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『(500)日のサマー』が自分の周りでけっこう話題になったとき、そのいかにもアメリカン・インディっぽい恋愛映画を観る層が日本にもまだ一定数いることに少なからず驚いたのだった。イマドキの文化系男子はほぼ全員オタクになっているという偏見を持っていたので、オシャレだけれども冴えない男が主人公で、キュートだが奔放な女の子に振り回される......というような、かつてのサブカル界隈では典型のラヴ・ストーリーが日本ではもはや受けないと思っていたのである。僕がかつてもっとガキで偏狭だった頃、そういうインディ・サブカル男子のことはどうにも「かわいい女の子に振り回されるボク」を正当化しているフニャモラした男に見えて、敵視していたものだった......それならば70年代のギャング映画を観るぜ、と。ガキだったということです。けれども、『(500)日のサマー』を観たときは、インディ男子のアイコンであるズーイー・デシャネルに振り回されたい願望の炸裂っぷりに一言物申したい気持ちはやはりありつつも、頼りない青年の成長譚としては真っ当でいいのではないかと「彼ら」とようやく和解できたのである。オシャレなサブカル・インディ男子だって、この国ではもはや少数派になりつつあるか、もはやたんなる趣味だと見なされるようになっているのだから......(偏見だが)。
ローカル・ネイティヴスが登場したときにも、これはオシャレなインディ男女の好みにパーフェクトにフィットするバンドなのではないか......と反射的に身構えてしまった。西海岸版のフリート・フォクシーズ、素朴なグリズリー・ベア、60年代風のアニマル・コレクティヴ......形容はいろいろあるだろうが、トライバルなリズム解釈による躍動感と流麗なコーラス・ワークがこのバンドの大きな売りであることは間違いなく、それは当時のUSインディのなかにあってあまりにも優等生的な振る舞いだったのである。彼ら自身の強い個性や主張はない。フリート・フォクシーズの厳格さも、グリズリー・ベアの不穏さも、アニマル・コレクティヴの明るい壊れ方もなく、マジメにトーキング・ヘッズのカヴァーをやる辺りも何だか利口な回答に思えた。演奏もアレンジも巧みで、ルックスが良く、しかもファッショナブルな服装のメンバーが並んだときの佇まいもバッチリすぎて、10代の僕ならきっとイチャモンをつけていたことだろう。
が、彼らの2枚目である『ハミングバード』はザ・ナショナルのアーロン・デスナーをプロデュースに迎えて、弱点であったサウンドの平坦さに立体感を与えることに成功している......という、あまりにも真っ当なバンドの成長を見て、この素直さは愛されてもいいのではないかと思い直すことにした。オープニング・トラックのタイトルは"ユー・アンド・アイ"、つまり"キミとボク"で、歌っていることは「きみとぼく/ぼくらいつだって強かった/それだけでやる気が出た/信じて」という、ちょっと幼すぎるのではないかというモチーフだが、音としては陰影のあるギターとピアノが濃淡をもたらしている。前作よりもはっきりと曲の構成がダイナミックになり、耳を楽しませてくれる箇所が多い。得意のトライバルなパーカッションとコーラス・ワークを敢えて減らした結果だそうだが、"ブレイカーズ"では結局それらが伸び伸びと躍動していて、自分たちのいいところも見せたかったのだなと微笑ましい。いっぽうで"スリー・マンツ"や"マウント・ワシントン"、"コロンビア"などのバラッドはよく抑制されており、このバンドにこれほど情感に満ちた歌があったのかと驚かされる。歌詞にも内省や迷いが目立つようになった。
それでも、アルバム全体から立ち上ってくるフィーリングは、キュートだが頼りない青年たちの精一杯さである。そのむず痒さこそがローカル・ネイティヴスを聴くことであり、何だかんだ言ってもブローステップで騒ぐマッチョな連中が結局アメリカでは強いようなので、彼らのような優等生は現在やや劣勢を強いられているのだろう。サマーに振り回された挙句フラれたトム青年にインディ男子が大いに共感したように、ローカル・ネイティヴスの素朴な頑張りとスウィートな歌に勇気づけられるのは、決して悪いことではないだろう。
そう言えば、『(500)日のサマー』には、インディ男女の次なるアイコンの筆頭であるクロエ・グレース・モレッツが『キック・アス』よりも幼い姿で出ており、既に「彼ら」の目を奪っていたのだった。
木津 毅