Home > Reviews > Album Reviews > Julianna Barwick- Sanguine
ディレイというと「遅れる」という語義に引かれてみえにくくなってしまうのだが、それはじっさい「先(未来)にのこす」ということでもある。音が放たれた瞬間は過去に、その反響音は未来にのこされる。ジュリアナ・バーウィックの音楽は、このディレイのパラドクスを輝かしく取り出してみせる。
数年前にこの作品が現れたとき、筆者はその国内盤というか、輸入盤に帯とライナーを付属させたものをリリースしたいと思って会社に提案したが、そのタイミングではないと却下されてしまった。たしかにあの頃国内盤として枚数を売るのは難しかったかもしれない。だが一貫したヴィジョンのもとに活動をつづけてきたことで、彼女は着実に知名度を上げ、昨年は〈アスマティック・キティ〉から2枚目のフル・アルバムをリリース、またイクエ・モリとのコラボ作でも素晴らしい成果をのこしており、旧作が見直されてよい時期がめぐってきていた。こうしたなかで、先日ファースト・アルバム『サングイン』のCD盤が限定リイシューされ、ディスクユニオンからは帯ライナー付きの国内仕様盤もリリースされた。初となるヴァイナル盤もそろそろ国内に入ってきているようだ。筆者はやはり、この最初の作品に大きなインパクトを受けているから、ぜひとも『サングイン』がより多くの人の手に渡ることを期待したい。
2000年代の後半は、インディ・ロック・シーンをリヴァーブやディレイが彩った。まるでそれが時代のエートスを象徴するものであるかのように、ガレージ・ロックからエレクトロニック・ミュージックにいたるまで、さまざまなフォームをリヴァーブやディレイがドリーミーに覆っていた。両者はいずれ分けがたく使用されているが、たとえばウォッシュト・アウトや(アトラス・サウンドにそれを聴くときは、とても逃避的な性格が浮かび上がる。ウォッシュト・アウトならば繭や母胎を思わせる心地よさがあるが、アトラス・サウンドともなればそのドリーム感がやがて現世を拒絶する荒野に直結してしまうようなおそろしさが忍び込んでくる。これとは対照的に、ジュリアナ・バーウィックやパンダ・ベアのリヴァーブ/ディレイはとても前向きな明るさを持っている。もちろんそれは「世界はいいところさっ」というような、粗雑な感性からみちびき出された、見当違いな肯定感とは異なる。大きくみれば、ウォッシュト・アウトらの逃避感覚を多く共有する音なのだが、逃避した先にひとつの脱出口があるというか、光がのぞいているような気持ちにさせるようなものが、彼女たちのアウトプットが持つ重要な個性だ。
"ユニット5"のようなものもあるが、ほとんどの曲には詞らしいものはない。あってもききとることはできない。自らの声のみで巧みに編まれた和声のタペストリーを縫って、四方から波のようにその反響音が寄せあう。放たれることにではなく、のこることに彼女の音のダイナミズムは宿る。ディレイの性質にまつわるこうした転換をわれわれはあらためて意識させられるだろう。それは先の時間への意識である。小節線を感じさせない曲展開にも、時間や時代との摩擦をすり抜けて未来へと伸びていく光のような強度がある。なにより「歌姫」などという形容をはねつけるとても意志的な声と構成意識がたのもしい。声というプリミティヴな素材を全面的にもちいるがゆえに、歌い手やシンガー・ソングライターのようにとらえられがちな部分があるが、彼女はむしろそののびやかな声が響く舞台裏に待機し、ネジやスパナでもって反響板を調節するような仕事をしているというほうが近いかもしれない。板の角度を変えるとともに、きたるべき時間や時代の角度をも調節しようとしているのだ......筆者にはそんなふうに思われる。"ユニット1"から"ユニット9"までひと息に聴くといいだろう。すべてあわせて20分たらずの時間がいっきにうしろへ飛び去り、われわれは前を向く。
後半部の曲にはブレスを加工したものだろうか、"ダンシング・ウィズ・フレンズ"のようにパーカッシヴなサンプル音が入るものもいくつかある。アルバムに動きや変化をつけるものとして、よいバランスを持っている。彼女の音楽はヘッドホンともなじみがよく、録音物として完成された作品だと思うし、ライヴを観たとしても、ひとりでそれをやっているという姿に表現としてのリアリティが宿るものであると思うのだが、ぜひいちど女声合唱団による演奏が聴いてみたい。女子高生に未来があると言いたいわけではけっしてないが、幼すぎず、かといって成熟はいまだ迎えない、無方向的な力にみちた名もなき声たちが、この音楽のもとに束になるのをみてみたいと思う。
橋元優歩