Home > Reviews > Film Reviews > 光りの墓
「後はもれ姫がどうなったのか気になるんだな、でもどういう姫だったのかはもう判りません、もまえらもれのかわりに思い出してください、もれの気持が判れば思い出せますよ。」 笙野頼子『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』2007
数年前、タイの映画監督と話をしていた時に彼女は「でも私の映画はタイでは上映できない。学生服を着たキャラクターがセックスするシーンが検閲に引っかかる」と言っていましたが、『ブンミおじさんの森』で2010年にカンヌ国際映画祭でパルムドール(最高賞)を獲ったタイの映画監督、アピチャッポン・ウィーラセタクンの新作『光りの墓』も検閲でカットされかねない要素を含むため、始めからタイ国内での上映は無いものとして作られたようだ。
タイ東北部にある、昔は学校だった建物が今は病院になっている。そこには原因不明の昏睡状態で眠り続ける兵士たちが収容されており、主人公のジェンおばさんが(母校でもある)病院にやってくるところから話は始まる。何だかよく判らないままに入院中のある青年の介護を始めたジェンの、ほぼ周囲のみにおける光景が波紋のように行ったり来たりする映画、とでも言えばいいのだろうか。病院が建っている土地は元は王家の墓だった、という設定が検閲をクリアしないと判断したそうだが、ただそうした「歴史の大きな流れ」から何かを説明しようとする映画ではない。
この映画の日本版予告編が全編クールな音楽に貫かれているのに対し、本編にはいわゆる「音楽」がほとんど付けられておらず、かなり異なる印象のサウンドスケープで覆われている――隣の工事現場で人が歩いている音、鳥の、または虫の声、回る水車の音から兵士たちが立てる寝息までも――が、全ての好ましい音として組み上げられた光景の中に彼に特有の、音に対する(言うなればDJ的、な)卓越した才能と感覚が響き渡っている。
アピチャッポンはいわゆる「わかりやすいゲイ映画」を撮るゲイの作家ではない。が、別に本人が秘密にしているわけでもないのに日本では妙に(これまたいかにも日本的な感じで)その部分が触れられないでいるせいで、観客が受け取り損なってしまう要素が案外あるかもしれない。例えば話の途中で、地元の信仰を集める隣国ラオスのお姫様(姉妹)を祀ったお堂が出てくる。ジェンがそこへお参りをした後に「お姫様本人」も「王女です。もう死んでるけど」などと言いながら大変ラフな感じでお出ましになったりするのですが、その祭壇などは何だかもう女装の神棚みたいなのである。
生きているとも死んでいるとも言いがたい、文字通り「眠っている」さまざまな人や土地の、或いは自分自身の記憶にも触りながら、足の悪いジェンは終始、あくまでゆっくりと画面の中をうごいてゆく。それはまるで、達観した人が眼の前にある風景をただ眺めているかのようだ。だが軍事政権下のタイで撮られた、「眠ったままの兵士(兵士としては機能していない人間)」が見ている夢と現実とをあっさり繋いでしまうこの作品を、ある意味で検閲よりもさらに厄介な「自主規制」によって表現が萎縮しつつある日本で観るとき、「現実を恐れずに先へと進め」というシグナルを受け取らずにはいられない。
文:岩佐浩樹