Home > Reviews > Album Reviews > M.E.S.H.- Piteous Gate
おそらくは今年前半のもっとも鮮烈な一夜になったであろう〈パン〉のショウ・ケースにおけるメッシュのライヴを、「こんな音楽聴いたことがない」と評する声は多い。あの夜はレーベル主宰者のビル・コーリガスや、テクノ・フィールドDJたちからも絶大の支持を得ているリー・ギャンブルらに加え、世界的なリズム&ベースを作り出す東京のエナたちがステージに立っていた。これだけのメンツが揃ったに関わらず、メッシュをその日のベスト・アクトに挙げたひとびとがいるということはやはりそれなりの理由がるわけで、EP「セシィアンズ」を経由して、ついに発表されたファーストである『ピティウス・ゲート』の魅力にもそれは繋がるのかもしれない。
ノイズに端を発し、ダンス・ミュージックにも領域を広げ、そのどちらにも固着することなく、ふたつの関連性においてサウンドを模索するような形で〈パン〉は発展してきた。ヴァレリオ・トリコーリからアフリカン・サイエンシズ、そしてオブジェクトに続いた去年のレーベル・カタログを見てみても、その姿勢は崩れるどころかむしろ強化されていると言える。
メッシュの今作がこの流れのなかでも異色な点は、〈パン〉の要素をアルバム一枚のなかで融解させて彼なりのシーンへの解釈を提示しているということだ。一曲めの表題曲からしてもそうだが、等間隔で落下する強烈な低音とシンセのレイヤー・サウンドで2分を突き抜けるようなやり方は、ダンス・ミュージックからしてみれば強引すぎるかもしれないが、ときに音の多様性を奪いかねないそのルールへの批評精神がこの曲以降も鋭く光っている。続く“オプティメイト”や“ソリウム”においては、彼のホームであるベルリンのクルーであるジャヌスのパーティで流れるベース・ミュージックの断片が聴こえてくるものの、極端に減らされたパーカッションと不規則に並ぶメロディが生み出すリズム・パターンは、既存のジャンルの定位置には収まることにない存在感を放つ。
リズム面における音数の少なさや、空間の広がりを特徴とする最近のトレンドとして、ウェイトレス(無重力)・グライムがある。メッシュはアルバムでウェイトレスをやるだろうと僕は思っていた。5月に出た「セシィアンズ」の日本盤には、リミキサー陣にその流れのパイオニア、ロゴスの姿が。さらには〈トライアングル〉といったノイズ/ゴシックなレーベルからもウェイトレスのルーキーであるラビットのリリースがあった(同レーベルからはSDライカや、ジャヌスでのメッシュのクルーであるロテックといったグライム・マナーを踏襲したプロデューサーの作品が続いている)。これほどまでに大きなトレンドに近い場所にいるわけだから、その音に共通する要素があるメッシュはきっとアルバムでウェイトレスをやるだろうと、安易だけれども考えていたわけだ。
そして予想は見事に外れた。今作において典型的なグライムのスタイルはほとんど現れず、むしろ彼はグライミーさと、そこで生まれた無重力さを別の方向へと拡張しているように見える。それがおもしろい形で現れているのが“エピセット”だ。グライムにおいて銃声のサンプリングはスネアなど代わりにアクセントとして使われることが多いが、ここではその音(正確にはサンプルかどうかはわからない)が連射されリズムを牽引している。そして他にリズムをリードするようなパーカッションはほとんどなく、曲間に現れる無音のセクションは連射との対比により深いところに聴き手を吸い込む。ある種のポスト・グライムとでも呼ぶことができそうな音像を示唆する曲だ。
この音楽が流れたときフロアでひとが踊るのか、と問われればそれはわからない。けれども、ステージ上のフロアを見つめながら口が半分空いたひとの姿は容易に想像できてしまう。このアルバムに収められた最初から最後まで一貫性がほとんど見られないビートや音像の混沌具合に、どのように反応したらよいか戸惑うリスナーも多いはずだ。ポスト・インターネット世代と括られることもあるメッシュだが、ネットとリアリティの境目がシームレスに繋がっているというその世代の特徴が反映されているというよりは、いたずらに「現実」の音をサンプリングするのではなく、現実には存在しえない音と徹底的に向き合いそのカオティックな側面を解放したものが本作のように思える。そして同様に現実もネット(非現実空間)もカオスである。両者の繋がりというよりはその類似性の方がこのアルバムにとっては重要なのかもしれない。タイトルの意味する「哀れみの門」が開いているとするなら、こちらによく似た向こう側がアルバムから垣間見えているのだろうか。
高橋勇人