「Noton」と一致するもの

Klara Lewis - ele-king

 彼女の名はクララ・ルイス。1993年生まれ。あのワイヤーのグラハム・ルイスを父とする若きサウンドアーティストである。2014年に〈エディションズ・メゴ〉からファースト・アルバム『Ett』をリリースし、同年、ペダー・マナーフェルトの自主レーベルからEP『Msuic』も発表した。2作とも融解した映画のサウンドトラックのような雰囲気を漂わし、いわば強烈な物語性というより、あらゆる記憶が溶け合った音響空間がじつに魅惑的な作品であった。明晰なグリッドから感覚的な曖昧へ。
 
 そう、彼女の音には、魅力的な「曖昧さ」があるのだ。感覚的な何か、といってもいい。グリッド状の支配から揺らぐ音へ。彼女のドローンは、リズムは、ノイズは、われわれの時間軸を揺らす。アンビエントにしてはビートがあるが、かといってリズムに支配されているわけでもない。環境音と環境音が編集され、それらは明確なリズムを作るまえに、変化を遂げていく。そう、いくつもの音の輪郭線が重なり、どんどん曖昧になるように。しかし、だからこそ音楽の存在感はいっそう強まるのだ。静寂のなか、遠くに聴こえる鼓動のように。もしくは闇夜の響く、微かな物音のように。そのサウンドを一聴し、父であるグラハム・ルイスとブルース・ギルバートによるドームのようだという方もいるだろう。たしかに。だが、ここには新世代ならではの音響感覚が横溢している。それは何か。ひとことでいえば音の「細やかさ」である。デジタル以降の微細なエディット感覚とでもいうべきか。幽玄にして微細。グリッドの格子状の時間支配から自由に逃れていくような繊細な感覚。いや、逃げ去っていく自由、とでもいうべきか。

 そのクララ・ルイス、2年ぶりの新作が〈エディションズ・メゴ〉からリリースされた。アルバム名は『トゥ』。あの傑作EP『Msuic』を経由したこの新作において、彼女は彼女の独創的なサウンドをより突き詰めている。断言しよう。これはかなりの傑作だ。〈エディションズ・メゴ〉傘下の〈スペクトラム・スプールス〉からリリースされたセカンド・ウーマン『セカンド・ウーマン』(こちらもポスト・マーク・フェルな超傑作!)、イヴ・ドゥ・メイの新譜、そして本体〈エディションズ・メゴ〉かクリスチャン・フェネスとジム・オルークのデュオ盤、ピタ『ゲット・イン』、コー『ミュージック・ヴォル』などなど本年大充実の〈エディションズ・メゴ〉界隈にあって、現在、もっとも注目すべき新世代のアルバムではないかと思う。ダークな不穏な物語性で補完されていったテン年代初頭的なインダストリアル/テクノも、快楽的なアンビエント/ドローンも、同時代的なポスト・インターネットも、クララ・ルイスの「明るくはないが暗くもない」浮遊する音響/時間感覚によって、(いったん)乗り越えられたのではないか、という大袈裟な断言も思わずしたくなるほどだ。じっさい、本作のサウンドテンマテリアルの選別は、これまで以上に厳選されている。環境音や音響のエディットにはまったく迷いがない。彼女が捕まえた音たちの存在感は、前作を軽く超えている。同時にすべてが曖昧になっていく感覚もやはり健在である。環境音、ノイズ、リズムのなどのサウンド・マテリアルは、反復と非反復の中で、暗闇の中の蝋燭の光のようにユラユラと揺らいでいくのだ。

 時間を逆行するような持続音とガソゴソとしたサウンドが、やがて霧の中の叫びのようなノイズに行きつく1曲め“ビュウ”から作品世界に惹きこまれてしまう。続く2曲め“ツウィスト”の乾いた鉄のような音の響き。そこに重なるドローンとリズムの細やかさ。タイトル曲である3曲め“トゥ”のインダストリーでありながら、過剰なダークさに行き着く手前で浮遊するようなコンポジションの見事さ。深海の中で聴く鼓動のようなリズムが響く4曲め“エルス”と5曲め“ウォント”の柔らかさ。霧のようなダーク・アンビエントが折り重なり、そこにシネマティックなヴォイスたちがレイヤーされ、かつて観た映画の記憶と溶け合うような6曲め“ビーミング”の幽玄さ。7曲め“ワンス”の朝霧のような清冽さ。鼓動のような4つ打ちのビートと淡い持続音が鳴り響く8曲め“トライ”と、さらに明確なビートが鳴り響くラスト9曲め“アス”の乾いた明るさ(とくに、アス”には一瞬、事故のような演出が仕組まれているので注目してほしい)。全9曲、全編にわたって融解した映画の音響に身を浸すような感覚がジワジワと展開していくのだ。曖昧で、幽玄で、細やかで、唐突で、慎ましく、しかし大胆に浮遊する淡い音空間。

 これだけ充実のアルバムながら、総収録時間は40分に満たない。昨今のアルバムにしては短い収録時間である。しかし聴いている間も、聴き終わった後も、時間感覚が揺らぎ、40分弱というクロノス時間が無化するような感覚が持続していくのだ。環境音とソフトなノイズが誘発する睡眠と覚醒のあいだ? われわれはこのアルバムを聴きはじめると、クララ・ルイスの作り出す時間の中を連れて行かれるのだ。まるでルイス・キャロルの小説のように、である……。そう、奇妙な夢の中へ……。

Various Artists - ele-king

 わたしたちはどこから来たのだろう? アメリカの音楽家たちが繰り返し実践してきたその問いが、いまこそ切実な問題として立ちあがっている。オバマの8年間でアメリカはもっとも二分したとも言われているが、なにもオバマの政治のせいだけではないだろう。オーランドーで発生した最悪の銃乱射事件がすぐに政治的な議論にスライドしているように、非常事態はいま目の前にあって、だがそれすらも分断された立場からのステートメントとして利用される。わたしたちはどこから来たのだろう……理念はどこにあるのだろう。ケンドリック・ラマーとビヨンセはアフリカを向き、ボブ・ディランはフランク・シナトラの時代の「スタンダード」をさらに探究する。そしてインディ・ロックのコミュニティはここで、60年代の西海岸との繋がりを思い出そうとする。

 2009年に発表されたエイズ・チャリティを目的とする『ダーク・ワズ・ザ・ナイト』は当時のUSインディ・ロック・シーンの充実を示したランドマーク的なコンピレーションだったが、本作はその続編であり、そしてザ・グレイトフル・デッドのトリビュート・アルバムである。キュレーターは引き続きザ・ナショナルのサウンド面を担当するアーロンとブライスのデスナー兄弟だ。完成までにおよそ4年の時間がかけられたという本作は、全59曲、CDにして5枚組、全部通して聴けば6時間近くかかるという正真正銘のエピックだ。ザ・ウォー・オン・ドラッグスからはじまるように基本的には現在のインディ・ロック・シーンを中心としており、ザ・フレーミング・リップスやボニー“プリンス”ビリー、ウィルコ、ビル・キャラハンといったベテランからジム・ジェイムス(マイ・モーニング・ジャケット)、ジャスティン・ヴァーノン(ボン・イヴェール)、グリズリー・ベアといった中堅どころ、コートニー・バーネットやパフューム・ジーニアス、リアル・エステイト、アンノウン・モータル・オーケストラなどなどイキのいい新世代が参加している。だがそれだけでなく、現在のトレンドのひとつでもあるクラシック勢としてはyミュージックはアノーニとやっているし、タル・ナショナルのようにアフロ・ポップもあればラテンもジャズもパンクもあり、なんとティム・ヘッカーまでいる。いずれにせよ書き切れないのでラインアップはHPを参照していただきたいが、いまもUS(インディ・ロック・)シーンに音楽的な充実があるのだと証明するような気迫が感じられる。

 HPには、これは「隠された宝」なのだと説明されている。隠された……僕は『ダーク・ワズ・ザ・ナイト』のアメリカーナ解釈のほかにもボブ・ディランのトリビュート・アルバムにしてトッド・ヘインズの映画『アイム・ノット・ゼア』のサウンドトラックでもあるコンピレーションを連想したが、しかしディランのような絶対的な存在と比べるとたしかにデッドはどこかで忘れられかけた存在だったのかもしれない。歴史的にカウンター・カルチャーはたしかに瓦解したし、そんななかでも熱心な信奉者が多く存在するがゆえにこそ、一時はアンクールなものとしてみなされることもあったろう。その意味では本作では批評性もありつつ、同時にデッドに対する――まず何よりもその音楽に対しての――素朴な愛と尊敬がある。僕などは聴いていて単純に「こんなに名曲揃いだったんだな」とあらためて感心したし、基調はレイドバックしたロック・サウンドなのでいまの気分ともフィットする。ブルーグラス・シンガーの大物、ブルース・ホーンビィとジャスティン・ヴァーノンのデュエットはほとんどボン・イヴェールを聴いている感覚に近いし、ティム・ヘッカーはほとんどオリジナル曲のようで笑えてくる。59曲というボリュームも逆に言えばどこから聴いてもいいし、自分でプレイリストとして編集できるということでもあり、まさに聴き手に能動的な発見を促すものとなっている。

 だから大前提として音楽的な批評と挑戦が本コンピレーションの目的だが、それでもなぜザ・グレイトフル・デッドなのかは一考の余地があるだろう。サイケデリック・カルチャーのアイコンとして手放しで礼賛しているようではないし、なにせ60アーティストも参加しているのだからそれぞれで思想や政治的立場は異なるはずだ。だが、それでも……聴いているとヒッピー・カルチャーの匂い、ないしはLSDの幻覚をどこかで錯覚するような気分になってくる。たとえばピッチフォークは、ミュージック・コンクレートの要素やカウンター・カルチャーの再考という面から21世紀初頭のフリー・フォークとの連続性を指摘している。社会からの逸脱、コミューン、ドラッグとジャム・セッション、スピリチュアリズム……その60年代の夢が、本当に過去のものになったのかを本作は問いかける。参加したアーティスト自身に、そして聴き手に。そして『ダーク・ワズ・ザ・ナイト』がそうであったように、このコンピレーション自体がいまのアメリカにおけるひとつの緩やかなコミュニティとして存在しているのだ。立場も出自も異なる者たちが、それでも集える「夢」はまだ存在するのか、と。ゆえに非常にアメリカ的なイシューが内包されたものではあるが、日本の片隅で聴いていてもその「夢」を想像させる力が宿っている。

 デッドのメンバーであるボブ・ウィアーはウィルコとザ・ナショナルといった本作を代表する人気バンドとライヴ・テイクで共演しており、そこでは頬が思わず緩んでしまいそうな大らかな演奏が繰り広げられる。過酷な時代からただ逃避するためのサイケデリアではなく、いま一度同じ場所に集まるためのロック・ミュージック、その遺産がそこでは鳴らされている……そして愛が。現代のインディ・ロックの理想主義はなにもバーニー・サンダースの集会にのみあるわけではない……音楽のなかにこそあるのだと、この豊かな6時間からは伝わってくる。

追悼・蜷川幸雄(後編) - ele-king

 前半では、おもに、蜷川幸雄さんと歌手としてのわたしについて書いた。後編では、女優として、蜷川さんの現場に立ったときの、思い出と感じたことを書こうと思う。そしてその後のことも。

  蜷川さんが、チェーホフの「三人姉妹」の、三女イリーナの役を、とオファーをしてくれたときは、天にも昇る気持ちであった。まさか、というか。メインキャ ストだったし、わたしにも、京子やアイドルの方のような華があるのかと、恐る恐るだが思えたし。そのときは、まだ緊張というものはなかった。劇場は今はなきセゾン劇場で、小劇場で演劇をやっていたわたしには、大きく感じた。それくらいのキャパの劇場は、歌手としてなら、幾らもあったが、マイクを使わない、 というのは全く違う。そして、ふと思った。
 蜷川さんは、大きな賭けをなさったんだ、と。わたしを大きな舞台で使う、という(経験でいうと、子役のときに新橋演舞場で出たことがあっただけであった)。しっかり応えなければ、と心で深く思った。
 だが、結論から言えば、うまくできなかったのだ。リアリティーを追求すれば、後ろまで、きっちり通るでかい声が出ない。でかい声を出せば、リアリティーに欠ける。よくある葛藤である。
 しかし、蜷川さんは、決してわたしに
「もっと大きな声で」と注意はしなかった。それどころか、当時、蜷川さんが『鳩よ!』で連載していた対談の連載に、わたしを呼んでくれて、そこでわたしの演技を
「本来の演劇の文法からははずれているけど、僕はあなたの演技を、全面的に肯定しているよ」
とまで言ってくださった。本当に嬉しかった。
 と、いうのも、やはり、現場に入ると緊張感が半端なかったからだ。リアリティーを優先してしまって、大きな声が出ないことも、自覚していたし。

  蜷川さんに、わたしは、一度も怒鳴られることはなかった。わたしが信頼している舞台演出家のうちの別のおひとかたも、怖いとか怒鳴るとかで有名だが、おふたかたとも、怒らないでくれたのは、わたしが無駄に緊張して萎縮し、のびのび演技ができなくなってしまうから、という理由もあるのでは、と思っている。必ずしも、愛され、かわれてる役者ほど、怒鳴られるとは、限らないと思う。
 ちなみに、信じている演出家を具体的に誰、というのではなく、こうしてぼかすことも、人間としての蜷川さんから影響を受けたことなのだ。「インタビュアーに、また一緒に仕事をしたいと思う役者をあげてください、といわれても 僕は答えないことにしている。そこに入ってない役者さんは嫌な想いをするだろうから」とおっしゃっていたのが印象的で、そういう細やかな配慮を、わたしもしなくちゃな、と人間として尊敬し、学んだからだ。

 舞台稽古の初日のことである。わたしは、ベテランの役者さんたちと顔を合わせたことだけで、プレッシャーを感じ、顔合わせが終わってから何気なくリハーサルのすみで壁に向かって、しゃがんでいた(わたしは、気をぬくと、よくしゃがむ癖があった)。蜷川さんは、わたしのところにきてくれて、寝釈迦のように横になった。そして、個人的に話をしてくれた。お芝居の稽古に入ると、それまでと違い、わたしに対して敬語じゃなくなって、それも、よそよそしくなくて、嬉しかった。そして、
「僕はね、戸川さんに、緊張して怖がっちゃうのでなく、逆に、このリハーサルスタジオに来るのが楽しみになってもらいたいんだよね」笑顔の寝釈迦の状態で、そう言ってくれて、わたしはすごく、リラックスできた気がした。

 しかし稽古が始まると、勿論、そういう訳にはいかなかった。なにしろ蜷川幸雄の現場である。

 蜷川さんは、セットの模型を触りながら、
「こうして こうして」
 と、カーテンだらけのセットのカーテンがどれもフワーッと内側に向かって風に揺らいでいる説明をキャストとスタッフにした。まるで、少年のように、わくわくしながら、という感じであった。本当に、本当に、お芝居を作るのが楽しくてしかたない、という風に。アイディアを語っているときの蜷川さんは、目がキラキラしていた。それから、一番後ろの暖炉のセットの上のほうに、誰かはよくわからないくらいのあまり目立たない程度の大きさの、三人の姉妹の亡くなったお父さまのモノクロ写真を立派な額に入れて飾っておくのだが、それが新劇の父、スタニスラフスキーの肖像写真なんだ、過去の人だからね! といたずらそうにニコニコと嬉しそうに言った。
 そして、よりいっそう目を輝かせて、蜷川さんは言った。
「セゾン劇場には、舞台と客席の間に、防火シャッターがあるんだ。」
 長女役の有馬稲子さんの、この劇の、最後のセリフ
「100年後、きっとこういうことで苦しむ人はいない世界になっているはず、そう信じましょう!」といったふうなセリフのあと、いや、100年経っても現代の世の中はこのお芝居と変わっていやしない、この話は古典ではなく現代にも通じる、この三人姉妹が抱いた100年後への希望は打ち砕かれるのだ、という現実の残酷さを表現する為に、すごい音を立てる防火シャッターを降ろしてピシャン! と閉めたいんだ、と、いう。
「だけど、今のところ、目的が防火以外には使えない、というんだよ、頑固だよなー、俺はそこをなんとかするつもりなんだよ!」と続けた。そんな情熱的な蜷川さんを見るのは、皆、好きだったと思う。

 お芝居は、全部で四幕あった。最初のシーンは、わたしが演じる三女イリーナの、今の日本でいう誕生日のような日に、次々と人がお祝いにやってくる、という設定になっていて、それが登場人物紹介、にもなっていたのだと、わたしでなくても解釈できたことだろう。
 ひとしきり登場人物の紹介シーンが終わると、わたしは 、わたしの叔父のような、椅子に座っているひとの、膝にもたれてセリフを言った。およそ100年くらい前の、貴族の娘が、労働に対して、夢を抱くセリフだ。このセリフは、学校以外、ほとんど家から出ることの許されなかった若い頃の自分にそっくり重ねることができる、大好きなセリフだった。叔父さんのひざにもたれて、うっとりと夢を語るわたしに、蜷川さんは、それならいっそ、ステージぎりぎり前まで、叔父さんの手をとって、走って連れてきて座らせてイリーナも座って、セリフ言って! と、蜷川さんが言うのでそうしたら、うっとりと語ったそのセリフが、すごく強調される形になった。セリフが、より立ったのだった。それはかなり度胸のいることだったが、その経験から、その後わたしは、すごく勇気が鍛えられて、「三人姉妹」内でも、他の演劇でも、大胆に演技ができるようになった。
 ところで、わたしの演技だが、わたしにはプランがあった。どんどん、いろいろな経験をして、四幕には大人に成長するイリーナを、演技の質を変えることで、それを表現したい、と思ったのだ。だから、一幕での演技は、大根というか、学芸会のそれ、のような感じに、あえて演った。通る声はしっかり出ていたはずだが、明るいだけの世間知らずの役に、一幕は徹したから、だからますます地もそんな薄っぺらいのではと、ベテランの共演者の方々は、不安に思われたことだろう。

 しかし、蜷川さんは、じっくり見てくれていた。我慢強く見てくれていた。二幕、三幕、四幕、と演技の種類を大人にしていくのを、見ていてくれた。その証拠に、日にちが経ち、四幕まで一通りリハーサルをやったわたしたちに、じゃ、一幕をもう一度、と言って演らせたとき、わたしの演技がケロヨン芝居(子供用の演技を、わたしはこう呼んでいる。ただし、ケロヨン芝居をさせてもらったのは、この一幕のときと、自分で演出して見せてくれと言われた一人芝居の一部だけだと思う)に急に戻ってしまったから、誰かが、やりにくいというようなことを言った。そのとき、蜷川さんは、
「戸川さんは、幕ごとに、演技の質を変えてるからね、許してね」
 と、その人に言ってくれた。
 わかってくれてるんだ! と感激したのを、はっきり憶えている。
 他にもある。三幕で、近所で火事があって、なにしろ貴族の屋敷だから、一階を、家を焼かれた人たちの、避難場所のようにする、という設定の、二階のわたしたちのシーンで、初めてそこを演ったとき、
「もうだめ、もうだめよ!」
 と、わたしの、イリーナの、おさえていたものが、噴出して、崩れていくところで、少し下を向いてカッと見開いたわたしの目から、ぼたぼたーっと涙が、椅子に座っている膝に落ちた。わたしは本来、 涙が出にくい体質なのだ。幼い頃、泣くことを嫌う厳しい父に、泣くと泣きやむまでひっぱたかれた、という教育のせいもあった。だが、そのシーンになると、気持ちが入ってぼとぼと涙がとまらず、さらに、頭がおかしくなってしまった風になって、それまでは「モスクワに行きたい」と言っていたのに、実際はそこのセリフが「モスクワになんて行けないわ!」で、わたしは、そのセリフをゲラゲラ笑いながら吐き捨てるように言った。そのときは、激しい絶望感に襲われ、夢なんか見ていた自らを嘲笑したくなるほど興奮を抑えられない、という意識だったのを憶えている。

 わたしは、しかし、慣れが怖かったから、このシーンはあまり、稽古をしたくないのだけども、と、実はこっそり思いもした。すると、蜷川さんは、皆の前で
「僕はね、このシーンはあまり稽古したくないんだ。慣れて欲しくないから」と、言った。

 思ってることが、まるで同じ、と思うことが、このことを含め、恐れ多いが、沢山あったから、ある意味充実した稽古だったが、わたしの神経は、かなりボロボロだった。
 精神がおかしくなってしまう演技だったのだから。
 新劇のエリートであった次女役の、佐藤オリエさんが、まるで違うタイプのわたしに、実のお姉さんのように、やさしく
「私、あなたのお芝居本当に大好きなんだけど、今のままじゃ、身体を壊してしまうわ、気をつけて。自分を大事にしてあげてね」
 と、涙を浮かべてまで、言ってくれた。有馬さんもそうだった。
 わたしは実生活では二人姉妹の長女だったが、そのときは
「ありがとう、お姉さん!!」
 と、二人もやさしい姉に恵まれた妹になった実感がわいてしまい、胸と目頭が熱く熱くなった。

 話が、わたしの役者として、になってしまっているが、お許しいただきたい。追悼文に相応しくもっと蜷川さんの話を、と思われる方が多いかもしれないが、蜷川さんの現場は、そういう、自分との戦いであったということを記しておきたいのだ。蜷川さんに怒鳴られない、というのは、それほど熾烈に自分を追い込まなければならないことだったのではと今、思い返すからだ。

 さらに、最後のほう、わたしの婚約者が決闘で撃たれて死んだ、ときかされたシーンで、わたしは役に入り過ぎ、本当に一瞬、失神してしまったのだ。有馬さんとオリエさんに抱きかかえられて、床には倒れないで済んだけれど、気がついたとき、「わたしは誰。ここはどこ」の状態だった。蜷川さんは、演劇だから、なにもそこまで、と、どっかいっちゃっても、必ず帰ってきて、と言った。でも、本当に笑顔だった。
 そのシーンは、かなり最後のほうで、有馬さん、オリエさん、わたし、で前へ出て、有馬さんの、100年後に希望を託すセリフで劇は終わるのだが、ある日、セゾン劇場の親会社の巨大企業、×武の、株主の方の奥様方だったと思うが、五人ほどが見学に来ていて、×武社員さんの方もその奥様方を前のほうに椅子を並べて、奥様方と一緒に観ていた。
 蜷川さんは、有馬さんの最後のセリフが終わると、すごいことを言った。ほぼ、奥様方と×武の社員さんの方に向かって、
「×武に良心があるなら、ここで防火シャッターが降りる!」と、大きな声で言ったのだ。
 残念ながら、本番ではとうとう防火シャッターを降ろすことは叶わなかったが。
 しかしわたしは、あのときの蜷川さんは、結構な年齢でも、反逆児だったんだと思った。自分の演出の為なら、大企業に牙をむく反逆児なのだ、と。
 あの、ナイフの青年に、伝えたい。蜷川さんは、アングラの魂の火を消したわけではなかったのだ、と。

 わたし自身、いまアングラ(とは、70年代の言葉のような気がする)、というより、まあほとんど同じ意味なのだけど、略さずアンダーグラウンド、に身を置いているのだろうなと思うが、アンダーグラウンドに身を置いているという重みや誇りみたいなものは、蜷川さんのようには、これといって別にない。世代の違いかもしれないが。蜷川さんは、オーバーグラウンド、メジャーの世界に身を置いて、しかし重いアングラの魂も本当は持ち続けていたのではと思う。そして、ときおりその魂から、その決して消えない火をゴーッと吐いていた気がする。と、いうより蜷川さん自身が、ひとつの大きな炎ではなかったか、という想いだ。
 わたしのことを、よく他の共演者の方々に
「こういう人は、日本じゃあまり見ないけど、外国にはいるの! けっこういるんですよ?メジャーとマイナーの両方で活動してる人は」
 と弁護してくれていた。
 蜷川さんが、わたしに、ちょっと違った良いあたりをしてくれたのは、わたしは半分アングラ、と思ってくれたからではなかったのでは、と思うのだ。

 しかし、あるとき、わたしはあの涙をぼたぼたーっと流していたシーンを、あれは特には涙を流す、とか、頭がおかしくなったように、などとはト書きにあったわけではなかったし、一度だけ新劇のように演じてみようと思い、やってみた。声は気持ち良いほど大きく出た。涙は流れなかった。演劇然、としたものだった と思う。これで良いなら、精神的にまだラクだし、それに声は張れるし、どうなのだろう、蜷川さんの意見がききたい、と思った。わたしがその芝居を始めるや否や、蜷川さんは、ストップをかけて、バーッと説得をしてくれたけど、つまりは元に戻してくれ、という内容だった。
 帰り、わたしが着替えたあと、蜷川さんはわたしのところに来てくれて、戸川さんのあの演技が好きだから、どうかやめないで欲しい、と言ってくれてから、小声で、
「実はね、僕は、お客さんには悪いけど、客席の半分かそれ以上、客席に戸川さんの声が届かなくても、もういい、と思ってるんだ。それくらい、あの芝居を演って欲しいんだ」
 と言ってくれた。
 役者を怒鳴るときは、大抵、
「お前は、志しが低いんだよ!!」
 が口癖だった演出家が、半分かそれ以上、客席に声が届かなくてもいい、と言ってくれたのだ。狭い劇場のアングラなら、問題なかったろう。蜷川さんは、わたしに最終的にそれをやらせることにすれば、他の共演者の方々の演技の質とは食い違い、統制がとれなくなることも承知だったはずだ。わたしに関してだけは、 アングラの魂で接してくれたのかもしれない。

 ただ、わたしが蜷川さんの現場に呼ばれることは、もうないんだな、と思うこともあった。
 対談のとき、わたしの演技を褒めてくれた蜷川さんだったが、紙面上には載らなかったことで、インタビュアーの方が、蜷川さんに
「戸川さんとお仕事なさって、じゃあ、安心なさったんですね?」
 ときいたときだ。蜷川さんは、
「安心じゃないよー! こんな危ない人使うのは怖いよー。ショックで失神しちゃうんだぜ?!」
 と答えた。すごく笑いながらではあったけど、わたしが蜷川さんの立場だったら、確かに不安だったと思う。こりごりだったろう。しかも、声は通らないし、という問題もあったと思う。
 だから、わたしは、そのときこの「三人姉妹」を、蜷川さんとご一緒できる最初で最後の機会、と思い(失神しない程度に)誠心誠意頑張ろう、と思った。

 だけど、「三人姉妹」は、批評家の間で、失敗作のように書かれた、と蜷川さんのところの若い出演者の人からきいた。わたしに関しては、やはり、声が小さい、と書かれていたという。まあ、わたしのことは、むべなるかな、という感じであったが、蜷川さんには、やはり、申し訳なかった、と思った。その若い出演者の方は
「王女メディアのときは、ゲテモノ、って書かれたんだよ?! 批評家なんて、だから気にすることはないよ!」
 と言っていたが、「王女メディア」は、写真しか見たことがなかったが、化粧や衣装が前衛的だったわけだし、今回とは違う、と思った。出演者の声が小さい、というのは、演劇の基本中の基本のダメ出しだから、なんだか責任を感じたりもしたのだ。
 他に、尺が長い、という批判もあったそうだ。それに関しては、何も感じてはいない。
「ペールギュント」のとき、全体の尺が長くなり、途中休憩も挟むことになって、全体で4時間以上になったとき、蜷川さんも悩んだ、という。これは京子からきいたのだが、ジャニーズの、出演者の方々が、
「気にすることなんて何もないじゃないですか! 帰りたいやつは帰らせたらいいんですよ!!」と言ったという。
 だから、わたしも、尺に関しては、普通に、帰りたい人は帰ればよいのでは、とも思ったのだ。

  こうして、「三人姉妹」は千秋楽を終え、打ち上げでは、蜷川さんのおかげで、有馬さんやオリエさんだけでなく、ベテランの出演者の方々から、若い人たちまで、みなさん、わたしにすごく暖かかった。最高齢の90歳を超えてらしたとても厳しい雰囲気の浜村純さんまでが、やさしい言葉をかけてくださった。わたしにとって、忘れられない経験になった。

 その後、しばらくして、わたしは、アンダーグラウンドの世界で生きることになってから、小劇場の形で、シェークスピアの「真夏の夜の夢」のブロークン版を、蜷川さんが演出して、京子も出演したとき、これも京子からきいた話だが、ヘレナという、可憐な、かわいそうな乙女の役に、わたしを起用したい、と最初は思ったそうだ。
 京子は気の強い、ヘレナとは対照的な役であった。それを姉妹でやったら、おもしろいのでは、と思ったという。
 しかしやはり、現実の姉妹でバチバチさせるのは気がひける、と途中でやっぱりやめたんだってー、と京子が言ってくれた。
 ここにも蜷川さんの、繊細さを見てとることができると思う。わたしが思うに、あそこまで超がつくほど大胆な人が、ここまで繊細な意識を持つ、ということは、それはそれは大変なエネルギーが必要だったはずなのだ。普通、どちらかでも大変で、精神的にまいってしまうものだと思うのに。世界のニナガワと呼ばれた、グローバルな視野を持ちいろいろな国で認められている演出家が、ほんの、たった二人の姉妹の間のことに思慮深く慎重にあたる、それほど振り幅の大きな、感性とエネルギー。蜷川さんの偉大さは、そういうところにも裏打ちされていたのでは、と思うのだ。

 そして、小劇場の規模なら、わたしの演技の、リアリティー重視による声の小ささでも、成立する、と思ってくれたのかな、とわたしは、その話だけでも嬉しかった。
 そのお芝居にも、他のお芝居にも、蜷川さんは、お客として招待してくれた。行くと、いつも変わらず、気さくに、やさしく接してくれた。

 それから、蜷川さんが文化勲章を授与された記念のパーティに、わたしはまた招待していただいた。そのときは、現在のように怪我のあとで、後遺症で腰を痛め、3分もシルバーカーなしでは立っていられない身体に、わたしはなっていて、運動ができないので太ってしまっていたから、蜷川さんに会うのが恥ずかしかったけど、寿ぎの席だから、会場に向かった。当然、本当に沢山の有名な役者さんが来ていた。身体を悪くして、役者なんて、途方もないリハビリをもっとして治さなければできない状態のわたしのところにきてくれて、蜷川さんは、やっぱり、やさしい声をかけてくださった。有名な、テレビや映画でも、かなり見るメジャーな世界で現役バリバリの人たちの中で、わたしは何者か自分でもわからなくなってしまうほど浮いていたはずなのに、とまた感動した。何故、こんなに、と不思議ですらあった。

 そして、あの「サワコの朝」を見た。
「諦念プシガンガ」の話ではなかった。蜷川さんは「パンク蛹化の女」も、気に入ってくださっていて、僕も戸川さんみたいにパンク精神で、なんて語る70代の方は、蜷川さんをおいて他にいないだろう。

 曲が番組で紹介されたとき、CDが、娘さんの蜷川実花さんの、
『蛹化の女~蜷川実花セレクション』
のジャケットだったから、蜷川実花さんからの流れで、知っていただいたのかもしれない。だから、あらためて、蜷川実花さんにも、心からお礼を言いたい。

 それから、一昨年の
「冬眠する熊に、添い寝してごらん」
というお芝居でも、蜷川さんはわたしの曲を使ってくれた。

 だから、油断していたのだ。

 そして、突然訃報を受けた。
 大きな大きな喪失感であった。大きな大きな人が逝ったというだけでなく、わたしの中で、これからはひとりで歩いていかなきゃいけないんだぞ、という、大きな大きな意識が、いきなり生じた。それほどの支えが、蜷川さんによって与えられていたんだ、と初めて知った気がした。

 ご葬儀に、わたしにも勿論、参列したいという気持ちはすごくあった。が、わたしのような者は、マスコミの前に出ると必ず、あの人は今、という扱いで、テレビには出ないところで、ゴシップをとりあげる雑誌とかに、そういう内容でマイクとカメラを向けられるのだ。決して自意識過剰というわけでなく、今のある程度の年齢の方以下の歳の人は、それ誰? 知らない、と言うと思うのだが、事務所にそういう取材のオファーが実際今でもあるので、わたしはマスコミの方々のいるところには出れない。ましてや、怪我の後遺症でシルバーカーでとか、太ってしまってとか、なんだか不幸そうな見た目をしていると、ますます、そういう人たちをひきつけてしまう。
 だから、わたしはそれを避けたくて、ご葬儀の朝、マネージャーに頼んで青山葬儀場に弔電を打ってもらい、喪服を着て、薄化粧をして、ふくさに入れた香典袋と数珠を持参し、お昼ちょうどに始まるご葬儀に合わせ、タクシーで葬儀場の近くまで行き、降りて遠くからでも、一瞬だけでも、手を合わせることだけはしたいと思ったが、ガードマンの方々が厳しくどこにも止められなかったのでタクシーの中から、ご葬儀が行われてるほうに向かって手を合わせた。それから、郵便局に寄り、薄墨で弔問文を書いた手紙を添えて、蜷川さんの事務所に喪主の、蜷川さんの奥様宛に香典袋を現金書留で出した。そして帰ってきて、家のたたきで、用意しておいた粗塩を頭からパラバラとかけた。
 それで、参列したこととかえさせていただいた。
 だけど、実際に参列したわけではないので当然のごとく、蜷川さんが亡くなったという実感が、まだはっきりしなかった。
 後日、蜷川さんの事務所の方から、丁寧なお返事をいただいた。わたしの知り合いが、わたしが葬儀場の近くで手を合わせたことを伝えてくれていた。言っていただけたら、マスコミの目に触れないご用意をしましたのに、とのことだった。蜷川家の方々にも感謝の念がたえない。この場をお借りして、蜷川さんの関係者の皆さま方にお礼を申し上げたい。

 それから、参列した知人から、ご葬儀で純ちゃんの「蛹化の女」が流れていたよ、と知らせてもらった。わたしは、それをきいて、やっと自分も参列できたような気持ちになれた。蜷川さんは亡くなったんだ、という実感もやっとわいた。
 そして、蜷川さんは最期の最期まで、わたしの歌を使ってくれたんだ、という想いが、ぐうーっと込み上げて来て、今にも泣きそうになった。

 蜷川幸雄という、ひとつの大きな炎は、めらめらとときには太陽のように燃えて、いろいろな役者を照らし、輝かせた。同時に、その炎に焼かれそうになり、役者も燃え尽きないほどに燃え戦い、結果、多くの役者が成長した。
 だから、蜷川さんの、巨星らしさとは、太陽のそれだったのだと思う。
 そして、演出家・蜷川幸雄の生き方は、それ自体が長く、しかしそれでも凝縮された濃さの、ひとつのドラマティックなドラマ、演劇のようであった、とわたしは思うのだ。
 蜷川さんの激しさは、太陽のそれ、わたしはしばらく、太陽を失った闇の中から出られないだろう。それでも、蜷川さんに、今、役者ができない身体なら、歌ってください! と言われてる気がして、精一杯、今は歌を続けなければ! それがたとえ闇の中であっても、蜷川さんに分けていただいた炎をわたしもめらめらと燃やして、それが一番のわたしなりの供養なのでは、と思う。
 蜷川幸雄という巨星と出逢えたことで、わたしの人生は幸運でした。ありがとうございます!
合掌。

(文中一部敬称略)


戸川純 ライヴ情報

7/8 新宿ロフト(ワンマン)

Danny Brown - ele-king

 デトロイトといえば何よりも先ずテクノだが、もちろんそれだけではない。かの地はエミネムやJ・ディラを筆頭に、多くのヒップホップのタレントを送り出してきた土地でもある。ミックステープとして発表された2011年の『XXX』や2013年の『Old』が各方面から高く評価されたダニー・ブラウンもまた、デトロイト出身のMCである。
 風変わりなルックスと個性的なラップが特徴的なこの異端児(何しろデヴィッド・バーンを「レジェンド」と呼ぶ男である)は、これまでエル・Pやバスドライヴァー、バッドバッドノットグッドのアルバムに参加したり、つい最近ではアヴァランチーズの16年ぶりの新曲 "Frankie Sinatra" にMFドゥームとともに客演したりするなど、様々なコラボレーションをおこなってきた。
昨日、そのダニー・ブラウンがUKの名門レーベル〈Warp〉とサインを交わしたことが発表された。同時に、配信でリリースされたニュー・シングルのMVも公開されている。



 2012~13年頃から台頭してきたチャンス・ザ・ラッパーやミッキー・ブランコ、リーフといった新世代MCの存在や、近年勢いを増しているインターネット上のミックステープ文化は、いまのUSインディ・ヒップホップの盛り上がりを象徴しているが、今回の契約はそのようなシーンの充実に対する〈Warp〉なりの目配りと言っていいだろう。いつも少し遅いが、ポイントは外さない。それが〈Warp〉のやり方である。
 因みに、ダニー・ブラウンの2013年作『Old』にはラスティが参加しており、またラスティの2014年作『Green Language』にはダニー・ブラウンが参加していたので、今回の契約はおそらくラスティの仲介によるものなのではないかと思われる。
続報に注目である。

R.I.P Muhammad Ali - ele-king

 スポーツの場に政治を持ち込むなと人はいう。個人的にその意見には賛同する。いちいち政治的背景を気にしていたら、サッカーなんて見れたものではない。しかし、彼は違った。その全盛期を放棄してでも、行きたくない戦争に反対した。彼はスポーツを通じて社会的な声明を上げて、ポスト公民権運動にも影響を与えた。
 2016年6月3日に永眠したモハメッド・アリは、ある意味すごいタイミングでこの世を去ったボクサーは(#BlackLivesMatter は自らの存在はアリのおかげだと表明している)、死後のシナリオを用意していた。イスラム葬の後には、生まれ故郷であるケンタッキー州西部ルイヴィルの町をまわった。ぼくは先週末の深夜、TVが放映するその光景をずっと、ただずっと見届けた。もっとも人種差別の激しかったその町のなかをチャンピオンをのせた車が走る。現地は素晴らしい快晴で、ルイヴィルはいかにもアメリカ南部の田舎といった風情だった。アリが行く先々で、次々と、人びとがアリを迎える。老人も大人も子供も。ありがとうチャンピオン、おやすみなさい。青空の下、葬儀とは思えないほどの明るさで。どんな映画よりも、それはぼくの目頭を熱くさせた。
 ぼくは現役の全盛期のカシアス・クレイを見ているわけではない。ぎりぎり、復帰してからの試合を見ている世代で、彼の烈々たる人生を理解するのはずっと後のことだった(まあ、ノーマン・メイラーとか読んだり)。とにかく彼の政治的表明は、ぼくが小学生の頃は番組中にあまり語られていなかったように思う。そんな重要なことを、だ。ある意味ノックアウトよりも重要な、現代がまさに直面していることを……、まあ、スポーツの場に政治を持ち込むな、ということなのだろう。
 だが、彼は明らかに物事を変えた。腕っ節が強い以上の希望をもたらしたのは事実だ。ぼくの知り合いには、何十年も前から、気合いを入れるときにはつねにアリのCDを聴いている男がいる。重要なことは、彼が「蝶のように舞い蜂のように刺す」ボクサーだったことなのだろうか。いや、才能に恵まれながら、いままさにその蝶のような華麗さでもって全盛期を迎えようとする20代そこそこで、ベトナム人は俺をニガーなどと呼んだことはないと言ってのけ、キャリアを棒に振ってでも自分を貫いたことなのだろうか。
 もちろんそのどちらか片方だけでは、彼はここまでの大人物にはならなかった。ただ、彼の強さとは、そのパンチだけではない。誰もが言いたくても言えないことを言ったことでもある。ええい、言ったるわいというのは、彼のカウンターパンチのように勇敢だったということだ(ぼくのまわりには、言いたくても言えない人が少なくない。言えない人を責めるなと現代の優しい社会は諭すが、ぜひアリの勇気に学んで欲しい)。
 最後にもうひとつ加えるのなら、彼はパーキンソン病になって、どんなに病状が悪化してもボクシングのことを批判しなかったということだ。彼は、そう、ボクシングが悪かったなどとは言っていない。スポーツマンらしいし、彼にとってのボクシングとはただたんに王座に昇ることだけではなかったからだろう。追悼文が遅れてしまったけれど、偉大なるチャンピオン、ありがとう、おやすみなさい。

Gobby - ele-king

 粗悪なエイフェックス・ツイン・フォロワーといったところだろうか、いや、そんなことを言ったらエイフェックス・ツイン・フォロワーに怒られるかもな。2年前、わりとインターネット・アンダーグラウンド界隈で騒がれた『Wakng Thrst For Seeping Banhee』を聴いたときにそう思った。アルカやミッキ・ブランコなど実に強力なリリースで知られる配信レーベル、UNOからの音源である。
 ジャングル? ローファイ? えー、まじかよ、こりゃひでーや、聴けたもんじゃねーな……しかし、こうしたある種のバッド・テイストがここ数年のUSアンダーグラウンドの支流として確実にある。私見では、OPNの昨年の展開もこの流れに共鳴しているもので、つまり、これはその少し前のチルウェイヴがひっくり返った感性の表出だと言えるだろう。例を挙げればキリがないが、卑近なところを言えば、これとかさ、直感的に言えば、悪戯心満載のTOYOMUがいきなりUSで受けたり、あるいは食品まつりがUSで高評価なのもこの機運に準じているのだろう。
 つまり、ドリーミーからバッド・ドリーミーへの反転である。そして音楽ライターのひとりであるぼくもこの悪い夢に付き合っていると、そういうわけだ。
 そして、これは、最初に(なかば敬意を込めて)粗悪なエイフェックス・ツイン・フォロワーと喩えたように、ゴシック/インダストリアルのディストピックな重々しさ、かったるさとは別物である。驚くほど、シメっぽくない。容赦なく悪い詩。なかばヒステリックだがギャグが混ぜられ、下らない。そういう意味では、AFXの『ORPHANED DEEJAY SELEK』もこの時流に乗っているわけだが……。

J9tZiBwtoxE

 ヴェイパーウェイヴを経て、そして終わって終わってどうしようもなく終わってゴミクズしか残っていない現在へのあらたなる門出なのかどうかはわからないが、もうひとつぼくがここにかぎ取るのは、アンチ・ダンスの意志だ。これはEDMの母国たるUSならではの反応なんだろうけれど、とにかくグルーヴというものがここまで無いのもすごいというか、まあわからなくもないな、ユーロ2016開幕式のデヴィッド・ゲッタの動きなんかを子供心に見ていたら、DJなんかになるものかと誓っただろうし。
 ゴッビーが〈DFA〉からリリースというのは、おや、ここまで来たのか、という感じである。そして、この〈DFA〉レーベルの根底にパンク的なものがもしまだあるのなら(40周年だしね)、これまた理解できる。時代は動き、音楽も動いている、間違いない。ベッドルームは汚れ、そしてポスト・エレクトロニックポップの時代はすでにはじまっている。

talk with Takkyu Ishino × Stephen Morris - ele-king

余計な説明はいらないだろう。5月24日、都内某所、石野卓球とニュー・オーダーのドラマー、スティーヴン・モリスは40分ほど対話した。以下はその記録である。
前日の25日には、バンドは来日ライヴを成功させているが、石野はフロントアクトとしてDJを務めた。彼は、今回のアルバム『ミュージック・コンプリート』からのシングルの1枚、「Tutti Frutti」のリミックスを手掛けている。そして石野は……以下、どうぞ対談をお楽しみください!

失礼ですが、僕がそれまでに観た海外のバンドなかで1番ヘタクソだなって思ったんですよ(笑)。でもね、それがすっごくカッコよくてね。
──石野卓球

石野卓球:僕のニュー・オーダーのライヴの思い出なんですけど、会場は新宿厚生年金会館で、失礼ですが、僕がそれまでに観た海外のバンドなかで1番ヘタクソだなって思ったんですよ(笑)。でもね、それがすっごくカッコよくてね。他のバンドがみんな完成され過ぎていたから、身近に感じたんです。

スティーヴン・モリス:当時の私たちの演奏は「乱雑」って言葉がぴったりだったと思いますよ(笑)。セミ・プロ集団でしたからね。

石野:いやいや(笑)。

スティーヴン:あの日は40分くらいのライヴでしたよね? 1時間やらなきゃいけなかったから、しょうがないからアンコールをやったんですよ(笑)。

石野:僕が行った日の1曲目は“コンフュージョン”だったのをはっきり覚えてます。

スティーヴン:若かったのによく覚えていますね。

石野:『ロウ・ライフ』に関して質問があります。ジャケットにはスティーヴンさんの顔が使われていますけど、当時のロックのアルバムではヴォーカリストやギタリストがジャケットにくるのが普通だったと思います。どうしてスティーヴさんの写真が選ばれたんですか?

スティーヴン:デザイナーのピーター・サヴィルに大金を積んだんですよ(笑)。日本に来たとき、あのジャケットのおかげで、みんなが私のことをシンガーだと思ってくれて最高でしたね(笑)。CDヴァージョンは、カード式にして好きなメンバーをジャケットにすることもできるので、もっと民主的なんです。でも、当時のHMVでは、バーナードの写真を表に出して並べているところが多かったので、私はお店に出向いて自分の面を表にし直す必要がありましたね(笑)。

石野:ははは(笑)。たしか、そのとき、日本のスタジオに入ってレコーディングしたとか?

スティーヴン:そうなんですよ。コロンビアのデノン・スタジオでした。ヴィデオを撮影したので、録音した音を映像用にミックスする作業も行いました。曲は“ステイト・オブ・ザ・ネイション”。あれはとても興味深い体験でしたね。私たちは夜にスタジオに入ったんですが、エンジニアの方は昼間っからずっと働きっぱなしだった(笑)。通訳の女性も同じくすごく疲れていたみたいで、終盤はメンバーが「もっと低音がほしい(More Bass)」と言っても、彼女はエンジニアに向かって「More Bass!」と英語で話しかけてましたね(笑)。

石野:当時のレコーディング・アシスタントは交代がいなかったんですよね(笑)。

スティーヴン:あの日は、まだ出回りはじめたばかりのデジタル・テープで録音したので、技術的な面でも面白かったですね。でも新しい技術だったこともあって、意図を伝えるのがすごく難しかったです。それまではアナログ・テープでの録音が一般的でしたから。そのおかげで通訳の女性をかなり混乱させることに……(笑)。デジタル・テープなので、音声を組み合わせられることができました。だから、全部で3テイク録って、バースはテイク1のものを使用したりして組み合わせていきましたね。ひと通りレコーディングが終わったので何か食べにいこうと思って、エンジニアの人に編集にどのくらいかかるのか訊いてみたんです。そうしたら1日かかるって言われてビビりましたよ(笑)。デジタルだからテープの切り貼りができなかったんですね。私たちは「勘弁してよー」って感じでした。インタヴューをやる予定だった時間をレコーディングにまわしたりしたんですが、確保できた睡眠時間は2時間(笑)。それでも貴重な素晴らしい体験でした。初めての日本だったこともあって、別の惑星に来た気分でしたから。

石野:うんうん。その状況は想像できるな。僕が初めて行った海外って、実はマンチェスターなんですよ。

スティーヴン:なんだって(笑)!? 日本からしたらマンチェスターも違う星に見えるのかもしれないですね。

石野:プロダクションについても教えて下さい。ニュー・オーダーの楽曲にはプログラミングの要素がとても多く含まれていると思うんですけど、その点に関しては、バーナード(・サムナー)さんや他のメンバーと、どのように役割分担をしているんですか?

スティーヴン:私がプログラムしたものに彼が手を入れ直したり、その逆をやったり、その作業を繰り返しますね。とくにふたりの作業の割合とかは意識していないです。バーニーにはスタジオがあるし、私はバンドの演奏ができる大きな納屋を持っているので、そこで作業をしますね。アイディアが浮かんだら、すぐにそれを試すことができる環境は整えてあります。私がじっと座りながら考えたアイディアをバーニーに送って、いざ返信が返ってきたら、全く違うものになっていたなんてことはよくありましたよね(笑)。どちらかと言えば、私は大まかな部分を作るのに対して、バーニーは細かい作業を主にやっています。

石野:スティーヴンさんはセクション25のリミックスもされていましたよね。昨日、僕、あの曲かけたんですよ。

スティーヴン:何週間か前、別の人にもあのリミックスを褒められたんですが、あれそんなに良いですか(笑)? まだまだやりこめたかなぁと思うんです。というのも、あれは作業が途中だったので(笑)。

石野:そうなんですか(笑)。あんまりご自分の名前でリミックスはやっていらっしゃらないですよね?

スティーヴン:数はそんなに多くないですね。でもリミックス作業自体はけっこう好きですよ。ブライトンのフジヤ&ミヤギのリミックス、それからティム・バージェスやファクトリーフロアもやらせてもらいましたね。もし嫌いな曲だったらリミックスってできないんです。そういう曲を頼まれたら、「ごめんなさい、いまはめちゃくちゃ忙しいんです」って返答しちゃいます。ところが気に入った曲の場合でもうまくいかないことがある。もうそれ以上に付け加えることがないから、いくら私が作業を進めても、オリジナルとあんまり変わらなかったり、元に戻っていたりすることもありますから(笑)。

終始穏やかなスティーヴン。この日着ていたのはヨーダのTシャツだった。

ドラムマシンが出てきたとき、すごく興味深く思いました。つまんないことはマシンに任せて、人間は面白いことに集中できると思ったんですよ。
──スティーヴン・モリス

石野:スティーヴンさんがドラムをはじめたきっかけは? もともと好きなドラマーがいたんですか?

スティーヴン:ドラムをはじめた理由は、周りにギタリストが多すぎたからです。15歳くらいのときですね。私の父親は楽器は何も弾けないんですが、音楽はすごく好きだったので、私に楽器をやらせようとしていました。最初はクラリネットを習わせようとしていたんですが、私がドラムをやりたいと言ったら、「じゃあレッスンに通え」と(笑)。私が好きなドラマーは、カンのヤキ・リーベツァイトやノイ!のクラウス・ディンガーでした。それからキース・ムーン。彼は壊れたように叩くので、これには絶対になれないなと思っていましたけどね(笑)。人物的な面を魅力的に感じてたんです。

石野:なるほど。スティーヴンさんがジャーマン・ロックの人たちをお好きなのはすごくよくわかります。だから以前「私はドラムマシンになりたい」っておっしゃっていたんですか(笑)。

スティーヴン:アイロニックなことを言ったもんですね(笑)。ドラムマシンが出てきたとき、すごく興味深く思いました。つまんないことはマシンに任せて、人間は面白いことに集中できると思ったんですよ。ドラムマシンの音って、モノによっては全然ドラマーの音に聴こえないやつがありますよね。ワタシはとくにそういう機材が好きでした。

石野:カシオの音なんかまさに。

スティーヴン:そうそう! 少しおもちゃっぽいところがあってマジカルな感じがするんです。プログラミングしやすい機材だといいんですが、何時間やってもうまくいかなくて、自分でドラムを叩いた方が早いことも多々ありました(笑)。

石野:僕にとって、“ブルー・マンデー”の冒頭の、人間じゃ叩けない16分音符のドラムキックが本当に衝撃的でした。ラジオで聴いたとき本当に鳥肌が立ったんですね。当時、ドラムマシンが出てきてロックの人たちがそれを敵対視していたなかで、ニュー・オーダーはいち早く取り入れていましたね。

スティーヴン:テレビでスティーヴィー・ワンダーがリン・ドラムを使ってリズムを組みながら歌っていたのを見たんですが、それが信じられないくらいファンキーだったんです。それを見て、「アレを手に入れれば僕も彼みたいになれる!」って思ったんですよ(笑)。そんな流れで、リン・ドラムンを手に入れました。でもその後、私たちはベース音を調整できるオーバーハイムのDMXを使いはじめたんです。当時、DMXはリンよりも安かったんですよ。
いまは簡単にビート・パターンを保存できましたが、昔は保存するのも難しかった(笑)。ちゃんと保存しても消えたりしましたからね! みんな全部私のせいにしたりするんですから、たまったもんじゃない(笑)。だからカセットにデータを保存することにしたんですが、それも途中で巻き戻せなくなったりして。だから“ブルー・マンデー”のときは、最終的には大量の紙にドラムパターンを書き出していましたね。
ドラムマシンを使うのに、本物のドラマーみたいなパターンにしても意味がないですよね。当時はドラムを叩かないで、ボタンを押していただけだったのでちょっと不思議な感じがしたものですが。

石野:ドラマーがプログラミングをやるっていうのも珍らしいですよね。デジタルのドラムマシンを導入した結果、ドラマーがクビになったりってことも(笑)。

スティーヴン:80年代初期はドラマーたちにとって、まったく新しい仕事が作られた時期でしたね。ドラム・プログラムが重要になって、ドラマーが蚊帳の外になんて事態も起きました。私は両方やっていたので大丈夫でしたけど。でも現在はドラムとドラムマシンに対するが考えが巡りめぐって、ドラム以外がダメでも他がパーフェクトなら問題はないとする人々もいますよね(笑)。
さきほどドラムマシンがドラマーを困らせるという話をしましたが、サンプラーが登場したときも似たような心境になりました。今度はバンドそのものが盗まれる可能性が生まれたわけですからね(笑)。良い面もある一方で、アイディアが盗まれてしまう恐怖もありました。DJシャドウ『エンドトローデューシング……』は大好きなんですが(笑)。
私たちは80年代のはじまりからコンピュータを使いはじめました。当時のコンピュータはいまとは比べものにならないほど大きかったですが、そこから出てくるサウンドも想像がつかないものでした。でもいまは、もっと小さい機材でもっと複雑なことができます。音楽以外でもそうですよね。電話がポケットに入って、さらにそこにカメラが搭載されるなんて、30年前には誰にも想像できなかったでしょう。見方によっては、ここは狂った世界ですよね。

石野:クラフトワークの『コンピュータ・ワールド』みたいですね。

スティーヴン:まさにその通りです。

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どうしてマンチェスターでレコーディングすることにしたんですか? 私だったら絶対にニューヨークを選んでいたでしょうね(笑)。
──スティーヴン・モリス

石野:昨日のライヴを観ていて思ったんですけど、スタジオ・ワークと比較して、ライヴではかなりサブベースが鳴っている曲もありましたよね。例えば“ユア・サイレント・フェイス”とか。かなり図太いサブベースでした。ライヴのために誰がアレンジするんですか?

スティーヴン:バーニーが主にやっていますね。古い曲でも常にいろんなヴァージョンを準備しています。完ぺきなアレンジができたとしても、変えたい場所が出てくるんです。だからいつもリミックスをやってきる状態であるとも言えますね。「ここがあと2デシベル……」という具合に周波数にこだわったり(笑)。そういうのが好みなわけじゃないんですけど、頭がそっちにいってしまう。でもそれで曲が良くなるのなら、苦労をいとわないですね。

石野:30年前に初めて日本に来て、それから何回も来ています。僕は住んでいるからわからないですけど、日本に何か変化とかを感じますか?

スティーヴン:さっきも言いましたが東京に限って言えば、灰皿が町から消えましたよね(笑)。それから、じょじょにですが私みたいなヨーロッパ人に対しても、優しくなったようにも思います。昔はそこまで気楽に接してくれなかったのが、最近はリラックスして話せますね。それから日本人の男性には女性蔑視的な面を感じていたんですが、最近はそれも減ってきたように思います。昔はインタヴューの時に、ジリアン(・ギルバート)だけ無視されたりもしたんですよ。

石野:えー! それはたぶん距離と取り方がわからなかったんじゃないかな。とくに女性だったから。

スティーヴン:そうだったのかもしれませんね。でも最近はそういうことをあまり感じなくなってきました。いまは大丈夫なので、気にしないでください(笑)。

石野:これだけ長期間活動していて、ジリアンさんみたいに1回離れてまた戻って来たメンバーもいたけど、バーナードさんとスティーヴンさんはずっと一緒です。やっぱりニュー・オーダーはおふたりが中心になってやっている部分が大きいんですかね?

スティーヴン:ジリアンが一旦バンドを離れたのは、娘の病気の面倒をみるためだったのでやむをえなかったんです。本人もすごく参加したがっていて、抜けている間はフラストレーションを感じていました。レコードを作るよりも、子育ての方が大変ですからね。
バーナードと私は、なんだかんだでいっしょにやっている期間が長いですよね。今年で何年目だろう……、考えない方が良さそうですね(笑)!

石野:趣味で戦車を集めているんですよね?

スティーヴン:ええ。

石野:本物なんですか?

スティーヴン:ええ(笑)。

石野:おー。何台お持ちなんですか? もちろん動くんですよね?

スティーヴン:4台ですね。ちゃんと運転できますよ。大砲は打てませんが(笑)。軍は厳しかったです(笑)。

石野:それはイギリス製の戦車だけなんですか?

スティーヴン:イギリスの信頼のおけない戦車たちだけです(笑)。メンテナンスも大変なんですよ。だから問題を点検するために、いちいち写真を撮っているんですけど、あいにくいまは持ってないんですよ。

石野:メンテナンスを楽しんでいそうですね。

スティーヴン:常に集中していなきゃいけませんから、ニュー・オーダーみたいなものですね(笑)。メンテナンス中に指を切っちゃったりしますけど、楽しいですよ。

石野:何がきっかけで戦車をはじめたんですか? 

スティーヴン:最初は1947年製のブリストルの車が欲しかったんです。中年の危機ってやつですね(笑)。でも実物を見に行ったときに「高いからダメ!」ってジリアンに止められたんですよ。それでしばらく経ったら、戦車のパーツを置いているお店を見つけてしまって。そしたら「車よりもこっちを買うべきよ!」ってジリアンが言うんですよ(笑)。自分は買うつもりは全然なかったんですけどね。必要なパーツが全然ついていなくて、扱い方も最初はわかりませんでしたから(笑)。それでパーツをいろいろ買い集めることになったんです。
卓球さんはDJだけではなくバンドもやっているんですよね?

石野:電気グルーヴというバンドをやっていて、今年で26年目ですね。さっき初めて行った海外がマンチェスターだって言いましたが、それはファースト・アルバムのレコーディングのためだったんですよね。

スティーヴン:そういうことだったんですね! どこのスタジオでレコーディングしたんですか?

石野:スピリット・スタジオですね。

スティーヴン:録音した音源のスピードがすごく遅くなっちゃうテープマシンがありましたよね(笑)。もう直っているといいんですが。

石野:あのスタジオを使ったことはあるんですか?

スティーヴン:あります。そんなにたくさんスタジオがあったわけではなかったんですよ。どうしてマンチェスターでレコーディングすることにしたんですか?

石野:ソニーに所属しているんですが、会社がふたつの選択支をくれたんです。レコーディングをニューヨークでするか、それともマンチェスターでするか。それでマンチェスターにしたわけです(笑)。

スティーヴン:私だったら絶対にニューヨークを選んでいたでしょうね(笑)。住んでいる場所によって人がどこに行きたいかは変わるものです。私はニューヨークのディスコなどが好きなので、とても魅力的に感じるんですが、マンチェスターはもう……(笑)。

石野:ははは(笑)。でも当時の僕たちにとってはマンチェスターはニューヨークみたいなものだったんですよ。ハシエンダのイメージがありましたからね。

スティーヴン:まさに「隣の家の芝生は青い」ですね(笑)。バンドでは何をしてらっしゃるんですか?

石野:プログラミングとヴォーカルです。

みんなリミックス盤は聴いた? 今回のニュー・オーダーの来日をサポートした石野卓球。

当時の僕たちにとってはマンチェスターはニューヨークみたいなものだったんですよ。ハシエンダのイメージがありましたからね。
──石野卓球

スティーヴン:実は下の18歳の娘が日本の音楽が好きなんです。Jポップ、それから韓国のKポップも。いま日本語も勉強していますね。

石野:本当に隣の家の芝生は青いんですね(笑)。

スティーヴ:娘は日本の化粧品を買うようになってから日本語を勉強しはじめました(笑)。今回一緒に日本に来たかったでしょうね。日本に住みたいって言ってますよ。いつも卓球さんはどういうところでDJをしているんですか?

石野:いつもはクラブやフェスでDJをやっていて、プロデュースもします。

スティーヴン:CDJを使っていますよね。パソコンでDJをする人が最近は増えましたが、それについてはどう思いますか?

石野:パソコンでDJをするのはあまり好きじゃないですね。レコードでDJをはじめたもんですから。

スティーヴン:パソコンは編集にはいいんですが、DJのときは便利すぎてズルしてる気分になりますよね(笑)。

石野:僕はDJはあくまでディスク・ジョッキーだと思っています。

スティーヴン:その通り。いまはパソコンがあればいろいろ手の込んだことができますけど、もしパソコンが壊れたら何もできなくなってしまいます。でもレコードでDJをするのなら、レコードをターンテーブルに乗せればいいだけですから、いたってシンプルなんですよ(笑)。

石野:DJの場合、機材が運びやすいですよね。

スティーヴン:レコードを持っていくだけでいいですもんね。でもCDJでできることもすごいなぁと思います。グランドマスターフラッシュの“ザ・ホイール・オブ・スティール”が出たとき、なんで他人のレコードからこんなレコードが作れるんだって思ったものでしたが、CDJの機能を使えば、あれをやるのも夢じゃない。

石野:たしかに革新的ですよね。最初はCDJの音はクソだったんですが、いまはレコードとまったく変わらないですよね。

スティーヴン:最初CDJを使ってプレイをしている人を見ても、何をやっているのか意味がわかりませんでした(笑)。でもいまはCDを使わなくても、USBメモリだけで曲やサンプルを再生したりもできますよね。

石野:いまはUSBで世界を周れちゃいますもんね。

スティーヴン:そうなんですよ。いままで買ってきた何千枚ものレコードがもったいないですよね(笑)。

Jessy Lanza - ele-king

 2014年にレーベル発足10周年コンピ4連作『Hyperdub 10.1~10.4』をリリースした〈ハイパーダブ〉。それらを聴いていると、発足当初のダブステップやグライムだけでなく、次第にUKファンキーやブロークンビーツなどを取り入れ、そして現在はコード9が傾倒するジューク/フットワークと、もっと多様な音楽性を含むレーベルとなっていることがわかる。

 そもそもコード9もブリアルもダブステップの枠から外れたようなアーティストだったし、後に〈ワープ〉へ移籍するダークスターはジ・エックス・エックスに通じるインディ・ロック的なセンスを持っていた。ディーン・ブラントのようなエクスペリメンタルな個性を生かせるレーベルであり、そのディーン・ブラントは今年ベイビーファザーというユニットで、また新たなステップを踏み出している。

 4連作中の『Hyperdub 10.2』は歌モノにスポットを当てていたが、そこにはジェシー・ランザのファースト・アルバム『プル・マイ・ヘアー・バック』(2013年)から“5785021”と、新曲の“ユー・アンド・ミー”が収められていた。ジュークからの影響を伺わせるアンビエントなトラックにキュートな歌声がマッチした前者、アリーヤとティンバーランド、またはケリスとザ・ネプチューンズのコラボの2014年度版とでも評すべき8ビット・サウンドの後者と、『Hyperdub 10.2』の中でもR&B色が強いものだった。カナダのオンタリオ州ハミルトンで活動するジェシー・ランザは、レフトフィールドさとポップさが共存するユニークな個性を持つシンガーで、〈ハイパーダブ〉のオルタナティヴR&B方面を担う存在だ。シンガーのタイプとしてはケレラやFKAツイッグスあたりに近いが、DJ/プロデューサー/ソングライターでもあり、同郷のジュニア・ボーイズのジェレミー・グリーンスパンと共同で制作活動を行う。『プル・マイ・ヘアー・バック』でのデビューと前後して、〈ハイパーダブ〉のレーベル・メイトでもある女性プロデューサーのアイコニカの『エアロトロポリス』(2013年)、同じオンタリオ州出身のカリブーの『アワー・ラヴ』(2014年)にフィーチャーされたほか、2015年はDJスピンとタソとの共作“ユー・ネヴァー・ショウ・ユア・ラヴ”(故DJラッシャッドが参加したヴァージョンもあり)を出し、モーガン・ガイストと組んでガレリアというユニットで作品制作も行った。

 そして、今年に入って“VV ヴァイオレンス”と“イット・ミーンズ・アイ・ラヴ・ユー”というシングルを発表し、次いでリリースしたのが2枚めのアルバムとなる『オー・ノー』である。エレクトロやアーリー・シカゴ・ハウスに通じるサウンド基盤を持ちつつ、アンビエントR&B的な意匠も加えながら作られた『プル・マイ・ヘアー・バック』であったが、その基本路線を『オー・ノー』は継承しつつ、全体的によりポップかつダンサブルな曲が増えたという印象だ。“VV ヴァイオレンス”は同じカナダのグライムスを彷彿とさせる歌とデイム・ファンクのエレクトロ・ファンクが出会ったような作品で、“イット・ミーンズ・アイ・ラヴ・ユー”はフットワークのBPMを持つアップ・テンポなシンセ・ウェイヴ~テクノ・ポップと、そうした傾向はシングル曲に顕著である。80s的な匂いのシンセ・ディスコの“ネヴァー・イナフ”や表題曲に対し、アンビエントR&Bということでは“アイ・トーク・BB”“ヴィヴィカ”“クッド・ビー・ユー”と、こちらも優れたナンバーが収められる。“ヴィヴィカ”での8ビットのチープでシンプルなサウンドがジェシーらしいし、“アイ・トーク・BB”や“クッド・ビー・ユー”でのスピリチュアルな佇まいさえ感じさせる透明な歌声は何と言っても彼女の大きな武器だろう。そして、“ビギンズ”や“ゴーイング・サムホェア”ではエクスペリメンタルな側面も見せている。『プル・マイ・ヘアー・バック』におけるセンシティヴなジェシーの感性が、力強さを伴って外向的に拡散されたのが『オー・ノー』と言えるだろう。

 なお、ジェシーは本作を作るにあたり、80年代のイエロー・マジック・オーケストラにも触発されたそうで、当時の細野晴正臣がプロデュースしていたコシミハル(越美晴)のヴォーカル・スタイルからも影響を受けたようだ。“ネヴァー・イナフ”や表題曲にどこか和モノ・ディスコに通じる部分を感じたのは、そのせいかもしれない。

 いまでは日本よりも国際的な評価のほうが高い(?)、ジャズ・フリー・インプロヴァイザーの坂田明(70年代は山下洋輔トリオのサックス奏者として知られる)が8月2日に渋谷でコンセプチュアルなライヴを披露する。ジム・オルーク(ギター)、山本達久(ドラム)、田中悠美子(三味線)、福原千鶴(小鼓)、そしてライヴペインティングの中山晃子を迎えて繰り広げる『平家物語』──いったいこれは何なのでしょう?
 60年代末よりフリー・ジャズ/アヴァンギャルの世界を疾駆した坂田明、エリック・ドルフィーの極限的サックスに刺激されながら、他方では赤塚不二夫の破壊的ギャグと共振し、アイヌやミジンコにまでアプローチしつつ、そしてまったく独自の道を切り拓きながらいまも活動する稀代のジャズメンの、いまを目撃せよ!

開催日 2016年8月2日(火) 場所  渋谷区文化総合センター大和田 伝承ホール 出演  坂田明      ジム・オルーク      田中悠美子      福原千鶴      山本達久      中山晃子 主催  渋谷区


Julianna Barwick - ele-king

 ジュリアナ・バーウィックは、登場から10年が経とうといういまだにタグ付けの困難なアーティストだ(これまでのレヴュー)。ときどき「歌姫」としてエンヤなどに比較されているのを見かけるが、それはまったくちがう。バーウィックは歌曲を歌うのではないのだから。発声したものをペダルでループさせるだけ。“歌わ”なくていい、演奏しなくていい、つくらなくていい、息をするだけ──そのミニマルなスタイルは、だからこそ消費されてしまうことなく、また、いかなるトレンドにもわずらわされない。

 彼女の音楽が、クラシックまがいでもヒーリング・ミュージックの類でもなく、〈デッド・オーシャンズ〉や〈アスマティック・キティ〉のようなエクスペリメンタルなインディ・レーベルからリリースされ、ダーティ・プロジェクターズやスフィアン・スティーヴンスなどに並んでカタログ化されているのは、ひとえにわれわれがそのスタイルに前を向いた自由とインディ精神を感じていたからだ。

 バーウィックは、女神の役割を負うことからも負わされることからも自由であり、しかもそれを拳をかざしたり男勝りのスタイルを身につけたりする必要もなく可能にしている。また、高度な音楽教育を受けているとはいえ、彼女の録音スタイルのDIYさ、ライヴ活動の地道さ、飾らなさはわれわれがイメージする通りのUSインディであり、ジュリア・ホルターらと並んで、2010年以降のシーンに爽やかな喜びを与えつづけてきた。バーウィックの自由……それはあの眩しい残響として筆者の心に波打ちつづけている。

 さて、今作は「ウィル」と名づけられている。『サングイン』『ザ・マジック・プレイス』『ネーペンテース』といった過去作品に対して、バーウィックにしては強い意味やニュアンスが出たタイトルだ。音楽性が大きく変わったわけではないため、それはなおさら、彼女の中に兆す変化を想像させる。

 音の特徴から整理するなら、本作はこれまででもっとも楽器が多用され、「伴奏」のともなったものだと言うことができるだろう。これまでと変わらず、クセのないハイトーンの一節がループされる冒頭の“セント・アポロニア”は、突如加わるチェロとピアノに印象的に縁取られる。つづく“ネビュラ”は頭からシンセサイザーのアルペジオに先導されてはじまり、それは曲中途切れることなくつづく。次の“ビーチド(Beached)”はピアノ伴奏が寄り添う。これらは単に彼女のライヴのスタイルが反映されたものでもあるだろうが、声以外の周波が加わって心地よさが増している。エッジイなイメージは後退し、ほっとするような柔らかさが感じられる。

 そんななかではっとするのは“Same”だ。リヴァービーにふくらまされたストリングスやトランペットが曲を先導する……そのようにいくつもの音色を持つのもめずらしいが、この曲にはカナダ出身のアーティスト、トーマス・アーセノールトの歌もフィーチャーされていて、彼の声が入ってきたときに彼女の世界に他の人間の主観と時間が混線してきたような、わずかな違和感が生まれ、驚かされる。深いエコーとループが交差しこだましあう彼女の音楽は、構成要素がほとんど自身の声ということもあり、言葉やメッセージがない場合でも圧倒的に主観的な世界を立ち上げる。彼女の音楽を聴くというのは、彼女の感情の球体、あるいは意識の球体、それに触れているという感覚だ。ここに他者が入り込んでくるというのは、その球体が球ではなくなるということ、破綻のない世界に異物が混じり、これまでに生まれなかったはずの可能性や偶然性が──まるで生命の誕生のように──生じてくるということを予感させる。他人との制作という点では、ヘラド・ネグロとのオンブレ名義での活動があるが、そちらはまさにコラボの体で、互いの協力によって一枚のアルバムを生むべく美しい予定調和が図られていた。しかし、今回そういうものとまったく異なる原理のもとに他者の声、他者の「will」が聴こえてくる。そのあたりに、バーウィックの次を見てしまう。

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