「Noton」と一致するもの

Burkhard Stangl - ele-king

 オランダの即興ギタリスト、ブルクハルト・シュタングルのアルバムが、英国の実験音楽レーベル〈タッチ〉からリリースされた。ブルース・ギルバート&BAWの、ミカ・ヴァイニオ&ジョアシャン・ノードウォール、そしてフィル・ニブロックの新作など今年の〈タッチ〉はかなり充実した(勝負に出た?)リリースが相次いでいるのだが、そのなかでも本作は、いわゆる音響/実験音楽ファンのみならず、より多くの音楽ファンに聴いていただきたい作品に仕上がっている。なぜなら、そのギター演奏に環境音などの簡素/豊穣なレイヤーが重ねられることによって、聴く者の心に深い余韻と、耳に豊穣な快楽を与えてくれる作品に仕上がっているからだ。

 まずは軽く経歴をおさらいしていこう。ブルクハルト・シュタングルは1992年に最初のEP、1995年にファースト・アルバムを発表して以降、EP、コラボレーション・アルバムを含め20作品以上の作品をリリースしてきた。コラボレーターにはクリストフ・クルツマン 、杉本拓、ジョン・ブッチャーなど。

 この新作アルバムは〈タッチ〉からのリリースということもあり、マスタリングをデニス・ブロックマンが手がけ、プレ・マスタリングはクリスチャン・フェネスが担当している(一部の楽曲はフェネスのスタジオで録音された)。となるとフェネスが半ば、コ・プロデューサー的に本作の制作に協力したのではないかとも想像してしまうが、そもそも00年代初頭にギターとノイズをまったく新しい形で融合させた『エンドレス・サマー』を生み出したフェネスは、このアルバムの録音・制作においてはベストなコラボレーターであったのかもしれない。本アルバムの夜の海辺を捉えたアートワークや、“メロウ”、“セイリング”、“エンディング”などの曲名、そしてギターのメロウな和声、音響感覚は、どこか「ポスト・エンドレス・サマー」的な響きを感じるのだ。

 その仕上がりは、まさに演奏=音楽=音響の境界線を緩やかに溶かしてしまう見事なものであった。演奏と環境音を含めてそのノイズのコンビネーションの作品という意味では近年、稀にみる独自の音響空間を生み出しているように思える。実際、ここでの演奏はノイズとなんら相反することなく、同居し融合し空気のように、そこに流れている。本アルバムは18世紀~19世紀の英国の画家、ウィリアム・ターナーの絵画にインスパイアされて制作されたというが、確かに空気や雲、光などの質感と、本作に満ちた静謐かつ生々しい環境音などのアトモスフィアな響きには、どこか共通する質感を感じてしまう。

 むろん、だからといって、ブルクハルト・シュタングルのギターが希薄というわけでは、まるでない。いや、むしろ反対である。ここではまずギターの濃厚な響きや揺れに、環境音(ノイズ)と見事、融解しているのだ。近年、楽器+環境音のエレクトロニカ系のドローン/アンビエント作品は多くリリースされているが、それらとはまったく違う濃厚で個性的なギターの音、響き、微かな旋律、気配が横溢しているのだ。

 ブルクハルト・シュタングルのギターは当然即興で演奏されており、その途切れがちな音の連なりは、霧の向こうの光のような響きと同居することで、聴き手の音の遠近法をズラしていく。だからこそ環境音とのレイヤーが大きな意味を持つのだ。それはただ音を重ねただけのサウンドではない。まるでストローブ=ユイレの映画のショットのような、天井のないような開放感と、木々の葉の揺れを肌で感じるような空気感が成立しているのである。世界の音のありようを即興演奏とともに、ありのままに捉えること。絵画にインスパイアされて制作された本アルバムの音響は、「映画」のもっとも純粋でコアな表現のもとに交錯していく。

 いうなれば、デレク・ベイリーとクリスチャン・フェネスの間を埋める音楽=演奏を、ストローブ=ユイレ的な音響で音盤化したというべきか。この音楽=音響は呼吸を深くする。同時に耳にやさしく触れる風のようもある。そして耳をくすぐる音の快楽に満ちている。その意味で難解な作品ではまるでない。インプロヴィゼーション・ギターの音(=響)の豊穣さ、そしてそれを包み込むサウンドスケープに素直に身を委ねていればいいのだから。

 個人的には全33分に及ぶ1曲め“メロウ”のラスト5分間が堪らない。断片的になったギターの音と、映画のショットのような環境音。遠くで鳴るカラカラと乾いた音。その空気とフィルムのようなサウンドスケープが耳を潤すのだ。そして小ギターの一音の微かな爪弾きで終わる見事な幕引き。つづく2曲め“セイリング”は環境音のアンビエンスからはじまり、やがて世界に自然に介入するかのようなギターの音。なんという見事な構成だろうか。そしてラスト曲“エンディング”は、これはアルバムの終わりであると同時に、冒頭へのループのようでもある。世界のざわめきへ繋がる音響のようでもある。

 本作を聴き終えたとき、あたりに立ち込める濃厚な音と空気の気配に、名盤の誕生に立ち会ったかのような静かな興奮を覚えた。2001年の晩夏と2013年の遅い夏の終わりを繋ぐ音響がここにある。素晴らしいアルバムだ。

杉本拓と佳村萠 - ele-king

 杉本拓がギターを爪弾くかたわらで、佳村萠の吐息は洩れる。即興と作曲が交錯し、漂う空間のざわめきを抱え込みながらふたりが縺れ合うような音楽。あるいは杉本の指先が、そのまま佳村の口唇に触れるようにして生まれる「さりとて」の、新たなアルバムがリリースされた。異様に長尺な「無音」を奏するなどラディカルな試みで知られるギタリストの杉本と、不定形ポップ・ユニット「ほとらぴからっ」などで愁いを帯びた歌声を聴かせる佳村が、「さりとて」の活動をはじめたのは2007年。これまで世に送り出してきた2枚のアルバムがスタジオで録音されたものであったのに対し、本作品は2010年から2013年までに行われたライヴの記録を収めたものである。ジョン・ケージを批判的に継承する杉本の思想が垣間見える「さりとて」の活動を鑑みるに、3枚めにしてライヴ・アルバムが発表されたことは、その音楽的特長を先鋭化させた結果であるように思われる。

 というのも、前2作を注意深く聴けばわかるように、「さりとて」の音楽には、環境音の肌理を曝け出そうとするストラテジーが備わっているからだ。中空を遮る航空機、遠のく車両、犬らしき吠え声から鳥のさえずりまで、多重録音によるものなのかどうかはともかく、白紙の状態からコンポジション/インプロヴィゼーションを立ち上げていくことが可能であるはずのスタジオ録音においてこれらのサウンドスケープが聴かれるということは、彼らが意図的にそうしたのだ、と考えられる。もともとトーンを抑えた音楽である「さりとて」の背景をなす「静寂」に注視することで、微細な音の蠢きがクローズアップされ、聴者の中に圧倒的な「喧騒」が呼び覚まされる。とはいえ「喧騒」は、あくまでカッコつきでなければならない。なぜなら、杉本と佳村の演奏音が、音量に上限を設けてしまうことで、環境音はある一定の弱音として聴かれざるを得ないからだ。ここでは聴者は、いわば透聴力をもってサウンドに接することを余儀なくされる。そしてこのような試みを音盤上で繰り広げていくことを考えたとき、それは必然的にライヴ・アルバムという形に結実する。

 ライヴ音源とは、ある種のフィールド・レコーディングである。演奏者が録音機器を志向するのではなく、録音機器が「演奏者」を指向する。ここでいう「演奏者」とは、マイクに集まる無差別な音響群のことだ。それには演奏音も含まれれば環境音も含まれる。スタジオ録音からライヴ録音となることによって、それまでは保たれていた音の前景(演奏音)と後景(環境音)の区別が、同じグランドノイズの上に屹立する「図」の対立へと移り変わる。たとえば本作品において、8曲めの“ビコーズ・イット・ブリーズド”から9曲めの“ア・ウィンド”にかけて、耳を澄ませてほしい。2010年8月5日の、いまはもう閉鎖されてしまったイヴェント・スペース〈Loop-Line〉のざわめきが、続く2011年9月17日アメリカはニューヨークの〈Issue Project Room〉におけるグランドノイズと接続されることで、そのあられもない姿を曝け出すことに、聴者の意識は向けられる。さらに言えば、“ビコーズ・イット・ブリーズド”と“ア・ウィンド”の間に僅かに挟まれた数値上の無音状態は、聴者の意識を彼の現実世界における基調音それ自体の肉感的な物質性へと向かわせる。異質な時/空間の対立が、音楽の前提条件となるサウンドそのものの異貌性を露わにするのだ。

 ここで急いで付け加えなければならないことがある。これまで述べたようなラディカリズムは、一方で「音響派」のマンネリズムでもあった。「さりとて」にアクチュアルな意義があるとすれば、こうした杉本が求め続ける実験精神を内包したまま、他方では佳村の声によって、ポップネスの様相を呈してもいるのだ、ということである。アルバムも終わりに近づき、宮城県に伝わる数え唄“ひとりでさびし”の、あまりにも抒情的なアレンジを耳にした人々は、知的意匠を施されつつも大衆的共感で身を纏った音楽のその表面に、率直なノスタルジーを感じることだろう。それは「現代音楽」をカジュアルに消費できるようになった今日の社会において音楽的実験を継続させるための一つの方策として、高く評価されるべきものなのではなかろうか。どれほど知的な聴取を望めども、音は感性を刺激し続けるのだから。

泉まくら - ele-king

 たとえば、Swag。意味はいろいろあるけど、大体は自分が誇れるもの、自慢できることというニュアンスで使われる。それはオンナ、金、車、ジュエリー、時計という、いわゆるステレオタイプなヒップホップのイメージを形作るもので、これが日本人にはなかなか受け入れづらい。ヘッズは別だけどね。

 ヘッズではない日本人でも腑に落ちるSwagと何か? 僕は(以前も引き合いに出したけど)KOHEI JAPAN『FAMILY』のあり方だと思う。この作品はその名の通り、自分の家族について歌ったもので、KOHEI JAPANは「家族はサイコーっしょ」という主張をSwagとして歌った。

 物事の陰と陽で言えば、比較的陽の部分がクローズアップされた内容だが、リアルな描写が多く、「3年保育私立幼稚園 さらに小中高 足して12年 / 一番安くて約1000万 一番高くて5000万 / 子供2人いたらその倍だねえ 大学は行かなくていいんじゃね?」(『続・男はまぁまぁつらいよ〈オジサンの小言〉』)などのラインは取りつく島がない。僕は当時、この曲を聴いて家庭は金かかるんだ……って真剣に思った。

 バブル以降の世代である僕らは、徹底して現実的な世界を生きてきた。ゆえにアメリカン・ドリーム、いわゆる立身出世の物語を本質的に理解することが難しい。アメリカではギャングがビリオネアになることをJay-Zのような一部の大物たちが体現してくれたけど、日本のヒップホップで彼らほどのサクセスを手にした人はいない。やはりそれが与沢翼では、どうにも夢がないように思える。けど、僕らに突きつけられている現実はJay-Zではなく、翼だ。このような状態で、USヒップホップのようなことを歌っても、それはリアルに聴こえるはずがないし、「結局アメリカのマネゴトじゃん」と言われても返す言葉がない。

 泉まくらのSwagは女子のカルマだ。想像する性を生きる男子にとっては、一生理解することのできないリアル。それが女子のカルマだ。結局人間は他人同士で、人と人とが分かり合うということは幻想でしかない。まして違う性の生き物が何をどう感じているかなど一生知ることができない。僕らはただただ想像するだけなのだ。何が言いたいかというと、そんなものSwagにするのだから泉まくらというラッパーは相当サグな人なんだろうな、と。またそういうトピックを選ぶあたりも、日本語ラップの系譜においては、THA BLUE HERB、SEEDAらのようなラッパーの直系であるな、と感じた。

My Bloody Valentine - ele-king

 じつに22年ぶりの最新作『mbv』をリリースしたマイ・ブラッディ・ヴァレンタイン(以下、マイブラ)。08~09年の「再始動ツアー」以来となる大規模なライヴ・サーキットを、アジアを皮切りにおよそ1年かけておこなってきた彼らが、その締めくくりの公演を11月11日(月)、12日(火)とニューヨークでおこなった。このライヴを終えたらすぐ、アイルランドの新居に設立したプライヴェート・スタジオにこもり、ニューEPのレコーディングに入る予定だと話してくれたケヴィン・シールズ(ヴォーカル&ギター)。「次のライヴは、来年の夏頃やりたいな」とも言ってたが、常人とは時間感覚が著しく違う彼のこと、この機会を逃したらしばらくライヴは観られないのではないか、ひょっとしたらこれが最後のチャンス……? などと考えているうちにいても立ってもいられなくなり、気づけばニューヨークまで来ていた。
 会場は両日とも、マンハッタンの中央に位置する〈ハマースタイン・ボールルーム(Hammerstein Ballroom)〉。2年前にポーティスヘッドの単独公演を観た場所だ。オープニング・アクトは、初日がオーストラリアのシンガーソングライター、アダム・ハーディング率いるダム・ナンバーズで(おそらくダイナソーJr.繋がり)、最終日はニューヨーク出身のバンド、ダイヴが務めた。地元の若手バンドが出るとあってか、客層は最終日のほうが圧倒的に若く、フロアにはアンドリュー・ヴァンウィンガーデン(MGMT)の姿もあった。  オープニング・アクトが終わると、BP.ファロン(ジャーナリスト/写真家)によるDJタイム。ドキュメンタリー映画『アップサイド・ダウン:クリエイションレコーズ・ヒストリー』に語り部として登場していた彼のDJは、とにかく大ネタの連発。T・レックスやストゥージズ、セックス・ピストルズの名曲を惜しげもなくスピンしていく。ニューヨークは、少なくとも筆者の行く先々ではルー・リード追悼一色という感じだったが、ファロンがヴェルヴェット・アンダーグラウンド“ヴィーナス・イン・ファーズ”をかけると、フロアからはひときわ大きな歓声が上がっていた。  ビートルズの“オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ”が大音量で流れ出すと、客電が徐々に暗くなっていくなか、あちこちからシンガロングが響きわたる。最新作を「“愛”に包まれたアルバム」と公言していたマイブラと、そのファンに対するファロンからの心憎いプレゼントだ。
 21時を少し過ぎた頃、デビー・グッギ(ベース)、コルム・オコーサク(ドラム)、ケヴィン、ビリンダ・ブッチャー(ヴォーカル、ギター)の順でステージに登場。コルムとケヴィンはアコギを抱え、デビーはエレキギターをセッティング、ビリンダはキーボードの前に立つ。東京国際フォーラムと同じく、名曲“サムタイムズ”でライヴはスタートした。続いてサポート・メンバーのジェーン・マルコ(ギター、キーボード、コーラス)が加わり、通常の楽器編成に戻って“アイ・オンリー・セッド”“ホエン・ユー・スリープ”と『ラヴレス』からのナンバーを披露。ジェーン加入前の彼らは、シンセの印象的なシーケンス・フレーズをサンプリング音源で再現していたが、これをジェーンに弾かせることによって曲のテンポから完全に自由になった。ここぞとばかりにコルムがスピードを上げ、デビーのベースがグイグイとドライヴする“ホエン・ユー・スリープ”は、心拍数が跳ね上がるくらいカッコいい。マイブラのライヴの醍醐味は、なにもケヴィンの爆音ギターや、“ユー・メイド・ミー・リアライズ”中盤のノイズ・ビット(10分を超えるフィードバック・ノイズ)だけじゃない。この、鉄壁のリズム隊による唯一無二のグルーヴにもあるのだ。他にも、「叩き終わった途端に絶命してしまうのではないか?」と心配になるほど渾身の力を振り絞るコルムのドラミングが印象的な“ナッシング・マッチ・トゥー・ルーズ”、うねるようなデビーのベースラインが腰を揺さぶる“カム・イン・アローブ”、刹那的なケヴィンのギター・ソロに聴くたび身震いさせられる“ユー・ネヴァー・シュッド”など、毎度お馴染みのセットリストながら何度観ても鳥肌が立つ。
 最新作『mbv』からは、国際フォーラムと同じく“ニュー・ユー”“オンリー・トゥモロー”“フー・シーズ・ユー”そして“ワンダー・2”を演奏。変則的なブレイクが挿入される“ニュー・ユー”は、日本公演では毎回ミスしてヒヤヒヤものだったが、今回は無事に完奏して一安心(シロウトか)。ビリンダとデビー、そしてジェーンも加わった重層的なコーラス・パートは見どころのひとつだ。“フー・シーズ・ユー”は、銀河系をイメージしたスクリーンをバックにケヴィンとビリンダがユニゾン・ヴォーカル。ビリンダはケヴィンのギター・ソロ・パートもスキャットでユニゾンしていたのが印象的だった。ヒプノティックな“トゥー・ヒア・ノウズ・ホエン”に続いて演奏された“ワンダー・2”は、メンバー全員がエレキギターをプレイするという変則的なフォーメーション。E-Bow(エレキギターの弦に当てて、電気的にフィードバックを発生させるエフェクター)を弦の上で小刻みに揺らし、高音フレーズで宙を切り裂くケヴィン。「トレモロアーム(ギターのトレモロバーを掴んだままギターをストロークし、音色に“ゆらぎ”を与える奏法)」に続いて編み出した彼のこの奏法は、来日時のインタヴューによれば、“イン・アナザー・ウェイ”など『mbv』の他の曲でも多用されたそうだ。  ここからは、早くも終盤戦。“スゥーン”“フィード・ミー・ウィズ・ユア・キス”“ユー・メイド・ミー・リアライズ”と畳み掛けていく。国際フォーラムでは、“スゥーン”に余計なキック音を足していたのが気になって仕方なかったが、今回それは改善されていた。2日めは撮影をしながらステージを観ていたのだが、特にサプライズ的なこともなく、セットリストから何からほとんどいっしょ。ただ、最終日ということで多少は開放的な気分になっていたのか、ラスト2曲の前に珍しくコルムとビリンダでMCをはじめたのにはびっくり。また、“ユー・メイド・ミー・リアライズ”のノイズビットのときにステージ袖へと回ってみたら、フランス人の女性PAエンジニアとローディーがかたくハグし合っていたり、ケヴィンを担当する天才ギター・テクがコブシを振り上げて大声で叫んでいたり、ちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。こんな凄まじい爆音に包まれながら祝杯をあげるなんて、いかにもマイブラのクルーらしいなあと思っていたら、少しだけウルッときてしまった。
 終演後、楽屋にはパティ・スミスの姿が。「『ラヴレス』こそわたしの人生を変えた一枚」と公言する彼女とケヴィンは、05年と06年にロンドンの〈クイーン・エリザベス・ホール〉にて即興ライヴをおこなっている(2枚組CD『コーラル・シー』として08年にリリースされた)。今年はじめの韓国公演で再会したときには、12年10月にニューヨークを襲ったハリケーン「サンディ」の被災地への支援活動についてふたりは話し合ったそうだ。そんなふたりが並んでソファに座っている様子は、まるで映画のワンシーンを観ているようだった。  さて、大阪、東京、メルボルン、グラスゴー、マンチェスター、ロンドン、バルセロナ、苗場、国際フォーラムそしてニューヨークと、追いかけ続けたマイブラのライヴも、これでしばらくは見納めである。冒頭で紹介したケヴィンの計画どおり、新居でのレコーディングが無事にスタートし、来夏には再びライヴをおこなうかどうかは神のみぞ知るところ。「ケヴィン時間」に過剰な期待もせず絶望もせず、気長に待ち続けることにしよう。

Phoenix - ele-king

 グラミーのオルタネイティヴ・ロック部門のベスト・アルバム賞を獲り、完全にアメリカのマーケットに認められたフェニックス。すごいことです。日本のアーティストはいつこういうことができるのでしょう。頑張ってほしいと思います。

 ビートルズ以前のフランスの音楽は世界的な音楽だったんですよね。ビートルズ以降もミッシェル・ポルナレフという世界的に成功したポップ・アーティストもいました。フェニックスのスイートな感じはミッシェル・ポルナレフを思い出します。ミッシェル・ポルナレフは日本でも大人気でした。パンク時代もプラスチック・ベルトランが突然大成功したりしてましたね。
 ワールド・ミュージックもフランスのマルタン・メソニエがプロデュースして、世界でヒットする音楽にしたわけで、前作と今作のプロデューサーであるカシアスのフイリップ・ズダールも、マルタン・メソニエがよく使っていたスタジオの息子で、子どもの頃からマルタンを尊敬して、世界に通用する音楽を作りたい――「マルタンを尊敬し、自分もそうなることを夢見ていた」と言ってました。
 フェニックスを聴いていると、ぼくはそういうフランスの歴史を感じます。
 だから日本人がこれをやるというのはなかなか大変なことなんだろうなと思います。YMOはそういうことを考えて作られたバンドでしたが、グラミーまではとれなかったですもんね。
 フェニックスやザ・ハイヴスなどの成功を見ていると、母国語じゃなくっても、英語で歌っていくべきなんだろうなと思います。昔、内田裕也さんとはっぴいえんどが、ロックを日本語で歌うべきかどうなのかで大激論になったことがあるのですが、僕はずっとはっぴいえんど派で、日本語で日本のロックを歌っていくべきだろうと思っていました。『ミュージックマガジン』での両者の対談を読んでいると、ロックは英語の音楽なんだから英語で歌えという裕也さんの意見は押しつけがましいと思っていたのですが、いまはフェニックスの成功を見ていると、たとえ海外でなかなか認められなくっても英語で歌っていくべきだったのじゃないかと思っています。
 当時は裕也さんの意見に反発していた細野さんが後に世界マーケットを視野に入れたYMOを作ったのは、裕也さんの意見に最終的には賛同したのかなという気もします。
 フェニックスの新作について話そうと思ったら、とんでもない方向に言ってしまいました。新作は大成功した前作をもっと進歩させたアルバムです。日本人の人がフェニックスを大好きなのは、彼らの「ロックなのにやさしい」という部分だと思うのですが、その部分は今作はちょっとなくなってしまっているのかもしれません。それはアメリカのマーケットを意識したのか、どうなのか僕にはわかりませんが、ぼくはその強くなった部分に新鮮さを感じますし、好きです。
 でも、やっぱりフェニックスを聴いて思うのは、英語をしゃべらない国の人も頑張ればアメリカのマーケットで認められるんだ。すごいな、日本人も頑張れということです。

Jake Bugg - ele-king

 イタリアから戻って来た翌日のことである。
 出勤前にマクドナルドで朝飯を食っていると、見るからにアンダークラス&チャヴな青年がベビーカーを押しながら入って来た。
 いやー。英国に戻って来たな。と思っていると、店内音楽がオアシスに切り替わる。と、くだんの若い兄ちゃんが、ベビーカーをゆらゆらさせて赤ん坊をあやしながら、メイビーーーー、ユーゴナビーザワンザットセイヴズミーーー、アンドアフタアアーオーーーーーールとリアム・ギャラガーと一緒に歌いはじめた。

 いやー。英国の公営住宅地に戻って来たな。と思った。

              *********

 米国の大物プロデューサー、リック・ルーベン所有のマリブのスタジオの名前をタイトルに掲げたジェイク・バグのセカンドには、英国メディアは賛否両論のリアクションを見せている。もろ手を挙げて大絶賛だった前作とは違う。
 『NME』は、オアシスが遺した穴に自分をすっぽり入れようとする時のジェイク・バグの楽曲はまったくつまらないが、ファースト同様のボブ・ディランエスクな音を奏でる時は素晴らしいと書いた。『ガーディアン』紙は、バーバリーのファッション・イヴェントでギグをおこない、スーパーモデルと浮名を流す身分になったジェイク・バグが、いまさら公営住宅地を歌うのは偽善だろう。英国のボブ・ディランになるかと思われた若者の音楽は、もはやリチャード・アシュクロフトや後期オアシスにしか聞こえない。と書いた。
 英国のアーティストは全部ダメで、ボブ・ディランならクール。という論調には、英国人のコンプレックスを見るような気もするが、実はわたしも1年前、「公営住宅地のボブ・ディラン」とジェイクを形容した人間である。で、セカンドを一聴した感想は、あれ? であった。
 アルバム・ジャケットの如く、今回はモノクロじゃない。カラーなのである。サウンド(楽曲ではなく、音の処理という意味で)にアナログ・レコードのように聞こえる細工や歪みが施されていないので、ずっと現代的に聞こえる。ブリット・ポップみたいじゃねえか。と大人たちが言うのも道理だ。一見シンプルに聞こえていた前作のほうが、実はサウンドのイメージ構築(レトロ化)には凝っていたようで、いろいろやってる感じの今回のほうが逆説的にシンプルというか、普通のロックに聞こえる。

 が、半信半疑で2回、3回と聞き込むにつれて、あることに気づいた。
 それはジェイク・バグが非常に優れたメロディー・メイカーであるということであり、即ち優れたアンセム・メイカーだということだ。これは前作では十分に発揮されていなかった資質だろう。
 アンセム。というのは小バカにされがちな言葉だが、その語源は英国国教会の祈祷合唱曲であり、言葉(スローガン)とメロディーが耳と心の両方で聞き取りやすく、万人に歌うことができ、何よりも祈祷者(歌う者)の魂を鼓舞する唱歌のことだ。英国国教会の賛美歌のジャンルが語源になっているだけにUKの人びとはアンセム作りが得意で、もっとも優れたもののひとつにはナショナル・アンセム(国歌)の“God Save The Queen”があるし、その裏ヴァージョンを歌ったジョン・ライドンなんかもアンセム作りの天才である。

 わたしは1996年から英国に住んでいるが、この国の貧民街にいまほどアンセムが必要とされていたことはなかったと思う。公園で人が喧嘩して刺されたり、オーバードーズで若者が病院に運ばれたりしてサイレンの音が頻繁に聞こえている世界では、人は知らず知らずのうちに祈祷するからだ。祈祷の方法というのが単に流行歌を歌うことだとしても、人はなんとか魂を高揚させて生きていこうとする。
 もう末期としか言いようのない保守党政権下で締め付けられ、荒廃した暗い社会が、その終焉を切望していた90年代前半にアンセミックなブリット・ポップが生まれた。というのは拙著にも書いたところだが、やはり今という時代はあの時代とよく似ている。

「電灯は打ち割られ
街の通りは封鎖されている
誰もうろつこうなんて思わない場所だ
ずっと前に俺たちは切り捨てられた 見込みはないって
聞こえるのは風の音だけ ストーンドしようぜ」(“Messed Up Kids”)

 嘘くさ。
 とかいうシニカルな批評は、彼のファーストを聴いて勝手にうっとりしていた中年文化人たちに任せておけば良い。
 同世代の若者たちの耳や心にリアルに響く限り、それは10点中8点だの9点だの採点されるブリリアントなだけの楽曲を超えて、時代を象徴するアンセムになるのだから。
 “Seen It All(すべて見てきた)”と言ってシーンに登場した少年のしんと醒めた瞳は、最近ではある種のふてぶてしさすら帯びて来た。
 ジェイク・バグはきっと自分の進むべき道を知っている。

ヤマシタトモコ - ele-king

 押井守や北野武が描くアウトサイダーはたいていの場合、組織に属している。いわゆる「お荷物」とか「不良社員」といったやつである。泥棒やドラッグ・ディーラーを主役にして反社会的行為を色とりどりに描く洋画や香港映画に較べて、そのような「アウトサイダー」には当然のことながら「悪いこと」には一定のラインがあり、最終的に主役が手にするものは「美学」ばかりである。実を取る気配すらないし、間違っても生活感などは漂わせない。

 不出来もいいところだった林海象監督『キャッツ・アイ』は論外として、最近だと内田けんじ監督『鍵泥棒のメソッド』や伊藤匡史監督『カラスの親指』でようやく日本の映画でも組織に属していない悪党たちがコン・ゲームを繰り広げはじめたと思ったら(以下、ネタばれ)「どこにも悪人はいなかった」という価値観に終始し、ストーリーの妙もそのような結論から演繹されるものばかりだった。バカバカしい。たかがエンターテイメントだけに、事態は余計に深刻な気がしてくる。犬童一心監督『のぼうの城』でも金子文紀監督『大奥~永遠~』でも権力者の内面に同調させる映画作りは得意なのに、持たざるものからの視点はタブーなのかと思ったり。

 「組織に属するアウトサイダー」は、しかし、新自由主義があっさりと過去のものにしてしまった面もなくはない。 原田眞人監督『金融腐食列島・呪縛』や本広克行監督『踊る大捜査線』以降、「はみ出し者」のレッテルはどちらかというと組織の周縁ではなく、組織を内部から改革しようとする者に貼られるようになり、以後、ストーリー的には「敵は頭の上」という図式がデフォルトと化してしまった感もある。佐藤嗣麻子監督『アンフェア』といい、堤幸彦監督『スペック』といい、警察上層部が悪くない例を探し出す方が最近は難しいし、改革=正義を行うという意識ととらえれば、このことは『沈黙の艦隊』や『デス・ノート』から連綿と続いてきた感覚であり、ゼロ年代よりもさらに強化されていると言える(クエンティン・タランティーノ監督『レザボア・ドッグス』は無意味な殺し合いを描いたものだったのに対し、『ジャンゴ』では人を殺す時に「正義」が持ち出されるという驚くべき変化があった)。

 こうした変化は押井モデルや北野モデルのアウトサイダーを組織内には居ずらくさせ、自主退社を迫られるものにしてきた。『鍵泥棒のメソッド』や『カラスの親指』だけでなく、吉田大八監督『クヒオ大佐』や、国家単位で考えた時には木村祐一監督『ニセ札』が美学の路頭に迷ったアウトサイダーたちを暫定的に詐欺師ものにトランスフォームさせたとも考えられるし、それはそのまま正社員が非正規(=ノンキャリ)にずり落ち、ついにはオレオレ詐欺に手を染めるしか生き延びる方法がなかった時代の写し絵とも見えなくはない(『クヒオ大佐』にはアレックス・コックスばりの政治的センスがあり、『ニセ札』には民衆側の視点というものがあった)。

 さらには「ソーシャル」というキーワードが無条件で是とされ、「自由」に振舞うことが迷惑行為と同義語のようになってくると、「アウトサイダー」は単なる自己愛パーソナリティ障害か時代の変化に気づいていない人にしか見えなくなってくる。松本人志監督『大日本人』は戦闘少女に救える地球はあっても、旧型の男性ヒーローには救ってもらいたい人もいないというカリカチュアとしては有効に思えたし、同時に押井守や北野武の美学が笑われているようなセンスもあった。このような時期に押見修造『悪の華』は意外なほど反社会的行為をストレートに描き、しかも、「受けまくった」。ここには押井モデルのような屈折もなく、同時多発テロ以降、題材にしにくかったテロリズムを心情的に理解させながら話を進めていくことにも成功し、『殺し屋1』のように動機は捏造だったというようなトリックもない。それこそイスラムもないしw、強いていえば思春期原理主義というようなものかもしれないけれど、これに中2病のバイブルというような表現で時代性にフタをしてしまうと、見失しなわれてしまうことも出てくるはずであう。社会が常に変化しているならば、「反社会」も一定ではないはずだし、作者が参考にしたという『太陽を盗んだ男』だけが繰り返し上映されていれば、ほかはいらないということになってしまうし。

 とはいえ、『悪の華』には「反社会」を内面化する決定的なプロセスがない。最も肝心な部分は主人公の外側からやってくる。教室で誰とも口を利かない女子生徒がいわば「反社会」の源泉のように描かれ、主人公はそれに染まるだけである。要するに少年マンガにありがちな「女の子は天使」とか、戦闘美少女と同じく、なぜか絶対なものとして描かれるものが、とくにこれといって位置関係を変えることなく男子生徒に影響を及ぼしているだけで、その女性徒が反社会的なパーソナリティになった理由はまったく明らかにされていない(少なくとも第1部では)。これではレールを踏み出したものがひとりいれば、後はつられて踏み外してもオッケーみたいな感覚に思えてくるし、逆にいえば、ひとりも踏み外す者がいなければ誰も踏み外さないということにはならないだろうか。最初のひとりはどうして反社会へと振り切れたのか。それが描かれていなければ、「反社会」を規定できるのはどの部分なのか、あまりにもわかりづらい。

 ヤマシタトモコがいつもとは作風を変えた『ひばりの朝』が、そして、そのアンサーになっていると思えた。同作は3人の女性がそれぞれに社会と距離を感じていくプロセスが克明に描かれ、その気持ちが何度も上塗りされていくという残酷な作品である(全2巻)。彼女たちにつられて、同じように距離を表現する男性はひとりも出てこない(=だから、『悪の華』のようなテロリストは育たない)。男性たちはむしろ、彼女たちに距離を感じさせる原因でしかなく、ある種の男性たちに対する作者の怒りはみしみしと伝わってくる。彼女がここで描いている女性たちの何人かは、キャラクターをそのままにして男性化させれば吉田秋生の描いたアッシュやヒースと、そうは変わらないものになるだろう(……そう、ヤマシタトモコには、近い将来、吉田秋生の後継といえるような作品を生み出すのではないかとドキドキさせてくれるものがある)。『ひばりの朝』が、そして、とんでもないのは、『悪の華』ではひとりだった反社会的な女性のパターンが3倍になっているだけでなく、それらがさらに憎悪やネグレクトとして絡み合い、女性同士が必ずしも連帯しないという構図にもなっていることだろう。「反社会」性は、そして、なんらかの行動として実行されるものではなく、孤独へと跳ね返ってくるだけで、3種3様の諦めや逃避が描かれる。そして、周辺にいる登場人物たちは反社会に染まるどころか、近づくことさえできないものになっていく。

 「息をとめていたので平気でした」
 「人に興味を持たなければ 傷つかず 良心も痛まない」。

 こうなってくると、もはや「アウトサイダー」という立場が成立していたことさえ奇妙なことに思えてくる。三池崇史監督『悪の経典』のように、一切の理由も正義も省かれている方が納得はできてしまうし、じとーッと『ひばりの朝』を読んでいると、一方では、きっと何も変わっていなかったのだろうと思わせるものがあり、それを普遍性と呼ぶならば、そのように呼べること自体が諦念と結びついているとも考えられる。吉田秋生でいえば『吉祥天女』のようでいて、どれだけ映画化されても悲惨な結果しか生まない(のに、懲りずに映画化される)『桜の園』に近い作品ではないだろうか。「社会」という言葉をもっと分解して考えなければ、ここではこれ以上は先に進めない。

 安直に比較してしまったけれど、『悪の華』と『ひばりの朝』は主題も違うし、読者も効果も何も重ならないに違いない。強いていえば、『ひばりの朝』で克明に描かれているようなプロセスが省略されているにもかかわらず、『悪の華』がこれだけの読者を得たということは、理由もなく、反社会的な行動に駆り立てられている人が少なからずいるということにはならないだろうか。それは、もしかすると新自由主義が生み出したアウトサイダーの変貌がタイムリミットを迎えているのかもしれないし、小泉政権以降、組織に組み込まれなかった人たちが増えすぎて、情緒の受け皿が必要になっているということなのだろう。

(参考)

Gun Club Cemetery - ele-king

 アラン・マッギーに「君が契約したバンドってみんなサイケとパンクに影響されていて、それがいまの音楽の主流になったよね」と言ったら、「俺はテレビジョン・パーソナリティーズのダン・トレイシーの〈ワーム!・レコード〉をマネしただけだ。偉大なのはダン・トレイシーだ」と言ってました。
 ダン・トレイシーはレッド・ツェッペリンのレーベル、〈スワン・レコード〉で、ジミー・ペイジに「お前はパンクか」と白い目で見られなが働いていたそうで、レッド・ツェッペリンのマネージャー、ピーター・グラントのようになったアランは、ダン・トレイシーの復讐をしたのかと思うとなんか、感慨深いものがあります。

 アランに「そんな謙遜せずに、マイブラがいまの若者の琴線にいちばんふれる音楽になったじゃん」と言うと、「ケンジ、マイブラなんか大したことないぞ。いまに若いやつらが“オアシスがいい、オアシスがいい”と言い出すぞ。そのときはもっと大変なことになるぞ」と言っていた。というわけでガン・クラブ・セメタリーを出すことにしたんでしょうか。オアシスより白黒な感じがいいです。ガン・クラブという名前を付けているのはあのジェフリー・リー・ピアースのガン・クラブへのリスペクトなんでしょうか、ガン・クラブな荒野の不法地帯な匂いがします。

 僕はガン・クラブ・セメタリーのブルージーなところが好きです。彼らが新しいオアシスになるのかどうかはわからないですが、ガン・クラブのようなカリスマ的人気を得ていきそうな気がします。
 しかし、本当にガン・クラブの再評価は高いですよね。前にパーマ・ヴァイオレットのチリ・ジェッソンにインタヴューしたら、「ガン・クラブが好き」と言ってましたが、ガン・クラブ・セメタリーはまさにそのようなバンドになりそうですね。いまのところは元ハリケーン#1のボーカルで元ボクサーでリアム・ギャラガーを殴ったというくらいしか伝説はないですが、これから作っていくのでしょう。でも、元ボクサーだったら殴ったらダメですよね。犯罪ですよね。僕ももう鼻血ブーな伝説を作らないように、彼には殴られないように気をつけていきたいです。

恋するリベラーチェ - ele-king

 2010年代前半は、多くの同性愛者たちにとって激動の時代であったと……のちに振り返られることになる予感がする。英米仏をはじめとる、同性婚の是非の議論、あるいはロシアやウガンダでの同性愛者弾圧とそれに対する抵抗運動など、話題に事欠かないからだ。まあ、日本はそこから取り残されているわけだが……、ひとまずここでは、そんな時代を象徴する1本のアメリカ映画について取り上げよう。

 今年はスティーヴン・ソダーバーグ監督作品の当たり年で、日本で公開されるのは『マジック・マイク』、『サイド・エフェクト』、そして本作『恋するリベラーチェ』で3本目であり、そしてそれらすべての水準が高い。テクニックは抜群ながらもどうにも器用貧乏に見えなくもないソダーバーグだが、劇場映画の監督を引退すると表明してから開き直ったのだろうか(本作はテレビ映画であり、今後は拠点をそちらに移すらしい)、なかなかどうしてここのところ悪くない。いや率直に言って、面白い。
 『チェ』二部作以降辺りからソダーバーグはアメリカの近現代史を様々なアングルで捉えているようなところがあり、たとえば『チェ』は資本主義の揺らぎをアメリカの国内外から同時に映したような作品であったし、『ガールフレンド・エクスペリエンス』はリーマン・ショックを擬似的なドキュメンタリーのようにしながら後景にし、『インフォーマント!』では企業社会と資本主義の歪みを、『コンテイジョン』ではグローバリズムと格差を取り上げ、『エイジェント・マロリー』……は置いといて、『マジック・マイク』は高度資本主義社会に「それでも」乗る人間と降りる人間との分岐を、そして『サイド・エフェクト』は精神疾患さえも市場に飲み込まれていく様を描いていた。そして程度の差はあれどすべての作品において、冷たい肌触りが貫かれている(なかでも『コンテイジョン』の冷徹さは出色)。



 本作『恋するリベラーチェ』は1950~70年代に絶大な人気を博したステージ・ピアニスト、リベラーチェのプライヴェートを描いており、すなわち彼と同性の恋人との愛憎に満ちた年月についてを映し出している。同性愛者の人生をテーマにしたのはそれがアメリカにおいてタイムリーであるからに違いなく、さらにそのなかでもリベラーチェを選んだところにソダーバーグの利口さが見える。ユーチューブなどで検索すればいくつか出てくるだろうが、彼のステージというのがまずとんでもない。宝塚歌劇団以上に絢爛な衣装を身にまとい、舞い、そしてそれ以上ないほどデコレートされたピアノの鍵盤を叩きまくる。その派手なステージングによって悪趣味の代名詞ともされたリベラーチェだが、この映画を観ると、彼自身そのことを自覚した上で楽しんでいたようである。宮殿のような邸宅での、虚飾にまみれた日々も含めて。
 しかし同性愛者であることを、彼は楽しんでいなかったようだ。いや、もちろん、好き放題のセックスはつねにそこにあった。が、それはあくまでクローゼットな愉しみであって、徹底して彼はゲイであることを世間に隠していた。ここでは、おばちゃんみたいなカツラをかぶるマイケル・ダグラスとムッチムチのマット・デイモンの奇妙な、しかしごく真っ当な蜜月の日々とその破綻が語られていく。そして映画の後半、デイモン演じる恋人と裁判沙汰になるとき、ふたりの生活は婚姻関係と同質のものであったと振り返られる。さらに時が過ぎ、エイズがアウティング(性的志向を当事者以外が暴露すること)する彼の秘密……。すなわち、この映画では現代に至るまでの同性愛者たちの前史が、いくらかの感傷とともに確認されていくのである。ごつい指輪をいくつもはめたリベラーチェの姿がどれだけ下品で悪趣味であろうとも、そうして死んでいく彼の姿は、自らのアイデンティティを封印したまま刹那的な性行為を重ね、歴史の隙間に消えていった数多の同性愛者たちと何ら変わらない。だからだろうか、映画の終わりはソダーバーグ映画らしからぬセンチメントが漂っている。

 たとえば同性婚やカミングアウトが議論されるとき、同性愛はセックスの嗜好に過ぎないのだから、表立って語られるものではないと言われるときがしばしばある。しかしそれはひどい話で、「セックス以外」の同性愛者たちの生活だって当然あるわけである。欧米で有名無名を問わずにゲイたちがカミングアウトを続けるのは、セックス以外の……いや、セックスを含めた人生について、次の扉を開くためだ。そしてそれは、自分の人生だけに向けたものではない……けっして出会うことのない同性愛者たちのクローゼットの扉さえも開くことにもなる。 ヘイト・クライムであるとか、シャレにならない現実だってあるわけだし。
 さて日本では、ブレイディみかこさんが『アナキズム・イン・ザ・UK』の「ミッフィーの×と『初戀』」の項で引用している岩佐浩樹氏の発言の通り、「日本で暮らしているとどうも、社会的にはクローゼットなままで「なんとなく」ゲイでも大丈夫っぽい、という薄気味悪い感じがある」。わかりやすく目に見えるホモフォビアもないが、だからと言って10代の少年がクラスメイトにカミングアウトできるような社会とはほど遠い。昨年のフランク・オーシャンのカミングアウトに胸を打たれて以来僕はずっとその理由について考えているが、回答はまだしばらく見つかりそうもない。……ないのだがしかし、この映画のマイケル・ダグラスの悟ったような慈愛に満ちた笑顔を見ていると、リベラーチェの亡霊がクローゼットに消えた魂を引き連れて、やがて「ここ」にやって来るような気がしてくるのである。

予告編

Young Echo - ele-king

 これはブリストル・トリップホップの最新型ですよ。マッシヴ・アタックが、トリッキーが、ポーティスヘッドが、ブリストルのミームが新世代によってアップデートしている。ひとつのコレクティヴにいろいろな才能が集結しているという点では、ワイルド・バンチ/マッシヴ・アタックの現代版と言えばいいのかもしれないけれど、とにかくヤング・エコーときたら、複数のメンバーによる多様な個性が絡み合い、まったく素晴らしい混乱を創造する。アルバムには、ダブステップ、グライム、〈トライ・アングル〉系の薄気味悪さ、インダストリアル・ミニマルの陶酔からダーク・アンビエントにいたるまで、ここ数年のアンダーグラウンド・ミュージックの良いところを全部持っていっている。もちろんブリストルらしくダブもある。過去を受け継ぎながらリフォームし、躍進する。さまざまなフォームが混ざっているので、間口は広い。
 そして、ハイならずにハイになる、ステイ・ロウの美学も……。景気後退を受けながら、『NME』はキング・クルエルのレヴューに次のような言葉を書いている。「先細りする雇用と増える負債の、UKの緊縮財務下で育った幻滅した世代がいる。怒るのは簡単だし、悲しむのはさらに簡単だ」
 ただ闇雲に悲しみを表現されるだけでは満足できないというリスナーの心情をここに読み取るのなら、ヤング・エコーの『ネクサス』には怒りでも悲しみでもない何か別の感情がギシギシ音を立てていると言えるかもしれない。いや、しかし、やはりこれは怒りだろう。かつてジャーヴス・コッカーは、ブレア政権を「コカイン社会主義」なんて言葉で揶揄したものだが、この音楽はどう考えても、多幸的で、イケイケで、アッパーな文化に対する一種の抗いだと思える。敢えて叫んだり、怒鳴ったりしない、それがブリストル・トリップホップのマナーというものだろう。

 ヤング・エコーは、昨年〈トライ・アングル〉からアルバムを出したヴェッセル(Vessel)、ヴェッセルとともにキリング・サウンドとしても活動するジャブ(Jabu)、メンバーのなかでもっとも多作で〈ディープ・メディ〉からも作品を出しているカーン(Kahn)、ペヴの〈パンチ・ドランク〉から出しているズー(Zhou)、注目レーベル〈Peng Sound〉から出しているイシャン・サウンド(Ishan Sound)らがメンバーにいる。ヴェッセルはテクノよりで、ジャブはダブより、カーンはグライムよりだったり、同じポッセながら個々の作風は違っている。詳しく知りたい方は、下北沢ZEROの飯島店長に訊いて下さい。僕も2年前に店長に薦められてヴェッセルの1枚目を買ったのが最初だったけれど、この2年のあいだにこのコレクティヴはさまざまな掛け合わせを繰り返しながらとんでもない発展を遂げていたのだ。
 ロール・ディープ・クルーのフローダウンも参加しているカーンの2枚組12インチ「カーンEP」(DLコード入り)は、トリッキーの最高の瞬間を受け継いでいるように思える(https://soundcloud.com/blackbox-boxclever/kahn-snake-eyes-feat-jabu/s-na48b)。ジャブの7インチは、マッシヴ・アタックの美学がポスト・ダブステップにおいて展開されている。いったい、何がどうしてこうなったのか、次号の紙エレキングでは、小特集を組む予定。ブリストルのニュー・スクール、いま注目すべきシーンのひとつではないだろうか。

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