lemon”について「あれは抽象的だから売れたのだ」と言っていた。なるほど、あの曲はドラマ『アンナチュラル』の主題歌だったが、死や離別を扱う話であれば大抵マッチするため、どのエピソードで流れても大概泣けるようにできている。多くのおたくがこの曲に心を委ねていたのは印象的な光景であった。好きなキャラクターが死を迎えたり誰かと死に別れたりするシーンになんらかの形で思いを馳せながら、“Lemon”を聴いていたのである。“Lemon”はあらゆる物語が代入可能な感情装置であった。おそらく全て戦略的に設計されているのだろう。“Lemon”に限らず、「市場」全体が抽象的な方向に流れているような気がする。

 今や複雑な合意形成を広範に取り結ぶこと自体、ほとんど不可能になりつつあるのかもしれない。自分が何に対して何を感じているのかを緻密に言語化する作業、自分の宇宙を個別具体的な存在として捉え直す営みを、当たり前のこととして怠けずにやっていく必要がある。このとりとめもなく我ながら説教くさい文章も、「個人」を消さないための実践の一部だ。その時々で一番不安に思っていることを書き起こすと、胸のつかえが少し降りる。今夜は昨夜より少しだけいい。

Pasocom Music Club - ele-king

 昨年『DREAM WALK』で一気にその名を轟かせた関西のDTMユニット、パソコン音楽クラブが9月4日にセカンド・アルバム『Night Flow』をリリースする。去る5月には Native Rapper の名ダンス・チューン“TRIP”をスウィート・エクソシストばりにブリーピィに再解釈した、あまりに切ないリミックス(とくにインストがヤヴァい)を発表している彼らだけに、いったいどんなサウンドに仕上がっているのか、いまから非常に楽しみだ。リリース・ツアーも決まっているので、下記より詳細をチェック。

tofubeatsも大注目する「パソコン音楽クラブ」、ゲストボーカルにイノウエワラビ、unmo、長谷川白紙、マスタリングエンジニアには得能直也氏を迎えた1年ぶり待望のセカンド・アルバム遂にリリース! トレーラーも公開!!

関西発DTMユニット・パソコン音楽クラブ。2015年11月に結成。80年代後半~90年代の音楽モジュールやシンセサイザー、パソコンで音楽を製作。ロング・ヒットした前作をより深化させてポップ・チューンが満載。ゲストボーカルにイノウエワラビ、unmo、長谷川白紙、マスタリングエンジニアには、tofubeats、cero、石野卓球等を手掛ける得能直也氏を迎えた快心作が遂に完成!! 今年のサマー・アンセム!

夜から朝までの時間の流れにおける感覚の動きを描いた9曲入りの2ndアルバムです。

時間の経過とともに、夜が深まり、日を跨いで朝になるまで、見知ったはずの街並みは刻一刻と表情を変え、その中にいる僕たちの感覚も変化していきます。僕たちは夜を歩き、その特別さへの高揚感、底知れなさへの不安感を覚えます。最後に朝になり、再びいつもの世界へと戻るとき、僕たちの感覚は新しいものへと移り変わっているように思います。 前作『DREAM WALK』では記憶やイメージに焦点を当てましたが、今作はもっと現実と地続きに感じる異質さ、日常的なものが特異になる様子に着目しました。
──パソコン音楽クラブ

アルバム・トレーラー映像
https://www.youtube.com/watch?v=30kmoqeb7MQ

■商品情報
アーティスト:パソコン音楽クラブ
アーティスト かな:パソコンオンガククラブ
タイトル:Night Flow
タイトル かな:ナイトフロウ
発売日:2019年9月4日
定価:2,000円+税
JAN:4526180491194
仕様:CD1枚組
レーベル:パソコン音楽クラブ

収録曲:
1. Invisible Border (intro)
2. Air Waves
3. Yukue [vocal:unmo]
4. reiji no machi [vocal: イノウエワラビ]
5. Motion of sphere
6. In the eyes of MIND [vocal: イノウエワラビ]
7. Time to renew
8. Swallowed by darkness
9. hikari [vocal: 長谷川白紙]

■パソコン音楽クラブ
https://pasoconongaku.web.fc2.com/Index.html

プロフィール
2015年結成。“DTMの新時代が到来する!”をテーマに、ローランドSCシリーズやヤマハMUシリーズなど90年代の音源モジュールやデジタルシンセサイザーを用いた音楽を構築。2017年に配信作品『PARKCITY』を発表。tofubeatsをはじめ、他アーティスト作品への参加やリミックス、演奏会、ラフォーレ原宿グランバザールのTV-CMソングなど幅広い分野で活動。2018年6月に自身初となるフィジカル作『DREAM WALK』をリリース。

Andrew Weatherall - ele-king

 言わずもがな、80年代からDJとして活躍し、数々のリミックスやプロダクションで名を馳せ、セイバーズ・オブ・パラダイスやトゥ・ローン・スウォーズメン、ジ・アスフォデルスなど多くのプロジェクトで素晴らしい音楽を生み出し続けてきたヴェテラン、ポスト・パンクとハウスとの間に橋を架けたUKテクノ番長、アンドリュー・ウェザオールが久方ぶりの来日を果たす。表参道のヴェニュー VENT の3周年を祝うパーティ《VENT 3rd Anniversary》の一環として開催される《Day2》への出演で(サークル・オブ・ライヴを迎える《Day1》についてはこちらから)、なんとオープンからクローズまでひとりでロングセットを披露するのだという。と、とんでもない。いま彼がどんな音楽に注目しているのか確かめる絶好の機会でもあるので、8月24日は予定を空けておきましょう。

伝説! Andrew Weatherall が表参道VENTの3周年パーティーDay2で、オープン・トゥ・ラストのロングセットを披露!

国内屈指のサウンドシステムと、こだわり抜いたブッキングで日本のナイトシーンに一石を投じてきた表参道VENT。8月17日と24日に3周年パーティーを開催! 8月24日のDay2には現代のミュージックシーンに計り知れない影響を及ぼしてきたリビングレジェンド、Andrew Weatherall (アンドリュー・ウェザオール)がオープン・トゥ・ラストのロングセットで登場!

Andrew Weatherall ほど多岐にわたる音楽ジャンルに影響を及ぼしてきたアーティストもなかなかいないだろう。10代の頃からポップカルチャー全体に傾倒し、音楽と洋服と本と映画に夢中になっていたという。音楽制作を始めてからは、ずば抜けた才能を発揮し、New Order、My Bloody Valentine、Primal Scream、Paul Weller、Noel Gallagher、Happy Monday などの制作に関わったり、リミックスを提供。デビュー前の The Chemical Brothers や Underworld などの素晴らしい才能をいち早く発掘したのも Andrew Weatherall 達だった。

アナログレコードをこよなく愛し、今でも幅広い音楽ジャンルのDJプレイを披露している。ロカビリーからテクノまでをプレイする、Andrew Weatherall にとっては音楽ジャンルの壁などは無いに等しい。数々の革命を音楽業界に巻き起こしてきた、真のイノベーターと共に迎えるVENTの3周年パーティーに乞うご期待!

更に超豪華特典! VENTの3周年を祝して Andrew Weatherall が、最新の Mix を2本提供してくれました!

・Mix #1はこちらでお楽しみ下さい!
Andrew Weatherall VENT 3rd Anniversary Mix #1
https://soundcloud.com/vent-tokyo/andrew-weatherall-vent-3rd-anniversary-mix-1

・Mix #2はVENTのメールマガジンに登録してくれたお客様にダウンロードリンクをお送り致します。
https://vent-tokyo.net/
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※ 不定期にVENTの最新情報をお送り致します。

ピータールー マンチェスターの悲劇 - ele-king


 「やあ、来たのか?」「これを見逃すものか!」
 ──これは来月公開されるイギリス映画『ピータールー』の一場面。サブタイトルは「マンチェスターの悲劇」。ちょうど200年前の夏、英国で起きた出来事を『ヴェラ・ドレイク』や『ターナー』のマイク・リー監督が再現した155分の大作だ。

 1819年8月16日、イギリス・マンチェスターの聖ピーター広場には6万人もの人が集まっていた。晴れ着を着て、近隣、遠方の町から何時間もかけてやってきたのは日に焼けた顔の貧しい労働者たちだ。この集会のテーマは、貴族に独占された議会の改革と全男性国民の参政権獲得を訴えることである。
 時代は、フランス革命から30年、ヨーロッパ中を巻き込んだナポレオン戦争(ワーテルローの戦い)から4年、まだ戦争の傷は生々しい上、英国ではとくに北部を襲う貧困と労働者の搾取、小麦の高騰などが人びとを苦しめ、怒りがじわじわと広がっていた。ロンドンの中央政府は「(フランスから感染した)革命というコレラ」を防ぐため、法改正や軍事を含むあらゆる方策を練っていて、一方、民衆運動は各地で盛り上がりつつあるという頃。労働者にも選挙権があれば国を変えられる、「目的は自由の回復だ。自由か死か、だ! 無気力を捨てよう」「もう餌食になってはいけない。赤ん坊を泣かせておいてはいけない!」「大木はどんぐりから生まれるんだ。自由になろう!」「我々を食い物にしている圧政者から人生を取り戻そう」等々──熱のこもった街頭での演説が、自分を無力と決めつけていた人びとの気持ちを変えていく。そして、「いまは時代が悪いだけ」という諦めが少しずつ消えてゆく。

 政府や義勇軍(私軍)に付け入る隙を見せてはいけない、弾圧の口実を与えてはいけないと、集会主催者たちは徹底的に暴力の可能性を排除する。広場の石をすべて取り除き、参加者が自衛のために持つ棍棒を取り上げる。「上品に振舞おう、見返してやろう。与えてもらうんじゃない。英国人として持っている本来の権利を取り戻すだけだ。さあ、晴れ着を着て広場へ行こう」
 休みなくこき使われ、給料は雀の涙。顔も爪も真っ黒に汚れ、でもどうにもできないと諦めていた200年前のマンチェスターの人びとが、ついに広場にたどり着いたとき、自分と同じ人たちに出会う。出会っただけで、汚れた顔が自然にほころび、笑みがこぼれる。なけなしのパンを分け合って、どこから来たのかと尋ねあい、私は孤独ではないんだと本当に気づく。
 

 今年の春、私はフランスの民衆運動「黄色いベスト」の本を編集したのだが、そういえば、そこでも同じ話が出てきた。田舎の貧しい中高年労働者たちは、黄色いベストを着て町外れのロータリーに集まり、同じ悩みや不安を話し合うことで、もう孤独ではないことを知ったという。
 政治集会でなくてもいいとは思う。それでも、参加者みんなが「未来を変えよう」という気持ちを持っているのは政治集会ならではの華やぎがある。
 なるほど。古来、政治集会には、晴れ着でいくものなのだ。
 この映画を試写会最終日に見たその日の夕方、私は品川駅前広場に少しずつ増えてくる人を見ながら、午前中に試写室で聞いた「これを見逃すものか!」というセリフを口にしていた。「これ」とは、れいわ新選組の「れいわ祭り」のことだ。

 山本太郎が自分の新しいパーティに「れいわ新選組」と名付けたとき、正直言って私はがっかりした。彼については他にもいくつかがっかりしたことはある。けれども比例名簿の候補者が決まっていくにつれ、それらの「がっかり」が小さいことに思えてきた。
 そもそもこれまでインターネットの国会中継で何度も見てきたのは、山本太郎が「もっとも力を持たない人」を擁護する場面だった。国会での山本議員は、公園で野宿するホームレスや入国管理局の収容所で虐待される外国人、原発事故の影響で政府の援助を受けられず自主避難する人びと、生活保護をカットされる困窮者など、選挙権も持たない、あるいは政治どころじゃない、明日の命も不安な人たちの代弁ばかりしていた。政治家にしてみれば、選挙でもっとも票に繋がらない人びとだ。
 そして、今回の選挙で比例名簿の特定枠(優先枠)に、ALS患者と重度障害者という2人の車椅子生活者を擁立した。今回の参議院選挙では性的マイノリティをはじめさまざまな立場での少数者が「当事者」として立候補している。私は必ずしも「当事者」であることが金科玉条とは思っていない。「人はみんな違う」と「人はみんな同じ」はたいして違わない。どっちにしても「だから、1人1人に権利がある」わけで、どの「当事者」であろうと、社会が全体として重要視する大きな価値は共有できる。
 とはいえ、象徴的な「当事者」が、多くの「1人1人」に示唆を与えてくれるということは大いにありうる。そして、山本太郎が作った候補者名簿は、本当に厳選された象徴的な「当事者」がずらりと並んでいる。とくに特定枠の2人が国家議員になったら、日本の国会は物理的に大きく変わらなければならない。スペースのバリアフリーはもちろん、国会議員は介護者とともに行動する自由を得るだろう。その動きは国会だけでなく、日本全土に広がらざるを得ない。それが実現した日本社会を想像してみよう。間違いなく、いま(たまたま)健康な体で暮らしている人たち「にも」さらに暮らしやすい社会になっているはずだ。例えば、自転車で往来しやすいだとかね。
 「やあ、来たね!」「これを見逃す手はないよ」──そんな気分で、政治集会に来た。このグループの主張はどれも、「現在いちばん力を持たない人を先に助ける」ことから出発している。
 例えば東京オリンピック招致を批判しつつ、その開催を盾に取り、「五輪憲章の人権条項を守って、入管収容所での虐待をやめるよう法務大臣に言ってくれ」と、なんども五輪大臣に食い下がる姿からは、使えるものはなんでも使って目的に近づこうとするプラグマティストだ。細かい話だが、比例名簿の「特定枠」は、自民党のご都合主義による新制度で山本太郎も反対したはずだが、いざ選挙となったら率先して使っている。しかも、自民党が想定していたような保身的手法ではなく、選挙後の国会に大きなインパクトをもたらす使い方でだ。なんというか、存在する制度の力を最大限に増幅させるやり方で使ってしまう、きっとこういうのをこそプラグマティズムというのだ。

 この数年、「右か左かではなく、上か下かだ」というスローガンは日本でもよく使われる。けれども、「右か左かではなく」は言うより難しいようで、私が見るところ、たいがいはその政治家(政党)のパプリックイメージによる左右評価の固定化を逃れるための言い訳に使われている。ちょっと教養があって、これまでの政治史やその文脈を知っている頭では、なかなか左右軸から逃れることはできない。しかし私は、ある政治家が保守なのか革新なのか、自由主義なのか復古主義なのか、などということはどうでもいい。少なくとも、そのような言葉で自分自身を説明しようとする政治家には興味はない。そのようなことは、その政治家が主張する政策や思想から有権者が判断することではないか。細かい政策のいちいちではなく、思想を表してほしい。もちろん政策の蓄積によって表す人もあろうし、国会質問からそれが伝わる人もいる。ところが山本太郎の「左右ではなく、上下」はきっちり言葉通りだ。「左右」は彼の話題にも出ない。頭のなかにはたぶん本当に「上下」しかないのだろう。
 山本太郎の今回の比例名簿は、その意味で、彼の思想の表現だと私は思う。生きるためにもっとも他人の手助けとコミュニケーションを必要とし、ただ生きる、ということを、おそらくは誰よりも考えてきたであろう2人の候補者をはじめ、国会や永田町に、この日本の社会全体に、違和感を与えて余りあるメンバーを並べ、「あなたの星を探して。きっとこのなかにいる」という。これは哲学的な問いかけだ。そうして、この「当事者」たちは、単にマイノリティーの代表から、ある思想を共有しようではないかという呼びかけに変わる。これが山本太郎の今回の「選挙運動」だと、私は理解した。

 さて、映画『ピータールー』は6万人の控え目で晴れやかな希望が上品に最大限に膨らむのを見届け、一気に「悲劇」へと向かう。英国史上、最悪の政治的虐殺事件と言われるものだ。馬上からサーベルを振りおろしたのは、「革命というコレラ」を恐れた政府が用意した過剰警備の機動隊だ。いつも民衆は負け続けている。一時期は勝っても、最終的には負ける。いや、しかしそれは「最終」ではない、のだ。
 現にこの悲劇をきっかけに、事件を目撃した人たちによって、志のある革新的な新聞『ザ・ガーディアン』が創刊される。そしてこの後、イギリス各地で幾度も民衆は蜂起して、労働者の権利とイギリス国民として当然の権利を手にしていくことになる。さらに、いまもブレグジットをめぐる運動や「絶滅への反逆(Extinction Rebellion)」と言われるものなど蜂起は続いている。

 品川駅港南口広場で3時間楽しんだ「れいわ祭り」からの帰り道、私が歌っていたのはこれだ。

〜イキがったりビビったりしてここまで来た ツアーがどこへいくのか 誰も知らない 子供騙しのモンキービジネース まともな奴は一人もいねーぜ〜Yeah!!
RC SUCCESSION“ドカドカうるさいR&Rバンド"

 山本太郎の演説はすごい。会場ではハンカチで涙を拭っている聴衆もいる。私もユーチューブで聞いたスピーチで何度も涙ぐんだことがある。一方で、「できもしないことで気をひくホラ吹き、ポピュリスト、ファシスト」等々、批判も事欠かない。れいわ新選組の経済政策が本当に正しいのかどうか、私にはわからない。そんなことわかるはずがないじゃないか。けれども、彼らが目指そうという方向に、私も行きたいと思った。いちばん弱いものが生きられる社会。言い古された理想だが、山本太郎の作品である比例名簿は、そちらを指差しているのではない?  ダメでもまた起きるだけさ。

James Ferraro - ele-king

 「OPN以降」という言葉はすでに消費され尽くした感もある。もはやこの言葉だけでは何も語ったことにはならない。ゆえに「あえて」反対に問うてみたい。「OPN以前」は何か、と。むろん、その問いに、たったひとつの答えはない。
 だが「あえて」、ひとつだけ答えを挙げてみるならば、「ジェームス・フェラーロ」という名を召喚する必要がある。とはいえ正確には、OPNの初リリースは2007年であり、フェラーロは最初のアルバム『Discovery』を2008年にリリースしているのだから、フェラーロの方がだいたい1年遅れであり、「以前」の存在ではない。ふたりの活動初期は共に00年代末期から10年代初頭にあたる。ほぼ同期ともいえる。
 しかしOPN=ダニエル・ロパティンが、「OPN以降」というキャッチコピーと共に「新時代の現象」として広く理解されはじめたのは、〈Warp〉からリリースされた『R Plus Seven』(2013)以降ではないかと思う。むろん、2010年に〈Editions Mego〉からリリースされた『Returnal』と、アントニーとフェネスが参加したシングル「Returnal」は、先端的な音楽マニアや英国『The Wire』誌などのメディアから高く評価されたし、OPNが主宰していた〈Software〉からリリースされた『Replica』(2011)は現在もOPNの最高傑作としてマニアたちが偏愛しているアルバムである。私もOPNといえばまずもってこの二作を重要作と考える。

 しかし、先端的な音楽を積極的に追いかけているマニアや電子音楽ファンだけではなく、ロック・ファンも含めた広い音楽ファンにOPNが聴かれはじめたのは、やはり〈Warp〉からリリースされた『R Plus Seven』だったように思える。じっさいレーベルの知名度も手伝ってか、現象としての「OPN以降」という言葉が浸透し、ついには「ブライアン・イーノ」の後継者とまで言われるようになった。音楽メディアで彼とその音楽について多くの考察がなされ、加えて音楽関係者以外からの言及も増えた。例えば現代SF作家の俊英、樋口恭介もまたOPNからの影響を公言しており、その著作『構造素子』においてはダニエル・ロパティンの名などを変形して用いた登場人物やシステムを描いているほどだ(「オートリックス・ポイント・システム」!)。樋口は2018年リリースの最新アルバム『Age Of』日本盤で歌詞監訳を担当したほどである。ともあれ2018年リリースの最新アルバム『Age Of』リリース時は、本人の来日も相まって非常な盛り上がりをみせた。
 いずれにせよ10年代中盤から終わりにかけて、OPNは時代の寵児となったわけだが、それと反比例するようにジェームス・フェラーロへの言及は相対的に少なくなってきたように見えた。
 これはいささか不公平な事態である。フェラーロはOPNが「ブーム」になる以前から、OPNと同様に現代的でアクチュアルな問題を内包した音楽家だったのだから。ゆえに彼をとりあえず「OPN(現象)以前」の作家として召喚してみたい(逆にいえば『R Plus Seven』以降のOPNはヴェイパーウェイヴの流れからは外れてきたといえなくもない)。

 だが、2010年代も末期を迎えた現在、状況はやや変わってきた。ヴェイパーウェイヴという資本主義の残骸をめぐる2010年代的なインターネット音楽が改めて注目を浴びつつあり、そのような潮流の中でいま、ジェームス・フェラーロの存在は再びクローズアップされている。昨年にリリースされたイヴ・トゥモアのアルバムに彼がゲスト参加していたことに気がついた人も多いだろう。
 いや、そもそも数年前には既に Robert Grunenberg による「ジェームス・フェラーロとショッピング モールの美学──消費者文化を映し、崩壊するアメリカンドリームのイメージを暴く、電子音楽家との対話」という興味深いインタヴュー記事もアップされていたのだ。これはヴェイパーウェイヴの先駆けとして改めてフェラーロを位置づける重要な記事である。
 じっさい、フェラーロは、ほかのヴェイパー作家と同じく都市と監視、ショッピングモールなどの消費主義の残骸への批評的な意識を音楽に昇華してきたアーティストだ。が、ほかのヴェイパーウェイヴとヴァイパー作家たちと違うのは幼少期へのノスタルジーが希薄な点にある。いわば体内回帰的なショッピングモールへのノスタルジアではなく、都市という場への冷徹なまなざしを強く感じるのだ。
 フェラーロは、例えば作家のドン・デリーロのように現代に冷徹な眼差しを向けている。そして透明なデジタル・カメラのレンズのような意識の果てに、微かにロマンティシズムが漂ってもいる。

 2011年にリリースされた重要作『Far Side Virtual』以降、フェラーロは多くのアルバムをリリースしてきたが、中でも『NYC, Hell 3:00 AM』(2013)、『Skid Row』(2015)、『Human Story 3』(2016)は、ニューヨークという都市、米国を中心としつつ全世界を覆う巨大なグローバル企業をテーマとする重要なアルバムであった。その音楽は脱臼されたエレクトロニック・ポップかサウンドの残骸を集めて作られたような壊れたR&Bのような極めて批評的なものである。
 これらの作品には彼の「思想」というか「メッセージ」が極めて凝縮した形で表現されていた。都市生活の傍らに鳴る音や都市の雑踏、デヴァイスの音などを大胆かつ細やかにエディットしたそのトラックは、21世紀初頭/末期資本主義の世界に満ちていく記号のエントロピーをスムースかつクールに、しかしフェイクな電子音楽に変換していく。いわば音で聴くジャン・ボードリヤールの『象徴交換と死』のような作品とでもいうべきか。
 それらのアルバムに満ちていた音はグローバル経済の結果として、格差が生まれ、都市環境は荒廃し、資本主義と人間の関係が最終段階に入るなか(しかもどう終ってよいのかは誰も分からない!)、インターネット・デヴァイスという「監視装置」が生活の隅々にまで浸食した10年代中期のムードを非常に上手く表現していた。『NYC, Hell 3:00 AM』、『Skid Row』、『Human Story 3』の10年代中期の三部作は、私たちを無感情で撮り続ける監視カメラのような音楽/サウンドだったのだ。

 しかし2018年にリリースされた『Four Pieces For Mirai』で彼のモチーフと音楽性は一変した。10年代中期の都市三部作を経て、エコロジカルな意識を持ったディストピア的サウンドへと変化を遂げたのだ。音楽性も変化した。『Four Pieces For Mirai』ではR&Bやシンセポップを思わせるトラックは減り、クラシカルかつアンビエントでありつつ、映画音楽を思わせるドラマチックなトラックを多く収録することになる。ヴォーカル・トラックはアルバムの最後に収録された“Gulf Gutters”のみであった。
 2019年にリリースされた新作『Requiem For Recycled Earth』は、『Four Pieces For Mirai』の続編的な位置づけの作品である。「再生する地球のためのレクイエム」という名からも分かるように、地球の自然環境を主題とするようなアルバムといえる。
 前作では、まだそれまでの作品と同じようにさまざまなサウンド・エレメント(電話の音、鳥の鳴き声など)が用いられたヴェイパーウェイヴ的な音響となっていたが、本作はシンセによる弦楽とコーラスを折り重ねたクラシカルな楽曲を収録しており、まさに人間以降の地球を俯瞰するような雄大な音楽となっていた。上空から一度、滅んだ惑星の状況をスキャンするかのような感覚の音楽とでもいうべきか。
 同時に作りモノめいてもいた。人工的なコンピューター仕掛けの讃美歌のように。なかでも私は仮想空間に自動生成したような宗教曲/讃美歌のような7曲め“Weapon”の冷たい美しさに耳を惹かれた。そのような曲に「Weapon」と名付けている点も興味深い。やはり人類の非劇性や終局を象徴するようなアルバムなのだろう。じじつ、本アルバムには「ecocide and planetary divorce」というメッセージが添えられている。
 ほかの曲もときにアンビエント、ときにミニマル、ときにクラシカルとその表情を変えながら、成層圏のような人工的なコーラス(ヴォイス)が楽曲を空気のように覆っていた。特にミニマルな電子音と破滅的な電子ノイズに、ヴォイスが重なる“Recycled Sky”の透明な美しさは筆舌に尽くしがたい。

 末期資本主義が行き渡った都市空間から、惑星規模の終末世界へ。ポストモダンからアフターヒューマンへ。21世紀以降の世界の変化と無意識を察知し続けるフェラーロは、10年代を象徴する重要なサウンド・アーティスト/音楽家である。彼はグローバリズム経済世界が発する音の残骸を繋ぎ、いかにも人口的で作り物めいた歪な電子音楽を作り続けている。それは21世紀初頭、2010年代という、この「ディケイドそのもの」であろうとする意志にも思えた。
 そう、フェラーロは時代の変化の只中で、その変化に身を浸しつつも、常に少しだけズラしてみせる。その振る舞いは時代に潰されないひとつの冴えたやり方に見える。優れて批評的といってもいい。もはやいうまでもない。彼もまたOPNと共に21世紀の無意識を捉えた重要な音楽家である。

ハッパGoGo 大統領極秘指令 - ele-king

 世のなかはおかしなことで溢れてる。だけど、それに気がついちゃいけない風潮がある。そんな不条理を吹き飛ばしてくれるような、南米ウルグアイで制作された『ハッパ GoGo 大統領極秘指令』という痛快な映画を観た。

 南米ウルグアイではホセ・ムヒカ大統領政権のもと、2013年、マリファナが合法化された。そこで、冴えない薬局を経営する青年アルフレドとその母タルマがマリファナ入りのブラウニーを販売したところ、店が大繁盛。しかし、密売マリファナを使っていたことから投獄されてしまう。釈放の代わりに大統領からふたりに指令されたのが、極秘で米国まで行き、国内供給用の大量のマリファナ50トンを入手すること。合法化したものの、国内ではマリファナの供給不足に陥っていたのだ。
 青年と母はコロラド州デンバーへ向かい、マリファナのフェスティヴァル「420ラリー」や「カンナビス・カップ」に参加。マリファナ解禁活動を牽引する人びとに話を聞き、ブツを仕入れるために奔走する。2週間後のムヒカ大統領と米国オバマ大統領との歴史的な会談前に手配をして、なんとかマリファナをウルグアイまで運ばねばならない。この重要なミッションを彼らは遂行できるのか? というお話。

 この映画はフィクションだが、元ウルグアイ大統領のムヒカを筆頭に実在の人物や団体が多く登場し、ドキュメンタリーとドラマを行き来する演出をしている。コメディタッチで軽く見れるのに、世のなかの不条理が浮き上がる深いテーマをついてくる。そもそも一般的には「ドラッグ」はアメリカ大陸の南からやってくると思われがちだが、実は米国の方が供給があり、普及している。こうした事実を真っ向から捉えている点も面白い。

 例えば、筆者が暮らすメキシコでは、米国の消費者へ売るためにドラッグ産業が存在している。摂取者は米国よりも少ない。禁止されればされるほどドラッグの価値が上がるというカラクリもある。それで裏商売ができるから、闇組織にとってはその方が都合がいいという事実もある。
 そんな事情もあって、ウルグアイのムヒカ政権は国を二分する法案を議会にかけ、国営でのマリファナの生産と販売を英断した。メキシコの現ロペス・オブラドール政権もウルグアイのように国家でのマリファナ合法化に向けて動いているけれど、実現にはまだ時間がかかりそうだ。
 とはいえ、合法化の流れはいま先進国のなかで拡大している。United Nations Office on Drugs and Crime(国連薬物犯罪事務所)の世界のマリファナ合法化状況を綴る資料によれば、米国では10州が合法。18州がお咎めなし。29州が医療目的の使用なら認可、コロラド州、カリフォルニア州では合法栽培もされている。カナダでは医療用として合法。行政区によっては限定量の販売も許可され、少量の栽培ならば認められている。オーストラリアでは医療や科学的な使用が合法。スペインではマリファナの個人使用は合法で、100グラムまで携帯可能。ただ、公共の場所での摂取は違法。オランダでは5gの所持まで罰せられず、5つの苗までは栽培できる。コーヒーショップ(政府認可のマリファナを合法的に嗜める店)では摂取が容認されている。デンマークでは2018年から医療使用は合法。ドイツ、ベルギー、ポルトガルでは、合法ではないが個人的に嗜むくらいならば罪を問われるほどではない。また、イギリスでは2003年より医療目的での栽培が容認され、2018年に医療目的の専門医による処方が合法化された。
 このように、世界の先進国では解禁の流れになっているにかかわらず、日本では依然として違法ドラッグであり、人前で語ることもタブーである。
 そんなマリファナをテーマにした映画『ハッパGoGo』の日本公開を決めた配給会社アクション Incの比嘉世津子さんは、2011年にもマリファナ絡みの映画を日本で公開している。
 それはマリア・ノバロ監督の『グッド・ハーブ』というメキシコ映画だ。先スペイン期より先住民伝来の薬草文化を研究する植物学者の女性が認知症になり、その娘が、母が幸せに最期を迎えられるように、様々な薬草の力を借り、そして彼女自身も解放される姿を描いている。同映画では、薬草が現代メキシコの都会の人びとの生活のなかにも息づくことが描かれているわけだが、じっさい薬草はメキシコ国内のどのマーケットの店頭にもならび、体の調子を良くするためにお茶として飲んだり、傷口に塗ったり、蒸気を吸ったり、伝統儀式に使われたりする。なかには、気持ちを上向きにさせる朝鮮朝顔の一種フロリボンデュ、心の痛みに効くトロアチェなどもある。マリファナは原産ではないが、生理痛や、打撲など体の痛みに効くし、がん患者の治療の痛みを和らげることでも知られている。マリファナ入りのポマードなら、メキシコシティの地下鉄構内で売られているほどだ(含有量は少ない)。
 メキシコでは、女性に対するDVや殺人事件が増加傾向で、1日に約9人の女性が殺されている。マリファナよりもアルコールを起因とする暴力の方が社会的制裁が大きい。街のいたるところには、アル中から脱出するための更生施設がある。メキシコの人たちに、先進国(だと信じこまれている)日本では、マリファナは覚せい剤と同レベルでご法度であり、公共でタバコを吸ったらたしなめられる場所もあるくらい(他者への健康被害を配慮してだが)厳しいけど、缶ビールやチューハイを路上で呑んでもほぼお咎めなしだと言ったら目を丸くして驚かれた。タトゥーを入れている人が反社会的組織の一員のように思われ、ビーチやスポーツジム、銭湯の入場も禁止というのにも驚かされる。

 ちなみにメキシコでは、マリファナやコカイン、そしてアルコールよりも社会問題になっている白い粉がある。多くの人々が摂取過多となり、深刻な健康被害をもたらす白い粉、.それはすなわち砂糖である。コカコーラ摂取量が世界一のメキシコでは、肥満や糖尿病患者数でも世界トップクラスで米国と競る勢いだが、禁止されることはまずないだろう。

 国家やシステムは、多くの人たちが想像しているほど正しいわけでも頑丈でもない。だから自分のペースで生きて、もっと肩の力抜いてもいい。そういや、映画『ハッパGoGo』のなかで、アルフレドの母親タルマが、ムヒカ元大統領や在米ウルグアイ大使に、女性が大使や大統領になれるか質問するシーンがある。そして、その可能性もあると彼らは答える。これは好きなシーンのひとつだが、とにかく、体制を笑い飛ばし、人びとの力や希望についてさらりと語りかける、この映画はとても貴重だ。

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