「Noton」と一致するもの

Fatima Al Qadiri - ele-king

 ただのグライム。ファティマ・アル・カディリならそう言うだろう。そこに枕詞を付け足す必要はない。「元々あった呼び名で十分だったのに」と、フューチャー・ブラウンの一員として彼女は昨年のインタヴューで答えている。アンビエント・タッチのグライムは昔からあったのであり、わざわざそれをリ・ブランディングする必要などない、と。
 とはいえ彼女の前作『エイジアティシュ』が注目を集めたのは、単にその「想像上の中国」というコンセプトが、グライムの上モノにときおり現れるアジア趣味(シノグライム)の受け皿となって、西洋文化に潜む東洋への欲求をうまい具合に満足させたから、というだけではない。低く唸るベースとヴォーカル・ドローンとの共存によって特徴づけられた『エイジアティシュ』は、ベース・ミュージックであると同時にアンビエント・ミュージックとしても成り立っていた。オリエンタルな意匠の下にグライムとアンビエントとを同居させてみせたこと、やはりそこにこそファティマ・アル・カディリの面白さがあったと言うべきだろう。

 セカンド・アルバムとなる本作でも基本的にその路線は踏襲されている。悪く言えばサウンドの上で大きな変化はないということだが、明確に前作にはなかった要素もある。それはメッセージ性だ。彼女は同じインタヴューの中で「フューチャー・ブラウンの政治的関心をひとつ挙げるとしたら?」という問いに対し、「警察の残忍性について」と答えている。本作のテーマは、ジョシュ・クラインの彫刻が大きく掲げられたアートワークからも窺えるように、近年合衆国で多発している警察による過剰な暴力の行使である。
 いくつかタイトルを並べてみよう。「血色の月」、「外出禁止令」、「集中砲火」、「地下牢」、「崩壊」、「権力」。これらの語が差しあたって映し出しているのは、いまアメリカで実際に繰り広げられている壮絶な暴力行為だ。そういう意味でこのアルバムは、アティテュードの面で最近のビヨンセと共振しているとも言える。
 だがさらに言ってしまえば、本作が告発しようとしているディストピアは必ずしもアメリカ国内に限定されるものではない。アル・カディリの出身地がクウェートであることを思い出そう。「軍隊の警察化」や「警察の軍隊化」が主張されるようになって久しいが、その転換期にあたる湾岸危機当時、彼女はまさにイラク軍による占領下で幼年時代を送っていたのである。このアルバムには彼女のそのような過去も色濃く反映されているように思われる。つまり本作は、「ブラック・ライヴズ・マター」からパリ同時多発テロやシリアの騒乱までをも射程に含んだ、怒りと絶望の音楽なのである。

 ハードな現実を直視するという意味で、本作はたしかに正統なグライムだ。彼女の言葉で言えば、ただのグライムである。それなのにこのアルバムでは、グライムの大きな要素の一つであるラップという手法が用いられていない。ニュース番組や引退した巡査部長の発言などがサンプリングされてはいるものの、それらはあくまで装飾の域に留まっている。つまり、本作には明確なメッセージ性があるのにもかかわらず、それが直接的に主張されることはないのである。フューチャー・ブラウンのように、やろうと思えばMCをゲストに迎えることだってできたはずだ。だが彼女はそうしなかった。それには彼女の音楽のもう一つの重要な側面であるアンビエントが関わっている。
 アンビエント・ミュージックには、通常は聴く必要のないものとして意識からシャットアウトされている音を強制的に顕在化させるという機能がある。ベッドルームでアンビエントを流しながらうとうとしたことのある者ならば一度は体験したことがあるであろう。風が窓を叩く音、車が外を走る音、換気扇が回る音、衣服が擦れる音、自分が呼吸する音、そういう普段は意識から排除されている様々な「ノイズ」が際立って耳に入ってくる瞬間を。
 アル・カディリはこのアルバムで、そのようなアンビエントの効果を音以外の事象にまで拡張させようとしているのだ。仕事に忙殺されている人びとに、エンターテインメントに熱中している人びとに、恋愛のことで頭がいっぱいになっている人びとに、かれらの意識からシャットアウトされている現実──いま合衆国で、世界中で起こっている悲惨な出来事──へと一瞬でも注意を向けさせること。
 要するにこのアルバムは、あなたのオフィスやあなたのベッドルームと、実際に暴力行為が発生している海の向こうの現場や戦場そのものとを、直接的な手段を用いずに接続しようとする試みなのである。だから彼女の言葉に逆らって言おう。これはただのグライムではない、と。

Terrace Martin - ele-king

 第58回グラミー賞受賞式のハイライトとなったケンドリック・ラマーのステージ。最初にケンドリックやバンド・メンバーたちは監獄の囚人に扮したが、ケンドリックとともにテナー・サックスを吹くテラス・マーティンの存在感も光っていた。5冠に輝いた『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』でもテラスはキー・パーソンのひとりで、ケンドリックにとってデビュー・アルバムの『グッド・キッド、マッド・シティ』からテラスは音楽的参謀の位置にある。

 ミュージシャン、ラッパー、プロデューサーという複数の顔を持つテラスだが、そもそも2000年代半ばからパフ・ダディ、スヌープ・ドッグらの作品や活動に関わり、とくにスヌープのプロデューサーとして知る人ぞ知る存在だった。ヒップホップ界での成功により注目を集めるが、もともとはジャズ・サックスが出発点で(父親はジャズ・ドラマーで、母親はゴスペル・シンガー)、コルトレーン、チャーリー・パーカー、ジャッキー・マクリーン、グローヴァー・ワシントン・ジュニアなどの影響を受けてきた。奨学金をもらってカリフォルニア芸術大学へ進学後、プロのジャズ・ミュージシャンとなるが、子どもの頃からドクター・ドレやスヌープをはじめとした西海岸のヒップホップやR&Bは身近にある存在で、自然とそうした分野での演奏も増えていく。こうした経歴は東海岸を代表するジャズ・ピアニストのロバート・グラスパーと同じ流れで、いまのUSのジャズ・ミュージシャンらしい。西海岸でジャズとヒップホップ/R&Bを繋ぐ存在がテラスなのだ。実際彼らは高校時代にサマー・キャンプで出会い、ロバート・グラスパー・エクスペリメントの『ブラック・レディオ2』にもテラスはスヌープといっしょに参加している。

 2013年に発表したソロ・アルバム『3コードフォールド』は、そんなテラスの集大成的な作品で、グラスパー、ケンドリック、スヌープ、レイラ・ハサウェイ、ウィズ・カリファ、ミュージック・ソウルチャイルドらが参加した。グラスパーの『ブラック・レディオ』に対するヒップホップ/R&Bサイドからのアンサー・アルバムにあたるような内容で、『ブラック・レディオ』から『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』への流れを結ぶ作品でもある。なお、この中ではマイケル・ジャクソンの“アイ・キャント・ヘルプ・イット”をカヴァーしているが、原曲のプロデューサーだったクインシー・ジョーンズまでが共同制作を買ってでるなど、新旧のアーティストから高い評価と信頼を集めている。クインシーやスティーヴィー・ワンダーなどからの影響を、しっかりといまに受け継ぐミュージシャン/プロデューサーでもあるのだ。

 『3コードフォールド』から3年ぶりとなるテラスのニュー・アルバム『ヴェルヴェット・ポートレイツ』は、グラスパーやレイラ・ハサウェイなど前作から続く面々に加え、カマシ・ワシントン、サンダーキャットというLAジャズ・シーンのキー・パーソンも参加する。ほかにジャズ系のミュージシャンでは、ディアンジェロのツアー・メンバーで、グレゴリー・ポーターのニュー・アルバムにも参加したキーヨン・ハロルドも演奏している。全体的には前作に比べてヒップホップ/R&B度は薄れ、そのぶんジャズ方向へ傾き、同時にディアンジェロ的な70年代ソウル~ファンク・リバイバルの流れを汲んだアルバムとなっている。“ヴァルデス・オフ・クレンショー”はダニー・ハサウェイの“ヴァルデス・イン・ザ・カントリー”からの引用で(ダニーの娘のレイラが本アルバムに参加するのも感慨深い)、「プッシュ」はカーティス・メイフィールドの『スーパーフライ』の“プッシャーマン”を意識したように聴こえる。“トライブ・コールド・ウェスト”はATCQからインスパイアされた曲だそうだが(皮肉にも、先に急逝したファイフ・ドーグへの鎮魂歌となってしまった)、曲自体はキーヨンのトランペットをフィーチャーし、ファンクやアフリカンの要素を取り入れた現代版エレクトリック・マイルスとでもいうようなもの。“シンク・オブ・ユー”ではカマシのサックスとともに女性シンガーのローズ・ゴールドをフィーチャーし、ジャズとソウルの最良の接点を見せてくれる。

 なお、現在テラスはフライング・ロータスやサンダーキャットとともにハービー・ハンコックの新作を制作中とのことで、そちらへの期待も否が応でも高まる。

光りの墓 - ele-king

「後はもれ姫がどうなったのか気になるんだな、でもどういう姫だったのかはもう判りません、もまえらもれのかわりに思い出してください、もれの気持が判れば思い出せますよ。」 笙野頼子『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』2007

 数年前、タイの映画監督と話をしていた時に彼女は「でも私の映画はタイでは上映できない。学生服を着たキャラクターがセックスするシーンが検閲に引っかかる」と言っていましたが、『ブンミおじさんの森』で2010年にカンヌ国際映画祭でパルムドール(最高賞)を獲ったタイの映画監督、アピチャッポン・ウィーラセタクンの新作『光りの墓』も検閲でカットされかねない要素を含むため、始めからタイ国内での上映は無いものとして作られたようだ。

 タイ東北部にある、昔は学校だった建物が今は病院になっている。そこには原因不明の昏睡状態で眠り続ける兵士たちが収容されており、主人公のジェンおばさんが(母校でもある)病院にやってくるところから話は始まる。何だかよく判らないままに入院中のある青年の介護を始めたジェンの、ほぼ周囲のみにおける光景が波紋のように行ったり来たりする映画、とでも言えばいいのだろうか。病院が建っている土地は元は王家の墓だった、という設定が検閲をクリアしないと判断したそうだが、ただそうした「歴史の大きな流れ」から何かを説明しようとする映画ではない。

 この映画の日本版予告編が全編クールな音楽に貫かれているのに対し、本編にはいわゆる「音楽」がほとんど付けられておらず、かなり異なる印象のサウンドスケープで覆われている――隣の工事現場で人が歩いている音、鳥の、または虫の声、回る水車の音から兵士たちが立てる寝息までも――が、全ての好ましい音として組み上げられた光景の中に彼に特有の、音に対する(言うなればDJ的、な)卓越した才能と感覚が響き渡っている。

 アピチャッポンはいわゆる「わかりやすいゲイ映画」を撮るゲイの作家ではない。が、別に本人が秘密にしているわけでもないのに日本では妙に(これまたいかにも日本的な感じで)その部分が触れられないでいるせいで、観客が受け取り損なってしまう要素が案外あるかもしれない。例えば話の途中で、地元の信仰を集める隣国ラオスのお姫様(姉妹)を祀ったお堂が出てくる。ジェンがそこへお参りをした後に「お姫様本人」も「王女です。もう死んでるけど」などと言いながら大変ラフな感じでお出ましになったりするのですが、その祭壇などは何だかもう女装の神棚みたいなのである。

 生きているとも死んでいるとも言いがたい、文字通り「眠っている」さまざまな人や土地の、或いは自分自身の記憶にも触りながら、足の悪いジェンは終始、あくまでゆっくりと画面の中をうごいてゆく。それはまるで、達観した人が眼の前にある風景をただ眺めているかのようだ。だが軍事政権下のタイで撮られた、「眠ったままの兵士(兵士としては機能していない人間)」が見ている夢と現実とをあっさり繋いでしまうこの作品を、ある意味で検閲よりもさらに厄介な「自主規制」によって表現が萎縮しつつある日本で観るとき、「現実を恐れずに先へと進め」というシグナルを受け取らずにはいられない。

Lifted - ele-king

  〈フューチャー・タイムズ〉を運営するマックス・Dと、コ・ラのマシュー・パピッチのユニット、リフテッドの国内盤CDが〈メルティング・ボット〉よりリリースされた。オリジナルはエクスペリメンタル・レーベルとしてほかの追随を許さない〈パン〉から2015年に発表されたアルバムで、しかもCD盤でのリリースは日本のみという快挙。
 最初に断言してしまうが、このアルバムは、 ポスト・インターネット以降のアンビエント/ニューエイジ・シーンでも極めて重要なアルバムである。傑作といってもいい。昨年のリリース時は、どこかワン・オートリックス・ポイント・ネヴァー『ガーデン・オブ・デリート』の登場に掻き消されてしまった印象であったが(皮肉なことにOPNの〈ソフトウェア〉から発表されたコ・ラの新譜も素晴らしいアルバムだった)、その騒動がひと段落ついた2016年だからこそ、この作品の真価が伝わりやすい状況になっているように思えるのだ。

 さて、ここで事態をわかりやすくするために、あえて単純化してみよう。OPN『ガーデン・オブ・デリート』(以下、『G O D』)よりも、リフテッド『1』は、より「音楽的」である、と。もっとも「音楽の残骸」を庭から拾い集めるように組み上げたOPN『G O D』は、いわば20世紀のポップ音楽の亡霊=ゴースト・ノイズのような作品であり、「音だけのインスタレーション」とでも形容したいアート作品であったのだから、「音楽性の希薄さ」は当然だ。そもそもダニエル・ロパティンは、これまでもそういう作品を作ってきた。また、『G O D』は、聴き手に「語り」の欲望を刺激させ、俯瞰的な意識を持たせることにも成功しているのだが(あたかも「神」のように?)、アートにおいて作品と語り(批評)は共存・共感関係にあるので、これもまた当然のことといえよう。その意味で、ダニエル・ロパティンは確信犯的に『G O D』を世界に向けて送り出した(はずだ)。彼は「いま」という時代に、音楽が生き残るためには、単に「音楽」の領域だけに留まっていてはダメだと直感している(と思う)。『G O D』の成功は、その戦略によるものと思われる。

 だが、OPN『G O D』において、確信犯的に切り捨てられた「2010年代以降のアンビエント的な、ニューエイジ的な」音楽の系譜には、「音楽的」進化の余白があることも事実だ。そして、このリフテッド『1』は、その「新しさ」を内包したアルバムなのである。それは何か。これまたザックリと書くと、「2010年代的なアンビエント的な、ニューエイジ的音楽」に、「ジャズのリズム」を分断するように導入することで、「アンビエント+ジャズ」という新たなフォームを生み出している点が、本作特有の「新しさ」である。

 もっともコーネリアス・カーデューが参加したAMMなどの例を挙げるまでもなく、実験音楽やアンビエントとジャズの関係はいまに始まったわけではないし、また、カーデューとブライアン・イーノとの関係を踏まえると、実験音楽からアンビエントの移行は必然ですらあったのだろう。

 だが本作のおもしろさは、オーセンティックなジャズのリズム(ドラム)を分断するようにトラック上にコンストラクションしている点である。いわゆるジャズ的な和声感は皆無なのだ。上モノは極めて端正なテクノ以降の2010年代的ニューエイジ/アンビエント・ミュージックだ。
 そうではなく、『1』で抽出されたジャズ的な要素は、ハイハットとシンバルの非反復的な運動によって生成する音響的なエレメントなのだ。それはビート・キープのため「だけ」に用いられているわけではない。リズムは分断され、ほかの音楽的要素のレイヤーと交錯し、複雑で端正なサウンドを形作っていく。シンバルの音が電子ノイズのように聴こえる瞬間もあるほどだ。
 とはいえオーセンティックなジャズのビートも、ほぼベースによってキープされているものだから、これもまた当然の帰結といえる。しかし90年代のクラブジャズ以降における「ジャズ的記号」の援用はリズムではなく、コード感の簡素な流用にあったわけで、本作のリズム主体のジャズの音響エレメントの抽出は確かに新しいのだ。ちなみにリズム面の豊かさは、パーカッションでゲスト参加のジャレミー・ハイマンの功績も大きいだろう(本作の「新しいワールド・ミュージック」感覚は、今後の音楽を考えていく上で重要ではないか)。

 アルバム中、7分51秒に及ぶ“ベル・スライド”は、「アンビエント+ジャズ」の総決算ともいえる曲だ。まさにジャズ的/アンビエント的/ニューエイジ的なエクレクティック・サウンドで、まるで仮想空間のリゾート・ホテルのロビーで演奏されているような浮遊感に満ちた電子ラウンジ・ミュージックが展開する。この“ベル・スライド”からアンビエント・ジャイアンツであるジジ・マシンの透明なピアノが響く“シルヴァー”に繋がるのだが、これはニューエイジ/アンビエントの歴史性を意識した構成といえよう。
 ジジ・マシンは近年再評価が著しいアンビエント音楽家である。彼が自主制作した『ウィンド』は中古市場において高値で取引されていたが、昨年、アムステルダムの優良アンビエント再発レーベル〈ミュージック・フロム・メモリー〉からようやくリイシューされた。また同レーベルからリリースされていた未発表音源集『トーク・トゥー・ザ・シー』も素晴らしいアルバムで、彼の黄昏の色のアンビエント感を満喫できる作品集であった。現在のニューエイジ/アンビエント・シーンを語る上で、最上級のリスペクトを受ける重要人物である。
 本作はその彼に深いリスペクトを捧げている。それほどまでに、この『1』において、ジジのピアノはアルバムの中心で深く、深く、鳴り響いているように聴こえるのだ(ジジ・マシンは続く“ミント”にもギターで参加)。『1』における彼の演奏は、ヒトのいない仮想世界に、不意にヒトによる真に美しい音楽が鳴り響くような感覚をもたらしてくれる。
 むろん、ゲストはジジ・マシンだけではない。マックス・Dとマシュー・パピッチは、ジェレミー・ハイマン、ダヴィト・エクルド、ジョーダン・GCZ、そしてモーション・グラフィック=ジョー・ウィリアムズらと共に、アンビエント/電子音楽の「庭」に新しい種を蒔いていく。そう、新しい「音楽」を育てるために。

 ここまで書けばわかるだろう。本作が2016年にもう一度、「新譜」としてリリースされる意味、それは『ガーデン・オブ・デリート』的な「音楽の廃墟の庭」に、仮想空間のラウンジ・ミュージック、新しいニューエイジ、海の煌きのようなアンビエント、ジャズのリズム・エレメント、新世代のワールド・ミュージックなどの音楽の種が、すでに「蒔かれていた」ことを実感できる点にある。そう、この2015年作品にこそ、2016年以降の「新しいモダン・アンビエント/モダン・ニューエイジ」の萌芽であった、とはいえないか? そして、〈パン〉主宰のビル・コーリガスのモダニスト的な審美眼にもあらためて唸らされてしまうのだ。

Cullen Omori - ele-king

 戻ってきたインディ・キッズたちに伝えたいアルバムだ。
 スミス・ウェスタンズが鮮やかに登場した2010年前後に、彼らと同じような年齢だった──おそらくはいまそれぞれに20代半ばを過ぎようとしていて、もうジェットセットには通っていないけれども、ときどきはなにかいい音楽が聴きたいなというひとたち。
 フロントマンのカレン・オオモリも同じような年齢で、同じように少しだけ齢をとっている。
かつてローファイ・ブームの上でおもいきりレイドバック・サウンドを楽しんでいたスミス・ウェスタンズだが、時は移ろい、ブームもひと段落した。そしてバンドは静かに分解し、オオモリもひとりで曲をつくりはじめる。
 そんな中で彼が自分なりのソングライティングを模索していく過程は、きっと多分に内省的な時間でもあったことだろう。自身初のソロ・アルバムとなる本作は、そうしたことがありありと想像される作品だ。彼の「その後」は、どんなふうにつづいていくのだろう。そして、あの頃手にしたSWのシングル盤は、もしかしたらただ仲間内での背比べのアクセサリーだったかもしれないけれど、いまなら本当に聴けるかもしれない。この『ニュー・ミザリー』を通して。

 当時について少し補足すると、舞台は2010年前後、あれはインディ・ロックが最後に輝いた時期だったのかもしれない──ローファイの一大ブームはガレージ・サイケを現代風に磨き上げ、トゥイーやジャングリー・ポップといった概念にふたたび光を当て、ウォール・オブ・サウンドを真似たレトロな音にビーチ・ポップ等の名を与え、シューゲイズのリヴァイヴァルやチルウェイヴとも交差した。シットゲイズなんて言葉もあった……まさに塵芥のように散ったけれども、だからこそ胸に残っている
 ザ・ドラムスの最初のEP『サマータイム!』やザ・モーニング・ベンダースの『ビッグ・エコー』が、リアル・エステイトの同名ファーストが、ベスト・コーストの『クレイジー・フォー・ユー』が、ウェイヴスの『キング・オブ・ザ・ビーチ』が、ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートのこれまた同名アルバムが……いっせいに出てきたタイミングだ。スミス・ウェスタンズもこうした無数の才能たちとともに、シーンに大きな星座を描いたバンドだった。

 そしてこのアルバムは「大人の自分に手紙を書いた/諦め時をわきまえててありがとうと」と歌う“ノー・ビッグ・ディール”からはじまる。タイトルは『新しい苦悩』だ。ニルヴァーナの『ネヴァーマインド』がズタズタにコラージュされたスミス・ウェスタンズのファーストは、盛大にオーヴァーコンプ気味でノイジーなお気楽ガレージ・ナンバーが詰まっていたが、本作はテンションもプロダクションもなんとも対照的である。ごく内省的で、もったりと重いドリーミー・サイケ。勢いやラフさを捨て、楽曲としての輪郭と水準、そして歌を優先している。ジョン・レノンのソロを彷彿させる。「諦め時」という詞がそのまま彼の境遇や心情を表すものだとは言わないまでも、オオモリのいまがけっしてアッパーでイケイケではないことがまるで随筆のように伝わってくる。20代の真ん中は本当にぐるぐるとしてくるしく、くるおしいですよね。しかしそれは迷いの時間ではあっても、ネガティヴな時間ではけっしてなさそうだ。新しさもエッジもないが、生きている時間の切実さ、リアリティが、きちんと美しい楽曲として実を結んでいる。それは私たちがポップ・ミュージックに求めるものの中で重要なことのひとつであることは間違いない。

 もうひとつ、シンセに向かっていることも特徴だろう。サポート・プレイヤーにはMGMTのバンド・メンバーを務めるというジェームス・リチャードソンや元セレモニーのライアン・マットスの名も見える。ロックとエレクトロニック・ミュージックの狭間で、ポップスの2000年代を見つめてきた人々だ。もちろん「シンセ・ポップをやってみました」という安直な転身ではないからご安心を。むしろギターと溶けながら、あくまで彼の歌……心や魂と言いかえてもいい、を支える、柔らかくぬくもりある材質としてきこえてくる。10代のエネルギーの遠心力では回れない、しかし成熟にはまだまだ時間を必要とする、そんな時期を正直に生きるための音楽ではないだろうか。

Lafawndah - ele-king

 いつも少し遅い。だがそれゆえいつも質が高く、ポイントは外さない。それが〈Warp〉というレーベルの性格である。
 昨年リリースされたフューチャー・ブラウンのアルバムからも聴き取ることができたように、近年のベース・ミュージックは、従来ならワールド・ミュージックという言葉で呼称されたであろう領域から様々な要素を貪欲に摂取し、どんどんその境界線を書き換えていっている。あるいは南アフリカのシャンガーン・エレクトロやリスボンのゲットー・サウンドがそうであるように、いまやワールド・ミュージックそれ自体がベース・ミュージックという文脈の中で生き直しを図っているのかもしれない。
 ともあれ、そのようにベース・ミュージックとワールド・ミュージックとが混淆していく様を数年遅れで少しずつパッケージしてきた〈Warp〉が、ここにまたひとり新たな才能を送り出した。

 ラファウンダことヤスミン・デュボワはパリで生まれ育ち、現在はニューヨークを拠点に活動しているシンガー/プロデューサーである。かつてソルボンヌで美術史を研究していたという彼女は、ニューヨークやメキシコでギャラリーのキュレイターを務めた後、ラファウンダという名義で音楽活動を開始する。2014年には〈ナイト・スラッグス〉のボスであるエルヴィス1990やケレラと一緒にレコーディングをおこなったり、ティーンガール・ファンタジーのEPに客演したりしながら、デビューEP “Lafawndah” を発表。日本で開催された Red Bull Music Academy Tokyo 2014 にも参加している。そして2015年の秋、ケレラに続く形で〈Warp〉と契約を交わし、年明け後セカンドEPとなる本作をリリースした。
 グアドループで録音された前作ではズークが参照されつつも、ラテン・ミュージックのステレオタイプを解体していくような独自のダンス・ミュージックが展開されていたが、本作でもそのようなリズムの探求は続けられている。

 エルヴィス1990との共作である “Town Crier” は、軍隊的でもあり土着的でもあるドラムが前面に押し出されており、インダストリアルからの影響を聴き取ることができる。このトラックは、昨年大統領選への出馬が取り沙汰された法学者ローレンス・レッシグに対しラファウンダ自らがおこなった、「市民的不服従」をめぐるインタヴューとセットで公開されたもので、彼女のポリティカルな側面が打ち出されたマニフェストとして聴くことも可能だろう。

 続く “Ally” では、彼女の標榜する「儀式的クラブ・ミュージック」の側面が強調されている。アーロン・デヴィッド・ロス(ゲイトキーパー)とニック・ワイス(ティーンガール・ファンタジー)との共作であるこのトラックでは、軽やかに転がるパーカッションの上を狂ったようなパンパイプが吹き荒れ、どことなく M.I.A. を思わせるラファウンダのヴォーカルが、それらに追い立てられるように疾走していく。

 そして白眉は何と言ってもタイトル・トラックの “Tan” だろう。
 タイトルの "tan" という語は、デューク・エリントンのミュージカル『ジャンプ・フォー・ジョイ』でアフリカン・アメリカンを指すために用いられた "suntanned" (「日焼けした」)という語から採られている。ニーナ・シモンから影響を受けたというラファウンダだが、このタイトルが仄めかしているのは、エジプト人とイラン人との間に生まれた彼女が、西欧社会で暮らしながらブラック・ミュージックを受容することによって獲得した、独特のゆがみやねじれだろう。まさにそのゆがみやねじれこそがこのトラックの低音を作り上げている。
 変則的なドラムがヴォーカル・サンプルにまとわりつかれながらトラック全体の時間を支配し、狂騒の後に訪れる静寂を際立たせる。まるで単調なリズムに身を任せて享楽に耽ることに対し異議を申し立てているかのような、それでいてダンスへの意志は絶対に放棄しない、そういう稀有な作りになっている。これはいわば慣習への抵抗であり、おそらくは彼女の「市民的不服従」の思想とも照応しているのだろう。

 ところで、この特異な音楽にはまだ名前がない。ベース・ミュージックにしろワールド・ミュージックにしろ、それらはあくまで抽象的な総称である。現在ラファウンダはアルバムを制作中とのことだが、彼女が今後も本作のような刺戟的なリズムの探求を継続し、両者の境界を攪乱し尽くした後になってから、ようやく新しい言葉が生み出されるのだろう。
 いつも少し遅い。〈Warp〉がではない。言葉がだ。

デイヴィッド・シルヴィアン - ele-king

ジャパン解散後、なかば人目を避けるように暮らしながら、純粋なまでに自らの芸術活動を貫く──
デヴィッド・シルヴィアンの評伝の大作、いよいよ翻訳刊行!

いまだに根強いファンを持つデヴィッド・シルヴィアン。
探求心と美学を失うことなく、いまだにコンスタントな活動を続けているこの芸術家は、いったい何を考えなが ら、どこで、どんな風に作品を作ってきたのか?
膨大な資料、発言、証言をもとに、彼のソロ活動を音楽の観点から、そして歌詞の観点から詳細に綴る、デヴィッド・シルヴィアンの評伝がいよいよ刊行される。

「デヴィッド・シルヴィアンはなんだか謎そのものに思える。
ジャパン後の人生で最高の音楽を作っていながら、彼はほとんど隠遁者のようになってしまった」
「私としては、シルヴィアンが歌を書いたときどこに暮らしていたか、結婚していたかどうか、どのレコード会社に所属していたか、
どんな精神的・哲学的思想が彼の作品にみなぎっていたか……といったことが違いを生むと考えている」
「音楽が作られた状況を表わすのだ。作品を聞けば自ずとわかるはずだと言う人もいるかもしれないし、実際そうなのではあるが、
新しい次元を開いてくれるささやかな状況説明は、まったくの別物なのだ」
(本書、序文より)


目次

PART 1:ふさわしい語彙を求めて
今やひとりぼっちの僕/より良い世界が目の前に/広がる可能性/過ぎ去りし日々/ふたたび戦いに敗れ

PART 2:救済への道
波に足を取られて/愛の家へと/歓喜に倒れ込んで/恩寵は僕の知人/弾丸は放たれた

PART 3:灰色の空
真実の始まり/ネクタイを直せ/世界がすべて/仕返ししてやったんだ/時代の終わりの歌/影たちは息を潜め/さすらいに飽きて/あたりに家はない

 バンクシーの作品を見ていると、グラフィティ・アートというのは、何を書くか、ではなく、どこに書くか、がアイディアの9割なんだなとよくよくわかる。ロンドンのテイトやNYのメトロポリタンなどの美術館、ディズニーランドや動物園、パレスチナの分離壁から観光名所まで。アイロニックで、しばしば反芸術的なほど思い切った叙情的、感傷的でわかりやすい物語を臆面もなく盛り込むバンクシーの作品は、それが描かれ、置かれる場所によって即座に無敵の攻撃力を備えてしまう。

 2013年10月に選ばれた「場所」はニューヨーク・シティ。毎日、市内のどこかに作品を展示するという告知に、ファンやマスコミは大騒ぎ──この映画の主役はこの展示そのものだ。文化的なアートの街は、再開発で金持ちしか暮らせなくなっている。猥雑と多様性と変化と寛容の空間だった「都市」は、広告が貼りめぐらされ監視カメラに見守られる、清潔で安全で流動性のない不寛容な空間に成り果てている(これは世界中ほとんど同じことだ)。

 そもそもグラフィティ・アートは存在を許されていないものだった。生まれた瞬間から消される運命にあって、多くの敵に囲まれている。その運命に逆らって束の間の表現として現れては消える花火みたいなもので、いいとか悪いというものではなく、都市とはそういうものだった。ところがバンクシーのグラフィティ「作品」は行政の特別扱いで保存され観光名所になったり、あるいは壁ごと売買されたりする。他のグラフィティ同様いつ消されるかわからない非合法な存在ながら、オークションで高値をつけて流通もするという矛盾がまた別の敵視を呼んだりもする。「都市や屋外や公共の場所こそ、アートが存在するべき場所なんだ。アートは市民とともにあるべきだ」と言うバンクシーがこの作品で描いたのは、1970年代くらいまで「都市」と呼ばれていたあの空間そのものだ。いや、違う。資本主義の商品でしかなくなり、消滅しかかっている都市の(懐かしい)空気をも相対化して、21世紀の新たな都市空間を作り出している。“展示”をお祭りのように楽しもうとする市民やファン、どこかに金儲けのチャンスがないかとうかがう画商や“庶民”たち、“落書き”を一刻も早く消そうとする者や保存しようとする者も、アンチ・バンクシーの手で重ね書きされた作品の“修復”をする者もいる。汚れていく壁、正体不明、群がる群衆──それぞれがそれぞれのやり方でこの予測できない事件を体験し、楽しもうとする。狂奔するメディア、さらに思いがけない裏をかくバンクシー。
 “展示”によって現れるすべての現象が、いまではすっかり鳴りを潜めている「都市的なもの」を活性化する。この映画もまたそのひとつだ。2013年10月にニューヨークで起きたことを追いかけるこの映画は、バンクシーの展示へのリアクションへのリアクションでもある。

 すべては、追いきれないほどのスピードで疾走する。案の定であり予想外であり、既知であり未知であるそれらエピソードのひとつひとつが追いきれないほどの意味と無意味のシャワーになって頭の中を揺さぶる。どんなメディアも、どんな野次馬も、どんな反骨のグラフィティ作家も、あるいはどんな資本主義的野心すら、バンクシー独特の手法と行動力が凌駕する。再開発ラッシュで更地だらけになってきた東京の、オリンピック後の生き方にまで想像が伸びてゆくだろう、きっと。

Kerridge - ele-king

 サミュエル・ケーリッジの新譜『ファタル・ライト・アトラクション』が、カール・オコーナー(リージス)主宰の〈ダウンワーズ〉からリリースされた。〈エディションズ・メゴ〉が送り出した刺客イヴ・ドゥ・メイの新譜と並んで、2016年初頭の重要トピックといえよう。これらの作品にはインダストリアル/テクノのモードを刷新する新しさがあるように思える。それは何か。ひとつは人間以降の世界への渇望ともいうべき終末論的な雰囲気が濃厚であること。さらには、そのアトモスフィアを体現するために、サウンドの分裂性や分断性がより推し進められ、テクノの領域に強烈なノイズが侵食していること。とくに『ファタル・ライト・アトラクション』は、その傾向が非常に強い。まさに、闇の中に生成する光とノイズの饗宴だが、ベルリンで開催されたアブストラクトでモダンなテクノ・ミュージックのフェス〈ベルリン・アトーナル〉でのパフォーマンスを元にしているという点も大きな要因かもしれない。

 〈ベルリン・アトーナル〉は、ディミトリ・ヘーゲマンにより1982年から開催され、ベルリンの壁が崩壊した1990年にその歴史に幕を下ろした「伝説」のエクスペリメンタル・ミュージック/テクノ・フェスで、2013年に23年ぶりの復活を遂げている。
 2015年の同フェスにおいては、トニー・コンラッドとファウストの名盤『アウトサイド・ザ・ドリームシンジケート』のパフォーマンスをヘッドライナーに、リージス、ペダー・マネーフェルト、モーリッツ・ヴォン・オズワルド、マイク・パーカーらのパフォーマンス、カンディング・レイとモグワイのバリー・バーンズの競演、そして日本からはリョウ・ムラカミを迎えるなど、じつに見事なアーティスト・キュレーションで話題を呼んだ。しかも会場は、2014年に続き原子力発電所跡地=クラフトヴェルク(現在はディミトリ・ヘーゲマンの〈トレゾア〉がある建物内にある工業スペース)という。

 ケーリッジのライヴ・パフォーマンスの模様は、映像でも(わずかな時間だが)観ることができる。会場である原子力発電所跡地=クラフトヴェルグは、まるで西欧の廃墟となったカテドラルのようなダーク・ロマンティックな雰囲気を漂わせており、まさに完璧なロケーション。その巨大な天井の高さは日本では再現不可能とも思えるほどで、薄暗い巨大な空間に縦に長くそびえる純白のスクリーンに投影される光と影と音響のコントラストが途轍もなくクールだ。これは会場で体験してみたいという欲望を強く持ってしまう。

 このアルバムには、そんな彼のパフォーマンスの記録が冷凍保存されている。高圧的な電子ノイズと、歪んだアジテーション・ヴォイスと、性急なリズムによって脳髄を刺激するようなサウンドは、この会場からの影響も大きいとも思えるが、しかしもともとケーリッジの音楽/音響の中に炸裂していた終末論的な思想とフィードバックを起こした結果でもあるのだろう。私などは、その融合の結果として、本作のようなインダストリアル/テクノ「以降」の現在を象徴するような作品が生まれたのではないかと想像してしまう。

 1曲め“FLA1”からして凄まじい。高周波電子ノイズとアジテーション・ヴォイスのループとレイヤー、錆びた鉄を打つかのような打撃音、生々しい電子音、性急なキック、強烈な電子ノイズが鼓膜を強烈に刺激する。このような音こそ、2010年代のインダストリアル/テクノのモードを刷新するサウンドではないか。ノイズから律動へ。アタックから絶滅的光景へ。光の律動(爆心地?)のような終末的な音響。不穏な世界の空気を、モダン/クールなアートフォームにトランスレーションしてきた先端的なインダストリアル/テクノが描き出す光景は、いま、別の領域へとシフトしつつある。光の臨界点の中で。

 それほどまでに、このアルバムが放射している光の刹那のようなノイズには新しいモードを感じるのだ。もはやインダストリアル/テクノというよりも、パワーエレクトロニクス/テクノとでも形容したいほどである。リリースされたばかりのジェノサイド・オルガンの新譜(最強にして最高)とともに聴いてもまったく遜色がない(とあえていってしまおう)。

 2010年代的なインダストリアル/テクノのネガティヴ・モダン・モードは、いま、刷新されたのかもしれない。怒りと衝動、それを俯瞰する人類絶滅以降の冷徹さ。光。絶滅的。そんな「いま」の気分とモードが、このアルバムには、たしかにある。 だが、それは世界不穏そのものであり、いま、西欧社会がクラッシュしつつあることの反映でもあるはずだ。そう、音楽は世界の無意識を映し出す鏡なのだから。

Dot Product - ele-king

 このアルバムでデビューを果たすドット・プロダクトは、ウェッジ名義で活動していたアダム・ウィンチェスターと、ライデンやカミカゼ・スペース・エクスプローラーとして知られるクリストファー・ジャーマンのふたりからなるプロジェクトだ。本作の制作にあたって彼らが音源として使用しているのは、フィールド・レコーディングにより採集されたライブラリーや、生活環境の中に漂っている電磁波を音声化したサウンドだ。そうした音素材にサウンドプロセッシングを施してトラックにまとめ上げたのが本作に収録された9曲である。

 「テクスチャーを強く意識してダンス・ミュージックを制作してきたふたりが電子楽器に飽き足らず新鮮な音源を求めて自然界へ、ひいては、知覚領域を超えた電磁波へ目を向けた」
 そう書くとあまりにもおおげさに思えるのは、フィールド・レコーディングや電磁波を音声化するという行為そのものは決して目新しいものではないからだ。2013年のフリードミューン・ゼロでは電磁波によって引き起こされるドーンコーラスに合わせて演奏がおこなわれているし、電子機器から発せられる電磁波を音声化するエレクトロスラッシュという機材が安価で発売されてもいる。

 本作が面白いのは、ふたりがそうした行為を目的にするのではなく、制作手段のひとつとして取り入れて、楽器の表現力に匹敵するレベルまで高めている点だ。例えば1曲目の“バルーンズ”では、採集してきた音素材がキックやベースとして使えるように加工されているし、中盤に配置される物悲しげなムードを醸すサウンドは、マックス・ローダーバウアーのフィンガーボード演奏を聞いているかのようだ。4曲目の“アトモスフィア・プロセッサー”というタイトルは非常に言い得ていて、散り散りのノイズが打ち寄せるなか、叙情的で壮大な雰囲気が醸し出されている。単なる自然音に過ぎないフィールド・レコーディングや電磁波に叙情性がもたらされているのは、ドット・プロダクトの手腕と音楽性の表れだといっていい。ただ音を持ってきて張り付けただけでは、このような仕上がりにはならないだろう。

 一方で、複雑な倍音構造を持つ自然界の音を加工したことによるテクスチャーの豊かさも際立っている。6曲目の“アニメーション”での圧搾ノイズや統制されたフィードバック音、そして、最後の“エクストリーミス”における激しいハムノイズやハウリング音など、変化に富んだ聴き応えのあるサウンドが散りばめられている。
 しかし本作の聴きどころはやはり、ふたりが異質な素材を単に羅列するのではなく、一見、無機質に思えるテクスチャーから発露される一種のムードを捉えて、冷ややかな雰囲気の漂う楽曲を生み出している点にある。『ぼくのエリ 200歳の少女』の上映時にドット・プロダクトのサウンドを流すという企画が依頼されるのも、映画を演出するに足る雰囲気をふたりが生み出せると期待されているからだろう。彼らがテクノからドラム&ベースまで様々なダンス・ミュージックを制作してきたことを踏まえると、個人的には、今回のコンセプトに則ったうえでフロア志向のトラックを制作すれば面白い結果になるのでは? という気がしている。

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