「Noton」と一致するもの

ミツメ - ele-king

 団地を切り取ったミニマルなカヴァー・アートが目を引く。規則正しく等間隔で並んだベランダには、それぞれ洗濯物、室外機、あるいは植物なんかが見えている。これはたとえば、この『ささやき』に収められた“公園”や“ボート”、“3年”の曲調のようなほほんとした単調さを持った生活感や、『eye』までのカヴァー・アートの少々感傷的でノスタルジックな感覚を想起させる。
 あるいは。アンドレアス・グルスキーがスーパーマーケットを切り取ったあの冷たいミニマリズム(そういえば、ポール・トーマス・アンダーソンは『パンチドランク・ラブ』のなかでグルスキーへのオマージュを捧げていた)のような居心地の悪さや気味悪さも感じられる。それは昨年のザ・ストレンジャーのアルバム・カヴァーのようなディストピックな閉塞感とも地続きにある、のだろう(大友克洋の『憧夢』も思い出される。「団地」というものはあまりにも多くの意味を孕んでいる)。
 『ささやき』のジャケットをLPサイズで眺めていると、微笑ましい生活感と悪夢のような冷たい反復との間で引き裂かれそうになり、くらくらと目眩がする。

 ミツメの3作めとなる『ささやき』はそういった両価性を持ったアルバムで、ミツメはここで弛緩と緊張とがともに存するような音楽を奏でている。
 “公園”や“ボート”にはふにゃふにゃと緩みきった気怠い反復があり、たとえば“ボート”には楽天的でトロピカルな感覚すらあるが、「ずっと前から 気にしてたけど/いいよ」「道連れにして うやむやになる」と諦めきった倦怠感が充満している。そして、“停滞夜”や“テレポート”などに特徴的だが、川辺のクルーナー・ヴォイスには深く深くリヴァーブがかけられ、口を開ききっていないようなそれこそささやくような──歌唱法でもって、ますますゴーストリーでこの世ならざる繊細さが表現され、空気へと分散し溶け込もうとしているかに感じられる。
 昨年のシングル『うつろ』について僕は「虚無感」「妙に重たくて気怠く、隙間だらけだが粘っこいグルーヴ」「ダーティでルーズで未整理な音」と書いたが、『ささやき』ではそういった感覚や方向性をさらに深化させているようだ。先の“ボート”などの他に“コース”や“クラーク”といったシンプルでルーズなロック・チューンでは(とくに後者で)ペイヴメントのようなだらけたグルーヴを展開しており──つまりこういった演奏ができるということは、ミツメの4人のアンサンブルはいまもっとも息があっているということなのだろう。

 一方、“いらだち”では『BGM』や『テクノデリック』の頃のYMOのドラム・サウンドを、“ささやき”では『青空百景』の頃のムーンライダーズのギター・サウンドをそれぞれ思い起こさせ、他にも“停滞夜”や“number”といった曲ではニューウェイヴへの指向性を一層深めている。ギター、ベース、ドラムスないしドラム・マシンが刻むミニマルなリズムがこういった楽曲の中心を占め、抑制や禁欲の美意識がゆき届いた緊張感、緊迫感を放っている。

 『ささやき』はどの曲も短く、収まりのいいエンディングを迎えないまま唐突に終わる。いくつかのインタヴューでは、プリプロ段階で録音したデモに残された偶発的なミスやフレーズをレコーディングにおいて再現した、ということが語られていたが、『ささやき』にはリハーサルを録音したプライヴェート・テープといった趣すらある(“ささやき”のドラムスを聴いてみよう。タムの捌き方やハイハットの開閉にはまるで演奏中に叩き方を考えながら叩いているかのような不安定さがある)。だけれども、だからこそ、ここには異様な緊張感と弛緩とが奇妙に同居している。
 アルバムを聴き終えたあとには、カヴァー・アートから感じるそれと相同の居心地悪さ、薄気味悪さが残るだろう。『うつろ』で踏み出したニュートラルでフラットでどっちつかずのグレーゾーンのその先で、霧と煙に取り巻かれて、ミツメは茫漠とした奇妙な像を結んでいる。

ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅 - ele-king

 ネブラスカ州といえばスプリングスティーンのアルバムを思い出すひとも多いだろうが、南部でも西部でももちろんベイエリアでもなく、中西部を描くことは何かアメリカの本質に迫るようなところがあるのだろう。ネブラスカ出身のアレクサンダー・ペイン監督が故郷の風景を豊かな白黒映像で映す『ネブラスカ』は、しかし、スプリングスティーンと言うよりもスフィアン・スティーヴンス『イリノイ』に近い。パーソナルであると同時に優れたフィクション性があり、ユーモラスでペーソスに溢れていて、そして前作『ファミリー・ツリー』よりも踏み込んでアメリカの老いを語っている。

 そもそも、冒頭で高速道路を徘徊していて警察に保護されてしまう老人=父を、アメリカン・ニューシネマ以来の俳優ブルース・ダーンが演じているという時点で、その姿に20世紀のアメリカからの遺産を嗅ぎ取ってみたくなる。だから『ファミリー・ツリー』は夫と妻の物語だったのに対して、『ネブラスカ』は典型的に父と息子の物語なのである。宝くじで100万ドルが当たったという出版社のインチキ広告を真に受けた父がモンタナからネブラスカまで行くと言うので、仕方なく息子が連れて行くうちに両親のルーツに出会うこととなる。典型的なロード・ムーヴィーでもあり、ペイン監督がアメリカ映画の伝統を強く意識していることは疑いようがない。
 しかしながら、そうして描かれるネブラスカの町はどうだろう。親子は親戚を訪ねることになるのだが、ほとんどが老人たちで彼らはほとんど喋ることもなく、あとは無職者とか……。ハリウッド映画が描いてきた豊かなアメリカと遠いのは当然だが、たとえばヴィム・ヴェンダースが異邦人の目線で描いた叙情的なアメリカとも決定的に異なっている。アメリカの内部で育った人間が見た、どうしようもなく寂れていく田舎の風景がここにはある。僕は、スフィアン・スティーヴンスが『ミシガン』でデトロイトの産業の衰退を慈しみをこめて歌っていたことを思い出す。映画は父の過去を見つめながら、忘れ去られていく中西部で生きた人間たちの気配を立ち上がらせる。



 しかしそんな寂れた町の住民にまで父は(アメリカが誇る名優のブルース・ダーンが!)、「哀れだ」と言われてしまう。長い間飲んだくれて、気がつけばすっかりヨボヨボの父は、本当にそれほど同情されるべき存在なのだろうか? 息子を演じるコメディアンのウィル・フォーテは父を見ながらずっと、なんとも困った表情をするばかりである。
 そしてその困り顔は、わたしたちがアメリカの斜陽を見るときのそれであると、映画の終わりのほうで明らかになる。どうしてそんなにも父が100万ドルにこだわったのか、口数の少ない彼がようやく明らかにするとき、悲しいとも愛おしいとも言いがたい、説明できない感情が沸きあがってくる。だから、アメリカの遺産の多くを受け取っているであろう「息子」であるわたしたちは、「たくさんのものを、たくさんのものをもらってるよ!」とスクリーンのなかの「父」に向かって心のなかで叫びながら、親子の旅を笑顔で見送るのである。落ちぶれていくアメリカに対する、同情と哀れみ、慈愛と懐かしさが複雑に絡み合ったわたしたちの想いを、こんなにも正確に浮かび上がらせる映画作家はアレクサンダー・ペインを置いて他にいない。

予告編

Ásgeir - ele-king

 ソチ五輪はロシアで弾圧されるゲイたちに心を飛ばしつつ、主にカナダや北ヨーロッパの髭面の男たちを応援していた。とくに、2回目の転覆にもめげずに3回目の滑走をしたカナダのボブスレー・チームの不屈さと(心身両方の)逞しさには涙したのだが、せっかくオリンピックなんだから日本選手以外もテレビでもっと放映すればいいのにと思う。若者が洋楽から離れるわけですね。とはいえ、冬季五輪は北欧の住民たちを身近に感じられるのがいい。スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、フィンランド……強豪選手が山ほどいて、遠い北国の彼らの情熱に痺れることができる。しかしアイスランドは……というか、アイスランド、出てたっけ? (調べたら出てました。5人。)

 音楽ファンにとってはアイスランドと言えばビョークとシガー・ロスがあまりにビッグなためそのイメージが強いけれども、ときどき、エレクトロニカやフォークなどでワールドワイドな才能が飛び出してくるのが面白いところだ。本稿の主人公であるシンガーソングライター、アウスゲイルはかの地から飛び出して久々に大きな注目を集めている存在である。21歳。しかも生まれ育ったロイガルバッキというところは40人あまりの集落だというから、間違いなく、この音楽がなければ彼の存在に触れることはできなかったろう。
 本作はアイスランドで国民的大ヒットとなったデビュー作『ディールズ・イ・ドィーザソッグン』の英語版で、英訳詞を担当したのがアイスランドに移住したジョン・グラントだという。僕がアウスゲイルに興味を持ったのはまさにグラントを媒介としてだが、本作自体がそういう構造になって出来上がっている。英語が母語ではないひとが歌う発音は英語を母語としない人間にはとても聞き取りやすく、だから本作は日本とアイスランドとの距離を一気に飛び越える。メロディがとてもキャッチーなフォークトロニカ・ポップで、青年が歌う素朴な愛や風景はとても親しみやすい。ファルセット・ヴォイスということもあって、そのフォーキーでほどよくアンビエントな音はボン・イヴェール+シガー・ロスのヨンシーのソロといったところ。5曲目の“ワズ・ゼア・ナッシング?”なんかはボン・イヴェールそのままだと言ってもいい。それが悪いということではなくて、ボン・イヴェール以降のフォークをマジメにポップ・ミュージックにする新人が、アイスランドから出てくること自体が興味深い出来事に感じられる。
 ジョン・グラントがコスプレをして登場するヴィデオがなんだかシュールな“キング・アンド・クロス”がもっとも完成度の高いナンバーだが、1曲のなかでボサノヴァやエレクトロニカ、フォーク、カントリーが手際よく配合されているのは見事というほかない。アウスゲイル自身の強い個性はいまのところ際立ってはいないけれども、そもそものアイスランド語の歌詞も彼自身によるものではなくて、ライナーノーツによれば72歳の彼の父親によるものだそうだから、彼自身の内面や魂を吐露するタイプのシンガーソングライターではないのだろう。これもMORと言えるのだろうか、とても耳に優しいポップスで、心がざわついているときよりも平穏なときにすっと馴染む。アイスランド語版も聴いてみて、なるほどそちらのほうが神秘性は高く聞こえたが、アウスゲイルのアーティスト性には英語版のカジュアルさもとても合っているように思う。
 アルバムにはこれからの展開の予感が散見され、ボン・イヴェールのようにポスト・ロックに接近もできるだろうし、ビョークのようにエレクトロニックなダンス・サウンドだってできるだろう。ジョン・グラントに触発されてヘヴィなソウルをやるかもしれない。オリンピックが終わってしまえば応援していた選手の4年後の年齢をすぐ考えてしまうが、アウスゲイルにはもちろん引退の心配なんてない。アイスランドの集落から世界に広がる未来ばかりがある。それにしても……早く4年後にならないものだろうか(ピョンチャン!)。

第16回:貧困ポルノ - ele-king

 今年の英国は、年頭からC4の『Benefits Street』という番組が大きな話題になった。
 これは生活保護受給者が多く居住するバーミンガムのジェイムズ・ターナー・ストリートの住人を追ったドキュメンタリーである。が、ブロークン・ブリテンは英国では目新しくも何ともない問題なので、個人的には「なんで今さら」と思った。日本人のわたしでさえ何年も前からあの世界について書いてきた(その結果、本まで出た)のだ。UKのアンダークラスは今世紀初頭から議論され尽くしてきたネタである。
 が、この番組で英国は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。デイヴィッド・キャメロン首相から『ザ・サン』紙まで、国中がこの番組について語っていた。よく考えてみれば、一部のコメディや映画を除き、あの世界を取り上げた映像は存在しなかったのである。
 なるほど。アンダークラスは本当に英国の蜂の巣だった。というか、パンドラの箱だったのである。みんなそこにあることは知っているが、蓋を開けるとドロドロいろんなものが出て来そうだから、遠くから箱を批判することにして、中をこじ開けようとはしなかったのである。
 当該番組がはじまったとき、メディアの多くが使ったのは「貧困ポルノ」という言葉だった。が、お涙ちょうだいの発展途上国の貧困ポルノと、アンダークラスのそれとでは質がちょっと違っていた。元ヘロイン中毒者や若い無職の子持ちカップル、シングルマザーといった「いかにも」な登場人物たちが生活保護受給金で煙草を吸ったりビールを飲んだり、犯罪を行ったりして生活している姿をセンセーショナルに見せ、国民の怒りを扇動している。と同番組は非難され、無知な下層民がスター気取りで自分たちの貧困を晒していると嫌悪された。
 が、彼らがそれほど「貧困」していないこともまた視聴者の神経を逆撫でした。「他人の税金で生きているくせに、薄型テレビを持っている」、「フードバンクの世話になってるわりにはビールを買っている」などのツイートが殺到し、「働かざる者、食うべからず」、「子供を育てる余裕のない者は、子を産むな」といった、昨今ではPCに反するので公言でないような言葉を文化人でさえ口にした。近年の英国でこれほど人々を感情的にさせた番組があっただろうか。と思っていると、C4の番組としては、倫敦パラリンピック開会式以来最高の視聴率をマークしたという。

             ********

 昨年末、久しぶりに底辺託児所に行った。底辺生活者サポート施設には、もはやわたしが出入りしていた頃のような活気はない。労働党政権時代には政府の補助金のおかげで、PCスキルや外国語、アートなど様々のコースを無職者のために無料で提供していた施設が、保守党政権が補助金を打ち切ったためにコースを維持できなくなり、人が寄り付かなくなったという。
 元責任者アニーが引退してから、当該託児所は複数の責任者たちによって運営されている。そのうちのひとりがわたしのイラン人の友人であり、年末は人員が不足するだろうと手伝いに参じたのだが、子供の数はたったのふたり。常にガキどもで溢れ返り、粗暴で賑やかだったあの底辺託児所はどこに行ってしまったのだろう。
 「みんな、どこに行ってしまったの?」と言うと友人が答えた。
 「生活保護を激減されて、ここに来るバス代すら払えなくなってるんだよ」
 「じっと家にいるのが一番金はかからないけど、それって危険だね」
 「うん。玩具や食料を車に乗せて、気になる家庭を定期訪問しようっていう提案もある。経費の関係でどうなるかわからないけど」
 一般に、虐待や養育放棄などの不幸は閉ざされた空間で起きる。だから乳児や幼児のいる家庭を孤立させてはいけない。というのは、幼児教育のいろはである。ましてや食うにも困っている人々が子連れで閉じ篭っている状況はとても不健康だ。

              *********

 放送開始当初は「英国の恥部。あの通りの住民を皆殺しにしろ」などというヘイトまで生んだ『Benefits Street』だが、放送が進むにつれ議論も進化した。左翼系の団体や文化人は一貫して「貧困者を社会の敵にしている」と主張し、同番組の放送中止を求めたが、変容してきたのは右翼・保守系の論調である。ふだんは、豪邸をあてがわれた生活保護受給家庭がいかに地域住民に迷惑をかけているかだの、子供ばかり産む下層女はけしからんだの書いているウヨク新聞デイリー・メイル紙でさえ、「『Benefits Street』は貧困者のモラルの無さを描いているのではない。彼らを作り出した社会制度がモラルに欠けていたということを示している」と書いた。
 わたしは日本にいた頃、ザ・スミスが歌っているから。という程度の知識で「サッチャーはダメだ」と思っていた。しかし、英国に住んでから彼女が犯した罪とは本当は何だったのかということがわかった気がする。それは、経済の転換によって犠牲になる人々を敗者という名の無職者にし、金だけ与えて国蓄として飼い続けたことである。
 アンダークラスの人々を知った当初、「24時間自分の好きなように使えるのに、どうして彼らのライフタイルには幅がないのだろう」と不思議に思ったものだった。しかし人間というものは、HOPEというものを全く与えられずに飯だけ与えられて飼われると、酒やドラッグに溺れたり、四六時中顔を突き合せなければならない家族に暴力を振るったり、自分より弱い立場の人々(外国人とか)に八つ当たりをしに行ったりして、画一的に生きてしまうものののようだ。
 「それはセルフ・リスペクトを失うからです」と言ったのは昔の師匠アニーだった。自らをリスペクトできなくなった人間に、もう国は貴様らを飼えなくなったから自力本願で立ち上がれ。というのは無茶な話だ。自力本願。というのは各人が自分の生き方の指針にすべき考え方であって、それを他人にまで強要するのはヒューマニティーの放棄である。自力を本願できる気概やスキルが備わっていない人間を路傍に放り出せば、英国だって餓死者が出る社会になるだろう。

 アンダークラスを生んだのは、サッチャーだけではない。PR専攻の人気取り政治に終始したトニー・ブレアもまた、ドラッグ・ディーラーの如くに無職者に生活保護を与え続け、麻痺させて黙らせていたのである。2005年にカイザー・チーフスが“I Predict A Riot”という曲で「裸同然の少女たち」が、「コンドームを買うために1ポンド借りている」だの「ジャージ姿の男に襲われている」だのと歌ったとき、「1977年のパンクから影響を受けたというバンドが、デイリー・メイルお得意の『衝撃のアンダークラス!』記事から書き写したような歌詞を書いている」と嘆いたのはジュリー・バーチルだったが、ブロークン・ブリテンと呼ばれる階級は顔のない集団悪として描かれることが多かった。『Benefits Street』関連で個人的に一番吃驚したのは、C4主催の討論番組で、若いお嬢さんが「こういう生活を送っている人々が本当にいるということに驚きました」と語っていたことだが、ミドルクラスの人々にとって下層の世界はカイザー・チーフスの歌詞ぐらい現実味のないものだったのだろう。しかし、ジェイク・バグのようなアーティストの登場や、『Benefits Street』のような番組により、ようやくアンダークラスの人々もインディヴィジュアルな人間としての顔や声を出しはじめた。
 そう思えば、UKのアンダークラスもまた、「そこにいるのにいないことにされていた人たち」だったのかと思う。世の中の癌であり、UKの恥部である階級が、自分たちと同様に個性や感情を持つ人の集まりであることを、この国の社会は認めたくなかったのだ。

 人間の恥部を晒すことがポルノであるならば、アンダークラスを撮った番組は貧困ポルノと呼ばれる宿命を負っていただろう。
 しかし、この貧困ポルノは「同情するなら金をくれ」と言っているポルノではない。彼らは金は貰ってきたのだ。そしてその金と引き換えに、それより大事なものを奪われてしまったのだ。

 イラン人の友人から電話がかかって来た。
 底辺託児所は春から家庭訪問サービスを始めるそうだ。
 資金は全くないのだが、車を貸す人や運転する人、玩具を貸してくれる幼児教育施設、食料を寄付してくれる店などが見つかったらしい。

 金だけではどうにもならないことを、金がないからこそ形にしていく人々がいる。
 これを市民運動と呼ぶのなら、UKの地べたにはその屋台骨がある。

D/P/I - ele-king

 昨年末からLAのマシュー・サリヴァン及びアレックス・グレイ邸を間借りし、僕がボングを銜えたまま猫を揉んだりしている間に、この男は2枚のアルバムを仕上げてしまった。

 アレックス・グレイは基本的に一日中喋っている。こちらがノー・リアクションでも自身のギャグに爆笑するような底抜けにハッピーな男である。先日、26歳の誕生日を場末のバーで愉快な仲間たちに祝われスパークするグレイ、具体的にはショーン・マッカンとともにカラオケでサブライムを熱唱する泥酔グレイを眺めながら、この男が絶好調であることを確信した。そう、LAのローカル・メイトの誰もが昨今のD/P/Iのサウンドがネクスト・レヴェルへ達したことを確信している。

 同じ屋根の下で暮らすマシュー・サリヴァン、ショーン・マッカンが得意とするミュージック・コンクレートをディープ・マジックを通して消化したグレイは自身のジャングル・ミュージック・バッグ・グラウンドと近年のフットワーク・ビートへの傾倒を披露する。D/P/Iの本作『08.DD.15』はもちろん〈リーヴィング〉から。盟友Ahnuuと激しく共鳴しながらロー・エンドに群がるキッズたちの耳にトラウマ・グルーヴを刻み込んでいる。先日のテープお披露目ショウでも静寂の間を音源以上にフィーチャーし、フロアを置いてけぼりにしていたのが記憶に新しい。というのは昨今のD/P/Iのサウンドが〈リーヴィング〉に代表されるニューエイジ・ビートからのさらなる飛躍でもあるからなのか。

 マシューデイヴィッドはよりポジティヴなニューエイジを、キャメロン・スタローンは新たに始動したソロ名義とゲド・ゲングラスとともに主宰する〈ダピー・ガン(duppy gun)〉でよりアフリカン・ルーツを掘り下げているのを横目に、グレイはその独自の軽薄なキャラを体現するかのように彼等が手を出してこなかったフットワークやジャングルを波乗りしているのだ。その軽薄さゆえ、本人が意図しないまでもD/P/Iはヴェイパー・キッズから熱いラヴ・コールを受けているのは必然なのかもしれない。それまでマシューとキャメロンの影響下にあったグレイは彼等を触発するほどに成長したことは間違いない。それは今後のサン・アローのサウンドに顕著に表れてくるだろう。

 そしてこの〈リーヴィング〉からのテープにダメ押しをかけるかのごとく〈ブーム・キャット〉からの12”がリリースを間近に控えている。確実に期待して良し。

Various Artists - ele-king

 あたかも極限状態を試すかのように、このところハウス・ミュージックばかりを聴いている人間が日本に少なくとも5人いるはずである。彼らは日夜『HOUSE definitive 1974-2014』のため、なかばマゾヒスティックなまでに4/4キックドラムを浴びているのだ。雪が降ろうと快晴だろうと、腹が減ろうと満たされていようと、外へは一歩も出ずに……

 長年音楽を聴いてきて、大衆音楽史においてもっとも大きな分水嶺となっているがディスコ/ハウス・ミュージックだったというのは確信がある。数ヶ月前も、たまたまある場所で、ある高名な音楽評論家と目があった瞬間に「俺はクラブは嫌いだから」と言われたが、こういうことは西暦2014年になろうが珍しいことではない。ノイズ/インダストリアルの愛好家でも、80年代半ばにそれがディスコを意識するようになってから離れていった人は少なくないが、僕も最初からディスコ/ハウス・ミュージックを素直に受け入れたわけではないので、その気持ちがわかる。10代~20代前半の若い頃は、ダンス・ミュージックなんてものはナンパで軽くて、低俗だと思っていた時期がある。恥ずかしくて聴けたものではないと。たんに自分がその超然とした優雅さを理解できなかっただけのことだが。

 ディスコは一時期商業的に大ブレイクしたので、1975年までのアンダーグラウンド時代を、そして流行が終わった後のアンダーグラウンド回帰時代(代表的なのがアーサー・ラッセル)を顧みずして、先入観や偏見だけで出来上がってしまったイメージがまだある。ダンスがうまくて、やたらキラキラしたイメージだ。実際は、音響装置の実験もあり、また、ゲイの運動家たちの拠点としての政治的な側面も併せ持っていたりと多様だが、たぶんどんな人にもざっくりとしたイメージがあるだろう。ところがハウス・ミュージックには、ディスコほど明確なイメージがない。ハウスはディスコから来ているが、しかしそれが出てきたとき、ディスコと違って匿名的で、つまり妖しく、より異質に見えた。

 ラリー・ハードの超名曲がほのめかしたように、ハウス・ミュージックは「ミステリアス」だった。ジョン・サヴェージが言うように、80年代半ばのレアグルーヴ(昔のファンク崇拝)が支配するダンスフロアにとっては、あり得ない何かに思えたものだ。この日常世界のどこかには、自分たちのまだ知らない感性による何かが始動している。まだ知らない世界がある。〈トラックス〉や〈DJインターナショナル〉、〈ニュー・グルーヴ〉のレーベル面の素っ気ないロゴ、ラフなデザインと印刷もそうだが、クレジットには初めて見るような名前ばかりが印刷されている。同時代のニューウェイヴ・ディスコの洒落たデザインとは対極で、しかも事前の情報もなく、ただそこに1枚の12インチがある。
 そこには好き勝手に録音された得体の知れない音が彫られている。ときにはセクシャルなトーチ・ソング、ときには狂ったかのようなドラッギーな反復、ときにはディープな思いを誘発する音が、名も無き人たちによって作られる。世界のどこかで醸成されるその「ミステリアス」さ、これがハウスと括られるジャンルの大きな魅力だった。
 かつて、ベルリンのベーシック・チャンネルというレーベルは確信犯として、その「ミステリアス」さを継承した。アーティスト名が読めないくらいがちょうど良いのだ。誰が作ったかという情報を明記するよりも、どんな音がそこにあるのかということへの関心を高めるほうが、このジャンルでは最高の効果を果たす。今日、東欧(ルーマニアやブルガニア、ロシアなど)のミニマルなハウスが異常に人気なのも、「ミステリアス」さと大いに関係があるのだろう。そしてNYのレーベル〈L.I.E.S.〉もまた「ミステリアス」であることに自覚的だ。

 本作は、昨年末のリリースで、レーベルにとって2作目のコンピレーションとなる(1枚目は『ピッチフォーク』いわく「スクリレックスの口のなかに尖った棒をぶっ込んでいるかのような」作品。どんなものかわかるでしょ?)。先日、NYでクリス&コージーがライヴを披露したときにサポートしたのがこのレーベルだったというが、彼らの音は明白なまでにアシッド・ハウス寄りで、ガラージ・ハウスもしくはディープ・ハウスなどよりはノイズ/インダストリアルに近い。ディスクロージャーではなく、ファクトリー・フロアやBEBの側……いや、それ以上に衝動的な何か。レーベルを主宰するロン・モレッリは、自身の作品はノイズ/インダストリアル系の〈ホスピタル〉から出している。
 紙エレキングで島田嘉孝氏が書いているが、〈L.I.E.S.〉は、昨年から日本でも人気レーベルなっているそうだ。レゴヴェルトはテクノ・リスナーにはそこそこ知られているだろうし、昨年話題になったトーン・ホークもこのレーベルから出している。が、基本「リリース経験の乏しい名の知れないようなアーチストばかり」の作品を出しているというのに売れているのは、レーベルへの信頼度や極めて衝動的(ガレージ・ロック的)であるがゆえの楽曲のユニークさもさることながら、そこで何が起きているのか知りたいという欲望が駆り立てられているからなのだろう。ハウスは難しい音楽ではないが、これが意外と気持ち良ければいいって音楽でもない。『Music For Shut Ins』には挑戦的な若々しさ、毒々しさ、激しさがある。

 NYは、ディープ・ハウスよりの〈Mister Saturday Night〉も調子が良い。NYは、アレックス・フロム・トーキョーによれば、のぼり調子だという。なにせ新しいNY市長ビル・デブラシオへの期待が大きい。民主党から(左よりの)NY市長が当選するのは24年ぶりだそうだ。前々市長のジュリアーニや富裕層を優遇した前ブルームバーグ市長に真っ向から対立する低所得者層支援の政策を掲げている彼は、これまで日常化していた警察の職務質問まで緩和させる方向らしい。デブラシオはイタリア系で、ディスコもディスコティックのイタリア語風の読みだし……。何にせよ、ウォール街のデモは無駄ではなかったわけだし、NYのクラブ・カルチャーも盛り上がるわけだ。〈L.I.E.S.〉の流通をベルリンのハードワックス(マーク・エルネストゥスが経営する世界的人気のレコ屋)が手がけるということも島田氏のくだんの原稿に書かれているが、さすがに鼻のきく連中だと感心する。時代の風向きはここにあるのだ。

 そういえば、ディスクロージャーのリミックス・アルバムの人選にラリー・ハードの名前があった。EDMとの違いを見せつけているが、それが通って話ではなく、読者にはハウス・ミュージックの「ミステリアス」さに注意を払って欲しい。これはレトリックの問題でもあるが、アティチュードと音楽性に関わる話でもある。ハウス・ミュージック以降の電子音楽の実験系でもそれは踏襲されている(3~4年前のOPNもそうだった)。「ミステリアス」とは辞書的に訳されるところの「神秘的」ということではない。「より多くを知りたくなる何か」であり、「咄嗟に説明の付かない何か」であり、それは安易に長いものには巻かれないことで保たれる。ま、『Music For Shut Ins』は僕のようないい歳の人間が聴くにはドラッギー過ぎるのだが、この1週間、ディープ・ハウスばかり聴いていたので、口に直しにはちょうど良かった。

patten - ele-king

 パテンには詐欺師の魅力がある。前作の目くらましのようなタイトル(『グラックジョーザックソウ』2011年)が誰にも確と発音されないまま堂々とシーンをわたっていたのもおもしろかったし、いまだに素性を明かさないまま「D」とだけ名乗っていることも、もはやちょっと愛すべきエピソードになりつつあると思う。〈ノー・ペイン・イン・ポップ〉から最初のアルバムをリリースしたのが2011年。彼の今作と昨年末のEPが〈ワープ〉から登場したことは、〈エディションズ・メゴ〉と〈メキシカン・サマー〉をまたぐOPNが同名門とサインしたインパクトに次いで、現〈ワープ〉のアブストラクトでアンビエントな方向性を明確にするものとなった。
 必ずしもダンス・ミュージックを出自に持たない両者だが、ビート、プロダクション、参照する音楽性、言動、どこかしらインチキな感じがするのがパテンだというのが筆者の印象だ。キャラクターはある意味で対照的で、パテンが詐欺師なら、OPNは錯視家。詐欺は騙しだが、錯視はアートであり科学であり哲学でさえある。それは、『エストイル・ネイアント』と『R・プラス・セヴン』のアートワークにも表れていると言えるだろう。パテンは今回もコラージュだ。ひとつひとつのパートに意図があるようで見えきらない。情念はさらさらない。

 もちろんパテンを貶めるのではない。筆者はそこにこそ彼の魂の躍動を感じる。そして同時に、音楽をけっしてアートや学問にしない、フロアやベッドルームへ向けた勘も働いているように思う。リミックスの依頼も引きも切らないというし、彼自身もレーベル〈カレイドスコープ〉を動かしていて、新人の発掘にも余念がない。ミュージック・ヴィデオにも意欲があり、現在はジェーン・イーストライトと組んで(やはりコラージュ的な作品を)制作している。自身のフォームを築きあげるというよりも、人を触媒として音を世間にめぐらせていくことを楽しんでいるのではないだろうか。

 クラムス・カジノやハウ・トゥ・ドレス・ウェルが2011年に持っていた濁り──スクリューに由来した、あるいはただ過剰にオーヴァー・コンプ気味な音に「ゴーストリー」という衣を着せた、シーンは違えどあの頃の気分をよく思い出させるどろりとしたテクスチャーを口よく直して“ゴールド・アーク”や“ヒア・オールウェイズ”ははじまり、“23-45”をピークとして中盤をちょうど新作のOPNのようなアンビエント・トラックが埋める。インスタントなエメラルズといった印象のものから、アニマル・コレクティヴの『ストロベリー・ジャム』以降のアルバムにおけるインターミッションのような、エクスペリメンタルなスタイルのものまで幅がある。後半には硬質なテクスチャーのものも聴こえ、ちょうどゴールド・パンダのようにドリーミーでインディ・ロックに近い発想のダンス・トラックも散見される。大体のものにはつかみどころのないビートが組み込まれていて、トラップやダブステップの片鱗がのぞいたりもする。

 まとまりがつかないようで強烈に何かを思い出す。何かなーと記憶をたどると『グラックジョーザックソウ』だ。彼の音をいろいろ思案しながら聴いていると結局のところ歴史にも地図にも物語にも結びつかず、彼自身の作品に戻ってしまう。戻ったところで彼は言うんじゃないだろうか、「音楽とは何なのだろう?」とか。これはかつて『ダミー』が行ったインタヴューで、彼の「謎の存在」感に拍車をかけることになった発言のひとつだ。問い自体が詐欺寄りの詭弁、真意をつかもうとすると彼はそこにいない、でも『グラックジョーザックソウ』が残っている。彼はにやっと笑う。『エストイル・ネイアント』はどこかに消えてしまった。そもそも「エストイル・ネイアント」って何なんだろう、すごくめちゃくちゃな感じがする(調べてみると、また騙されたと思うことだろう。変な星型がへらへらするばかりだ)。
 護身にはナイフ1本、頭脳労働専門、人間を動かして観察するのが趣味の詭弁家の情報屋というあるキャラクターを思い出す。悔しいながら彼が魅力的であるようにパテンも魅力的だ。「俺が必然を愛するように、偶然は俺を愛するべきだよね」というセリフがあったけれども、パテンのあのランダムなビートはまさに偶然に愛されたいビートではないかと思う。偶然に愛されないから必然を愛するふりをする。そんなところもあの詭弁家に似ている。騙し続けられなくなったら終わりという、その詐術的な弱さの強さに惹かれてしまう。

bEEdEEgEE - ele-king

 ギャング・ギャング・ダンスの音沙汰がなくてやきもきしていた人たちは少なくないだろう。2011年に予定されていた来日公演は3月に起きた震災の混乱のなかで中止となり、当時の新作『アイ・コンタクト』以降のライヴを日本にいたリスナーは現在まで観ないままだ。運よくリリース直前のライヴをロンドンで観ていた身としてライヴの感想を述べるとすれば、電子機材の多さから音響の調整が難しいからなのかもしれないが、ローやリズムが迫ってくることもないけど、ウワモノが迫ってくるということもなく、そしてリジーのシャーマニックな歌やほかの生楽器が強いわけですらなく、なんともノリどころが掴めないものだった。「(ギャング・ギャングは)ライヴ・バンドだよ」とホット・チップのアレクシスに言われたけども、僕はむしろ反対の意見で、なにが足りなかったんだろうなんてふたりで話したこともある。
 思うに、ギャング・ギャングにはちょっと整理が必要だった。丁寧なミックスで仕上げられたアルバムをライヴでそのまま再現するのは難しかったのだろうけども、再現以外の方法を図りかねてしまったというか。ブライアン・デグロウ(Brian DeGraw)によるシンセやエフェクトへの比重がおおきくなる一方で、生楽器とのバランスがとれないままライヴをしていた印象がある。ダンスのリズムを軸に置きはじめてから、それに絡めとられて動きづらくなっているんじゃないかとも。

 そんなわけで、ブライアンのイニシャル名義の本ソロ作『サム/ワン』は、彼自身がやりたいことをバンドから離れたところで整理するなかででき上がったものとして受けとることができる。
 内容はやっぱりブライアンお得意のシンセサイザー。エキゾチックな旋律の弦。エフェクトの効いたよくわからない楽器やヴォーカル。意味不明なサンプル。逆回転。相変わらず多用されるタムなどの打楽器。それらのチョップ、チョップ、チョップ。ループ、ループ、ループ。ディレイ、ィレイ、レイ……。リズムにはダブステップも感じさせつつ、ハウスやトラップを意識したような節もある。ギャング・ギャングの『セイント・ディンフナ』に入っていたインストを思いださせるし、そこから毒っぽい要素を抜いたら本作のサウンドになるのかもしれない。ブライアンが綺麗な水面に浮かぶ写真が象徴するように、やけにクリーンだ。初期からずいぶんと変化をしたが、本作を聴けば、バンドの変化とはつまりブライアンの変化だったのではないかと感じられる。
 ウワモノにはメディテーショナルな趣もあるけど、ダンスのリズムがリスナーを浸らせない。どうせならダンスから離れたほうにおもいっきり舵をきってみるのも面白かったかもしれない。ソロ作ということでバンドよりもさらに吹っ切れた自由奔放ストレンジなサウンドを聴けるんじゃないかと期待していたら肩透かしをくらってしまうけど、とはいえ、最後の“クオンタム・ポエト・リディム”(量子詩リディム)の無邪気で楽しいヴァイブスを聴けば、子どもといっしょになって踊りたくなる。にくめない。

 本作に参加しているゲスト・ヴォーカルは、ギャング・ギャングのリジー。そのレーベルメイトでもあったダグラス・アーマー。さらには、盟友のアレクシス・テイラー(ホット・チップ)とラヴフォックス(CSS)がおなじ曲で歌っている。同窓会っぽくて微笑ましいけど、さて、整理を終えて、次はどう動くのだろうか。

失敗しない生き方 - ele-king

 どこかぎこちなくも、何かしらの確信をもって沈黙を破るリズミックなイントロ。瞬間、「ああ、これだ」と思った。ふとした偶然で出会った同時代の一曲が、それまでコレクションしてきた過去の名曲群の総重量と釣り合ってしまう、あの一瞬のスリル。
以来、SoundCloud上で30回、自主制作のCD-R『遊星都市』のヴァージョンで60回、そして待望のフル・アルバム『常夜灯』のヴァージョンですでに40回は聴いているのだが、どこにそれほどの仕掛けが施されているのか、じつは、いまだにわからないでいる。わからないで書いているのか、と問われればそれまでだが、しかし、わからないからこそこれほど繰り返し聴いているのだとしか言いようがない。そう、“月と南極”と名づけられた、この4分にも満たないポップ・ソングの秘密は、近づくほどに遠い。

 失敗しない生き方。世間ではシティ・ポップの新勢力と目され、自らはベッドタウン・ポップを標榜するこの6人組は、森は生きているとの2マンに掲げられた主題――「ぼくら、20世紀の子供たちの子供たち」――を肩肘張らずに体現したようなバンドだ。「僕たちは歴史から切れた存在ではない」という主張それ自体が、そもそもヴィターリー・カネフスキーのフィルモグラフィーからの引用、というメタ・メッセージになっているのだが、ジャズとロックンロールと渋谷系が一緒くたになったような音楽(“クックブック”が端的な例だ)を奏でる彼らは、歴史の重みに触れつつも、その遺産を食いつぶすだけでは納得がいかないと言わんばかりにもがいている。フリーキーに、あるいはどこまでもポップに輝きながら。
 メイン・ヴォーカルである蛭田桃子の声は、侵しがたい少女の不安定さを孕みつつも、蠱惑的な色をも放ってやまない(ライブでは絶叫に近いシャウトも)。やや安易な例示になるが、ひょっとすれば野宮真貴にも、フルカワミキにも、やくしまるえつこにもなれる逸材かもしれない。が、作詞を担当する天野龍太郎(ギター、ヴォーカル)が、先達のマネゴトを許さないのが面白い。ただ黙読されるべく書かれたような、いや、そこに無作為に浮かぶ無数の場面・映像を凝視されるべく書かれたような天野の歌詞は、即興の文学とでも言うべき異形な詩情を放っている。それは映画にさえ似ているのだ。しかも、そのある種の難解さを蛭田の歌い回しはまったく感じさせないのだから、いったいどちらに主導権があるのか、判断に困るところ。
 かと思えば、天野は作曲面には関わっていない。それはキーボードの今井一彌と、サックスの千葉麻人に委ねられた仕事となっている。ごく大雑把に言えば、今井の作曲からは渋谷系ライクな端整なポップ・ソングが生まれ、千葉の作曲からはロックンロール以前、エルヴィス・プレスリー以前のアメリカが薫る(このふたりが共作するとラグタイム風のスキット曲“ラグタイム”が生まれるので不思議だ)。このわりとハッキリとした分業体制から生まれる緊張、特定のメンバーがバンドをコントロールしない・できないという不全感が、ある共同性をもってグルーヴするときのイタズラめいた魔法の気配を、僕は“月と南極”の、あのイントロのなかに聴き取ったのだと思う。

“私の街”や“煙たい部屋で”、タイトル曲“常夜灯”に挿入される嵐のようなノイズ、あるいは彼らのポップ・サイドをリードする“月と南極”や“終電車”において、大サビが用意されてもよさそうなタイミングで吹き込まれるサックス・ソロの大胆さまでをも差し置いて、アルバム『常夜灯』は、もしかしたらとてもクリーンなポップスとして受け取られるかもしれない。“海を見に行こうよ”や“魔法”といったナンバーには、ソング・オリエンテッドな抑制がたしかに効いている。ここには、このバンドが大きくなっていく可能性を示す、いい意味での気取りが感じられて愛らしい。
 しかし、僕が観たライヴで彼らを包んでいたのは、清潔さではなくもっと灰汁を含んだ何か――夜の猥雑、ニヒルな笑い、酒の臭い、煙草の煙、街の喧噪とドア一枚だけ隔てられた秘密と静寂、といったものだ。まるで投げやりな音程、いつ破綻するともわからない演奏、それは壊れたジューク・ボックスが奏でる狂ったポップスのようだった。以来、シティ・ポップにしろベッドタウン・ポップにしろ、彼らの呼び方としてしっくり来ていない自分がいる。あれは、廃業したグランドキャバレーに住まう元専属ジャズ・バンドたちの亡霊を思わせた(風林会館でのライヴを是非とも実現してほしいところ)。

 ところで、このユニークなバンド名の由来は、書店の自己啓発本コーナーからのインスパイアだという話だったが、ああ、そうだ。いまは物語のないシニカルな時代なんて言われるけれども、夢や希望なんてものをいくらそれらしい口調で語ったところで、そんなものは最初から数百円も出せば買えてしまうのだった。とすれば、「音楽を止めて戸を開け/それでも/朝の幻を借りに出ようよ/今」(“月と南極”)と歌う失敗しない生き方は、なぜそこで音楽を止め、なぜ幻と分かっている朝に繰り出していくのだろうか。そんなことを考えながら、また再生ボタンを押す。どこかぎこちなくも、何かしらの確信をもって沈黙を破るリズミックなあのイントロが、また鳴る。瞬間、僕は「ああ、これだ」と、また思うのだろう。


- ele-king

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 218 219 220 221 222 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247 248 249 250 251 252 253 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 264 265 266 267 268 269 270 271 272 273 274 275 276 277 278 279 280 281 282 283 284 285 286 287 288 289 290 291 292 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315 316 317 318 319 320 321 322 323 324 325 326 327 328 329 330 331 332 333 334 335