Home > Reviews > Film Reviews > 恋するリベラーチェ
2010年代前半は、多くの同性愛者たちにとって激動の時代であったと……のちに振り返られることになる予感がする。英米仏をはじめとる、同性婚の是非の議論、あるいはロシアやウガンダでの同性愛者弾圧とそれに対する抵抗運動など、話題に事欠かないからだ。まあ、日本はそこから取り残されているわけだが……、ひとまずここでは、そんな時代を象徴する1本のアメリカ映画について取り上げよう。
今年はスティーヴン・ソダーバーグ監督作品の当たり年で、日本で公開されるのは『マジック・マイク』、『サイド・エフェクト』、そして本作『恋するリベラーチェ』で3本目であり、そしてそれらすべての水準が高い。テクニックは抜群ながらもどうにも器用貧乏に見えなくもないソダーバーグだが、劇場映画の監督を引退すると表明してから開き直ったのだろうか(本作はテレビ映画であり、今後は拠点をそちらに移すらしい)、なかなかどうしてここのところ悪くない。いや率直に言って、面白い。
『チェ』二部作以降辺りからソダーバーグはアメリカの近現代史を様々なアングルで捉えているようなところがあり、たとえば『チェ』は資本主義の揺らぎをアメリカの国内外から同時に映したような作品であったし、『ガールフレンド・エクスペリエンス』はリーマン・ショックを擬似的なドキュメンタリーのようにしながら後景にし、『インフォーマント!』では企業社会と資本主義の歪みを、『コンテイジョン』ではグローバリズムと格差を取り上げ、『エイジェント・マロリー』……は置いといて、『マジック・マイク』は高度資本主義社会に「それでも」乗る人間と降りる人間との分岐を、そして『サイド・エフェクト』は精神疾患さえも市場に飲み込まれていく様を描いていた。そして程度の差はあれどすべての作品において、冷たい肌触りが貫かれている(なかでも『コンテイジョン』の冷徹さは出色)。
本作『恋するリベラーチェ』は1950~70年代に絶大な人気を博したステージ・ピアニスト、リベラーチェのプライヴェートを描いており、すなわち彼と同性の恋人との愛憎に満ちた年月についてを映し出している。同性愛者の人生をテーマにしたのはそれがアメリカにおいてタイムリーであるからに違いなく、さらにそのなかでもリベラーチェを選んだところにソダーバーグの利口さが見える。ユーチューブなどで検索すればいくつか出てくるだろうが、彼のステージというのがまずとんでもない。宝塚歌劇団以上に絢爛な衣装を身にまとい、舞い、そしてそれ以上ないほどデコレートされたピアノの鍵盤を叩きまくる。その派手なステージングによって悪趣味の代名詞ともされたリベラーチェだが、この映画を観ると、彼自身そのことを自覚した上で楽しんでいたようである。宮殿のような邸宅での、虚飾にまみれた日々も含めて。
しかし同性愛者であることを、彼は楽しんでいなかったようだ。いや、もちろん、好き放題のセックスはつねにそこにあった。が、それはあくまでクローゼットな愉しみであって、徹底して彼はゲイであることを世間に隠していた。ここでは、おばちゃんみたいなカツラをかぶるマイケル・ダグラスとムッチムチのマット・デイモンの奇妙な、しかしごく真っ当な蜜月の日々とその破綻が語られていく。そして映画の後半、デイモン演じる恋人と裁判沙汰になるとき、ふたりの生活は婚姻関係と同質のものであったと振り返られる。さらに時が過ぎ、エイズがアウティング(性的志向を当事者以外が暴露すること)する彼の秘密……。すなわち、この映画では現代に至るまでの同性愛者たちの前史が、いくらかの感傷とともに確認されていくのである。ごつい指輪をいくつもはめたリベラーチェの姿がどれだけ下品で悪趣味であろうとも、そうして死んでいく彼の姿は、自らのアイデンティティを封印したまま刹那的な性行為を重ね、歴史の隙間に消えていった数多の同性愛者たちと何ら変わらない。だからだろうか、映画の終わりはソダーバーグ映画らしからぬセンチメントが漂っている。
たとえば同性婚やカミングアウトが議論されるとき、同性愛はセックスの嗜好に過ぎないのだから、表立って語られるものではないと言われるときがしばしばある。しかしそれはひどい話で、「セックス以外」の同性愛者たちの生活だって当然あるわけである。欧米で有名無名を問わずにゲイたちがカミングアウトを続けるのは、セックス以外の……いや、セックスを含めた人生について、次の扉を開くためだ。そしてそれは、自分の人生だけに向けたものではない……けっして出会うことのない同性愛者たちのクローゼットの扉さえも開くことにもなる。 ヘイト・クライムであるとか、シャレにならない現実だってあるわけだし。
さて日本では、ブレイディみかこさんが『アナキズム・イン・ザ・UK』の「ミッフィーの×と『初戀』」の項で引用している岩佐浩樹氏の発言の通り、「日本で暮らしているとどうも、社会的にはクローゼットなままで「なんとなく」ゲイでも大丈夫っぽい、という薄気味悪い感じがある」。わかりやすく目に見えるホモフォビアもないが、だからと言って10代の少年がクラスメイトにカミングアウトできるような社会とはほど遠い。昨年のフランク・オーシャンのカミングアウトに胸を打たれて以来僕はずっとその理由について考えているが、回答はまだしばらく見つかりそうもない。……ないのだがしかし、この映画のマイケル・ダグラスの悟ったような慈愛に満ちた笑顔を見ていると、リベラーチェの亡霊がクローゼットに消えた魂を引き連れて、やがて「ここ」にやって来るような気がしてくるのである。
予告編
木津 毅