文:小林拓音
2014年に出たミリー&アンドレアの『Drop The Vowels』はひとつのサインだったのかもしれない。「醜いままであれ」と謳う“Stay Ugly”なんてもろにそうだ。イキノックスから逆輸入的に影響を受け、独自のエクスペリメンタリズムを爆発させたデムダイク・ステアの新作にも、そのダークネスは受け継がれている。「幸福(ハッピー)であることが強制される」この時代にあって、ダークであることはひとつの反時代的な態度表明と言えるだろう。
だいたい、世の中は喜びやポジティヴに溢れすぎている。ブラック企業の問題だったり老老介護の問題だったりを反映しているのかもしれないが、「いまいる環境で頑張れ」だとか「置かれた場所で咲け」だとか、前向きであることを押し付けるような肯定の言説が自己啓発としてありがたがられている。でもそれって結局、「甘んじて現状を受け入れよ」という命令でしかないじゃないか。ありていに言えば、周囲の条件は変えられないのだから自分の気持ちを変えて我慢しなさい、ってことでしょ。それは要するに「世界を憎むな」という要請であり、自己責任への誘導である。なんと喜びに満ちたポジティヴな世の中なんだろう。
あるいはこういう言い方もできる。世の中は繋がりを称揚しすぎている。デキる経営者やビジネスマンが吐きそうな「人脈は財産である」という箴言が気持ち悪いのと同様に、「いいね」の堆積で肯定が確認されていくSNSの惨状もまた気持ち悪いことこの上ない。世の中はコミュニケイションで溢れ返っている。ここまで来るともう繋がりを断つだけでは十分ではない。繋がりを憎むこと。それこそがいまわれわれにとって必要なのではないか。
アンドリュー・カルプによるこの本は、「喜び」や「肯定」の哲学者として知られるジル・ドゥルーズからその否定性や破壊性を取り出し、「ダーク・ドゥルーズ」を生成しようと試みるプロジェクトである。それはドゥルーズを「否定」の哲学者として読み直すことであり、その闇の部分にタッチすることである。おそらくカルプの念頭には、「差異」や「リゾーム」や「スキゾ」といったドゥルーズのタームが、まさにいま資本主義のものとなってしまっていることに対する危機感があるのだろう。言い換えれば、いまドゥルーズのタームをそのまま使い回すことは、きわめて時代的な行為であるということだ。では、そんな状況において反時代的であるにはどうすればいいのか。この本の主張を一言に縮めるなら、「世界を憎悪せよ」、「世界を破壊せよ」、ということになる。「喜び」や「肯定」の哲学者であるはずのドゥルーズがどんどんダークなそれへと読み直されていく様はじつにスリリングである。
細かいトピックや事例もおもしろい。USにおける警官の人種差別的暴力や、日本における「失われた10年」も登場する。TAZへのダメ出しもあるし、近年話題になっているクァンタン・メイヤスーやニック・ランドに対する批判もある。寛容を強要するリベラリズムや、全体主義の同類である民主主義に対する容赦ない批判もある。それに何より本書は、昨今「共謀罪」なる言葉が世間を賑わせているこの国で、共謀することの重要性を教えてくれる。さらに音楽との関わりで言えば、サマー・オブ・ラヴや「ノー・フューチャー」への言及もある。
ダーク・ドゥルーズの成功の道は、死を避けることではなく、死を招くことである。ドゥルーズ=ガタリは、このことを死の欲動をめぐる改訂作業において仄めかしているのだが、これと似たような感覚は、「ノーフューチャー」と叫ぶパンク精神のなかに響いている。逆説的にもパンク精神が悟っているのは、現状の再生産をやめるとき、私たちが手にできる唯一の未来が到来するということである。だから、もう生をロマンスにするのはやめよう。 〔本書30頁〕
本書は、われわれが喜びや繋がりに汚染されて過ごすなかで忘れてしまったダークなものを思い出させてくれる。われわれに必要なのは喜びや肯定ではない。いまわれわれに必要なのは否定であり、憎悪である。「古いものを条件にして新しい世界を創設したとしても、そんな世界の地平が既存のものを超えて広がることはない」〔本書126頁〕。だからまずは端的に「ノー」と言おう。破壊することから始めよう。思う存分、共謀しよう。ひたすら世界を憎悪しよう。
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文:山田俊
もしブラック・ブロックがドゥルーズを読んだら――
ワシントンやニューヨークでのアンチ・トランプの映像で黒いパーカの群れ=ブラック・ブロックの勇姿を久しぶりに見ることができた。『ele-king』の読者にはいわずもがなだが、スターバックスを破壊し、オルト右翼にパンチをくらわす彼らと大衆的なデモを展開する市民たちの関係はかつての新左翼と旧左翼のような関係ではない。新左翼と旧左翼は変革という同じ夢を共有していたが、ブラック・ブロックと市民左派には決定的な断絶がある。そんなブラック・ブロックがもしドゥルーズを読んだらどうなるか。いま思想界にささやかな衝撃を与えつつある小著『ダーク・ドゥルーズ』はそんな本である。
カルプの意図は明快だ。かつて革命的であったドゥルーズが肯定性のゆえに牙をむかれてしまった、ならそんな「明るいドゥルーズ」「喜びのドゥルーズ」など葬り去って、かわりにその破壊性を「ダーク・ドゥルーズ」として甦らせよう。そうしてネグリらによって市民デモに紛れ込まされたドゥルーズをブラック・ブロックのストリートへ奪い返せ、というわけだ。そこでカルプは微温的なドゥルーズ論者たちをなで切りにするだけでなく、思弁的実在論や人類学など現代思想のあらゆる新潮流にもはげしく批判の刃をむける。正直、カルプのドゥルーズ解釈には乱暴なところもあるが、たぶんそこは重要ではない。
それらをふまえた上で本書の核心をなすのは、現在、われわれに要請されているのは「世界の死」をもたらすことであるという新たな宣告である。かつてニーチェが「神の死」を伝え、フーコーが「人間の死」を預言した。しかし「神」も「人間」も死なないどころか不吉に復活している。「神」と「人間」ともども「世界」に死をもたらすことがこの時代の任務なのだ。こう煽動するカルプはフランスのアナキスト・グループ「不可視委員会」による「文明の死をひきうけよ」というテーゼの影響下にある。そしてここでこそ市民デモとブラック・ブロックの断絶点が明快になるだろう。端的にいって前者が世界の救済を望んでいるとしたら後者は世界の破壊を欲しているのである。
世界を破壊しているのはトランプや安倍ではないか、あるいは地球温暖化と人口爆発は遠からずこの世界を終息させるのではないか、と問いたくなるかもしれない。現在、必要なのはそれらをすべて受け止めて、「世界の死」を問うことではないか。
ドゥルーズ自身が哲学におけるブラック・ブロックであったように、世界の破壊はストリートだけで行われるのではない。たとえば坂口恭平の『けものになること』は「ダーク・ドゥルーズ」の実践でなくてなんだろう。もちろんこれは音楽でも同様である。






発売日:2017年3月19日(日)

