Home > Interviews > talk with Takkyu Ishino × Stephen Morris - 特別対談:石野卓球×スティーヴン・モリス(ニュー・オーダー)
余計な説明はいらないだろう。5月24日、都内某所、石野卓球とニュー・オーダーのドラマー、スティーヴン・モリスは40分ほど対話した。以下はその記録である。
前日の25日には、バンドは来日ライヴを成功させているが、石野はフロントアクトとしてDJを務めた。彼は、今回のアルバム『ミュージック・コンプリート』からのシングルの1枚、「Tutti Frutti」のリミックスを手掛けている。そして石野は……以下、どうぞ対談をお楽しみください!
失礼ですが、僕がそれまでに観た海外のバンドなかで1番ヘタクソだなって思ったんですよ(笑)。でもね、それがすっごくカッコよくてね。
──石野卓球
石野卓球:僕のニュー・オーダーのライヴの思い出なんですけど、会場は新宿厚生年金会館で、失礼ですが、僕がそれまでに観た海外のバンドなかで1番ヘタクソだなって思ったんですよ(笑)。でもね、それがすっごくカッコよくてね。他のバンドがみんな完成され過ぎていたから、身近に感じたんです。
スティーヴン・モリス:当時の私たちの演奏は「乱雑」って言葉がぴったりだったと思いますよ(笑)。セミ・プロ集団でしたからね。
石野:いやいや(笑)。
スティーヴン:あの日は40分くらいのライヴでしたよね? 1時間やらなきゃいけなかったから、しょうがないからアンコールをやったんですよ(笑)。
石野:僕が行った日の1曲目は“コンフュージョン”だったのをはっきり覚えてます。
スティーヴン:若かったのによく覚えていますね。
石野:『ロウ・ライフ』に関して質問があります。ジャケットにはスティーヴンさんの顔が使われていますけど、当時のロックのアルバムではヴォーカリストやギタリストがジャケットにくるのが普通だったと思います。どうしてスティーヴさんの写真が選ばれたんですか?
スティーヴン:デザイナーのピーター・サヴィルに大金を積んだんですよ(笑)。日本に来たとき、あのジャケットのおかげで、みんなが私のことをシンガーだと思ってくれて最高でしたね(笑)。CDヴァージョンは、カード式にして好きなメンバーをジャケットにすることもできるので、もっと民主的なんです。でも、当時のHMVでは、バーナードの写真を表に出して並べているところが多かったので、私はお店に出向いて自分の面を表にし直す必要がありましたね(笑)。
石野:ははは(笑)。たしか、そのとき、日本のスタジオに入ってレコーディングしたとか?
スティーヴン:そうなんですよ。コロンビアのデノン・スタジオでした。ヴィデオを撮影したので、録音した音を映像用にミックスする作業も行いました。曲は“ステイト・オブ・ザ・ネイション”。あれはとても興味深い体験でしたね。私たちは夜にスタジオに入ったんですが、エンジニアの方は昼間っからずっと働きっぱなしだった(笑)。通訳の女性も同じくすごく疲れていたみたいで、終盤はメンバーが「もっと低音がほしい(More Bass)」と言っても、彼女はエンジニアに向かって「More Bass!」と英語で話しかけてましたね(笑)。
石野:当時のレコーディング・アシスタントは交代がいなかったんですよね(笑)。
スティーヴン:あの日は、まだ出回りはじめたばかりのデジタル・テープで録音したので、技術的な面でも面白かったですね。でも新しい技術だったこともあって、意図を伝えるのがすごく難しかったです。それまではアナログ・テープでの録音が一般的でしたから。そのおかげで通訳の女性をかなり混乱させることに……(笑)。デジタル・テープなので、音声を組み合わせられることができました。だから、全部で3テイク録って、バースはテイク1のものを使用したりして組み合わせていきましたね。ひと通りレコーディングが終わったので何か食べにいこうと思って、エンジニアの人に編集にどのくらいかかるのか訊いてみたんです。そうしたら1日かかるって言われてビビりましたよ(笑)。デジタルだからテープの切り貼りができなかったんですね。私たちは「勘弁してよー」って感じでした。インタヴューをやる予定だった時間をレコーディングにまわしたりしたんですが、確保できた睡眠時間は2時間(笑)。それでも貴重な素晴らしい体験でした。初めての日本だったこともあって、別の惑星に来た気分でしたから。
石野:うんうん。その状況は想像できるな。僕が初めて行った海外って、実はマンチェスターなんですよ。
スティーヴン:なんだって(笑)!? 日本からしたらマンチェスターも違う星に見えるのかもしれないですね。
石野:プロダクションについても教えて下さい。ニュー・オーダーの楽曲にはプログラミングの要素がとても多く含まれていると思うんですけど、その点に関しては、バーナード(・サムナー)さんや他のメンバーと、どのように役割分担をしているんですか?
スティーヴン:私がプログラムしたものに彼が手を入れ直したり、その逆をやったり、その作業を繰り返しますね。とくにふたりの作業の割合とかは意識していないです。バーニーにはスタジオがあるし、私はバンドの演奏ができる大きな納屋を持っているので、そこで作業をしますね。アイディアが浮かんだら、すぐにそれを試すことができる環境は整えてあります。私がじっと座りながら考えたアイディアをバーニーに送って、いざ返信が返ってきたら、全く違うものになっていたなんてことはよくありましたよね(笑)。どちらかと言えば、私は大まかな部分を作るのに対して、バーニーは細かい作業を主にやっています。
石野:スティーヴンさんはセクション25のリミックスもされていましたよね。昨日、僕、あの曲かけたんですよ。
スティーヴン:何週間か前、別の人にもあのリミックスを褒められたんですが、あれそんなに良いですか(笑)? まだまだやりこめたかなぁと思うんです。というのも、あれは作業が途中だったので(笑)。
石野:そうなんですか(笑)。あんまりご自分の名前でリミックスはやっていらっしゃらないですよね?
スティーヴン:数はそんなに多くないですね。でもリミックス作業自体はけっこう好きですよ。ブライトンのフジヤ&ミヤギのリミックス、それからティム・バージェスやファクトリーフロアもやらせてもらいましたね。もし嫌いな曲だったらリミックスってできないんです。そういう曲を頼まれたら、「ごめんなさい、いまはめちゃくちゃ忙しいんです」って返答しちゃいます。ところが気に入った曲の場合でもうまくいかないことがある。もうそれ以上に付け加えることがないから、いくら私が作業を進めても、オリジナルとあんまり変わらなかったり、元に戻っていたりすることもありますから(笑)。
終始穏やかなスティーヴン。この日着ていたのはヨーダのTシャツだった。
ドラムマシンが出てきたとき、すごく興味深く思いました。つまんないことはマシンに任せて、人間は面白いことに集中できると思ったんですよ。
──スティーヴン・モリス
石野:スティーヴンさんがドラムをはじめたきっかけは? もともと好きなドラマーがいたんですか?
スティーヴン:ドラムをはじめた理由は、周りにギタリストが多すぎたからです。15歳くらいのときですね。私の父親は楽器は何も弾けないんですが、音楽はすごく好きだったので、私に楽器をやらせようとしていました。最初はクラリネットを習わせようとしていたんですが、私がドラムをやりたいと言ったら、「じゃあレッスンに通え」と(笑)。私が好きなドラマーは、カンのヤキ・リーベツァイトやノイ!のクラウス・ディンガーでした。それからキース・ムーン。彼は壊れたように叩くので、これには絶対になれないなと思っていましたけどね(笑)。人物的な面を魅力的に感じてたんです。
石野:なるほど。スティーヴンさんがジャーマン・ロックの人たちをお好きなのはすごくよくわかります。だから以前「私はドラムマシンになりたい」っておっしゃっていたんですか(笑)。
スティーヴン:アイロニックなことを言ったもんですね(笑)。ドラムマシンが出てきたとき、すごく興味深く思いました。つまんないことはマシンに任せて、人間は面白いことに集中できると思ったんですよ。ドラムマシンの音って、モノによっては全然ドラマーの音に聴こえないやつがありますよね。ワタシはとくにそういう機材が好きでした。
石野:カシオの音なんかまさに。
スティーヴン:そうそう! 少しおもちゃっぽいところがあってマジカルな感じがするんです。プログラミングしやすい機材だといいんですが、何時間やってもうまくいかなくて、自分でドラムを叩いた方が早いことも多々ありました(笑)。
石野:僕にとって、“ブルー・マンデー”の冒頭の、人間じゃ叩けない16分音符のドラムキックが本当に衝撃的でした。ラジオで聴いたとき本当に鳥肌が立ったんですね。当時、ドラムマシンが出てきてロックの人たちがそれを敵対視していたなかで、ニュー・オーダーはいち早く取り入れていましたね。
スティーヴン:テレビでスティーヴィー・ワンダーがリン・ドラムを使ってリズムを組みながら歌っていたのを見たんですが、それが信じられないくらいファンキーだったんです。それを見て、「アレを手に入れれば僕も彼みたいになれる!」って思ったんですよ(笑)。そんな流れで、リン・ドラムンを手に入れました。でもその後、私たちはベース音を調整できるオーバーハイムのDMXを使いはじめたんです。当時、DMXはリンよりも安かったんですよ。
いまは簡単にビート・パターンを保存できましたが、昔は保存するのも難しかった(笑)。ちゃんと保存しても消えたりしましたからね! みんな全部私のせいにしたりするんですから、たまったもんじゃない(笑)。だからカセットにデータを保存することにしたんですが、それも途中で巻き戻せなくなったりして。だから“ブルー・マンデー”のときは、最終的には大量の紙にドラムパターンを書き出していましたね。
ドラムマシンを使うのに、本物のドラマーみたいなパターンにしても意味がないですよね。当時はドラムを叩かないで、ボタンを押していただけだったのでちょっと不思議な感じがしたものですが。
石野:ドラマーがプログラミングをやるっていうのも珍らしいですよね。デジタルのドラムマシンを導入した結果、ドラマーがクビになったりってことも(笑)。
スティーヴン:80年代初期はドラマーたちにとって、まったく新しい仕事が作られた時期でしたね。ドラム・プログラムが重要になって、ドラマーが蚊帳の外になんて事態も起きました。私は両方やっていたので大丈夫でしたけど。でも現在はドラムとドラムマシンに対するが考えが巡りめぐって、ドラム以外がダメでも他がパーフェクトなら問題はないとする人々もいますよね(笑)。
さきほどドラムマシンがドラマーを困らせるという話をしましたが、サンプラーが登場したときも似たような心境になりました。今度はバンドそのものが盗まれる可能性が生まれたわけですからね(笑)。良い面もある一方で、アイディアが盗まれてしまう恐怖もありました。DJシャドウ『エンドトローデューシング……』は大好きなんですが(笑)。
私たちは80年代のはじまりからコンピュータを使いはじめました。当時のコンピュータはいまとは比べものにならないほど大きかったですが、そこから出てくるサウンドも想像がつかないものでした。でもいまは、もっと小さい機材でもっと複雑なことができます。音楽以外でもそうですよね。電話がポケットに入って、さらにそこにカメラが搭載されるなんて、30年前には誰にも想像できなかったでしょう。見方によっては、ここは狂った世界ですよね。
石野:クラフトワークの『コンピュータ・ワールド』みたいですね。
スティーヴン:まさにその通りです。
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