「Noton」と一致するもの

Gabriel Saloman - ele-king

 ピート・スワンソンの『パンク・オーソリティ』がその熱で赤く光る鋼鉄の花だとすれば、ガブリエル・サロマンの『ソルジャーズ・レクイエム』は黒く燃え落ちた末に白い粉をまとった灰色の彼岸花といったところだろうか。間違いなく2000年代を代表するフリー・ノイズ・デュオであり、2008年の解散までに数え切れないほどのカセット、ヴァイナル、CD-R作品をリリースし続けてきたイエロー・スワンズ。その元メンバーである2人が、2013年にエクスペリメンタル・ノイズを棲家としつつも、それぞれ好対照なソロ作品をリリースした事実はとても興味深いことである。外宇宙から享楽に向かうピート・スワンソンに対し、内宇宙から終末に向かうガブリエル・サロマンというか。なんというか。

「兵隊の葬送曲」と名づけられたタイトル。そしてアートワークはヴァイオリンを奏でる底気味悪い骸骨。なんともビザール嗜好をくすぐる、好きものにはたまらない恍惚を与えてくれるこの暗黒風情。筆者もCDショップの試聴機に並ぶこのパッケージを見て迷わず手に取り耳にした口であるが、冒頭から危うい響きを奏でるピアノ、そして不安定ながらもエレガントに折り重なるゴースト・ドローンに意識もろともすとんと他界に突き落とされてしまった。調べてみるとこの作品、バンクーバーにあるサイモン・フレイザー大学・現代芸術学科の学生たちによって演じられた、戦争を題材にしたライヴ・パフォーマンス『ウォー・レクイエム』のために作られた音楽とのこと。なんでも「ダンス、音楽、メディア、光、衣装のアイデアが絶頂に統一されたパフォーマンス」と評されていてその舞台の動向も気になるところだ。

 さてアルバムの内容だが、先の退廃的音響に続く“マーチング・バンド”では、ガブリエル・サロマンによるドラミングを聴くことができる。ドラムといっても快音とはほど遠くがらんどうのような響きがバタバタと連続する。そのスネアロールはタイトルどおりに「マーチング」と解釈するにはあまりにも七曲がりで、むしろデヴィッド・ジャックマン(オルガナム)がかつて鳴らした悪夢のマシンガン・ドローン・ノイズにも似た恐怖と憂鬱を与えてくれる。そして本作の肝となる“ブーツ・オン・ザ・グラウンド”。トレードマークともいえるギターがくぐもったフィールドレコーディングを通り抜け、(イエロー・スワンズ時代の過剰に加工されたものとは違い)はっきりとした輪郭をもってメロディーを紡いでは漆のような闇をうつらうつらと彷徨う。やはりガブリエル・サロマンのギターは格別だ。のっぴきならない虚無感のなか時折仄見えるリリシズムに、いままで世界のはずれでこの音楽に耳を澄ましていたはずが、じつはここが世界の中心であるかのような錯覚に陥る。そんな妙な安堵感を打ち消すように再び現れるあのマーチング。まるでよるべない死が転がり回るような不吉なスネアロール。さらにとどめはパワー・エレクトロニクスよろしく冷たい壁をなす悲愴美あふれるパワー・ギターだ。ああ……もう何もいらない。いや、もとい。この官能はくせになる。もっとほしい。もっとくれ。もっとだ。もっと堕落を!

 CDジャケットの内側にさり気なく記された「Fight War, Not Wars(戦争で戦うな、戦争と戦え)」の文字。もちろんイギリスのアナーコ・パンク・バンド、クラスのファースト・アルバム収録曲から引用されたメッセージである。そしてよくよく考えるとアルバム・タイトルの『ソルジャーズ・レクイエム』はシカゴ・パンクの異端児、ネイキッド・レーガンの曲名から採られたものに違いない。なるほど。タイトルにそのまんま「パンク」をもってきたピート・スワンソンに対し、それとなくパンク心を開示するガブリエル・サロマン。哀調を帯びた憂鬱質な男にしてじつに粋な男である。

野田努

 たとえコミカルな映画であっても、返り血で床が赤く染まるような、血なまぐさい暴力シーンは誰にでも好まれるわけではない。デビュー当時のエミネムのリリックが顰蹙を買ったように、強姦を面白可笑しく表現することへの拒否反応はあるだろう。しかし4年前、11歳のヒット・ガール(クロエ・グレース・モレッツ)が、ジョーン・ジェットの曲に合わせて、大勢の悪党を片っ端からやっつける場面には突き動かされるものがあった。世間体なんか気にしないというパンク・ソングが流れるなかで、武器を持って襲いかかる大人の男を次から次へと倒していく小さな彼女は、力でねじ伏せようとする世界をひっくり返す象徴としての、いわばスーパーヒーローにおけるパンクだ。その続編である『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』においても、思春期を迎えたヒット・ガールは、あまりにも格好良かった。(以下、ネタバレあります)

 原子炉エネルギー開発会社を所有する資産家のバットマンが格差社会の極貧困層の反乱を鎮圧する『ダークナイト ライジング』と違って、『ジャスティス・フォーエバー』では頭のいかれた鼻持ちならない金持ちが超悪党だ。その彼──クリス(異名マザーファッカー)は、作中において「自分のスーパーパワーとは、クソとしての金持ち(rich as shit)であることだ」と自己認識する。キック・アスとヒット・ガールというふたりのヒーローは孤独なティーンエイジャーだが、悪党クリスもおそらくティーンエイジャーであり、孤独だ。キック・アスはクリスと死闘を繰り広げるが、助けようともする。そう見ていくと、『ジャスティス・フォーエバー』は、無名の市民が世界を救うという政治性を匂わせつつも、表向きにはティーンエイジャーのファンタジーとして作られている。
 15歳のヒット・ガールは学校で同級生の女たちの陰湿なイジメにあうが、これは日本でも日常的な光景だ。ほかにもいちいち風刺が効いていて、台詞のひとつひとつにも無駄がない。現代アメリカ社会のリベラルな知識人が過敏になっている差別表現や卑語を包み隠さず、むしろ図太く使っている。そんなところにも、外面的には礼儀正しい社会へのアイロニカルな感性が読み取れる。暴力描写も、大人を怒らせるためのティーンエイジ・ライオットの一環かもしれない。
 が、単純化できないこの物語には困惑させられもする。たとえば、元悪党の、宗教に目覚めたことで改心し、古くさいGIジョーの格好をしたジム・キャリー演じる大佐、彼の名前はスターズ・アンド・ストライプス、つまり星条旗大佐だ。その彼の睾丸がイヌに食いちぎられる場面は深読みできなくもないが、彼はあくまでキック・アスの味方として登場している。また、典型的な保守的アメリカ人として描かれているのがキック・アスの父親で、キック・アスはそんな父の生き方に反発しながら、親子の愛情は受け入れている。

 思春期を迎えた登場人物たちは、この年頃の若者特有のアイデンティティの悩みを抱えている。こと15歳のヒット・ガールは、義父から若い女性として、もっと学生としての生活をエンジョイするよう、執拗に問い詰められる。そして、実の父によって有能な暗殺者に育てられた彼女から「子供時代」をうばったのはその父だと説き伏せられる。お洒落したり、デートしたりと、彼女自身も一時期は失った子供時代を取り戻そうと努めるが、結局のところ彼女は、子供でいることが必ずしも幸福ではないと、返す刀で世間の常識をはねのける。それが本作を逆説的なファンタジーへと転換させる(友だちを作りなさい、友だちができて良かったね、などという大人の言葉が子供にとってどれほど抑圧的に働くか……)。
 この見事な反旗と重なるように、『ジャスティス・フォーエバー』で最大の見所となっているのが、ヒット・ガールのアクション・シーンだ。明らかに前作以上の見応えがある。考えて欲しい、あれだけ素晴らしかった前作をしのいでいるのだ。ダンスするシーンも、紫色のドゥカティに乗って爆走するシーンも、素晴らしい。彼女が何度もぶん殴られるシーンには目を背けたくなるだろうが、はっきり言えば、躍動するクロエ・グレース・モレッツを見るだけでも、この映画には価値がある。ナウシカにパンクはない。彼女はいまや、虚構ではなく、本物のスーパーヒーローになったと言える。「HIT & RUN(やって、逃げる)」と記されたナンバープレートのバイクに乗って街を去る彼女を見ながら僕は……、いや、もうこの辺で止めておきましょう。

野田 努

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木津 毅

 ナイーヴな文化系男子たちがいかにクロエ・グレース・モレッツが好きか、前作『キック・アス』での少女の登場にヤラれたかはわかった。それはいい。冒頭、防弾チョッキを着てクロエに吹っ飛ばされる主人公デイヴの嬉しそうな表情には「やれやれ」とはまあ思うけれども、それは自分のなかでずいぶん前に解決した問題だ。だから先に書いておくと、たしかに本作のクロエもまた、最高だ。学園ドラマのヒエラルキーの最高ランクに位置する女王蜂とその取り巻き(たぶん、きみのことを10代のときにキモいオタク扱いしたあいつらだよ)を、颯爽とクソ扱いし、将来とアイデンティティに迷うデイヴを(そして、きみを)男として鍛え上げてくれる。

 問題は、「ジャスティス」のほうだ。第一作の時点で、クリストファー・ノーラン『ダークナイト』においてぐずぐずと正義に悩んでしまうバットマンに対するカウンターとして機能していた本シリーズはまたこの2作目で、(バットマンのような)特権階級でもなく、警察のような権力でもない、普通の人びとの正義はもっとシンプルなものであるはずだと主張する。たしかにそうだ……いや、そうなのか? 僕はそこに引っかかる。「市井の人びとの理想主義」を称揚する僕のような人間はむしろ本作を味方しなければならないのではないか、という内なる声も聞こえるがしかし、彼らが作る自警団に賛同しきることができない。
 この映画で敵として設定されるのは、私怨を晴らすために金で暴力を雇う資産家だ。それが現代資本主義社会のカリカチュアであるならば、本作の主張は「正しい」。しかしその正しさはおそらく同時に自分の首を絞める罠にもなり得るだろう。たとえばクロエ演じるヒット・ガールが卒業試験としてキック・アスと戦わせるチンピラたち、彼らにどれほどの「悪」があるのだろう? 資本主義の奴隷だから? そうかもしれない……が、本シリーズは痛快さを追求するあまり、おもにゼロ年代からのアメコミ・ヒーローものが取り組んだ倫理の多様性の問題をやや大雑把に扱っているように感じられてしまう。
 たしかに僕も『ダークナイト』は過大評価されているとは思う。あの薄暗い画面のなかで、自意識を募らせるばかりで身動きが取れないバットマンには苛立ちを感じる……。ただ、もしあの映画に「正義」があったとすれば、観念的な論理を繰り広げるジョーカーに翻弄される「ヒーロー」の下にではなくて、暴力の被害者になりながらあっさりと暴力の誘惑を放棄するフェリーの船長……まさしく「小市民」の下に、であった。だとすれば、本作『ジャスティス・フォーエバー』で自警団の闘いがどうにも小競り合いに見えてしまう僕にとって、ここでの正義は主人公デイヴの父親の下に宿っているように見える。小市民たる父は暴力に屈するばかりなのだが、しかし自分の弱さを隠さない。しかしながらそれは「正義」という言葉よりも、「愛」のほうが近いのかもしれない。

 『キック・アス』が3部作になるとして、僕が次回作に期待したいのはデイヴの成長ではなくてヒット・ガール=ミンディ=クロエ・グレース・モレッツの成長だ。それは本シリーズのコアがまさにクロエそのものであるという事実によってだけでなく、彼女が自分の強さのなかに弱さを見つけたときに、またそれを認めたときにこそ、『キック・アス』における人びとの正義は深みと多様性を持ち始めるのではないかと思うからだ。『バットマン』シリーズへの痛快な苦言としてではなく、ヒット・ガールがただ存在するだけでパワフルなメッセージが放たれる瞬間が見たい。

木津 毅

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Jar Moff - ele-king

 グルーパーことリズ・ハリスとタイニー・ヴァイパーズのジョシー・フォーティノが2012年に結成したユニットはミラーリングと名付けられていた。ミラーリングというのは神経科学でもかなり最近の発見で、大雑把にいえば人間の模倣能力がニューロンに由来し(=ミラーニューロン)、これが会話や学習を可能にするというもの。俗流の解説書などでは人間の社会はミラーリングによって結ばれる無線LANのようなものだと説明されたりもする。言ってみれば「利己的な遺伝子」に対するカウンター概念としてドーキンスが考え出した「ミーム」に生化学的な根拠が与えられたようなものといえ、これが機能していない状態を自閉症と考える仮説も立てられている(興味のある方はマルコ・イアコボーニ著『ミラーニューロンの発見』早川書房など)。彼女たちが「ミラーリング」を名乗るということは、だから、歴史概念や連続性の標榜であり、これに『フォレイン・ボディ(=異物)』というタイトルを与えたことは、ミーム同様、前の時代のアウトサイダーから次の時代のアウトサイダーへの再編=進化概念の更新を意味することになる。当然のことながら、裏表で「淘汰」も想定されていなければならない。

 そのようなマニフェステイションを経て、リズ・ハリスは、2013年後半、さらに2つのコラボレイションを進めている。最初は〈ルーム40〉主宰、ローレンス・イングリッシュとのスロウ・ウォーカーズで、もうひとつが〈ルート・ストレイタ〉主宰、ジ・アルプスなどで知られるジャフレ・キャンツ-レズマとのラウム。スロウ・ウォーカーズは淡々としているというのか、終始一貫、地味にメランコリックなアンビエント・ドローン。ラウム(=スペース)はさまざまに表情が変わり、『取り置きの内容』というタイトルだけあって、曲自体もランダムに転がり出てくるような印象がある。「リズ・ハリスの引き出しの多さ」とでもいえばいいだろうか。とくに後者は『A I A 』のようなソロ・ワークとは違った側面が散見され、西海岸のバリアリック傾向に馴染んでいこうとする姿勢が意欲を感じさせる。美しくも鬱々としたスロウ・ウォーカーズは、その世界観をそのまま写し出すようにジャケットに金の箔押しが使われ、ラウムも折りたたみ式のカヴァーを採用している。いずれもシンプルだけど、粋なデザイン・センスである。

 ティム・ヘッカーやディープ・マジックがリズムを導入したのに対し、リズ・ハリスは文字通りのドローンにこだわり続けている。一見するとミラーリングの進化概念からは取り残されているようだけれど、彼女たちが「異物」を表明していたことに着目すると、それも納得がいく。ショーン・マッカンやティム・ヘッカーが示し合わせたようにスティーヴ・ライヒを取り入れたことは(それこそ無線LANのように)、明らかに商業的なベクトルがドローンに混入しはじめたことを予想させる。イエロー・スワンズやKTLが現在、アンディ・ストットやエンプティセットといったデザインの領域に様変わりしていることを思うと、こういった力はどうしても働いてしまうものなのだろう。そこから意識的に逸れること(=無線LANからの逸脱)が彼女にとってはミラーリングの意義を全うするものなのだろう。次の時代に「異物」を反射させること。それこそ『フォレイン・ボディ』の最後の曲は“ミラー・オブ・アワ・スリープ”と題されていたではないか。「眠りの真似」である。現在の気運にのって、いま、立ち上がってはいけない。スロウ・ウォーカーズのエンディングで“ウェイク”と題された曲は「起きる」と訳すことも可能だけれど、これには「通夜」や「葬儀」といった意味もある。どちらを示唆しているかは曲調を聴けば明らかである。

 以前にも書いたように、マッチョ的なドローンはここ数年でフェミニンな変奏に取って代わられ、あるいは、ダンス・ミュージックへと擬態していった。モードというのはそういうものである。僕はモード化していく瞬間が最も好きで、そのような助走段階を聴き遂げるためにアンダーグラウンドに関心があるといってもいいぐらいである。ところがここに、マッチョ的なドローンが擬態をよしとせず、そのままモード化しようとする例が現れた。ジャー・モフである。紙エレキングの年間ベストでも3位に挙げたジャー・モフが年末ギリギリになって(ギリシャなのに)『財政豊か』と題されたセカンド・アルバムをリリースし、リズムが幅を利かせていた前作から一転、あらゆるものが高速で崩れ落ちていくドローンを構築してきたのである。若き日のノイバウテンがドローンをやればこうなったかもしれない。あるいは、この何年かギリシャで暮らしていれば、このようなカタストロフィーは心象風景として当然、目に見えるようなものといえたのかもしれない。しかし、それを正確に写し取ることができる(=ミラーリングできる)かどうかは才能を選ぶところだろう。『フィナンシアル・グラム』の描写力は凄まじいの一語に尽きる。ダンス・ミュージックに吸収されてしまうかに見えたドローンの行く末がグルーパーとジャー・モフによって、再び、わからないものになってきた。

ROOM237 - ele-king

 「ポストモダンの映画評論によれば──どんな作品でも監督の意図は一部だ。そして監督が意識していたか否かに関わらず──物事には意味があるのだ」(『ROOM237』より)
 音楽の世界では、産業的な次元でも、受け手側の心持ちの次元でも、旧作が新作以上に身近な存在となっている。悪いことではないが、それでは旧作におけるジャーナリズム性、同時代性はどうなるのかと言えば、受け手の解釈によって再生産されるのだろう。その意味が今日の社会において再解釈されるとき、旧作は、新作と競えるほどの力を持つ。2012年にアメリカで制作された『ROOM237』は、映画におけるそうした試みだ。
 スタンリー・キューブリックのおおよそすべての作品が、暗示的で、暗喩が使われ、受け手の解釈力を問うていると言える。ところが『シャイニング』は、他の代表作と比較した場合、彼の作品のなかでは唯一と言えるほど(たとえ強迫観念が主題だとしても)、ホラー映画という娯楽作品(商業映画)に徹しているかのように見える。話の大筋はわかりやすく、『時計仕掛けのオレンジ』や『フルメタル・ジャケット』のように「社会」や「政治」や「歴史」と関連づけやすい映画ではないし、遺作となった『アイズ・ワイド・シャット』のようにあらかじめ謎解きを促すような感じでもない。ジャック・ニコルソンの演技は『フルメタルお・ジャケット』の軍曹より有名だろうし、いわゆる大衆映画としても知られている作品だろう。

 ところが本作『ROOM237』を観ていると、『シャイニング』からある人物はホロコーストを読みより、別の人物はアメリカ先住民の大量虐殺を説明し、またある人物は性の暗喩を見出し、また別のひとりはアポロの月面着陸のねつ造への異議申し立てを解読する。5名の研究者(ジャーナリスト、歴史学者、作家、編集者等々)が、それぞれの解釈を展開する。タイプライターの色は変わり、絨毯の模様はすり替えられ、構造上あり得ないところに窓があり、駐車している車の台数にも、出てくる数字にもことごとく意味があると……まあとにかく、旧作をデジタルで手軽に楽しめる現代だからこそ探し当てることのできるディテールを興味深く指摘しながら、それぞれの解釈(もしくは妄想)を説明するという、ある意味オタクの極みのような映画なのだが、これがなるほど面白い。その多くが「社会」や「政治」や「歴史」と関連づけているというのが、なるほどいまはそういう「意味」に見えるのかと感心もする。いかんせん『シャイニング』を映画館で観た当時の僕は、いまよりさらに酷く出来の悪い、何もわかっちゃいないガキだったので、その撮影技術や美術にこそ興奮を覚えたものの、「社会」なんてものとは1億光年離れたところで観ていたことは間違いない。

 おそらく、もっとも説得力を持っている解釈のひとつは、先住民の大量虐殺の暗喩だが、この映画の音楽をザ・ケアテイカーが手がけていることもエレキング的にはひとつのトピックだ。「歴史はつねに勝者を支持する(History Always Favours The Winners)」なる一文を自身のレーベル名とする彼が、キューブリックの『シャイニング』に触発されて手がけたプロジェクトがザ・ケアテイカーだと言われているのだから、この起用に関しても深読みするのが筋というモノだろう。監督のロドニー・アッシャーは、『シャイニング』の謎解きというドキュメンタリーを通じて再考することの醍醐味を伝え、スタンリー・キューブリック作品のあらゆるディテールには何らかの意図があることをあらためて説いている。世界中にマニアがいるキューブリック作品だから生まれた作品なのだろうが、とりあえず、『シャイニング』とザ・ケアテイカーが好きな人は見なければならない映画でしょう。

第15回:キャピタリズムと鐘の音 - ele-king

 なんで年頭になるとわたしは左翼の人になるのだろう。
 昨年の正月は紅白の「ヨイトマケの歌」を見ながら、日本の労働者階級について考えていた。で、今年はケン・ローチ監督のドキュメンタリー『The Spirit Of 45』のDVDを見ていたのだが、この作品はケン・ローチが昨年11月に発足させた新左翼政党レフト・ユニティーのコテコテのプロパガンダ映像である。一部メディアには酷評されたが、しかしこれを見ると、英国には社会主義国だったとしか言いようのない時代があったのだとわかる。

 タイトルで謳われている1945年とは終戦の年だ。
 日本が降伏を宣言し、マッカーサーが神奈川県に降り立った年である。
一方、戦勝国の英国では、国を勝利に導いたチャーチルの保守党が選挙でなぜか大敗し、労働党政権が誕生した年だった。
 保守党政権下の1930年代は貧富の差が極端に拡大した時代だったという。「貧民の子供はよく死んだ」と証言している老人がいるが、国の至るところにスラムが出現し、貧者が集合的に檻の中に入れられ切り捨てられている様子は現代の英国とも重なる。開戦で真っ先に戦地に送られたのはこうした貧民だったわけだが、彼らは戦地で考えていたという。「俺たちはファシズム相手にこれだけ戦えるのだから、戦争が終わったら、力を合わせて自分たちの生活を向上させるために戦えるんじゃないか」と。
 終戦で帰国した兵士たちは、空襲で破壊された街や、戦前よりいっそう荒廃したスラムを見て切実に思ったそうだ。「こりゃいかん。俺ら、別に対外的な強国とかにはならんでいいから、一人ひとりの人間の生活を立て直さな」と。

 それは「ピープルズ・パワー」としか言いようのない下から突き上げるモメンタムだったという。
 戦勝国の名首相(チャーチルは英国で「史上最高の首相」投票があるたびに不動の1位だ)が、戦争で勝った年に選挙で大敗したのである。それは、当時は純然たる社会主義政党であった労働党が、「ゆりかごから墓場まで」と言われた福祉国家の建設を謳い、企業を国営化してスラムの貧民に仕事を与えることを約束し、子供や老人が餓死する必要のない社会をつくると公約して戦ったからだ。労働党にはスター党首などいなかった。彼らは本当にその理念だけで勝ったのだ。

 UKの公営住宅地は、現代では暴力と犯罪の代名詞になっているが、もともとは1945年に政権を握った労働党が建設した貧民のための住宅地だ。あるスラム出身の老人は、死ぬまで財布の中に「あなたに公営住宅をオファーします」という地方自治体からの手紙を入れてお守り代わりにしていたという。浴室やトイレがある清潔な家に住めるようになったということは、彼らにとっては一生お守りにしたくなるほどの福音だったのだ。
1930年代には無職だったスラム住民も、鉄道、炭坑、製鉄業などの国営化によって仕事をゲットし、戦時中に兵士として戦った勢いで働いた。
 「ワーキング・クラスの人間は強欲ではないんです。各人が仕事に就けて、清潔な家に住めて、年に2回旅行ができればそれ以上は望まないんです」
 と、ある北部の女性が『The Spirit of 45』で語っている。
キャピタリズムが「それ以上」を望む人間たちが動かす社会だとすれば、ソーシャリズムとは「それ以下」に落ちている人間たちを引き上げる社会なのだ。

 ロンドン五輪開会式の演出を任されたダニー・ボイルは、NHS(英国の国家医療制度)をテーマの一つにした。
 NHSこそ、1945年に誕生した労働党政権が成し遂げた最大の改革である。「富裕層も貧者も平等に治療を受けられる医療制度」という理念を労働党は現実にしたのだ。
 現代のNHSには様々の問題があり、レントゲン撮ってもらうのにも2ヶ月待たされた。というような細かい文句はわたしはブログで延々と書いてきたし、連合いが癌になった時もGPにいい加減にあしらわれ続けたおかげで末期になるまで発見されなかった。
 が、彼が今も生きているのはNHSが無料で治療してくれたおかげだし、「子供ができない」と相談したらNHSは無料でIVFもやってくれた。うちのような貧民家庭では、NHSが存在しなかったら、連合いは死に、子供はおらず、わたしは独りになっていただろう。

 英国の医療が発達したのもNHSの副産物だったという。それまでは、患者の支払い能力に応じて治療法を選択して売るといういわば医療商人だった医師たちが、費用のことは一切心配せず、「この患者をどうやって治すか」ということのみに没頭できる医療職人となって医療技術を飛躍的に前進させたのである。
 「この国は、たとえ王室がなくなっても、NHSだけは失ってはいけない」
 と『The Spirit of 45』で語っている庶民がいる。
 日本の中継ではほとんど触れられなかったそうだが、ロンドン五輪開会式でダニー・ボイルがあれほどNHSのテーマに時間を割いたのも、「開会式ではNHSの部分が最高だった」と言う英国人が多いのにも理由がある。それは、NHSが英国のピープルズ・パワーを象徴しているからだ。

 しかしそのピープルズ・パワーも時の経過と共に英国病を患い、70年代末に登場したマーガレット・サッチャーがThe Spirit of 45を片っ端から粉砕していくと、英国はキャピタリズム一直線の道を進みはじめ、それは今日まで途絶えることなく続いている。もはや、最後の砦NHSさえ、細切れに民営化されはじめた時代だ。

 英国のワーキング・クラスの人びとの強い階級への帰属意識も、もとを正せば「1945年のスピリット」に端を発しているのだと思う。下からのパワーがチャーチルをも打ち負かし、庶民が自分たちの手で自分たちの生活を向上させた、そんな時代が本当に英国にはあったからだ。実際、「ワーキング・クラスがもっともクールだった」と言われている60年代に、それまでは上流階級の子女の仕事だったジャーナリズムやアートといった業界に下層の子供たちが進出していけたのも、1945年に労働党がはじめた改革のおかげだ。労働者階級の子供たちも大学に行けるようになったからである。それまではそんなことはインポッシブルだった。
 が、現代のUKは、またそのインポッシブルな世の中に逆戻りしている。

 「キャピタリズムはアナキズムだ」と左翼の人びとはよく言う。
 政治が計画を行わず、インディヴィジュアルの競争に任せれば、優れた者だけが残り、ダメなものは無くなって自然淘汰されて行く。という行き当たりばったりのDOG-EAT-DOGな思想は、たしかにアナキーであり、究極の無政府主義とも言える。
 どうりで英国の下層の風景にわたしがアナキーを感じるわけである。「ブロークン・ブリテン」とは、キャピタリズムの成れの果てだったのだ。「アナキズム・イン・ザ・UK」とは、「キャピタリズム・イン・ザ・UK」のことだったのか。と思いながら、『The Spirit of 45』を見ていると(本編とインタヴュー編を合わせると8時間半の大長編だ)、
 「社会主義が最初に出現したのはいつでしょう」
 というケン・ローチの質問に、ある学者がこう答えた。
 「究極的にいえばキリスト教が社会主義だ。だからそれが誕生した時代にはすでにあった」

 たしかに、「金持ちが天国に入るのは、駱駝が針の穴を通るより難しい」と言ったジーザスは、いきなり市場を破壊したこともあるぐらいだからキャピタリズムは大嫌いだったろう。
 しかし、キリスト教だけではない。「どんどん強欲になることを生きる目的にしなさい」とか「勝つことが人間の真の存在意義です」とかいう教義を唱える殺伐とした宗教はまずないだろうから、本来、宗教というものは反キャピタリズムだ。
 社会主義や宗教には、政府や神といった号令をかける人がいて、「みんなで分け合いましょう」とか「富める者は貧しい者を助けましょう」と叫ぶ。わたしは保育園に勤めているが、大人が幼児に最初に教え込まねばならぬのは排泄と「SHARING」である。英国の保育施設に行くと、保育士が「You must share!」と5分おきに叫んでいるのを聞くだろう。つまり、人間というものは本質的に分け合うことが大嫌いなのであり、独り占めにしたいという本能を持って生まれて来るのだ。そう思えば、キャピタリズムというのは人間の本能にもっとも忠実な思想である。本能に任せて生きる人間の社会が、「You must share!」と叫ぶ保育士がいなくなった保育園のようにアナキーになるのは当然のことだ。

             ***********

 ジェイク・バグのレヴューを書いたとき、書きたかったのだがやめたことがある。
 それは彼の歌詞になぜか教会が出てくるということだ。
 今どきのUKの貧民街には教会など存在しない。信者(=寄付)が集まらなければ成り立っていかないので、貧民街からは教会もとっくに撤退している。それに、教会が歌詞のモチーフに使われるUKのポピュラー・ソングなど現代では聞いたこともない。
 レトロな感じの歌詞が書きたかったのね。と最初は思ったが、“ブロークン”に出てくる「谷間に響く教会の鐘の音」とは、いったい何なのだろう。

 キャピタリズムの成れの果てであるブロークンな街に、遠くから響く鐘の音。

 ヒューマニティーという鐘の音に渇望する人間の心を、ジェイク・バグはそうとは知らずに代弁してはいないだろうか。

Optrum - ele-king

 先日、マイナーホラー映画についてのトークや、アイドルや女性打ち込みシンガーソングライターのライヴ等々盛りだくさんな内容のイベントに行ったところ、開演前の場内ではビキビキの電子音と速いリズムの超かっこいい音楽がかかっており、「Jukeでもなさそうだし何だろこれ」と思ったのだが、会場の人に聞いたら実はそれがオプトラムのセカンド・アルバム『Recorded 2』なのだった。「客入れでかけると、なんかアガるんですよね」と言っていた。

 オプトラムは蛍光灯にコンタクトマイクを付けてアンプリファイする「オプトロン」の演奏者・伊東篤宏と、即興シーンで活動しているドラマーの進揚一郎のデュオである。目にも耳にもノイジーな蛍光灯とソリッドなリズムの組み合わせはインパクト満点であり、誰でもひと目で素朴に「かっこいい!」と思うんじゃなかろうか。
 一方で、見た目のインパクトが凄すぎるだけにCDで聞くとその魅力が伝わるのだろうか(「音だけ聞いて意味あるの?」っていう)という素朴な疑問があるかもしれない。だが、このアルバムは逆に音だけだからこそ、ライヴでは伝わりにくい(ことのある)、オプトラムの純粋にサウンド的な魅力を発見させてくれるものになっている。

 発想としてはシンプルで、「オプトロン+ドラム=オプトラム」というバンド名にも現れているように一種「出オチ」みたいなコンセプトのバンドではある。出オチといえば前にブラストロのレヴューでも使った言葉だけれど、そういえばブラストロを初めて観たときには「オプトラム以来の衝撃!」と思ったもんである。
 でも、普通なら出オチで終わるものを終わらせず、それを引っ張り続けて洗練させていくことで生まれる面白さ、みたいなものにある種の価値があるなあと最近は思ってまして、結成10年にして、前作から7年のブランクを経て制作された今作にはそういう面白さがある。

 そもそも伊東はかねてより自分はミュージシャンではないし、オプトロンは楽器ではない(「音具」と呼んでいた)と発言していたのだが、いまやしっかりミュージシャンだし楽器になっている。とくに近年の〈ブラック・スモーカー〉周辺との活動の成果でもあるのかリズム面での進化が前作との大きな違いで、ビート・アルバムみたいなものとしても聴けるんじゃないかと思う。ノイズ/インダストリアルの大御所たちがベース・ミュージックなどに出会ってクラブ・シーンに接近しているような例(ホワイトハウスのウィリアム・ベネットによるカットハンズとか。初音階段……はちょっと違うか)に通じるものもあるような。

 筆者が参加しているバンドの曲に「10年経っても何にもできないよ」という歌詞があって、以前から伊東はこのフレーズを大変気に入ってくれているのだけれど、出オチで終わらせずに10年続けた成果というのはけっこう馬鹿にならないものがある。2013年の12月30日に新大久保アースダムでの年末恒例のライヴで彼らの演奏を観ていろいろ感じるものがあったこともあり、発売からちょっと間が空いちゃったけど10年経ったわけでもないので落穂ひろい的に紹介させていただきました。

Sleaford Mods - ele-king

 マドンナの監督2作目『WE』を観ながら、クライマックスでセックス・ピストルズが流され、英王室の話なのに“プリティ・ヴェイカント”をチョイスするとはさすがだと思っていた翌日、つづけてオリヴィエ・アサイヤス監督『カルロス(第2部)』にはテロリストたちが検問を突破するシーンでデッド・ボーイズ“ソニック・リデューサー”が使われていた。ドイツ国境の検問が見えてくると、あの、ミドル・トーンの強迫的なベース・ラインが鳴り始め……w。サントゴールド『トップ・ランキング』に収録されていたトニー・マターホーンでディプロがループさせていたアレですね。

 昨年、YouTubeで“ドンキー”を観てからというもの、スリーフォード・モッズなるヒップ・ホップ・パンクのバンドが気になりまくり、アナログは日本に渡ってくる前に売り切れてしまったらしいんだけど、年末になってようやくCD化されたものを確保し、年が明けてバカヤローとばかりに再生してみると、M10のイントロダクションはどう考えても“ソニック・リデューサー”w。久しぶりにヤサグレたモードに埋没している。スリーフォードというのは、イギリスの地名らしく、そこでモッズをやっているということらしい。モッズというのは、その後、スキンヘッズとかスエードヘッドとかになって、リチャード・アレンがシリーズで小説化して、日本でいえば『シャコタン・ブギ』みたいになって(違うかな?)、さらにはモリッシーが歌にして、ブリットポップにも強く影響を与えてからはどうなったのか知らないけれど、そもそもはスウィンギン・ロンドンでリヴァイヴァリスト・ジャズを気取ったシャレものだったわけで、それを名乗ろうと。いまさら、モッズですよ。

 レイジーでチープ、リズムの骨格はヒップ・ホップの影響下にあり、一時期のECDを思わせるところも少なくはなく、歌い方はジョニー・ロットンを淡白にした感じ。もしくはエミネムがジョナサン・リッチマンをバックにザ・ストリートをカヴァー……みたいな。アナログ(のファースト・プレス)にしか歌詞カードはついてないそうで、だから、何を歌っているのかぜんぜんわからないんだけど、だいぶ口汚いことをわめいているらしい。数少ないレヴューを読むと「無慈悲」だとか「迷惑」だとかロクな形容詞が並んでいない。アルバムはすでに5枚めで、これまでのレーベルは全部、崩壊した模様。デビュー作はパンクかと思えばジャングルだったり、ジミ・ヘンドリクスにもなれば、フィラデルフィア・ソウルとわけがわからない。そういったエネルギーがすべて枯れ果てて、新作はかなりシンプルになったということか。リリース元はノイズやドローンばかり扱っているレーベルなので、どういうことなんだろうと思って調べてみると、中心メンバーらしきアンドリュー・ファーンは元々はインファントという名義でネオ・ウイージャからデビューしていたIDM系のプロデューサー。それは、しかし、長くは続かず、7年前にバンドに乗り換え、それもすでにバンドキャンプには「バンドやってたけど、あれは憎むべきもの」みたいなことが書いてあったり(https://sleafordmods.bandcamp.com/)。

 おそらくはバンドが崩壊したから、IDMの方法論を思い出して、それをパンク・サウンドに似せようとしたとか、そういうことなんだろう。“ドンキー”をよく聴くと、スネアの入れ方などは、IDMでやっていたことがかなり活かされていることがよくわかる。ヴォーカルがなければ〈モダーン・ラヴ〉にも匹敵するトラックなのである。ほかの曲はオルガンすら買えないスーサイドみたいだったり、ニュー・ウェイヴの発掘モノにしか聴こえないものもあるんだけれど……そう、最初は、これ、こういうのはブーリン家の姉妹ならぬブレイディ家のみかこさんの担当じゃ~んなどと思いながら聴いていたんだけど(まあ、言葉のこともあるし、大半はその方がいいと思うんだけど)、細かいところはそうでもないかなと思うところもあって、ここまで書いてしまいました。いずれにしろ、2013年は本当に波にのったようで、ついに7インチ・シングルを3枚もリリースし(それまではCDのみ)、いくつかのプレスからは「詩人」と呼ばれるようになったということで。

R.I.P. 大瀧詠一 - ele-king

 2013年12月30日、夕刻と報道にあったから、私は大瀧詠一さんが倒れたとき、湯浅学、牧野琢磨、山口元輝といっしょに新大久保のライヴハウスの舞台の上にいたことになる。われわれ湯浅湾と黒パイプとオプトラムとがホスト役でもう何年やっているか忘れたが年末恒例の〈黒光湯〉というイベントが昨年は飛び石的に2デイズあって、28日につづくその日は二日目だった。演奏はいつもながらではあったけれども、今年最後の演奏はほとんど練習しなかったわりに大きな失敗がなかったのはなにかの力が働いていたからかもしれないというと神秘主義にすぎるけれども、大瀧詠一さんは音楽と音楽の歴史の、ほとんど神秘的ともいえる系譜を聴きとる霊妙な耳をもつ音楽家であった。
 湯浅さんは著書『音楽が降りてくる』(河出書房新社)所収のナイアガラでの日々をふりかえった「Fussa Struggle 1977 ある丁稚奉公の記録」をこう締めている。
「あるとき師匠がこうおっしゃられた。『おまえもこういう仕事を将来やるんだろうけど、知識だけでどうにかなると思ったら大まちがいだぞ』」
 いまもそれをキモに銘じているという。ポップスの、とくに1950年代から60年代なかごろまでの古今東西の大衆音楽史を知悉していたプロデューサーであり、作曲編曲家であり、じつはたぐいまれなヴォーカリストとであるとともに特異な語り口をもつ音楽の語り部でもある総合音楽家が知識に依存しないことが音楽(と音楽にかかわるもの)に大切であると若者に告げる、そこには年長者のありがちなふくみはなかった。私はその場にいたわけではないし、大瀧さんにもお目にかかったことはないうえに音楽を熱心に聴きはじめた小六のころ最後のスタジオ盤『Each Time』(1984年)が出て、はっぴいえんどからはじまった活動期の15年を終えた大瀧さんは自他の歴史を発掘する作業にうつられていたが、そのことばには公約数的な箴言のまやかしは微塵もなく、過去の無数の音群との対話でつちかった耳の、あるいは音楽に対する鼻のめっぽう利く究極の粋人の孤高から導きだしたものがあった。大瀧さんは音楽史の巨星であるが星群をつくらなかった。ちかよりがたさを感じていたのは後発ゆえのひけめかもしれないが、いくら説明しても、本人さえ思いもよらない系譜とのつながりがあとからあとから湧いて、実像が遠のくように思えたのは私に父親のそれを思わせた。こちらが経験したことのない時代を生き、それが表現に結実し、その影響は私の知るかぎりの隅々まで広がっているが黙して奏でない。過去がただ深まる。それは山下達郎氏――達郎さんのバンドの屋台骨だったドラマー青山純さんも2013年に亡くなられたのだった――や細野さんともちがうのである。追いつけない深みにある実像が私に父を思わせたのか、70年代生まれの音楽ファンにとってのたんに世代差も手伝ったのか。私は20代のとき “幸せな結末”(1997年)はあったけれどもそれにしても過去からの残響、とても深い場所からの残響であり、音楽業界が過去最大の売り上げを記録しようとしていた当時、一代かぎりの完成したポピュラー・ミュージックの方法論は90年代のアーカイヴ主義のなかでも異彩を放っていた。さらに15年ちかく、風にのった神話のようにわすれたころに聞こえていた新しいアルバムも出すことなく大瀧さんは世を去った。文字よりしゃべり(ラジオとかね)をおもしろがった知識としてのことばは、細野さんが新聞にコメントしたとおり、大瀧さんといっしょにどこかにいってしまった。知識だけではないのは重々承知ですが。それもまたドルフィーいうところの音楽と同じということなんだろうか。もちろん音楽はのこっている。しかしながら大瀧詠一の肉体の消滅で日本の音楽史はひとつの分母をうしなった――というのは大瀧さんの分母分子論とはまったくちがうが、それはまたここ数年批評家よってたかって議論してきたことのさきがけだったが、肉体がなくなることが象徴の喪失に転化する、大瀧さんは音楽家としての後半生を意図的かどうかはさておき、そのようにもっていった。そしてゼロ除算は数学的に定義できない。
 2013年12月31日、大晦日の7時のニュースに大瀧さんの訃報が流れている。数分後には紅白がはじまる。100万枚売るアイドル・グループがいる一方に、オープニングでグランウド・ゼロ時代(?)の改造ギターを手にした大友さんが登場するこの状況はたしかに定義しがたい。その前提のもとで系譜を継ぐか、空位となった分母に別のなにかを代入するか、現在時のみに時制をとるかは私たちに大瀧さんがのこした宿題かもしれない。そんなことを考えながら、ケヴィン・エアーズ、山口冨士夫、ルー・リード、かしぶち哲郎、多くの方をうしなった2013年は暮れ、暦の上ではもう2014年である。(了)

Actress - ele-king

 アルバムの1曲目がキラーだ。『R.I.P.』(2012年)も『Splazsh』(2010年)もそうだったかもしれない。今回も1曲目(“Forgiven”というのが曲名)を聴いたとき、心底格好良いと感じた。何回聴いても良い。その格好良さは、過去のテイストとは違う。とくにアンビエント色を強めた『R.I.P.』とは対照的だ。音色はくすんでいるがリズミックで、ダンサブルで、ファンクの躍動感がある。ドレクシアの後継者という言い方が使えるなら、このアルバムのためにあるかもしれない。ゲットーのダーク・ファンタジー、アフロ・フューチャリズム、想像力を働かすには、充分なほどの仕掛けがある。この原稿を書いている現在、午前中だし、寒い曇り空が広がっているので、『ゲットーヴィル』を聴くには申し分のない条件が揃っている。しかもテレビではプレミア・リーグの録画放送をやっている。スパーズがユナイティッドのゴールを脅かしている……

 年末から年始にかけては、子供とサッカー番組をぶっ通しで見た。もちろんW杯への予習をかねてだが、サッカーは、会話を持てないときの親子にとっては最高の潤滑油で、とくに好きになれないシティやチェルシーの試合であろうとも話のサカナとしてあまりあまる。小学生の中学年となれば、日本代表がロビンのいないオランダ代表に引き分けても喜ばないし、フランス革命とはニューキャッスルを意味する。ちなみに、昨年末三田格がレヴューで触れていたトルコは、サッカー・ファンのあいだでは欧州リーグの元スーパースターわんさといることで知られる。Jリーグとは比較にならないほど監督も選手も有名人が多い。チャンピオンズ・リーグを戦っているガラタサライ(イスタンブルの人気クラブのひとつ)の数年前の監督はライカールト(永遠のスター)だし、いまの監督はマンチーニ(前々インテル、前シティ監督)、クラブにはドログバ(元チェルシー/コートジボワール代表)とスナイデル(オランダ代表)もいる。かつてジーコを監督に招いたライヴァルのフェネルバフチェにはカイト(オランダ代表)がいる。トルコのシュペル・リガは、その熱狂も含め、欧州四大リーグに次ぐリーグへとなりつつあるとも言われている。ついでながら言えば、本田圭佑が前に所属していたCSKAはロシア陸軍のクラブが元になっているし、移籍先のACミランの会長は悪名高きベルルスコーニ、現在シティを抜いて1位のアーセナルは兵器工場の労働者のクラブからはじまっている。年末に亡くなられた大滝詠一さんは、日本音楽における分母としての「世界史」を強調されていたことで知られるが、サッカー・ファンは、否が応でも世界史と直面している。
 と、話は大きく脱線したが、まあ、単純な話、アグエロを見ているだけでも今年のW杯のアルゼンチンはかなり強いだろうとか……、日本の子供から見てもプレミア・リーグ(もしくはチャンピオンズ・リーグ)は面白いので、家族の会話をうながしてくれる。僕の週末の感情(悲しみや喜び、憂鬱と錯乱)に振り回されるJリーグと違って、帰属意識なんかにかき乱されることもなく、気楽に見れるところも良いのだろう(もちろん現地では日本以上の強い帰属意識の衝突が繰り広げられている)。
 いやいや、そうじゃなくても、アクトレス(ダレン・カニンガム)が、19歳まで、世界最高のリーグのウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFCに所属していたという過去には興味をそそられる。稲本潤一も在籍したことがあるクラブだ。テクノ・ファンがここで思い出すのは、セルジオ・メンデスと一緒にアルバムを作ったブラジルのペレではなく、本気で野球選手を夢見たデトロイトのマイク・バンクスだが、アクトレスの数少ないインタヴュー記事を読んでいると、彼は、日々ストイックに人生を過ごしているバンクスとは正反対で、いかなるときもウィードを手放さない瞑想的な生活を送ってらっしゃるようだ。そのライフスタイルの違いは、音に出ている。『ゲットーヴィル』は、最初聴いたときはずいぶんトゲのある、暗いアルバムだと感じたが、繰り返し聴いているうちに気持ち良くなった。

 アクトレスがフットボーラーを辞めてDJになり、そしてレーベルをはじめた頃はマシュー・ハーバートに夢中だったというが、ほとんどの場合の彼は、自分の音楽を説明するのにデトロイト・テクノを引用している。ときに自分はホアン・アトキンス(デトロイト・エレクトロ)の系譜だと言い、『ダミー・マグ』という最新型を好むポストモダン小僧御用達メディアを相手取って、いまでもインナー・シティの“グッド・ライフ”は通用すると主張し、若いインタヴューアをたじろがせている。しかし、彼の音楽にはハウス的なカタルシスはないし、彼自身も言うように、損得勘定で作っている音楽だとは到底思えない。ただただ純粋な探求心があり、聴き手の度肝を抜く。
 怪我をしなければアクトレスは可能な限りボールを蹴っていたのだろう。『R.I.P.』のように死を連想させながら、情熱によって音を追求している彼の逆説的な前向きさにも、人生の舵を大きく別の方向に切ったことが関係しているのかもしれない。現在ウェスト・ブロムには、有名どころで言えばアネルカ(元フランス代表/元アーセナル~元チェルシー等々)がいる。ピークを過ぎた選手だが、ウェスト・ブロムはイングランド中部の歴史あるクラブだ。ダレン・カニンガムのポジションはどこで、どんなプレイヤーだったのだろう。 90年代なかばの数ヶ月だけ我がチームに在籍して、その後スペインのデポルティーボ・ラ・コルーニャで世界的評価をモノにしたブラジル人のジャウミーニャはザ・スミスのファンだったという。南米の選手らしく華麗なフェイントを駆使するミッドフィルダー(清水ではFWで使われていたが)がマンチェスターの暗い叙情詩のどこに共感したのか知るよしもないが、それを思えば、UKミッドランド工業地帯のアフリカ系のフットボーラーがUS北部の廃墟から生まれた電子音楽に共振することは驚くには値しないかもしれない。噂によればこれが最後の作品になるとか……どうせガセだろうとは思うけれど。

 アナログ盤の値上がりがきついし、YouTubeをパトロールするのが苦手なので、昔よりも難易度は高まっているように思うけれど、2014年も良い新譜に出会えますように。今年は、地上最大の祭典と呼ばれるW杯がある。サッカーと同じように、音楽を探究することは、個人的な意味を越えた何かにぶち当たる。それを世界史と呼ぼうが、社会と呼ぼうが、ブラジルでは、ディフェンダーをうまく騙すことは人生と深く関わりがあると思われている。ずるい子こそがうまい子になる。2014年は64年ぶりにトリックスターの聖地でW杯が開催される!

Varius Artists - ele-king

 クズだと思われていた音源が何十年後かに突然光沢を帯びるのはいまでは珍しい話ではない。『コズミック・マシーン』は1970年代にフランスで制作された電子音楽を集めたものだが、高尚な現代音楽や芸術分野における成果ではなく、ジョルジオ・モロダーとクラフトワークの衝撃、シンセの普及、そのどさくさに紛れて産み落とされた、ディスコをはじめとするダンス・ミュージック、ライブラリー系の商用音楽や著名なアーティストが電子機材を手にしたばかりの熱にうなされて(さもなければ気まぐれで)作ったかのような楽曲が20曲収録されている。言わばフレンチ・エレクトロの青写真、コズミック・ディスコの視点から編まれたコンピレーションである。これから正月/新年を迎えるにあたって、実にユルくて、最高に腑抜けた音楽なので紹介しよう。
 ジャン=ジャック・ペリー(フランスというよりも、世界史な観点で言って大衆電子音楽の先達)やセルジュ・ゲンズブール、ジャン・ミッシェル・ジャールといった説明不要の大御所に混じって、ディスコ・ファンにはお馴染みのセローン、ベルナール・フェヴレ(ブラック・デヴィル・ディスコ・クラブ)の名前もある。なんとダフト・パンクのトマ・バンガルテルの父親がプロデュースした作品もあるが、これがネタというよりも、本気でなかなか良い。他の収録曲はだいたい面白い。4/4キックドラム、ロボティックな反復、ぶ厚く、ときにキラキラしたアナログ・シンセ音は、きっとあなたをアウタースペースに導いてくれるでしょう。電子機材を大衆音楽に使用するにあたっての「型」が確立していない時代の楽曲なので、テクノの珍品集というか、発想がいまより自由だし、3~40年前のガラクタがアートに見えるといったら大げさだが、聴いて楽しいことはたしかだ。クラウトロックにも似た、どこまでもスマートになりきれない面白さもある。

 とはいうものの、結局、音楽は時代の映し鏡という側面があり、それが電子音楽であれ、レアグルーヴであれ、そして流行のモードが90年代になろうとも、人が70年代の音楽を愛するのは、作品に吹き込まれたオプティミスチックな空気ゆえだろう。今日いかなる電子音楽を聴いても、良くも悪くもここまでお気楽な調子にはならない。ele-kingが好んで紹介しているようなダーク・アンビエントだの、インダストリアル/ゴシックだの、ヤング・エコーなど、とんでもございません! さすがゲンズブールは、電子音を使ってインダストリアルな質感を醸し出しているのだが、それにしても今日のそれとは比較にならない。

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