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エイフェックス・ツイン版『ムーミン』、あるいは『風の谷のナウシカ』と『デビルマン』の合体。このインパクトはすでに年間ベストでしょう! 1年間に観る映画の本数が去年から10分の1ぐらいに減ってしまったので、年間ベストもなにもないような気がしますけど、「年間ベスト!」というフレーズはある種の感情表現ということで……(なにせ「情の時代」だそうですから)。
是枝裕和監督『万引き家族』がパルムドールに輝いた71回カンヌ国際映画祭で「ある視点」賞グランプリを受賞したのが『ボーダー 二つの世界』。監督はイラン系デンマーク人のアリ・アッバシで、僕はまったく聞いたことがなかった名前。マジック・リアリズムに強く影響を受けたという81年生まれだそうで(これはまあ、観れば納得)。原作と脚本が『ぼくのエリ 200歳の少女』(08)の原作者ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストだと知り、珍しく試写の初日が待ちきれなかった。暗い森に人が佇むヴィジュアルも想像力を煽りまくる。リンドクヴィストの作品はこれまで必ずモリッシーとどこかで関係づけられていたものの、今回はそういったエンゲージメントはなさそう。アッバシ監督は『ぼくのエリ』に衝撃を受けて、リンドクヴィストの作品に興味を持ち、『ボーダー』の原作に辿り着いたという。リンドクヴィスト本人も共同脚本に参加し、『ぼくのエリ』同様、その完成度に自分はなんて恵まれた原作者だろうと感慨もひとしおだったという。吉田秋生にはけして訪れない幸福感ですね。
『ボーダー』というタイトルには様々な意味が含まれていて、まずは国境を意味するスウェーデンの税関から話は始まる。ティーナは巨大な客船が停泊する港を見つめ、足元にいるコオロギをつまんで、それを葉っぱの上に戻す。最初に見たときはすぐに忘れてしまったシーンだったけれど、2度目に見たときはここは「あっ」と思う場面であった(これから観る方はこのシーンのことを覚えておいて)。カメラは終始ぶれていて、画面が手ブレで揺れる作品には傑作が多いという法則をそのまま予感させてくれる。ティーナは客船から降りてくるカスタマーが違法なものを持ち込まないかと監視する仕事についている。彼女が使うのは金属探知機とかX線検査装置ではなく自分の鼻。到着ロビーに向かうカスタマーを適宜呼び止めては手荷物の取り調べを行い、巧妙に隠された禁制品を提出させる。違法なものをバッグに忍ばせている客がいると彼女はなぜかこれに気づいてしまうのである。仕事が終わるとティーナはロバートが待つ郊外の家へと帰っていく。森の中に立つ家には彼と、彼の飼っている大型犬がいて、ドアを開けると犬は彼女を噛み殺す勢いで吠えかかる。ロバートが犬を押さえつけている間にティーナは森へ息抜きに出かけて行く。森で遊ぶシーンはこの後、何度も繰り返され、自然はどんどん濃度を増していく。日常生活はこの繰り返しのようで、とくに面白くもないけれど、彼女はそれなりに平穏な日々を過ごしているといった感じ。ある日、ティーナは警察に呼び出される。彼女が税関で没収したメモリーカードに児童ポルノの映像が収められていたのである。警察は「どうしてわかった?」とティーナに訊く。彼女は中身まではなんだかわからないけれど、犯罪の臭いは嗅ぎ分けられると説明する。警察は児童ポルノの組織を一網打尽にするためにティーナに協力を要請する。彼女はあっさりとその拠点を突き止めてしまう。証拠がないと警察はためらいを見せるものの、ティーナは捕まえなければいけないと力説する。なぜ、ここで彼女の倫理観を突出させるのか。原作にはなかった北欧ノワールの要素を加えた理由はエンディングまで明かされない。
いつものように税関に立っていると、また、ティーナの鼻はヒクヒクと動き始める。怪しげな男が通りかかり、ティーナは別室へ男を連れて行く。男はヴォーレという名で、手荷物からは虫を孵化させる装置が出てきた以外、とくに違法なものは出てこない。諦めきれない彼女は食い下がり、身体検査をするように男性の同僚を促す。(以下、ネタばれ)検査を終えた同僚はバツの悪い表情で、男ではなかったことをティーナに告げる。彼女はヴォーレに謝罪する。ヴォーレは終始ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべている。
ティーナ役のエヴァ・メランデルも、ヴォーレ役のエーロ・ミロノフも、実は入念に特殊メイクを施され、非常に醜い外貌になっている。ティーナは自分の醜さを遺伝子異常のせいだと解釈しているものの、実は彼らは人間ではなく、フィンランドでトロールと呼ばれる妖精なのである。そのことが次第に明らかになってくる。北欧各地に伝えられるトロールを可愛らしく表現した代表がトーベ・ヤンソン『ムーミン』なら、最近ではとてつもなく恐ろしいものとして描いたのがアンドレ・ウーヴレダル監督のモキュメンタリー『トロール・ハンター』(10)であった。トロールのイメージにはあまりにも幅がありすぎて北欧諸国の温度差を上手くストーリーに反映させていることが日本人には少しばかり分かりづらいところもある。しかし、それを補って余りある描写が『ボーダー』の中盤から後半にかけてこれでもかと展開されるので、『ぼくのエリ』でヴァンパイアが見事に現代性を帯びていたように、『ボーダー』に援用されたトロールという概念も様々な解釈を引き出せる触媒として最大限の効果をあげていることは伝わってくる。ギレルモ・デル・トロは「特殊メイクに興味があるなら、これ以上に良い作品はない」と最大級の賛辞を寄せ、人類を悪とみなす彼の哲学がこの作品によってはるかに高い次元で完成していることを素直に認めている。『ボーダー』が描き出すのは人種問題であり、マイノリティであり、環境問題であり、幼児虐待であり、ジェンダーや美醜の問題と、人類がいまこの地球で経験しているホットなトピックのすべてといっても過言ではないほどあらゆる要素が絡み合っている。トロールという比喩に託されているものは無限大の要素に感じられ、そのどれかにフォーカスして論じてもこの作品からは遠のくだけというか。ちなみに『となりのトトロ』のトトロもトロールである。
感じることが多過ぎて、観ている間は考えが追いつかない作品だった。そして、作品の衝撃が少しずつ遠のいてくると、僕の頭には「叩き起こされるルーツ」という問題意識がぼんやりとかたちを取り始めた。ISでもいい。ネトウヨでもいい。ありもしない伝統やルーツに染められて自らのアイデンティティをそれに譲り渡してしまうという現象が世界各地で起き、ヘイトクライムへと発展していく過程を僕たちはいやというほど目撃してきた。ティーナに起きたこともそれと同じである。父親に本当の名前を教えられた時、彼女は「美しい」と思わず呟いてしまう。この瞬間、彼女の中で美醜が文脈を入れ替えたことは明白である。これがネトウヨであれば教科書に書かれていた歴史がインターネットに書かれていた歴史によって覆された瞬間に等しい。ティーナは自分がどこから来たかを「知る」。監督は政治性とは距離を置いた表現だと発言しているけれど、そのことが許されるのはトロールが実際に存在すると信じられる人だけだろう。そういうものに僕もなりたかったけれど、監督の願いには無理がある。ティーナは選ばなければいけない。観客の多くはヴォーレが彼女に向かってトロールの子孫を繁栄させようと提案した時、どう感じただろうか? そうすべきだと思った人の方が数は多いのではないだろうか。アッバシ監督は彼女が置かれた状態をさして「アイデンティティを選ぶことができる人」と表現している。その苦しさは彼女をいくつかの行動に駆り立てる(ティーナが墓の前に立ち尽くすシーンはアピチャッポンの問題意識に通じるものがあった)。ティーナの心はスクリーンで展開されていた場面よりも混乱し、ところ構わず彷徨っているように感じられた。ティーナが最後から2番目と3番目にとった行動は驚くべきものだったろうか。彼女はそして、最後にコオロギをつまみ上げ……
デル・トロがこの作品を評価しているのは特殊メイクもさることながら、やはり、この世界を否定する強さにあるのだろう。『ぼくのエリ』や『シェイプ・オブ・ウォーター』も同じ結論だったけれど、そのような否定的感情を生み出してきたものは「誰かが犠牲にならなければ共同体はなりたたない」という力学そのものであり、そのようなかたちでしか存続できないのであれば人類はなくなった方がいいという倫理観に正統性を感じてしまうことに尽きるだろう。そのような傲慢さから人を遠ざけてくれるものをかつては宗教と呼び習わしてきたのに対し、ティーナが選択したものは俗流のヒューマニズムに近く、宗教の両義性には遠く及ばない。だとすれば、僕はティーナは最終的には育ての親を受け入れるしかなかったと思うのだけれど、環境もルーツも否定してしまった彼女に残されている道ははたしてあるのだろうか、それを考え続けるための映画ではないだろうかs。
なお、本作の上映に併せて『ぼくのエリ 200歳の少女』もヒューマントラストシネマ渋谷で一週間だけの再上映が決定しています。
三田格