「Noton」と一致するもの

tiny pop fes - ele-king


photo: 堀切基和

 正直に言うと、開催の数日前まで「ホントにやるのかな?」と思っていた。主催のDANGBOORURECORD中条氏曰く、「なんとなく上野公演水上音楽堂の会場使用の応募をしたらなんとなく当選しまったので、やることにした」との由。野外フェスってそんな商店街の福引みたいなノリで出来るんだ!という驚きが先にあったが、ブッキングやステージ制作や各種会場運営含め、じっさいこうして具体化してしまうのだからもっと驚く。多分、というか絶対、音楽ビジネスのプロパーでは実現しない(というかそもそも企画しない)であろう、それくらい横紙破りなイベントなのだった。

 私は、lightmellowbu*注1の一員としてサブステージでDJを担当することになっていたから(なので、当日ライヴを観れなかったアクトも数多い。そのため、この記事では各演奏の詳細に触れることが出来ないことを予めお伝えしておきたい。おそらく近日中にそういった記事もどこかにアップされるだろう……)、サウンドチェック等を兼ねて一般の開場時間より少し早目に現場入りしたのだが、広いステージ上でトップ出演のバンド〈ゆめであいましょう〉のリハーサルが本当に行われていることにまず驚いた。いや、開催当日なのだからリハーサルが行われているのは当然なのだけど、「本当にやるんだな」という感慨が湧き上がってきた。
 会場入口には主催・中条氏やDANGBOORURECORD周辺の関係者が忙しく立ち回っており、まさにこれが正真正銘のDIYスタイルで催される集いであることがヒシヒシと染み渡るのだった。(どうしてもインサイダー的な視点になってしまうのだが)意外にも(?)音響機材や運営面でのオペレーションがしっかりしていそうなのにまた驚いた、というか、良かった……。楽屋もちゃんとあるし、ゴミ袋も用意されているし、導線もわかりやすく整理されているし、と場内を見て回るうちに、なぜか胸に熱いものが(一体誰目線なのか自分でもよくわからない)。
 老婆心全開で感心しているそんな私に、「おはようございますー」と声を掛けてきたのが、hikaru yamada氏。この日の出演者(んミィバンド)にして、本ele-kingでも以前記事にしたためられている通り*注2、〈tiny pop〉というワード(?)を編み出したその人である。 どうやらyamada氏も私と同じような感慨を抱いているらしく、「ついにやるんですねー」などと話しながら、傍らにはステージ進行表のようなものを持っている。訊けば、全日を通しての舞台監督的な役割を与えられているらしく、なるほど、出演者も総出でスタッフを兼ねる形態なのだ。よくよく見回してみれば、スタッフのほとんどが知り合いとインターネット上でつながっている人々(これをインターネット人と呼ぼう)によって占められており、これはもう、極端に規模の大きいオフ会か……?

 そもそもtiny popというものが、山田氏の記事にもある通り、現在のポスト・インターネット的な状況を反映したシーン(のようなもの)なので、自然とこうした雰囲気になるのは当然だとはいえる。けれどこのシーン(のようなもの)は、予てよりあるいわゆる〈ネット・レーベル〉的文化圏とも微妙に違う何かが漂ってもいるのだ。もちろん、インディー・カルチャー圏において2010年代を通して覇権を握ってきた東京を中心としたインディー・ポップの現場感覚とも確実に違う、もっとタイニーで私的な営みであると言える。毎度定義に難渋するこのtiny popとは、一応まとめるならば、インターネット/リアルに関わらず各所に散在していたそれら私的な営みが、たまたま時間や空間上の条件が重なることで、今コロイド状に可視化されたもの、というような理解になるのかもしれない。
 だからこそ、このtiny popに、一般的な音楽ジャンル用語としての効用を期待しすぎてはいけない。じっさい、この日の出演者にしてもその音楽性はバラバラで、山田氏の定義においてtiny popとされるもの(mukuchi、んミィバンド etc.)から、既にtiny pop云々を置いて各々のファンダムを形成しているアーティストまで、さまざまな人たちがステージに上ったのだった。けれども、そこにはうっすらとした共通項として、既存ジャンル意識や前提的なシーンの存在を、自覚的にせよ無自覚的にせよ超えていこうとする新しい律動(例えば、いわゆるこれまでのインディー・ロックを絶対的な価値観とする心性から開放されていること等)が貫いていることも確かなように思われるのだった。
 そういうことを頭に置いてみると、この日会場に漂っていた(それは来場者も共に発散していたのだが)味/熱が実に得難い一回性を湛えたものであったということがわかる。それは有り体にいうなら、「何かが起ころうとしているときの期待感」だったり、「未知のコミュニティーが立ち表れてくるときの連帯感」だったりするのかもしれないが、各アクトによる、(良い意味で)好き勝手に自分たちのペース/マナーでされるステージング、ゆるやかな集散を繰り返しながらプラプラと会場内を周遊する(あまり「ウェーイ!」といった感じではない)来場者の人々の姿をみるにつけ、大きくて強い言葉でその印象を形容するのが憚れるのだ。これはやはり、〈tiny〉としかいいようのない感覚……(ちなみに、ここ水上音楽堂は音量制限にシビアなことでも知られており、この日もイベントを通して耳に心地よいタイニーなデシベル値となった)。


photo: 加藤貴文


photo: 加藤貴文

 いきなり大きな話になるが、これまで、「~~ポップ」と名が付いている音楽は基本的に、資本主義/自由主義的体制の中においてその内在的宿命として経済的な覇権を志向するものだった。それは、そのジャンル名を冠された音楽家たちが彼/彼女の恣意性によって付けたり脱いだりできるような類のものではなくて、もっと根源的な、システム上不可避とさえいうべきのものだろう。これは、もちろん(ハードなマルキシストにとってはそうでないだろうが)一般消費者にとっては悪いことではなくて、そのいうシステム上の宿命的ダイナミズムがあったからこそ、今まで永くポップ・ミュージック全般が豊かな実を成らせながらここまで発展してきたのだといえる。
 しかしながら、ポップスそのものが内在するそういったインフレーションへの傾向はまた、少なくないデリケートな表現者たちにとって我慢のならないストレスでもあったのも自明である。あんなにもポップな音楽を作り上げたブライアン・ウィルソンが、その楽曲のポピュラー性に反するように、実に内向的/自省的な人物であることはよく知られている。あるいは、〈ベッド・ルーム・ポップ〉というような撞着語法的表現にみられるように、その矛盾性をむしろひとつのチャームとして逆説的に提示するジャンル用語すら生まれてきたのだった。何がいいたいのかというと、要するにポップスとは、モダン以降いつの時点にあっても、自由主義経済的な自己インフレーションと、私的美意識(作家性)の確保というものの間における苛烈な相克の運動であるということだ。*注3
 翻ってtiny popについて見てみるならば、どうやらそれは、今現在のポップスにおけるそういった相克の最前線に、(あまり派手派手しいわけではないが)極めて批評的な観点を投げかけながら位置しているものであると言えそうだ。いわゆるポスト・インターネットの時代を叫ばれて久しい今、そういったメディア状況がコミュニケーションを強化(時に分断)することによって立ち会わられた新しい時代のポップスとして、tiny pop以上に当世風のものはないのではないか。予てから界隈のインターネット人たちが醸している、社会性と非社会性の淵をゆらめくようなシニック(というと何やら悪口のようだが、そのアンチ・アイデンティティ論的な姿勢は優れて批評的だと思う)や、ハイ・コンテクストなユーモア感覚こそは、ポップというものにおける自由主義的な指向性と、作家的内省性の、最新にして実に興味深い発露としても捉えうると思っている。
 
 かつてyamada氏が私に語ってくれた言葉で面白いものがある。要約するなら、「tiny popは〈商業的〉になった瞬間にその魅力と意義が霧消してしまうだろう」というようなものだった。なるほど、tiny popとは、現在インターネット空間(特にSNS)において極稀にしか現れない健全で建設的なコミュニケーションに似て、実にフラジャイルなバランスによってしか出現し得ない儚い現象なのかもしれない……。
 だからこそこの日、上野公演水上音楽堂に現れたものは、その希少性という意味でも尊いものであったし、意図をもって再現することが難しい類の極めて一回的な経験だったのかもしれない。メインステージで奏でられた各アクトの音楽の繊細な鳴り方/在り方もそうだし、冒頭に紹介したような極めてDIYでコミュニタリアン的な運営スタイルの希少性についてもそうだ(だから、会場の規模感的にも〈無理をしない無理〉という感じで、実に絶妙だったと思う)。また、90年代のオブスキュアなシティ・ポップCDでDJをするという私自身のイベントの関わり方も、よく考えれば(よく考えなくても)相当に珍奇なものだし、そういう「誰かが意図したわけでないのに、ポッと生まれでてしまった不思議な瞬間」が幾度もあった気がする。そして、そうした瞬間はおしなべてなにやら美しくもあったのだった。
 抜けるように青いこの日の空模様について、誰もが「晴れてよかったですね」と挨拶を交わしながらも、どこかで皆その過度の開放感に戸惑っているようなところがあった。そういう連中がこうやってぞろぞろと集まれたことに、このtiny pop fesの意義は尽きているような気もする。

 さあ、これからtiny popはどうなっていくのやら。tiny popを〈商売〉から庇護するのも純粋主義的で心惹かれもするが、一方で〈よりポップになった〉tiny popも見てみたいよな、という蠱惑にも駆られる。何かが生まれるときに立ち会うというのは、言いようのない感慨を催させもする。しかし、それがシーンとして独り立ちするのを、支え、そして見るのも、これまた爽やかな感動を味わえそうではあるが……果たしてどうだろう。


photo: 堀切基和

*注1
lightmellowbuについてはこちらの拙記事を参照。
https://www.ele-king.net/columns/regulars/post_muzak/006751/

*注2
https://www.ele-king.net/columns/006704/

*注3
このあたりの議論については、ジェイソン・トインビー著、安田昌弘訳 『ポピュラー音楽をつくる ミュージシャン・創造性・制度』(2004年 みすず書房)などを参照。
https://www.msz.co.jp/book/detail/07102.html

第9回 銃口の前で踊り続ける - ele-king

 狂った夏が過ぎ、狂った秋が来た。私は人生で初めて「なぜ酌をしないのだ」と怒られ、動揺していた。
 酌をしろと叱ってきたのは私の恩師であった。恩師は自分に酒を注ぐように言ったのではなく、飲み会に同席していた別の人のグラスに自分の手が届かなかったので、私に注ぐよう指示をしたのだった。それを私が「絶対に酌をしないと決めているので」と言って断ると、冒頭の通りに怒ったのである。
 私は長いことこの先生にお世話になってきたが、怒られた経験はいっさいなかった。初めて怒られた驚きと、目上の人に強く何かを言われることへの単純な恐怖で、身体がうわっと固まった。酌はどうしてもしたくなかった。私は一滴も酒を飲まないし、飲み会は好きでも飲み会の規範はものすごく嫌いだ。どうして全員きっちり自分が飲みたいだけ自分で注がないのだろう? 注ぎ合いをやりたいならやりたい人どうしで勝手にすればいいが、コミュニケーションが飲酒量に影響する仕組みはどう考えてもよくない。その輪に加担させないでほしい。
 それに私は「女性が酒を注ぐ」表象になりたくない。酒飲みたちにとってはただ私が酒を注ぐのにちょうどいい場所にいただけであってジェンダーは関係ないのだと思われるのかもしれないが、私は自分の尊厳を傷つける文脈に自分から踏み入るような仕草は、意識できるかぎりにおいて絶対にしたくなかった。
 そういう思想を持ってはいたものの、私はほとんど反論できなかった。「なんで注がないの」と言われて「ジェンダーバイアスが……」と言ったところで「男女関係ないでしょう!」と言い切られ、それ以上喧嘩腰で話を続けるのも嫌だったので、私は黙って恩師から視線を逸らしたのである。勢いで泣きそうになったが、ここで泣くとよりいっそう面倒くさがられると予想されたのでどうにかこらえた。
 その間ずっと、「これってもしかして私が間違ってるのか?」と考えていた。目の前に怒っている人、それも普段怒らない恩師が怒ってそこに存在している状況は、はっきり言って怖いし気圧される。私は謝って酒を注ぐべきだったのだろうか? でも酌は絶対にしたくないし、「酌をすべき状況」が存在するとは全く思えない。焦った。自分が狂っているのか場が狂っているのかわからなくなる。混乱の一方で、私は別の人の言葉に自然な表情で相槌を打つことに腐心してもいた。機嫌の悪さを観測されるのも、それはそれで負けた気がして嫌だった。
 釈然としないまま帰りの電車に乗った。疲労したムードと弱い酒の匂いがただよう車内で日付を越した。最寄駅から家に向かってひとけのない道を行く。足取りは重い。
 「デューン」
 夜道で声を出す。最近やたらこういうことをやっている。飲み込めない現実があるとき、言語化しきれない何かを感じているときに、「デューン」「グワッ」「ウワーン」などとつぶやきながら手をわさわさ動かしたり虚空に向かってピースしたりする。あるいは道路をうねうね蛇行して歩いたりもする。誰も見ていない、耳をすませてもいない(と思いたい)のをいいことに、夜道の私は自由だ。それらのしぐさを繰り返すうちに、だんだん自分が何を感じていたのか理解できるようになってくる。意味のない言葉と意味のない動きによって、私は自分の腹の奥に溜まった違和感をじっくり腑分けしている。
 もしかしてこれは洗練されていないだけで、一種の「踊り」なのではないか、と気づいたのは、その翌日のことである。

 翌日に何をしたのか? 映画『永遠に僕のもの』(原題は「El Ángel」)を見た。1971年のブエノスアイレスを舞台に、カルリートスという17歳の少年が殺人や強盗を繰り返し、やがて破滅するまでを描いた物語だ。
 カルリートスは盗みの天才である。罪悪感を抱かずに何だって盗み出すし、盗品に対する執着もない。ただ押し入り、好きなだけ盗み、堂々と出てきて、盗んだものは他人にあげてしまう。もともとものが欲しくて盗んでいるわけではないのだ。カルリートスが窃盗を通じて求めていたのは、生の渇きを充足させてくれる何かであり、思うままに生きる自分を理解して人生を同道してくれる誰かだった。
 やがてカルリートスは通っている工業高校でラモンという青年に出会う。暴力的にちょっかいをかけたり盗品を贈ったりと、危なっかしい仕草で気を引こうとしてくるカルリートスをラモンは気に入り、ふたりはともに強盗に邁進することとなった。裏稼業を生業としているラモンの父母も加わって、盗みはより計画的で大規模なものに進化していくが、カルリートスの衝動はおさまらない。危険を冒して必要以上に盗み、殺さなくてもいい人を撃ってしまう。ラモン一家は大困惑だ。何がしたいんだこいつは! カルリートスはラモン一家に莫大な金をもたらしてくれる泥棒の天才だが、いつ何をしでかすかわからない制御不能の危険人物でもあった。
 このカルリートスと周囲の人間との「歩調の揃わなさ」こそが本題である。カルリートスはラモンに対して自分の無二の理解者になってくれるのではないかと期待していたが、ふたりの窃盗に対するスタンスはあまりにも異なっていた。「盗んでるんじゃない、生きてるんだ」というカルリートスのセリフが全てを物語っている。ひと財産築いたら裏稼業を畳みたいと考えているらしいラモンとは違い、カルリートスにとっては思うがままに奪うことそのものが生なのだ。そこに理由などない。自分が何を考えているのかもうまく言葉にできない子どもが、自分の衝動的な行動に命をかけることそのものを、シンプルに面白く思った、そればかりなのだ。「人のものをとってはいけない」やら「人を殺してはいけない」やら、「人間社会のしおり」なる冊子があったとしたら「はじめに」の次に書いてありそうな「ルール」を守る意味がわからなかっただけで。
 結局最後までこの溝が埋まることはない。いかに慕い続けていても思いは伝わらず、カルリートスは自分に同道できなかったラモンを車の事故に見せかけて殺してしまう。「マリリン・モンローみたいだ」と言われたこと、一度きりの短い抱擁、そして死の直前に眠るラモンのくちびるに指をつっこんだこと。ちょっとエロティックなだけのままならない思い出を抱えて、カルリートスは結局全て奪い去ったのだった。
 カルリートスはずっと孤独である。冒頭と最後、カルリートスはいずれも誰もいない家のど真ん中で踊っている。家といってもカルリートスの家ではなく他人の家だ。最初は盗みに入った無人の邸宅でレコードをかけながら、最後はかつてラモン一家が暮らしていた家──カルリートスがラモンを殺して以来、そこは廃墟と化している──のキッチンで、古びたラジカセをかけながら。曲は La Joven Guardia “El extraño de pelo largo”だ。思うがままに、しかし淡々と、カルリートスは自問自答するように踊っている。
 カルリートスは踊りながら、誰にも理解されなかった自分と自分を理解しなかった世界との距離を冷静に測っていたのだと思う。途方もない世界=敵を前にして、そのどうしようもなさに全身で浸かるのではなく、己の状態と立ち位置を手探りで考えていた。そりゃあ踊るよな。踊るしかない。現実という手に負えない泥をろくろにのせ、全身で迷いながらどうにか成形を図るとき、そのしぐさは間違いなく「踊り」なのだ。
 家の外を銃口が取り囲んでいる。

 ここ1ヶ月、世の中はいつも以上に狂っている。週刊ポストが韓国ヘイトを骨子にした特集を組み、内閣改造では女性蔑視発言やパワハラの実績ばかり立派な人たちが次々入閣し、文化庁が「表現の不自由展」を理由にあいちトリエンナーレへの交付金の給付取りやめを決定し、グレタ・トゥーンベリ氏の国連でのスピーチには「感情的だ」「大人に操られている」というダサい非難が集まり、日米貿易交渉では畜産関連の品目を中心に大幅な関税引き下げが決定された。その上これから消費税が上がる。明らかにおかしい。ここまでおかしいとわかっているのに、世の中はそのまま突き進んでいる。どうにか歯止めをかけなければならないと思いながら、ひとつの問題をじっくり考える暇もなく、また新しくクソみたいな状況が出現する。何か書かねばならないと思って Word を立ち上げたが、「殺してやる」と書いたきり続きが全く思い浮かばない。そういうことを連日繰り返していた。言葉がまるで出てこなかった。
 郵便受けに新聞が投函された音を聞きながら、こうこうとあかりをつけた部屋で、黙ってひとりでぐらぐらと揺れる。両腕をうねらせる。意味なく足踏みをする。この世に対する解像度が極端に下がった頭でこの世は敵だよなあ、最悪の敵だ、と思いつつ、それでもどうにか己の閾値を下げるための踊りだ。部屋の外側の時間の流れとは違う、他の誰とも共有していないリズムにひとり身を置くことで、落ち着きを取り戻す努力をする。私の時間は私のものだ。抵抗しなくては。できうる限り現実的に。

ジョン・ウィック:パラベラム - ele-king

 何年か後にはオタクの山ができていそうな映画である。いや、もうすでにできているかな。その山に登らず、どこに山があるのかだけを考えたい。山の一部をなしているのは『燃えよドラゴン』で、「鏡の部屋」って『ローマの休日』が起源かなーなどとも言い放ってはみたいけれど、返り討ちに会うのが関の山なので、黙って『徹子の部屋』でも観ていよう。今日のゲストは高嶋ちさ子かな……

 シリーズ3作目なので、これまでのあらましを多少は述べないといけないだろう。ニューヨーク中にいる殺し屋がジョン・ウィック(キアヌ・リーヴス)を狙い、果たして彼らの手をすり抜けてアメリカから脱出できるのか……というところで『チャプター2』(17)は終わってしまい、そこからいきなり『パラベラム』は始まるし。こんなTVドラマのように続く映画もないぜとは思うものの、観てよかったなーと思うから『ジョン・ウィック』シリーズは侮れない。「ミレニアム」とか「メン・イン・ブラック」も全部観ちゃったけどさ。

 ジョン・ウィックは恋人を失い、彼女の死後に形見として子犬が届く。ガソリン・スタンドでガンをつけてきたチンピラたちがジョン・ウィックの家を襲い、犬を殺し、彼の愛車フォード・マスタングを奪っていく。殺し屋稼業から足を洗っていたジョン・ウィックは復讐のためにやむなくカム・バック。チンピラは実はロシアン・マフィアを牛耳るボスの息子で、ジョン・ウィックとロシアン・マフィアは全面戦争に突入していく。ハリウッドが遠ざかりつつあった暴力表現がこれでもかとテンコ盛りになっているだけでなく、復讐というモチーフや鬱蒼とした音楽の被せ方、そしてフィルターをかけっぱなしにした映像など、1作目は明らかに韓国ノワールの影響を感じさせる。ここ数年、ハリウッドの代わりにヴァイオレンスで客足を引きつけた韓国映画やスペイン映画が「ジョン・ウィック」シリーズの演出に大幅に取り入れられている。そこがまずは魅力。

 フォード・マスタングを取り戻すところから『チャプター2』は始まる。ジョン・ウィックが所属する組織には手厚い厚生施設が整い、ソムリエと呼ばれる武器調達係がいたりと、世界規模で行動がしやすくなっている代わりに「誓印」と呼ばれる「貸し・借り」のシステムが絶対の条件となっており(ほかにもヘンなルールがいっぱいあってこれがまた実に楽しい)、ジョン・ウィックはサンティーノ・ダントニオの依頼によって「主席連合」の次期代表に就任する予定のジアナ・ダントニオを暗殺しなければならなくなる。そして、ジョン・ウィックはローマに飛ぶ――

 とにかく暴力、暴力、暴力である。「パラベラム」というのは銃のことらしい。韓国映画『アシュラ』(16)はいくらなんでも人が死に過ぎると思ったけれど、これはそれ以上。ただし、毎回のようにクラブで銃撃戦があるにもかかわらず、一般の人には絶対に当たらず、関係者しか死なない。『パラベラム』ではそれがエスカレートして駅の構内や電車のなかでも撃ち合うのに通勤客はそれに気づかず、普通に歩いているだけだったり。ほとんどギャグである。暴力映画が好きな人には可視化されているけれど、観たくない人には見えないと、R指定という倫理コードそのものが映像化されているよう。

 目の前にジョン・ウィックが現れたことで、ジアナ・ダントニオは死期を悟り、自らバスタブのなかで手首を切る。ジョン・ウィックは死体に弾を撃ち込み、ローマから脱出する。ジアナ・ダントニオの暗殺依頼がバレると「主席連合」の時期代表に就任できないと判断したサンティーノ・ダントニオは口封じのためにジョン・ウィックに700万ドルの賞金をかけ、ニューヨーク中の殺し屋に始末させようとする。次から次へと殺し屋がジョン・ウィックを襲う――

『チャプター2』から『パラベラム』にかけて持続するテーマは、日本の忍者ものでいう「抜け忍」である。一度は組織から抜けることのできたジョン・ウィックが再度、組織から抜けるためにカサブランカへ飛び、砂漠のどこかにいるという組織のリーダーに会いに行くことが『パラベラム』の主要ストーリーをなしている。そのためにジョン・ウィックが様々なコネクションの助けを求め、その過程で「貸し・借り」が清算されたり、さらに増えたりする。そして、よくもまあ、これだけ新しいアイディアが思いつくよなと思うほど斬新なアクション・シーンが薄いストーリーの隙間をぎっしりと埋めていく。半端ではない量のガラスを割り、犬が走り、馬が走り、ビルから落ちても助かっている。そう、「ジョン・ウィック」シリーズのプロデューサーとディレクターは『マトリックス』(99)でスタントマンを務めていたチャド・スタエルスキとデヴィッド・リーチなのである。2人は『マトリックス』からインターネットや仮想空間というアイディアをすべて捨て去り、アクション・シーンだけで新たな世界観をつくりあげた。それどころではない。「ジョン・ウィック」シリーズにはインターネットを思わせる電子機器はまったく登場せず、電話は交換台で繋がれ、報酬は金貨でやりとりされている。最も驚いたのはジョン・ウィックに力を貸すバワリー・キング(ローレンス・フィッシュバーン)はインターネットより早いといって伝書鳩で情報を集めている(そんなバカな!)。キアヌ・リーヴスとローレンス・フィッシュバーンはちなみに『マトリックス』ではネオとモーフィアスを演じた救世主コンビ(大事なモノを本のなかに隠すというアイディアも持ち越されている)。

『マトリックス』はよくできた作品だった。インターネットの影響を、それが地球を覆い尽くす前に予見し、可能な限り悪い想像を巡らせたという意味ではなかなかのものであった。いま観ると『マトリックス』は陰謀論に取り憑かれたネット中毒者がくだらない正義感を振りかざして悦に入っているようにしか観えなかったりもするけれど、公開当時は、みんな、来るべき未来像として真剣に観ていたのである。しかし、そうした部分は時間の経過が古びさせたというか、過剰な思い込みは勝手に剥がれ落ちたというか、自然と真剣に観るようなものではなくなっていったのに対し、むしろスタエルスキ&リーチが問題にしたのはネット時代における身体性の定義であった。『マトリックス』にはインターネットに未来を感じていた者にとって、ある種のユートピアが描かれている場面も多く、たとえばネオは体を1ミリも動かさず、あらゆる格闘技を耳からの情報だけで身につけてしまう。そして、ストーリーのなかでは実際に優れた格闘家として振る舞い、『マトリックス』はある意味、アクション映画として成功した作品となった。ところが、本当に鍛えた体ではないために、空中に浮くときの筋肉の動きだとか、どこにも力が入っていない状態で無理な姿勢になったりと、いわば子どもが人形で遊んでいるようなぺらぺらの身体性しか画面には映し出されない。それこそ幽霊のような動きだし、アクションとしての説得力はないけれど、フリークスとしては面白いというような。『マトリックス』でスタントマンを務めていたスタエルスキ&リーチがそれに納得するはずはなかった。

 松本人志は格闘ゲームをやっていて、実際の自分がそんなに強いわけではないことに疑問を持ってジムで体を鍛えるようになったという。『マトリックス』から『ジョン・ウィック』に起きた変化もそれと同じことだろう。キアヌ・リーヴスが撮影の4ヶ月前から体づくりに取り組み、『パラベラム』では車に跳ねられるシーン以外はすべて自分でこなしたという撮影エピソードが売りになるのもインターネットによって萎縮した身体性やギーク・カルチャーが全般的に売りにならなくなってきたことを明瞭に表している(僕が最も感心したのは『パラベラム』のクライマックスは格闘シーンが長過ぎてジョン・ウィックの身体が疲れを表現していたところ)。いまから思えば三池崇史監督『クローズZERO』(07)とかギャレス・エヴァンス監督『ザ・レイド』(11)とか、最初から最後まで殴り合いしかない映画がなぜか面白かったのは、インターネットの普及によって劣化していた身体性が早くも氾濫を起こしていたからなのだろう。それを『マトリックス』を完全否定するというかたちで「ジョン・ウィック」シリーズが似たようなキャストで世界観ごと覆してしまったのである。「ジョン・ウィック」シリーズに与えられた設定も完全にファンタジーというか、マンガのような世界観なので、その対称性は歴然である。

 

『ジョン・ウィック:パラベラム』予告編

別冊ele-king Warp 30 - ele-king

エレクトロニック・ミュージックの時代を予見し、
大衆音楽に変革をもたらした、
イギリスの地方都市発祥のインディペンデント・レーベル、
その30年の軌跡

歴史的インタヴューを多数発掘、一挙アーカイヴした愛蔵版

エイフェックス・ツイン
オウテカ
ボーズ・オブ・カナダ
ザ・ブラック・ドッグ
プラッド
LFO
ナイトメアズ・オン・ワックス
スクエアプッシャー
トゥ・ローン・スウォーズメン
ミラ・カリックス
プレフューズ73
チック・チック・チック
レイラ
クラーク
フライング・ロータス
ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー
ブライアン・イーノ

いつもより大幅増量の272ページ!

【寄稿】
河村祐介、木津毅、小林拓音、佐々木渉、佐藤大、杉田元一、髙橋勇人、野田努、三田格、吉田雅史、渡辺健吾

■ intro
Warp 30

〈Warp〉30周年──そのはじまりを振り返る (小林拓音)
スタッフ・インタヴュー1:ジェームス・バートン
スタッフ・インタヴュー2:スティーヴン・クリスティアン

■ txt1
コラム1

1992年の〈Warp〉 (野田努)
1995年11月〈Warp Night〉の思い出 (渡辺健吾)
インターネットとその向こう側──〈Warp〉から学んだこと (佐々木渉)
選ばなかった道、これから選ぶ道──21世紀の〈Warp〉 (河村祐介)
〈Warp〉に見るエレクトロニック・ワールド・ミュージックの系譜 (三田格)
電子音楽だからこそ──ハイレゾと〈Warp〉 (杉田元一)

■ forgotten
隠れ名盤30 (河村祐介、小林拓音、野田努、三田格、渡辺健吾)

■ txt2
コラム2

アンチ商業主義と四角い箱の夢──〈Warp〉のヴィジュアル面について (佐藤大)
自由を思い出すために──〈Warp〉のロックが体現するもの (木津毅)
偽りのインテリジェンス──〈Warp〉流ヒップホップとは? (吉田雅史)
帰ってきた〈Arcola〉の軌跡と展望 (髙橋勇人)

■ memories
アーティスト・インタヴュー集

ele-king 1995年4月/5月号 エイフェックス・ツイン
ele-king 1995年1月号 ザ・ブラック・ドッグ
ele-king 1996年2月/3月号 LFO
ele-king 1996年2月/3月号 プラッド
ele-king 1996年11月/12月号 エイフェックス・ツイン
ele-king 1997年8月/9月号 スクエアプッシャー
ele-king 1998年8月/9月号 Warp 100
(レッド・スナッパー、スティーヴ・ベケット、ナイトメアズ・オン・ワックス、ミラ・カリックス、デザイナーズ・リパブリック、スクエアプッシャー、ジミ・テナー、プラッド)
ele-king 1998年10月/11月号 トゥ・ローン・スウォーズメン
STUDIO VOICE 1999年2月号 エイフェックス・ツイン
ele-king 1999年12月/2000年1月号 オウテカ
ele-king 1999年12月/2000年1月号 プラッド
ele-king 1999年12月/2000年1月号 スティーヴ・ベケット
remix 2002年4月号 ボーズ・オブ・カナダ
remix 2002年10月号 ナイトメアズ・オン・ワックス
remix 2003年1月号 ボーズ・オブ・カナダ
remix 2003年5月号 オウテカ
remix 2003年5月号 ミラ・カリックス
remix 2003年6月号 プレフューズ73
remix 2003年10月号 LFO
remix 2004年7月号 !!!
remix 2004年12月号 スティーヴ・ベケット
remix 2005年5月号 オウテカ
remix 2007年2月号 !!!
remix 2007年11月号 プレフューズ73
remix 2008年4月号 オウテカ
remix 2008年10月号 レイラ
remix 2008年10月号 フライング・ロータス
remix 2008年12月号 スクエアプッシャー
remix 2009年7月号 クラーク
ele-king 2013年秋号 ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー
ele-king 2017年冬号 ブライアン・イーノ

■ discography
Warp Records Discography 1989-2019

ボーダー 二つの世界 - ele-king

 エイフェックス・ツイン版『ムーミン』、あるいは『風の谷のナウシカ』と『デビルマン』の合体。このインパクトはすでに年間ベストでしょう! 1年間に観る映画の本数が去年から10分の1ぐらいに減ってしまったので、年間ベストもなにもないような気がしますけど、「年間ベスト!」というフレーズはある種の感情表現ということで……(なにせ「情の時代」だそうですから)。

 是枝裕和監督『万引き家族』がパルムドールに輝いた71回カンヌ国際映画祭で「ある視点」賞グランプリを受賞したのが『ボーダー 二つの世界』。監督はイラン系デンマーク人のアリ・アッバシで、僕はまったく聞いたことがなかった名前。マジック・リアリズムに強く影響を受けたという81年生まれだそうで(これはまあ、観れば納得)。原作と脚本が『ぼくのエリ 200歳の少女』(08)の原作者ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストだと知り、珍しく試写の初日が待ちきれなかった。暗い森に人が佇むヴィジュアルも想像力を煽りまくる。リンドクヴィストの作品はこれまで必ずモリッシーとどこかで関係づけられていたものの、今回はそういったエンゲージメントはなさそう。アッバシ監督は『ぼくのエリ』に衝撃を受けて、リンドクヴィストの作品に興味を持ち、『ボーダー』の原作に辿り着いたという。リンドクヴィスト本人も共同脚本に参加し、『ぼくのエリ』同様、その完成度に自分はなんて恵まれた原作者だろうと感慨もひとしおだったという。吉田秋生にはけして訪れない幸福感ですね。

 『ボーダー』というタイトルには様々な意味が含まれていて、まずは国境を意味するスウェーデンの税関から話は始まる。ティーナは巨大な客船が停泊する港を見つめ、足元にいるコオロギをつまんで、それを葉っぱの上に戻す。最初に見たときはすぐに忘れてしまったシーンだったけれど、2度目に見たときはここは「あっ」と思う場面であった(これから観る方はこのシーンのことを覚えておいて)。カメラは終始ぶれていて、画面が手ブレで揺れる作品には傑作が多いという法則をそのまま予感させてくれる。ティーナは客船から降りてくるカスタマーが違法なものを持ち込まないかと監視する仕事についている。彼女が使うのは金属探知機とかX線検査装置ではなく自分の鼻。到着ロビーに向かうカスタマーを適宜呼び止めては手荷物の取り調べを行い、巧妙に隠された禁制品を提出させる。違法なものをバッグに忍ばせている客がいると彼女はなぜかこれに気づいてしまうのである。仕事が終わるとティーナはロバートが待つ郊外の家へと帰っていく。森の中に立つ家には彼と、彼の飼っている大型犬がいて、ドアを開けると犬は彼女を噛み殺す勢いで吠えかかる。ロバートが犬を押さえつけている間にティーナは森へ息抜きに出かけて行く。森で遊ぶシーンはこの後、何度も繰り返され、自然はどんどん濃度を増していく。日常生活はこの繰り返しのようで、とくに面白くもないけれど、彼女はそれなりに平穏な日々を過ごしているといった感じ。ある日、ティーナは警察に呼び出される。彼女が税関で没収したメモリーカードに児童ポルノの映像が収められていたのである。警察は「どうしてわかった?」とティーナに訊く。彼女は中身まではなんだかわからないけれど、犯罪の臭いは嗅ぎ分けられると説明する。警察は児童ポルノの組織を一網打尽にするためにティーナに協力を要請する。彼女はあっさりとその拠点を突き止めてしまう。証拠がないと警察はためらいを見せるものの、ティーナは捕まえなければいけないと力説する。なぜ、ここで彼女の倫理観を突出させるのか。原作にはなかった北欧ノワールの要素を加えた理由はエンディングまで明かされない。

 いつものように税関に立っていると、また、ティーナの鼻はヒクヒクと動き始める。怪しげな男が通りかかり、ティーナは別室へ男を連れて行く。男はヴォーレという名で、手荷物からは虫を孵化させる装置が出てきた以外、とくに違法なものは出てこない。諦めきれない彼女は食い下がり、身体検査をするように男性の同僚を促す。(以下、ネタばれ)検査を終えた同僚はバツの悪い表情で、男ではなかったことをティーナに告げる。彼女はヴォーレに謝罪する。ヴォーレは終始ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべている。

 ティーナ役のエヴァ・メランデルも、ヴォーレ役のエーロ・ミロノフも、実は入念に特殊メイクを施され、非常に醜い外貌になっている。ティーナは自分の醜さを遺伝子異常のせいだと解釈しているものの、実は彼らは人間ではなく、フィンランドでトロールと呼ばれる妖精なのである。そのことが次第に明らかになってくる。北欧各地に伝えられるトロールを可愛らしく表現した代表がトーベ・ヤンソン『ムーミン』なら、最近ではとてつもなく恐ろしいものとして描いたのがアンドレ・ウーヴレダル監督のモキュメンタリー『トロール・ハンター』(10)であった。トロールのイメージにはあまりにも幅がありすぎて北欧諸国の温度差を上手くストーリーに反映させていることが日本人には少しばかり分かりづらいところもある。しかし、それを補って余りある描写が『ボーダー』の中盤から後半にかけてこれでもかと展開されるので、『ぼくのエリ』でヴァンパイアが見事に現代性を帯びていたように、『ボーダー』に援用されたトロールという概念も様々な解釈を引き出せる触媒として最大限の効果をあげていることは伝わってくる。ギレルモ・デル・トロは「特殊メイクに興味があるなら、これ以上に良い作品はない」と最大級の賛辞を寄せ、人類を悪とみなす彼の哲学がこの作品によってはるかに高い次元で完成していることを素直に認めている。『ボーダー』が描き出すのは人種問題であり、マイノリティであり、環境問題であり、幼児虐待であり、ジェンダーや美醜の問題と、人類がいまこの地球で経験しているホットなトピックのすべてといっても過言ではないほどあらゆる要素が絡み合っている。トロールという比喩に託されているものは無限大の要素に感じられ、そのどれかにフォーカスして論じてもこの作品からは遠のくだけというか。ちなみに『となりのトトロ』のトトロもトロールである。

 感じることが多過ぎて、観ている間は考えが追いつかない作品だった。そして、作品の衝撃が少しずつ遠のいてくると、僕の頭には「叩き起こされるルーツ」という問題意識がぼんやりとかたちを取り始めた。ISでもいい。ネトウヨでもいい。ありもしない伝統やルーツに染められて自らのアイデンティティをそれに譲り渡してしまうという現象が世界各地で起き、ヘイトクライムへと発展していく過程を僕たちはいやというほど目撃してきた。ティーナに起きたこともそれと同じである。父親に本当の名前を教えられた時、彼女は「美しい」と思わず呟いてしまう。この瞬間、彼女の中で美醜が文脈を入れ替えたことは明白である。これがネトウヨであれば教科書に書かれていた歴史がインターネットに書かれていた歴史によって覆された瞬間に等しい。ティーナは自分がどこから来たかを「知る」。監督は政治性とは距離を置いた表現だと発言しているけれど、そのことが許されるのはトロールが実際に存在すると信じられる人だけだろう。そういうものに僕もなりたかったけれど、監督の願いには無理がある。ティーナは選ばなければいけない。観客の多くはヴォーレが彼女に向かってトロールの子孫を繁栄させようと提案した時、どう感じただろうか? そうすべきだと思った人の方が数は多いのではないだろうか。アッバシ監督は彼女が置かれた状態をさして「アイデンティティを選ぶことができる人」と表現している。その苦しさは彼女をいくつかの行動に駆り立てる(ティーナが墓の前に立ち尽くすシーンはアピチャッポンの問題意識に通じるものがあった)。ティーナの心はスクリーンで展開されていた場面よりも混乱し、ところ構わず彷徨っているように感じられた。ティーナが最後から2番目と3番目にとった行動は驚くべきものだったろうか。彼女はそして、最後にコオロギをつまみ上げ……

 デル・トロがこの作品を評価しているのは特殊メイクもさることながら、やはり、この世界を否定する強さにあるのだろう。『ぼくのエリ』や『シェイプ・オブ・ウォーター』も同じ結論だったけれど、そのような否定的感情を生み出してきたものは「誰かが犠牲にならなければ共同体はなりたたない」という力学そのものであり、そのようなかたちでしか存続できないのであれば人類はなくなった方がいいという倫理観に正統性を感じてしまうことに尽きるだろう。そのような傲慢さから人を遠ざけてくれるものをかつては宗教と呼び習わしてきたのに対し、ティーナが選択したものは俗流のヒューマニズムに近く、宗教の両義性には遠く及ばない。だとすれば、僕はティーナは最終的には育ての親を受け入れるしかなかったと思うのだけれど、環境もルーツも否定してしまった彼女に残されている道ははたしてあるのだろうか、それを考え続けるための映画ではないだろうかs。

 なお、本作の上映に併せて『ぼくのエリ 200歳の少女』もヒューマントラストシネマ渋谷で一週間だけの再上映が決定しています。

 タイトルの『エイス・グレード』というのは8年生のこと。日本だと中2だけれど、アメリカではミドル・スクールの最終学年に相当する。世界中の子どもたちは小5ぐらいで自尊感情を失い始めることが報告されている。世界と出会い、圧倒されてしまうからだと説明されている。そのようにして喪失した自尊感情を世界の子どもは「エイス・グレード」ぐらいまでに回復するか、以前よりも強い自尊心を持つようになるのに対し日本の子どもたちが自尊心を回復する例は少なく、自信のない人間に育つ傾向が強いという(反対にオランダの子どもは世界で最も強い自尊心を抱くようになるらしい)。『エイス・グレード』が扱っているのは主人公のエルジー・フィッシャー演じるケイラ・デイが自尊心を回復するまでの悪戦苦闘。ジェネレーションZと呼ばれる世代は生まれた時からネットがあり、自尊心にとっては最大の敵ともいえる承認欲求を低減させなければ自尊心の回復はありえない。資本主義にとって承認欲求は金のなる木だし、コミュニケーションの回路は増える一方で、瞬く間に世界はトラップだらけになってしまった。『エイス・グレード』も当然のごとくケイラ・デイがネットに自撮りの動画をアップするところから始まる。彼女の1日はネット漬けで、夕食の時間もスマホを離すことがなく、ジョシュ・ハミルトン演じるシングル・ファーザー(マーク・デイ)はいつも頭を抱えている。自分の世界に閉じこもっている娘にどうアプローチしていいのかわからない父親の弱り切った気持ちも手に取るように伝わってくる。ちなみに、SNSが10代の子どもに与える悪影響は圧倒的に女子に偏重しているそうで、ネットいじめのターゲットも女子が多いというし、『エイス・グレード』の主人公を女子にしたのは、だから、とても重要なことだろう。社会問題をエンターテインメントと絡めてエデュテイメントにしてしまうアメリカのお家芸である。

 ケイラ・デイは学校で誰にも相手にされない。無視されても、無視されても、気丈に振る舞い、自分はみんなと対等だという意識を保ち続ける。しかし、クラスのクイーン的な存在であるケネディは彼女を話し相手として認めず、本当はバースデイ・パーティにも呼びたくなかった。そんな彼女を実在する人間として扱ったのはケネディの従兄ゲイブだけ。ケイラ・デイはしかし、ゲイブは眼中に入らず、ただひたすら勇気を出して、みんなの輪に混ざろうとする。誰によって承認されたいかということが彼女の中では変更がきかないのだろう。そして、片思いを寄せているエイデンに「フェラチオはできるか?」と問われ、意味もわからずできると答えてしまう。その晩、フェラチオの意味をネットで調べたケイラ・デイは……(このシーンがあるために本作はアメリカではR指定となり、作品の当事者である8年生がひとりで鑑賞することは不可に。日本では特にR指定はないようです)。さらにケイラ・デイはハイ・スクールの体験入学で知り合ったオリヴィアの男友だちからも性的なハラスメントを受けそうになり、アメリカの日常的な風景の中で中学生の女子がいかに性的な危機にさらされているかが印象づけられる。ケイラ・デイが本当に自信をなくしてしまうのは、しかし、(以下、ネタバレ)自分が過去に書いた自分へのメッセージを読んだ時だった。「夢や希望」を焼き尽くすことと決めた彼女は初めて父親とまともに会話をする。ここがターニング・ポイントとなる。『ヘザーズ』(89)、『ミーン・ガールズ』(04)、『キック・アス ジャスティス・フォーエヴァー』(13)と繰り返し同じような設定の話がつくられるということは、これはアメリカにとってよっぽどな問題なんだろう。『エイス・グレード』はこれまでのものと比べて物語としては最もシンプルで、突拍子もない展開も用意されていない。監督が言うように「リアルにつくったらR指定になってしまった」というのは本当だろうし、台本を読んだフィッシャーにフェイスブックなんて誰もやってないと言われ、インスタグラムやスナップチャットをメインにしたのも可能な限りリアルに寄せなければ当事者たちに伝わらなくなってしまうと思ったからだろう(ちなみに監督のボー・バーナムはユーチューバー出身)。もはや『ヘザーズ』のウィノナ・ライダーや『ミーン・ガールズ』のリンジー・ローハンでは若い世代のロール・モデルにはなりようがないと。

 この作品に自尊心を回復する方程式が示されているわけではない。そんなものがあれば誰も苦労はしない。しかし、日本人はこういった作品をもっと深刻に受け止め、ある程度のフォーミュラを導き出すぐらいの努力はした方がいいのではないかと思う。子どもたちが様々な困難にあっても成長することはなく、ただ何かを失っただけで、元の日常に戻れたことに感謝するというエンディングの娯楽邦画ばかり観ていても、それは「世界と出会い、圧倒されてしまう」状態を長引かせ、悪くすれば隷属状態を再確認しているだけで、いつまでも小学5年生のメンタルから逃れることはできない。安倍政権によってゆとり教育が覆された経緯には様々な思惑が絡み合っているのでひと言で表すことは難しいけれど、要は自由裁量に大きな価値は認められず、工場労働者を大量生産するための教育方針に回帰してしまったことは確かだし、そうなると自尊感情はやはり不要なのかもしれないけれど、自尊感情が低いことはどう考えてもグローバル時代には不利だし、日本はこれまでひとり当たりのGDPは低くても人海戦術でそれをカヴァーしてきたようなところがあり、ということは人口が減少し、この25年で約600万人も労働人口が減ったということは(第2次世界大戦で死んだ日本人は約300万人)、これまでと同じやり方ではGDPは下がる一方でしかない。いまでもかなり貧しい国になってきたというのに、さらに落ちぶれて、21世紀後半には中国に出稼ぎに行く人も出てくるかもしれない。ゆとり教育がうまく行かなかったのは社会に多様性を受け入れる準備ができていなかったからで、むしろ受け入れる側に自尊心が備わっていなかったことが問題だったのではないだろうかと僕は思う。東京電力の旧経営陣じゃないけれど、責任を引き受けるべき役付きの人たちが必ずしもそうした役職に見合った行動を取らない場面はしばしば目にする。日本の子どもが自尊感情を回復できないのは親に自信がないからだという分析もあることだし、だとしたら、これはデフレ・スパイラルよりも恐ろしい負の連鎖に陥っているということではないだろうか。

 アメリカではSNSの弊害が本当に大きく議論され、これによって損なわれるものからなんとか脱却しようという機運がこの作品からは力強く感じられる。ケイラ・デイはネットからダメージを受けるわけではなく、自分を保つためのツールとして利用しているものの、そのまま続けていれば鬱になることは誰の目にも明らかだったし、それが救いにはならず、どこかに繋がっていくストーリーではなかったことはやはり象徴的だった。劣等感や不安を増大させるとして英王立公衆衛生協会(RSPH)によって17年に最悪のSNSと断じられたインスタグラムはこの5月から「いいね」を非表示にするテストを始め、日本でも9月26日からテストを開始、早くも利用者から大きな反発が巻き起こっている。

Maria Chavez - ele-king

 瀟洒な作風で知られるテック・ハウスのプロデューサー、ステファン・ゴールドマンに「Ghost Hemiola」(13)というアナログ盤のダブル・パックがあり、それぞれのAサイドに音のしない66本のループが刻まれている。本人がユーチューブで使い方を解説しているものを見ると、ターンテーブルの上で回っているレコード盤のループにナイフで傷をつけることでプチッという音が等間隔で再生され、同じことを2枚同時にやることで一種のポリリズムが出来上がるという仕組みになっている。タイトルの「ヘミオラ」というのはポリリズムを表すクラシック音楽の専門用語で、ゴールドマンはなんとも芸術的な手つきでレコード盤に次々と傷をつけていく。かつてはトーマス・ブリンクマンがターンテーブルにアームを2本付けて、やはり2ヶ所同時に音を再生するということをやっていたけれど、アナログDJの技やトリックはさらに広がっていく一方である(なんて)。

 ターンテーブルを使ったパフォーマンスで定評のあるニューヨークの現代音楽家、マリア・チャヴェスはこのダブル・パックを使って11パターンのコンポジションをつくり上げた。プリペアード・ピアノならぬプリペアード・レコードが用意されたということ以外、あとはどこをどうやっているのかはさっぱりわからない。『Plays (Stefan Goldmann's Ghost Hemiola)』と銘打ってはいるけれど、明らかに「Ghost Hemiola」から得られた音は素材に過ぎず、様々なプロセッシングを施したものが完成形となっているはずである(もしかすると米電子音楽のパイオニアであるウサチェフスキーがすべてライヴでエフェクトを加えていた例もあるので、本当に「Plays」だけなのかもしれないけれど)。レコード針と溝が擦れ合う擦過音だけが素材のはずなのに、その表情はあまりにも多岐にわたり、商業主義とはかけ離れた地平で繰り広げられる無邪気さはとても伸び伸びとしていて、妙な爽やかさまで感じられる。レイアーを重ねたドローンなどはすでにクリシェと化して久しいにもかかわらず、バジンスキーやケヴィン・ドラムに感じられる老獪さとも無縁で、DJワークをベースにしているからか、随所で遊び心が炸裂し、現代音楽といえば不条理なトーンを醸し出すという図式にも当てはまらない。それでいてヘンな音が出ることに感覚のすべてを任せっきりにしてしまうダグラス・リーディーやスペース・エイジの時代とも違い、頭の中をほぐしてくれるような現代性もある。それはきっと2019年に特有の感情表現が成立しているということなのである。全体的な構成は静から動へ。そして淀みと混沌の対比へ。

 ここにあるのはローレル・ヘイローやベアトリス・ディロンが現代音楽やミュジーク・コンクレートをDJカルチャーの磁場に引きずり込んだのとは正反対に、DJカルチャーの養分を現代音楽に注ぎ込もうという試みだと思う。現代音楽がDJカルチャーに寄生するのはこれが初めてではないし、カールステン・ニコライのあたりはすでに境界線は溶けきってしまった感もある。マヤ・ラトキエがポップ・ミュージックのメディアで評価される時代が来るとはまさか思わなかったけれど、ホットなジャンルがお互いに刺激し合わない方がウソだし、ターンテーブルが果たした役割はおそらくミュジーク・コンクレートの時期のシンセサイザーに匹敵するものになりつつあるのだろう。かつてフィリップ・グラスが1銭も手にすることができなかった数々の奨学金や助成金を手にしたマリア・チャヴェスはマース・カニンガム・ダンス・カンパニーのレジデントとなり、ターンテーブリストの草分け的存在であるクリスチャン・マークレイとも共演、さらにはパウウェルやリック・ウェイドといったDJカルチャーのプロパーだけでなく、サーストン・ムーアやリディア・ランチといった野獣のようなアウト・オブ・アカデミズムとも親交を持っているという(『いだてん』で勇壮としたサウンドトラックを奏でる大友良英とも)。マリア・チャヴェスはペルー生まれ。ターンテーブリズムに関する著作も。

Sequoyah Murray - ele-king

 アトランタといえばいまじゃトラップのいわば聖地だが、セコイア・マーレイ(Sequoyah Murray)を虜にしたのはグライムスだった。そして彼はエレクトロニック・ミュージックに興味を抱き、地元のDIYコミュニティや即興/ジャズのシーンに出入りした。マーレイが今年の5月に〈スリル・ジョッキー〉からリリースしたデビューEP「Penalties Of Love(恋の罰)」は、“黒いアーサー・ラッセル”としてこぞって評価されているが、22歳になったばかりの若者の才能には、もっとさまざまな感覚が詰まっているという点において自由で、魅惑的かつ新鮮であることが先日リリースされたばかりのファースト・アルバム『Before You Begin』によって明らかになった。
 3オクターヴほどの音域を行き来しながら、バリトンヴォイスを自在に操るマーレイのヴォーカリゼーションは、ありし日のビリー・マッケンジーのようである。たしかにアーサー・ラッセル風だった「Penalties Of Love」とはまた違って、『Before You Begin』はグライムスの影響から来ているのであろうシンセポップ風の曲もあることも一因となって、色気と荘厳さを兼ね備えたマッケンジーを彷彿させる。つまり、イヴ・トゥモアがデヴィッド・ボウイならこやつはロキシー・ミュージックだ。恋がはじまったら、やがて終わりゆくであろうその甘美な時間は、しかし終わってはならない、断固として。

 両親ともに音楽家で、家にはプロのドラマーの父が作ったスタジオがあるという恵まれた環境で育ったセコイア・マーレイはポップスも大好きで、とくにビヨンセのファンであることを公言している。終わってはならない甘美な時間はポップスの本質でもあり、本作においてはミルトン・ナシメントとトロピカーナからの影響もあるそうだ。色気に満ちた声と実験性のあるポップ・サウンド(ゴスペル、アフロ、ラテン的サイケデリア)との素晴らしい結合は、この先大きな舞台にも昇りそうではあるが、ある記事によると今年ベルリンでマイク・バンクスに感銘を受けたというから、この若者はまだまだいろんなものを吸収していきそうである。
 近年はOPNであるとかローレル・ヘイローであるとか、ドレイクやジェイムス・ブレイクもしかりだが、ゼロ年代後半に脚光を浴びはじめた人たちもすっかりベテランと呼べるような年になって、そして同時に今後10年に重要な働きをしそうな若い世代が出はじめている。が、それにしても“Penalties Of Love”はキラーすぎる。

プライベート・ウォー - ele-king

 国境なき記者団(RSF)の発表によるとシャルリー・エブド襲撃事件が起きた15年に世界中で殺害されたジャーナリストの数は110人に及び、紛争地以外でジャーナリストが殺されるという傾向はこの年から強くなったという。昨年はトルコの領事館でサウジアラビアのジャマル・カショギや、ブルガリアでEUの不正会計を調べていたビクトリア・マリノバと同じくスロバキアのヤン・クツィヤクが殺され、アメリカでもキャピタル・ガゼット紙が襲撃されるなど殺害されたジャーナリストの数でアメリカが世界第5位に入るという現象まで起きている。それ以前はやはり戦場や紛争地帯が主な殺害場所であった。世界中で88人のジャーナリストが犠牲になったという12年は圧倒的にシリア、そして、ソマリアとパキスタンでジャーナリストの多くが亡くなり、そのなかのひとりである英サンデー・タイムズの特派記者メリー・コルヴィンがシリアで死亡するまでを追った伝記映画が『プライベート・ウォー』である。彼女は明らかに戦争中毒だった。レバノン、イラク、チェチェンと紛争地帯を渡り歩き、86年と11年にはカダフィ大佐への取材に成功している。

 タミール・タイガーと接触するところから話は始まる。MIAの父親が指導層にいたことで知られるスリランカの武装グループであり、この時、銃撃戦に巻き込まれたことでコルヴィンは左目を失う。なかなか痛ましい始まりではあるものの、カメラが彼女の内面や葛藤に踏み込んでいく気配はない。コルヴィンに引っ張り回されて、いつのまにか自分も戦場に立っているような気がしてくる撮り方が続く。それこそキャサリン・ビグローがアカデミー賞をゲットした『ハート・ロッカー』(08)がイラク戦争を批判する目的で戦争中毒を扱ったのに対し、戦争そのものに深く考察を加える様子はなく、映画の主題はあくまでもジャーナリズムの意義に当てられている(監督自身は「ジャーナリズムへのラブレター」とコメントしている)。そして、それも、哲学や思想が彼女の戦争中毒を飾り立てるわけでもなく、なんというのか、「こんな女性がいたよ」といったクールな捉え方で、良いも悪いもなく、必要以上に心を揺さぶろうとする場面も差し挟まれない。メリー・コルヴィンの行動を広くパブリックに問うものではないという意味で『プライベート・ウォー』というタイトルにしたということなのだろうか。だとすれば、それこそ安田純平を巡って激しく巻き起こった自己責任論に直結してしまうタイトルである。

 2年後、コルヴィンはイラクにいる。大勢の人々がクエート人の遺体を掘り返している。サダム・フセインが処刑を実行したかどうかを確かめるためで、予想通り遺体は発見され、遺族たちは大きく泣き崩れる。これもコルヴィンのスクープとなる。ロンドンに戻ったコルヴィンはPTSDと向き合うことになり、治療のために入院するものの、作品のトーンは変わらない。戦場にいる時とまったく雰囲気が切り替わらない。マシュー・ハイネマン監督は「彼女の人生はゆっくりとコントロール不能なスパイラルに陥ってしまった」と表現している。そして、それは監督自身が麻薬カルテルや戦争ドキュメンタリーなどを重ねて撮ってきたことで「奇妙なスリルを感じ、心に闇が宿るような体験をしたこと」に通じるものがあると話している。そう、ハイネマンはシリア内戦を扱った『ラッカは静かに虐殺されていく』(17)というドキュメンタリー映画で大きな注目を浴びた監督であり、同作はハリウッド・セレブたちにある種の熱狂を呼び起こしたと伝えられている。そして、そのハイネマンが初めて手掛ける劇映画のプロデューサーに就任したのがシャーリーズ・セロンと、主役のメリー・コルヴィンを演じたのはロザムンド・パイクだった。セロンがフュリオサ大隊長の役で砂漠の大戦闘を繰り広げた『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』(15)はいまだ記憶に新しい。パイクも『ゴーン・ガール』(14)のことばかり言われるけれど、『プライベート・ウォー』の前には『ベイルート』(18)でやはりレバノン内戦を扱った映画に出演し、ヴァニティ・フェアに『プライベート・ウォー』の元になる記事が掲載されてから、コルヴィンにずっと興味を持っていたというのである(またしてもヴァニティ・フェア!)。ハイネマンも、セロンも、パイクもいわばコルヴィンと同じ「コントロール不能なスパイラル」に足を踏み入れているのだろう。彼らだけではない。コルヴィンが再びアフガニスタンの地を踏んだ時、観客も少なからず気分が落ち着いたのではないだろうか。戦場が非日常には感じられない空気があるとしたら、この作品は少なくともそれを表現することには成功している。戦場が怖くなくなってしまう感覚はクライマックスをクライマックスと感じさせない流れをつくり出していく。

『プライベート・ウォー』とは関係なく、続けて『ハミングバード・プロジェクト』を観に行った。監督のキム・グエンは題材の見つけ方がユニークで、彼の名前だけで僕はいつも観てしまう。とくに『魔女と呼ばれた少女』(12)は近年、アフリカを舞台にした映画ではベストに思えた作品である。ゼロ年代と比べて大作も減り、アフリカに対するヘンな幻想が再燃しているなか、同作が運んできた現実とファンタジーの融合は実に斬新だったし、続いて北アフリカのパイプラインをデトロイトの管理会社がモニターで監視するという『きみへの距離、1万キロ』(17)にはグローバリズムを生々しく体感させられ、奇抜な設定だけで呑み込まれてしまった。遠い距離を移動することがグエンの作品に共通するテーマのようで、それは『ハミングバード・プロジェクト』でも順当に繰り返されている。今度はニューヨークからカンザスまで地下ケーブルを引く話である。実話を元にしていて、それだけといえばそれだけ。株取引のために通信の速度を上げるのが目的で、「0.001秒の男たち」という副題は、観ていると、あーなるほどと思えてくる。ジェシー・アイゼンバーグ演じるヴィンセント・ザレスキは証券会社で働きながら地下にケーブルを引くことで飛躍的に株取引のスピードを早められると考え、アレクサンダー・スカルスガルド演じるシステム・エンジニアや投資家の大御所を口説いて大掛かりなプロジェクトを秘密裏にスタートさせる。この計画にサルマ・ハエック演じる社長のエヴァ・トレースが気づくかどうか。株取引のスピードを上げることに関してはトレースもかなり汲々としたものがあり、彼女は終始一貫、鬼のような経営者ぶりを見せる。『プライベート・ウォー』が戦争中毒なら『ハミングバード・プロジェクト』はまさに資本主義中毒である。戦争中毒と違って、資本主義社会に生きている者なら誰もがコントロール不能なスパイラルの入り口には立たされているわけで、その果てにいる人間たちを『ハミングバード・プロジェクト』は映し出していく。

 原作は、『マネー・ショート』(15)や『マネー・ボール』(11)を書いたマイケル・ルイス(今度はヴァニティ・フェアではなかった)。高速取引の実態を暴いた『フラッシュ・ボーイズ』(文藝春秋)がアメリカで刊行されると、株の高速取引は違法になったといい、これはこれでジャーナリズムのパワーを再認識させられるエピソードといえる。株の高速取引というのは、誰かが株を買おうとして発注をかけると、その株を買い終わる前に、対象となる株と同じ株を安く仕入れて、その株を掴ませてしまうことである。いってみれば時間を止める薬を手に入れて、自分の都合のいいようにパッパと株の配置を替えて、利益を上げるようなものである。それを回線の速さとアルゴリズムで実現していく。『ハミングバード・プロジェクト』が描くのはそのようなインフラ・マジックで、法律ができる前に新たな稼ぎ方をひねり出すという意味ではフロンティアの開拓である。日本の新自由主義者たちは既得権益を攻撃し、政府に規制を緩和させてビジネス・チャンスを得ようとするものが大半だろうけれど、この作品で展開されているのは誰かの分け前を分割して自分のところに引き寄せるのではなく、何もなかったところからお金を生み出そうという精神といってもいい。そして、キム・グエンが果たして、彼らをどのように描いているかというと、ハイネマンが描いたメリー・コルヴィンと同じように「この人は生きた!」という満足感を伴ったものになっている。彼らのやっていることにまったく否定的ではないし、ある種の青春映画のようなムードさえ漂わせている。そう、『プライベート・ウォー』と『ハミングバード・プロジェクト』を2本立て続けに観て、何かの中毒ではない僕はまるで「生きていないのではないか」という思いが残るほどであった。なんというか、自分を見失いそうである。

 ちなみに『プライベート・ウォー』の主題歌はアニー・レノックスが手掛けている。この作品を観て。彼女は8年ぶりに曲を書いたという。


『プライベート・ウォー』予告編

『ハミングバード・プロジェクト 0.001秒の男たち』予告編

Have a Nice Day! - ele-king

 Have a Nice Day!のライヴはすごい。“FOREVER YOUNG”であらゆる場所をパーティ・フロアに、“FAUST”でオーディエンスを昇天させる。2011年新宿のアンダーグラウンドを拠点に活動を開始、数年のうちにわずか数人のフロアからZEPPまで駆け上ったHave a Nice Day!の原動力となったそれら代表曲が新録音でアナログ発売。
 カップリングは日本のパーティ・シーンにおけるバレアリック・スタイルのオリジネイター、YODATAROと東京のハウス・シーンを20年渡って牽引してきたSugiurumnによる本格的フロア・リミックスを収録。世代を超えて、ダンスしよう。
 

7インチの先行予約受付中!
FOREVER YOUNG
https://store.kilikilivilla.com/product/receivesitem/KKV-094VL

FAUST
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