「Re」と一致するもの

Portico Quartet - ele-king

 昔からUKではエレクトロニック・ミュージックとジャズの融合が盛んで、1990年代後半から2000年代にかけてのクラブ・シーンでも、カーク・ディジョージオ、イアン・オブライエン、ジンプスター、イアン・シモンズ、スクエアプッシャー、マックス・ブレナン、ハーバート、フォー・テット、シネマティック・オーケストラ、トゥ・バンクス・オブ・フォーなどの作品にそうした傾向が見られる。現在でそうした融合を引き継ぐアーティストというと、シネマティック・オーケストラ、ホセ・ジェイムズ、フライング・ロータスとも共演し、最近はセカンド・アルバムの『ザ・セルフ』を発表したばかりのドラマー、リチャード・スペイヴンが思い浮かぶ。昨年アルバム『ブラック・フォーカス』を発表したユセフ・カマールもそうだし、フローティング・ポインツの作品の一部にもエレクトリック・ジャズの要素は見られる。また、形態としては純粋なピアノ・トリオのゴー・ゴー・ペンギンも、最新作『マン・メイド・オブジェクト』においてはロジックやエイブルトンを用いて作曲するなど、エレクトロニック・ミュージック的なアプローチも取り入れている。ゴー・ゴー・ペンギンはマシュー・ハルソール主宰の〈ゴンドワナ・レコーズ〉からデビューしているが、このたびその〈ゴンドワナ〉から新作『アート・イン・ジ・エイジ・オブ・オートメイション』を発表したのがポルティコ・カルテットである。

 東ロンドン出身のジャズ・バンドのポルティコ・カルテットは、ゴー・ゴー・ペンギンよりもキャリアが長く、2007年にファースト・アルバムを発表している。今までにメンバー交代があったが、現在はジャック・ワイリー(サックス、フルート、キーボード、エレクトロニクス)、ダンカン・ベラミー(ドラムス、パーカッション、エレクトロニクス)、マイロ・フリッツパトリック(ダブル・ベース、エレキ・ベース)、キア・ヴェイン(ハングドラム、キーボード)という編成である。彼らの特徴はハングドラムという特殊な楽器(スティールパンを逆さにしたような形で、音色もそれに近い金属的なものがある)を用い、その音色も含めてジャズに民族色を持ち込んでいる点で、楽曲にはミニマルや現代音楽、ポスト・ロックの要素を感じさせるものが多い。2009年から2013年にかけてはピーター・ガブリエル主宰の〈リアル・ワールド・レコーズ〉に所属し、3枚のアルバムを残しているが、その中の1枚の『ポルティコ・カルテット』(2012年)ではプログラミングと生演奏をシームレスに繋ぐなど、エレクトロニック・ミュージックの比重がかなり高まったものとなった。そのリリース・ツアーをライヴ・アルバム化した『ライヴ/リミックス』(2013年)は、そうしたエレクトロニック・ジャズが最高のパフォーマンスで発揮されると共に、SBTRKT、LV、DVAなどポスト・ダブステップ~ベース・ミュージックのアーティストによるリミックスで、ジャズをまた新たな領域へ導いていた。その後、2015年には〈ニンジャ・チューン〉に移籍し、ポルティコ名義で『リヴィング・フィールズ』を発表。この移籍は大いに期待を膨らませたのだが、実際にはジャズの要素は後退し(と言うより、ほとんどなくなってしまっていた)、ジェイミー・ウーンやジョノ・マックリーリーなどのシンガーをフィーチャーしたダブステップ寄りのアルバムとなっていた。この変化については、ハングドラム担当のキア・ヴェインがバンドを抜け、3人となってしまったことも関係していたようだ。結果的にあの特徴的なハングドラムの音色も聴けず、正直なところ『リヴィング・フィールズ』はエレクトロニック・ミュージックとしては凡庸なアルバム、という域を出ていなかった。

 その『リヴィング・フィールズ』から2年経ち、キア・ヴェインがバンドに復帰し、〈ゴンドワナ〉へと移籍してリリースしたのが『アート・イン・ジ・エイジ・オブ・オートメイション』である。ゴー・ゴー・ペンギン以外でも、ママル・ハンズ、ジョン・エリスなど、エレクトロニクスをジャズに取り入れた意欲作を出す〈ゴンドワナ〉なので、この移籍はポルティコ・カルテットにとっても本来の音楽をやる場を獲得したと言えよう。4名のバンド・サウンドに立ち返ると共に、ヴァイオリンなどストリングスを加え、アコースティックな生演奏とエレクトロニクスの融合に再び挑んでいる。なお、一部アディショナル・ベースでトム・ハーバート(ジ・インヴォジブル、ポーラー・ベアーなど)も参加している。エスニックな響きを持つストリングスとサックスによる“エンドレス”は、ダブ効果やエフェクトの残響音によって深遠なムードを高めたジャズ・ロック調の作品。UKならではのダークで陰影に満ちた音像は、続くダウンテンポ調の“オブジェクツ・トゥ・プレイス・イン・ア・トム”へと引き継がれる。この曲は途中でリズム・チェンジし、ブロークンビーツ調の躍動的なドラミングが披露される。全体的にシンセが効果的に用いられたアルバムだが、たとえば打ち込みのハウス・ビートと生ドラムをシンクロさせた“ラッシング”では、人工のコーラスのように聴かせたりする。硬質なジャズ・ロックの“ア・リムジン・ビーム”は、生演奏のダイナミズムとエレクトロニクスによるコズミックな質感を融合させ、フローティング・ポインツにも通じるような作品となっている。“RGB”も同系の作品で、こちらではジャック・ワイリーの電化サックスが活躍する。“ビヨンド・ダイアログ”はハングドラムの浮遊感に満ちた音色から、ダブステップを取り入れたような変則的なビートも導入されるダビーな作品。“カレント・ヒストリー”や“ラインズ・グロウ”は、変則ビートながらもミニマルなグルーヴを備えた曲。生ドラムとプログラミングの融合だからこそ生み出せるものだろう。“アンダーカレント”はゴー・ゴー・ペンギン同様に叙情的なピアノと律動的なドラムがリードし、シンセによるレイヤーが壮大なサウンド・スケープを形成していく。かつての『ポルティコ・カルテット』でも、プログラミングが生演奏へとシームレスな移行する様を見せていた彼らだが、『アート・イン・ジ・エイジ・オブ・オートメイション』ではさらにその融合が高度となり、またバンド・アンサンブルや楽曲の完成度もより洗練化されたと言えよう。

寺尾紗穂 - ele-king

 たとえば出稼ぎにやってきた外国人労働者を描いた“アジアの汗”、愛や他人への無知や無力を歌い上げ、それが原発作業員の労働環境へと接続される“私は知らない”。寺尾紗穂は、こうした世界に黙殺される小さな声に耳を傾け続けている人だ。彼女はそれをビッグ・イシューのサポートによるフェス「りんりんふぇす」の主催や、ノンフィクション・エッセイの執筆など、多角的に、かつ継続して行ってきた。

 特にここ数年の寺尾は音楽と並行して精力的に執筆活動をこなしており、近年の著作は3冊。2015年には原発作業員への聞き取り調査をもとに構成された『原発労働者』と、長い歳月をかけて南洋をめぐりながら戦争の痕跡を書き留めた『南洋と私』の2冊。そして今年の8月には、パラオを訪れ、日本の植民地下だった1920年代のこの島国の当時を知る老人たちに話を聞きながら探っていく『あのころのパラオをさがして』を上梓した。連載をまとめたものもあるとはいえ、かなりのハイペースだ。そしてどれもいわゆるアーティストが自身の感性を頼りに書いたようなタイプの本ではなく、「シンガー・ソングライター」という肩書きからは切り離されて存在している。寺尾自身がそういった肩書きを特に標榜していないので、こうした観点がそもそも野暮かもしれないが、それでも「自分はどういう人なのか」を決めず、ひとつを選ばない寺尾のスタンスは、その活動を考える上で重要な視点になるのではないかと思う。

 前作『楕円の夢』もそうだった。第二次世界大戦中・戦後に活躍した評論家、花田清輝の『楕円幻想』にインスパイアされてできたというこの作品で、彼女は楕円というモチーフを「1や「真実」を否定するもの」と話している

 円には中心がひとつしかないが、楕円には中心となる焦点がふたつある。花田は他を無視してひとつの中心だけを見て円を描くのではなく、ふたつの点を焦点に楕円を描くことが、矛盾しながらも調和した社会に必要だと暗示した。寺尾はその「楕円」を多様性の象徴としてアルバムのテーマに据え、路上生活者をメンバーに擁する舞踏グループ「ソケリッサ!」のMV起用やツアーでの共演を行い、その存在を表舞台に引っ張り上げた。

 昨年発表された『わたしの好きなわらべうた』も、各地のわらべうたをリアレンジして、忘れ去られようとしているわらべうたの中に残る人びとの暮らしの跡をすくい上げようとしたものだった。これもまた過去のものを過去のものと決めつけず、そこに息づく手触りの確かさを信じた試みだったといえる。

 一方で、こうした活動は彼女を通好みの存在にしてしまっている側面もあるかもしれない。たとえば前作“楕円の夢”のMVを見て、ごく普通のおじさんが街中でゆらゆらと舞踏を踊る姿に、戸惑いを覚えた人もいるだろう。コンセプチュアルな『わたしの好きなわらべうた』に、食指が動かなかった人もいるかもしれない。熱心な原発や外国人労働者についての活動も、聞く人に選択を迫る。その真面目な姿勢は、近年の彼女を絶賛する声を増やす一方で、間口を狭くしてしまっていた。

 活動初期の彼女にはこうした社会派ともとれる表現は少なく、時にエキセントリックながら情熱的な恋愛模様を歌い上げるシンガー・ソングライターだった。もっと個人的で、内省的に歌を歌ってきた人だ。しかしながらその個人的な考えが社会的なメッセージ性を身にまとった時にこそ、寺尾の歌はより強く輝いた。“アジアの汗”や“私は知らない”が聴く人の胸を打つのは、寺尾が何かを告発するようにではなく、ただ自分にはこう見えている、というような純粋さで歌うからだ。その視点に異物感を覚える時、私たちは自分たちの暮らしがどれだけいびつに歪められているかを思い知る。しかし近年の彼女の活動は、そうした純粋な視点が見えにくくなっていたところがあった。それは寺尾自身が変わったというよりは、扱われ方の問題でもあると思うのだけど。

 その寺尾が2年ぶりに発表したオリジナル・アルバムのタイトルは『たよりないもののために』。いかにものように思えるタイトルだが、今作には直接的に労働者や路上生活者など「小さな声」の主は登場しない。その代わり、これまで以上に普遍的な強度を持ったポップ・ソングが、寺尾らしい凜とした佇まいで並んでいる。

 様々なミュージシャンと共演して楽曲を深化させる方法はこれまで通り。蓮沼執太やゴンドウトモヒコ、柴田聡子、マヒトゥ・ザ・ピーポーなどが名を連ね、アルバムに彩りを添えている。中でも変化を感じるのはオープニングを飾るナンバー“幼い二人”だ。これまでの寺尾の作品では、自身の音楽性を印象づけるようにピアノと歌が前面に出ている曲がオープニングに選ばれていたが、この曲はあだち麗三郎のドラムと伊賀航のベースが刻む素朴なリズムで幕を開ける。さらに、寺尾がピアノではなくエレクトリック・ピアノのウーリッツァーを弾いているのも特徴。エレクトリック・ピアノは前作『楕円の夢』でも何曲か使われているが、オープニングに配置されたことで、これまで寺尾のアルバムを聴いてきた人は新鮮に感じたのではないだろうか。新たに公開されたMVでは新バンド・冬にわかれてを寺尾と結成したことがアナウンスされたあだち麗三郎、伊賀航との3人での演奏がフィーチャーされており、洗練された映像からは寺尾の新たな一面を見ることができる。他にも疾走感のあるポップ・ソング“雲は夏”や、尾崎翠の歌詞に曲をつけた郷愁を誘うメロディの“新秋名果”など、ピアノと歌というアイデンティティを大切にしつつ、様々なアプローチが試みられている。賑やかというのではないが、明るく、生命力に満ちた1枚になっている。それは大森克己が手がけた鮮やかな草花のジャケットが示す通りだ。

 しかし、寺尾は小さな声に耳を傾けるのをやめたわけではない。タイトル・トラックの切実さはやはりどこか、そうした存在を想起させる。今作で社会的な事柄は具体的に描かれてはいないが、それは意図的というより、必ず登場させようと意気込んでいるわけではないということなのだろう。このことからは、路上の生活にも都市の恋愛にも同じように情熱を傾ける彼女の姿勢が浮かび上がる。その結果、『たよりないもののために』は聴き手に開かれた作品になった。

 たよりないもののために
 人は何度も夢を見る
 ぼろぼろになりながら
 美しいものを生む
“たよりないもののために”

 今作の英題は「For the Innocent」。“たよりないもの”の訳語に“イノセント”を持ってきたところに寺尾の現代社会へのスタンスがあらわれているが、とても多様性のある表現だと思う。たよりなくて、イノセントなもの。それは信念だったり、誰かの未来だったり、まったく別の何かであったりするだろう。前作のモチーフになった「楕円」よりさらに曖昧で、しかし誰もが何かを思い浮かべるもの。

 “たよりないもの”は、誰の日常にも息づいている。私にも、あなたにも、路上生活者のおじさんにも。ゆるやかに束ねられて気づく普遍。寺尾が放つ美しい最大公約数の言葉は、多様な生に向けられる眼差しを塗り変えていく。

Xth Réflexion - ele-king

 本作はシカゴを拠点とするレーベル〈chained library〉からリリースされたXth Réflexionのファースト・アルバムである。〈chained library〉は、カセット・レーベル〈Aught〉のヴァイナル専門のサブ・レーベルで、このアルバムは〈Aught〉から2015年に発表されたXth Réflexionの「/\\05」と「/\\06」をコンパイルしたものだ。

 〈Aught〉は2014年あたりから作品のリリース/発表を始めた超少部数プレスのマニアックなカセット・レーベルであり、Xth Réflexionに加えて、Elizabethan Collar、Topdown Dialectic、De Leon、ACI_EDITSなど謎度の高いウルトラ・マニアックなアーティストたちのスーパー・ミニマルなカセット/音源を送り出してきた。その成果を受けて〈chained library〉は2017年初頭から運営を開始し、Agnes『012016002001』とXth Réflexion 『/\\05-06』の2作をリリースする。両レーベルともにサウンド、アートワークなどが徹底的にミニマルな美意識で統一されており、00年代的な電子音響以降の新ミニマリズムを追及しようとする意志を感じる(アナログ盤はクリア・ヴァイナル仕様)。

 じじつ、彼らは完全に匿名のプロジェクトなのである。情報による先入観を可能な限りなくすことで、完全なミニマリズムの実現を遂行しているかのようだ。それは彼らの上の世代、つまり〈raster-noton〉や〈Editions Mego〉などの電子音響/グリッチ・レーベルが既に失ってしまった要素ともいえよう(むろん仕方がないわけだが)。つまり〈Aught〉/〈chained library〉は、意図的に、歴史も相互影響も情報によって作用しない環境・空間・状況を生みだそうとしているわけだ。リリースにあたっての情報がほとんどない点などからもそれは分かってくる。いわばレーベルの活動・運営自体が一種のアノニマス的なメディア論思想に貫かれているのだろうか。じっさい〈Aught〉はアルバム名がすべてナンバーで統一されていたし、〈chained library〉のアルバム名が数字であることからも、記号性/匿名性へのこだわりが理解できる。

 さて、Xth Réflexion『/\\05-06』は、1トラックめから4とラックめまでが「/\\05」(レコードだとA面・B面)、6トラックめから10トラックめ「/\\06」(レコードだとC面・D面)という構成となっている。ミニマル・マシン・アンビエント的な「/\\05」と、よりリズミックな要素が全面化している「/\\06」という流れになっており、対比的な構成ともいえる。さらに深いダブのかかったミニマリズムはどこか蒸気機関車の音のようでもあり、21世紀以降のポスト・ヒューマン的な響きのようである。つまり、このユニットのトラックは聴き飽きたグリッチでもなく、ありきたりなミニマル・テクノでもない。このダブとミニマリズムの交錯は20世紀と21世紀の歴史性を消失させてしまうだろう。この歴史の「消失」感覚にこそ、2017年以降の「新しいミニマリズム」を感じる。レーベル特有の匿名性や記号性を抜きにすれば、同時代的なサウンドとして、N1L、ZULI、DJ Sinclair、Assel、Dale Cornish、Mumdance & Logos、Machine Woman、Yann Leguayなどの分断的エクスペリメンタル・ミニマル・テクノ・トラックへと繋げてみることも可能である。つまり2017年以降の先端的な「新しさ」の系譜だ。これらのアーティストのトラックを聴くと、今という時代のサウンドには、どこか「壊れたミニマリズム」が炸裂しているように思えてならない。ポスト・ミニマルでもアフター・ミニマルでもない。いわばブロークン・ミニマルの時代を感じてしまう。破壊されたミニマリズムの破片が高密度かつ高速に再生/生成している。新しい音の快楽原則が生まれているように思えてならない。

 本作は、リマスタリングをベルリンのRashad Becker(Dubplates & Mastering)が行っており、サウンドの質感・クオリティが一段と向上している点にも注目したい。

[編集部註:タイトルおよび文中に登場する「​\​」は、正しくは反対向きのスラッシュ(「\」の半角)です]

DJ KRUSH - ele-king

 『軌跡』というアルバムに対峙して考えさせられたこと。それは、DJ KRUSHの音楽がダンス・ミュージックではない可能性、より正確に言うなら、ダンス・ミュージックでない可能性に潜んでいる、もっと別の可能性についてだった。

 iOS用の「hibiku」というアプリがある。文字通り、現実の音に「響き」を加えるアプリで、仕組みはシンプルだ。イヤフォンを装着してこのアプリを立ち上げると、イヤフォン付属のマイクを通した現実の身の回りの環境音に、残響音が付加されてイヤフォンに帰ってくる。この残響音により、ユーザは大聖堂や、洞窟にいるかのような聴覚体験をする。例えば電車の中でこのアプリを立ち上げれば、走行音や周囲の話し声、車内アナウンスなどが、全て遥か遠くから響いてくる。いわば、残響音が加えられることで自身が映画の登場人物になったかのように演出され、世界の捉え方が完全に一変する。異化効果を司るアプリ。

 そして、KRUSHのビートも、まさにこのような効果を齎すところがある。イヤフォンで彼のビートを聞きながら街を闊歩するとき、MCたちが描こうとする風景に、異化効果を齎すのだ。そしてこのような世界の眺め方は、何もMCたちに限定されるわけではない。リスナーたちが漫然と眺める風景にも、同様に適用される。

 だから冒頭の問いに戻るならば、DJ KRUSHのビートは、ダンスのためというよりも、街を彷徨い歩く、つまり彷徨のためのサウンド・トラックとでも言うべき側面を持ち合わせているのではないか。

 というのが「ダンス・ミュージックではない可能性」についてのスケッチなのだが、少し結論を急ぎ過ぎたかもしれない。まずは改めて、このアルバムを再生してみよう。

 冒頭、その煙の中から立ち上がるようなアブストラクトなSE。続いてディレイに彩られた「2017」「DJ KRUSH」というコールが、このアルバムの立ち位置を表明する。重いキックがウーファーを揺らし、スピーカーは自分の本来の役割を思い出したようにリスナーの腹へ低音を届ける。このイントロがわずか43秒間しかないこと、そしてインスト曲が中盤の「夢境」のみであるのは、今回のラップ・アルバムとしてのコンセプト通り「ラップの言葉」に語らせようという明確な意志が感じられる。

 イントロに導かれたラップ曲のオープナーは、OMSBによる“ロムロムの滝”。琴を思わせる弦楽器的な音色によるフレーズのループがくぐもった呟きを洩らす。小節単位でカウントされるループ。1、2、3、4、、、そして満を持して200Hz中心に叩きつけられる重心が低く粒子の粗いスネア。そして3拍目の3連のタメが効いているブーミンでファットなキック。キック、スネア、ハットと一緒に録音されている空気感(=アンビエントなホワイトノイズ)もロービットで汚され、コンプでブーストされ、そのざらついた存在感を主張している。

 ビート・ミュージックのリスナーたちは、たった1発のスネア、キックに身を捧げるため、スピーカーの前に集結する。曲の開始と共に、イントロでリスナーは焦らされる。そして自分が焦らされていることも分かっている。やがて満を持して叩きつけられる、1音のスネア、あるいは1音のキックがもたらすカタルシスを、息を止めて待ち焦がれる。それは、ビート・ミュージックの持つ最も幸福な瞬間のひとつだ。そんな瞬間のために、DJ KRUSHは最高のスネアとキックの一撃を追求してきた。彼はビートによって、動物の本能がつかさどる領域に踏み込み、欲望を露わにし、さらなる衝動を突き動かす。彼が長年キックとスネアとの対話を通して探究してきたのは、ある問いの答えだ。人は、なぜビート・ミュージックを、求めるのか。

 DJ KRUSHのようなビートメイカーと共演するということは、ビートの側から自己を見つめ直すことに等しい経験だ。自身のスキルの限界はどこか。太いビートに埋没しないフロウをどのように発揮するのか。その曲がワンアンドオンリーのクラシックとして残るようなリリックとは、等々。そのような試行錯誤を経て、彼のキックとスネアに対し、ときに正面からぶつかり合い、ときにその間を縫うように流れていく8つのヴォイスたち。OMSBがまき散らすのは、ビートを棍棒で叩くような即物的なフロウと、ビートの太さに挑み掛かる強靭なヴォイス。チプルソは“バック to ザ フューチャー”において、ビートボックスを拡大解釈し、打楽器と金管楽器双方を兼ねる楽器としてのヴォイスを駆使する。そのスキャット的なフロウは、子音でスタッカートを乱打し、母音を引き伸ばして音階を上下する。5lackは粘つくモタりをクールな表情で処理し、これまでのKRUSHのラップ曲史上類をみない粘度の高い“誰も知らない”グルーヴを生み出している。そして、かつて重力を無視して遥か上空から東京の街を見下ろすように言葉を泳がせたRINO LATINA II(“東京地下道”)は、地に足を着けた今もなお揚力を失わないフロウで、20年以上前の記憶の軌跡を“Dust Stream”で辿る。

 一方、リリック面はどうか。R-指定によるメタ視点が効いたリリックで、これまで散々語られてきたMCのステイト・オブ・マインドについて、“若輩”の視点から新たなページを加える。そして前半のラストを飾る“裕福ナ國”では、アルバム随一の抒情的な旋律を感じされるビートの上、Meisoの絶妙な角度から社会の陰部にメスを入れる視線がここでも健在だ。MCとしての自意識よりも、監視社会の構成員の一員として世界を俯瞰する視座から、2017年現在のディストピア的な日本に生きる肌感を伝える。一方、呂布カルマの“MONOLITH”を貫通するのは、MCバトルで鍛え上げられたメタファーとユーモアに彩られたバトルライムだ。ボディブローのようにじわじわと効いてくる、無自覚な同業者たちへの痛烈な警鐘。それが、KRUSHも一目置く独特な抑えられたトーンでデリヴァーされるのだが、ビートの前景と後景の間に貼り付くような良い意味で籠り気味の声質は、逆にリスナーにリリックの一言一句に聞き耳を立てさせる効果をもたらしている。

 そしてこれらのフロウとリリックの双方を綜合するかのように、10曲目に鎮座する志人の“結 –YUI–”。志人はここでも彼にしか示せない世界との関わり方を提示している。そのフロウもリリックも、古典芸能からの連続性のうちに捉えられるような「和」の表現を展開しており、特に同曲の後半においては、自然に満ち溢れたほとんど人外境を舞台にする様は白眉だ。これは従来のヒップホップにおいては支配的なステレオタイプである、「アメリカ産」「都会の音楽」といった属性とは見事に真逆だ。にもかかわらず、彼の表現はヒップホップ的にも「ドープ」としか言いようのないものとなっている。そして、このような異形のヒップホップが存在し得る土壌を開拓したのも、他でもないDJ KRUSHだと考える。どういうことだろうか。

 1990年代中盤以降、彼のビートはそれまでになかった表現として欧米を中心に世界に受容されたが、その音楽性は、同時代的に活躍したポーティスヘッドやマッシヴ・アタック、そして何よりも盟友と言ってもよいDJシャドウらと共に「トリップホップ」や「アブストラクト・ヒップホップ」としてカテゴライズされた。「トリップホップ」は頭に働きかけるダンス・ミュージックとも言われ、アメリカが独占状態のヒップホップに対する、ブリストルのシーンを中心とするUKからの新たなる可能性の提示でもあった。「トリップホップ」という命名はアーティストからの不評も買ったが、ここで注目しておきたいのは、その代替として使用されることも多かった「アブストラクト(ヒップホップ)」という呼称である。なぜDJ KRUSHやシャドウのサウンドは、「アブストラクト」と形容されたのか。

 ここでは、大きくふたつの理由を考えたい。ひとつめは、彼らは、ラップとビートのセットではなく、ラップ抜きのインストだけでそれが成立することを示したことだ。MCたちの直面するリアリティを「具体的」に示す言葉を持たないインストのヒップホップは、「アブストラクト」ヒップホップと呼ばれた。簡単に言えば「ラップという〈言葉〉による表現=具象」と「〈音のみ〉の表現=抽象」というわけだ。つまりこの場合の「アブストラクト」は、ビート自身が音で語りかけるインストゥルメンタル・ミュージックの別名である。

 そしてふたつめの理由は、ビートのサウンド自体の特性にある。「抽象的」なサウンドとは何かを考えることは、反対に「具象」とは何かという問いにつながる。例えば1950年代にフランスで勃興したミュジーク・コンクレートにおいて、「コンクレート=具体」としてのサウンドは、自然音、人や動物の声、インダストリアルな環境音、電子音などを指していた。では、ヒップホップのサウンド面における「具象」の条件とは何か。ひとつには、ビートを構成している音を「具体的」に指し示すことができること。その音は、何の楽器で奏でられているのか。どのような音階やリズム、つまりフレーズとして奏でられているのか。そしてもうひとつ、サンプリング・ミュージックとしてのヒップホップにおける「具象」とは、参照先を「具体的」に特定できることも指すだろう。このブレイクビーツは、このレコードのこのフレーズからのサンプリング。この上ネタのエレピとストリングスは、あのレコードのサンプリング、というように。

 であるならば、逆に「抽象的」な音とは、例えばピッチを下げることで音程もリズムも失ったサウンドだ。かつてエドガー・ヴァレーズは、テープレコーダーの誕生に伴い再生スピードを変化させることや音の順序を組み替えることが可能になったことで、レコードの時代には困難だった様々な音響実験を加速させた。同様に、ビート・ミュージックによる抽象表現も、まさにサンプラーやデジタル・エフェクターというテクノロジーの発明によって実用化されたと言える。元は何の楽器から発された音なのかも判然としない。同様に、短く断片化されたり、ディレイやリヴァーブが深くかけられたり、ロービットでサンプリングされたりと、様々な理由でソースを特定できないサウンドの断片たち。あるいは、一部のフリー・ジャズやドローンにおいて聞かれるような、元々リズムやフレーズ感の希薄なサウンドたち。それを鳴らしている楽器も、リズムも音階も具体的に指し示すことが困難であり、さらにどのレコードからサンプリングしているのかも不明なサウンドの断片たち。

 こうして考えてみれば、アブストラクトの定義のうち前者、インストとしての「アブストラクト・ヒップホップ」の展開を背負ったのはDJシャドウであろう。そこにはMCの言葉はなく、ビートが物語を代弁する。1996年リリースのファースト・アルバム『Endtroducing.....』は、物語性をまとったビートが描く一大絵巻物だった。

 一方、後者の「〈アブストラクトなサウンド〉のヒップホップ」を体現したのが、他でもないDJ KRUSHではなかったか。このことは、例えば〈Mo' Wax〉から1994年にリリースされたDJシャドウとDJ KRUSHのスプリット盤の収録曲“Lost And Found (S.F.L.)”と“Kemuri”を聞き比べてみればよく分かる。シャドウの“Lost And Found”は実に彼らしいスクラッチと「You said to me, I'm out of my mind」というナレーションからスタートし、ブレイクビーツとエレピのループをベースに、次々とギター、トランペット、人の声といった「具体音」が入れ替わり立ち替わり現れる。いわゆる各パートの「抜き差し」によってダイナミズムを伴う楽曲展開を見せてくれる、約10分にわたる従来の物語構造を持つ「短編映画」のような作品だ(対するKRUSHのビートも決して映画的/映像的でないということではなく、映画に喩えるならヌーヴェル・ヴァーグ的ということになるだろうか)。ここには「ラップの言葉」は一切表れないが、聞き手が物語を読み込んでしまうようなサウンドスケープが展開されるのだ。

 対するDJ KRUSHによる“Kemuri”はどうか。紛うことなき彼の代表曲であるこの曲は冒頭から、ブレイクビーツの上に乗る不穏なノート、ディレイで左右に飛ばされるノイズ、ターンテーブルから発せられるスクラッチ混じりのサウンド、そして管楽器風のサウンドのメインフレーズ、その背後のサイレンなど、全ての音が、どのようなジャンルの音楽の、どのような楽器の、どのような演奏からサンプリングしたのか計りかねるような、出自不詳のサウンドたち。それらが、まさに「煙」のように輪郭が曖昧で互いに混ざり合いながら、粛々と驀進するブレイクビーツに寄り添い漂う。DJ KRUSHのトレードマークである、ディレイで左右に飛ばされる音は「煙」なのだ。これらの「抽象的」なサウンドで描かれたビート群は、KRUSH自身の出自も相まって、当時の聴衆に非常に新規性のある音楽として映ったのは想像に難くない。DJ KRUSHは、ヒップホップから派生したビート・ミュージックに、ブラック・ミュージックとは異なる系譜の「煙たさ」を持ち込んだのだ。

 そのような抽象的なインストのみで成立する、あるいはインストが語りかけるようなビートに、改めてラップの言葉を乗せてみようというのもまた、DJ KRUSHやシャドウ(U.N.K.L.E)の試みのひとつだった。そのようなアブストラクトなビートの上に、MCたちはどのようなライムを乗せようとするだろう。例えば1995年にリリースされた『迷走』からのタイトル・トラックで、初期のKRUSHラップ曲を代表する1曲でもある、ブラック・ソートとマリク・Bをフィーチャーした“Meiso”。冒頭のハービー・ハンコック(ジョー・ファレルのカルテットに参加)によるエレピのフレーズは、KRUSH愛用のAKAI S1000によって低いビットレートでサンプリングされ、その輪郭を失った「抽象音」と化している(同じハービー・ネタで言えば、「具象」という意味で対極にあるのがUS3の「Cantaloop (Flip Fantasia)」だろうか)。そしてクオンタイズの呪縛から脱出するように僅かにつんのめるブレイクビーツ。両者のヴァース間、1分32秒以降KRUSHが擦るのは、ジャズのライヴでプレイヤーたちのインタープレイの一瞬の間隙を抜き取ったような「キメ=空白」のサウンドや、あるいはこれもジャズのレコードからと思しき、輪郭が曖昧なベースラインだ。通常のDJ的な感性に倣えばスクラッチ映えするアタックとハイが強調されたサウンドを選ぶのだろうが、彼の独創性が、敢えてビートに滲み、埋没するサウンドを選ばせた。しかしこれらの曖昧で歪なパーツたちが織り成したのは、途轍もないグルーヴだった。JBネタのビートたちとは全く異なるアプローチで現前せしめられるファンクネス。聴衆たちは、この衝撃への興奮を包み隠さずぶちまけ、狂乱のフロアに沈み込んだ。

 だから当然ブラック・ソートことタリークも、最高のライムをぶちまけた。しかしKRUSHのアブストラクトなグルーヴに誘引されたのは、いつもとは異なるボキャブラリーのライムだった。例えば「俺はイラデルフ(フィラデルフィアとイルの合成語)出身、そこじゃお前の健康は保障できない/この惑星を一周するサイファーの中、赤道ほどの熱を持つ場所/あるいは普通じゃない、王宮の正門から現れた奴らがお前の魂を要求する/八仙の七番目をコントロールする者/この終わりのない迷宮の中で、夜が昼に戦いを挑む場所で」という中盤のライン。注目すべきは、1行目から2行目、そして2行目から3行目への跳躍。このような路線のリリックは後にザ・ルーツの“Concerto of The Desperado”のような曲に引き継がれることとなるが、このとき既にリリースされていたザ・ルーツのファースト・アルバムの彼のライムとは明らかなギャップがある。ザ・ルーツのファースト・アルバムの独自性とは、ジャズ的なインプロヴィゼーションを重視するバンドがビートを演奏することであり、ブラック・ソートもそれに合わせるように、即興性の高い、フリースタイルの延長のようなライムを披露していたが、その内容は良くも悪くもラップのゴールデンエイジのテンプレートを脱するものではなかった。であるならば、タリークからこのようなエキゾチックで抽象的なライムを引き出したのは、KRUSHのビートが生みだした異形のグルーヴだったのだ。

 アブストラクト。音楽以外の抽象芸術に目を向ければ、例えばカンディンスキーの抽象絵画は、音楽の視覚化の試みでもあったことが知られている。共感覚を持っていたがゆえの発想かもしれないが、そもそもこのような音楽の視覚芸術による翻訳=置き換え(あるいはその逆)は多くのアーティストたちの表現の核心を担ってきた。さらには、音楽や視覚イメージの「言語化」の試みが、多くの作家や詩人、あるいは批評家たちによって、時には通常の言語で説明的に、時には「詩的言語」を駆使して為されてきた。

 例えば『迷走』のUK版のアナログのジャケットのアートワークは、抽象的なグラフィティで知られているFutura 2000によるものだが、アメリカの詩人のロバート・クリーリーが、「Wheels」と題された次のような詩をFutura 2000に捧げている。「ひとつ その周りに ひとつ/あるいは内側、限界/そして飛散/外側、その空虚/縁のない、丸く/空のように/あるいは見つめる眼/過ぎゆく全て/沈黙のにじみの中で」と、言葉少なげに探るような一篇。ここにはFutura 2000の抽象的な作風に呼応するように、抽象的な「詩的言語」との格闘の痕跡を認めることができるが、同様に、DJ KRUSHのアブストラクトなビートにMCたちがライムを乗せようとする場合も、彼のビートの「抽象性」が「詩的言語」に類するワードプレイを誘引する。そこでは、少なからずそのビート自体の「言語化=言葉による描写」がリリックに混入する。MCたちが一人称で自己の姿とリアルな日常を描くとしても、描かれる自己とは、そのビートを聞いている自己であるからだ。KRUSHの抽象的なビートを聞きながら街を彷徨い、見えるものを描く。異化される街並み。異化される日常。

 そう考えてみれば、KRUSHのビートこそが、MCたちの言語世界の新しい扉を開いたと言える。そして結果的に、アブストラクトと呼ばれる類のビート・ミュージックにライムを乗せることで立ち上がる、原風景を示すことになったのだ。

 そしてこの原風景は、一方ではカンパニー・フロウやアンチコンらの世界観(従来「黒い」と形容されるヒップホップに精神的にも音楽的にもカウンターとして成立した)に、他方ではTHA BLUE HERB(そして流の“ILL ~BEATNIK”でBOSS THE MCが到達した極北)や、降神やMSCらの世界観の通奏低音として、常にその影を落としていた(そう考えてみれば、KRUSHと彼らとの共演も必然だったのだろう)。グローバル規模で展開するアンダーグラウンドな「異形」のヒップホップが共有するライムとビートの関係性における「ドープ」という概念は、KRUSHが持ち込んだ「抽象性」と、それが誘発する「抽象」と「具象」のギャップ(抽象的なビートにストリートを描くライムが乗る、MSCやキャニバル・オックスの世界観)にこそ、宿るのだ。その通奏低音が、再び前景化するこのアルバム。DJ KRUSHの25年の営み。僕たちが目撃しているのは、アンダーグラウンド・ヒップホップの生成と隆盛であり、もっと言えばその生き死にの「軌跡」なのだ。

 では、MCたちのライムに表れるKRUSHのビートの「抽象性」の影響とは何だろうか。『軌跡』において、それらは具体的にどのような形を取っているのか。それを確かめるために、近年のKRUSHのビートの抽象性を確認しておこう。

 『覚醒』(1998年)までと『漸』(2001年)以降、2000年を境にサンプラーによるサンプリングから、PCとDAW上の打ち込みのサウンドに上ネタが変化しても、KRUSHの一貫性が保たれているのは、あくまでも重心がかけられている太いビートと、上ネタが保持する「抽象性」によるものだ。『軌跡』のビート群においても、この「抽象性」を担保しているのは、残響音だ。深いリヴァーブ。ロービットで太くドライなブレイクビーツと、比較的高解像度の残響音を湛えるシンセ・サウンドがメインの上ネタは、強いコントラストを成している。

 残響音は、サウンドとリスナーの距離感も示している。ビートは、ダンスフロアで、いつでもリスナーの側で、寄り添うことで、ダンスを誘引する。ビートは、心臓の鼓動のように、身体の中心で、鳴り続ける。その意味で、ドライな音場を持つ音は、非常に身体的だ。一方の深い残響を有するサウンドは、その残響を生み出す空間的な広がりを意識させ、それがある種の想像力へ接続されるだろう。世界の広がりへ向けて、無機物の沈黙へ向けて、あるいは宇宙の静謐さへ向けて、駆動される想像力。幼少期にトンネルで声が響くことを発見し、何度も声を上げた経験があるなら、その響きのために、見知っているはずの世界の表情が少し違って見えたのではないだろうか。

 残響音が示し得るものは多様だ。深い残響音を得るためには、室内の場合は残響音を生みだす空間や壁といった環境が必要だ。1970年代のデジタル・リヴァーブの誕生以降、DAWを用いるビート制作に至るまで、これは実際にはデジタル処理で再現された人工的な響きなのだが、プラグインソフトのリヴァーブのプリセット設定に「ルーム」「ホール」「トンネル」等の名称が一般的に付与されているように、それは一定の「広さ」の音が響く空間が存在し、そのように「遠く」まで「深く」響くことを示している。だから自然とこの深い残響音が聞き手に想起させるのは、「広さ」「遠さ」「深さ」などと結びつくようなイメージだろう。

 であるならば、MCたちのリリックにも「広さ」「遠さ」「深さ」を翻訳したイメージが忍び込むに違いない。例えば、自身の目の前のリアルから「遠く」離れ、どこか別の場所の出来事を描くこと。狭い現実世界とは異なる「広がり」を持った視点で「遠い」風景を物語化すること。MCとしての自分自身から抜け出す、三人称の視点で、それらを寓話化すること。あるいは演出された残響音を擁する舞台装置であるビートの上で、自身をその物語を生きる映画の主人公のように描くこと。

 このことを踏まえれば、このアルバムにおいてまず目に付くのは、物語性を押し出した、寓話的なリリックたちだ。チプルソの“バック to ザ フューチャー”は、歌詞カードの最初に「-Storytelling-」と記されていることでも明らかなように、タイトル通り映画的物語が展開される。そのスペイシーな残響音をまとった上モノのシンセは、リリックにもある通り「部屋の煙」の中で「迷宮の出口」を探している自身の過去、2006年という11年前の記憶を物語化する距離感=「遠さ」の象徴のようだ。RINOもまた、「BACK IN DA DAY」と歌う90年代の日本のヒップホップの現場の記憶を「遠い」物語としてライムしている。また、Meisoが「土砂降りの時代」と歌う現代の日本の状況は、その寓話的な描き方もあり、どこか別の時代の「遠い」場所の物語とも響き合うような、普遍性を獲得しているようにも聞こえる。例えば「外じゃ戦争 中じゃ崩壊/ここじゃジョーカーが王様となる/やるかやられるか環境の産物/天使に生まれて化け物に変わる」というフックに顕著なように。抒情的な旋律を包み込むような残響音が詳らかにするのは、日本の陰部の広大さ、そしてその深淵だ。

 そして志人による“結”においては、「我」とその片割れである人類の「遠さ」がまさに主題となっている。志人は超越的な「我」という「遠い」視点に憑依し、地球規模での人類の蛮行を俯瞰する。ここでKRUSHが提出しているビートは、志人のリリックの深さをも収納できる、深い器であり、彼のフロウが演舞する舞台装置だ。削ぎ落とされた音数の少なさと、その分耳に入ってくる打楽器の残響音の深さ。志人のフロウの音程に場を譲るように、ビートは旋律を規定することもなく、そこに器として全身を差し出している。

 一方で、「駅前」「神奈川座間」「平常運転な日常」といった言葉が頻出するOMSBの“ロムロムの滝”や、MCが日々直面しているスキルやスタイルへのマインドが表明される5lackによる“誰も知らない”は、大雑把にいえば、日常の現実を相手取っている。そしてそのような「具体」性を持つ現実が、「抽象」的なビートに重ね合わせられたときのギャップ=異化効果が両者の組み合わせの醍醐味だ。あるいは「遠さ」の象徴としての残響が深いビートと、「近さ」の象徴として日常を描くリリックのギャップ。かつてブラック・ソートが「迷宮」と言い表した地元フィラデルフィアの街並みと同様、OMSBがそこに棲息する人々を描写しながら闊歩する地元の街並みは、どこまで行っても果てのないラビリンスと化す。そしてそのリリックの傍に現れる、例えば34秒からのシンセ音や、46秒に響くヴォイス・サンプルの残響音の深さは、街の雑踏の深さや、闊歩するOMSBに視線の前を通過する時間の経過を示しているようだ。残響音の深さは、何よりもリリックの光景を映像化する装置として、効果的に機能している。

 これらの残響音が、OMSBのリリック自体に与えている影響。その証左は、ヴァースでは地元の街の極めて具体的な日常の姿を描写しながらも、フックで「現実かどうかはどうでもいい」「見慣れたデジャヴを、常に行き来」と歌っている点にある。なぜならこれは、残響音という演出の施されたビート越しに眺める日常の景色が、非現実的なもの、あるいはデジャヴに映ってしまうという、まさに異化効果への言及だと理解できるからだ。このことに呼応するかのように、KRUSH自身が中盤のインストに「夢境」と名付けているのは、それがアルバムの前半と後半を区切る境でありつつ、個々の楽曲が「現」と、それを異化するような「夢」を行き来する本作において、同曲がその境でもあることを示してはいないか。

 サイエンス・ライターのマーク・チャンギージーが指摘したのは、音楽を特徴付けるのは、音の高さの変化ではなく、「拍=ビート」であることだった。そしてそれは、人間の動作に起源を持っており、具体的には「足音」の似姿であると。この指摘は、ヒップホップというビート・ミュージックには殊更当てはまるように思える。90年代に西海岸という車社会でヒップホップが興隆する以前、ニューヨークのヒップホップのビートとBPMは、颯爽とストリートを歩行する速度とシンクロするBGMだった。“Walk This Way”という例を引くまでもなく、ウォークマンと共に街を闊歩しながら、あるいは彷徨いながら受容されるビート・ミュージックという側面が確かにあったのだ(今やウォークマンなど遠い昔の話に聞こえるかもしれない、ストリーミング・サービスの普及でスマホとイヤフォンで音楽を聞くのが日常となった今こそ、アクチュアリティを取り戻してきているのもまた事実だ)。ラン・DMCのニューヨークから、ブラック・ソートのフィラデルフィア、そしてOMSBの座間へと続く彷徨の「軌跡」を追うこと。そしてそれらのラン・DMCのニューヨークに比べ、KRUSHのフィラデルフィアと座間が、どのような景色をMCたちとリスナーたちに見せてしまうのか。KRUSHのビートは、そのギャップを伴う景色を、残響音を媒介にして示しているのだ。

 しかし本作の解釈はそれだけでは終わらない。都市での彷徨と対置されるべき、“結 –YUI–”における、志人による森林を歩行するBPMは、遅い。それは「追われたてた物の怪や除け者の獣達」の歩みだ。「未来こそ懐かしいものに」することを目指す彷徨だ。「お前だけが良しとされる」都市に対置される自然の歩みにシンクロするBPMをも射程にするのが、KRUSHが提示した異形のヒップホップのドープさであり、その器となるビートであった。同曲は、90年代から加速し続けるヒップホップの商業主義化の中で、2017年現在最もエッジイな異形さを顕現させている楽曲のひとつだ。『軌跡』という作品が到達した地平のラストを締める1曲。この25年という年月でKRUSHの抽象的なビートという器が、どれだけの具象性=言葉を熟成させて来たのか。このアルバムに象られているのは、その「軌跡」でもあった。

 DJ KRUSHにとって、ビート・メイキングとは、スネアの1音、キックの1音の追求とは、何よりも日々の歩行であり、彷徨に準えられる営みだ。KRUSHが次々に踏み出す右足、そして左足としてのキックとスネアの響き。そのことはこれまでの彼のアルバムのタイトル群にも表れていた。それは「迷走」であり、その状態からの「覚醒」であり、継続して少しずつ「未来」へ、そして「深層」へ進む「漸」進であり、この25周年という月日の蓄積が示すものこそが、その「軌跡」だった。

Liars - ele-king

 隠された内面の吐露であるとか、もっともらしいメッセージであるとか、「リアルであること」とか……、「シリアス」なロック・ミュージックがおおよそ陥りがちなクリシェ(すなわち停滞)からライアーズはつねに身をかわし続けてきた。何しろ彼らは「嘘つき」だ。ライアーズは2001年のデビュー作からコンスタントに7枚アルバムを発表しているが、作品ごとに極端にサウンドとコンセプトを変えていくというのは批評や聴き手を煙に巻くということに他ならず、つまりバンドの本質を誰にも悟らせないということだ。そもそも本質なんてまやかしに過ぎないとでも言うように、飄々と実験で遊んできたことがライアーズをライアーズたらしめてきた要素であった。もしライアーズがポストパンクであるならば、それはたんなる音の記号の引用ではなく……スーサイドのシンセ・サウンドでもギャング・オブ・フォーのベースラインでもなく、知性とユーモア、それにアイデアで停滞を乗り越えていこうとする態度のことである。
 だが、8作めとなる『TFCF』の再生ボタンを押せば、1曲め、“The Grand Delusional”ではすすり泣くようなアコースティック・ギターの演奏とアンガス・アンドリューの歌が聞こえる。ジョークでは……なさそうである。アンドリューは本作のことを「孤独であること」を見つめたものだと説明している。そして、そこに潜るためにアコースティック・ギターが必要だったと。「“リアル・ミュージック”って最悪な言葉のセンスだ」と言いながら、それでも彼にとってなにか「リアル」なものがこのアルバムにおいては必要だったのである。ライアーズは嘘つきであることを手放したのだろうか?

 そこには、バンドの内的要因が働いている。本作の制作に取り掛かる前、結成以来のメンバーであったアーロン・ヘムフィルが離脱。ライアーズは実質アンガス・アンドリューのソロ・プロジェクトとなる。アンドリューは自身が育ったオーストラリアに居を移し、人里離れた場所でひとり音楽創作と向き合うこととなった。
 テクノ的にかっちりとしたエレクトロニック・ビートとプログラミングを多用した前作『メス』と本作は極めて対照的で、これまで避けてきたアコースティック・ギターの演奏とサンプリング・ワークが『TFCF』において大きなサウンドの特徴となっている。が、それはこれまでのコンセプト主義によってもたらされた変化ではなく、やむにやまれず取り組まれたものだ。アコギを弾くことで触発されたのか、歌詞はひどく内面的。躁的だった『メス』とはこれも対照的に、全編を通してダウナーなムードに満ちている。初期のシャープさもない。ライアーズが一角を担っていたとされるブルックリン・シーンやポストパンク・リヴァイヴァルが霧散したいまとなっては余計に、何やら物寂しげなアルバムである。アコギの弾き語りにシンセの丸い音をいくつか与えたばかりの“No Help Pamphlet”、弱々しく歌うバラッド“Ripe Ripe Rot”など、ライアーズらしからぬ寂寥感が響いてくる。
 だが……ウェディング・ドレス姿のアンドリューと見つめ合いながらアルバムを聴いていると、彼が諧謔を捨てていないことがにわかに伝わってくる。ライアーズを培ってきたエクスペリメンタリズムはもはやガッチリと根を張り、自然と茎を伸ばしている。西部劇が爛れたシンセ・ポップに侵食され飲み込まれていくかのような“Cliché Suite”、呪術的なノイズが蠢くばかりの“Face To Face With My Face”、アコースティックなリフが脱力的なダンス・サウンドで脱臼する“No Tree No Branch”、ベック『オディレイ!』をすさまじくダルくしたかのようなサンプリング・コラージュ“Cred Woes”、高圧的なビートと低音がランダムに叩きつけられる“Coins In My Caged Fist”……。たしかにこれまでのような都会のアート・ロックという佇まいではなくなっているが、オーストラリアの美しい田舎の風景のなかで作ったにしては何かが強烈に歪んでいる。ディス・ヒート『ディシート』が時空を超えて蘇ったかのような不穏さと奇妙さ。『TFCF』には彼、アンガス・アンドリューの「リアル」な内面の探求がたしかに込められているはずなのに、その表出において「シリアス」な聴き手を何度もからかっているようだ。あるいは内面に沈みこもうとする自分自身も。存在の危機に直面してなお、嘘つきの矜持は守られたのである。


Toro Y Moi - ele-king

 夏の夕暮れどきのビーチにピッタリの音楽が今年もいろいろとリリースされた。『ele-king』のレヴュー・コーナーで取り上げたものだと、ウォッシュト・アウトの『ミスター・メロー』やピーキング・ライツの『ザ・フィフス・ステイト・オブ・コンシャスネス』がそれにあたる。そして、かつてウォッシュト・アウトと共にチルウェイヴの旗手として鮮烈に登場したトロ・イ・モワことチャズ・バンディック(チャズ・ベアー)。彼の新作『ブー・ブー』も2017年の夏を彩る1枚だ。ウォッシュト・アウトもトロ・イ・モワも、いつも夏シーズンにアルバムをリリースすることが多いが、そのあたりはもう確信犯的とも言える。そして、両者には共通項も多い。初期のシューゲイズ的な作風から、次第にディスコなどを取り入れたダンサブルなサウンドへと変化していった点がそうだ。

 トロ・イ・モワについて言えば、そうした変化の兆しは既にセカンド・アルバムの『アンダーニース・ザ・パイン』(2011年)の頃から見られ、EPの「フリーキング・アウト」(2011年)ではシェレールとアレキサンダー・オニールのクラシック“サタデー・ラヴ”をカヴァーし、1980年代前半のブラコンやシンセ・ブギーをリヴァイヴァルするデイム・ファンクあたりともリンクしていた。サード・アルバムの『エニシング・イン・リターン』(2013年)では、そうしたダンサブルな傾向はハウス・サウンドとの融合という形で表れている(チャズの別名義のレ・シンズは、この路線をさらに強化したエレクトロニック・ダンス・プロジェクトである)。この年はダフト・パンクの『ランダム・アクセス・メモリーズ』(2013年)がリリースされるのだが、そうしたディスコ/ブギー回帰とも同期した作品と言えるだろう。その後、第4作目の『ホワット・フォー?』(2015年)は1970年代のトッド・ラングレンやチン・マイア、コルテックスなどにインスパイアされたというように、ロックやポップ・ミュージック、AORに改めて向き合うような作品が目に付いた。彼の作品中でもっともロック~シンガー・ソングライター色が濃い作品で、チャズのギターを中心に、バンド演奏が前面に出た録音である。

 今年2017年に入るとチャズは、双子のジャズ~ポスト・ロック~サーフ・ミュージック・コンビのマットソン2とのコラボ作『スター・スタッフ』を発表する。『ホワット・フォー?』の路線をよりエクスペリメンタルなジャム・バンド風セッションへと導き、ジャズ、ロック、ファンク、ディスコなどが融合した内容で、チャズのギタリストとしての魅力も最大限に発揮されている。今までのチャズの作品の中でも毛色の変わったコラボ作品となったが、その反動としてメイン・プロジェクトであるトロ・イ・モワの新作『ブー・ブー』は、セルフ・プロデュースでほぼひとりで全楽器を演奏している。ほとんどインスト集だった『スター・スタッフ』に対し、チャズのヴォーカルが多く配され、またギターではなくシンセを中心とした80sサウンドを軸とした作りとなっている。バンド作品的であった『ホワット・フォー?』とも異なり、『エニシング・イン・リターン』以前のセルフ・スタイルへと回帰している。サウンド的には『ホワット・フォー?』でのポップスやAOR、『エニシング・イン・リターン』の頃のブギーやディスコが結びつき、トロ・イ・モワ作品中でも極めてソウルフルでメロウなアルバムとなっている。たとえば“ミラージュ”はボビー・コールドウェルやデヴィッド・フォスター路線のAORディスコ。山下達郎など和モノ・ディスコにも繋がる曲だし、ウォッシュト・アウトの『ミスター・メロー』と同じ方向を向いていると言えよう。“インサイド・マイ・ヘッド”も同系のナンバーで、よりエレクトリック・ブギー色が強い。“モナ・リザ”は日本好きの彼らしく、日本語の天気予報ニュースのSEを配しているのだが、楽曲自体は80sシンセ・ポップ的な作品。“ラビリンス”は80年代のポリスとかティアーズ・フォー・フィアーズの曲などと遜色ない作品だ。先行シングル・カットされた“ガール・ライク・ユー”はじめ、“ウィンドウズ”や“ユー・アンド・アイ”は、そうした80年代のシンセ・ポップやエムトゥーメイなどのブラコンと、現在のフランク・オーシャンやブラッド・オレンジなどのアンビエントなR&Bを繋ぐ曲である。“ノー・ショウ”や“W.I.W.W.T.W.”は、アルバム全体を貫くメロウネスとチャズの実験的な側面がうまく融合している。特に“W.I.W.W.T.W.”は曲の途中から前半と全く異なるアンビエントな展開を見せる。“ミラージュ”や“インサイド・マイ・ヘッド”でのポップな側面と、この“W.I.W.W.T.W”における実験性の落差。そんな両面を有するところがチャズの最大の魅力だろう。

Iglooghost - ele-king

 まだ20歳だという気鋭のプロデューサー、イグルーゴースト。すでに〈Brainfeeder〉から「Chinese Nu Yr」(2015年)と「Little Grids」(2016年)の2枚のEPをリリースしている彼が、9月29日に待望のデビュー・アルバムを発売する。先行公開されたシングル曲“Bug Theif”の雑食性はさすが〈Brainfeeder〉と言うべきか、次々といろんな要素がぶち込まれていく展開は飽きがこない。これはジェイムスズーに続く期待の星である。要チェック。


IGLOOGHOST

フライング・ロータス主宰〈Brainfeeder〉から
待望のデビュー・アルバム『Neō Wax Bloom』を9月29日にリリースする
弱冠20歳のUK発気鋭プロデューサーのイグルーゴーストが
先行シングル「Bug Theif」を公開!


弱冠20歳のUK発気鋭プロデューサーのイグルーゴーストが、フライング・ロータス主宰〈Brainfeeder〉から待望のデビュー・アルバム『Neō Wax Bloom』を、9月29日にリリースする。2015年の4曲収録デビューEP「Chinese Nü Year」の続編とも言える本作は、ミステリアスなマムーの世界に遭遇した巨大なふたつの目玉にまつわる話をもとにしており、強烈で狂った世界観を演出している。また京都を拠点に活動するドリーム・ポップ・プロデューサーCuusheやMr. Yoteらが参加している。LPには12ページのリソプリント・ブックレットと『Neō Wax Bloom』のキャラクター・ステッカー・シートが封入される。
アルバム・アナウンスに併せて先行シングル「Bug Thief」が公開された。

Iglooghost - Bug Thief
https://youtu.be/2Y1rWasqPMA

『Neō Wax Bloom』アルバム・プリオーダー (iTunes)
https://apple.co/2wlpUGj

Label: Brainfeeder
Artist: Iglooghost
Title: Neō Wax Bloom

Release Date: Sep.29th, 2017

Format: CD/2LP/Digital

Bicep - ele-king

 アンドリュー・ファーガソンとマシュー・マクブライアからなるハウス・デュオ、バイセップ。すでに多くの12インチを発表しており、“You”(2012年)や“Just”(2015年)などで高い評価を得ている彼らだが、遂にそのデビュー・アルバムが9月1日に〈Ninja Tune〉からリリースされる。これは注目。


Bicep待望のデビュー・アルバム『Bicep』が
〈Ninja Tune〉より9月1日に遂にリリース!
そして先行シングル 「Aura」が公開!
また10月7日にContact Tokyoにて来日公演が決定!

先行シングル:Bicep - Aura [Official Audio]
https://youtu.be/Xvlym4g9SQQ

Coachella、Glastonbury、Primavera、Melt、Dekmantel、 Lovebox、Parklifeへの出演、また2016年『Resident Advisor』年間DJランキングにて第8位に選出され、現行エレクトロニック・ミュージック・シーンにおいて最も信頼のおけるキュレーターして知られるロンドンを拠点に活動するマット・マクブライアーとアンディ・ファーガソンのデュオ、バイセップが、セルフ・タイトルのデビュー・アルバムを〈Ninja Tune〉より2017年9月1日に発売する。
この10年、ふたりはFeelmybicepというブログを通じて、インスパイアの源となる音楽を紹介してきた。最初はレコード収集の趣味を披露する場として始めたが、結果的にはさまざまな活動のきっかけへとなっていった。2008年に開設したこのブログには月に10万人が訪れるようになり、ここから同じ名前のレコード・レーベルやクラブ・イベントが誕生することになる。そしてふたりはUKのみならず、ディープダグ・ハウスとディスコ(再発見され、再び機会を与えられた)をミックスしたエディットとアップフロント・トラックのブレンドなど、ブログで人気のDJセットを携えて、国際的なステージに立つようになった。その結果、今日のエレクトロニック・ミュージック界で、大きな信頼と高い評価を得るキュレーターとして尊敬を集めるようになった。バイセップは、〈Throne Of Blood〉〈Traveller Records〉〈Mystery Meat〉〈Love Fever〉といったレーベルと手を組んだ後、ウィル・ソウルの勧めで彼の〈Aus Music〉から作品をリリースしたが、その中にはすでにクラシックと化した「Just EP」も含まれている。あちこちで耳にするタイトル・トラックは、誰もが認める2015年のクラブ・トラックで、『Mixmag』と『DJ Mag』双方の「Track of the Year」を獲得した。また、もうひとつの先駆的なUKデュオ、シミアン・モバイル・ディスコとコラボし、ディスクロージャーやブラッド・オレンジ、808ステイトのリミックスもおこなっている。

「ぼくらにとって大切なのは、大きな眼で音楽を見つめているレーベルの一員になることだ」
「〈Ninja Tune〉には固定概念を持たれるような制限を感じなかった」

またアルバム・リリース・ツアーの一環として、Contact(東京)にて10月7日に来日公演が決定している。

[来日公演]
10月7日@Contact Tokyo
https://www.contacttokyo.com/

label: Beat Records / Ninja Tune
artist: BICEP
title: Bicep

release date: 2017/09/01 FRI ON SALE
cat no.: BRZN244
price: ¥1,929+tax
国内盤仕様: 帯/解説・歌詞対訳付き

[ご予約はこちら]
beatkart: https://shop.beatink.com/shopdetail/000000002175

チャヴ 弱者を敵視する社会 - ele-king

 歴史の思い上がり
 殺人と同じだろうよ
 これが生活といえるか?
 彼はずっと稼ぎ続けている
 ジョン・ライドン(PiL)“キャリアリング”(1979)

 もう取り返しがつかないところまで来ているのはわかっている。それでもいちおう、確認しておこう。仕事とは、本来は換金活動だけがそのすべてではない。仕事≠稼ぎ、いや、仕事>稼ぎ、だ。家事も仕事であり、ある種の芸術もしかり、もちろんボランティアも仕事である。地球上には、仕事とはボランティアでしかないと考えるオーストラリアのマエンゲ族のような人たちもいる。ヨーロッパ的な思考だけがこの人類の絶対ではない。が、しかしいつしか人にとって、働くこと=稼ぐことになった。稼ぎはないが仕事はできる、という人はいなくなった。経済至上主義の価値観はこの40年で、日本でもすっかり定着している。

 2011年に初版が刊行された、イギリスの気鋭の若手ジャーナリストによる処女作を読んで、背筋が寒くなるほど再認識したのは、すべてを利潤原理の風下においた、新自由主義なるものの恐ろしさである。経済的効率をすべてにわたって遵守させ、人間の生活保証よりもそれを優先させるこの考え方は、日本においても、大大大問題である。経済至上主義の社会においては、公共事業が私企業化するばかりか、政府さえもそう振る舞う。向上心のない労働者は切り捨てられるだけではない。醜悪なものとなり、憎悪される。ブロークン・ブリテインとは、自分たちの政策が招き入れた社会の底辺を、なんとまあ、自らこき下ろした言葉だった。

 『チャヴ 弱者を敵視する社会』で詳説されるのは──、ぼくなりの解釈で言わせてもらえば、ひとつには、新自由主義がいかに世界を変えて、いかに人びとの生活形態や思考、つまり価値観までをも巧妙に変えていったのかということである。その経緯において、労働者階級/貧しい人たちはより惨めな存在となったばかりか、社会から敵視されるにまでいたった。

 悔しかったらがんばりなさい、そう彼女は言った。あなたが貧乏なのはあなたが悪い、自分を責めろと。彼女は当初から決して人気があったわけではなかった。今は昔、ヤッピーみたいな連中(儲けてはブランドものの服を着て、高級車を乗りまわすような上流気取りの連中)は、サッチャー・チルドレンと呼ばれ、とくに文化の側からは徹底的に軽蔑されていたのだが(87年の保守党大勝と言われた選挙でも保守党43%、労働党32%、その他23%、事実上は退廃だったが、総議席数で過半数を上回る)……結局のところ、当時のヨーロッパで最強の権限を持った彼女は反革命をやってのけた。
 本書は、具体的にはマーガレット・サッチャーからトニ・ブレア、そしてデヴィッド・キャメロンまでのイギリス社会の政治的変容が描かれている。それは福祉国家の有名無実化への道程、労働者階級衰退のプロセスである。文化にあたえている影響もまったく少なくはない。昔のように労働者階級から良いロック・バンドが出てくることもなくなったことの背景も、本書を読めばおおよそ理解できる。もっとも本書において労働者階級の文化は、伝統的な白人のそれで、移民がもたらした文化についての言及はない。

 言うまでもなく、日本人にとって福祉国家というのは憧れである。隣の芝は青いだけかもしれないが、福祉依存だなんて、そんな逆風さえ羨ましく思ってしまう。いずれにせよ、それを継続することは困難なのだろう。が、しかし……もうなんというか、サッチャーがプログラムに着手し、実行したそれを、旧来はサッチャーと敵対するはずのブレアが磨き上げ、さらにまたキャメロンが誇張した、いわば福祉的なるものを破壊するためのシステム=新自由主義の残酷さ/狡猾さを、人生のあり方や感情、人間関係も変えてしまうそのタチの悪さをこうしてまざまざと知ることは、先にも書いたように恐怖ではあるが、それを食い止めるためにも必要なことである。ブレイディみかこの『アナキズム・イン・ザ・UK』や『ヨーロッパ・コーリング』を読んだ人には、その解説書としても読める。

 もっとも、ここは日本である。最近は、寅さんが若い女性に人気だというから、日本にはある部分はイギリスにはない緩さがあるわけだが、経験的に言えばそれもまったくの善し悪しで、オーウェン・ジョーンズが本書で促している階級にもとづく(政治)意識を曖昧なものにしている。まあ、エリート/富裕層に譲歩してもらうためにも、せめて日本からも年収500万以下の人たちが自分たちの政党と思えるような政党が出てくるといいのだが、『動物農場』を生きているようなこの国で、人がやる気を失うのは無理もない……。が、オーウェン・ジョーンズが言うようにそれでも抗議すること、中流という幻想を払拭すること、デジタル時代になっても変わらぬ相互監視的なムラ社会からいい加減脱却してコミュニティ精神を取り戻すこと、連帯すること、それは基本である。ただし──スペインでのテロやアメリカでの騒ぎが目に入る今日、なんとも間が悪いかもしれないが──、本書においてジョーンズがもうひとつ語気を強めるのはこういうことだ。

問題なのは、左派が国際問題を優先させていることだ。労働者階級の多くは戦争に反対しているかもしれないが、それは住宅問題や仕事をしのぐほど差し迫った問題ではない。日々、支払いに苦しんでいるとき、わが子が安定した仕事や手頃な住宅を必死に探しているときに、何千キロも離れたところで起きていることに注力するのはむずかしい。皮肉にもBNPが、こうした日常生活にかかわる諸問題に、増悪に満ちた解決策を示しているときに、左派の活動家たちは、大学のキャンパスの外に人を配し、ガザに関する活動をおこなっている。もう一度言うが、それも重要な問題だ。けれど、海外の不当な戦争と反対するのと同じくらいの熱意とエネルギーを、労働者階級の人々が抱える喫緊の問題に向けていないことはもっと問題なのだ。  オーウェン・ジョーンズ(本書より)

Love Theme - ele-king

 ラヴ・テーマ。愛のテーマ。こんなバンド名で、アンビエント/サイケデリック・アルバムなのである。なんという直球と屈折か。そう、現在活動休止中というダーティ・ビーチズのアレックス・ザング・ホンタイの新バンド「ラヴ・テーマ」は、われわれに不穏と官能を教えてくれる。その意味で、ラヴ・テーマにはダーティ・ビーチズ的なエレメントが確かに受け継がれている。あの不穏と官能のフィードバック・ノイズを想起してほしい。あえていえば『ステートレス』より、EP『ホテル EP』的だろうか。異国の地の、見知らぬホテルに掛かっていたバレリーナの絵のような、あのムード、あの空気。時に表出するサイデリックなミニマル・ロックなサウンドは傑作『バッドランズ』を思わせもする。

 アートワークに目を凝らしてみよう。モノクロームのアジアか。50年代か60年代か。それとも80年代か。どこかの店先か。グラスらしきものが見える。何か飲食する店か。いや別の何かを売買する店か。その不穏なムードとフェイクなエレガンス。ブラウン管のテレビに移る女性の顔。白黒だから、というわけでもないがどこか夜のムードが漂ってくる。時間が停滞したようなムード。遠く離れたブラウン管のTV映像には時間がない。ただ点滅するだけである。イマージュの点滅・消滅。都市の記憶のようでもあり、20世紀的な都市のアンビエント/アンビエンスでもある。つまりはラヴ・テーマのサウンドのムードそのものだ。煙の中に消えていくようなツイン・サックス。36mmフィルムの持続のようなドローン。煙のようなノイズ。霞んだリズム。東アジアの地で聴こえてきたジャズ。旅人の、音楽の、淡い記憶のような音楽、音響。グローバル資本主義が世界を覆い尽くす直前の、どこか猥雑な都市の光景と記憶のアンビエンス/アンビエント。

 ラヴ・テーマのメンバーは、サックスを演奏するアレックス・ザング・ホンタイと、同じくサックス・プレイヤーでもあり本作ではアレンジも担当しているオースティン・ミルン、シンセサイザー奏者サイモン・フランクの3人だ。彼らの音が濃厚な空気のように溶け合い、交錯し、混じり合い、ラヴ・テーマならではの濃厚なアトモスフィア生み出している。アルバムは彼らの即興的セッションを素材とし、ロンドン、LA、台北のあいだでデータの交換がなされ、編集・完成したという。1曲め“デザート・エグザイル”は、人工的でありながら生々しい弦の音(シンセだろうか?)に揺らめくようなサックスの音と音響的旋律が重なる。いくつものドローン、アンビエンス、ノイズの交錯が耳の遠近法を狂わす。A面3曲め“ドックランズ/ヤウマテイ/プラム・ガーデン”では霞んだサウンドのビートも加わりミニマル・サイケなムードが満ちてくる。ダーティ・ビーチズが『バッドランズ』でサンプリングした裸のラリーズのような雰囲気とでもいうべきか。真夜中のサイケデリック。続くB面では、アンビエント・ジャズな“シーズ・ヒア”から“オール・スカイ、ラヴズ・エンド”の前半を経由し、その後半でまたもビートが鳴り始める。フリーキーなサックスと霧のごときシンセサイザーのサウンドも官能的だ。この不穏な空気感、時間感覚はデヴィッド・リンチの映画のようである(と思っていたらなんとリンチが監督する『ツイン・ピークス The Return』に、あるバンドのサックス・プレイヤーとしてアレックスがゲスト出演している。まさに「いろいろと繋がってくる」2017年、といったところか)。

 21世紀の今、ありとあらゆる場所が「蛍光灯」の光で可視化され、感情と冷酷のあいだで無=慈悲化が進行している。二極化する21世紀的環境と状況の只中で、アルバム『ラヴ・テーマ』は黒の中に溶け合うような夜のムード/真夜中の音楽のアトモスフィアを鳴らしている。まるで異郷の都市を訪れた旅行者の彷徨のように、このアルバムはわれわれを迷宮に連れて行く。不穏と官能による愛のメランコリアのアンビエンスが、ここにある。

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