「Noton」と一致するもの

Bob Dylan and the Band - ele-king

歌にしかできないことがある。東里夫『アメリカは歌う』(作品社)

 エレキング的に……というか、僕個人の音楽メディアでの仕事経歴という点でも、2014年の大きな出来事のひとつは、萩原健太『ボブ・ディランは何を歌ってきたのか』を出版したことだった。多くの人から「どうしてエレキングで?」というような質問をぶつけられた。「どうしてエレキングで?」……この疑問には何通りもの背景があるのだが、僕が自覚していることのひとつを言えば、ボブ・ディランは、ビートルズが『サージェント・ペパーズ~』を出した1967年には、もはやそっち側にはいなかったということだ。僕個人は、どう考えても『サージェント・ペパーズ~』の側をたっぷりと過ごしてきている。キまっている人間が偉いと思うほどアホではなかったが、サイケデリックというコンセプトをほとんど無抵抗に、ほとんど無反省に、よろしきものとして受け入れてきた人間のひとりである。

 そういう観点で言えば、ボブ・ディランが1967年にウッドストックのピンク色の家の地下室で、のちにザ・バンドと名乗るバンドと一緒に試みたアーシーなセッションの記録は、自分が長いあいだ遠ざけていたものとも言えよう。ちなみに、僕は今日、品川でフラング・ロータスのライヴを見てきたばかりなのだ。実にサイケデリックで、目が痛くなるほど派手なライティングのショーだった。そして、週末の電車のなかでくたくたに疲れながら家に着いて、その深夜に『ザ・ベースメント・テープス』を聴きながら、いまこうして文字を打っている。翌日大切なサッカーの試合があるので、緊張して眠れないというのもある。心の底から“アイ・シャル・ビー・リリースト”と言いたい心境だ。

 最初の公式の『ザ・ベースメント・テープス』は、海賊盤が出回った後、1975年にリリースされていている。Discogsでも1975年作となっているが、さすが萩原健太の『ボブ・ディランは何を歌ってきたのか』では、ちゃんと『ブロンド・オン・ブロンド』の次の、1967年の作品に位置づけられている。『ザ・ベースメント・テープス』は、「誰もがストーンすべきである」と彼が歌った翌年の録音物なのだ。

 ボブ・ディランは、サイケデリックで華やかな、そして効果音や電子音の時代に、アメリカの古い音楽(ルーツ・ミュージック)──ブルース、カントリー、フォーク、マウンテン・ミュージック等々──に向かった。シタールもなければミュージック・コンクレートもない。ブレイディみかこは、最新刊の『ザ・レフト』において、「誰もが度肝を抜かれるほど先鋭的なものを創造する鍵は、誰もが度外視している古臭いものの中に隠れていたりする。というのは、例えば、音楽の世界では常識だ」と書いているが、本当にその通りだ。ピカピカのニューウェイヴ時代にちんぴらモッズまる出しで登場したストーン・ローゼズ、プログレッシヴ・ロックの時代に50年代のロックンロールを引用したセックス・ピストルズ等々……、『ザ・ベースメント・テープス』が1967年に公式リリースされたわけではないが、これが「誰もが度外視している古臭いもの」であることに変わりはない。

 ピッチフォークによる坂本慎太郎『ナマで踊ろう』のレヴューの出だしには、「日本のミュージシャンには、ブルースやフォークへの忠誠心がないという利点がある」というようなことが表向きな褒め言葉(?)として書かれている。たしかにアメリカにとってのブルース、カントリー、フォーク、マウンテン・ミュージックには、日本人が「いいなー、この音楽」という以上の、なかばオブセッシヴなまでの、歴史的な深い意味があるのだろうけれど、しかし現実を言えば、アメリカ人だからといってみんがみんなそれら古いアメリカを知っているわけではないし、イギリス人でも日本人でもアメリカーナに強い思いを抱いている人はたくさんいる。

 むしろそれは忘れられたアメリカだ。たとえば歌のいくつかは、まだアメリカが(今日のようなグローバリゼーションの象徴ではなく)泥んこだった時代の、身体をはって危険な仕事を成し遂げてきた(ある意味では報われなかった)肉体労働者への敬慕や愛惜から来ている。ブルースやカントリーの歌詞に「トレイン」や「レイルロード」がよく出てくるのも、流浪の人びとの故郷への思いもさることながら、それらの歌がアメリカにとって鉄道がもっとも重要だった時代──19世紀から20世紀初頭──に生まれているからだ。そして歌は、人々によって伝承されている。「本や学問ではなし得なかった『ある思い』を伝える手段」(前掲同)として。
 たしかに「歌にしかできないこと」がある。忌野清志郎は、『日本の人』という題名のアルバムで“500マイル”の日本語カヴァーを歌った。東京から500マイル離れた日本の地方と言えば、北に行けば札幌、西に行けば広島あたりで、その旅路に日本人としての何か歴史的な「思い」があるわけではないけれど、その歌は『ある思い』を確実に伝えている。1967年のボブ・ディランが“900マイル”(“500マイル”と同根のフォークソング)に託した「思い」とは別のものだったとしても、それはあるのだ。

 先日リリースされた『ザ・ベースメント・テープス・ロウ:ブートレッグ・シリーズ第11集』は、『ザ・ベースメント・テープス』のコンプリートだ。完全盤『デラックス・エディション』には、なんとCD6枚組で138曲(ヴァージョン)が収録されている。新たに発掘されたテープもデジタル技術を使って修復されると、曲順は時系列順に並べられ、1967年の歴史的セッションは見事復元されるにいたった。38曲に厳選した2枚組『スタンダード・エディション』も同時リリースされている。僕のようなリスナーはこちらで充分満足できる。
 サイケデリックの仰々しさから離れることで時代の先をいった『ザ・ベースメント・テープス』のリラックスした演奏/録音は、音楽批評の世界ではもっとも素晴らしいアメリカの音楽だとか、人によってはローファイ・カントリー/オルタナ・カントリーの先駆だとか評されている。先見の明だったとも言えるこのセッションが、ポール・マッカートニーやジョージ・ハリソンらを田舎に向かわせ、ロックにひとつの道筋を与えたのだろうけれど、まあ、このあたりの影響は研究者のみなさんに委ねるとして、なにはともあれ『ザ・ベースメント・テープス』が熱心なディラン狂だけのものにするにはもったいないほど、ラフでありながら超越的で、涙腺がゆるむほど美しい作品集であることは間違いない。138曲を網羅する必要はないけれど、2枚組の『スタンダード・エディション』は、2014年のリイシューもの年間ベストの1位である。

D/P/I - ele-king

 「私は死にたいのに、命がせまってくる」とはマリリン・モンローの言だけれど、これでもかという不協和音の連続に「僕は耳をふさぎたいのに、音楽とは違う何かがせまってくる」という感じか。いや、というよりも、これは本当に不協和音なのだろうか。たとえば「ドミソ」は平均律が確立された17世紀には耳をふさぎたくなるような不協和音とされていたらしい(その前に教会は近世まで和音そのものを禁じていた)。言ってみれば、ある種の音の組み合わせが快か不快かはそれぞれの時代の集団的な思い込みでしかないということで、金本位制度が停止してからのマネーの信用度と同じく、「みんな」があると思わなければ、その制度は崩壊するのと同じといえば同じである。ということは21世紀よりも17世紀に近い18世紀のモーツァルトが現代と同じ感覚で人々の心に入り込むことはなかっただろうとも思えてくるし、メスメリズムで無意識を書き換えでもしなければ、モーツアルトが実際にはどんな聴かれ方をしていたかは現代人にはわからないということにもなる。あるいは、それを現代の先取りだったと言い換えて済ましてしまえば済むことでもあるし、実際に当時の人たちから熱烈に歓迎されることがなかったからモーツァルトは35歳で野垂れ死んでしまったわけだし(ちなみに12音技法で平均律を打破したと思ったシェーンベルクがむしろ観客に訴えられるというラン・オーヴァーも西洋音楽史は経験している)。

 ヴェイパーウェイヴとミュージック・コンクレートの境界を巧みに縫い合わせてきたアレックス・グレイによるアブストラクト・サイドの6作めにして初の正規CD作は、いままでの彼の試行錯誤を違う方向に振り向けはじめた意欲作に思える。それこそいままでの作品がヴェイパーウェイヴと捉えられてきたことに反発心でもあるのか、『MN.ロイ』は全体に硬い表情を貫き、DJパープル・イメージの出発点がアヘンで気持ちよくなっちゃった状態をそのまま投げ出したような『ヘッド・ティアー・オブ・ザ・ドランケン・サン』(2012)だったことを思うと、この変化は軸足をミュージック・コンクレートに移し、ピエール・アンリの現代版をつくりあげようという気迫の産物としか思えない。少なくともサンプリングの元ネタに食われてしまったというのか、スノビズムの泥沼にはまってしまったとしか思えないヴェイパーウェイヴとははっきりと距離を置くようなところがあり、そのようにして生まれたポピュラー・ミュージックとの距離感は初期の〈メゴ〉作品を想起させるところが多々ある。誤解を恐れずにいえば、OPNがフェネスならD/P/Iはピタといったところだろう。考えてみれば〈メゴ〉からミュージック・コンクレートの復活を告げた『ザ・マジック・サウンド・オブ・フェン・オ・バーグ』がリリースされてからまだ15年しか経っていない。ミュージック・コンクレートのアップデートはいまだ生成変化を繰り返す途上にあり、オーストリーよりはアメリカでガッツを見せていると。

 ミュージック・コンクレートを復活させたのは明らかにサンプラーの出現だった。しかし、そこで拾われる音源はかつて具体音とされたものからTVやインターネットといった電子メディアからの供給物へと様変わりし、オーソドックスな「楽器」から離れるという動機はあっさりと空無化している。あるいはそういったインプットの方法論に依拠するよりも、現在はネット上に音楽を流すというアウトプットの過程でそれぞれの文脈は捏造されるという環境に取り巻かれているため、等しくバンドキャンプで音が流されるにしても、差異化の欲望は、それらがさらにどこに向かって着地するかというコミュニケイションの質の部分に向かっていくことは必然だろう。ネット上で誰もが音源を流せるということは、単純に全体の質は低下するということでもあるから、サルヴェージの力学を相変わらずマスに置くか、コミュニティに委ねると仮定したチルウェイヴ、そうでなければ、そのようにして数を担保にすることから離れて批評言語の価値を上げることで(唯一性に基づいていた美術と同じように)作品ごとに新たな文脈を練り上げるしかない。そして、当然のことながら批評言語も数が増えれば全体の質は低下するしかないので、意地悪く言えば反知性主義の文脈で成立する音楽文化もあちこちで成立していることは想像にかたくない。そのひとつをヴェイパーウェイヴと呼ぶことに僕は抵抗をなくしてしまったけれど、そのような音楽観の存在の仕方はパンクにもあったし、レイヴにもあった。D/P/Iがこのような言葉のエンクロージャーから逃れるかどうかはわからないけれど、少なくとも彼はディレッタンティズムとは手を切りたいと願っているとしか思えない作品をここでは作り上げた(つーか、70年代のキャンプと同じ趣旨でディレッタンティズムを標榜しているのがヴェイパーウェイヴか)。ブルース・ハークやピエール・アンリがかつてテープ操作に持ち込んでいた無秩序な感性をラップ・トップに置き換えることができる才能だとしたら、この変化は必然だろう。


Neel - ele-king

 ヴォイシズ・フロム・ザ・レイクとして、イタリア人のDJ/プロデューサーのドナート・ドジーとユニットを組んでいたニール=ジュゼッペ・ティリエッティのファースト・アルバムが、〈エディションズ・メゴ〉傘下の〈スペクトラム・スプゥールズ〉よりリリースされた。〈スペクトラム・スプゥールズ〉はジョン・エリオットにより運営される新時代のシンセ・ミュージック・レーベルで、2013年にはドナート・ドジー『プレイズ・ビー・マスク』も同レーベルからリリースされている。

 ニールは〈プロローグ〉のマスタリング・エンジニアを務めていた人物で、ローマやロッテルダムなどの音楽学校で音楽理論を学んだ逸材である。彼はドナート・ドジーの『K』(2010)でマスタリングを担当していたが、ヴォイシズ・フロム・ザ・レイクにおいてはドナート・ドジーとユニットを組むまでに共同作業を発展。2011年にEP「サイレント・ドロップス E.P.」を発表し、2012年にはアルバム『ヴォイシズ・フロム・ザ・レイク』をリリースするに至る。このアルバム、深海に沈むようなアトモスフィア・サウンドとミニマルなビートの交錯が素晴らしく、リリースから2年を経由した現在でも、その鮮烈さは全く失われていない傑作である。各メディアでの評価も高く、Resident Advisor(RA)では5点満点を獲得しており、いわば『K』と共に、近年のミニマル・ダブにおける最重要アルバムだ。

 そして2014年、待望ともいえるニールのファースト・アルバムがついにリリースされた。本作は、2013年から2014年にローマなどで録音され、マスタリングもローマのエニスラボ・スタジオでジュゼッペ・ティリエッティ自身が行ったという。収録曲は全7曲。トラック分けがなされてはいるが、どの曲もシームレスに繋がっており、いわばアルバム全体で1曲というミックス・アルバムのような構成でもある。
 サウンドは、ミニマル・ダブからビートを抜き去り、アトモスフィアな音響処理を前面化したアンビエント・ミュージック/電子音楽といった趣(より正確にはビートは溶かされ、融解しているというべきかもしれない。とくにラスト・トラック“The Secret Revealed”においては、ビートらしき音の痕跡が鼓動のように音像化している)。
 『フォボス』は、『ヴォイシズ・フロム・ザ・レイク』と比べると快楽指数はやや抑えめで、無調/マシニック、かつ多層的な音響が横溢しており、いわば(インダストリアル・テクノならぬ)インダストリアル・アンビエントとでも形容したくなる雰囲気を醸し出している。アンディ・ストット新譜の横に置いてもいいだろうし、またローリー・ポーターなどと合わせて聴いてみるのもいいかもしれない。火星の衛星である「フォボス」を題材にしているという宇宙的なイメージの援用も、ローリー・ポーターのアルバムと共通しているように思えた。
 事実、レーベルから「ナース・ウィズ・ウーンド 『スペース・ミュージック』とピート・ナムルック&テツ・イノウエによるシェード・オブ・オリオンの間に生まれた空間を埋める存在」というコメントがアナウンスされている。これも宇宙的イメージのアンビエント/ノイズ作品の傑作的系譜に繋がる作品として本作を位置付けているという自信の表れだろうか。個人的にはそこにクラスターの歴史的傑作『クラスターⅡ』を置いてもいいのではないかと思うが、つまるところ本作は、それらのまわりを周回する「フォボス」(=衛星)なのだろう。

 もちろん、そのサウンドが魅力的なのことが何より重要だ。チリチリとした細やかな音の蠢きからカタカタとなる物質的な音(フィールドレコーディングされた環境音、生成された電子ノイズ)までが、まるで大気のように生成し、そこに柔らかくシルキーな持続音がレイヤーされていく。その精密かつ精妙で、しかし曖昧でアトモスフィアな音響の素晴らしさときたら…! その音にはマシニックな虚無感もあり、同時に不思議な物悲しさがある。そう、「日本的な無常さ」とでもいうような何か……(それにしてもイタリア人がなぜこのような感性をわれわれに感じさせるのか?)。
 音響、感覚、空間、感情の生成。本作こそ、歴史性からサウンドの現在性までも内包した2014年におけるアンビエント/電子音楽作品の傑作である。新しいアンビエント/電子音楽をお探しの方に自信を持ってお勧めできる、そんな最高の逸品だ。

Lil Ugly Mane - ele-king

 ヴァージニア州リッチモンド在住のトラックメーカー兼ラッパー、トラヴィス・ミラーa.k.a.ショーン・ケンプによるリル・アグリー・メイン(Lil Ugly Mane)。残念ながら現在アクティヴではないようだ。トラヴィスはこのプロジェクトを封印してしまったらしい。この音源はわれわれにも馴染み深い日本人アーティストもリリースしている〈オーモリカ(Ormolyca)〉からの彼のダイイング・メッセージなのかもしれない。でもソノシートであり、フィーチャーされるメンツも相まって随分とスカムなメッセージではある(もちろんデジタルも販売中)。 一昨年にリリースされたホアクス(HOAX)とソーン・レザー(SEWN LEATHER)のスプリット音源、ヴィジュアル・アーティストのヴィニー・スミス(彼はなぜかくだんのソーン・レザーことグリフィンとともにこの夏、日本をドリフトしていた)によるアートワークが素晴らしかったソノシートといい、やる気のないフォーマットでの名盤というのもアホで最高だ。

 じつは、なぜか昨年のクリスマスはリッチモンドに滞在していたのだが、なんとも平穏な町であった。もとい不気味な平穏なのかもしれない。新興住宅と、巨大なモールとホームセンター、空き地、の繰り返しで構成される小きれいな町並みは刺激的とはいいがたい。
ここに住むトラヴィスの周囲にいいシーンがあるのだろうか?
 インターネット世代以降による新たなミュージック・シーンは近年のアメリカン・ラップ・ミュージックにも顕著に表れている。たとえばヴェイパーにおけるヴァーチャルの恐怖被害妄想を肉体的に具現化させてしまったようなデス・グリップスはその業を背負ったまま殉教してしまったが地下シーンはどうなっていたのだろう。

 ソーン・レザーとのかつてのクラスティー・ラップ・ユニット、ドッグ・レザー(Dog Leather)を経たDJドッグ・ディック(犬チン)はウィッチ・ハウスノリの歌モノから現在のニュー・メタル、ミクスチャー・リヴァイヴァルを想起させるような(恥ずかしいんだけども書くべきなのか迷っているテーマなのだけれども)スタイルに進化させているようだ。
 ブラセット・リサーチのイケてるシンセに蛆が這う最新PVはこれ。

 くだんのリル・アグリー・メインは生粋のスカム・ノイズ野郎であり、ソーン・レザーやDJドッグ・ディックとは長年近しいシーンをドリフトしていたようなので、この音源に収録されるトラックのような蛍光色の煙にまかれるような見事なコラボレーションを過去にも残している。
 LAのゴス/ウィッチ・ラップともいえる今日的なスタイルを実践するアントウォンもフィーチャーされるが、近年のLAのラップ・ミュージックで言えば僕は個人的にクリッピング(Clipping)の登場で他が霞んでしまっているんだけれども。
 アントウォンとLAのゴス・パーティに生息するようなキッズが制作したPVはこれ、なんだけども……。

 さらに飛躍して個人的に近年の若手であればこちらもアグリー・メインと親交の深いフロリダのデンゼル・カリー(Denzel Curry)のような方向性がサグいので好みである。

 しかしくどくどと紹介した以上をすべて押しのけるほどアグリー・メインのプロダクションとラップは素晴らしい。スクリューに乗る細かなハットと最高に邪悪に響く聴こえるカウベルの中毒性なのか、アメリカの若者のドリフター・ライフスタイルを象徴するような孤独なリリックなのか、彼のトラックには不思議と飽きることがない。彼の引退は少々早過ぎるのではないだろうか、と後悔は尽きぬが、同レーベルからリリース予定の豪華絢爛なボックス・セットの噂を聞けば、彼がいかにさまざまなシーンからリスペクトされ、僕と同じように帰還を求められているのかということがうかがわれる。

森は生きている - ele-king

 ドリーミーだからといって逃避的なわけではない。必ずしも。森は生きているはいくつかの矛盾を抱えたバンドである。アメリカの田舎の風景を幻視するようでありながらあくまで日本の都市に立脚していると感じさせ、玄人的としか言いようのない多様な音楽的語彙に支えられながらもポップスとしての人懐こさもあり、牧歌的であると同時に不穏さもあり、老練なようでいてどこか青臭く、そして、サイケデリックでありながら意識は覚醒している。いや、これらはそもそも相反するようなことではないのだろう。そうしたことが緩やかに音楽のなかで共存しているコミュニティが森は生きている、である。

 コミュニティ……森は生きているはザ・バンドの21世紀における日本語ロックのヴァージョンというよりは、聴いていると自分にはアメリカのフォーク・ロック周辺で6、7年前に起こったことを総ざらいしている感覚に陥る。“フリー・”ではなく純然なフォーク感覚があること、戦前にまで遡るルーツ音楽を発掘しながらそれを現代の音楽的文脈に乗せること、多楽器によって生み出されるチェンバー・ロック要素が強いこと、非西洋の音楽がふんだんに盛り込まれていること、そして緻密なコーラス・ワークとアンサンブルによる“ハーモニー”すなわちコミューナルなムードがあること。それはアメリカにおいては、保守的に偏狭になっていく国と時代に対する、意識的あるいは無意識的な抵抗でありオルナタティヴの表明だった。森は生きているはこの国においては独自なように見えるが、日本でいま起こっていることを思えば、(彼ら自身が自覚的であるかは別としても)若い世代からのようやくの、そしてごくまっとうな意思表明だと言える。

 セカンド・アルバムとなる『グッド・ナイト』はまず、手の込んだ録音によって音響が飛躍的に厚くなり、そのことによって隠喩ではない「森」の響きに近づいている。鍵盤とフルートの響きがどこまでも清廉としたワルツ“磨硝子”の後半2分半の音々のがちゃがちゃとしたざわめきは、木々の葉の隙間からこぼれる陽光以外の何物でもない。それはずっとここに留まっていたい……と思わされるピースフルなものだが、そこはひとりで引きこもる場所ではなく、多人数によって生み出されたものなのである。「森」はさまざまな生命が息づく総体であり、それが「生きている」。たしかに音楽的要素は多様ではあるが、多くのバンドのセカンド・アルバムのように前作の反動的にいろいろやった、という風な印象は受けない。バンドのアイデンティティを深めたアルバムだ。
 アルバム中の音楽的な白眉は間違いなく組曲形式となった“煙夜の夢”だろう。エキゾチックでジャジーなサイケ・ジャムはどこまでも上りつめ、しかし「あちら側」には行かず、メロウなフォーク・ロック、ソフト・ロックへと帰還し、柔らかな陶酔をゆっくりと広げていく。コーラスと悪戯っぽく微笑みを交わす、よく響く鍵盤打楽器はそれ自体が雄弁にアンサンブルに光を注いでいる。また、オルタナ・カントリーなんて言葉をつい思い出してしまう、ウィルコの諸作を彷彿させる“青磁色の空”における時間を引き延ばすかのようなギターの音の余韻は、現代の日本においてめったに聴けないものだ。彼らは彼らのボヘミアニズムを、音の鳴りの良さでこそ説得力のあるものへと高めている。

「星座なんて知らないほうが 空は不思議に見える」
夢も同じことで 不思議なままでいい “気まぐれな朝”

 ファースト・アルバムから頻出した夢というモチーフはここでも何度も繰り返される。たしかに、森は生きているのサイケデリアは白昼夢的だが、しかし彼らが鳴らす「夢」がある目的――たとえば、現実を直視したくないから逃げ込むためのものといったような――に向かってのみ取り出されているようには、どうしても思えない。それは都市であらためて夢想される「森」のようなものであり、そこで降り注ぐ陽光であり、ここで言うように「不思議なままでいい」ものである。「知らないほうがいい」というのはイノセントであることを標榜しているのではなく、想像の余地を残しておくことで夢のスケールを広げるということだ。
 森は生きているの音楽は、コミューナルなアンサンブルを掲げ、想像上の「森」を作り上げてしまう。いまは60年代でもないし、ここはアメリカでもない。閉鎖的な21世紀の日本においてそれをやってのける、若々しく凛々しい眼差し。これを理想主義と呼ばずして何と言うのだろう。
 だからアルバムのタイトルは「グッド・ナイト」、夢を見る合図なのである。ラストのタイトル・トラックはワルツだ。夢のなかの舞台のための舞踏音楽で、バンドはこんな風に語りかける。「ねぇ 今どこにいるの ねぇ? さぁ? まだ夢の続き さぁ」。その通り、僕たちは夢の続きにいる。

Torn Hawk - ele-king

 リズムにやられる前はギターの音色が好きだった(高校生ぐらいの話)。アル・ディ・メオラまで買ってしまったけれど、技巧というものにまったく興味が持てなかった僕はジェフ・ベックもパット・メセニーも聴いた端から売り払ってしまった。ギターの響きに僕は何を求めていたのだろう。とくに好きだったのはギター・シンセサイザーで、スティーヴ・ヒレッジが先日、〈ドミューン〉でグリッサンドー奏法の起源はシド・バレットだという話をしたときは会場だけでなく、僕も自宅でひとりどよめいていた。いまなら、スティーヴ・ヒレッジがプロデューサーに起用していたのはスティーヴィー・ワンダーのエレクトロニクスを担当していたマルコム・セシル(『アンビエント・ディフィニティヴ』P.74)だったということも知っている。そう、おそらく僕が惹かれていたのは、サイケデリック・ミュージックの入り口だったのだろう。そのことが本当に体験できたのはアシッド・ハウスを待ってからになるけれど(スティーヴ・ヒレッジもシステム7として返り咲く)、最近のトーン・ホークを聴いていると、そのようにして無我夢中で「入り口」を探していた頃にあっさりと戻れてしまうからオソロしい。とくに春先にリリースされたルーク・ワイアット名義『ソングス・フロム・バッド・キッド・スクール』とは違い、ヘヴィなトリップ・サウンドにはまったく曲を割いていないサード・アルバム『泣きながら腕立て伏せをしよう』はじつにさわやかであまりに屈託がなく、言ってみれば聴き応えは減ったにもかかわらず、タイムマシーン効果は抜群である。まったく現在に引き戻されないw。

 しかし、ここまで縦横無尽にギターを弾きまくれば、トーン・ホーク=クラウトロック・リヴァイヴァルという図式にも陰が差しはじめる。そう多くはないけれど、ここにはなにげにカントリーの資質が滲み出している。ユージン・チャドボーンでもジャド・フェアーでもアメリカのサイケデリック・ギターといえば、どこかしらにカントリー・タッチが潜んでいたものだけれど、ゼロ年代のドローンからリヴァイヴァル・クラウトロックへと反転した流れにはそれらはまったくといっていいほど感じられなかった。以前にも書いたようにヒューマニズムを欠き、アメリカ人が異教的な世界観を示すことはけっこうな驚異だった。マーク・マッガイアーしかり、ジェフレ・キャンツ-レズマしかり。どれだけ開放的になっても、視点は外側にしか向けられず、ニュー・エイジという呼称まで呼び戻された(宗教用語としてのニュー・エイジは現在のアメリカ社会を成り立たせているマルチ・カルチャラリズムを否定するもので、集合無意識を肯定する概念。つまり、個人的な内面は否定されるもので、無意識に使われはじめたにしては、意外と的は得ていた)。それが、わずかに感じられる程度とはいえ、カントリー・テイストである。EDMがダンス・ミュージックをメタルに引っ張ってしまったからかもしれない。ルー・リードのような都市に対する深い拘泥がなければサイケデリックからヒッピー志向が導かれるのはごく自然なことだし、1970年代には探偵小説さえ都市を捨てた。メジャー・チャートにはテイラー・スイフトもいるしw。

 ハリウッド映画を観ていると、『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』や『アメリカン・ハッスル』など詐欺師の映画が増えたと思う(『グランド・イリュージョン』なんて途中までコンセプトはザ・KLFかと思った)。これはイラク戦争以降、内省的になり過ぎたアメリカが笑いや都市に回帰する契機を窺っているとしか思えなかったりするんだけれども、トーン・ホークはむしろ内省の極にあった『ツリー・オブ・ライフ』のような作品から苦悩を取り去り、形骸化したものとしてイナー・トリップを継承しているのではないだろうか。「内省」というのは、人それぞれだろうし、悩んでいることに酔ってしまう要素もあるだろうから、どこか甘美な経験になる可能性は高い。それを長引かせたい。自分の内面にもう少しとどまっていたいというような……(アウター・スペースを名乗っていたエメラルズのジョン・エリオットも3年前にイナー・スペースド名義を使いはじめた)。そのための音楽が半分で、それが『泣きながら』。そして、詐欺師になるために『腕立て伏せ』をはじめる。それとも単にEDMによって失われたアメリカン・レイヴのオールド・グッド・デイズを早くも懐かしがっているだけかな?

 トーン・ホークがカントリー・タッチのカンなら、キンクスやザ・バンドの曲をエールが演奏しているように聴こえてしまうのがムードイード。かつてサイケデリック・ロックというのは、それぞれの国の伝統的側面が剥き出しになる傾向があり、いわゆるインターナショナル性からは遠ざかるものだったけれど、ブラジルのバットホール・サーファーズことフマッサ・プレッタ(https://www.youtube.com/watch?v=-PQC4-LjD-E)といい、フランスのムードイードといい、トリップの要素を強めれば強めるほどお国柄、すなわちカントリーが前景化してくる傾向はいまでも変わらない(右派や民族派はメタルではなく、むしろサイケデリック・ミュージックを聴くべきでは?)。トマ・バンガルターやジャクスンと同じく、親がやはりミュージシャンだったというパブロ・パドヴァニ率いるムードイドはのったりとしたグルーヴを基本にアンニュイなポップ・サイケを全編で展開。ドライでスカっと抜けきってしまうトーン・ホークとは対照的にナメクジに体中を這い回られているような官能性がじつにラヴリーである(こういうの高校生の頃はわからなかった)。プロデュースはディアハンターやワイルド・ナッシングを手掛けるニコラス・ヴァーンヘス。

JAWS - ele-king

 ロバートってのがいてなんだか危ないらしい。というような、ものすごいざっくりとした感じではあるが、昨年末から今年にかけた出会ったナイスな人たち、たとえばブルース・コントロールのふたりやドラキュラ・ルイス(Dracula Lewis)のシモーネ・トラブッチがそう漏らしていて、どう危ないのよ、と訊ねたところブルース・コントロールのギタリストであるラスがこれをみせてくれた。

 なるほど。こりゃ危ない。

 これは、「エクスペリメンタル・ハーフ・アワー(Experimental ½ Hour)」という、音楽家に限らないあらゆるパフォーマンス・アートをブロードキャストで配信する移動スタジオ式TVプログラムである。2010年にポートランドからはじまり、現在はLAにその拠点を置く本プログラムには、過去にも素晴らしいキャストが出演しているので時間がある人にはぜひチェックしていただきたい。
 話を戻すと、これは噂のジョーズ(JAWS)ことロバート・ジラルディンとドラキュラ・ルイスのシモーネのセッションであり、このふたりの親交は深く、過去にジャームスのクソカヴァー・ユニット、セックス・ボーイズ(Sex Boyz)としてベルギーのアート・スカム・レーベル、〈ウルトラ・エクゼマ〉から出していた7インチの印象を裏切らない見事な妙技をみせつけてくれている。

 くだんのシモーネが主宰する〈ハンデビス・レコーズ〉より2011年の『ストレス・テスト(Stress Test)』以来のアルバムである『キーズ・トゥ・ザ・ユニヴァース(Keys To The Universe)』がリリースされた。仲よすぎですが彼らはゲイではありません。ロバートは神出鬼没の人物のようであり、LAを拠点に活動しているとのことだが、僕は彼をLAで見かけたことはなく、シモーネとミラノにいたり、NYでエクセプター(Excepter)の連中に混ざっていたりとフラフラしながらも精力的なパフォーマンス/音楽活動をおこなっているようだ。
 過去の〈ハンデビス〉のリリース同様、ジョーズもパフォーマンスを重要とするアーティストではあるので、ライヴ未見の僕が早急に判断できる代物ではないのかもしれないが、上記の動画や彼が制作した過去の怪しい自画撮りPVでその狂気と油ギッシュな世界観を垣間みることができる。しかし、モトクロス系のクラッシュをコンパイルしたアルバムからのトラックのヴィデオは単純に美しく、カタルシスに満ちている。

 スターゲイト、プリミティヴ・アート、スカル・カタログことソーン・レザーとともにハンデビス・ギャングを構成するにふさわしい超マイウェイな感覚を捉えた世界観とコンセプチュアルな表現様式の可能性は完全に未知数! 危ないですな。

つながった世界──僕のじゃがたら物語 - ele-king

80年代の日本を疾駆した、伝説のバンド、じゃがたら……。そのリアルかつ予見的な言葉と態度、圧倒的なパフォーマンスでバンドを導いた江戸アケミ亡き後も、音楽はいまだ若い世代にも聴き継がれ、デモに繰り出す人たちのなかに、都会でもんもんと暮らしている人たちに語り継がれている。

じゃがたらは、音楽的には、アフロビート、ファンク、ダブの異種交配に特徴を持っている。その音楽面において重要な役割を果たしていたのは、ギタリストのOTOだった。彼がバンドのダブのセンスを注ぎ、ワールド・ミュージック的ヴィジョンをもたらしたとも言えるだろう。

本書は、OTOが赤裸々に語る、彼の自叙伝であり、じゃがたらの物語であり、そして、じゃがたらを経て、元ゼルダのヴォーカリスト、サヨコとのサヨコオトナラでの活動、東京を離れ、熊本の山で、農作業をやりながらほぼ自給自足の暮らしている彼からのメッセージだ。

Genesis Hull - ele-king

 どうやら調子に乗って遊びすぎたら3度めのギックリ腰をやってしまったようだ。貧乏がたたって機材をだいぶ売り払ってしまったので演奏に持ち出す量は減ったものの、やはり重いモノを持ち運ぶ動作は肉体に蓄積してゆく。でもやっぱPCでライヴは嫌だからね〜などと言う人もいるが、自分は微塵もそうは思ってはおらず、むしろ超高価で巨大な機材を用いてクソのようなライヴをおこなう連中いるし、ゴミのような機材で最高のライヴをおこなう連中もいる。PCでの素晴らしいライヴもあり、またその逆もあるのだ。自分のPCのHDはつねにポルノでフルであり、DAWソフト等を開くことすら不可能であるだけである。

 俺の理想はバックパックでメキシコまでバイクでツアーだぜ! と語るアレックス・グレーが羨ましい。PCと安物のMIDIコンだけでここまで狂ったサウンドを演奏するグレーのライヴは最高に身軽である。しかし、“軽やかさ”はグレーにとってとても重要なように思える。
 ドリーム・カラー(Dream Colour)、ディープ・マジック(Deep Magic)、ヒート・ウェーヴ(Heat Wave)とさまざまな名義で出没し、LAアンダーグラウンドのボーダーを曖昧にしながらサン・アロー(Sun Araw)でキャメロン・スタローンをサポートするグレーの活動は、元気いっぱいだけど飽きっぽい子どものようでもあるし、それぞれで非常にドープなサウンドを奏でながらもその響きに悲壮感はいっさいなく、まるでさまざまなモノを摂取して強引に増幅させたような多幸感に満ちている。イケメンなどで女の子にもモテるので、見た目の雰囲気もかなり軽い。

 ダブルLP、マルチプライ(Multiply)をリリースしたばかりのキャメロン・スタローンとゲド・ゲングラス、アレックス・グレーにアーロン・コイエ(ピーキング・ライツ)、マシューデイヴィッドにブッチー・フーゴによるダブ・プロダクションであるダピー・ガンから、アレックスのD/P/Iの変名(もういい加減にしてくれ……)、ジェネシス・ハル(Genesis Hull)によるタガの外れたクッソドープなミックスが届いた。

 D/P/Iのサウンドが持つとっつきにくいグルーヴはわれわれを簡単に踊らせてはくれないにもかかわらずダンス衝動を感じずにはいられない。日常におけるくだらない瞬間をコンクレートしながら、ジャングル以降の極端なエディットでもって透き通るような混沌──という矛盾サウンド──を創り上げるグレーのD/P/Iによるこのミックスは、彼のブレイクを確実に後押しするだろう。これがメガ・ハイってやつだな。アレックス・グレー、ついにお前の時代が来たようだな。

 今年の夏に出たアルバム『Wang』も記憶に新しい王舟が、新曲7インチ「Ward/虹」をリリースした。A面B面ともに、期待を裏切らない内容だ。

 A面「Ward」は、繊細なアコースティック・サウンドと透明感のある歌声を中心に温かいアンサンブルを聴かせてくれる、王舟ならではのポップなSSW曲。個人的にフルートが好きなので、温かみのある演奏のなかで、mmmのフルートが寂しげな印象を差し込むのもたまらなく良い。ちなみに、僕はオールジャンルのDJ(アナログ)でもあるのだが、この曲が7インチ化されたのはうれしい。というのも、DJ目線で見ると「Ward」は、イントロのドラムブレイクがとてもミックス欲を掻き立てるからである。少し変わったドラム・パターンだが、それも良いアクセントになりそうだ。アコースティック・スウィングやジャングル・ビートを使ったオールディーズなどの合間にかけたくなる。あるいは、ダン・ヒックスなどどうか、少しアクが強いか。想像が膨らむ。いずれにせよ、アフター・アワーズに最適なグッド・ミュージックだと思う。DJ諸氏、レコード・バッグに追加すべし。

 B面は、ライヴで恒例だという電気グルーヴのカヴァー。メロディだけ取り出すと、原曲のことを忘れてしまうくらいのハマり具合で驚いた。もともと抒情的な曲だと思っていたが、このようなアコースティックな響きを獲得するとは。あと、やはり注目すべきはアレンジで、全体的にエコーを聴かせて、かなりサイケデリックに仕上げている。フィルターがかったベースとパーカッションも聴いているうちに中毒性を帯びてくる。「くり返す、くり返す……」というつぶやくようなヴォーカルがフェイド・アウトすると、後奏では、エコーとリヴァーブがかかったシンバルが鳴り響く。これも、美しくサイケデリックである。「虹」という曲の新たな面を見せてくれるようだ。

 一貫した音楽世界のなかで、多様な引き出しを見せつけられた気分である。

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