「Noton」と一致するもの

第33回:パンと薔薇。と党首選 - ele-king

 それはある晴れた夏の日のことだった。
 鬱気質であまり明るい人間ではない筈のうちの連合いが、爽やかな笑顔を浮かべてロンドンから帰って来た。癌の検査で病院に行って来た男が、また何が嬉しくてこんな陽気な顔で帰ってきたのだろうと訝っていると、彼は言った。
 「ロンドンがいい感じだったよ」
 「いい感じって?何処が?」
 「いや全体的に」
 と言って口元を緩ませている。
 「なんか、昔のロンドンみたいだ。俺が育った頃の、昔のワーキングクラスのコミュニティーっつうか、そういう息吹があった」
 相変わらずわかりづらい抽象的なことしか言わないので、具体的にどんな事象が発生したのでその「息吹」とやらを知覚したのかと問いただしてみると、こういうことだった。

 自分が行くべき病院の場所を知らなかった連合いは、ヴィクトリア駅前のバスターミナルに立っていた。おぼろげにこっち方面のバスだろうなあ、と思いながらバス停のひとつに立っていたおばちゃんに「○○病院に行きたいのですが」と話しかけると、「ああ、それならこのバス停だよ。○番のバスに乗って、11番目、いや待てよ、12番目かな、のバス停、左側に大きなガソリンスタンドと貸倉庫が見えて来るから、それをちょっと過ぎたところでバスを降りて、道路を渡ったら煙草屋があるから、そこの角を右に曲がって100メートルぐらい歩いたら云々」とやたら詳しく説明をはじめ、「ああ、でも、アタシそのバスでも家に帰れるから、一緒に乗って、あなたがバスを降りる時にまた教えてあげる」と言ったそうだ。それを聞いた連合いは感心し、「いやあ、今どき、こういうローカルな知識のある人にロンドンで会えるなんて新鮮です。今の世の中はソーシャル・ディヴァイドが進んで、気安く人に話しかけれらない」と言うとおばちゃんは言ったそうだ。
 「いや、ロンドンは変わるんだ。昔のようなコミュニティ・スピリットが戻って来るんだよ」
 おばちゃんはそう胸を張り、
 「あなた、ジェレミー・コービンって知ってる?」
 と唐突に言ったらしい。
 「ああ。すごい人気ですよね」
 「彼はもう30年もイズリントンの議員だった人だよ。ロンドンっていうとすぐウエストミンスター政治って言われるけど、ロンドンのストリートを代表する政治家だっているんだ」
 バスに乗り込んでもおばちゃんは連合いの隣に座ってコービン話を続けたそうだ。
 「俺はジェレミー・コービンの言うことは全て正しいと思うけど、それと政党政治とはまた別物だから……」
 と連合いが言うと、後ろの席に座っていた学生らしい若い黒人女性が
 「私、実はジェレミーを支持するために労働党に入りました」
 と言い、脇の折り畳み式シートに座っていた白髪の爺さんも
 「ゴー、ジェレミー」
 とこっそり親指を立てていたそうだ。
 「ひょっとしてこれはコービン・ファンクラブのバスか何かですか?」
と連合いが言うと、乗客たちがどっと大笑い。みたいなたいへん和やかな光景が展開され、病院近くのバス停で降りるときにはおばちゃんがまた懇切丁寧に病院までの道筋を教えてくれ、病院に着いてからも心なしか受付のお姉ちゃんも看護師もみんな気さくで親切で、ロンドンがきらきらしていたというのだ。
 「それ、天気がよかったからじゃないの?」(実際、天気がいいと英国の人々は明るい)
 とわたしは流しておいたが、ロンドンであんなポジティヴなヴァイブを感じたのは数十年ぶりのことだと連合いは力説していた。

 それが日本に発つ前日のことで、2週間帰省して英国に帰って来てみれば、SKYニュースの世論調査で党首選でのコービン支持が80.7%などという凄い数字になっていた。
 今年の総選挙で英国の世論調査がどれほどあてにならないかということが露呈されたとはいえ、さすがにこれでコービンが労働党の党首に選ばれなかったら裏でトニー・ブレアたちが何かやってるだろう。

 しかし、たったひとりの政治家がストリートのムードまで変えてしまうというのはどういうことなのだろう。

 わたしも日本語のネットの世界ではけっこう早くからコービン推しをしてきたひとりだと思っているが、正直なところ、「どうせ彼が勝つわけがない」という前提はあった。
 ここら辺の気もちは、立候補当初から彼を全力で支援してきた左派ライター、オーウェン・ジョーンズも明かしているところで、彼も「3位で終わるだろうと思っていた」と書いている。しかも、コービンの立候補を知った時の最初のリアクションは「心配だった」と表現している。彼のいかにも政治家らしくないキャラクターが、「反エスタブリッシュメント」のシンボルとしていろいろな人々に利用されはしないかと思ったという。
 オーウェンとコービンは10年来の友人だ。いわゆる「レフトがいかにも行きそうなデモや集会」でしょっちゅう会っていたからだ。拙著『ザ・レフト』にも書いたところだが、「草の根の左派の運動をひとつにまとめてピープルの政治を」というのは、ここ数年、英国でずっと言われて来たことだ。が、オーウェンは「まだ自分たちにはその準備ができていない」と思っていたという。それがコービンの党首選出馬によって数週間のうちに現実になって行くのを見ると、左派にとっては「嬉しい誤算」というより、「へっ?」みたいな戸惑いと怖れがあったのだ。

 ビリー・ブラッグもその複雑なところをFacebookに吐露している。
「労働党の党首選には首を突っ込まないつもりだった。党員ではなく、支持者として見守るつもりだった。党内の人びとに決定させ、自分はその結果を見て労働党を支持するかどうか決めようと思っていた。コービンが立候補した後でさえ、気持ちは変わらなかった……(中略)……だが、僕の気が変わったのは、トニー・ブレアが『自分のハートはコービンと共にある、などと言う人はハート(心臓)の移植手術を受けろ』と言った時だった。僕は労働党にハートのない政党にはなって欲しくない」

           *******

 月曜日にBBC1の「パノラマ」というゴールデンアワー放送のドキュメンタリー番組で、ジェレミー・コービンの台頭について特集していた。今週の土曜日に党首が発表されるというのに、そこまでやるかというぐらいにアンチ・コービンな内容の番組だった。
 BBCは労働党のブレア派と繋がりが深いとは言え、またこれは露骨な。と驚いたが、メディアがこうした報道をやればやるほどコービン人気はうなぎ上りに盛り上がる。

 英国民を舐めちゃいかん。
 ここは昔パンク・ムーヴメントが起きた国だ。
 「それはダメ」「それだけは絶対にいけない」と言われると、無性にそれがやりたくなるのである。

           *******

 コービンに関する不安は、わたしもずっと継続して持っている。
 過去20年間UKに住んで、これだけ大騒ぎされ、まるで新興宗教の教祖のようにもてはやされている政治家を見たのは、トニー・ブレア以来だ。ブレアはあの通りギラギラとエゴが強力で、もともとロックスターを目指していた人だから、ほんとに教祖になったつもりでパワーをエンジョイできた。が、コービンのような「我」のない普通の人がいきなり国中のピープルから教祖にされたら悲劇的に崩壊しそうな気がするからだ。

 けれどもコービンについて熱く語る若い人たちや地べたの労働者たちを見ていると、ここに至る流れは確かにあったと、それを止めることはできなかったと思わずにはいられない。
 例えば昨年は『パレードへようこそ』という映画の思わぬ大ヒットがあり、英国では北から南まで国中の映画館で観客がエンドロールで立ち上がって拍手していたそうだが、あの映画でもっとも印象的なのはストライキ中の炭鉱の女性たちが有名なプロテストソング「パンと薔薇」を歌うシーンだ。


 私たちは行進する 行進する
 美しい昼間の街を
 100万の煤けた台所が
 数千の屋根裏の灰色の製粉部屋が
 きらきらと輝き始める
 突然の日の光に照らされて
 人々が聞くのは私たちの歌
 「パンと薔薇を パンと薔薇を」

 私たちは行進する 行進する
 私たちは男たちのためにも戦う
 彼らは女たちの子供だから
 私たちは今日も彼らの世話をする
 暮らしは楽じゃない 生まれた時から幕が下りる時まで
 体と同じように 心だって飢える
 私たちにパンだけじゃなく 薔薇もください   
               “Bread and Roses”


 ネットに投稿されている誰かが描いたコービンのイラストに、彼が胸に一輪の薔薇をつけている画像がある。(今ではそんなこたあ誰も覚えてないように見えるが)英国労働党のシンボルも実は一輪の赤い薔薇だ。昨日と今日にかけて、わたしは11人の英国人に「薔薇って何のこと?」と尋ねた。ひとりは「愛」だと言った。もうひとりは「モラル」だと言った。そして残りの9人は「尊厳」だと言った。

 日本で左派が「お花畑」と呼ばれることがあるのはじつに言葉の妙というか面白いが、パンが手に入りにくくなる苦しい時代ほど、人間は薔薇のことを思い出す。

 今週末、英国でついにその薔薇が再び咲くかもしれない。
 長いこと人気のない温室でしか咲かなかったその薔薇が、風雪にさらされる場所に咲いても大丈夫なのか、どうすればわたしたちはそれを枯らさずにいられるのか、これからが本物の正念場だ。

カニエ・ウエスト、大統領選に出馬表明 - ele-king

 ヒラリー・クリントンによる私用メール疑惑が転機となったか、保守系メディアを二分するほどドナルド・トランプが支持率を上げた(ネオ・ナチまでエールを送り始めた)ことに刺激を受けたとしか思えない……そう、MTVアワードのステージでカニエ・ウエストが2020年の大統領選に出馬を表明したのである。マスコミの反応はさすがというのか、もしもカニエ・ウエストが大統領になったらファースト・レディとなるキム・カーダシアンは何をするのかという話題に集中している。一般の人にとってはカーダシアン一家の方が知名度は高いので、なるほど、自然なバカ騒ぎはそっちへ向かうのかと。今年のグラストンベリー・フェスティヴァルでもステージで“ボヘミアン・ラプソディ”を熱唱していたカニエ・ウエストは冷笑されて一蹴という感じだったけれど(アメリカのラジオ局はカニエ・ウエストが歌うのを聴いてフレディ・マーキュリーが笑い転げるという動画まで投稿していた)、むしろ最前列で見ていたキム・カーダシアンに話題は偏っていた。しかも、カーダシアンの名を飛躍的に高めたセックス・テープの一場面をデカいフラッグにして振っていた客をめぐって論争が果てしなく広がっていく始末で、フェスが終わってからカニエ・ウエストが「オレはいま、地球最大のロックスターだ」という発言も、この論争から目をそらすためのブラフにしか感じられなかった。もはやカニエ・ウエストはキム・カーダシアンのコマーシャルみたいなものである。

 カーダシアン・ファミリーのことを知らない人に少し説明すると、まずはロバート・カーダシアンがO・J・シンプソンの裁判で弁護士を務めたことに遡る。アルメニア系の事業家として成功していたロバート・カーダシアンは、スカッシュか何かで知り合いになったO・J・シンプソンのために20年ぶりに法廷にボランティアで参加し、一躍、知名度を上げる。そして、金持ちの生活ぶりが見たいということだったのかなんだったのか、彼らの生活ぶりが当時のアメリカのリアリティ番組では最も高額のギャラだったと言われる『キーピング・アップ・ウイズ・ザ・カーダシアンズ(Keeping Up with the Kardashians)』として放送されることに。キムだけではなく、コートニー・カーダシアン、クロエ・カーダシアン、ロブ・カーダシアンが世間の目に触れることになる。セレブリティではなく、親の遺産を社会活動に使う子孫はアメリカではソーシャライトとして区別されているけれど、それ以前からTVに出演したり、『プレイボーイ』でヌードを披露していたキム・カーダシアンがさらに違う肩書きで知名度を上げたのがセックス・テープの流出であった。パリス・ヒルトンやファラ・エイブラハムと違ってゴシップの波に沈まなかったのはスゴいとしかいいようがないけれど、どこでどうしたか、キム・カーダシアンはその波にのって2014年にカニエ・ウエストと再々婚を果たし、彼女がインスタグラムにアップした結婚式の写真には2億6000万回の「いいね!」がついたとか。

 さらに、ロバート・カーダシアンの前妻、クリス・カーダシアンはオリンピック選手だったブルース・ジェンナーと再婚していたにもかかわらず、今年になってブルース・ジェンナーが性同一性障害であることをカミング・アウトし、クリスと離婚。性転換者として『ヴァニティ・フェア』の表紙を飾り、名前もケイトリン・ジェンナーに改めてスピーチを行ったところ、今年最高の感動的なスピーチだったと大評判に(ルポールまで人気復活)。ジェンナー夫妻にも何人か子どもがいて、そのうちのひとり、カイリー・ジェンナーはいわゆるセレブのような振る舞いで知られ、今年18歳になる誕生日にキム・カーダシアンと同じ髪型にしたことから、身内からバッシングを受けることになったり。この、いわゆる、アメリカではカーダシアン-ジェンナー一族として知られる親族が一堂に会した写真がやはりインスタグラムにアップされているんだけれど、このなかにカニエ・ウエストが混じっていることの奇妙さは何度見ても拭えない。カニエ・ウエストも音楽情報サイトではなく、一般的なメディアを見る限りではまるで“ウインドウリッカー”の頃のエイフェックス・ツインのような扱いであり、そこで大統領選に出馬表明をしても不思議はないというのか、もう、何が起きてもおかしくはないというのか。アメリカって、やっぱりスゴいかも。

Cornelius - ele-king

 コーネリアス(=小山田圭吾)の音楽は、いつ聴いても、何を聴いても、まるでアイコンを認識するように一瞬にしてわかる。あの星の輝きのような音……!
 その傾向は97年の“スターフルーツ・サーフライダー”から随所になり、01年の『ポイント』から06年の『センシュアス』の間にかけて確立されていったように思える。彼は楽曲をまるでサウンド・ロゴのようにデザインしていくのだ。

 本作は、2010年代前半におけるコーネリアスが手がけたリミックスや参加曲などを集めたアルバムである。坂本慎太郎やサリュ×サリュ、ゴティエやペンギン・カフェ、さらにはサカナクションのリミックスからザ・バード・アンド・ザ・ビーやコーラルレイヴンとのコラボレーション曲まで多彩な楽曲をアルバム一枚に収録している。
 声だけの参加曲やコーネリアス自身が手がけていない曲(大野由美子氏による1曲め!)も収められているのだが、にも関わらず「いまのコーネリアスのモード」をアルバム一枚通して聴いたという満足感がある。〈トラットリア〉がリリースしたレーベル・コンピレーション盤を思い出しもした。

 よくオリジナル・アルバムのリリースについて質問されているコーネリアスだが、これだけの楽曲を2010年代前半に残しており、そのうえYMO関連への参加、CM音楽、サリュ×サリュのアルバム・プロデュース、『デザインあ』や『攻殻機動隊ARISE』『攻殻機動隊 新劇場版』の音楽など多岐にわたる仕事を展開していたのだから、むしろ「オリジナル・アルバム」という概念こそが、2010年代も後半に突入する現在においては、「幻想」ではないかとも思えてしまうほどだ(当然ファンとしては期待大ですが!)。
 00年代から10年代にかけて、いわば音楽を取り巻く状況が大きく変化していく時代のなかでコーネリアスは、さまざまな仕事の領域で自身のサウンド・アイコンを刻印するように音楽を作り続け、オリジナル・アルバム・リリース「だけ」にこだわらない新しい音楽家像を実現してきたのだ。むろんサウンドロゴのような明確な強さが楽曲にあったから可能だったこと。

当然、本作の収録曲にも「視認性の高い音」が横溢している。時間が逆行するような坂本慎太郎のリミックス、声の力を存分に生かしたサリュ×サリュ、ゴティエのミニマムなリミックス、両者の無駄なく個性が融合しているザ・バード・アンド・ザ・ビーとの共作、小山田圭吾の声の魅力を再確認できるコーラルレイヴンとのコラボレーション、ニューウェイヴとコーネリアス・サウンドの合体といえるプラスティック・セックス、原曲のフォーキーな魅力を引き出したサカナクションのリミックスなど、どの曲も、どの音も、曲順も、綺麗に整理され、配置され、再デザインされており、同時に、水のような自然さで耳に浸透していくのである。

 とくに注目したい曲は、アンビエント・ポップなペンギン・カフェのリミックス“ソラリス”と、小山田圭吾のヴォーカルを堪能できるリトル・クリチャーズの“ナイト・ピープル”のカヴァー、アレンジの妙を聴かせるサカナクションの“ミュージック”のリミックス、夜の月を思わせるアンビエントな新曲“トーキョー・トワイライト”だ。これらのトラックは、アンビエントとファンタジーとギター・ポップ/ネオアコへのコーネリアスなりの回答のようにも聴こえてしまう。私などは、そこに「コーネリアスの新しいモード」の萌芽を感じてしまうのだが……。

 それにしても、本作を何度も繰り返し聴くにつけ、コーネリアスの音楽は環境=社会の中で鳴るときサウンド・アイコンとしての効果を強く発揮するようにも思えてならない。たとえば電車やバス、エレベーターの音などをコーネリアスが作ったら? と考えると楽しい。ポップであることは機能的であり、それゆえ環境的に作用する。その意味でコーネリアスはブライアン・イーノにもっとも近いポップ・アーティストかもしれない。

M.E.S.H. - ele-king

 おそらくは今年前半のもっとも鮮烈な一夜になったであろう〈パン〉のショウ・ケースにおけるメッシュのライヴを、「こんな音楽聴いたことがない」と評する声は多い。あの夜はレーベル主宰者のビル・コーリガスや、テクノ・フィールドDJたちからも絶大の支持を得ているリー・ギャンブルらに加え、世界的なリズム&ベースを作り出す東京のエナたちがステージに立っていた。これだけのメンツが揃ったに関わらず、メッシュをその日のベスト・アクトに挙げたひとびとがいるということはやはりそれなりの理由がるわけで、EP「セシィアンズ」を経由して、ついに発表されたファーストである『ピティウス・ゲート』の魅力にもそれは繋がるのかもしれない。

 ノイズに端を発し、ダンス・ミュージックにも領域を広げ、そのどちらにも固着することなく、ふたつの関連性においてサウンドを模索するような形で〈パン〉は発展してきた。ヴァレリオ・トリコーリからアフリカン・サイエンシズ、そしてオブジェクトに続いた去年のレーベル・カタログを見てみても、その姿勢は崩れるどころかむしろ強化されていると言える。
 メッシュの今作がこの流れのなかでも異色な点は、〈パン〉の要素をアルバム一枚のなかで融解させて彼なりのシーンへの解釈を提示しているということだ。一曲めの表題曲からしてもそうだが、等間隔で落下する強烈な低音とシンセのレイヤー・サウンドで2分を突き抜けるようなやり方は、ダンス・ミュージックからしてみれば強引すぎるかもしれないが、ときに音の多様性を奪いかねないそのルールへの批評精神がこの曲以降も鋭く光っている。続く“オプティメイト”や“ソリウム”においては、彼のホームであるベルリンのクルーであるジャヌスのパーティで流れるベース・ミュージックの断片が聴こえてくるものの、極端に減らされたパーカッションと不規則に並ぶメロディが生み出すリズム・パターンは、既存のジャンルの定位置には収まることにない存在感を放つ。

 リズム面における音数の少なさや、空間の広がりを特徴とする最近のトレンドとして、ウェイトレス(無重力)・グライムがある。メッシュはアルバムでウェイトレスをやるだろうと僕は思っていた。5月に出た「セシィアンズ」の日本盤には、リミキサー陣にその流れのパイオニア、ロゴスの姿が。さらには〈トライアングル〉といったノイズ/ゴシックなレーベルからもウェイトレスのルーキーであるラビットのリリースがあった(同レーベルからはSDライカや、ジャヌスでのメッシュのクルーであるロテックといったグライム・マナーを踏襲したプロデューサーの作品が続いている)。これほどまでに大きなトレンドに近い場所にいるわけだから、その音に共通する要素があるメッシュはきっとアルバムでウェイトレスをやるだろうと、安易だけれども考えていたわけだ。

 そして予想は見事に外れた。今作において典型的なグライムのスタイルはほとんど現れず、むしろ彼はグライミーさと、そこで生まれた無重力さを別の方向へと拡張しているように見える。それがおもしろい形で現れているのが“エピセット”だ。グライムにおいて銃声のサンプリングはスネアなど代わりにアクセントとして使われることが多いが、ここではその音(正確にはサンプルかどうかはわからない)が連射されリズムを牽引している。そして他にリズムをリードするようなパーカッションはほとんどなく、曲間に現れる無音のセクションは連射との対比により深いところに聴き手を吸い込む。ある種のポスト・グライムとでも呼ぶことができそうな音像を示唆する曲だ。

 この音楽が流れたときフロアでひとが踊るのか、と問われればそれはわからない。けれども、ステージ上のフロアを見つめながら口が半分空いたひとの姿は容易に想像できてしまう。このアルバムに収められた最初から最後まで一貫性がほとんど見られないビートや音像の混沌具合に、どのように反応したらよいか戸惑うリスナーも多いはずだ。ポスト・インターネット世代と括られることもあるメッシュだが、ネットとリアリティの境目がシームレスに繋がっているというその世代の特徴が反映されているというよりは、いたずらに「現実」の音をサンプリングするのではなく、現実には存在しえない音と徹底的に向き合いそのカオティックな側面を解放したものが本作のように思える。そして同様に現実もネット(非現実空間)もカオスである。両者の繋がりというよりはその類似性の方がこのアルバムにとっては重要なのかもしれない。タイトルの意味する「哀れみの門」が開いているとするなら、こちらによく似た向こう側がアルバムから垣間見えているのだろうか。

Ultimate Painting - ele-king

 英国インディ・ロックの歴史を継承するようなアルバムだ。このアルティメイト・ペインティングの新作には、ルーツとしての60年代後半のビートルズなどがあり、英国インディの伝統としての米国からのヴェルヴェット・アンダーグラウンドの影響があり、ニック・ドレイクなどのブリティッシュ・フォークへの記憶があり、ペイル・ファウンテンズ、ベン・ワット、フェルトなどの80年代のネオアコースティックへのリスペクトがあり、そして90年代のベル・アンド・セバスチャンからゼロ/テン年代のインディ・ロックへと繋がる豊かな道=歴史がある。そして、その根底には60年代のハプニングアートから80年代のポストパンクに繋がる自由を希求するアートの精神がある。

 もちろん、ポップミュージックの歴史を継続させることは大げさなことではない。それはカジュアルで、当然のことだ。リラクシンな本作を聴けば即座にわかるはず。

 アルティメイト・ペインティングは、英国のインディ・バンド、ヴェロニカ・フォールズのジェームス・ホエアとメイジズのジャック・クーパーのユニットである。両バンドともにインディ・ロックの精神性と音楽性を継ぐ素晴らしいバンドだが(メイジズには“ゴー・ビトウィーンズ”という曲もある)、アルティメイト・ペインティングのアルバムは、彼らのルーツをより感じさせる仕上がりになっている。
 とはいえ、人気バンドのメンバーによる趣味的なサイド・プロジェクトではない。昨年にリリースされたファースト・アルバムから1年後にリリースされていることからも彼らの意気込みを感じさせてくれる。

 前作『アルティメイト・ペインティング』は、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド直系の音楽性(主にサード・アルバムからの)だったわけだが、ヴェルヴェッツのインディ・ロック全般への影響の大きさを考えると納得できる。
 対して本作は、より英国的だ。ビートルズ「ホワイトアルバム」のデモ、もしくはポール・マッカートニーのファースト『マッカートニー』のような雰囲気。むろん直接的に何かに似ているというわけではない。英国ロック的な雰囲気(メロディや演奏など)が濃厚という意味である。
 2本の乾いた音色のギターが絡み合うさまがグルーヴを生んでいるわけだが、ドコドコしたリンゴ・スター直系のドラムもまた本作のアンサンブルを決定付けている。そこに英国的な少し捻くれた美メロ/コーラスが乗る。わずかにアナログ・シンセが添えられる曲もあり、インディ・ロック的なスカスカなグルーヴ感が最高だ。いわばヴェルヴェッツとビートルズの融合か。

 それがもっとも明確になるのがアルバム後半の3曲である。半音下降進行のクリシェなコード進行で展開し、ギターが泣きのフレーズを丁寧に演奏するという、まるで60年代後半のビートルズ楽曲的な7曲め“ペインティング・ザ・プライス”から、ヴェルヴェッツのようなミニマルなロックナンバー8曲め“ウォーケン・ノイジィズ”へ、そしてビートルズのゲットバック・セッション時の楽曲を思わせるラスト曲“アウト・イン・ザ・コールド”へとつなげていき、ふたつのバンドからの影響を表明していく。
 特に“アウト・イン・ザ・コールド”は名曲だ。ブルージーなギターはジョージ・ハリスンを思わせるし、何よりメロディが良い。こんな名曲をラストに持ってくるという余裕。いや、この曲だけではない。アルバム全曲、メロディが素晴らしいのだ。

 両者のバンドは、ティーンエイジ・ロックといった趣で(60年代前半のフィル・スペクターのプロデュース曲のような?)、正しくテン年代的な若さあふれるポスト・ポスト・パンク/インディ・ロックだったわけだが、アルティメイト・ペインティングは、ほんの少し大人になったような余裕がある。とはいえ成熟をしたわけではない。彼らは、まだまだ青い。それは、かりそめの成熟からはじめざるを得なかった80年代のネオ・アコースティックと同じ種類の青さに思える。それゆえのピュアなメロディとコーラスとも……。まさにアルティメイト・ペインティングな英国ロック。いつまでも愛聴し続けたい、愛すべき作品である。

J.A.K.A.M. / COUNTERPOINT EP.3 - ele-king

 DJからワールドに向かった人は少なくない。リズムへの関心が高まると、やはりどうしてもどんどん国境を越えてしまうのは、音楽ファンのひとつの傾向であり欲望で、とくにこの10年はDJカルチャーにもその欲望は顕在化し、作品として具現化されている。かつてはジャングリストとして活躍したムーチーもそのひとりで、共感を覚える人も多いことだろう。
 現在もがっつり精力的に活動しているムーチーだが、今年に入って、“J.A.K.A.M.”名義で自身のレーベル〈CROSSPOINT〉から「COUNTERPOINT」シリーズを12インチもしくは7インチのフォーマットで毎月リリースしている。8月にはシリーズの7枚目がすでにリリースされ、9月にもさらにリリースを控え、また、年内にはアルバムとしても発売されるらしい。
 詳しくは彼のホームページ(https://nxs.jp/index)を見て欲しいのだが、現在、森田FESN氏によるPVが公開されている。ムーチーらしいメッセージのこもった映像で、どうぞご覧下さい。スケーターっていうのが、良いですね。

井手健介と母船 - ele-king

 ガット弦の爪弾きに乗せたコーラスがシャボンのように弾けたなかからあらわれた母船は息をひそめ、こちらをうかがうような演奏で歌の後ろ髪を引く。井手健介と母船の『井手健介と母船』は1曲めの“青い山賊”で、眠りを誘う足どりで漕ぎ出していくのだが、中間部でこの曲はボサノヴァ(?)調に転じるとともにバイテンになる。もし私がこの曲を書いたなら頭からお尻まで余裕でこっちでいっていましたね。ところが井出健介はそうしない。この冒頭の1曲がすでに彼(ら)の非凡さを集約している。まだお聴きになっていない方には以下にMVがあるのでご覧ください。大仰ではないが、凝っていてイベントがあり、叙情に流れないユーモアがある。彼の歌の肌ざわりをここでは水のイメージが代用している。水といえばタルコフスキーだが、私は井手健介の丸メガネにむしろソクーロフを思い出すのは、ソクーロフが裕仁天皇をモチーフに『太陽』を撮ったからかもしれないが、彼とはじめて会ったのが映画館だったせいもなくはない。

 バウスシアターは2014年6月に惜しまれつつ閉館した吉祥寺の映画館で、二百あまりの客席のバウス1に2館を加え、俗にいう単館系から娯楽ものまで雑多な、しかし筋の通ったというかバウスらしい映画がかかる武蔵野市の東の要だったが、後年boid主宰の「爆音映画祭」の根城としても知られるようになる。私も何度となく通いつめ臙脂色のシートと爆音に身を沈めたばかりか、ありがたいことに、裸のラリーズも演奏したその舞台に立たせていただいたこともある。井手くんがいつからバウスのスタッフになったかは憶えていないが、気づいたときにはそこにいた。シネコンにはじかれたひとびとが集うそこで井手くんの草食的な風貌は目立つかと思いきや、しっかりなじんでいたから私は気づかずにいたのだろう、ほどなくバウスと井手くんの線描的なたたずまいはイコールで結ばれるようになったが、彼が歌をうたっているのを知ったのはじつはごくさいきんのことだ。

 ちょうど『別冊ele-king』で「ジム・オルーク完全読本」をつくっていたとき、代官山のライヴハウスでジムさんと石橋英子さんのツーマンがあり、終演後会場にわだかまってだべっていたら、石橋さんが「いま井手くんとアルバムを録っているの」という。井手くんってどの井手くんですか、と返す私に、ほらバウスの井手くん、と石橋さんはいう。バウスの井手くんとは、あの探し出されたウォーリーみたいな井手くんですか、と訊ねると、なにをいっているかはわからないが、おそらくそうだとおっしゃる。どうやらあの井手くんらしい。私は彼が以前バウスでぼくも音楽やっているんですよ、といっていたのを不意に思い出したが、石橋さんとの関係はおろか、彼がアルバムを録るとも出すとも知らなかった。

 こんなことをつらつら書くとまた身びいきと憤激される方もおられようが、そう思われるなら拙文はスルーしていただいてよろしい。よろしいが井手健介と母船のファーストを聴かないのはもったない。数ヶ月後めでたく船出した彼らの音楽には若手バンドの周到な引用とはちがう裸の志向がみえる。山本精一、とくに羅針盤との親しさを感じさせもするが、山本精一のフォーク~サイケが散光に似ているのにくらべると井手健介のそれは飛沫を思わせる。西海岸の、とくにサンフランシスコあたりのサイケを規範にしても適度な湿り気を帯び、フルートやピアノはアシッドフォークを彷彿させながら、ときにファズ・ギターが空間を切り裂くのに過剰さに耽溺しない母船の、石橋英子、山本達久といったジム・オルークのバンド・メンバーと墓場戯太郎、清岡秀哉らからなるアンサンブルのそれは妙味ともいえるものである。その大元になるのは井手健介のソングライティングの資質であり類いまれなメロディ・センスである。プレーンな歌唱から重さをふくませた歌い方まで、つぶさに耳を傾ければ、コーラスをつとめる柴田聡子との対比から歌手=井手の立ち位置もみえてくる。“雨ばかりの街”、“ふたりの海”などの水を思わせる曲のしずけさと激しさ、“ロシアの兵隊さん”(と書いて、なぜ私はタルコスフスキーやらソクーロフやらもちだしたのかわかった)の夢見心地も『井手健介と母船』の屋台骨のたしかさをあらわしている。もちろん道行きはつねに順風満帆とはかぎらない。過去の総決算のファースト以降にどう舵を切るかが今度の課題だろうし、規範とも歴史ともいえるものとの対話もやがてふくまれてくるだろう。しかし井手健介なら心配いらない。なにせ“幽霊の集会”と歌うひとなのだ。私は生きている人間だけ相手にする表現は相手にしない。井手健介のハラは据わっている。いまはその船出をよろこびたい。

第五回:おしっことうんこ - ele-king

 ele-kingでの連載なのに、音楽と関係のないことをあまり書いてはいけない。とは思っている。のだが、一般の方々が抱いている大きな誤解を、一刻も早く解かなければならないと思っていることがあるので、今回は書くことにした。それは「おしっこ」と「うんこ」は全く別のものであるということだ。僕は決して性的嗜好を持つスカトロジストではないが、全ての医師は糞便学をもっと学ぶべきだと思っている。

 まずは、誤解の修正から。「おしっこ」というのは左右2個ある腎臓という臓器を流れる血液から、体内に必要のない老廃物が濾過され、それが尿管を通って、膀胱に溜まるものだ。つまり、数分から数時間前まで自分の血液として体内を循環していた、細菌もほとんどいないとても綺麗なもの。

 一方の「うんこ」は、口から入ったものが、身体の内腔(口から肛門はひとつの管で、厳密には体内ではない。人間は筒のような構造をしている)を通過して、無数の細菌の中で、様々な化学反応を経て出て来たものだ。自分の体内には一度たりとも吸収されておらず、細菌も無数に含まれているので、綺麗とは言えない。というより、汚い。

 と、アトピーの弟に、知人から勧められた「飲尿療法」を試してみさせるために、一晩かけて「おしっことうんこの違い」を説得したことがある。アトピーに長いこと悩まされ続けて来た健気な弟は、ひと晩考えに考えた挙げ句、翌朝起きて僕にこう告げた。「俺、お兄ちゃんが一緒に飲んでくれるなら、飲んでみようかと思う」

 究極の交渉術。と、弟の成長を嬉しく思ったが、いざ自分が飲めと言われると、昨夜あれだけ「きれいなんだ!」と熱弁していたにも関わらず、さすがにかなり躊躇われた。けれど、いつにない弟の真剣な眼差しの奥に、キラリと光る未来への「希望」を見つけてしまったもんで、いちばん効果があるという、朝一番の濃縮された尿を、3日だけ毎朝一緒に飲んだことがある。

 「おしっこ」は、その可愛らしい名前に反して、想像を絶するほどまずい。言葉にするのが陳腐なほどにまずい……。ふたりで飲み終えた後、腰に手を当てて朝日を眺めている弟の背中に「俺はついにやったぞ!」という底知れぬ達成感が満ちあふれていたのを、いまでも覚えている。

 僕は3日付き合ってやめたが、弟はそれから1ヶ月ほど、飲み続けた。実際にアトピーも良くなったし、何よりも「自分は頑張っている!」という達成感が、弟の身体と精神を元気にしていった。

 そんなあるとき、
 「お兄ちゃん、俺、最近毎朝感じることがあるんだよ」
 「何? やっぱ毎朝飲んでると体調いいでしょ?」
 「うん、そんな気もするんだけど、それと同時に『俺って、ひょっとしたら、実はそーとーヤバいことしてるんじゃないか』っていう猛烈な不安がこみ上げてくる……」
 と言って、数日後に飲尿道を諦めた。でも、そのとき、体験者でもあり、人間の健康について考えなければならない立場にある僕は考えた。飲尿療法を成し遂げた後は、底知れない達成感とともに、何かすごいエネルギーがこみ上げてくるのも、たしかな身体感覚だったのだ。

 考えた挙げ句、「尿」というのは自分の身体のその時の状態の「最新データなんだ!!!」ということに気がついた。漢方薬の成分には、トリカブトの含まれているものもあり、僕の祖父母も、その漢方薬をかれこれ5年ぐらい飲み続けている。漢方薬には「毒をもって毒を制する」ということが割とあてはまる。いくつかの代替療法も、これと同様の理論に基づいているものがある。

 人間は口から肛門という体外を通過するものに応じて、身体全体の免疫を調整している。漢方薬の全てではないが、いくつかの生薬やその成分は、小腸を通過すること自体に意味がある。その「悪いもの」の通過が、免疫体制を高める方向へ、心身全体の免疫モードをシフトする。と僕は考えている。

 「おしっこ」というのは、「今の自分の身体にとって、いらないものは何であるか」ということに関する「データバンク」なのだ。それを腸管に通す。「あ、いま体の外ではこんな悪いものが存在しているのか、体内にもきっとあるから排泄しよう!」と判断し排泄する。という反応が起こっているんじゃないか。これは、医療に積極的に導入するべきだ! ということに気付いた若かりし頃の僕は、興奮しきって眠れない夜を過ごした。ひとつだけ残る大きな問題は……。この素晴らしき「おしっこ」は、とにもかくにも強烈にまずい。ということだった。要は尿がノドを通過することが、一番の問題なのだ。

 そんな問題に直面していたころ、ちょうど心臓外科にいたときだった。術後の患者さんの鼻には「胃管」という管、そして膀胱には「尿道カテーテル」が入っていた。真夜中に術後の患者さんの回診をしていたときに、僕は閃いてしまったのだ。そうか! これをつなげればいいのか!!! 僕は早速、患者さんのベッドサイドに溜まっている尿を、胃管から流し込んだ。

 なんてことはさすがにしない。だけど、僕は人類史に残る発明を確信した。名付けて「伊達チューブ」。翌朝、意気揚々として「先生! おかげさまで、昨夜人類史に残る発明をしました! 名付けて伊達チューブ!」と概要を述べた。

 結局、伊達チューブは一蹴されてしまったのだが、それ以降、「伊達!  伊達チューブ入れとけ!」と言われると、患者さんに胃管と尿管を入れるという仕事が与えられた。でも、飲尿療法ってきっと効果ある。自分が癌にでもなったら、伊達チューブを実験してみようと思っている。


イキウメ『聖地X』@シアタートラム - ele-king

 イキウメはしばしば突拍子もないSF的な仕掛けが先行的に語られがちな劇団である。たとえば先日蜷川幸雄演出による再演でも話題になった、バイオテロにより、人口が激減し、政治経済が崩壊した近未来、生き残った旧来の人類「キュリオ」と、紫外線に弱く太陽光の下では生きていくことができなくなった新型の人類「ノクス」の絶え間のない衝突を扱った、第63回読売文学賞、第19回読売演劇大賞を受賞した代表作『太陽』もその例外ではなく、初演当時は、奇抜な未来社会の設定、青山円形劇場の独特の使い方などがわたしの周りではよく話題にのぼった。しかしイキウメを追っている身として、この言及のされ方にはちょっとした違和感を以前から持ちつづけていた。イキウメが突拍子もないのはあくまでも物語のスタート地点のみであり、描かれているのはその設定を自明として生きている人々の、ごくごくありふれた悩み、生活で浮上する諸問題、複雑な人間関係のほぐれなさである。遠い世界の話ではなく、現代社会にむしろ密接に寄り添っており、絵空事では片付けられない切実さをつねに孕んでいる。その思いは『聖地X』を観ることによって、ほとんど確信へと変わった。

 『聖地X』を観て真っ先に思い出したのは、イキウメの過去の作品『散歩する侵略者』で取り扱われた、由々しき夫婦間の問題についてであった。『散歩する侵略者』では、夫の体を乗っ取った、他人の概念を奪う宇宙人(かもしれない侵略者)が、夫は記憶障害だと思い込んでいる妻のとある概念を半ば事故的に奪ってしまってすぐに、深く深く絶望する。けれども、対照的に妻の気持ちはその瞬間すっと晴れやかになる、その夫婦間の悲しいギャップが印象的であった。それとは対照的に『聖地X』は、邪悪で不思議な事件が多発するものの、はじめに提示される夫婦間の解消しようがないかと思われた揉め事は、結果的に予想外の解決法で、スタンダードでポジティヴな場所に着地する。『聖地X』で目をみはるべきなのは、あくまでもその場所へ、人として当然の葛藤を経た上でようやくたどり着いた、その曲がりくねった経緯なのである。

 『聖地X』はもともと『プランクトンの踊り場』改稿再演にあたってタイトルを変更した演目だが、果たして再演と呼んでいいのか迷うほどに、作品の根幹から変質している。登場人物が減り、舞台美術がシンプルでありながら多数の仕掛けを備えたものとなり、そして何より、それぞれの人柄が濃厚になった。『プランクトンの踊り場』を観たのはじつに5年前のことなので記憶が曖昧なのをお許しいただきたいが、その時はSF的な仕掛けに驚きはしたものの、はじめてのイキウメ観劇であっけにとられていたのだろうか、当時の装置の大掛かりさもあいまって、それぞれの登場人物がいったいどういう物語を背後に備えているかという部分にまで、関心がいたらなかった(早着替えが凄いんだよ! とか、人物がいきなり入れ替わるんだよ! とか、知人に話すときも仕掛けばかりがつねに話題に出ていたような気がする)。いや、『聖地X』ももちろん仕掛けに驚く愉悦はあり、シンプルになった装置もこちらの想像していない使われ方をして、驚愕をもたらしてくれるのだが、いい意味でそこにばかり焦点をあてて語るべき作品ではなくなっていた。

 離婚を決心して実家に帰った妻を夫が追ってくるものの、携帯をなくしたと途方に暮れている夫の仕事先に電話をかけると、当の夫本人が電話に出る。どちらが本物の夫なのか、どちらも本物なのか……ここから夫ともう一人の夫の一人二役、そしてさらに知らされていなかった「もう一役」を同じ役者が兼ね、しかもその三役が一同に会する(!)にあたって「舞台裏はどうなってるんだ!」とすぐに席を立ってのぞき見たい衝動に観客の誰もが駆られるわけだが、途中から、この二人の理想的な離婚はいかなる決着によるものなのだろうか、という別の興味に囚われはじめる。どう転んでも幸せな離婚の形態を考えることができないからである。そこで要の兄が、フツーはやっちゃ駄目だろう倫理的に! というアイディアを思いつく。アイディアの詳細はこれからDVDを観る、あるいは戯曲を読む方の楽しみを奪いたくないので控えるけれども、観客の予想はまず裏切られる。途方もないやり方でこの複雑怪奇な事態は収束を迎える。いわれたときはあまりにも無理があると思われるのに、いざやってみるとこの選択肢以外ありえなかった、と納得してしまうから不思議である。そしてラストシーンの妻の幸福そうな笑顔を目撃すると、離婚という一筋縄ではいかない問題に関して、新しい見地に立たされることになる。

 現実に深く絶望しているひとへ、イキウメはまったく別の立ち位置から、いつも「考えもしなかったけれど、たしかに一考に値する」アイディアを提供してくれる。そのアイディアを実際に自分の人生に使うかどうかは、まあ、自己責任ではあるにせよ。

Sleaford Mods - ele-king

 Key Marketsというのはジェイソン・ウィリアムソンが子供の頃に母ちゃんに連れられて行ってたスーパーの名前ということだが、ダブルミーニングなのは間違いない。最近、英国の政界を震撼させているジェレミー・コービンという爺さんがいて、彼のことをテレビで評論家が語っていたとき、「彼はPRの賜物ではないが、まるでPRで作り上げた政治家のようによく出来ている。Key Marketsに間違いなく受けるキャラ」みたいなことを言っていて、いやーついに政治家を語る時にも「基幹市場」なんて言葉を使う時代になったか。いよいよ政治家も商品か。と感心したものだが、本作にはそういうことに対する憤懣がたぎっているよう感じられた。

 あれは5月の総選挙直前。ある新聞が、労働党のミリバンド前党首が間抜けな顔をしてベーコンサンドウィッチを食べている写真を一面に大アップで掲げ、「こんな不細工な男が首相になってもいいのか」と言わんばかりのアンチ・キャンペーンを張った。これに激怒したのがコメディアンのラッセル・ブランドで、「顔の美醜をどうこうしてメディアが選挙前に世論操作しようとするようなアホな時代が来たか」と嘆き、「投票しない主義」から劇的なUターンを果たして労働党支持に回った。一部の英国の若者たちは、自分が変な顔をしてサンドウィッチを食べているセルフィー画像を続々とツイッターに投稿してミリバンドを擁護した。

 が、ジェイソンにはそういう慈悲心はなかったようだ。ミリバンドもまた、まるで保守党のような政策しか打ち出さない「基幹市場」向けに売り出された(で、売れなかったが)商品だったからだ。商品だからこそリカちゃん人形のように顔をどうこうされる。

 ミリバンドが不細工だといじめられた
 それがどうだってんだ
 あの甲高い声のクソたれが
 国をズタズタにしようとしているのは見え見え 
            “In Quiet Streets”

 エスタブリッシュメント政治に対するカウンターになる党。なんつうことを言って10年前には市民を期待させた(ブライアン・イーノまで期待させた)自由民主党のニック・クレッグが、つるっと5年前に保守党と連立を組んで政権に就き、エリーティズム全開の政治を行ってきたことへの恨みもジェイソンは忘れていない。

 ニック・クレッグはもう一度チャンスが欲しいとよ
 はあ?               
             “Face to Faces”

 現在の英国で、総選挙について歌ったりするのは彼らぐらいのものだ。いつも卑語を連発し飲んだくれているようなイメージだが、彼らはいまどき珍しいほどストレートに政治的だ(最近のインタヴューを読むと、ジェイソンは選挙でみどりの党に入れたそうだが、結果を見て労働党に入れるべきだったと後悔している)。

 昨年まで地方公務員だったジェイソンが、何の部署で働いていたのかわたしは最近ようやく知った。ノッティンガム・ポスト紙のインタヴューを読むと「ベネフィッツ・アドバイザー」だったそうだ。要するに、生活保護や障害者手当などを受けに来る市民の相談窓口に座っていたらしい(ちょっと職安で働いていたイアン・カーティスを思い出させる)。ということは、彼も、拙著『アナキズム・イン・ザ・UK』の後半に登場するような人びとと日々まみれながら、物凄くムカついたり嫌な気分になったりしながら働いていた筈である。5年前に保守党が緊縮政策をはじめてからは、英国の役所でも相談者を追い返す水際作戦が展開されているようなので、ジェイソンもそんなことをしていたのかもしれない。

 何もせずに貰える金だぜ、兄ちゃん
 ただこのフォームに記入するんだ
 できなければ助けてやるから       
                “Face to Faces”

 あの世界で働いた人間は、政治について考えてしまうだろう。それはよくわかる。
 破天荒。とか、やさぐれ。とかいうより、わたしには彼らの音楽はやけに真摯に聞こえるのだが、なるほどな。と思った。

          ******

 音楽的には前作から大きく飛躍して、とかいうタイプの人びとではないので、安定のスリーフォード・サウンドだ。“Tarantula Deadly Cargo”を聴いてThe Fallの『Dragnet』とかを思い出してしまうのはやはりわたしが高齢者だからなんだろうが、アンドリュー・ファーンのトラックを聴いていると、70年代パンクのバンドがイントロのべースとドラムだけを延々と続けているというか、普通はその部分は数秒で終わってすぐにギターがぎゃーんと派手に入って来るものなのに、いつまで経ってもそれが入ってこない、みたいな、リズム隊だけがループ反復するアンチ・カタルシス感はアンチ・パンクみたいだ。

 まあでも、70年代パンクなんてのも大いなるカタルシスを約束しているように見えたがほんとは全然くれなかったムーヴメントだし、プロによるロックやパンクはいまでも、そこでギターがぎゃーんと入って来て、的な古典的形態を保って「基幹市場」に売り出されているが、餅屋が焼いてない餅こそがパンクでもあったのだ。
 そんなわかりきった展開でKey Marketsをなめくさるなよ。という動きがUK政治では盛り上がってるんだが、音楽はどうなるんだろうなあと思って見ている。

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