「Noton」と一致するもの

Half Japanese - ele-king

 もとはといえば、ジャド・フェアとデヴィッド・フェア兄弟が74年に自宅で結成した(ピストルズよりも早く、ラモーンズと同じ年!)生粋のアメリカ人ユニットのくせに、「半分日本人」などと人を食ったようなバンド名を掲げるこのハーフ・ジャパニーズ。おふざけにもほどがありますね。筆者もそうなのだけれど、90年代初頭にインディ・ミュージック・シーンを席巻した(?)ジャンク/スカム〜ローファイ・ムーヴメントのあおりで、彼らのキテレツな音楽を知った人は多いかと思う。もしくは、カート・コバーンが自死したときに着用していたというTシャツからか? いや、もっともっと若いリスナーなら2011年にリリースされたジャドとテニスコーツの共作『エンジョイ・ユア・ライフ』でだろうか。

 そんな長い歴史をもつハーフ・ジャパニーズにまつわる人脈をたどると、新旧オルタナティヴ・シーンの何某かが見えてくる。一時期バンドに在籍し、黄金期を支えた〈シミー・ディスク〉の総帥でありプロデューサーのクレイマー、ドン・フレミング(ヴェルヴェット・モンキーズ/ボールほか)。元ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのモー・タッカー。ジョン・ゾーン、フレッド・フリスらダウンタウンのフリーミュージック一派。ソニック・ユースにヨ・ラ・テンゴ。同じ香りしかしない盟友ダニエル・ジョンストン。そして、共作もリリースしているパステルズやいまも交流が続くティーンエイジ・ファン・クラブら英国勢。さらに日本のイシマルーからテニスコーツまで、まるでレッド・クレイオラのメイヨ・トンプソンばりの吸人力でその周りに愉快な仲間があつまるあつまる。

 さて、ハーフ・ジャパニーズの新作がリリースされた。じつに13年ぶりの出来事である。気がつけばデヴィッドも正式メンバーから外れているけれど、それはここでは野暮な話。ジャド・フェアがいて僕たちがいる。もうそれだけでハーフ・ジャパニーズなんだから。しかし、本作、ジャドのヘロヘロわめいて、コロコロ転がり、ペチャクチャしゃべりたおす愛くるしい歌こそまったく変わらないものの、バックの演奏がひと味ちがう。例のごとく、崩壊すれすれのところで綱渡りをかましてなんとかギリギリセーフ! そんな危なっかしいガレージ・パンクはいつもどおりだが、ポンコツ感というよりも端正なアヴァン・ポップ感が耳についてすごくヒート・アップする。それもそのはず、今回のメンバーに名を連ねるのは、90年代初頭からハーフ・ジャパニーズとして苦楽を共にする、元デビル・メントール〜アンサンブル・レイエのジャイルス・V・レイダー(ドラム/シンセサイザー)、90年代USジャンク/スカムの最重要レーベル(いやマジで!)〈メガフォン〉の張本人ジェイソン・ウィレット(ベース)。そして、そこに加えて、元ザ・ワーク〜オフィサー!〜ザ・モームスのミック・ホッブスもギターで参加しているのだ! というわけで、ニューウェイヴ〜レコメン色が濃ゆ〜い内容となった本作は、90年代オルタナティヴがもっていたラフな感触が緊張の糸をほどいたかと思えば、次の瞬間、巧妙に、スピードに乗った複雑なアンサンブルが再び緊張の糸をむすび直したりしてテンヤワンヤ。ハラハラドキドキ。じつに大忙しなのである。

 そんな、いつになく建築的(?)な演奏とは裏腹に、まっすぐすぎるがゆえにあらぬ方向にねじ曲がるジャドのロックン・ロールへの愛情。ぐるぐるぐるぐるとぐろを巻いて、じりじりじりじりねじりはちまき状態になって、ねじれすぎてプチンとちぎれて、そのちぎれた先には何もない。答えは風の中になんてない。それはいたってシンプル。もはや、狂喜(not 狂気)と衝動だけをぶら下げたジャドの表現行為は、「ストレンジ!」という常套句を期待する僕たちのあざとい思考を余裕で飛び越えて、考えても考えてもまったくもって正解の出ない「爽快なもどかしさ」を投げかけてくれる(アートワークにあしらわれた、お馴染みのジャドによる切り絵からもほっこりとした物語とリズムを感じとれるが、その奥にあるモチーフはまったく謎だらけ……)。

 ささやかな幸福感への扉をいくつも用意して、聴くものを選ばずに手招いてくれる妖精のようなおじいちゃん。世界の片隅で、「愛」と「モンスター」を叫ぶ60歳のパンクスを想像してみよう。これはもう奇跡の野蛮である。

Marian McLaughlin - ele-king

 『dérive』と名づけられた美しい(アシッド・)フォーク・アルバム── 「dérive」とは英語で「drift」、漂流の意である。シンプルな弾き語りを基本スタイルとし、スペースのある音づくりのなされた本作には、たしかに身ひとつで漂白するような自由さを感じる。ただし、このタイトルはギー・ドゥボールの「漂流」から採られたということだから、ニュアンスとしては気ままな放浪というのとはすこしちがうようだ。おそらくは能動的に何かを見つけ、動き、展いていくためのひとつの方法、活動、もしくは実験というような意図があるのだろう。だから自由といってもただ束縛がないという状態のことではない。『dérive』には、なにかが生まれる前のような柔軟なエネルギーがたっぷりとふくまれている。そう、このジャケットの写真のように。

 ボルチモアで活動する女性ギタリスト/シンガーソングライター、マリアン・マクラフリン。クラシック・ギターを修め、現在はミュージシャンや詩人や画家などさまざまなアーティストたち集うコミュニティ・スペースで暮らし、音楽活動を行っている。アーティスト同士の共同生活を行ったり「漂流」の概念を引いていたりするからといって、ことさら政治性や運動性を帯びていたりするわけではない。ニック・ドレイクと比較されたりもしているが、どこかブリティッシュ・トラッドな雰囲気の旋律とアレンジには森と霧の匂いがあるし、それに誘い込まれるようにして幻想的な景が広がりさえもする。ときおり感じられるバロック風も、フリーフォークを通過した感性のなかで、一種独特のサイケデリアを築いている。よく聴けばテクニカルなのだろうけれど、なにか太い感覚やイメージの帯のようなものがあり、それにひきずられてぐいぐいと聴いてしまうというところが素晴らしい。
 “ホース”などバンドがバックをささえる曲でも、あくまでマクラフリンの単独の世界はくずれずに、録音のライヴ感とは裏腹に、まるで宅録のごとき趣がある。そしてそのすべてが彼女のギターによって先導される。彼女のアートの芯のようなものに火を点す楽器として、ギターはまるで生き物かなにかのようにふるまう。ギターはマクラフリンにとって、イメージをぶつけ、それを描きこむためのキャンバスのようなものだというが、ただ黙っているキャンバスではない。彼女にたいしてもきっとギターからの応答があるのだろう。そんなふうに、どこかしらにひっそりと生けるものの息吹がまつわりつくようなところも、フリーフォークと呼ばれたアーティストたちの幾人かを思い出させる。マクラフリン自身も特定のものからインスパイアされるわけではないとしながら、ジョアンナ・ニューサムやラーキン・グリムの名を挙げている。もちろん、そこには同時にニック・ドレイクやペンタングルの名も並ぶ。組み立てるのではなく弾き、歌い、イメージに流されることなくそれを操る技量を持つ──シンガーソングライターとして、ギタリストとして、そのどちらの強さも持ち合わせた本当に自由なアーティストだ。

Groundislava - ele-king

 リドリー・スコットが『ブレードランナー』(1982年)を再映画化するという話はどうなっているのだろう。同監督の『エイリアン』(1979年)の前日譚だという『プロメテウス』(2012)を観たときに、いや、いまこの壮大なSFをやるんだったら『ブレードランナー』をやってしまえば思いっきりインなのに、と思った記憶がある。80年代をリアルタイムで知らない世代の、後追いの記憶によるいくぶんノスタルジックなリヴァイヴァルに、当時なら見事にハマったはずである。『プロメテウス』と同時に『ブレードランナー』を再見したのだが、そこには記憶にあったよりもずっと朗らかな近未来が描かれていた。キャッチーなディストピアとでも言おうか、『プロメテウス』の徒労感や空虚さに比べてよっぽど愉快なものに感じられたのだ。

 シュローモやバスとも交流があるLA拠点のプロデューサー、ヤスパー・パターソンによるプロジェクト、グラウンディスラヴァによるサード・アルバム『フローズン・スローン』はサイバーパンクの影響下にあるという。たしかに言われてみればタイトルからしていかにもだが、それで思い出したのがヴァンゲリスによる『ブレードランナー』のあの大仰なサウンドトラックである。24歳のパターソンにリアルタイムでの記憶はないだろう、が、いわゆる名作として幼少期に80年代SFに触れている可能性は大いにある。『フローズン・スローン』はおそらく、そのおぼろげな記憶とインターネット以降のビート・ミュージックの知識が合体したものである。
 はじめはいまの若いビート・メイカーらしく、多彩なリズムによる完成度の高さに耳を引かれた。基本ハウス・ビートが多いものの、“ターミネイト・アップリンク”でドラムンベースがさらっと出てくる辺り、語彙の豊富さを窺い知れる。が、それよりも耳に残るのはよく歌うメロディだ。それはゲスト・ヴォーカルのスムースな歌だけではなく、いやそれよりも、クセのあるシンセ。オープニングの“ガール・ビハインド・ザ・グラス”からして、メランコリックやアンニュイというよりは過剰にドラマティックに響くシンセ・サウンドは、なるほど音そのものよりもエモーションの込められ方が80年代シンセ・ポップを思わせる。前作『フィール・ミー』のバスが参加していた“スーサイド・ミッション”(……タイトルがいかにもバスだ)のようなナイーヴさよりも、全編にわたって参加しているレア・タイムスのヴォーカルによるアダルト感が前に出ていることもあるだろう、これまでよりもリヴァイヴァル感は強く、そして腰が砕けそうにキャッチーだ。ミニマルなハウス・トラック“オクトーバー パート2”のセクシーな歌と軽々しいシンセの絡みは華やかというかもはやチャラいが、だからこそ踊る足取りも軽くなる。いまの20代にとってディストピアはこの現実世界に探すよりも、80年代SFに見つけることのほうが愉しいことなのかもしれない。ラスト、“スティール・スカイ“は「鋼の空」という重々しいタイトルとは裏腹に、その空を突き破っていくような開放感に貫かれたハウスである。

Chihei Hatakeyama - ele-king

 ここ数年、日本のアンビエント・シーンはエレクトロニカ以降の世代によって大きな潮流が作られている。その音楽性は海外のそれとはやや違い、「穏やかな時間=日常性」を礎としつつ、しかし不意に聴き手の心と耳の深い所に作用する穏やかな強さを持っていたように思える。日常性と静寂と鎮静の音響音楽。その意味で、いまやアンビエントやドローンを実験音楽というカテゴリーに封じ込めることはできない。アンビエントは、私たちの生活の傍らにある音楽になったのである。
 畠山地平は、その新しいアンビエント・シーンにおいて、極めて重要なアーティストだ。彼はデジタル/アナログの機材を駆使し、美しくも穏やかな音の層を生成する。そして、その音には深い沈静作用がある。

 まず、畠山地平の経歴を簡単におさらいしておこう。彼は2006年にファースト・アルバム『ミニマ・モラリア』を名門〈クランキー〉から発表する。以降、2008年に〈マジック・ブック・レコーズ〉から『ザ・シークレット・ディスタンス・オブ・トーチカ』を、2009年に〈ルーム40〉から『サウンター』を、2010年に〈ホーム・ノーマル〉から『ア・ロング・ジャニュアリー』を、2011年に〈ルーム40〉から『ミラー』を、2012年に〈ホーム・ノーマル〉からアスナとの共作『スケール・コンポジションズ』リリースするなど、国内外のレーベルで数多くのアルバムを発表してきた。さらに2011年にはヨーロッパ10箇所をまわるツアーを敢行し、あのティム・ヘッカーなどとも競演。その名は海外のアンビエント・ファンに知られている。

 すでに豊富なキャリアを誇る畠山は、現在ドローン/アンビエント・シーンの旗手ともいえる音楽家だが、自らのキャリアに固執することなく、伊達伯欣(イルハ)とのデュオ、オピトープではエレクトロ・アコースティック、ヴォーカリストの佐立努とのルイス・ナヌークではフォーク・ミュージックを奏でるなど、ジャンルやフォームを越境していく活動を繰り広げている。また、レーベル〈ホワイト・パディ・マウンテン〉を自ら主宰し、自身のアルバムや、マシーンファブリック、アスナ、シェリングなど国内外のアーティストの作品をリリース。アンビエント・リスナーから絶大な支持を得ているのである。

 その畠山地平、待望の新作が発表された。もちろん、〈ホワイト・パディ・マウンテン〉からのリリースである。その名も『ウィンター・ストーム』。まさに「冬」の音楽である。全71分の大作だ。この作品は本当に素晴らしい。アルバムを再生したその瞬間から、その音世界に一気に吸い込まれていく。絹のような音の持続、大らかな旋律、繊細なサウンド・レイヤー。耳の肌理に触れるかのような柔らかい音。全4曲、どの曲も一級の工芸品のように細部まで磨きあげられているのだ。

 〈マーマーレコード代官山〉のクロージングパーティーで演奏された1曲め“ドント・アスク・ホワット”の降り積もる雪のような素晴らしさ。澄んだ空気のごとく透明なアンビンエトの2曲め“ウィンドウ・トゥ・ザ・パスト”の繊細さ。畠山地平がトルコを旅したときの雪の記憶とリディア王国へのイマジネーションを結晶させた3曲め“リディア”の慎ましやかな雄大さ。2014年2月に東京に降った大雪の記憶から生まれた4曲め“ウィンター・ストーム”の美しさ。まさに「冬のイマジネーション・アンビエンス/アンビエント」とでもいうべき作品に仕上がっているのである。
 個人的には1曲め“ドント・アスク・ホワット”の冬の温度を視覚的に思い出すような大らかなメロディアス・ドローンに惹かれた。また4曲め“ウィンター・ストーム”は、繊細なサウンド・レイヤーと嵐のようなノイズの蠢きから生まれる音響の美しさに惚れぼれとしてしまった。

 ドローン・サウンドの中にゆったりと大らかな旋律が浮かび上がり鳴り響く。それが人の心を鎮静させる。近年、これほどまでに沈静効果のある音楽も稀ではないか。かといって「癒し」のような表面的な音楽性ではない。心と体の深いところに効くアンビエント音響=音楽なのだ。その意味で本作の穏やかさは、本質的な強さを持っているようにも思える。
 このアルバムには、才能溢れる音楽家が感じている/生きている時間=記憶の豊穣さが、見事に圧縮されている。そして私たちが彼の楽曲を聴く=効くというのは、その豊かな時間を、耳と心に解凍していく大切なひとときになるだろう。
畠山地平の音響/音楽は、聴き手の記憶の風景や時間を、ゆっくりと解凍してくれるのだ。あのときの風景。あのときの季節。あのときの空気。あのときの雪。あのときの冬。そのときの記憶。そしてまたあのときの風景。円環する時間。巡り来る季節。大らかさ、静けさ。繊細さ。柔らかさ。鎮静。音響的結晶。アンビエント/ドローン。ブライアン・イーノによるアンビエント・ミュージックの提唱から36年もの月日が流れ、これほどまでに心に効くアンビエント・ミュージックが誕生したことへの驚き。

ともあれ、秋から冬というメランコリックな季節に、じっくり耳を傾けたいアンビエント作品である。さあ、柔らかい音の層に包まれて、71分の「記憶」の旅にでかけよう。

DESKTOP ERROR - ele-king

 彼らについてはシューゲイザー、あるいはポストロックという紹介を多く見かけるが、サイケデリックの一類型という意味ではシューゲイズだし、トータスの構築性/脱構築性ではなくレディオヘッドの折衷性をポストロックと呼ぶならば、あるいはエモの文脈においてはポストロックと呼べるだろうか。90年代から2000年代のリアルな「洋楽体験」を反射させながら輝くタイの5人組インディ・ロック・バンド、デスクトップ・エラー。彼らの音を聴いていると、国は異なれどひとつの世代感を共有するような錯覚におそわれる。

 マイ・ブラッディ・ヴァレンタインからレディオヘッドといったUKインディ、アメリカン・フットボールやデス・キャブ・フォー・キューティといったUSインディ/エモ、それから感触としては〈モール・ミュージック〉やトゥ・ロココ・ロットなどロック的でアコースティックなエレクトロニカにまで飛び火するだろう。〈アンチコン〉まで連想してもいいかもしれない。横断的にそれらを括る言葉はないが、ポストロックというよりも「ポスト・バンド」時代のバンドやプロデューサーたちが残してきた折衷的な知恵とスタイル、そして前掲のアーティスト名に絡まる、内向的で潔癖的なメランコリーとセンチメンタリズム。デスクトップ・エラーの楽曲には、シューゲイズ・マニアとかポストロック信者とかいうことではなく、そのように「あの頃のヨウガク」のごく素朴なリスナー体験とその感動がしみこんでいる。

 不思議なもので、彼らにとってもわれわれにとっても「ヨウガク」への距離感はほとんど同じなのではないかとさえ感じる。かつてはレディオヘッドなどをコピーしていたというのも、微笑ましくてリアルなエピソードだ。もっとも、タイではこの種の音楽体験を共有するのはひと握りだということだから(https://www.offshore-mcc.net/2012/03/desktop-error.html)、経済的な階層が音楽カルチャーの受容を分断しているというようなことはあるかもしれないが。

 今年リリースされたデスクトップ・エラーのセカンド・アルバム『キープ・ルッキング・アット・ザ・ウィンドウ』は、そんな彼らのルーツが素朴に開陳されながらも、新鮮な驚きにみちたアルバムだ。とくに新しい方法があるわけではないが、かわりにはっとするほどピュアな瞬間がいくたびもおとずれる。ピンバックのアジア的ヴァリエーションとも呼べそうなサッドコア的フォーク・ナンバー、あるいはアリエルなどのきらきらとしたシューゲイズ新世代などを思わせる“เปลี่ยนทิศ / Pian Tid”や“เปลือยเปล่า / Nude”といったあたりもすばらしいが、“ต่างด้าว / Alien”などのバースト・ナンバーにおいてペダルが踏まれた瞬間の感触などにもいわくいいがたいものがある。いわゆる轟音バンドのそれとはちょっと異なる発想の歪みではないかと思う。こうしたところもマニアや研究気質ではない素朴さがなせる部分だろうし、渋谷系のリヴァイヴァルも手伝ってか、知識や歴史意識を携えたバンドが復権しているいま、相対的にどこか愛らしさも感じさせる。タイ語は非常に自然に英語と溶けてきこえるが、ふとしたタイミングで見たことのないような音の情景を描きだしてくれる。

 しかし最大の驚きはやはり1曲めだろうか。“กุญแจผี / Ghost Key”となづけられたその曲は、おそらくは民俗楽器を用いていて、タブラ様のなにか打楽器、そして耳慣れない弦楽器がフィーチャーされているように聴こえる。つづけてたとえばビーチハウスの一節を歌いはじめてもまったくおかしくないような英米のインディ・ポップの文法に、わざとらしさを微塵も感じさせずに自身らのオリジンを接続させていく感覚がとてもすばらしい。取り込む・取り込まれるという関係ではなくナチュラルに両者をオーヴァー・ダビングしていくようなところには、おそらくは彼らの拠って立つ場所や皮膚感覚のそのものがあるのだろう。この1曲があることにおいて、本作品はマイナー・ローカル・バンドのアルバムとして絵葉書のようにものめずらしく眺められることにとどまらない、深みとアート性を帯びることになると思う。

禁断の多数決 - ele-king

 歌詞は謎めいていて、ライヴはほとんどしないで、インタヴューは人を食ったようで、しかし、たしかな音楽性でファンを獲得する禁断の多数決が、〈術ノ穴〉から新作をリリースした。新作『エンタテインメント』は、新曲3曲にリミックスを加えた全6曲で構成されたEPのかたちをとっている。
 彼らが〈術ノ穴〉から新作をリリースすることについては、それなりに驚きもあったが、少し考えれば必然性も感じる。トラックメイカー・ユニットのFragmentが主宰するこのレーベルは、最初期こそ良質なヒップホップ/エレクトロの作品を送り出すことで評価を得ていたレーベルだったが、近年ではジャンルに限定されない活動が広い支持を集めている。一方、禁断の多数決も、前作『アラビアの禁断の多数決』で、エレクトロ・ハウス調からR&B風、あるいはワールド・ミュージック的な意匠の曲まで、多様な音楽性を発揮していた。さまざまなジャンルを現代的な感覚で昇華するというありかたにおいて、なるほど禁断の多数決と〈術ノ穴〉は、とても相性が良い。

 本作冒頭を飾る“ちゅうとはんぱはやめて”は、遅めのビートとシンセサイザーが印象的な曲で、恋愛なのかなんなのか、という「ちゅうとはんぱ」な人間関係について歌ったものである。この曲では、〈術ノ穴〉からの鮮烈なデビューも記憶に新しい泉まくらが客演に迎えられているが、この起用が見事である。というのも、泉まくら以外のパートが抽象的・比喩的に「ちゅうとはんぱ」な人間関係を歌うのに対し、泉まくらはもっと具体的・現実的に「ちゅうとはんぱ」な人間関係をラップする。もちろん、そんなはっきりと抽象的/具体的と分けられるわけではないのだけど、両者の歌詞世界の対比が、とてもおもしろかった。この対比をなぞるように、泉まくら以外の部分にコーラスが重ねられていたり、リヴァーブが強く効いていたりする一方で、泉まくらのラップは生身の声に近いのも緊張感があっていい。とくに中盤、泉まくらが「中途半端だから中途半端にしか君の気持ちは気にならない/中途半端だから中途半端にしか知ったところで傷つかない」と、歌うようにラップを聴かせる展開が印象深い。禁断の多数決が披露してきた現実離れした世界に、泉まくらがヒリヒリした感覚――主題こそ違えど、それこそ奥村チヨの「中途半端はやめて」のような!――を持ち込んだようで聴きごたえがある。

 この曲は、Tomgggと食品まつり a.k.a. foodman がリミックスをしている。Tomgggのリミックスは、小西康陽感すら感じさせるストリングスありトイピアノありのウワモノに、多種多様なビートが展開する力作。一方、食品まつりのリミックスは、アンビエントのトラックに歌声がダブ加工されたもので、Tomgggの楽しいリミックスとは一転して暗い雰囲気になっている。この方向性がまったく異なるリミックスを聴き比べるだけでも楽しい。しかし特筆すべきは、どちらのリミックスもそれなりに禁断の多数決らしい曲に聴こえてしまうことである。最近はメンバーの流動性もうかがえる禁断の多数決は、依然としてなかなか全貌をつかませないが、そのことはかえって、どんなリミックスや音楽性にも耐えうるような幅広さに通じているのかもしれない。Fragmentによる“秘密の世界”のエレクトロニカ/音響派的なリミックスは、もはやほとんど原曲のかたちをとどめていないが、全6曲を通して聴けば、このリミックスすら禁断の多数決ワールドの一環として聴くことができる。

 本作『エンタテインメント』は、禁断の多数決による「エンタテインメント」がいかに広い振れ幅を持っているかを示している。客演、リミックス、コラボレーション……――これからファンの予想を裏切って、さまざまな活動を展開することを楽しみにしたい。ちなみに“秘密の世界”を聴いたとき、オリエンタルなテクノポップの雰囲気に、細野晴臣が作詞作曲をした小池玉緒“三国志ラヴ・テーマ”を思い出した。ファンの予想を裏切る活動ついでに、まことに勝手ながら、ぜひ“三国志ラヴ・テーマ”のカヴァーをリクエストしたい!

Fucked Up - ele-king

 上半身裸の大男が暴れ回るライヴを観てファックト・アップのことは一発で好きになったのだが、その大男、毛むくじゃらでたっぷり太ったダミアン・エイブラハムがライヴで脱ぐことになったきっかけはカナダの地元のベア系ゲイ・コミュニティにおいて「もっと脱いでほしい」と言われたことだったと聞いて、もっと好きになった。ダミアンはそれまで自分の身体をセクシーどころか恥ずかしいものだと思っていたらしいが、そんなことはもう1ミリも感じさせない解放感とパワフルさがファックト・アップのライヴだ。いい話である。いい話だし、ファックト・アップのあり方をよく表しているエピソードだ。

 ファックト・アップが2008年のセカンド・アルバム『ザ・ケミストリー・オフ・コモン・ライフ』において世界的に高く評価されたのは、たとえばハードコア・パンクには珍しい管楽器を使ってみたり、含蓄のある歌詞であったり、1曲が7分を超えるような構成力だったり、つまりその知性的な振る舞いのためであった。と同時に、それ以上に、何よりも初期アメリカン・ハードコアにあったようなまっすぐな反骨精神を思い出させたことが大きいだろう。凝っているとはいえ、ファックト・アップは3本のギター・アンサンブルやその背筋が伸びるようなパワー・コードの響きで聞かせる衒いのないハードコア・バンドだ。辺境としてのカナダで、パンク・コミュニティの親密さを体現しているようなバンドが現れたことは多くのひとにとって……とくに90年代のオルタナティヴ・ロックや80年代のハードア・パンクを経験した人間にとって、無条件で支持したくなることだったのだ。
 2011年の前作『デイヴィッド・カムズ・トゥ・ライフ』における78分にも及ぶロック・オペラで描かれたのは、工場で働く青年デイヴィッドが恋に落ち、企業に逆らい、いくつかの失意を経験し、そして最後はまた愛を発見する……というものだったが、その時代設定がサッチャー時代のイギリスだったということがおもしろい。それはバンドの精神、すなわち権威に正面から対抗しようとする姿勢が発揮できる舞台がそこだったということだし、また、その文学性において自分たちと直接関係ないことが自分たちの主張になり得ることの証明だった。タイタス・アンドロニカス『ザ・モニター』(2010)と並んで、当時パンク・バンドの知性と気高さを示した作品であったと言えよう。

 4作めとなる『グラス・ボーイズ』においてバンドは、自分たちの出自にいかにして忠実であれるかを探求する。ともすればそのコンセプト主義によって大仰になる傾向が多いその楽曲はここではコンパクトにまとめられており、そのほとんどは3分台だ。トイ・ピアノでのオープニング、アコースティック・ギターの効果的な挿入や、ドラムのオーバーダブなどファックト・アップらしい仕掛けもいくつかあるが、再生ボタンを押してしまえば全10曲43分、嵐のように駆け抜ける痛快なパンク・アルバムだ。前作収録の“クイーン・オブ・ハーツ”ほどキャッチーなキラー・トラックはなくとも、“サン・グラス”、“ジ・アート・オブ・パトロン”など、よく歌うギターと華のあるコーラスがフックになっている。そしてダミアン。レコーディングのときはそりゃあ服を着ていただろうが、聴いていると思い浮かぶのは、巨体を晒しながら咆哮し、走り回るあの姿である。そのエネルギーが途切れることはない。
 「俺のなかで少年が解放されるのを待っている」……ダミアンが分厚いギターの音を背にオープニング・トラック“エコー・ブーマー”で歌うのは、かつてパンクと恋に落ちた少年のことだ。「俺は少年だった、歌を歌っていた/その音は俺のように死んだりしない」。このアルバムにほのかに宿るノスタルジーは、世界的に成功したバンドによるかつて自分たちがいた場所への忠誠心であり、そしてふるき良きパンク・カルチャーの回顧であるだろう。そのストレートさ、誠実さにおいて、僕のようなパンク・キッズだったことのない人間でも、少年性の謳歌というある種の男の特権に懐疑的な人間でも、ファックト・アップのパンク・ソングを聴いているとステージに向かって宙を舞う少年たちの姿が見える。そうそれに、ファックト・アップは冒頭のエピソードに象徴されるように、世の中からはみ出した人間たちが集まる場所としてのライヴ・ハウスで、その期待に応えてきたのだから。
 タイトル・トラックでありクロージング、“グラス・ボーイズ”ではギター・アンサンブルがまっすぐ突き進むなかダミアンの叫びとコーラスがきれいにシンクロしてアルバムは大団円を迎える。バンドのアティチュードをあらためて宣言する、バンドの歴史のなかでもベストな一曲だ。「どこにも行かなくなる前はどこに行ってたんだろう/何もしなくなる前は何をしてたんだろう/何もなくなる前は何があったんだろう」……。すべての少年は老い、その無鉄砲さを失っていく。だがそれでもここにいるのは「ガラス・ボーイ」だと、いまにも壊れそうな少年だとファックト・アップは言い、だからパンクと出会って魂を解放される子どもたちのことを僕たちに懸命に思い出させようとする。

Helado Negro - ele-king

 サヴァス・アンド・サヴァラス(SAVATH & SAVALAS)のメンバーとしても活躍し、プレフューズ73(PREFUSE 73)のアルバムにプロデューサーとして名を連ねるなど、ギレルモ・スコット・ヘレンとの仕事でよく知られるヘラド・ネグロことロベルト・カルロス・ラング(ROBERTO CARLOS LANGE)。スクール・オブ・セヴン・ベルズやイエセイヤー、ベア・イン・ヘヴンらとも関わりの深い彼は、いうなれば2000年代サイケデリックのエレクトロニック/ヒップホップ・サイド、あるいは、同時期のレフト・フィールドを象徴する面々を裏から支えてきたキー・マンというところだろうか。ヘラド・ネグロ名義での活動は彼がマイアミからブルックリンに移り住んでからスタートしているが、それは前掲のアーティストたちとともにブルックリンという地名がこの10年ほどの間においてもっとも求心力をもった時期にも一致している。『アー・オー(Awe Owe)』(2009年)などは日本でもよく売れたのではないだろうか。中古屋でもよく見かけた。

 さて、〈アスマティック・キティ〉からコンスタントにリリースをつづけ、2012年のジュリアナ・バーウィックとのコラボなど、客演やプロデュース業でもかわらずに活躍するラングの新作が届けられた。ノスタルジックなぬくもりとミステリアスな異世界感をとけあわせるジャケット写真だが、この被写体のうちのひとりはネグロ本人であるようだ。
 実家で不意に見つけた古い写真をアートワークに用いたというエピソードにミツメの『eye』を思い出し、この風合いや異世界性にはアワ・ブラザー・ザ・ネイティヴの『メイク・アメンズ・フォー・ウィー・アー・ミアリー・ヴェッセルズ(Make Amends For We Are Merely Vessels)』を連想する。いずれにせよ、エクアドル移民というルーツを瀟洒に取り入れながら音響的アプローチを試みてきた彼の手法は今回も健在で、冒頭の“アー・アイ・ヒア”のドードーズやエル・グインチョを思わせるようなゆるめのトロピカル・サイケに、スペイン語が心地よく映えている。

 しかし今作の特筆点は、昨年の『インヴィジブル・ライフ』においてもすでにその萌芽が見受けられたリズム・セクション、ビートの変化だろうか。さっそく2曲めの“アイ・クリル・ユー”は16ビートで展開されている。クリック・ノイズのような音があしらわれたパルスで、しつこくないものの、少し大胆にダンス・オリエンテッドな作品ではないかという予感を煽る。残響も深め、初期の清新なエレクトロ・アコースティック感は後退し、よりドリーミーでサイケデリックな色をつよめている。ジミー・タンボレロが参加しているという“イッツ・アワ・ゲーム”や、つづく“マイセルフ・オン・トゥー・ユー”“フレンドリー・オーギュメンツ”などは、ラテン風のクセもほとんど外れていて、たとえば〈ブレインフィーダー〉などからリリースされていてもおかしくないような、あるいはアンビエント・テクノといった趣さえある。
 遍在するようでどこにもないような、異国のようなホームのような、あらゆる場所の境界線を虹彩のように調節し、やわらかくもドープにも広げる、ネグロのマジック・タッチが冴えるサイケデリック・ダンス・アルバムだ。

Francisco López - ele-king

 フランシスコ・ロペスのアルバムは、以前〈ライン〉からリリースされた弱音饗楽曲を収録した『Presque Tout (Quiet Pieces: 1993-2013)』を紹介させていただいたが、今回はフィールド・レコーディング系列の新作アルバムを取り上げてみたい。彼のフィールド・レコーディングは、わたしたちの聴覚を拡張させてくれるものばかりだ。いわばアンビエントのハードコア。

 今回ご紹介するのは『アンタイトルド(2011)』という作品である。このアルバムは素晴らしい。なぜならロペスが長年制作しているアンタイトルド・シリーズであるにかも関わらず、一枚のアルバムとして成立しているように思われるからだ。収録している「楽曲」(今回はフィールド・レコーディング)、その構成、アルバム・ジャケットの凝り方などからわたしがそう推測しただけもしれないが、一枚を聴き通してみると、ストーリーのような流れが感じられた。

 本作は、ポーランドの実験音楽/ノイズ・レーベル〈ネフライト〉から444部リリースされたアルバムである。アルバム名どおり2011年に、東京、ブラジル、オーストラリア、北アフリカ、コスタリカ、メキシコ、ニュージーランド、モロッコ、スペイン、ペルーなど世界各地で録音されたマテリアルを使用している。本CDは、“#291”、“#278”、“#279”、“#289”、“#286”、“#287”、“#288”、“#292”の全8トラックで構成されており、それらフィールド・レコーディング音は、近年のロペス作品がそうであるように、音響空間の遠近法が極端に強調され、ときにはミュージック・コンレートのような音響が展開されていくのだ。まるで世界のザワメキを彼の耳と彼のマイクがこう捉えたという記憶/記録であるかのように。

 アルバムは東京での録音“#291”からはじまる。虫の声。鐘の音。どこかの寺での録音だろうか。否応にも日本という土地の刻印を感じる音だ。甲高いカラスの鳴き声。そしてまた虫の声。それらの音がロペス的なサウンド・パースペクティヴによって脳内に鳴り響く。その音響は、意味を剥ぎ取られ、まるで電子音響のようにも聴こえてくる。あまりに強烈に音の本性が剥き出しになった結果、その音が、音の意味を超えて、新しいサウンドとして生成したかのようである。

 この1曲めでわかるように、本作もまた近年のロペス的な「わかりやすさ」が全面化している。いわばミュージック・コンクレートを聴取するように、フィールド・レコーディング音をリスニングできるのだ。その傾向がもっとも出ているのが、2曲めに収録された“#278”である。この楽曲は、本作のどのトラックよりもエディットをされているように聴こる。もはや元音が何の音か聴き手はわからないほどだ。むろん、音の質感や運動感などから、この音が現実にあった何らかの音というのはわかる。しかし、録音によって極端に強調された音の蠢きは、まるで電子音のようにしか聴こえないのである。また曲内いくつものサウンド・エレメントが接続されているようにも思える。結果、この“#278”は、ほとんどミュージック・コンクレートのように聴こえるのだ。もしかすると、ほとんどノン・エディットの曲という可能性もあるが、仮にそうであるとするなら、なおのこと驚愕である。このように「世界」の音をとらえるロペスのマイクロフォンと彼の耳の独自性に唸らざるを得ない。

 そのエディット感覚がさらに全面化するのは、3曲め“#279”といえよう。冒頭、何か豪雨のような音が炸裂し、その後はしばらくロペスの微音系の楽曲のように、静寂で鼓膜を震わすような音が持続する。この曲は「 [Raw Material Provided By] incise」と記載があり、いわば インサイズによってロペスのマテリアルをエディットしたものなのだろう(インサイズはフランスの〈ドローン・スウィート・ドローン〉などからCD-R作品をリリースしている音響作家)。ここでは「Raw Material」の名のとおり、霞んだサウンドが編集され独自(ロペス作品としては異色な)持続が生まれている。曲の終わり近く少しだけ音が増大化する構成も見事だ。

 4曲め以降はロペスのサウンドに戻り、世界各国で録音されたサウンドが展開していく。4曲め“#289”は、ブラジルのマモリ湖で録音されたものだが、冒頭に、人が小さく囁くような声も録音されており(ロペス本人か?)、息を潜めて、孤独に世界と向き合って録音されたものだということがわかり感動的である。そしてこの“#289”が4曲めに収録されていることは、明らかに意図的であり、アルバム全体がひとつの流れ(ストーリー)によって構成されていることの証明にも感じる。録音、編集、別の人による再編集。そして録音者の囁き声、息吹、さらに世界の音へと。そう、このアルバムは、録音/編集による「世界」の音を横断/越境する耳の記録=旅ではないか。ここにはロペスの耳が、そのマイクが捉えた新しい音の風景とストーリーがある。そしてテーマがある。思想がある。それは言葉ではなく、この世界に満ちた音の蠢きの中にあるものだ。

 それはどういう思想か。世界の音は、マイクロフォンを経由することで、すべてまったく新しい「音楽」になるというものではないか。音楽=世界論。アルバムは雨、雷、鳥の声、風と音、虫の音などが交錯し、音の連鎖によって世界を巡るのだが、同時に本来の意味から切り離され、聴き手のイマジネーションによって再生成し「音楽」となる。そう、ロペスは世界には、そのような「音楽」が満ちていることを証明していくのだ。

 これは「ありのまま聴く」というケージ的な態度=思想とは似て非なるものといえよう。なぜなら、ロペスの音は独自の遠近法を獲得している。それは世界の音そのままではない。そのロペス的な音の操作は、聴き手の記憶に作用する。聴いたことのある音/聴いたことのない音の境界線が消え、新たな音響空間が生成する。本作は、そんなロペスの思想=音が、いくつもの楽曲によってコンパクトに構成された見事なアルバムである。

 最後に本年リリースされたロペス作品の傑作をもう一枚紹介。その名も『ハイパー・レイン・フォレスト』。マルチ・チャンネル用に作られたインスタレーション用の音源だが、それをステレオ音源に再構成。結果、音の密度と運動と移動の感覚が、これまでのロペス作品以上に強調され、聴いているとまったく新しい「世界」へと連れていってくれるような体験ができる。これもまさにアンビエントのハードコアだ。『アンタイトルド(2011)』と共にフランシスコ・ロペスの現在を刻印したアルバムとしてお勧めしたい。

Matchess - ele-king

 五雲、というのは仙人や天女が遊ぶところにかかるという五色の雲のこと。なぜ雲に五色を感じたのかはわからないけれども、昔の人なりにネオンというか、常世の艶やかで華やかでありえないありがたさを表現するための舞台装置だったのかなと想像する。さて筆者は最近この雲を見た。展望のある台地に鈍い光がまじりあって分離して5つほどの色のかたまりになって、それを割ってその光たちの親であるもっともまばゆい光線が差し込んできたのを見た──。

 というのは夏休みに読みかじったエドモンド・ハミルトンの影響とかではなくて、マッチェスことホイットニー・ジョンソンの『セラファストラLP』を聴いて自動筆記的に描出されたイメージ。これはもともとは〈デジタリス〉からリリースされていた作品で、同レーベルの女流シンセジスの正しき血統を感じさせる。冒頭の“ザ・ニード・オブ・ザ・グレイテスト・ウェルス”にもあきらかな、クラスターやクラウス・シュルツェ、あるいはローリー・シュピーゲルなどを彷彿させるミニマルなシンセ/アンビエント・トラック。反復ビートも心地よい。いずれもエメラルズ以降を生きる耳には馴染み深いものだが、中盤からその鈍色の音のカーテンをやぶって入ってくるギター・ノイズがなんとも美しい暴力性を発揮していてすばらしい。ノイズも一様ではなく、スロッビング・グリッスルをなぞるような展開もあり、インダストリアルとコズミックと、サイケデリックとパンクとが放射状に一斉射撃される様は圧巻。現在形の女流(宅録女子と呼んでいたころもありました)との同機ということでいえば、メデリン・マーキーからエラ・オーリンズ、さらにゾラ・ジーザスまでの振れ幅を持つ怪作だ。ローレル・ヘイローやあるいはピート・スワンソンなど、テクノ的要素だけが見当たらないだろうか。ジョンソンはヴァーマ(Verma)というバンドのキーボードとしても活躍しており、スペーシーなインプロと女性ヴォーカルが特徴的なそのサイケ・バンドでも重要な役割を果たしている。

このヴァーマをリリースしているシカゴの〈トラブル・イン・マインド〉が、ジャケットの装いもあらたにヴァイナルとして出し直したのが本作。〈デジタリス〉版のカセットのジャケット・デザインの、あの時代を忘れて漂流するがごときSFチックも非常によくこの作品の性格をあらわしていると思うけれど、こちらの〈モダン・ラヴ〉的なインダストリアル感、モノクロームなウィッチ感もいい。エキセントリックさが抑えられて、よりいまらしさが捉えられている。『ele-king vol.6』の女流宅録電子音楽特集からずいぶん時間が経ったけれども、プロデューサー気質の個性的な女流は涸れることなくどんどんと後続を生みつづけていて、「男勝り」ではなく個としてつよく勝ったその姿に毎度惚れている。

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