「P」と一致するもの

interview with Laraaji - ele-king

 去る9月、ヴィジブル・クロークス以降のニューエイジ・リヴァイヴァルともリンクするかたちで、すなわちある意味ではベストとも言えるタイミングで単独初来日を果たしたアンビエント~ニューエイジの巨星、ララージ。そのこれまでの歩みについてはこちらの記事を参照していただきたいが、往年のファンから若者までをまえに、いっさいブレることなく独特の静謐なサウンドを披露してくれたララージ本人は、現在いくつかの位相が交錯しそのもともとの意味がよくわからなくなっている「ニューエイジ」という言葉について、どのように考えているのだろうか。興味深いことに彼は取材中、何度もそれが「実験」であることを強調している。つまり? 鮮やかなオレンジの衣装を身にまとって現れた生ける伝説、彼自身の言葉をお届けしよう。

ニューエイジは、ナウエイジという言い方もできる。「now」というのは「new」な状態がずっと続いているということだ。いまというこの瞬間が続いている状態が「new」なんだ。古くならないということだね。

いつもオレンジの衣装を身につけていますが、その色にはどのような意味があるのですか?

ララージ(Laraaji、以下L):私は太陽の色と呼んでいる。80年代の頭ころ、実験的にというか無意識にこういう色を着ることが多くなっていったんだ。私のスピリチュアル系の先生が言ってくれたことがあって、70年代くらいからこのサンカラーは、自分の内面を表出させる「イニシエイション」の色なんだそうだ。そもそもこの色には「炎」とか「自分を変える(トランスフォーメイション)」という意味合いもある。太陽が沈むことによって古い自分が滅し、太陽が昇るときに新しい自分が生まれる――そういう生まれ変わり、更新みたいなことを意味する。太陽の色にはそういう効果があるんだよ。それともうひとつ、自分が務めるサーヴィス、仕える自分としてのユニフォームでもある。真の自分、もしくはその周りの他の人たちのほんとうの姿に仕える自分だね。

そういったことを考えるようになったのはやはり、70年代に東洋の神秘主義に出会ったことが大きいのでしょうか?

L:東洋哲学に出会ったことで、それをどういうふうに実現していけばいいか、よりフォーカスを絞れた側面はあると思う。そもそも私はバプテスト教会育ちで、「ジーザスとは?」というような環境で育っている。ジーザスこそが理想だから、「ああいうふうになりたい、ああいう良き存在になりたい」と思って育ってきた。「良き存在」とはどういう存在かというと、周りの人のスピリットを昂揚させて昇華させてあげられるような、飛翔させてあげられるような、そういう存在になりたいということだけれども、それは人を笑わせることでもできる。それでコメディとか、役者の道を考えたりもしたんだが、70年代に具体的にメディテイションとか東洋哲学とかメタフィジックス(形而上学)みたいなものに出会い、それを知ることによって、もっと大きなスケールで何かを実現したり、人の魂を軽くするようなことができるんじゃないかと思うようになった。思考科学(サイエンス・オブ・マインド)とか、ポジティヴなものの考え方(ポジティヴ・シンキング)とか、そういうものをより追求するようになって、「これは音楽でもできるんじゃないか」と思うようになった。それでそのふたつの考え方にもとづいて音楽をやっていたらイーノとの出会いがあって、どんどん世界が広がって、繋がっていくことになるんだ。さきほど「他の人たちへのサーヴィス」という言葉を使ったけれど、「音楽で何か人の役に立つことができるんじゃないか」と思って活動していくなかで、ヘルプを求めている人が向こうから寄ってくるようになってきたんだ。それが私の音楽活動の流れだね。

現在の技術をもってすれば、たとえば車のなかでも大聖堂で聴いているような響きで音を楽しむことができる。ニューエイジとは、そういう新たなリスニング経験ができる時代という意味だ。

これはもう何度も訊かれていることだとは思いますが、あらためてイーノとの出会いについて教えてください。

L:私は当時プロデューサーを探していた。自分の音楽を導いてくれる人が欲しくてね。じつは当時はイーノの名前も知らなかったんだ。1978年、ニューヨーク・シティのワシントン・スクエア・パークで私は、目をつぶって、蓮座に脚を組んで、エレクトリック・チターを弾きながら、その音をパナソニックの小さなアンプから出して、演奏をしていた。演奏が終わると、チターのケースに入っているお金を数えた。一枚だけ、お金ではなくてメモが入っていた。読んでみると、それがイーノからの誘いの手紙だったんだ。いま自分は近くのヴィレッジに住んでいて音楽を作っているから訪ねてこい、と書いてあった。「一緒にやりたい」という趣旨のことが書かれていた。それでじっさいに行ってみた。1、2時間そこで話をしたんだけれど、アンビエント云々という話になったときに、私はそれがなんなのかまったくわからなかった。しかし一緒にやったらおもしろそうだとは思ったので、スタジオに入って、実験的にやってみることには合意した。その結果として生まれたのが、『Day Of Radiance』だった。

あなたの音楽もアンビエントと呼ばれることがありますが、それについてはどう思います?

L:それを拒絶するつもりはないよ。それでマーケティングがうまくいくなら、レコード会社が「それが良い」というなら、「どうぞ」と思う。私が音楽をプレイするときは、自分が置かれている環境に浸りきる。一緒に音楽を聴いてくれているリスナーが、音の鳴っている環境に自分を没入させるとでもいうのかな。そういうことができる音楽だという意味では、アンビエントという定義に合致するのかなとは思う。たぶん私がやる音楽は、聴こうと思って聴かなくてもその場に身を置くだけで何かが感じられるタイプの音楽だと思う。夢を見ているような感覚になるかもしれないし、もしかしたら聴きながらクリエイティヴな思想を巡らす人もいるかもしれないし、あるいは何も考えない無の状態になる人もいるかもしれない。そういうふうに、音の鳴っている環境がその人になんらかの影響を与えるというのがアンビエント・ミュージックであるならば、そういう意味においてアンビエントと呼ばれることはたしかにそうだと思う。けれども、もし自分で呼ぶのであれば、「美しいインプロヴァイゼイション音楽」、もしくは「実験的で神秘的な音楽」、そういった呼び方になるね。

他方でニューエイジと括られることもありますよね。その言葉についてはどうですか?

L:ニューエイジについては、「新しいリスニング体験ができる時代」という意味で捉えている。いまのテクノロジー、技術的な進歩によって可能になった、自分たちの耳で捉えることのできるサウンドのテクスチャーとか新たな聴き方があると思う。たとえば、みんな車のなかで聴いたり家で聴いたりすると思うけれど、より良い音でより良いテクスチャーでその音を体験できる時代がいまはある。それがニューエイジだと、私は思っているよ。その意味においてならニューエイジは(私の音楽に)あてはまる。それはいまは、もしかしたら耳だけではなくて身体で感じる音楽になっているのかもしれないし、トランスを感じさせてくれるようなものという意味なのかもしれない。たとえば現在の技術をもってすれば、車のなかで聴いていても、カテドラル(大聖堂)で聴いているような響きで音を楽しむことも可能だろう。そういう新たなリスニング経験ができる時代という意味だね。
 他方でニューエイジは、「ナウエイジ」という言い方もできるかもしれない。ようするに「いま」という時間がどこまでも持続するようなリスニング体験ということで、それを可能にしてくれる音楽に使われるのがドローンだったり、空間を活かした音作りであったり、いわゆるアンビエントと呼ばれる音楽だったりするわけだ。この音楽を聴いていると「いま」という時間が永遠に続くような感覚を味わわせてくれる。ナウエイジ・ミュージックというのも私の音楽にあてはまる言葉なのかもしれないね。

その永遠に続くかのような「いま」というのは、鳴っている音を聴いている(瞬間的な)「いま」ということでしょうか? それとも、もうちょっと広い意味での「いま」ということでしょうか?

L:「new=now」というか、いまというこの瞬間が続いている状態が「new」なんだと思う。古くならないということ。その状態を可能にしてくれるメディテイションとかトランスというものがあって、その間に味わっている「いま」というこの瞬間のことだ。それが永遠にずっと続いていくような感覚。でもじつを言うと、「new」も「now」も人間が作ったものではなくて、自然界のなかにすでに存在している、内蔵されている音の周波数みたいなものなんだ。精神性だよね。「now」というのは「new」な状態がずっと続いていること。そういう意味において、私の言うニューエイジ、ニューエイジ音楽というのはコマーシャルなニューエイジ音楽とは別物だね。私の言っているニューエイジは、それがロックだろうがジャズだろうが、あるいはまったく異文化の音楽でもよいんだけれども、たとえば西洋の人がはじめてガムランを聴いて体験したときに、まったく新しいと思うその感覚、それこそがおそらく私の言いたいニューエイジなのだと思う。
 たとえば、ある音楽でぜんぜん知らない意外な昂揚感を味わったとする。自分の身体から魂が離脱するような感覚を味わったり、それまで知らなかったヒーリングの感覚を味わったり、思いも寄らないイメージが自分のなかに沸いてきたり。そういうことをはじめて味わわせてくれる音楽があるとすると、その「はじめて」「新しい」という感覚がずーっと持続することこそが私の目指すニューエイジ音楽なんだ。他方ではコマーシャルなニューエイジ音楽というのもあって、それはそのときだけ新しければいいから、来月は違うものが、来年はまた違うものがニューエイジになっていく。ひるがえって私の音楽には、その新しい「いま」という感覚が永遠に続くトランス感やドローン感みたいなものがある。そういう意味でのニューエイジだ。ヒーリング体験にもいろいろあると思うが、既存のありがちなヒーリング体験でも、伝統的なヒーリング体験でもない、新しい癒しの体験を与えてくれる音楽だ。

レコード店がラベリングするようなコマーシャルなニューエイジにはある種の現実逃避というか、つらい現実から逃げる手助けをしてくれるようなニュアンスが負わされていることもあると思いますが、あなたのニューエイジにそういう側面はない?

L:そういった逃避的なものを提供するニューエイジ音楽は背骨のない音楽だね。ようするにオルタナティヴなクラシック音楽とか、あるいは実験的なクラシック音楽とか、いろいろな呼ばれ方をするクラシック系の音楽もそういう棚に並んでいると思うけれど、そこで作り手のミュージシャンに「ぜひこれをみんなに伝えたい」という強い思いがあれば、それはそれなりの音楽として表れるだろう。たとえば「ニューエイジ」という名前にカテゴライズされていなくても、ジャズ系の人で本当にヒーリングの力のあるコンテンポラリーな音楽を作っている人はいる。ただそういう人たちがやっていることは、「ニューエイジ」というオブラートに包んだような、安全な感じのする響きでみんなが安心して聴けるような、そういう音楽としてはみんなが認めていないのだろうね。「ニューエイジ」からは、「けっして洗練された耳を持たなくても、誰でも安心して楽しめる音楽ですよ」というようなニュアンスを私は感じる。私の言うニューエイジとは、ほんとうにチャクラからみなぎるエネルギーだったり感情だったり、そういったものに真に根差した音楽で、聴き手がアラスカの人だろうが台北の人だろうが理屈ではなく訴えかけてくるものを理解できる、そういう音楽のことだから、「ニューエイジ」の棚に行っても見つからないかもしれない。「ニューエイジ」の棚で見つかるのはまたべつの種類のものなんじゃないかな。

あなたの音楽にはそのときそのときの時代や社会の状況が映し出されていると思いますか?

L:答えはイエスだね。ただ、そうだな……時代そのものというよりも、時代にたいして自分がどうレスポンスしたいかという気持ちが表れているんだと思う。だから、ものすごく過激な時代であれば、私は逆に、自分の音楽でみんなをもっとリラックスするほうへと導いてあげたいと思う。そのような表れ方だね。

ということはやはり、あなたが活動してきた40年間は過激な時代だったということでしょうか?

L:たぶんそういうことだと思う。過激というのにもいろいろあると思うが、私が最近とくに思うのは、とにかく情報過多ということだ。みんなが歩きながらつねにiPhoneを見ているような状況がある。そうするとインフォメイションが一気にガーッと頭のなかへと流れ込んでくる。そういう時代だからこそ、音楽を聴いているときくらいは軽やかに、余裕のあるシンプルな気持ちになってもらいたい。音楽を作るときの私の目的は、そういった日常や世界の慌しさからシフトさせてあげられるような、そういうものを提供したいんだ。

みんなが歩きながらつねにiPhoneを見ている。情報が一気に頭のなかへと流れ込んでくる。そういう時代だからこそ、音楽を聴いているときくらいは軽やかに、余裕のあるシンプルな気持ちになってもらいたい。

これまでいろんな相手とコラボしてきましたが、2010年代に入ってからはとくに若い世代とのコラボが活発になった印象があります。また、10年代にはあなたの作品が数多くリイシューされるようにもなりました。なぜいまそのようにあなたの音楽が求められているのだと思いますか?

L:そういう話を振られるまで自分では考えたこともなかったな。おそらく私の初期の作品はイノセントで、いろいろと無邪気に探訪していた時代の作品だから、それがいまの若者の気分に合致するんじゃないかな。その罪のなさだったり遊び心だったり、あるいは当時はまったく洗練された機械を使っていなかったから、その垢抜けない感じだったり……言うなればトイ・ミュージック、楽しいおもちゃのような音楽だったからね、それがいまの20代や30代頭くらいの、いろんなことを疑問に思ったり問いかけたりしている世代の人たちにとって安心感があるというか、そういう人たちの気持ちに訴えたということなのかもしれない。私が「自分は何者なのか?」ということを探りあぐねていたころの音楽、それがぴったりくるというのはわかるような気がするね。あの頃の私は既成概念にとらわれず、「こういう音であるべきだ、こういうテクニックを使うべきだ」と言ってくるような権威にたいして、やんわりと反発しながら音楽を作っていて、箱からはみだしたいという思いがあった。その結果としての実験性だった。

いまでも音楽を作るうえで何かに反抗することはありますか?

L:そう言われてみると、いまは外に対して反逆・反抗するというより、自分のなかにガイダンスを求めるという状況になっているから、それが若い人たちに伝わっているのかもしれないね。私はつねに音楽をとおしてより高い導きを与えるということをやっているつもりだから、何を信じてよいかわからなかったり次の段階に進むにはどうしたらいいのか迷っていたりする人たちに、それが伝わるのかもしれない。私の求める高次のガイダンスのようなものが、音楽をつうじて彼らに伝わっている、それが若い人たちに喜ばれる理由かもしれないと、いま思ったよ。私自身は現在、何かに対して反抗するということは考えていない。むしろ自分のなかで、「より革新的でありたい」とか「実験的でありたい」とか、あるいはそのためにリスクを負うとか、そういうことを追求しながら音楽を作っている。洞察というべきかな。そういういま私のなかで起こっていることが、音楽をとおして若い人たちに訴えかけているということなのかもしれないね。

マシューデヴィッドの〈Leaving〉から音源がリイシューされたり、カルロス・ニーニョやラス・Gと仕事をしたりと、最近はLAシーンとの接点が目立つ印象があります。

L:LAというより、カリフォルニアかな。それらはどれも、私がライヴでカリフォルニアへ行って、そこで出会った人たちとの話のなかからはじまったプロジェクトなんだ。フレンドリーで、ほんとうに居心地のいい仲間たちだよ。気づいたらそうなっていたという感じだね。私から頼んだことはない。コンサートを見た人たちからEメールが来るようになって、という感じだな。

近年の作品ではサン・アロウとの共作がけっこう好きなのですが、それも自然ななりゆきではじまったものだったのでしょうか?

L:あれはツアー中のライヴ録りなんだよ。キュー・ジャンクション(Qu Junktions)が組んだツアーだったんだけれど、サン・アロウと一緒にまわっている最中に録った音源から良いところをとって作ったアルバムだ。

昨年はブラジルのサンバ歌手、エルザ・ソアーレスをリミックスしていましたね。

L:BBCで一緒にやったやつだな。スタジオの手配だった。実験プロジェクトのなかで一緒にやったものだ。インターネット配信で……ちょっと番組の名前が思い出せないが、BBCがアーカイヴしている。

最近注目しているアーティストや作品はありますか?

L:エリック・アーロン(Eric Aron)という人の作品。それとスティーヴ・ローチ(Steve Roach)、ジョン・セリー(Jonn Serrie)。エリックとジョンは、シンセサイザーの使い方が、自分がそのなかに身を置いていると気持ちが良くて、それにすごく冒険心がある。先見の明があるような気がするんだ。

長いあいだ音楽を続けてきて、機材だったり考え方だったりいろいろ変化した部分もあると思いますが、40年間あなたの音楽に一貫しているものはなんでしょう?

L:冒険だね。求める、探求する旅。本来の自分の姿をより深く知りたい、その思いで音楽を作っている、その旅、クエスト、これはずっと変わっていないと思う。そのために、静かな部分とか、いまを持続させるとか、そういうことを意識しながらやっていて、それはむかしから変わらないと思う。

 ちょっと感動的なセリフがあった。博物館の学芸員がヴィヴィアン・ウエストウッドのコレクションを差して「この服には歓びがあふれている」と解説したシーンである。パンク・ロックをそのような視点で見たことはなかった。厳密にいうと学芸員が指差したのはパイレーツ・ファッションで、パンク・ファッションではなかったけれど、ヴィヴィアン・ウエストウッドがデザインを手がけた時期としては近い時期のものであり、このドキュメンタリーでも初期のものはひとまとめにされ、とくに区別されているようにも思えなかった。これまで僕はパンク・ロックから「怒り」や「悲しみ」を感じ取ることはあっても「歓び」というキーワードを絞り出すことはなかった。でも、考えてみればそうなんだよな。ボディマップやパム・ホッグといったニュー・ウェイヴのファッション・デザイナーたちは明らかにヴィヴィアン・ウエストウッドから「歓び」を受け継いでいる。パンク・ファッション=コンフロンテイション・ドレッシングから「怒り」や「悲しみ」を引き継いだファッション・デザイナーもいたのかもしれないけれど、どちらかというと僕の目はレイ・ペトリのバッファロー・スタイリングやスローン・レンジャーとして語られるダイアナ妃に向いていた。ボディコンやカラスよりもロンドンのファッション界に多大なインパクトを残して33歳で夭逝したリー・バウリーの方が派手で面白そうだったし、それこそ僕が「歓び」に反応していた証拠だったということになる。ウエストウッド自身が、そして、「バック・トゥ・ヴィクトリア」という伝統回帰へ反転してしまった経緯はここでは語られない。それはファッションのみならずイギリスの文化史にとって大きな転換点をなすものだったと思うのだけれど、ヴィクトリア回帰は誰もが当然のことといった調子でドキュメンタリーは進められていく。それどころか、「セックス・ピストルズについて語るのは辛い」といってウエストウッドは、しばし、口を噤んでしまうのである。え、もしかしてパンクについてはウエストウッドは語らないのかと、僕はちょっと焦ってしまった。

 話を戻そう。パンフレットによると、ヴィヴィアン・ウエストウッドというのが「人の名前だとは知らなかった」という若い人もいるらしいし。
 ローナ・タッカーによるドキュメンタリー・フィルムは労働階級出身のヴィヴィアン・イザベル・スウェアが平凡な結婚生活に「知的な欲求が満たされない」といって別れを告げるところから始まる。部屋の中央に座らされたウエストウッドは最初の結婚相手だったウエストウッド姓をそのまま名乗り続けることになるものの、あらゆる回想についてどこか面倒臭げであり、著名人にありがちな「前しか見ていない」というクリシェで覆い尽くされている。それこそ聞き飽きた台詞である。しかし、そうは言いながらウエストウッドはしっかりと過去を回想し始める。ここは監督の粘り勝ちなのだろう。パンク・ロックについても結局はウエストウッドは細かいことも語り尽くす。雇った人やどのようにしてブティックを運営していたかという側面から語られる「レット・イット・ロック」や「セディショナリーズ」の話はリアリティがあって、これまで「伝説の」という浮ついた接頭辞がお決まりになっていた世界から固定観念をあっさりと解放してくれる。そして、それはある意味、現在のワールドワイドになったウエストウッド・ブランドまで地続きの話にもなっている。自分の目の届かない範囲まで店の規模を大きくしたくないというウエストウッドはなぜか日本とはライセンス契約を結び、中国への出店は計画段階で自分で潰してしまう。ヴィヴィアン・ウエストウッドが大企業の傘下に入らず、インディペンデントを貫いているからできるのかもしれないけれど、このドキュメンタリーでは金の流れも明快に説明されていく。パンク・ファッションで注目された後、1985年には子どもを育てる金がなくて生活保護を受けなければならなかったという説明ともそれは対応し、なんというか、最後まで観ると、お金がなさすぎることもありすぎることもこの才能を潰せなかったんだなという感慨が僕には残るしかなかった。同じくイギリスの靴職人であるマノロ・ブラニクのように産業とはかけ離れた次元で靴を作っていられれば楽しいというスタンスともぜんぜん違う。ウエストウッドは、だから、芸術家というのともちょっと違うのではないか。


 しかし、このドキュメンタリーでもっと驚いたのは夫であるアンドレアス・クロンターラーとの関係や、ケイト・モスが最後にほのめかすLGBT的な世界観だろう。この辺りは観る人の楽しみにしてもらいたいので、ここでは省略。あまりにも内容が多岐に渡るので、なるほどパンク・ロックのことを省略しても話は成り立つのだなと思うけれど、後半部分では、さらにウエストウッドの政治活動に焦点が当てられていく。アクティヴィストのウエストウッドが大きな関心を払っているのが環境問題で、グリーンピースと共に南極の氷を視察に行き、ロンドンのパラリンピックで保護を訴える垂れ幕を掲げ、シェールガスの掘削に抗議してキャメロン首相の別荘に戦車を乗り付ける(パンフレットには首相官邸とあるけれど、これは誤り。シェールガスの掘削に関してはハッピー・マンデーズのベスもこれを阻止しようとして議員に立候補したことがあった)。そして、なにげないシーンだったけれど、70代後半という年齢にもかかわらずウエストウッドは自動車を使わず、自分の店から自転車で帰っていく。カメラが回っている間はずっと不機嫌で威張りちらしているイヤなババアだけれど、自転車で走っていくシーンにはさすがに参りましたというしかなかった。この作品、原題は「パンク、アイコン、アクティヴィスト」なんだけれど、できれば「戦車と自転車」にして欲しかったなーという感じ。
 ちなみに『戸川純全歌詞解説集 疾風怒濤ときどき晴れ』を編集している時に「初期パン」という単語は読者に分かりづらいので「初期パンク」に直していいですかと戸川純さんに訊いたところ、「初期パン」だけは譲れないと言われてそのままにしました。「初期パン」、すなわちヴィヴィアン・ウエストウッドである。

『ヴィヴィアン・ウエストウッド 最強のエレガンス』予告

My Penis is Made of Dogshit - ele-king

 ウータン・クランの『Once Upon A Time In Shaolin』は音楽の大量消費に抵抗するため1部しかコピーがつくられず、これが美術品としてオークションにかけられるというリリース形態を経たのち、2億円で競り落とされたことはヒップホップ・ファンならよく知るところだろう(複製をつくってもいいのは88年後だとか)。誰も聞いたことがないから定かではないけれど、同作にはシェールのようなミュージシャンだけでなくFCバルセロナのサッカー選手だとか、様々なゲストが参加しているらしく、174ページに及ぶブックレットも付いているという。ファレルの曲が1億円で売り買いされていることを思うと2億円というのは意外と安いのかなとも思うけれど、これを競り落としたのはマーティン・シュクレリという人物で、『Once Upon A Time In Shaolin』を競り落とした翌年に証券詐欺罪でFBIに逮捕され(懲役7年)、彼が経営する製薬会社が開発した薬の製造権をあまりにも高く設定したことで「アメリカでもっとも憎まれている男(the most hated man in America)」と呼ばれる起業家である。高校中退以降の学歴も定かではなく、その後はトレーダーたちが興味を惹かれるエピソードにも事欠かない。「強欲の典型(poster child of greed)」を自称しながら、バーニー・サンダースの思想には共鳴しているとして多額の寄付も行っている。シュクレリはカニエ・ウエストによる形を変えていくアルバム『The Life of Pablo』も10~15億円で単独所有権を得たいと持ちかけたそうで、先の大統領戦においてはもしもヒラリー・クリントンが当選すれば『Once Upon A Time In Shaolin』を叩き割り(このアルバムにはバック・アップ・データが存在しない)、ドナルド・トランプが当選したらフリーダウン・ロードですべて公開すると発表したものの、実際にトランプが当選しても1曲しか公開はしなかった。この、あまりに不可解で現代的な人物をテーマにしたのがマイ・ペニス・イズ・メイド・オブ・ドッグシット(あえて訳しません)の新作である。ニューヨークを起点とするロー・ファイ・ジャズ・バンド……とひとまずは分類しておこう。

 前衛音楽にあまり理解がない僕としては彼らの初期作は正直、聴くに耐えない。ガチャガチャいってるだけでうるさいだけだし、中には1秒しかない曲とかはやめて欲しいし。ただし、タイトルにはユニークなものが多く、「イエスは遠くで高笑い」「巨大な皮下注射器によってソドム化されつつ、銃口でサンタクロースを楽しませなければならないG・G・アリン」「君はこの曲をスポティファイで見つけることはできない」「グレン・フライは死んだけど、イーグルスのその他大勢はまだ生きている」と挑発的なものしかなく、曲名の90%以上にはブラック・メタル仕込みの「サタン」という単語が入っている(「ケンドリック・ラマーは退屈だ」というのも悪魔主義に由来するのだろう)。あるいは『Satan's Pregnant Again』がいきなり女性ヴォーカルをフィーチャーしたフォーク・ソング集だったりして途中から音楽的脈絡もなくなってしまい、2013年に『The Essential My Penis Is Made Of Dogshit』として初期作をまとめた後、現代音楽のカヴァー集『My Penis Is Made Of Dogshit Plays The Modern Classical Greats』をリリースしたあたりから様相が変わりはじめる。同作の1曲目はジョン・ケージでおなじみ“4分33秒”で、しかしこれは無音でもなんでもなく、2曲目のテリー・ライリー”In C”もだいぶ前衛的に崩していて、どことなく昨今のミュジーク・コンクレート回帰をバカにしているムードが漂いはじめると、ギャビン・ブライアーズ”Jesus' Blood Never Failed Me Yet”、スティーヴ・ライヒ”come out”と現代音楽を次から次へとスカムでトラッシーな世界観へと投げ込んでいく。そして、トニー・コンラッド”Early Minimalism”はややシリアスながら、ラストの“The Sinking of Titanic”ではついに奇妙なまでの抒情さえ立ち上がってくる。ロシアで新たに起きているナショナリズムの台頭を扱ったチャールズ・クローヴァーによる著作のサウンドトラックだという『Santa Gets An Abortion』ではクリスマス・ソングや「禁じられた遊び」などポップ度を増し、一見正統派のジャズに取り組んだ『Satanic Jazz』にはもはや戸惑うしかない。そのようにして少しずつ存在感を高めていった時期に平行して勝手に『LateNightTales』と題してロバート・ワイアットやハイプ・ウイリアムズ、カエターノ・ヴェローゾやオノ・ヨーコの曲を配信したり、同『Vol. II』ではペンギン・カフェ、カン、ビル・ドラモンド、チャーリー・パーカーをピック・アップし、後にはやはり勝手に『DJ-KiCKS』と題してアクトレスやムーディマン、マウス・オン・マースやダイアナ・ロスの曲をDJミックスしてバンドキャンプに上げているのは大丈夫なんだろうかという心配も。スポティファイにはこの年末にSZAのデモやクイーン・カーターの名義でビヨンセの曲がありもしないアルバムとしてアップされて騒ぎとなったばかりなので、ストリーミング時代における著作権をどう考えるかというアート的な問いかけなのかもしれないけれど(?)。

 そう、2015年にリリースされた『Anal Fissures』は酔っ払いの鼻歌のような「悪魔にはお酒が必要」で始まり、アートといえばなんでも許されるのかというような曲が並び(つーか、基本的には会話ばっかり)、2016年の『Eternal Cuck』ではネオ・アコとスカムのクロスオーヴァーへと舞い戻り、この人たちのやりたいことはどうもわからないと思っていたところにフィジカル・オンリーでリリースされた『The Crucifixing Aidsrape of Martin Shkreli』がとんでもなかった。イントロとアウトロのようにして短い曲「マーティン・シュクレリの悪魔的な呼び出し」と「マーティン・シュクレリの愉快で凄絶な死の後に訪れる世界の治癒」が置かれてはいるものの、メインとなるのは80分近い「マーティン・シュクレリの命運が尽きる時、6台か7台のピアノを使って悪魔がマーティン・シュクレリを磔にする」で、これはタイトルにある通り、複数のピアノが美しくもどこか不協和音を響かせながら、不条理なムードを延々と奏で続けていく。いわゆる無調音楽というやつながら、時にドラマティックな高揚があり、めくるめく高音の乱舞にはシェーンベルグがバリアリック・ミュージックを作曲したようなイメージの退廃と狂気が横溢し、先にあげた『DJ-KiCKS』に“スエーノ・ラティーノ”のデリック・メイ・リミックスをミックスしていたことがなるほどと思えるような曲になっている。それこそパク・チャヌクの作品に通じている方はオムニバス映画『美しい夜、残酷な朝』で彼が展開した拷問シーンの美しさを想起していただきたい。指を一本ずつ切り落とされるプロセスにどうしようもなく見入ってしまう、あの美意識の強さと正気を捨てた正義の恐ろしさ。あれがそのまま音楽になっているような飛躍がこの曲には宿っている。そして、流れるような演奏は最後にディレイを効かせて、まるでスクリュードされたようなエンディングへともつれ出していく。かつてパット・マーラーはインディグナント・セレニティの名義でワーグナーをスクリュードさせ、思いもよらないアンビエント・サウンドを導き出したものだけれど、この曲もまたそうした種類の発明に近いものだろう。それにしてもこれまでさんざん悪魔だ、サタンだと悪ぶってきた連中がマーティン・シュクレリをヒューマン・ガービッジト呼び、富裕層に対する怒りをここまで燃え上がらせるとは。もしかして世界はフランス革命前のムードなんでしょうか(?)。

 ちなみに、このアルバムは「ニューヨークと世界の衰退を代表するクソ野郎に対する純粋な憎しみ」を表現したものであり、配信はなく、CDの収益はすべてマーティン・シュクレリとは対立するライフスタイルのために使われるとのこと。歌詞ではシュクレリの電話番号と住所が読み上げられ、アルバム・タイトルにあるAidsrapeなどという単語は存在しない。

編集後記 (2018年12月28日) - ele-king

 年間ベスト・アルバムを選ぶ作業は面白いには面白いが、正直なところ、ある種の罪悪感もある。作品の順列を付けることにではない。音楽を聴くという体験はその年の作品に限られることではないし、さいしょに聴いたときは好きになれなかったけれど、2年後には気に入ってしまったという作品だってある(その逆もある。そのときは良いと思っても2年後には売りたくなるような作品)。
 また、音楽を聴くという体験は商品として流通している“もの”だけに限定されることでもない。年間ベスト・アルバムでは語られないことのほうが重要だったということは、個人単位ではおうおうにしてある(そのことは紙エレvol.23のコラム原稿を読んでいただいてもわかる)。先日、コリーンのインタヴューを掲載したのも、彼女が2017年に発表したアルバムは、ぼくにとっては2018年も聴き続けた作品であって、聴いた回数でいえばもっとも多いかもしれない作品だった。リスナーにも文化がある。重要なのは音楽を聴くという体験=行為であって、それから引き起こされることの意味について考えてみることだ。
 こういう話はめんどうくさいし、めんどうくさい現実から逃れたいから音楽を聴いているんだという反論なら死ぬほど浴びてきた。が、めんどうくさい現実から逃れるのだけが目的であればカラオケでもハロウィーンでもゲームでも代替可能な、ほかの多くの娯楽と並列されるべき“もの”ということになる。自分も若い頃はテクノでぶっ飛んで踊っていた人間のひとりなので、バカ騒ぎは大好きだ。が、ただそれだけならほかにも選択肢はある。
 結局のところ、ぼくが音楽(それを聴いて書くこと)にこだわっているのは、音楽とはたんに耳に流し込む砂糖菓子ないしはアルコールさもなければドラッグのカクテルではないと考えているからだろう。誤解してほしくないのは、ぼくは耳に流し込むアルコールさもなければドラッグ・カクテルとしての音楽を、まあいまはそれほどでもないけれど、ほんの10年前までは本当に好きだった。だからというわけではないが、決して否定はしない。しかしこの価値観が万能ではないことは、たとえばジョン・ケージの“4分33秒”を曲として認めるひとには説明不要だろうし、逆説的な話だが、ドラッグのカクテルとしての音楽のもっともハードコアな形態すなわちレイヴ・カルチャーを体験しなかったら、ぼくの場合は、社会や政治への関心もいまほど高くはなかったと思う。
 音楽を聴き続けることによって、自慢するほどではないけれど少なからず教養を得てきたと思うし、考えるということの契機を与えられてきているのはたしかだ。音楽メディアの役割もぼくはそこにあると思っている(マウンティングすることではない)。24時間テクノで踊ってもそこに意味はないし言葉があるわけではないという意見に対して、ぼくはそこにも意味と言葉があると思っている。作品は作者の奴隷ではないし、作品を聴くという行為もまたクリエイティヴになりえるはずだ。そうでなければ音楽は文化としての強度を失うだろう。

 さて、唐突ながら、ここで2019年1月に刊行される3冊の単行本の紹介をさせていただきたい。
 まず1月9日にはマーヴィン・リン著(島田陽子訳)の『レディオヘッド/キッドA』。著者はアメリカのオンライン・マガジン『タイニー・ミックス・テープス』の編集長。2013年にele-kingで取材しているひとである。ヴェイパーウェイヴが好きなひとは特別な感情をいだいているメディアかもしれない。パフュームから食品まつりまで、日本の音楽にも積極的にアプローチしているメディアとしても知られている。それはともかく、『レディオヘッド/キッドA』は、音楽を聴くこととはいったいなんなのかという大きな命題にも立ち向かっている本で、ここまでぼくが書いてきたことともリンクするが、著者はより複数のレイヤーをもって『キッドA』について考えている。
 ちなみに同書のなかに次のような一節がある。
 「僕らの好みの中枢というのは、文脈を解き明かすことよりも、聴きながらその体験を深めるために選んだ(無意識の場合もある)価値観に左右されるのだから、時間が魔法の杖を振るったおかげで安全になった枝の上にちょこんと止まって、「なあ、みんなすっかり勘違いしていたんだ、あれはいい音楽だったじゃないか」と言うのは簡単だ。なぜならその視点は対象の音楽が置かれた元の文脈からすでに遠くに隔てられ、それぞれがどんな形で取り組もうと、頭の中で簡単にその文化的位置づけを改められるのだから。そう、どんな形式の音楽だって僕らは「楽しむ」ことができる。とりわけ歴史が政治的、美的にとんがった部分を丸くしてくれたあと(あるいは社会経験を積んだ結果そういうエッジが見えなくなった時)なら、ますます楽しめるだろう」
 昨今でいえばニューエイジ・リヴァイヴァルなどはその典型だ。文化的位置づけに関していえば、ニューエイジはいま旬な砂糖菓子といったところだろう。数年前のヴェイパーウェイヴにおけるミューザックもそうだし、1980年代では『RE/Search』という雑誌による「Incredibly Strange Music」特集もそうだ。60年代の他愛もないカクテル音楽をあらたな文脈で捉え直すこと、ザ・ケアテイカーによる1930年代の78回転盤のソフト・クラシックやジャズのサンプリング・ループもそうした試みである。来年そうそうにはライターの柴崎祐二がいま日本で起きているこうした音楽の読み替えによる文化のあらたなる、活気づいているボトムについてのコラムを書くことになっているのでお楽しみに。
 1月にはほかに、23日に松村正人の『前衛音楽入門』も刊行することになっている。磯部涼の『川崎』ではないが、音楽は地理的/社会的アイデンティティと結びつくことによって意味を成すことがおうおうにしてある。社会学はいまだに音楽を語るうえで多々用いられている。しかしながら、とうぜんのごとく社会学的でも砂糖菓子でもない音楽も存在する。いま現在ぼくたちは「アヴァンギャルド」「実験的」という言葉を、曖昧な意味(耳慣れなさ、ハーモニーの拒否、複雑、破壊的、ノイズ、とっつきづらいetc)で使っている。ジム・オルークは今年ele-kingで掲載したインタヴューで、「私は音楽を楽しみのために作っているわけではありません」と言い切っているが、『前衛音楽入門』とは社会学でも砂糖菓子でもない西洋の音楽の、複雑であり続けた歴史だ(もちろん、その複雑さが反転してミニマルへと発展したし、社会学的な説明だってできるだろう。たとえばシュトックハウゼンはアカデミシャンだがケージは在野であるとか、皮肉なことにパリ万博という資本主義の大波がサティにガムランを教えたとか)。
 西洋音楽が世界の音楽のなかでもとりわけ優秀であるという根拠はないし、むしろ西洋的な評価基準から離れることは大切だと思うが、西洋音楽がもっとも議論を重ねてきた音楽であることは事実だ。『前衛音楽入門』は、20世紀におけるその議論と結実の軌跡を描いている。
 ビートルズの『ホワイト・アルバム』の“レヴォリューション#9”を聴いて、最初は「なんてクソなんだろう」と思っていたのに、数年後には「これってじつは面白いんじゃないか」と思えてきたという経験を持っているひとは少なくないだろう。明らかにある種の音楽はぼくたちの感性を拡張するし、拡張することは悦びであり、それはきわめて音楽的な体験のひとつである。
 ましてや21世紀における前衛音楽〜実験音楽の遺産が、学究肌のための音楽ではなくなっていることは、エレクトロニック・ミュージックを聴いているひとにはわかる話だろう。誰もがかんたんにロバート・アシュレーを聴けることはポジティヴなことだろうし、音のカットアップなら、なんでもかんでもミュジーク・コンクレートと書いてしまうことも、まあニュアンスは伝わるから良いとしよう。現代音楽用語は氾濫しているし、シニカルにいえばちょっと利口そうに見られたいひとが乱用する。だからこそ(ぼくたちがブラック・ミュージックやロックンロールについて知っているのと同じように)知っておきたい歴史があるし、だれかの有名な言葉のように、歴史を知らずしてどうして前に進めるのかということだ。そもそも松村正人はアカデミシャンではなく、ひとりの在野の書き手であり、彼のような人間が「前衛音楽」について書くという行為そのものが21世紀的であるといえる。

 1月31日には、マーク・フィッシャー著(五井健太郎訳)の『わが人生の幽霊たち──うつ病、憑存論、失われた未来』を刊行する(予定)。『資本主義リアリズム』の著者の、生前のこした3冊のうちの1冊で、もっとも音楽について書かれているのがこの本である。「いつから時間は止まったのか」、そして21世紀がなぜ幽霊たちの時代なのか……。ジャック・デリダの『マルクスの亡霊たち』を活用しながら繰り広げるまったく素晴らしい「トリッキー論」「ジョイ・ディヴィジョン論」そしてBurialやザ・ケアテイカーのインタヴュー原稿もある。人文系の読者のためにぼくと坂本麻里子で註釈を加えて、さらに髙橋勇人に解説も書いてもらっている(現時点では未着)。

 「かつてないほどにいまこそジョイ・ディヴィジョンが問題になるのだとしたら、それは彼らが、われわれの時代の憂鬱な精神をとらえていたからにほかならない。いまJDを聴いてみると、このグループはわれわれの現在を、つまり彼らの未来にあたるものを、そのカタトニー的な症状をとおして伝えているのだという、そうした逃れがたい印象を受けるはずである。最初から彼らの作品は、ひとつの深い予兆に覆われていた。つまり未来は閉ざされ、あらゆる確かさは消滅し、向かう先にはただ暗澹たるものが広がるばかりなのだという感覚に覆われていた」(同書より)

 いまのような世知辛い時代に、よほど恵まれているひとでもない限り、2000円以上の出費にはそれなりの覚悟がいることは重々承知している。いま挙げた3冊は、少なくとも1日で読み終えてしまう500円の雑誌とは違って、まあ、1ヶ月以上は楽しめる中身の濃い本ではあることは自負できるけれど、3冊すべてを買うとなると5千円はゆうに超える。ただ、しつこいけれど、リスナー人生において大きなインスピレーションを与える本でもあるので、いつかは3冊とも読んでいただけたらとは思う。
 しかしね……、まずはなによりも、2019年もなんとかサヴァイヴすることが重要だよね。いっしょにがんばりましょう。なんとかね。

※なお、ele-kingではあいかわらず音楽について書きたいひと(ライター)を募集しています。ご興味のある方は、info@ele-king.netまで、件名「ライター」と記載のうえお問い合わせ下さい。どうぞよろしくお願いします。

vol.108:インディの行方 - ele-king

 12月も半ばになると、どこもホリディ・パーティ真っ盛りで、毎日のようにパーティがある。先週末アーティスト友だちのロフトスタジオのパーティに行ったら、40人ぐらい来ていて、バンドも3組出るという豪華なパーティだった。来ていた人は、ほとんどミュージシャン、アーティストで、隣で見ていた人が次々とステージヘ。ミュージシャンは機材を全て持ち込んでセットアップして、それが終わればまたそれを持ち出す。ドラムセットもスピーカーもだ。彼らは大変なのである。こう考えると、エンターテイメントをありがとう、とチップも弾みたくなる。
 私が好きだったのはアイルランドのコークに住む女の子、M.Sea。アルドス・ハーディングを思い起こす、力強く、表情豊かで、そして切なく美しい音楽。自分の祖母、ウィスキー、ガチョウなど身の回りの事を歌う彼女に、あっと言う間に引き込まれた。来月にはアイルランドに帰ってしまう彼女を見れたのは偶然。グリーンポイントのバーのオーナーがパーティに来ていて、早速3日後に、彼女のギグを組んでいた。NYマジック。
https://www.mseamusic.com

 週明けの月曜日には、〈カナイン(Kanine)〉のホリディ・パーティがあった。〈カナイン〉は2002年にスタートしたブルックリンを代表するインディ・レーベルで、『NY: Next wave』(2003)というコンピレーションで、NYのローカルバンドを紹介し、グリズリーベア、チェアリフト、サーファー・ブラッド、ビヴァリー、エターナル・サマーズ、ザ・ブロウ、グルームスなどをリリースしている。〈カナイン〉のバンドは、90年代のギターポップを引き継ぎ、この日のハニー・カフ、タリーズもハッピーでお行儀の良いギター・ポップ。エターナル・サマーズのニコルのソロは、ガイデッド・バイ・ヴォイシーズのメンバーがギターを弾いていたり、元ESのマネージャーがサックスを吹くなど豪華。ザ・ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートのキップの新しいバンドThe Natvralは、ジージャン、ジーンズという服装が90年代ギターポップを象徴していて、音楽も懐メロに聞こえた。
https://kaninerecords.com


Brooklyn vegan DJ (7 inch)


〈カナイン〉のパーティで踊るオーディエンス

 ライヴ・ショーは、レコードとは違う楽しみ方ができる。バンドやまわりからのエナジーを感じたり、何が起こるかわからない、ライヴ感がワクワクさせてくれる。いまどきレアなCDJを使ってギターポップで踊るという15年前にタイムスリップした気分にさせてくれる〈カナイン〉は、世間がどうであれ、自分の好きな音楽に徹底している。だからコアなファンがいるのだろう。


Honey cutt


Nicole Yan (eternal summers)


Tallies

 ライヴといえば、最近Mitskiをブルックリン・スティールという大会場で見た。2018年度のベスト・アルバムで多くのメディアの上位に入っている彼女は、DIYアーティストからメジャーに飛躍した、2018年旬のアーティストといえる。じっさいソールドアウトの会場は、シンガロング、声援をおくるファンで埋め尽くされていた。そしてMitskiは穏やかに「私の作品を評価してくれてありがとう」とファンに答える。


Mitski @brooklyn steel

 ライヴを見るとたいてい気分が高揚するものだが、Mitskiのショーでは心にポッカリ穴が空いたような気分になった。ショーは悪くなかったどころか完璧だった。メディアのバズ(ピッチフォークは2018年のベスト・アルバムに選んでいた)や、まわりの圧倒的な声援、DIYアーティストだと思っていた彼女の変化に自分がついていけなかっただけなのかもしれない。2018年の傾向として女性が強いという動き(me tooムーヴメントなど)があったが、Mitskiはバッチリハマった。ひとりのかわいいアジア人女性が「be the cowboy」という男性的なタイトルのアルバムを出し、孤独感やダークサイドを歌い(この時代ハッピー・ソングなんて誰も求めていない)、共感を得るのは納得できる。みんな不安で何かにすがりたいし、彼女を自分たちのロールモデル的に見ているのだろう。彼女を支持して自分も楽になりたい……たしかに一般ウケしそうなキャラではあるけれど、これってアメリカの選挙に似てませんか、と。少数派は都会で、大多数は田舎にいる。田舎の方が人口が多いから、それがアメリカ代表になる。


 2018年はメディアによって、ベスト・アルバムがバラバラだった。普通なら同じようなアーティストが上位になるのに、あるメディアで上位に入っているものが、別のメディアでは50位にも入っていなかったりする。それだけ情報は豊富で、選択の多い時代なのだろう。

レディオヘッド/キッドA - ele-king

レディオヘッドの問題作『KID A』とは何だったのか

ロックにとどまらず今なお現行音楽シーンに多大な影響を与えているレディオヘッド、その最大の問題作――『KID A』とは何をしようとしたのか、そして何を成し遂げたのか。美学的・政治的・マーケティング的・メディア的……あらゆる側面から考え抜いた一冊、待望の邦訳刊行!

■プロフィール
著者
マーヴィン・リン Marvin Lin
オンライン・ミュージック・マガジン「タイニー・ミックス・テープス」の共同創設者であり編集長。「ピッチフォーク」およびミネソタの学生インディマガジン「The Wake」の編集者でもある。ミネソタ在住。

訳者
島田陽子
早稲田大学第一文学部英文学科、イースト・アングリア大学大学院翻訳学科卒。(株)ロッキング・オン勤務などを経て、現在フリー翻訳者として様々なジャンルで活動。『プリーズ・キル・ミー』『ブラック・メタルの血塗られた歴史』(以上メディア総合研究所)、『ブラック・メタル サタニック・カルトの30年史』(DUブックス)、『フレディ・マーキュリーと私』(以上ロッキング・オン)他、訳書多数。

レディオヘッド/キッドA
マーヴィン・リン(著)

■目次
はじめに――Introduction
キッドAの美学――Kid Aesthetics
キッドAと純血度――Kid Authenticity
キッドAの絶賛度――Kid Acclaim
キッドAと適応度――Kid Adaptation
キッドAの行動主義――Kid Activism
キッドAの黙示録――Kid Apocalypse
キッドAと仲介メディア――Kid Agency
キッドA君臨――Kid Ascension
謝辞――Acknowledgements

The 10 Best Singles/EPs of 2018 - ele-king

 このサウンド・パトロールというコーナーは僕にとって非常に思い入れが深いコーナーである。よく読んでいたのは、かれこれ7年ほど前のこと。レコ屋へ行っても「何聴いていいかわかんねーよ」と大量のシングル盤を前にして怯えていた当時、野田努が主に書いていたこのコーナーは、いま人生を傾けるべき音を教えてくれるマイル・ストーンだった(その形式を踏襲し、持っている盤の写真は自分で撮った。ジャケではなくラベルを優先している)。
 2018年。データやサブスク形式が主流になってもエレクトロニック/ダンス・ミュージックはシングルやEP(1ー3曲入りの音のカタマリ)をいまだに必要としている。産業構造を俯瞰してみてれば、いまさらいうまでもなく、技術革新などによって、制作、それに付随する労働パターン、さらには「消費」スタイルが現在確実に変わりつつある。けれどもシングルやEPはヴァイナル以外の購入/再生の選択肢が増えただけで、「12インチに収録できるくらい少ない収録曲」というコンセプトは30年前とさほど変わってはいない。なぜか。シングルは最初から「高速」で動いてきたからである。シングルやEPはプロデューサーに浮かんだアイディアを比較的ハイスピードで形にすることを可能にさせる。ゆえにシングルは時代のモードを即座に反映することができる。ゆえに発売されたばかりのシングルは新しい。ゆえに、シングルはいつまでも素晴らしくてカッコいい。ゆえに、シングルには耳を傾けなければならない。
 今回のサウンド・パトロールでは、今年リリースされたシングル/EP(リイシュー含む)を10枚ピックアップしてみた。民主的なプロセスを経て選んだわけではないが、行く先々のクラブで吸収した人々の躍動(ヴァイブス)は、それ相応に反映されているだろう。住んでいるロンドン、訪れる場所になった東京、マンチェスター、ユトレヒト、モスクワ、浜松のクラブでインスピレーションを与えてくれた人々に感謝する。
 可能な限り盤で聴いたものを選んだが、データで聴いたものもある。並びは順不同である。それぞれが別の方向を向いているので、ランキング付けは不可能だった。そのどれもが見逃すことができなかった秀作たちだ。感覚を大いに奮い起たせる10枚といってもいい。レアなものを選んだつもりはない。このすべては、あらゆるひとびとに開かれている音楽だ。

Object Blue - Do you plan to end a siege? - Tobago Tracks

 ロンドンの物質世界でオブジェクト・ブルーの存在が確認されるようになったのは3年ほど前のことで、2018年はその大きな飛躍の年となった。2017年にブリストルで行われたこの「青い物体」によるライヴの1時間のオーディファイルは、その特異性を捉えるモーション・キャプチャーとして機能している。そこでは無光状態で合生するオウテカのライヴでサウンドが全感覚器官をハックしていくのと同種の凶暴性や、UKベース・ミュージックの低域60ヘルツ付近に設置された身体を捕獲するマジックが確認された。今年ロンドンの〈Tobago Tracks〉からは、そのデビュー作が到着。EPの各所で女性の音声マテリアルが分裂と融合を繰り返し、それがグラニュラー・シンセで視覚的にコンピュータライズされた周波数テクスチュアと絡まり、ダイナミックな律動性を形成する。この美学は他者を大きく圧倒している。オブジェクト・ブルーは自身をテクノフェミニストと呼ぶ。哲学者ダナ・ハラウェイは機械と人間の混合が進む現代を考察しサイボーグフェミニズムを起動させた。それをサウンド面から更新するように、このデータ・リリースの三曲は、テクノ化された、つまり技術によりラディカルな空気振動へとトランスコーディングされた無形の「身体」を経由して、フロアの女性たちに変革をもたらさんとする。あるいは、彼女たちこそがその変革の主体であり、サウンドはその周囲のすべてを取り込んでいく。ウジェヌ・グリーンの映画『ポルトガルの尼僧』から引用されたというタイトル「包囲戦を終わらせるつもり?(Do you plan to end a siege?)とは、ジャンヌ・ダルクが突破したオルレアンの包囲を指している。

Pavel Milyakov aka Buttechno - Eastern Strike - RASSVET records

 2018年、ロンドンのカルヴァータ22というアートスペースで『Post Soviet Vision』というソ連解体以降の旧ソ連圏の若者文化を追った美術展に、『オレフォヴォ』と題された作品が展示されていた。ブリューゲルの絵画『雪中の狩人』にロシアのモスクワ郊外のオレフォヴォ地区に立ち並ぶブロック(集合マンション)をコラージュしたそのビュジュアル作品を作ったのは、デザイナーのパベル・ミリヤコフ。彼の音楽プロデューサーとしての名をバッテクノと呼ぶ。「郊外」はソ連解体以降の都市文化においても重要なタームであることを端的に示した作品だ。ミリヤコフはファッション・デザイナーのゴーシャ・ラブチンスキーのショー音楽を手がけていることでも知られており、今作はその2018年AWコレクションのために制作された。A面はトランシーなノンビートのシンセループあるいはインプロ集。ロシアのレイヴの遺産の探求がテーマにあるというが、その手法はダンス・ミュージックのブレイク部分をつなぎ合わせたロレンツォ・セニの影響か。 B面はダブステップ以降のUKベース若手世代が思わず唸るビートである。ミリヤコフはとても研究熱心な作り手だ。テレンス・ディクソンやエイフェックス・ツインを丁寧に聴き、クラウトロックにも関心を向け、2017年に〈TTT〉から出たEP「Super Sizy King」にはその成果が溢れている。普段からハード機材をよく使っているようだが、本人に問い合わせたところ、今作はラップトップでピュアデータをメインにすえて制作されたとのこと。スタイルを横断する。ここに重要な学びの精神がある。A面冒頭曲が『i-D』が制作したゴーシャのドキュメンタリーで流れた時の、新しい時代の幕開け感が凄まじかった。「Rassvet」とはロシア語で「夜明け」の意味である。彼をよく知るモスクワの友人は「それは言い過ぎ」というけれど、東の郊外からはじまるサウンド革命に、ついついブリアルを重ね合わせてしまう。

Nkisi - The Dark Orchestra - Arcola

 チーノ・アモービによれば、〈NON Worldwide〉の当初のコンセプトはンキシによるものだという。アフロフューチャリズムの文脈で分析されることもある同レーベルだが、彼女の関心は未来というよりも、そのアフロの起源、あるいはアフリカの民族に伝わるコスモロジー(宇宙論)に向いている。今年リリースされた〈Non〉のコンピレーションに収録の“Afro Primitive”は、過去としての起源に向かうというよりも、その起源で生まれた原始的なレンズを通して、現代を覗き見るようなトライバルテクノ・トラックだった。 今年の3月に〈Warp〉のサブレーベルである〈Arcola〉からリリースされたこのEP「The Dark Orchestra」の表題曲は、プリミティヴなミニマル・ループであるというよりも、ダイナミックなヘヴィ・トラックである。ブラックではなく、光が差し込まないダークという概念をンキシはチョイスする。冒頭の数分のシンセの重層から突如場面が切り替わり、宇宙の暗黒面から大量の隕石が落下するかの如く連打されるリズムは圧巻である。曲名からサン・ラーを思い浮かべる人も多いのではないだろうか。ダンス・トラックのルールを度外視した暴力的速度の祭典“Violent Tendencies”、強力なサイケデリアが襲撃する“G.E.O”、ハーフステップ的ガバの突然変異“Dark Noise”。安易に聴かれることを拒否する、新たなテクノの地平である。2018年の1月には、リー・ギャンブル主宰の〈UIQ〉から彼女はデビュー・アルバム『7 Directions』をリリースする。このアルバムが参照し、彼女が本人名義メリカ・ンゴンベ・コロンゴのインスタレーション活動で調査をしたバントゥ-コンゴのコスモロジーによれば「聞くことは見ること、見ることとは反応すること/感じること」である。ここにはX-102にもドレクシアにもなかったアフロへの、あるいは音へのアプローチがある。ンキシが切り開くダーク・テクノは、明日のシーンの方向をどう変えるのだろうか。

Raime - We Can’t Be That Far from The Beginning -RR

 ダンス・ミュージックにおけるサウンドの共進化である。レイムがついに始動させた自身のレーベル〈RR〉からの一発目。タイトルを少し意訳せば「俺たちがハナっからそんな行き過ぎるわけがない」となる。数年前、ワイリーによるドラムをトラックから抜き去る手法、通称デビルズ・ミックスの発展系とされるスタイル、無重力グライムが脚光を浴びた。レイムのこの12インチもその延長線上で捉えることができるかもしれないが、これは重力の塊のように聴こえる。“In Medias Res”は冒頭でリズム的展開を見せるかと思えば、「とても怖い」、「私は疲れた」とピッチを変調されたループとともに、ビートは引き裂かれる。そこに放たれるサウンドは何か引っ張られるように視界から消えてゆく。ベースと言葉が落下を続ける。低音とエフェクトを通された金属音、「ちょっと度が過ぎたかも」というセリフの抜粋ではじまる“Do I Stutter?”では、裁断された声が遠近法やリヴァーブといったエフェクトを通される。静寂と進行性キックで何かを語ろうとするも、聞き手にそれがなめらかに届くことはない。このアプローチを継承した形で“See Through Me, I Dare You”では、空間そのものが鋭利な刃物に思えるほど際立つ。前半は緊張を煽り、中間でメタリックな旋律が一瞬の希望を見せ、アブストラクトな形状のビートが追従し、最後はそれがストリングスの濃霧に消える。『RA』の今作のレビューでも触れられているが、マーク・フィッシャーは生前、レイムにインタヴューを行っている。パーソナル、カルチュラル、ポリティカルさの不可分性を踏まえた上で、そのすべてに働く無意識を描き出そうとするレイムの姿勢がそこでは語られている。重力、あるいは現実に無意識が引き寄せられていく段階、つまり言葉が言葉になる容態を覗き込むことができたら、きっとこんな音が鳴っている。

Docile - Docile - The Trilogy Tapes

 ダークにも、B級にも、ロウにも、ドレクシア学派にも自由に変形する今日のテクノ・アンダーグラウンドにおいて、ひときわ神秘的かつソリッドなビートを生み出しているプロデューサーがジョン・T・ガストである。個人的な2017年のベスト・シングルは、彼が〈Blackest Ever Black〉から出した「wygdn」で、アンビエントとダンスホール的メランコリアで構成された10インチは、一瞬にしてレコード店から姿を消しクラブへ投下されていったのを記憶している。ガストは今年、ンキシとのプロジェクトであるコールド・ウォーを始動させているが、ここで取り上げるのはトライブ・オブ・コリンとのユニット、ドーサイルである。ライダー・シャフィークのスポークン・ワードのようにリズムは魔術的にとぐろを巻く。デジタリティを醸し出すドラムキックは、おそらくはトライブ・オブ・コリンが操るMC505で生成されたものだろう(彼のライヴ機材群はMC505を主軸に組み立てられ、テクノでMCが飛び入りでラップをする! 同機はMIAのファーストに使われたことでも有名)。ノンビートで静かに奈落へと降下し、突如キックが重力を発生させ、スネア、タム、クラップがシンプルにグルーヴを生み、シンセが耳元で息を吹きかけるA面の“Docile 7”。裏面で行き場を失った怒りが、躍動するベースライン、金属の鳴き声、メランコリックなメロディとともに押し寄せる“Empty Fury”。最後の“Jonah Reprise”は間延びしたサイレンがベースとともに響く漆黒のアンビエントだ。ラベル上で彼らの顔はカットされている。見えないこと、ダークであること、パワフルであること。彼らはじつに素直(docile)に、それらを並列させクラブに黒い炎を生み出してしまった。

Mars89 - End of the Dearth - Bokeh Versions

 マーズ89の存在を僕は5年ほど前から知っている。コード9×ブリアル・ミックスがネオ・トーキョー感を放っているという文章を読んだが、そっちよりも僕は彼のプレイにそれを感じる。マーズ89は会った時からすでにまだ到来していないネオ・トーキョーの住人だった。トラップがかかるメインフロア上空のサブルームで、アンダーグラウンドなR&Bや初期シンゴツーをプレイする姿は、荒廃するキャピタル・シティを自由に走り去るライダーのように見えたものである。近年、ザ・チョップスティック・キラーズ(現:グッド・プロフェッツ)などでの活動を通し、そのモード感覚はトライバルやUKベースを軽やかに吸収。加えて、ユーモラスで危険な遊び方を練磨し、その成果がNOODSラジオにおける縦横無尽な選曲のトランスミッションから聴こえてくる。2018年にブリストルの〈Bokeh Versions〉からリリースされた3枚目が本作EP「End of the Death」である。アートワークのカプセルは快楽用ではなく、この異世界ソニック・フィクション的音像へアクセスするための装置だろう。BPM110のネオ・ダブビーツが思考の速度を奪う表題曲は、ミイラ化したリズムマシンを召喚し、続く “Run To Mall”ではそのドラム・ロールが銃声に倒れるまでループされる。その渇きを潤すかのように、“Visitor from the Ocean”では水面化のマイクが拾っているかのようなシンセとベースがあなたに休息を許す。“Random Coherence”においては不可視的サブベースがDJピンチのいう「ブラック・スポット」を刺激。終曲“Throbbing Pain”は和太鼓と幽霊の声が共生し、左右に揺れるハットが火花を散らす。このサイファイホラー・ダブは誰にも似ていない。死の終わりの向こうに浮かぶ火星から届いた傑作である。

Loidis - A Parade, In The Place I Sit, The Floating World (& All Its Pleasures) - anno

 頭から視聴して驚き、すぐに購入した。調べてみたら、ホエコ・Sの別名義だということでさらに驚いた。フォー・テットはあまりの良さに二枚買ったといっている。最初のマジックはまず一曲目 “A Parade”の冒頭部分だろう。スローにループされるサウンド・マテリアルから、このレコードが33回転なのか45回転なのか判別できる人間はまずいないだろう。そこにキックが入り、一定のタイム・モードが世界の進行を決定づけ、最小限かるインプロバイズされたシンセが複合かつ単発的に動く。全員で一点を目指して各マテリアルが鳴るというよりも、そのそれぞれがバラバラにかつグルーヴィに同時進行(パレード)していく絶妙な統一感のなさが自由を感じさせる。裏面の“The Place I Sit”においては、この盤におけるヒプノティックなムードの強度が最高潮に達する。低音域で穏やかになるパーカッションと、意思を持っているかのようにうねる高音域のループが、艶やかにファンクする。同面終曲の“The Floating World (&All Its Pleasure)”では、アンビエントで展開されるベースとハイハットの会話にキックが合流し、FMシンセ的な金属音のにわか雨が降る。この12インチのヘイジーなアンビエンスは、アクトレスのそれとは異なり視界を遮ることがなくクリアであり、クラブのサウンドシステムの開放的美学とベッドルームの閉所的快楽の間に浮世を創出している。

Joy O - 81b EP - Hinge Finger

 ジョイ・オービソンが自身のレーベル〈Hinge Finger〉から出した2018年唯一の12インチである。今年はマルチ楽器奏者にベン・ビンスとの共作「Transition 2」が〈Hessle Audio〉から出ているが、サウンド・デザインの面では僕はこちらの「81b EP」 に惹きつけられた。一曲目の“Seed”はジョン・T・ガストの墓場のメランコリアや、ンキシのダーク・テクノにも通じる。上部でこだまする粒子的ブリップ音は次曲の“Coyp”にも引き継がれ、ダンスホール的ベース・キックの悦楽が足元を揺らしている。ギターのミュート・プレイのようなシンセが特徴のアンビエント“Tennov6teen”は、以前のオービソンのスタイルにはなかった砂漠に置き去りにされたような焦燥感を生む。“Belly”はリチャード・D・ジェイムスのアンビエント・テクノを想起させるような、透明度の高いグルーヴを創出。“Sin Palta”はジョイ・オーが得意とするヴォイス・サンプルのループが、全曲のアンビエンスをストレートなリズム・ストリームで流れる。最後の“81b”はスローなテンポでベースが上下に跳ね回り、上記の曲の渇いた透明なアンビエンスそれを支え、ブレイクで崩壊するシンセが耳を奪い続ける。オービソンは無法レイヴと都市世界者のテクノをつなげる重要プレイヤーであり、ロンドンのトップDJである。だがこの12インチには、かつての姿ははっきりとは出現しておらず、異なるモードへ向かっていることが示唆されている。ここで彼はさらなる進化を遂げようとしている。その姿勢はエスタブリッシュすることなく、暗闇のコウモリのようにテクノのワイルド・サイドを飛んでいるようだ。

Terre Thaemlitz, DJ Sprinkles - Deproduction EP 2 - comatonse recordings

  米国出身川崎在住のミュージシャン/ジェンダー理論家のテーリ・テムリッツがアルバム『Deproduction』を自身の〈comatonse recordings〉からリリースしたのは2017年の12月である。43分の2曲と、そこから抜粋されたピアノ・ソロ、そして彼自身のDJスプリンクルズ名義による3曲のリミックスが収録された一枚のSDHCカードと、10枚のインサートで発表された。
 まず同作のコンセプトを説明する。フェミニストとクイアによる核家族の批判的拒絶の現状に今作は焦点を当てている。現在、欧米を中心に核家族という西洋の伝統的価値観がLGBTの家族観に積極的に取り込まれはじめている。元来、クイア側は、その核家族観に抵抗する形で、意図的に親になること、あるいは家族を持つことの放棄を行っていた。「Deproduction」、不産主義。それは多様性をラディカルに捉え直す実践でもある。だが現在のLGBTにおける核家族化の普及の流れにおいて、不産主義はただのエゴセントリックなものとしてみなされてしまう。テムリッツはそこに注目し、音源、ビデオ、それからテキストによって、西洋的ヒューマニスト観の闇を不産主義の側から描いている。(レーベルのHPに詳しい説明がある: https://www.comatonse.com/releases/c027.html)。
 2018年、このアルバムから二枚のEPがカットされた。リリースはヴァイナル・オンリー。ここで取り上げるEP2には各約14分の“Admit It’s Killing You (And Leave)”のピアノ・ソロとスプリンクルズによるハウス・バージョンが収録されている。ハウス・バージョンに針を落とすと、湖面に落ちる雨粒のように澄み渡るハイハットの幻覚と、そこに反射するピアノが流れてくる。それに加え、静寂のなかで跳ねるベースを基調に、異なるシンバル、パーカッション、ストリングがリズムを彩る。ときとして落ちる、優しく深いリバーブに覆われたリムショット。完璧なトラックである。裏面のソロピアノも非常に美しい。(俗な例だと言われるかもしれないが)キース・ジャレットの『ケルン・コーサート』の陽気な部分をそぎ落とした、かといって隠が増幅されているわけでもない旋律。どこにも着地しようとしない、不安定なグライダー飛行のアンビエンス。これほど議論と癒しを聴き手にもたらした12インチを僕は知らない。このシングルを手にしたとき、炎上していたのは杉田水脈衆議院議員の「LGBTには生産性がない」発言である。勘違い野郎はことの本質を常に取り逃がすことしかできない。テムリッツの批判的美学はその現状において輝きを増しているのは間違いない。ここでは長くなってしまうのであまり踏み込まないが(実は僕もまだアルバムを聴けていないとうこともあり)、リリースから一年経ってしまっているものの、この作品は木津毅を切り込み隊長に据え、しっかりと論じられなければならない。
 最後に、リミックスでループされるコメディ風の英語のスポークン・ワードに触れる:「彼らは従来的な家族で、ただその周囲にいるだけのゲイのひとびとから非難を浴びていた。というのも、彼らの考えが家族観を腐敗させると思っていたからだ。その家族は「他に別の考え方があるって?」という感じだ。それで、彼らはバラバラになった」。前後の文脈がなければなかなか理解するのが難しいセンテンスだが、ラベルの和訳タイトルが参考になる。伝統的な家族は、その「苦しみ」、つまり自分たちが直面する問題点がその家族の構造にあるかもしれない現実を認めようとしない。彼らが恐れる不産主義的なバラバラになる生き方(立ち去ること)が、その解決になることだってありえる。ここでは、そんな風にして、伝統的な家族が絶対的であるとする西洋の核家族観が揺さぶりをかけられているのだろう

Womack&Womack - MPB (Missin’ Persons Bureau) - Melodies International

 2018年ベスト・リイシューはコレ。僕が初めて聞いたのは5月のこと。この頃、ベンUFOがオールド・ストリートにあるクラブのXOYOで13週連続のレジデンシーDJを務めていた。あの日はブラワンとパライアからなるユニット、カレンが出演した回だった。つまり、ハードなテクノの激流が午前2時を破壊した日である。その後3時くらいにデックに戻ってきたベンがもう2時間ほど回して、その夜最後のシメにこれをかけた。開始数秒のディレイがかかったギター・ストロークが鳴った時点で時間の流れが直線から凹凸になる。もう数秒経過、甲高い声と囁き、ファンキーなギターが入る。ダブ、空間がねじれる。ビートはない。残像とともに美しいコーラスが始まり、明らかに他のパートとは異なる強度のベースが重力を変える。そして、爽快なドラムが4月中旬の風のようにすっと入ってくる。あとはこの繰り返し。数分後には夜が終わって欲しくないと強く思っていた。フランキー・ナックルズ(1955-2014 RIP)がウーマック&ウーマックの88年作 “MPB(Missin’ Persons Bureau)”のリミックス盤を〈Island〉から出したのは1989年、 “Your Love”の2年後、 “The Whistle Song”の2年前のことである。オリジナル盤が高騰しまくる約30年後の5月にこの名作をリイシューしたのはフローティング・ポインツ主宰の〈Melodies International〉で、オリジナル盤のマスター・テープから二曲ピックアップし「A Side: Paradise Ballroom Mix/ B Side: Folk Version」として12インチ45回転にまとめられた。ベンUFOが流したのはB面のフォーク・ヴァージョンだ。シルキーで、低音がぶっ飛んでいて、ダブ・サイエンティストから全盛期のカンまでもが想起される音響マジックは時間/空間の非現実性をフロアで増大させる。そして何よりも大事なことは、これは偉大なる失恋歌であり、ハウスのゴッド・ファザーはそこだけは非現実化しなかったということだ。ヴォーカルは今日も朝飛び起きると行方不明者捜索局に電話をかけ、愛する人がいなくなっちゃいました、と問い合わせ続けている。

Takao - ele-king

 私見では、ここ数年のニューエイジ・リヴァイヴァルを牽引してきたヴィジブル・クロークスによる2017年作『Reassemblage』が広くエレクトロニック・ミュージック一般のファンにも好評を持って迎えられたことで、同シーンの活況は更に高次のレヴェルに突入したと考えている。以降、これまで他ジャンルで創作をおこなっていたアーティストも含め、昨今のアンビエント~ニューエイジ再興に(自覚的にせよ、あるいはそうでないにせよ)参画し始め、今年2018年はそうした趨勢が一層可視化された年だったと言ってよいだろう。
 リイシュー・シーンに目を移してみても、オランダの〈Music from Memory〉、ベルリンの〈Aguirre Records〉といったレーベルの活発なリリースは継続して注目すべきものであるし、エレクトロニック・ミュージックとは縁遠いように見えていた総合リイシュー・レーベル米シアトルの〈Light in the Attic〉からも、アンビエント時代を含む細野晴臣の各作がLP化されるなどの動きもあった。そして、その〈Light in the Attic〉からは、来年2019年2月に、『Kankyō Ongaku: Japanese Ambient, Environmental & New Age Music 1980-1990』と題された日本のアンビエント~環境音楽の決定版的コンピレーションの発売も予定されている(https://www.ele-king.net/news/006610 編纂はヴィジブル・クロークスのスペンサー・ドーランだ)。

 こうしたムーヴメント自体は、vaporwaveの興隆~変質(OPNジェイムス・フェラーロのキャリアを参照)などとも複層的に絡み合いながら展開してきたもので、元来は海外発のものでもあった。しかしながら、その音楽要素の参照先として最も大きな影響力を持っているのは、上述のコンピレーションに象徴的だが、かつて(主に80年代に)日本で創られたアンビエント・ミュージックなのだ。
 古くからの日本国内のリスナーはやや面食らう部分があったかもしれない。なぜなら、そうした音楽は、音楽聴取文化の前線からは長い間完全に後退していたからだ(もっと直截な言い方をすれば、忘却されていたと言ってもいい)。細野晴臣のようにポップス・シーンとの交歓を常に怠らなかった稀有な例を他にすれば、あるいは、久石譲のように“国民的映画音楽作家”となっていった例を別にすれば、そうした作家達が積極的に顧みられることは稀だった。高田みどり、芦川聡、吉村弘、尾島由郎、鈴木良雄、日向大介・野中英紀らによるインテリア、他沢山の作家達の作品が一斉に注目を集め、誰かしら国外のマニアによってYouTubeに投稿されたそれらが、AIによるアルゴリズムによって新たなインターネット・ミームになっていったとき、これらの音楽は「はじめて」我々の眼前へその広大な世界を現したのだった。
 そうした中、これらの生産地だった日本からも、かつての“抹香臭い”ニューエイジ感覚からは隔絶した新世代の作家達がいよいよ現れつつある。例えば、やけのはら、P-RUFF といったアーティストと UNKNOWN ME というアンビエント・ユニットを組む H.Takahashi の目覚ましい活躍は、現在胎動するシーンへ多くの人の目を向けさせつつあるし、そうした動きが海外へと更にフィードバックされるという流れも起こっている。

 ここにご紹介するのは、今年6月にBandcampにて発表された日本人作家 Takao によるファースト・アルバム『Stealth』だ。本作こそは、現在起こりつつあるこうした潮流の中から生まれた稀有な作品として、これから先も聴き継がれ語り継がれていくであろう傑作であると断言したい。
 92年生まれの Takao は、いまミュージシャンの標準的発信ツールとなっているSNS上にも“存在しない”ため、その素性を掴むことが難しいのだが、以前にwebメディア AVYSS に公開されたインタヴューによれば、幼少期に触れたゲーム・ミュージックによって音楽に目覚めたというから、原風景としてテレビゲームを経由してエレクトロニック・ミュージックを摂取するという、同時代の世界的ベーシックともいうべき感覚を共有していることが分かる。
 『Stealth』は、今年夏にネット上でセルフリリースされた後、コアなファンの中で話題となっていたが、その後日本が世界に誇る先鋭的総合レーベル〈EM Records〉にフックアップされ、新装を纏い10月にデジタルで、11月にCDとして再リリースされるに至った。(2019年1月にはヴァイナル・リリースも予定されている)。
 濱瀬元彦、武満徹、新津章夫、ヤン富田、Sean McCannといった作家達に影響を受けたという彼の音楽は、そういった先達の名前から連想するように先鋭と柔和が絶妙に掛け合わされた印象を抱かせる。新しい世代のアンビエント作家の必須アイテムであるDAW(彼は、特にエレクトロニック・ミュージックにポテンシャルを発揮すると言われている ableton live を使用しているようだ)、ソフトシンセサイザー、各種MIDIコントローラーというシンプルな環境で制作されたというが、音素ひとつひとつの選択と配置、ミキシングは、極めて精緻な音響意識を感じさせる非常に高レヴェルのものだ。昨今のニューエイジ・リヴァイヴァル以降に特徴的な、かつてのデジタル・シンセサイザーのFM音源を彷彿とさせる音色作りやフレージングには、音響作家としての優れた審美眼、そしてメロディーメイカーとしての高い素養が映し出される。また、シーケンシャルな要素がゆっくりと変化を交えながら豊かなストーリーを物語っていく様からは、構造的な楽曲把握を聴くものに快く意識させるという点で、ダンス・ミュージック的快楽性に通じるキャッチーな感覚をも運び込む。一方で、ノイズ、ドローン、環境音、それらのレイヤーを大胆に“時間”というキャンパスへ塗り込んでいく筆使いには、細やかさとダイナミズムが不敵に同居してもいる。これらの多種多様な要素が、アンビエント作品としては珍しく各曲2~3分ほどという短尺の楽曲に詰め込まれ、全13曲という、まるで“ポップ・アルバムのような”ヴァラエティを聴かせている。

 こうした各音楽要素や全体構造は、結果としてこの『Stealth』という作品に、テン年代末期的とも、リヴァイヴァルに傾倒している(80年代的)とも、あるいはどこか特定の国・地域で作られたとも判別しかねるような印象を強く与えている。
 上述のインタヴューで、「作った年や作者、ジャンルがわかりづらいようになれば面白いかなと思いました。アルバムの曲名は雰囲気やイメージに近い名前になっていて、影響はわかりやすいのかもしれませんが、全体としてはなんでこれが作られたのか不明な感じにしたかったです」と語られている通り、その目論見は見事達成されていると言っていいだろう。

 思えば、こういった“分からなさ”、もっといえば“ステルス性”(=不可視性)というのは、翻ってみれば、かねてよりアンビエント・ミュージックが元来備えていたところの“匿名性”や“非作家性”というものに共通するものでもあると思い当たるのだった。
 そういった伝統的ともいえるアンビエントの“不可視性”に、ポストインターネット的な、更なる脱歴史的様相を与える2018年の Takao と彼の音楽は、回顧か新進かという使い古された批評軸を超え出た次元で、稀なる先鋭的を備えた存在であるとも言えよう。そして、その構造というのは、いま“ニューエイジ”復権にまつわって生まれている、失われた近過去と、起こり得なかった未来に憧憬と諦念を同時に抱いてしまうということへの分析、その多層性とも分かちがたく共通性を持ったものでもあるだろう。(*)
 いつ、どこで、誰が何のために作ったのか分からない、未来からやってきた音のオーパーツ。2018年に生まれたこの新しいマスターピースに心身を浸しながら、エレクトロニック・ミュージックの来し方行く末について、静かに夢想を巡らせたい。

(*)昨今のニューエイジ復権についての思想的背景については以下の拙稿を参照
〈ニューエイジ〉復権とは一体なんなのか – by 柴崎祐二
https://shibasakiyuji.hatenablog.com/entry/2018/12/19/224943

KTL - ele-king

 KTLのサウンドはロックと電子音楽における「消失と咆哮」の先に鳴り響く壮絶なドローン音響空間である。どこか原子の生成を思わせる物質的な電子音と、まるで宇宙の発生を想起させるような強靭なノイズが、高密度かつ高感度に並走・融解し、聴き手の音響空間へと浸食・制圧し、耳を、その脳を、その空間を、その磁場を、その重力を震動させるだろう。音のバロックと、その崩壊のようなドローン・ノイズ。
 00年代以降に勃興したドローン作品の中でも、アンビエントなサウンドにはならず、リスナーの聴取空間に制圧感覚をもたらすという意味で、ドゥーム/ノイズの強靭さとグリッチ・ノイズ/電子音響の刺激を合わせ持つ類まれなユニットといえよう。

 それもそのはずだ。ご存じの方も多いだろうしいまさら多くの説明は不要かもしれないが、このKTLは、あのサンO))) のスティーヴン・オマリーと、電子音響作家ピタにして〈Editions Mego〉主宰のピーター・レーバーグのユニットである。彼らはオリジナル・アルバムを5作リリースしている。まず2006年に『KTL』、ついで2007年に『2』、さらに同年にはEP「3」、そして2008年に『IV』(ジム・オルークによるプロデュース)、2012年に『V』(マーク・フェルがアートワークを手掛けている)を発表する。ライヴ音源なども多くリリースされているが、アルバム・ナンバーを冠したオリジナル・アルバム(EP)は、〈OR〉リリースのEP「3」を除き、これまではピタの〈Editions Mego〉からリリースされてきた。
 しかし新作『The Pyre: Versions Distilled To Stereo』は現在絶好調のリリースを仕掛けるフランスの〈Shelter Press〉からとなった。これには驚かされたが、しかしアートと音響を越境するこのレーベルならば、KTLと結びつくのは必然ともいえる。
 じじつ、本作は、フランスの振付家ジゼル・ヴィエンヌ(Gisèle Vienne)の舞台/ダンス作品『The Pyre』のために制作されたという越境型の音響作品である。その意味ではサウンドトラック盤に近いアルバムかもしれないが、しかし、本作の音には彼らの新しい音響的境地が凍結されており、やはり「オリジナル・アルバム」にもカウントすべき作品にも思えた。あえていえば「硬質/静謐」の生成である。
 音はパリのIRCAMで制作された。舞台はマルチ・チャンネル作品らしいが、本レコード用にKTLの手によってステレオ・ヴァージョンにエディットされている。ミックスをサンO))) の共同プロディースを手掛けている音響作家ランドール・ダン、そしてマスタリングを名匠マット・コルトンが手掛けている点も注目したい。

 前作『V』は2012年リリースなので、なんと6年ぶりのアルバムだ。2018年末は注目すべきエクスペリメンタル・ミュージックが多数リリースされているが、その中でも重要作品といえる。モダンな舞踏作品の音響音楽だが、そのサウンドの肉体への拘束力が、身体が発する重力に抗いたいという意志にシンクロするような音響となっているのだ。時代の先端的なモードを疾走するような「最新音楽」は、抵抗とシンクロを同時に生み育てるものだ。そこにおいては「重力」への抗いこそが、音楽の抵抗とシンクロのアナロジーとなる。このKTLの新作も「最新音楽」のテーゼを象徴するように、新しいアトモスフィアを生成しているように感じられるのだ。
 さらに本アルバムの音は、これまでのKTLと比べて、冷たい鉄のように静謐なのである。轟音の先に漲る硬質でスタティックかつマテリアルな音の生成とでもいうべきか。仏「IRCAM」録音ということもあるが、その鉱物的ともいえる電子音は、まさにピエール・シェフェール、ピエール・アンリなどフランスの電子音楽とミュジーク・コンクレートの伝統に即した音響ともいえよう。同時にその音響は過去の伝統という重力も強く振り払う。肉体と重力からの解放をテーゼとするモダンなコンテンポラリー・ダンスの音楽をベースとした作品としては、完璧な音響を構築しているとすらいえる。これもまた肉体/重力への静かな抵抗の意思の表出といえないか。

 アルバムには全5曲が収録されており、全体でひとつの大きな流れを作っている(ベースが舞台作品の音響音楽なのだから当然だろう)。どの曲もガラスのように透明で、その砕け散った破片のように鋭利で、澄んだ早朝の空気のように清冽でもある。電子音が、波のようにダイナミックに、かつ繊細な変化と生成を行い、聴き手の脳内にインプリティングされている反復という概念を静かに拡張していく。それは確かにピエール・アンリやシェフェールを思わせるオーセンティックな電子音楽のようでもあり、シェーンベルクやヴェーベルンなどの20世紀型の無調の弦楽曲のようでもあり、轟音が過ぎ去ったあとのノイズ/ミュージックのようでもあり、そのどれでもない。「形式」という状態に束縛されてはいないのだ。ここにおいて重要なのは意識への新しい作用とムードの生成にある。

 特にアルバムの最終楽曲にして10分36秒に及ぶアルバム中最大の長尺曲“SuperMellow”は圧倒的な聴取体験をもたらしてくれる。静謐にして、しかし空気を一気に支配してしまうような電子音と具体音の折り重なりは、宇宙の秘密を垣間見るような強烈な音響空間だ。静謐な空間にいくつもの音が舞うように鳴り、生れ、舞う。やがてそれらの音はダイナミズムを増していき、ノイズへと生成変化を遂げる。その刹那、それらの音たちは、「過去」になっていくだろう。まるで「重力」を振り払うように。あたかも「光」の発生のように。もしくはマーラーの交響曲のコーダのように。ロマンティックな時代が終焉し、光と速度の世界へと変わることを宣言するように。
 それはむろんこの曲だけに限らない。このアルバム全体に漲る音響運動には、地上の「重力」に抵抗する強い意志=芯があるように感じられる。踊ること、舞踏は、まさに重力への抗いであろう。KTLのこのアルバムは、そんな意志に見事にシンクロしている。それはサウンドのエディットがもたらす時間の変容感覚ゆえだろう。そう、透明な光のごとき美的完成度と強靭さを称える最新の音響音楽がここにある。

バーニング 劇場版 - ele-king

 この12月まで日本テレビ系『獣になれない私たち』でエキセントリックなファッション・デザイナー、呉羽を演じていた菊地凛子はなかなかハマリ役だったと思うものの、このまま日本のTV業界でイロモノ路線が定着しないことを祈りたいところ。菊地凛子といえば、やはり映画『ノルウェイの森』がいまだベストで、村上春樹の原作から言語をどのように使うかというファクターをすべて取り除いても、なお作品として成立させていたところがトラン・アン・ユン監督は恐るべし才能であった。そして、日本人には絶対に映画化させないということなのか、『ノルウェイの森』から9年ぶりとなる村上作品の映画化は短編小説の『納屋を焼く』を大胆に翻案した『バーニング』となった。監督は韓国のイ・チャンドン。キム・ギドクらと共に日本では早くから評価の高い監督で、民主化運動の中心となってきた元・教師である。映画界に進出して2作目となる『ペパーミント・キャンディ』がすぐにも熱狂的なファン層を生み出したとされ、この作品も『タクシー運転手』同様、時代背景には光州事件が横たわっている。以後も社会問題を射程から外すことはなく、民衆の視点に立ったハードな作品作りが続き、それこそ村上春樹とどこに接点があるのかというタイプで、結論から言うとストーリーの骨格は確かに『納屋を焼く』と同じだけれど、主題もジャンルも時代も醍醐味もすべてがまったくの別物だと考えたほうがいい。あるいはどうとでも解釈できる『納屋を焼く』からイ・チャンドンなりの「読み」を導き出し、好き勝手に脚色した「流用」とでもいうか。

 この作品を紹介する時に、宣伝も含めてほとんどの文章がミステリーとして紹介している。しかし、それはすでにネタバレを意味していて、僕も、だから、どこがミステリーなんだろうと思って観続けてしまった。そのせいもあって僕は『バーニング』は『納屋を焼く』よりも『太陽がいっぱい』に近い作品としか思えなくなってしまった。アンソニー・ミンゲラは1999年に『太陽がいっぱい』をリメイクし、『リプリー』と題してLGBT映画に変換した際、主人公たちの動きに「理由」を付け加えるという作業を行なった。『太陽がいっぱい』が公開された1965年には説明しなくてもわかることだったのだろう。しかし、『リプリー』が作られる頃には、主人公たちがどうしてそのような行動に出たのかということがさっぱり伝わらない映画になっていたのである。ミンゲラは、だから独自の「理由」を付与し、ある意味で、それ以上の解釈を許さない作品にしてしまった。『納屋を焼く』と『バーニング』はその図式をそのまま踏襲するものではない。ただし、『納屋を焼く』で作家とされている設定は農家に置き換えられ、「まるでギャツビイ」みたいだとされる貿易商が見せる羽振りの良さは原作とは大きくかけ離れた規模で展開される。当たり前のことだけれど、『納屋を焼く』が『バーニング』に置き換えられる際、それは韓国で広がる格差社会を背景に持つ作品となり、原作にはない緊張感が全体を支配することとなった。『バーニング』はカンヌでも大本命とされ(読売新聞などは確かそういう風に予想していた)、『万引き家族』よりも批評家が点けた点数は高かった。しかし、賞を取れなかったどころか、韓国では50万人ほどの集客で早々と打ち切りになり、その理由として多く挙げられているのは「あまりにも辛い現実を直視したくなかったから」ということになっている。当たっているかどうかはともかく、とにかくそのように受け止められている。

『納屋を焼く』は主人公が気になっていた女性に男の恋人ができ、二人がどうなったのかと気になっていたところで男とは再会するけれど、女性の行方はわからないというだけの話である(文庫版で30ページ)。「マリファナ」を吸ったり、「放火」を楽しむという反道徳性が平凡な作家の日常をひっくり返してしまうわけでもないし、気に入っていた女性が自分とは違う世界に惹かれていったという喪失感を印象付けるだけともいえる。例によって感情の揺れもなければ、そうした世界の構造のようなものに何かを仕掛けるわけでもない。イ・チャンドンは原作にはないセックス・シーンやマスターベーションを過剰に盛り込み、それが村上作品らしさの演出にもなり、感情表現とも重ね合わされている。主人公が置かれている位置は原作とはまったく違っていて、父親が裁判中であるとか、現実の韓国経済を反映して失業率が高いという報道が流れていたりと、ある種の焦燥感に常に苛まれている。原作とは違って主人公は引きこもるか動かざるを得ない精神状態にあり、そのようなディテールに詰め寄られていくプロセスが映画版の趣向を決定づけている。気になったのは彼女の旅行先で、『納屋を焼く』ではアルジェリア(イスラム圏)に設定されていたものが、『バーニング』ではケニア(キリスト教圏)に変更されていたことである。村上春樹にとってアルジェリアが何を意味するのかはわからないけれど、韓国はいまやアメリカ以上にメガ・チャーチの本場とされるほどキリスト教への改宗が進み、アルジェリアよりもケニアの方が精神的な救済度を旅の効果に加えることができるという意図があったのではないかと。また、ケニアでは既得権益を巡って世代間闘争が激化し、選挙戦のさなかに殺人まで起きていたので、韓国の世情ともオーヴァーラップする部分があったのかもしれない。いずれにしろ『シークレット・サンシャイン』で新興宗教という題材に挑んだイ・チャンドンならではの「変更」だったのだろう。

 身体障害者を題材にした『オアシス』ではルイス・ブニュエルそのままの演出で希望へと導いていたイ・チャンドンも最近のキム・ギドク同様、非常に絶望的なヴィジョンを描かざるを得ない現実がこのところの韓国には存在する。そのことは確か。それこそナッツ姫のような富裕層に対して抱いている感情が凝縮して押し寄せるラスト・シーンで、この作品が一気にミステリーに切り替わる瞬間はやはり言葉もない。あるいはそれが現実の世界で起きる予言のようなものになってしまうのではないかという危惧を抱いて、この作品の余韻としたい。なお、劇場版の公開は2月1日ですが、短くまとめたドラマ版がNHK総合で29日夜10時から放送予定です(セックス・シーンはないと思いますが)。

NHK特集ドラマ『バーニング』
https://www4.nhk.or.jp/P5336/

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