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トロ・イ・モワの4枚めのアルバムにして新作『ホワット・フォー?』を聴いていると、不意にジョージ・ハリスンが遺した70年代中期以降のソロ・アルバム、とくに『慈愛の輝き』(1979)を思い出した。とくにどこが、というわけではなく、アルバム全体を包む陽光のようなイメージゆえだろうか。もしくはアルバム1曲め“ホワット・ユー・ウォント”が、『慈愛の輝き』収録の“ファースター”の冒頭に似ているからだろうか(エンジン音!)。
いや、もちろんそれだけではない。大切なのは、流行との距離の取り方である。ジョージの『慈愛の輝き』がリリースされた1979年は、ざっくりいえばパンクからニューウェイヴ、ディスコからテクノポップまでも人気を博し、ポップ/ロック・ミュージックが更新され、分岐点ともなった年だ。そんな年にリリースされたにも関わらず、『慈愛の輝き』にそれらの影響は感じられない。彼は時代や流行に左右されず自分自身の音楽を作っていた。
だが、いま聴き直すとシンセの音色などに不思議なほどに1979年感を感じられるのも事実である。その音色に、AOR感覚が潜んでいるからだろうか。つまり、AOR~ディスコ~初期テクノポップと共通する、あの時代の音色が『慈愛の輝き』にもたしかにある。一聴、それと分からないように。
この慎ましさ、趣味の良さこそジョージ・ハリスンの魅力だ。同時に彼のソロ作品は、ほかのビートルたちのソロ作品と比べても、意外なほどに時代の音を吸収していることが分かる(ジェフ・リンをプロデュースに迎えた『クラウド・ナイン』など)。
そもそもジョージはビートルズ時代に、シンセセイザーやシタールなどを導入した張本人ではなかったか。最初のソロのアルバムは誰も望んでいない(であろう)実験音楽風の電子音楽だった。この新しいものへの嗅覚の確かさ。それを直接的には導入せず一捻りする趣味のよさ。
トロ・イ・モワにも同様のセンスを感じたのだ。私が彼の才能を確かなものと認識したのは、2011年の『アンダーニース・ザ・パイン』であった。当時はチルウェイヴ人気の中で消費されていた印象だが、このアルバムはソフトロック、ブラジル・ミュージック、ソウル、60代後半のサイケロックなどの音楽性を包括した稀有な作品で、過去と現在をミックスする90年代的音楽の後継のようにも思えたものである。
ゼロ年代は、ポップ・ミュージックの歴史においても80年代と同様に不思議な空白地点になっており、そんな中、『アンダーニース・ザ・パイン』の、ごく自然にポップ・ミュージックの歴史に向かい合う作風は大変に心地良かった。歴史の継続性を重視し、自然に音楽を作る。むろん流行を否定するわけでもないが、積極的に導入しているわけでもない。その趣味の良さ。それは『ホワット・フォー?』でも同様だ。
流行とはいえば、2015年は、ダフト・パンク『ランダム・アクセス・メモリーズ』(2013)以降の環境が決定的なものになる年ではないか。つまり「1970年代中盤以降のディスコ・ミュージックの2010年代的なリヴァイヴァル」の影響である。たとえばテーム・インパラ『カレンツ』などは、まるで「60年代のサイケバンドが70年代後期にディスコ・ミュージックを取り入れてリリースしたアルバム」のような趣だ。
この『ホワット・フォー?』は、『カレンツ』と並べられる作品に思えるが、実際はそうはなっていない。一聴してわかるように流行を積極的に取り入れてはいないからだ。オーセンティックなサイケロックそのままに、その音楽性をきちんと成熟させた作品に仕上がっている。その結実が、ビートリッシュな名曲である9曲め“ラン・ベイビー・ラン”だろう。
むろん、2曲め“バッファロー”などの楽曲、シンセの扱いや、67年のビートルズのような4曲め“エンプティ・ネスターズ”の中間部に挿入されるディスコ調のパート、さらには7曲め“スペル・イット・アウト“などに、「RAM」以降のテン年代的なディスコを咀嚼した要素も感じるのだが、太陽の輝きのようなメロディやサイケデリックな演奏の力が強く、流行との絶妙な距離感がある。
たしかに初期のチルウェイヴ路線のままであれば、『ホワット・フォー?』も今の時代を代表する作品になったかも知れない。が、彼はそんなことに興味はないのだろう。彼は彼の音楽を作っている。この眩い陽光のような音楽を。ラスト曲“ヤー・ライト“のアウトロ部分のストリングス、それはまさに慈愛の輝き/永遠の愛のようである。
デンシノオト