「Noton」と一致するもの

The Drums - ele-king

 “いま”も“未来”もうっとうしくて無粋なもの、ただ過去だけが美しい……ザ・ドラムスのビーチ感あふれるヴィンテージ・ポップは、つまりはそういうつめたげな現実認識と美意識の裏返しなのだろうと思っていた。

 「起きて、ハニー。素敵な朝だよ。ビーチへ駆け出そう」という彼らの曲にはむしろ厭世観すら漂っていた。のちに明らかになったジョナサン・ピアース自身の社会的なマイノリティとしての性質や、彼ら自身の知的なふるまいなどを考え合わせると、おそらくそれは間違いでなかったのだろう。
 しかし、今作においてあの冷やかなまでのポップの黄金律がひっくり返り、痛々しく破れ、そこから生々しくパーソナルな内面性が奔出しているのをまのあたりにすると、なるほどすましたスタイルの底にはこれだけの混乱やデーモンがあったのだと納得もしてしまう。2010年前後のインディ・シーンにひとつのトレンドを築いてしまったサーフ・ポップ・スタイルのレトロなガレージ・バンドたち。皮肉にもその先導役ともなりファッション・アイコンともなってしまったザ・ドラムスは、意図的ではないかもしれないが、いまその残り火を消し、自分たちのための小さな場所へとやっと戻ってきた……いや、見つけたかのようにみえる。その場所の名は“マジック・マウンテン”。山だ。

 「ぼくらの魔法の山にいれば/やつらから守られている」(“マジック・マウンテン”)を筆頭に、「いつか月はしずむだろう/その時にはきっと僕らはこの山の一部になるんだろうな」(アイ・キャント・プリテンド)、「空は暗くなり、オオカミたちが駆け戻ってくるから、僕らは朝の光が差し込んでくるまでここでおとなしく待っていよう」(“ワイルド・ギース”)など、偏執的に繰り返されるアジールのモチーフは、おそらくはここまでの間に彼らがくぐってきたであろう、苦しくつらい個人的背景や事情を推し量らせる。ジャケット写真のぽっかりと方側が空いたソファは、去って行ったメンバーや、つがいの関係性について、あるいは単純にひとつの心象を暗示する切ない表現だ(日本盤のライナーノーツにはこの間のバンドの状態やそれぞれの事情が詳しい)。それとベタ付けるわけではないけれど、恋愛や家族をふくめた人間関係に傷つきながら過ごした時間と、本作の音とのあいだには強い結びつきがあるように思う。“レット・ミー”ほか作品全体に通底するものだけれども、“マジック・マウンテン”の終始不穏当なムードを漂わせるポスト・パンク調には少なからず驚いてしまった。ドリーミーなリヴァーブ感は初期から一貫しているものの、こうソリッド曲はめずらしいし、以前のようにサイケデリックな表現に抑制がきいていない。ドラムスらしいシンセのリフが哀しく頼りない口笛のように響く。山が守られているというのは、この口笛のようなリフと同じくらい頼りない幻想でもあるのだろう。MVでは魔剣を手に山に分け入るふたりの姿があるが、それもわかりやすく痛ましい比喩──彼らにとって状況をきりひらくもの、自らを守るものとしてあまりに直接的な喩である。そしてシンセサイザーも、本作においては魔剣や山につらなるお守りや精神的な拠りどころのひとつであるかのように感じられる。
 “フェイス・オブ・ゴッド”もこの線の名曲だ。こちらも切迫感あるダークなポスト・パンクで、単調なギターがむしろ切なさをかきたてる。そして、ピュンピュンと飛び交うシンセが新機軸でもあり、彼らのこれまでのシックなスタイルに異様な異物感を与えている。サイケ・ポップなのではなく、ポップがサイケデリックになっているとでもいうか、ザ・ドラムスの端整なポップ・ロジックをやぶるようにシンセが機能していて、それがとてもよいと感じられる。おそらく人によってはこのあたりをマイナス・ポイントとして考える部分かもしれないけれども、破れ出てきたリアリティという点で、筆者はどうしても評価したくなる。その名も“ベル・ラボラトリー”は、音響の歴史を紐解くには浅いかもしれないが、ビーチを離れ(そもそも丘サーファーだけれども)、「山」へと逃れた彼らが見つけた新しい音としてちゃんと実をならせている。短い詩句も印象的だ。
 そして、それはやさしい終曲“ワイルド・ギース”に引き継がれる。はじめてシンセがそれらしく楽曲とかみ合うトラックでもあり、本作中、また彼らのキャリア中最大の番狂わせでもある。アコースティック・ギター弾き語りを軸にしながらも、エモーションの流れにまかせ、ゆったりと、スケール感をもってエレクトロニクスが曲を肉づける。〈サラ〉や〈エル〉などのギターポップの感触が、アンビエントの様相を帯びる。フォークトロニカとまではいわないが、こんなザ・ドラムスを聴く日がこようとは思わなかった。音の向こうに確実に人のいたみや変化をきく──時代やシーンにではなく、個人にとどくアルバムになったのではないかと思う。

White Hex - ele-king

 かつてスラッグ・ガッツ(Slug Guts)というバースデイ・パーティーをグランジにしたようなどうしようもないオーストラリアの田舎モンのバンドが、何を思ったのか誰も呼んでないのにジャパン・ツアーを敢行、なぜか僕がツアー・マネージャーにかりだされ、真夏にクーラーが壊れたハイエースの中、大所帯バンドと途中でナンパしたお姉ちゃんをギュウギュウに詰め込んだ極限状態で全国を巡礼したことがある。もちろん誰が呼んだわけでもないのでほとんどのブッキングがスベっていたわけで、全員の肉体疲労は限界をこし超え、精神状態はヤケクソのメガ・ハイな状態で混沌を極めていた。
 当時、自分たちの新たなレコードのリリース先を探していた彼らを僕は完全にバカにしながら、お前らみたいなアホバンドでも〈サクレッド・ボーンズ〉とかからリリースしたらヒップスターになれるんだろうな、と吐き捨てた。

 翌年、オースティンにいた僕は本当に〈サクレッド・ボーンズ〉からリリースした彼らとSXSWで再会する羽目となり、オーストラリアからの助成金を酒とドラッグに注ぎ込んで豪遊する彼らをいっしょになって鼻下を真っ白にしながら祝福した。彼らの自暴自棄なハシャギっぷりはまさしくふるき良きロックンロールの夢そのものであったといえる。

 そして例外なくそんなものは長つづきはしない。誰かが死ぬより先にバンドが解散するのが幸いである。スラッグ・ガッツは木っ端微塵に砕け散った。

 ギターのジミーが数年前から彼女とともに開始したゴシック・シンセ・ポップ・デュオ、ホワイト・ヘックス(White Hex)が某レコ屋でフィーチャーされているのを見つけてそんな思い出が脳裏を過った。近年、オーストラリアのアンダー・グラウンド・パンク史を綴った著書、『ノイズ・イン・マイ・ヘッド(NOISE IN MY HEAD)』が出版され、そのイモ臭いオージー・パンク美意識を世の中に知らしめたジミーのヒロイックな世界観がこのポップ・アルバムには詰まっている。この絶妙にキモチ悪いトロピカルな感じもいまっぽいな!

第23回:ソーシャル・レイシズム - ele-king

 「ソーリダリティ、フォエーーヴァー、ソーリダリティ、フォエーーヴァー」
 という1915年に書かれた労働者のアンセムで『Pride』は始まる。
 『Pride』という英国映画は、炭鉱労働者が一年にわたってストライキを繰り広げた84年から85年を舞台にしている。ストで収入がなくなった炭鉱労働者とその家族を経済的に支援するためにロンドンの同性愛者グループが立ち上がり、GLSM(Gays and Lesbians Support Minors)という組織を結成して炭鉱コミュニティーに資金を送り続けるというストーリーで、英国の中高年はみんな知っている実話でもある。

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 少し前、職場でちょっとした事件があった。
 というか、地元のメディアに報道されたりしたので、「ちょっとした」という表現は適切でないかもしれない。

 保育士という仕事には怖い側面がある。
 子供からあることないこと言われても自分を守る証拠が存在しないことがあるからだ。うまく喋れない年齢の子供は、言い方が断定的になったり、細かい状況説明が面倒になると簡単な言葉にすり替えるというか、表現が嘘になることがある(これは外国語がうまく喋れない時に外国に住んだ経験のある人もわかる筈だ)。
 ということに加え、幼児というのは、けっこう傷をつくって保育園に来る。
 転んだり、滑ったり、触っちゃいけないものを触ったりする生物だからだ。そのため、朝、保育士は「グッド・モ~ニ~ング!」と保護者に明るく挨拶しながら、目で子供の体をチェックしている。傷に気が付けば、所定のフォームに傷の種類、箇所、大きさ、保護者に聞いた「傷ができた理由」を書き込む。チャイルド・プロテクション上の理由から、そうする義務があるのだ。が、面倒なのは衣服で隠れている部分だ。朝っぱらから登園してくる幼児を全員素っ裸にして点検するわけにもいかないし、いつどこで出来たのか判然としない傷を持った子も必ず出て来る。

 ところで、英国の商業的保育施設というのはべらぼうに高いことで有名だ。わたしの勤務先では2歳以下の赤ん坊をフルタイムで預けると1カ月1000ポンド(約17万円)、2歳から5歳の幼児でも800ポンド(約13万6千円)の費用がかかる。3歳になると国が保育料金を支援するようになるが、国が負担するのはたったの週15時間だけだ。よって、子供をフルタイムで預けて(2人というのもけっこういる)夫婦で働いているご家庭というのがどういう家庭かというのは想像できるだろう。で、この階級のお母さんたちは、外見や喋り方で保育士を判断し、「クラッシー(上品)」じゃない従業員を毛嫌いすることがある。

 職場で唯一の非イングリッシュ&下品なわたしなんかは一番に標的にされそうなもんだが、そこはやはりポリティカル・コレクトネスがあるので、彼女たちは外国人をいじめるなどというNGはしない。
 が、チャヴあがりの英国人保育士となると、その態度は豹変する。エスニック・レイシズムならぬ、ソーシャル・レイシズムである。
「チャヴみたいな外見の、低俗な発音の英語を喋る女が、私の子供を担当するなんて嫌」
という不満をふつふつとさせている母親たちが、幼児の拙い言葉をすべて自分が解釈したいように解釈し、子供たちよりよっぽど壮大な嘘をつき始めたらどうなるだろう。
 怖いことには、そうした嘘を真実っぽく思わせる傷や痣をもった子供なら、クラスを探せば常に数人はいるのだ。

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『Pride』は単なる虐げられた者たちのソリダリティーの話ではなかった。
 それは、差別されている者たちが、自分たちを一番差別している人びとを助けた話でもある。
 ゲイ・グループのリーダーが、炭鉱労働者たちのストを支援しようと言い出した時、ゲイたちは強く反発する。ある者は炭鉱労働者に石を投げられた経験を語り、またある者は「彼らはいつも僕たちをサポートしてくれるからね」と憎悪が滲んだ顔で皮肉を飛ばす。
 同様に、マッチョで非アーバンな炭鉱コミュニティーの中にも、食料品が手に入らない窮状になっても「変態から助けてもらうなんて真っ平」という人々もいたし、「そこまで身を落としたくない」と言ってゲイ・コミュニティーから届けられた物資の援助を拒む人々もいた。

 だが、それでもロンドンの同性愛者たちの炭鉱支援運動は熱く広がり、カムデンで「Pits and Perverts(炭鉱と変態)」という大規模なチャリティー・ライヴを行うまでに発展する。ライヴ後、ロンドンのゲイ・コミュニティーは、スポーツバッグ一杯になった現金を炭鉱に贈るのだが、炭鉱コミュニティーは「変態ぎらい」の人々の反対に遭って受け取りを拒否する。
 そして、まもなく炭鉱労働者たちはストの続行を断念し(事実上の敗北だ)、炭鉱の閉鎖によって失業者の集団にされたのは歴史が伝えているところだ。

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 幼児虐待と呼ばれる問題においては、誰が本当のことを言っているのか、何が真実なのかは、CCTV映像でもない限りわからない(経費削減のためCCTVを全室完備していない保育園は山ほどある)。おっとりとした気の優しい保育士だったから、そんなことはしないだろう。みたいなことを言うのも無意味である。
 ただ、わたしが知っているのは、チャヴあがりの同僚は明らかにソーシャル・レイシズムの被害にあっていたといたということ。そしてミドルクラス・マミイたちの排チャヴとでも呼ぶべき現象ががだんだん理性を失って暴走していたことだ。
 わたしは彼女が身に覚えのないことで保護者から文句をつけられてトイレで泣いていたのを知っているし、保護者がマネージャーに彼女についてクレームをつけている場に居合わせ、「いやーそれ、実際に起きたことの5倍ぐらいになってますよ」と反論したこともある(で、後で「一介の平保育士がいらんことを言うな」と叱られた)。
 ステラ・マッカートニーの服にPRIMARKのバッグなんて持てるわけないでしょ、というのと同じような感覚で、我が子にチャヴの保育士なんてあり得ない。という獰猛な意志をもって彼女らは人間を排除しようとする。
 この層には外国人のお母さんたちも含まれていた。エスニック・レイシズムの対象になり得る人々が、平気でソーシャル・レイシズムの加害者になる。ブロークン・ブリテンの元凶はお前らであり、それを非難・排除することは、心ある市民の当然の行動であると言わんばかりに外国人が英国人を差別する。
 民族的ナショナリズムの暗部がエスニック・レイシズムであるように、市民的ナショナリズムもまたソーシャル・レイシズムを生むのだ。チャヴ。という人々だってれっきとした人間の種として区分され、差別され、排斥されている。
「自分でがんばれば這い上がれるのに、そうしないのは自分の責任」とソーシャル・レイシズムの概念を信じない人々は言う。
 が、這い上がって来ようとしても叩き戻されたら、出て来ることなんかできない。


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 80年代の炭鉱労働者のストで使われ、ロンドンの同性愛者たちもつけていたバッジには、「COAL NOT DOLE(失業保険ではなく石炭を)」と書かれていたそうだ。
 あの時代の政権が行った経済改革で失業者や生活保護受給者にされた層が21世紀のブロークン・ブリテンやチャヴ問題に繋がったと思うと、象徴的なスローガンだ。
 これは映画ではなく実話のほうだが、84年にカムデンで行われた「Pits and Perverts(炭鉱と変態)」ギグで、ウェールズの炭鉱コミュニティーの代表者は、会場の同性愛者たちに向かってこうスピーチしたそうだ。
 「我々は『COAL NOT DOLE』のバッジをつけて共に戦って来た。これからは、俺たちが君たちのバッジをつけ、君たちをサポートする。俺たち炭鉱労働者は、他にも戦うべき目的があるのだということを今は知っている」

 それはもう30年も前の話になった。
 チャヴのバッジをつけた黒人や、ムスリムのバッジをつけたフェミニストや、ポーランド人のバッジをつけたゲイが、見えにくい世の中になった。
 「ソリダリティー・フォーエヴァー」はアンセムではなく、エレジーになったのだろうか。

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 ある夏の暑い日、チャヴあがりの同僚は逮捕された。

 突然解雇された彼女の身の回りの品はすべて彼女の自宅に送られ、彼女が子供たちとつくった壁のディスプレーもすべて剥がされて捨てられた。
まるで最初からここにはいなかった人のようだ。
 ほんの3カ月前の話である。

物語る私たち - ele-king

 and I told you to be PATIENT,
 and I told you to be FINE,
 and I told you to be BALANCED,
 and I told you to be KIND…

 ボン・イヴェールによる“スキニー・ラヴ”が映画の冒頭で流れれば、僕ははじめて『フォー・エマ、フォーエヴァー・アゴー』を聴いたときのことを思い出す。その小さなフォーク・アルバムのなかで、敗れた恋とつまずいた人生に傷ついた男が自分自身に向けて「我慢強く、しっかりと、バランスを保って、心やさしく」あれと懸命に言い聞かせていたその曲のように……『物語る私たち』は、とても個人的な1本だ。

 幼い頃から子役として活動してきたサラ・ポーリーにとって監督3作めとなる本作で、彼女はこれまでの作品群……『アウェイ・フロム・ハー/君を想う』(06)、『テイク・ディス・ワルツ』(11)と同様に夫婦間に横たわる問題と複雑な愛について描き出している。ただし本作でポーリーが取りあげる夫婦は自分の両親であり、そして実話だ。しかしながらこれは「ノンフィクション」や「ドキュメンタリー」と言うより、あくまで「ストーリー」なのだと何度も強調される。
 その「ストーリー」の筋書きはこうだ。舞台女優でもあった母ダイアン・ポーリーはサラが11歳のときにガンで他界した。独立した兄や姉たちとは違って、末っ子のサラは父マイケルと暮らし、父娘の絆は育まれていく。しかしサラが成長してからというもの、家族間で「サラだけパパに似てないよね」という意味深なジョークが時折出るようになり、そしてそれがどうやら冗談でもない可能性が浮かび上がってくる。「サラが生まれる少し前、家を離れてモントリオールの舞台に立ったママは、どうやら恋人がいたらしい」……。そしてサラ・ポーリーは、自らの出生を、奔放だった母の秘密を探るために当時の舞台俳優仲間たちを訪ねることにする。
 たしかにこれはある家族の、ともすれば下世話な興味を引きかねないごくごく内輪の話である。だが、『羅生門』スタイルで、夫、子どもたち、友人、俳優仲間たちがそれぞれ証言することによって唯一不在かつ最大の当事者である母の像を浮かび上がらせていくというポーリーがここで取った手法は非常に効率的で滑らか、そして巧みだ。何度となくノスタルジックに差し込まれる8ミリのホームビデオ。まるで萩尾望都のマンガに出てくるような、率直で賑やかで、少々落ち着きのない母がそこで笑っている。誰もが魅了され、誰もが愛したダイアン。母でもあり、妻でもあり、恋人でもあり女優でもあったその女のある秘密が、じつに鮮やかに暴かれていく。

 ここから以下の文章ではその真相を明らかにしていることをご了承の上、お読みいただきたい。

 あろうことか……というか、大方の予想通り、母には恋人が本当にいて、父マイケルはサラの「本当のパパではなかった」。ただ、中盤であっさりと明かされるこの事実は映画の核心ではない。ここで明らかになるのは、本作が多くの優れたロマンス映画のように「ふたりの男とひとりの女」を題材にしていることなのである。それはふたりの男の間で揺れた母/女ダイアンだけではない。ふたりの父を持つことになった娘サラの物語でもあるのだ。そしてその両者の間にある愛は、形は違えどどちらも真実であり、だからこそ……そのことを知る家族はお互いを許し、母の人生を認め、そしてサラや父マイケルをはじめとして、彼女らが巻き込まれた厄介な事情をそれぞれが受け入れていく。
 興味深いのは、父マイケルもあるいは母の恋人でありサラの実父であった「その男」も、ダイアンとの間に起きたことや自分の人生を語りたがろうとしていることである。一個人の身に起きたことが、何か人生の普遍を……人間の真実を示しているのだと、その行為によって男たちは信じようとする。あるいは、そこに本当に愛があったのだと……。いっぽうでサラ・ポーリーはあくまで監督であり編集者として、一人称を「私」とせず、「私たち」にすることによって父親たちよりも客観的な視点を獲得しており、ひとりの女に大いに振り回された男たちの姿を浮かび上がらせていておかしい。

 だが、『物語る私たち』はシニカルな視点に貫かれているわけではなく、家族の事情を重く捉えないユーモアとお互いへの信頼が映像を満たしているからだろうか、とても温かな感触がある。母が死んだときのことを語らせる娘に向かって父マイケルは涙ながらに言葉を詰まらせ、「お前はなんてサディスティックな監督なんだ」とつぶやく。そしてふっと笑う。「この間もわけのわからない演出しやがって」。その笑顔はつまり、どんな人生にも必ず生まれる深い悲しみや困難に「語る」という行為を通して立ち向かっていくことを示しているように、僕には思えてならなかった。ちょうど、ボン・イヴェールが自らのごく個人的な悲しみと愛を、人称をぼかしながら「物語る」ことによって多くのひとの心を掴んだように。
 邦題が巧みな稀有な例でもある。原題は「Stories We Tell」、すなわち「私たちが語る物語たち」。語られる物語と、それを語る私たち。その円環のどこかに、私たちが愛と呼ぶものが立ち上がっているのだと、この映画はそっと差し出している。

予告編

Call Super - ele-king

 2014年を印象づけるひとつのキーワードが、「IDM/エレクトロニカ」である。ARCAもそうだし、FKAトゥイングスも、AFX人気も、いろいろなところにそれが伺えるだろう。年のはじまりがアクトレスのリリースからだったというのも象徴的だ。
 ニッチではない。この現象は実に説明しやすいもので、最初の「IDM/エレクトロニカ」ブームのときと同じく、アンチEDM(反・飼い慣らされたレイヴ)ってことだろう。対立軸がはっきりしているほうがシーンは面白くなる。
 とはいえ、『スージー・エクト』がダンス・カルチャーと対立しているわけではない。むしろクラブとベッドルームとの境目を溶解して、両側に通じているというか。ロンドンの〈ハウンズトゥース〉が送り出す、ジョセフ・リッチモンド・シートンによるコール・スーパーのデビュー・アルバムも2014年らしい、聴き応えのあるエレクトロニカ作品だ。

 2011年にデビューしばかりのコール・スーパーは、明らかにハウス/テクノのクラブ・ミュージックの側にいた。フィンガーズ・インクをモダンにアップデートしたような……、いや、それをほんとどコピーしたヴォーカル・ハウスである。が、活動の拠点を〈ハウンズトゥース〉に移してからの彼は型を外す方向に向かい、家聴きされることを意識したであろうこのファースト・アルバムでは、OPNとクラブとの溝を埋めるかのようなエレクトロニック・ミュージックを試みているわけだ。

 『スージー・エクト』を特徴付けているのは、エイフェックス・ツインの『セレクティッド・アンビエント・ワークス』を彷彿させるほどの、圧倒的なロマンティックさにある。押しつげがましくない程度に、緊張感のあるリズムをキープしながらも、ドリーミーで、なんとも恍惚としたサウンドを展開、曲によってはフルートやオーブエの生音まで入っている。また、そのリズムもテクノ/ハウス一辺倒ではなく、ボンゴの演奏を活かしたパーカッシヴな心地よさ、ダブの陶酔、アンビエント、いろいろある。つまり、工夫はあるが、屈託のない音楽なのである。

DEAN BLUNT - ele-king

 元ハイプ・ウィリアムスの片割れ、もっとも不可解なプロデューサーのひとり、ディーン・ブランドがYuTubeで彼の新しい12インチの片鱗を発表した。

 また、もう1曲の“50 Cent”も発表されている(https://www.youtube.com/watch?v=YQfwPziK-SA)。
 アルバムは11月に〈ラフトレード〉からリリースされる予定。そのタイトルは……『ブラック・メタル』(なはははは……)。

Arca - ele-king

 今年、E王にしなかったことを悔やんだ1枚が FKAトゥイグスの『LP1』なんですけど、そこでも主要プロデューサーとして話題になったアルカのニュースです。現在アルカは、10月29日に待望の初のフィジカル・リリース(デビュー・アルバム『Xen』)を控えていますが、先行シングルのPVが公開されました。

シングル「Thievery」ミュージック・ヴィデオ(ディレクター:ジェシー・カンダ)

 と同時に、なんと、ビョークの次作のプロデューサーがアルカに決定したというニュースまで舞い込んで来ました。いや~、すごい勢いですな。

いま欧米のストリートで、ダンス・カルチャーで、エレクトロニック・ミュージックのシーンで、もっともクールなトレンドが「ジャズ」。ロンドンのレコード店に入れば大音量で「ジャズ」が鳴り、ラジオをつければジャズが流れる。DJカルチャーはジャズを堀り、インディ・リスナーはアヴァンギャルドを探求する。テクノにもダブステップにもヒップホップにもジャズが大量に注がれはじめている。

周知のように、ロバート・グラスパーのグラミー賞受賞をきっかけに、ソウル~R&B~ヒップホップのなかでジャズが再解釈されている。が、現在の「ジャズ」には、さらにもっと自由な風が吹いている!

プログレッシヴ・ロックのアフリカ・ヴァージョンとも呼べるジャズの新局面。シュギー・オーティスの流れを引く俗称「プログ&B」(プログレ+R&Bの略)。デトロイト新世代のカイル・ホールがうながすブロークン・ビーツ・リヴァイヴァル、サン・ラー生誕100周年で再燃するコズミック・ジャズ、デリック・ベイリー再評価のなか広がるアヴァンギャルドへの情熱、そして大友良英の上昇、シカゴ音響派の再評価、ワールド・ミュージックとしてのジャズ、吉田ヨウヘイgroupなど日本の新世代に見るジャズへの偏愛……

活況あるジャズの現状を分類しながら、新旧交えて「いま聴くべき」ディスク・カタログ100枚も収録。

表紙&カバーストーリーは、近々待望の新作リリースが噂されるフライング・ロータス!

Siamgda - ele-king

 ディスク・レヴューを書くということが個人的にポジティヴな行為であるようにしたい。というのも、僕はアレはクソだとか、コレはファックだとか、現実世界のすべてに文句を垂れ流しながらそれを改善する術も見い出せず怠惰に生きているわけで。だからこそ書き記すことくらいせめて生産的でありたい……だからヴァチカン・シャドウ、ファンクションとプルリエント、ウガンダン・メソッズ(Ugandan Methods)のコラボ盤それぞれがいかによくなくて、前回ほのめかしたエンドンによって昨今のオカマ系インダストリアル・ムーヴメントに引導が渡され、マジで終焉を迎えようとしているのではないか? と危惧していることなんてぜんぜん書かない。

 と、うしろ向きな書き出しをしているのも、このレコードがひさびさにガチだから。ひさびさにディグった感があるからである。踊れる系ノイズ、インダストリアル老舗レーベル、〈アントゼン(Ant-zen)〉が世に送り出すジャーマン暗黒電子ズンドコ節、シアムグダ(Siamgda。読めないので正確な発音がわかればご指摘ください)は朝5時にピークを迎え、昼まで飲んだくれるような墓場の運動会的パーティにはまさしくうってつけの一枚だ。
 ネパールを旅行中のマーク・フィッシャーによって2001年春にカトマンズ近郊のヒマラヤの山腹にて始動したというリアルにゴルいエピソードを持つ本プロジェクトは、彼がそれまで培ってきた西洋的ポスト・クラシカル、ノイズ/インダストリアルの素養がネパールでタブラと出会い、その後インディアン・ミュージックにのめり込んだ結果であるらしい。彼が油ギッシュな長髪をドレッドにして、ゴスとレイバーとクラストを足したような格好に転身したであろうくらいは想像に容易いけども。
 だがこの『トレマーズ』を世に氾濫する中古で投げ売りされるメタル・パーカッション系のレコードといっしょにしてはあまりにもったいない。ギラギラと黒光りする電子音とパーカッション、イースタン・メロディが渾然一体と化し、魑魅魍魎となってあなたをフロアで発狂させるだろう。スカルディスコあたりからカットハンズをヘヴィロテするDJには、ぜひともこれを投入して僕をブチ上げてほしい。

 でも白人も日本人もちょっとスピるとドレッドでインディアな風貌になるのはもういい加減にしてくれ。

Basement Jaxx - ele-king

 この夏ベースメント・ジャックスのライヴを観ていていまさらながら気づいたのは、ステージ上にさまざまな人種や性別や、そして体型の人間がごった返しているということだった。そこに韓国系の女性が加わっているのは日本で観る上で胸がすく思いだったし、彼らが着ていたアフリカの部族の衣装のようなローブには大きく虹の絵が描かれていて、それが非常に自覚的な振る舞いであると思い知らされたのだ。今年のワールドカップであれだけアンチ・レイシズムがわざわざ掲げられたのはそれがのっぴきならない問題だということに他ならないが、そんななか世界的なビッグ・アクトとして長いキャリアを持つベースメント・ジャックスは自分たちの果たすべき役割をよくわかっている。

 通算で7作めだという『フント』はディスコグラフィを振り返れば平均的な内容のアルバムで、大きな驚きはないが、そのぶん安心して楽しむことのできるパーティ・アルバムだ。昨今のハウス・ブームやダフト・パンクの復活にもとくに動じることなくマイ・ペースを貫いている。“ロック・ディス・ロード”や“マーメイド・オブ・サリナス”のラテン・フレイヴァーやシングル“ユニコーン”に代表されるようなR&Bテイストなど、基本的には自分たちの得意なフィールドに持ち込んでいるトラックが中心。もっとも色気を見せたのがミッキー・ブロンコを呼んでヘンテコなドラムンベースをやっている“バッファロー”で、クィア・ラップ・シーンに与するブロンコを参加させていること自体が、ジャケットに虹が掲げられているアルバムのコンセプトの表れだろう。前作でオノヨーコを招聘し、そして本作で“パワー・トゥ・ザ・ピープル”というタイトルのトラックを実質のオープニングにするのはあまりにもリスナーに親切なやり方だが、逆に言うとそれぐらいしなければ伝わらないのかもしれないという気持ちもあったのだろう。このわかりやすい多文化主義、スペイン語で「トゥギャザー」を意味するアルバム・タイトルは、おそらくベースメント・ジャックスにとって切実なメッセージである。
 アンダーグラウンドのハウス・シーンから出てきた彼らにとって、世界的な成功の代わりに失ったものも大きかったのではないかとずっと感じていたのは僕だけはないだろう。実際、ディジー・ラスカルと手を組んだりしていた『キッシュ・キャッシュ』(2003年)あたりの彼らは音楽的にもメッセージ的にももっと怒っていて、地下との接点を証明しようと懸命だったようにも思える。が、キャリアも20年近いいま、どこか達観したようにも見えるベースメント・ジャックスがあらためて示すのはハウス・ミュージックの愛である。クロージング・トラックの“ラヴ・イズ・アット・ユア・サイド”における「愛はきみのそばにある」という言葉やアトモスフェリックなサウンドによる妙なスピリチュアリティには、だから、彼らの真剣な横顔が見える。小さなハウス・クラブで愛を掲げることがもう彼らには許されないのだったら、世界中の雑多な音楽や人びとを混ぜ合わせ、踊らせることによって実践するしかないのだと。
 『スプリング・ブレイカーズ』のなかでEDMを浴びながら馬鹿騒ぎしていた大学生たちが本当に誇張でも何でもないのだとしたら、ベースメント・ジャックスがここで繰り広げる大げさに猥雑なハウス・パーティは立派なカウンターとして機能することだろう。国内盤にボーナス・トラックとして収録されたトライバルでミニマルなハウス・トラック“バック・トゥ・ザ・ワイルド”における「裸になろう!」の叫びのバカっぽさにはしかし、貫禄と誠実さがある。

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