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ウータン・クランの『Once Upon A Time In Shaolin』は音楽の大量消費に抵抗するため1部しかコピーがつくられず、これが美術品としてオークションにかけられるというリリース形態を経たのち、2億円で競り落とされたことはヒップホップ・ファンならよく知るところだろう(複製をつくってもいいのは88年後だとか)。誰も聞いたことがないから定かではないけれど、同作にはシェールのようなミュージシャンだけでなくFCバルセロナのサッカー選手だとか、様々なゲストが参加しているらしく、174ページに及ぶブックレットも付いているという。ファレルの曲が1億円で売り買いされていることを思うと2億円というのは意外と安いのかなとも思うけれど、これを競り落としたのはマーティン・シュクレリという人物で、『Once Upon A Time In Shaolin』を競り落とした翌年に証券詐欺罪でFBIに逮捕され(懲役7年)、彼が経営する製薬会社が開発した薬の製造権をあまりにも高く設定したことで「アメリカでもっとも憎まれている男(the most hated man in America)」と呼ばれる起業家である。高校中退以降の学歴も定かではなく、その後はトレーダーたちが興味を惹かれるエピソードにも事欠かない。「強欲の典型(poster child of greed)」を自称しながら、バーニー・サンダースの思想には共鳴しているとして多額の寄付も行っている。シュクレリはカニエ・ウエストによる形を変えていくアルバム『The Life of Pablo』も10~15億円で単独所有権を得たいと持ちかけたそうで、先の大統領戦においてはもしもヒラリー・クリントンが当選すれば『Once Upon A Time In Shaolin』を叩き割り(このアルバムにはバック・アップ・データが存在しない)、ドナルド・トランプが当選したらフリーダウン・ロードですべて公開すると発表したものの、実際にトランプが当選しても1曲しか公開はしなかった。この、あまりに不可解で現代的な人物をテーマにしたのがマイ・ペニス・イズ・メイド・オブ・ドッグシット(あえて訳しません)の新作である。ニューヨークを起点とするロー・ファイ・ジャズ・バンド……とひとまずは分類しておこう。
前衛音楽にあまり理解がない僕としては彼らの初期作は正直、聴くに耐えない。ガチャガチャいってるだけでうるさいだけだし、中には1秒しかない曲とかはやめて欲しいし。ただし、タイトルにはユニークなものが多く、「イエスは遠くで高笑い」「巨大な皮下注射器によってソドム化されつつ、銃口でサンタクロースを楽しませなければならないG・G・アリン」「君はこの曲をスポティファイで見つけることはできない」「グレン・フライは死んだけど、イーグルスのその他大勢はまだ生きている」と挑発的なものしかなく、曲名の90%以上にはブラック・メタル仕込みの「サタン」という単語が入っている(「ケンドリック・ラマーは退屈だ」というのも悪魔主義に由来するのだろう)。あるいは『Satan's Pregnant Again』がいきなり女性ヴォーカルをフィーチャーしたフォーク・ソング集だったりして途中から音楽的脈絡もなくなってしまい、2013年に『The Essential My Penis Is Made Of Dogshit』として初期作をまとめた後、現代音楽のカヴァー集『My Penis Is Made Of Dogshit Plays The Modern Classical Greats』をリリースしたあたりから様相が変わりはじめる。同作の1曲目はジョン・ケージでおなじみ“4分33秒”で、しかしこれは無音でもなんでもなく、2曲目のテリー・ライリー”In C”もだいぶ前衛的に崩していて、どことなく昨今のミュジーク・コンクレート回帰をバカにしているムードが漂いはじめると、ギャビン・ブライアーズ”Jesus' Blood Never Failed Me Yet”、スティーヴ・ライヒ”come out”と現代音楽を次から次へとスカムでトラッシーな世界観へと投げ込んでいく。そして、トニー・コンラッド”Early Minimalism”はややシリアスながら、ラストの“The Sinking of Titanic”ではついに奇妙なまでの抒情さえ立ち上がってくる。ロシアで新たに起きているナショナリズムの台頭を扱ったチャールズ・クローヴァーによる著作のサウンドトラックだという『Santa Gets An Abortion』ではクリスマス・ソングや「禁じられた遊び」などポップ度を増し、一見正統派のジャズに取り組んだ『Satanic Jazz』にはもはや戸惑うしかない。そのようにして少しずつ存在感を高めていった時期に平行して勝手に『LateNightTales』と題してロバート・ワイアットやハイプ・ウイリアムズ、カエターノ・ヴェローゾやオノ・ヨーコの曲を配信したり、同『Vol. II』ではペンギン・カフェ、カン、ビル・ドラモンド、チャーリー・パーカーをピック・アップし、後にはやはり勝手に『DJ-KiCKS』と題してアクトレスやムーディマン、マウス・オン・マースやダイアナ・ロスの曲をDJミックスしてバンドキャンプに上げているのは大丈夫なんだろうかという心配も。スポティファイにはこの年末にSZAのデモやクイーン・カーターの名義でビヨンセの曲がありもしないアルバムとしてアップされて騒ぎとなったばかりなので、ストリーミング時代における著作権をどう考えるかというアート的な問いかけなのかもしれないけれど(?)。
そう、2015年にリリースされた『Anal Fissures』は酔っ払いの鼻歌のような「悪魔にはお酒が必要」で始まり、アートといえばなんでも許されるのかというような曲が並び(つーか、基本的には会話ばっかり)、2016年の『Eternal Cuck』ではネオ・アコとスカムのクロスオーヴァーへと舞い戻り、この人たちのやりたいことはどうもわからないと思っていたところにフィジカル・オンリーでリリースされた『The Crucifixing Aidsrape of Martin Shkreli』がとんでもなかった。イントロとアウトロのようにして短い曲「マーティン・シュクレリの悪魔的な呼び出し」と「マーティン・シュクレリの愉快で凄絶な死の後に訪れる世界の治癒」が置かれてはいるものの、メインとなるのは80分近い「マーティン・シュクレリの命運が尽きる時、6台か7台のピアノを使って悪魔がマーティン・シュクレリを磔にする」で、これはタイトルにある通り、複数のピアノが美しくもどこか不協和音を響かせながら、不条理なムードを延々と奏で続けていく。いわゆる無調音楽というやつながら、時にドラマティックな高揚があり、めくるめく高音の乱舞にはシェーンベルグがバリアリック・ミュージックを作曲したようなイメージの退廃と狂気が横溢し、先にあげた『DJ-KiCKS』に“スエーノ・ラティーノ”のデリック・メイ・リミックスをミックスしていたことがなるほどと思えるような曲になっている。それこそパク・チャヌクの作品に通じている方はオムニバス映画『美しい夜、残酷な朝』で彼が展開した拷問シーンの美しさを想起していただきたい。指を一本ずつ切り落とされるプロセスにどうしようもなく見入ってしまう、あの美意識の強さと正気を捨てた正義の恐ろしさ。あれがそのまま音楽になっているような飛躍がこの曲には宿っている。そして、流れるような演奏は最後にディレイを効かせて、まるでスクリュードされたようなエンディングへともつれ出していく。かつてパット・マーラーはインディグナント・セレニティの名義でワーグナーをスクリュードさせ、思いもよらないアンビエント・サウンドを導き出したものだけれど、この曲もまたそうした種類の発明に近いものだろう。それにしてもこれまでさんざん悪魔だ、サタンだと悪ぶってきた連中がマーティン・シュクレリをヒューマン・ガービッジト呼び、富裕層に対する怒りをここまで燃え上がらせるとは。もしかして世界はフランス革命前のムードなんでしょうか(?)。
ちなみに、このアルバムは「ニューヨークと世界の衰退を代表するクソ野郎に対する純粋な憎しみ」を表現したものであり、配信はなく、CDの収益はすべてマーティン・シュクレリとは対立するライフスタイルのために使われるとのこと。歌詞ではシュクレリの電話番号と住所が読み上げられ、アルバム・タイトルにあるAidsrapeなどという単語は存在しない。
三田格