![]() Da Lata Fabiola Agogo Records/Pヴァイン |
来年はW杯ブラジル大会。正直、来実感はまだない。が、しかし、ダ・ラータの10年ぶりのアルバムを聴いていると気持ちがブラジルに傾く。
ダ・ラータの登場はセレソンのように華麗だった。「Pra Manha」(1998年)は渋谷の人混みのなかをドリブルで走り抜け、90年代末のブラジル音楽ブームやブロークンビーツと合流しながら、ファースト・アルバムの『Songs From The Tin』(2000年)まで走り切った。メンバーのひとり、パトリック・フォージは、20年前にはジャイルス・ピーターソンと一緒にクラブ・ジャズの最初の盛り上がりに関わっていた名DJである。
再始動したダ・ラータの最初のリリースは、ザ・ジャムの“ゴーイング・アンダーグラウンド”のカヴァー(2012年)。ポール・ウェラーの新自由主義批判がラテン・ハウスの雄と出会ったとき、何が起きるのか……。
セレソンのような、素晴らしいラテン/アフロを詰め込んだ通算3枚目のアルバム『ファビオラ』を発表したばかりのパトリック・フォージに小川充さんが取材。クラブ・ジャズ黎明期からブロークンビーツ、そして新作にいたるまでの20年の歴史を話してくれた。
ダ・ラータの音楽は、言うなれば「グローバル・ミュージック」であり、それと同時に「ロンドンの音楽」でもある。これらすべてのフレーヴァーはロンドンで見つけられる。アフリカのコミュニティ、ブラジルのコミュニティ、すべてを見つけることができるんだ。異国の音楽は、僕らの世界の一部となっている。これはブラジルの音楽、あれはアフリカの音楽、これはロンドンのクラブ・ミュージック」として区別されて存在しているものではく、すべては同じものの一部なんだ。
■ダ・ラータはどのように結成されたのでしょう? それ以前にパートナーのクリス・フランクが参加するバンドのバトゥがあり、そこであなたも一緒にDJをする中からダ・ラータが生まれたそうですが。
パトリック・フォージ(以下PF):バトゥがはじまったのは1992年か1993年。その頃から僕とクリスは知り合いで、ある日彼が参加するバンドのメンバーを紹介してくれたんだ。そのバンドがバトゥだった。そして、ジャイルス・ピーターソンとフリッジでDJをしていたとき、メンバーのひとりがデモ・テープを持って来たんだ。土曜日の夜の「Talking Loud (and Saying Something)」のときさ。彼らの音楽は粗削りだったけど、光るところも感じた。そうして僕はバトゥの曲をかけるようになり、彼らに興味を持ち、一緒に活動するようになっていった。
でも、バトゥとして活動するのには難しい部分もあった。何人かのメンバーとそりが合わなかったんだ。クリスと僕は音楽の方向性とヴィジョンを共有していたけれど、他のメンバーの何人かはそれに乗り気ではなかった。それにバトゥは7人組のバンドで、グループとしてのまとまりを維持するのにも苦労した。それで、結局スタジオをベースにしたアプローチに切り替えようと思って、僕とクリスはバトゥから離れ、ダ・ラータを始めたんだ。ダ・ラータはバトゥの延長から始まったけど、ミュージシャンの演奏任せにするのではなく、僕とクリスがそれをコントロールしたプロダクション・ユニットと言える。正直なところ、バトゥのブラジル音楽に対するアプローチにはグチャグチャなところがあって、アレンジもいい加減だった。メンバーのまとまりにも欠けていた。そうした点にクリスも不満があり、僕と一緒にやっていきたいとなったんだ。僕らの考えに賛同できるミュージシャンは、その後ダ・ラータにも参加してもらっている。
■あなたはDJとして多くのブラジル音楽を紹介し、そしてダ・ラータは一貫してブラジル音楽をベースとした活動をおこなっていますが、当初はどのようなコンセプトを持ち、どういった音楽性を目指したのでしょう? その頃のロンドンはアシッド・ジャズ・ムーヴメントが沈静化し、DJを中心にブラジル音楽が盛り上がりを見せはじめていた時期にあたると思いますが。
PF:アシッド・ジャズはムーヴメントではなく、流行を作ろうとしたメディアが勝手に付けた名前であって、そもそもジョークとしてはじまったんだけどね……。アシッド・ジャズはファンキーなジャズを強調していて、最初は僕もそれが好きだったけれど、次第に僕のやりたい音楽ではなくなっていった。1990年代初頭だけど、当時はブラジル音楽が段々と広まってきていて、僕はむしろそれに興奮して、DJとしての興味はそちらに一気に向かった。それがバトゥと一緒に活動するきっかけにもなった。ファンク・バンドと組んでギグをやったりするよりも、何かもっと新しくて面白いことをやってみようと思っていたから、そうした方向に行ったんだ。
でも、いま言ったみたいにバトゥはバンドとしてまとまりがなかった。実は今回のアルバムに入っているジョアン・ボスコのカヴァーの“Ronco Da Cuica”は、バトゥも演奏していたんだ。そのときの彼らのアレンジは全く散らかっていて、ある日リハーサルでこう提案したんだ。「OK、フェラ・クティのサウンドを少し取り入れてみよう。フェラの“Shakara”のグルーヴを混ぜて“Ronco Da Cuica”をやってみよう」と。それは面白い試みだったと思うよ。いまは幾つかのブラジル人のアーティスト、たとえばクリオーラとかもアフロビートとブラジリアン・ミュージックを融合させようとしている。でも、僕たちはそれを20年も前にやっていたんだ。
ブラジリアンとアフロの結びつきはひとつの例だけど、そうした融合をバトゥやダ・ラータで試みてきたんだと思う。もちろんベースにはブラジリアン・ミュージックがあるけれど、ただ単純にブラジルの音楽をコピーしようというものではなかった。確かにバトゥにはブラジルで生まれ育ったメンバーもいたけれど、僕たちはイギリスのバンドだと自覚していて、ブラジル音楽のUKヴァージョン、UK流のひねりを加えた音楽を作ろうとしていたんだ。だから、僕たちがやるのは古典的なボサノヴァやMPBというわけではなかった。いつも違うアティチュードでやっていたんだ。
■1997年にエドゥ・ロボをカヴァーした「Ponteio」、1998年には「Pra Manha」といったシングルがヒットし、一躍クラブ・ジャズやディープ・ハウスのシーンで知られる存在となります。また、その後はウェスト・ロンドン・シーンのブロークンビーツ系アーティストとも交流を深め、ベンベ・セグェがヴォーカリストとして加わり、バグズ・イン・ジ・アティック、フィル・アッシャーなどにリミックスを依頼することもありました。こうしてダ・ラータはクラブ・ミュージック・シーンへもコミットしていきましたね。
PF:“Ponteio”は当初フローラ・プリンをフィーチャーする予定だったんだ。でも、彼女のヴォーカルは実際に僕らのトラックにあまりマッチしなくて、結局それは流れてリリアナ・チャチアンの歌になった。この曲は、そもそもヘヴィーなクラブ・トラックにしようと思って作ったんだ。エレクトロニックなテイストを持ち、ブレイクビートやアフロビートとかをミックスした強烈なトラックさ。ブロークンビーツのムーヴメントが来る前で、ある意味でブロークンビーツの元だったと言えると思うよ。人びとはこのリズムに魅了され、これは何だと探求しはじめたんだけど、それはブラジル北東部に由来するバイヨンのリズムだった。それをファンク・ビートとミックスして、エレクトロニックな要素も入れて、ヘヴィーにプログラミングされたグルーヴにした。あの曲はクラブ用の12インチだったけど、オーソドックスなやり方でブラジル音楽をやるのではなく、何かいつもとは違うことをするという点でも面白い試みだった。
あの曲がリリースされたとき、フィル・アッシャーと僕は面識がなかったんだけど、彼は“Ponteio”を本当にサポートしてくれたロンドンの数少ないDJのひとりで、それがきっかけで仲良くなり、一緒にDJもやるようになったんだ。それから彼をきっかけに、ウェスト・ロンドン・シーンとも交流がはじまった。ロンドンより、むしろアメリカからすごい反響があったね。フランソワ・ケヴォーキアンはじめ「ボディ&ソウル」のDJたち、そしてたくさんのニューヨークのDJが取り上げてくれた。彼らがこの曲をかけてくれてるんだと思うと、本当に満足だったし、ハッピーだったよ。
“Pra Manha”のデモは既に1993年か1994年に出来上がっていて、僕はそれをラジオでかけて、何人かがそれを聴いて「この曲最高だよ」って言ってくれた。だけど、最終的な仕上げに取り掛かれるまで4年も待たなければいけなかった。クリスは彼のパートナーのニーナ・ミランダとスモーク・シティというユニットもやっていて、そちらのアルバム制作などで忙しかったんだ。“Pra Manha”もリリアナが歌ったけれど、そもそも彼女はピュアなブラジル音楽の出身で、クラブ・ミュージックに馴染んでいた訳ではなかった。だから、僕とクリスはクラブ向けに作ったトラックと、彼女のヴォーカルをいかに馴染ませるかを苦心したね。
■いま話に出たスモーク・シティは2枚のアルバムを発表しましたが、ダ・ラータがMPBとサンバにハウスなどクラブ・ミュージックのエッセンスを加えたものだとすると、スモーク・シティはボサノヴァとダブやトリップホップをミックスしたような音楽性でした。ダ・ラータとスモーク・シティの違いについては、どのように捉えていますか?
PF:僕も当初はスモーク・シティには参加する予定だったんだ。実際、彼らのファースト・アルバムのなかの1曲に、作曲者としてクレジットされていると思う。ただ、僕とニーナの考えに食い違うところもあって、それでスモーク・シティには参加しなかったんだ。スモーク・シティはある意味で、ニーナがやりたかったことだった。そもそもニーナと、彼女の学校の同級生だったプロデューサーのマーク・ブラウンのふたりではじめたユニットで、そこにクリスが加わったんだ。彼らのデビュー曲“Underwater Love”が出たときは、ちょうどトリップホップのサウンドが流行っていて、そうした点であの曲はユニークなブラジリアン・トリップホップ・チューンだった。あの曲が、そのままスモーク・シティのアイデンティティとなった。一方で、当時ダ・ラータのアイデンティティは、ブラジリアンとクラブ・サウンド、そしてMPB。僕たちのなかではこのふたつのユニットをはっきり区別していて、ダ・ラータのファースト・アルバムがピュアなブラジル音楽に向かった理由のひとつに、クリスがスモーク・シティでできなかったことをやりたい、ということもあったんだ。
[[SplitPage]]ダ・ラータとしてのコンセプトは「ブラジル人のバンドになりたい」というものでは決してなかった。僕たちがやりたかったことは、それをもう少し超えたところにあったんだ。僕たちはブラジルの音楽を愛しているけれど、それは僕らの一部にすぎない。
■そのファースト・アルバムが2000年に発表された『Songs From The Tin』です。そして、2003年にはセカンド・アルバム『Serious』を発表します。これらを振り返ってみて、どのようなアルバムだったと言えますか?
PF:ダ・ラータという言葉は“From The Tin”(缶の中から)という意味で、ブラジルで使われる表現なんだけど、英語で言うところの“Wicked”と同じ意味なんだ。何か特別であるという意味だよ。ただ、それは僕たちが傲慢に特別だと言いたいわけではなくて、これが僕らの信じていることだと言いたいんだ。缶のなかから何か特別なものが出てくると信じている。それが『Songs From The Tin』のアルバム・タイトルにもなったわけだけど、制作に入った当時は“Ponteio”を作ったときから、ダ・ラータのフォーカスするところもある意味変わっていた。そのときのダ・ラータなら、自分たちが影響を受けてきた音楽に対してオマージュを捧げることができるだろうと思ったんだ。僕たちの愛するブラジリアン・ミュージックを探索してみたかった。たとえばミルトン・ナシメントとかロー・ボルジェスとかのミナス・サウンドをね。その結果、『Songs From The Tin』はいままでにやったなかで、一番純粋なブラジル音楽と言えるもので、もはやブラジル人が作ったレコードではないかというくらいだった。ダ・ラータというシステムから生み出された、ピュアなブラジル音楽のレコード。
でも、ダ・ラータとしてのコンセプトは「ブラジル人のバンドになりたい」というものでは決してなかった。僕たちがやりたかったことは、それをもう少し超えたところにあったんだ。僕たちはブラジルの音楽を愛しているけれど、それは僕らの一部にすぎない。『Songs From The Tin』を作り終えた後には、「よし、もう僕たちはこのアルバムを作り終えたから、今度はもう少し枠を広げてみよう。より大きな絵を描こう」ということになったんだ。そうして、『Serious』にはクラブ・ミュージックからの影響が色濃く反映され、よりプログラミング的で、よりエレクトロニックな要素が加わった。
■この頃のロンドンには、ネグロカン、ミスター・ヘルマノ、バー・サンバ、ジャジーニョ、シリウスB、ヴィダ・ノヴァなど、ブラジル音楽やラテンを取り入れた多くのユニットがありました。ダ・ラータのメンバーも関わっていたユニットも多いです。当時の状況はいかがでしたか?
PF:それらのバンドはみなお互いに関係があって、リリアナはネグロカンで歌っていたし、アンディラ・フォンというネグロカンのベースはダ・ラータのライヴ・バンドに参加している。ジャジーニョに関しては、ポルトガル人のシンガー、グイダ・デ・パルマもダ・ラータのライヴ・バンドに参加した。だから、ロンドンでこのブラジリアン・サウンドに関わっていた人たちは、みんなお互いのことを知っていたし。ある意味、みんな同じファミリーに属していたんだ。
■あなたはDJとして度々来日し、キョート・ジャズ・マッシヴ(KJM)はじめ、日本のアーティストともいろいろな交流があったと思います。スリープ・ウォーカーの吉澤はじめさんが“Golden”にキーボードで参加したりと。こうした交流のなかでとくに印象に残っている思い出はありますか?
PF:初めて日本に来たのは1993か1994年あたりのことだった。そのときに初めてKJMに出会って、クラブ・コラージュでヨシ(沖野好洋)とプレイしたのを覚えている。あの夜の僕たちは本当に楽しんで、お互いをビビらせまくった。彼がレコードをかけて、「まじかよ、何だよこの曲!」と僕は思って。それで、僕がレコードをかけると、今度は彼が「何これ!」って驚いていた。あれは本当にエキサイティングな時間だった。その頃、みんなたくさんのブラジル音楽を探して、いろんなレコードを発掘していたから。当時は日本でもブラジル音楽はほんとうに大きな影響力があったんだ。それは素晴らしいことだったよ。シーン自体が爆発的に盛り上がってきていて、古いブラジル音楽に対する新鮮で大きな興味が湧き上がってきていた。だから、明らかに自然とお互いに似ている所があったし、すごくいい友だちになったよ。ロンドンで僕たちがやっていたことと、日本の何人かがやっていたことには音楽的にも類似性があって、そのふたつが並行していたんだ。
■2004年にKJMのコンピに“Ronco Da Cuica”を提供して以来、長らく活動休止状態となりましたが、どのような理由からでしょう?
PF:実は2008年にもパパ・レコーズから「This Is Not Your Job」というナンバーをリリースしているんだ。それはハウス調のものなんだけど、今回のニュー・アルバムでは生ドラムを入れたオーガニックなアレンジにして、改めて“N.Y.J.”というタイトルで収録し直している。“Ronco Da Cuica”も前と少しアレンジが変わっている。そんな感じで断続的にはやっていたけれど、活動がスローダウンしたのはたしかで、それはクリスがニーナとのプロジェクト、ジープで忙しかったからなんだ。ジープはスモーク・シティのあと、クリスがメインで作ったバンドで、2枚のアルバムをリリースした。
■ジープもある意味でダ・ラータの別プロジェクトと言えるのかもしれませんが、それによってダ・ラータの音楽性は途切れることなく継承されてきたと言えますか?
PF:いや、そうは思わない。ダ・ラータのアイデンティティは基本的に僕とクリスで、それは彼がニーナとやっていることとは大きく違っている。たしかにミュージシャンやいくつかのアイデアについて交わる部分はあるけれど、基本的にクリスとニーナのプロジェクトは、どれもニーナのソング・ライティングが基となっている。もちろんふたりで作ることもあったけれど。一方、ダ・ラータはクリスのソング・ライティングとその他のメンバー、そして僕のプロダクションがそこに影響するということだから、両者はお互いに異質のものなんだ。
[[SplitPage]]当時は日本でもブラジル音楽はほんとうに大きな影響力があったんだ。それは素晴らしいことだったよ。シーン自体が爆発的に盛り上がってきていて、古いブラジル音楽に対する新鮮で大きな興味が湧き上がってきていた。
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■2011年にクリス・フランクと話し合い、ダ・ラータを再始動することになったそうですが、そこに至るいきさつ、心境について教えて下さい。
PF: 2010年か、あるいは2011年に、クリスとニーナとの関係が終わった。その頃、同じく僕も離婚した。それで、僕たちはただ、ふたりでこれから何をすべきなのか話していたんだ。ちょうど“N.Y.J.”と“Ronco Da Cuica”は、ライセンス自体は僕たちが所有しているもので、この2曲を出発点に新しいアルバムを制作してみようということにしたんだ。幸いにも、僕にはアルバム制作に取り掛かるだけの経済的余裕があった。こうしてダ・ラータはまた歩きはじめたんだけれど、それはある意味で破局してしまった僕たちにとって良いセラピーだったと思うよ。これから僕たちは何をしていくべきなのだろうか。このまま椅子に座って泣きながら、過去の間違ってしまったことについて後悔するのか。それとも、何かポジティヴなことをやってみるのか。ネガティヴな状況において、ポジティヴなものを生み出す努力をしてみるのか。もちろん、経済的余裕とチャンスがあるなら、選択肢はポジティヴなことをやってみるということしかなかった。
■そうして、ニュー・アルバム『Fabiora』が完成するのですが、このタイトルにはどういった意味があるのでしょうか?
PF:これには面白い話があるんだ“Fabiola”はいくつかのラテン系の国で女の子につけられる名前なんだ。あるとき本を読んでいて、この名前に言及している部分を見つけて、興味深いなと思った。それで、家に帰って、グーグルで“Fabiola”を調べたら、カトリック教会では聖ファビオラといって、困難な関係や壊れた結婚についての聖人なんだ。このストーリーがカヴァー・アートのコンセプトになったんだ。ルイスというデザーナーが素晴らしい仕事をしてくれたんだけど、僕らふたりのことも表してくれて、それはある意味良かったと思うよ。
■ところで、『Fabiora』をリリースする前に、まずシングルでザ・ジャムの“Going Underground”をカヴァーしましたね。どういった意図でこのカヴァーを行ったのでしょう?
PF:バトゥの頃にも、僕はよくジョークでブラジリアン・ヴァージョンの“Going Underground”をやろうって言ってたんだ。僕はこの曲が若い頃からずっと好きだったからね。で、『Fabiora』を作りはじめたとき、「OKやってみよう」ということになった。あっという間にできて、この制作で最初にできた曲だった。だけど、すでに”Ronco Da Cuica”を入れる予定だったから、1枚のアルバムに2曲もカヴァーを入れたくないという理由で、別にシングルとして発表することにした。これは、ある意味でダ・ラータが「また戻ってきたよ」という挨拶だったし、同時に政治的な意味合いも含んでいる。僕たちがこの曲に取り掛かっていた頃、ちょうどロンドン・オリンピックのセレモニーが開催され、そこでブリティッシュ・ポップ・カルチャーを代表する曲のコラージュのひとつとして、“Going Underground”がかかったんだ。でも、“Going Underground”の歌詞は実はかなり反体制的で、反抗的なものなんだ。なんたってジャムだからね。だから僕にとって、オリンピックでこの曲がかかっている光景は何か皮肉的なものとして見えた。英国文化として誇りに思う曲だけれど、そのスタンスとしてはこういう企業的なイベントに対してアンチな姿勢を取っているんだ。だから、この曲のリリースには、そうした意味合いも込められている。
このアルバムを作りはじめたときに、僕らが感じていたことは、このアルバムにはアティチュードがあるということ。ある意味では、これは僕たちが個人的にいる場所について音楽にしているものなんだ。そして、それと同時に、僕たちが世界の情勢の中で政治的にどのようなスタンスをとっているかということでもある。このアルバムは、戦うといことについて、色々な難しい問題がある状況でも諦めずにやっていくんだ、ということについて歌っているんだ。
■リリアナ・チャチアン、オリ・サヴィリなど、過去のメンバーは主にロンドン在住のブラジル系ミュージシャンが多かったと思いますが、今回はメンバーがいろいろ入れ替わっていますね。昔からダ・ラータでやっているトリスタン・バンクスやトニ・エコノミデスほか、ダビデ・ジョヴァニーニ、フィン・ピータース、ジェイソン・ヤード、マイク・パトゥーなど、以前から交流のあるミュージシャンが含まれていますが、同時にいままでとは異なるフィールドの人たちも集められているように思います。また、マイラ・アンドラージはじめ、より国際色豊かなメンバーとなっていますね。
PF:ダ・ラータはバンドではなく、ひとつの家族のようなものだ。核には僕とクリスがいて、ヴィジョンを持ち、方向性をデザインするんだけど、このファミリーはほんとうに大きくて、そしてどんどんと増えていくんだ。いろいろ活動していくなかで、僕たちは同じ音楽観を共有できる仲間を得て、一緒にやってみたい人たちが増えていった。そして、テクノロジーの進化により、たとえ離れた場所にいようとも、共演することが可能になってきた。ダ・ラータの中心は僕とクリス、それから3人目のメンバーとも言えるトニ・エコノミデス。彼はエンジニアで、最終的には僕ら3人がスタジオで曲を完成させた。でも、何人かのアーティスト、たとば“Places We Go”でベースを弾いているマロウ・バーマンはリオに住んでいる。マロウに音源を送って、それに彼のベースを加えて送り返してくる、といった形で制作をおこなった。そうした具合に、イギリス、フランス、アメリカ、カナダ、ブラジルと、いろんな場所のミュージシャンが参加していて、それぞれデータをやり取りして制作していったんだ。
マイラ・アンドラージはいま、パリをベースに活動しているけど、クリスが知り合いだった。彼女は本当に特別なシンガーだけど、アルバムに参加することに同意してくれて、一緒に出来たことは僕たちにとってとても喜ばしいことだった。で、世界的に一流のシンガーと言える彼女が、僕たちの音楽を気に入ってくれて、実際のところ対価なしで参加してくれている。それは本当に素晴らしいことだよ。彼女に限らず、そうして参加してくれたミュージシャンは多い。
それから、ジャンディラ・シルヴァもアルバムで重要な核となるシンガーだ。一般的にロンドンでブラジルのシンガーを探すとなると、たいてい心地よいボサノヴァのようなアーティストを探すことが多い。静かでジャジーなボサノヴァ、イージーリスニング的に座って聴くタイプの音楽だよね。でも、ダ・ラータはそれとは大きく違うバンドだから、もっとパワフルなシンガーのジャンディラに参加してもらった。アルバム制作前にジャンディラを交えてライヴをやったことがあって、それで彼女が最高だとわかって、彼女にとってもこのバンドのフロントがうまくはまったと思う。彼女自身も「すごくいい、私はここでいきいきと、好きに自由にできる」という感じだったよ。実は“Deixa”という曲は、デモ段階ではあからさまにブラジル音楽的すぎるということで、アルバムに入れるつもりは無かった。だけど、ジャンディラがやってきて、彼女が歌うのにピッタリだったからアルバムに収録したんだ。それから“Ronco Da Cuica”のヴォーカルも彼女で録り直したね。
■ミゲル・アットウッド・ファーガソン、リッチ・メディーナなどの参加も面白いです。ミゲルはアルトゥール・ヴェロカイと共演していますが、ブラジル音楽とはそれほど大きな関わりがあるというわけではありません。彼らとはどのような接点から参加してもらうことになったのですか?
PF:このふたりはどちらもクリスの古い友だちの紹介で出会った。クリスがLAにいたことがあって、それでミゲルに会った。僕自身はミゲルに会ったことはないんだけれど、フェイスブックなんかでしばらくやり取りをしていたね。もちろん彼は信じられないほど素晴らしいストリング・アレンジャーで、彼に関わってもらえたことはとても特別なことだった。リッチ・メディーナはロンドンにしばらくいたから、僕はよく知っていて、何度かDJも一緒にやったこともある。でも、逆にクリスは彼に一度も会ったことがないんだ。“Monkeys And Anvils”という曲はもともとインスト・ナンバーとして作ったものだけど、何かほかの要素を加えても面白いと思って、そこでリッチ・メディーナが何か詩の朗読をしてみたらというアイデアを思いついたんだ。リッチがやってくれたことをとても気に入っているよ。彼は本当に美しいディープなバリトン・ヴォイスを持っていて、まるでギル・スコット・ヘロンのようだからね。彼のやることは素晴らしいし、本当にいいやつだよ。
■フォークロアなMPBやアフロ・サンバを軸に、土着的なブラジル音楽の世界を披露したファースト、アフロ・テイストがより顕著となり、そこにウェスト・ロンドン・シーンのクラブ・ミュージック的な要素を融合させたセカンドでしたが、今回のアルバムのテーマやカラーはいかがですか?
PF:ダ・ラータの音楽は、言うなれば「グローバル・ミュージック」であり、それと同時に「ロンドンの音楽」でもある。なぜなら、これらすべてのフレーヴァーやものをロンドンで見つけられる。アフリカのコミュニティ、ブラジルのコミュニティ、すべてを見つけることができるんだ。もはや、そうした異国の音楽は、僕らの世界の一部となっている。これはブラジルの音楽、あれはアフリカの音楽、これはロンドンのクラブ・ミュージック」として区別されて存在しているものではく、すべては同じものの一部なんだ。ある人たちには理解しにくいかかもしれないけれど、僕たちにとってこれらの文化をミックスすることは自然なことなんだよ。
そして、『Serious』(2003年)でのエレクトロニックでプログラミングを多用したクラブ・ミュージック的アプローチに対し、今回のアルバムはナチュラルでオーガニックなサウンドにしようと思った。出来ることなら、みんなを一斉に集めて、じっくりとリハーサルして、大きなスタジオですべてライヴ・レコーディングして、そこにオーヴァーダブを加えたりしかった。でもそれは予算的に不可能だった。だから、すべてはデジタルのデモからはじめている。そこからプログラミングされたドラム・ビートを、次第に生のドラムに入れ替えてといった形で作っていくんだ。僕たちは古典的なレコーディング・スタイルはとっていないけれど、このアルバムを100%オーガニックなものにしたかったから、最終的なすべての録音素材は生演奏で、一切のプログラミングを使っていない。そのために、こういった録音データの交換という方法をとったんだ。
“Underground”の歌詞は実はかなり反体制的で、反抗的なものなんだ。なんたってジャムだからね。だから僕にとって、オリンピックでこの曲がかかっている光景は何か皮肉的なものとして見えた。英国文化として誇りに思う曲だけれど、そのスタンスとしてはこういう企業的なイベントに対してアンチな姿勢を取っているんだ。
■“Um Amor A Mais”、“N.Y.J”、“Ronco Da Cuica”はアフロ色が強く、それは『Serious』の世界にも通じるものだと思います。一方、“Don’t Give It Up”や“The Shore”ではロックの影響が感じられ、それは“Ronco Da Cuica”をカヴァーしたあたりから顕著になってきた要素だと思います。他では“Places We Go”にはレゲエやダブの要素が感じられ、オーケストレーションが印象的なフォーキー・サンバ“Unknown”、アストル・ピアソラのモダンなタンゴを思わせる“Cambara 41”、ポエトリー・ファンクの“Monkeys And Anvils”など、多彩な要素がミックスされています。こうした音楽的要素は、あなたたちが聴いたりプレイしてきたさまざまな音楽から、自然と導かれたものだと思いますか?
PF:最初、こうした多様な曲をアルバムとしてまとめて、意味のあるものにするのは不可能だと感じた。文字通りかなり幅の広いものだったからね。でも、オーガニックであることを追求し、プロダクションも極めてダイレクトでシンプルにしていけば、これらの違うスタイルの曲をお互いにうまく結び付けられると思った。いくつかの曲には妙な展開を持つものがあって、たとえば“The Shore”には当初、少しプログラムされた音が混じっていた。そのパートが曲自体を複雑なものにしていると僕は感じたから、その部分を丸ごと捨ててしまうように提案したんだ。その代わりに、もっとアコースティック・ギターも入れてみたらどうかと。エレン・マキルウェインのサウンドを思い浮かべてみたんだ。
“Don’t Give It Up”に関しては、確かにロックの要素がある。でも、僕にとって大事だったのはあの曲の歌詞が持つメッセージなんだ。“Don’t Give It Up”というタイトルも意図的につけた。人生においてのメッセージであるし、それは音楽についてもだ。音楽をあきらめないということなんだ。曲調もそのメッセージを体現している。ただ、アメリカかイギリス人の歌手に歌わせたら、よりロックな曲になっただろうし、そうしたらアルバムの他の曲から浮いてしまったと思う。でも、実際にこの曲を歌ったのはブラジル人のルイス・ガブリエル・ロペスなんだ。彼は素晴らしい人で、英語で歌っている。それにブラジルのMCも入ってる。ルイスはグラヴィオラというブラジルのバンドのシンガーで、もうひとつティア・デュアでも歌っている。といって、もうひとつがグラヴィオラだよ。彼らのアルバムは最高なんだ。彼らはミナス・ジェライスの出身で、新しい世代のミュージシャンなんだ。言うなれば、ルイスは新世代のミルトン・ナシメントやロー・ボルジェスという感じだよ。実際に彼らは“Don’t Give It Up”を本当に気に入ってくれている。ブラジル人もロックが好きだし、あの曲も彼らにとって通じるところがあったのだと思う。あの曲はたしかにロックの要素が強いけど、ボンゴやマラッカなどを使って、ラテンやブラジルのフィーリングも入っているからね。アントニオ・カルロス&ジョカフィのようなブラジルのファンキー・ロック・サウンドに似ているんだ。でも、それらの内どの要素も突出したものではない点がダ・ラータのサウンドだよ。
“Cambara 41”におけるタンゴの要素、それもたしかだ。ただ、これはアルバム制作の後半に作ったもので、その時点では流れるようで、メロウで、アコースティックなテイストの曲が入ってなかったから、それが欲しいと思って作ったものなんだ。メロウで、アコースティックな曲が欲しいと思ってね。まずクリスがギターで弾いて作った曲なんだけど、そのギターを録音して、リズムを下げてみた。そうしたらクリスがマルセロを呼ぼうと言いだしたんだ。彼はブラジルのとんでもないアコーディオン・プレーヤーで、『Serious』にも参加している。僕もアコーディオンを加えたら美しい曲になると思って、マルセロに曲を送ったんだ。それでびっくりしたんだけど、彼から戻ってきた曲には口笛も入ってたんだ。彼は口笛も入れて、すごくスイートで良かった。彼はブラジル国外ではアコーディオン奏者として有名だけど、ブラジルでもレコーディング・アーティストとして有名なんだ。
■『Fabiora』はオーソドックスなボサノヴァ、サンバのアルバムではなく、ブラジル音楽を核にさまざまな音楽が融合したものと言えます。その核となるブラジル音楽で、今回特に意識したものは何かありますか? 例えばトロピカリズモ、特にトン・ゼーなどからの影響を感じたりするのですが。
PF:うん、君がトロピカリズモに言及したのはとても興味深いね。あのムーヴメントも、とても政治的に触発されたものだった。その点はこのアルバムにも通じているし、アートワークもそうしたフィーリングを持っていると思う。ブラジルの精神性やトロピカリズモのスタイルは、その後とてもポピュラーになっただろ? でも、僕らはそれと同じことをしようとしているわけではないんだ。他の曲には全く違うテイストのものもある。だから、『Fabiola』は具体的にトロピカリズモの音楽をなぞっているわけではないけれど、ある意味でそのアティチュードやフィーリングが存在しているのかもしれないね。トン・ゼーは好きなアーティストだし、彼の音楽性を評価するけれど、このアルバムにとくに影響を与えたわけではない。彼以外のアーティストについても同じさ。僕たちはどの曲も、最終的にはダ・ラータの音楽として聴こえるように作っているんだ。
■現在のブラジル音楽にも、例えばルーカス・サンタナ、M. タカラ3など新しいアーティストが登場しています。そうした状況について、どう思いますか?
PF:最近ブラジリアン・ミュージックの新しい波がきていて、僕にとってはまるでルネッサンスなんだ。なぜならブラジルのアーティストがいまやろうとしていることは、ある意味僕たちがいままでずっとやってきたことに似ているからね。彼らは自分たちの伝統に目を向けて、その上に音楽を築いているんだけど、それがただのコピーではなくて、新しくてオリジナルな要素を加えようとしている。アフロビートとかの違うフレーヴァーを入れているんだ。
たとえばグラヴィオラのようなバンドは、その最たる例だね。振り返ってみると、少し前までのブラジルの若いアーティストには、ブラジルの伝統的な要素に対して真っ向から反対していた者もいた。サンバやボサノヴァ、あるいはMPB的になるのを極力避けているようだった。もっとモダンでエレクトロニックでというようにね。目新しさばかりを負い、自分たちのルーツにあるものを顧みようとはしなかった。しかし、いまの若い世代は過去を受け入れて、同時にいま起こっていることも取り入れているんだ。ブラジルは国としても上昇傾向にあるし、いろんなことが起こっている。だから、ブラジル音楽にとっては良い時期なんじゃないかな。ルーカス・サンタナは、ブラジル音楽という過去に存在したカテゴリーに収まるものではなく、新しくて何か違うものへと進化しているんだと思う。彼以外にも、そうした若いアーティストがいろいろ出ていることがとても喜ばしいことだよ。
■ライヴ活動や今後の展開について教えて下さい。
PF:ライヴ・バンドとしては、昨年の夏にディングウォールズでギグをやったし、テムズ川沿いのサマセット・ハウスでもやった。僕自身はバンドではプレイしないしけど、いまのバンド・メンバーは驚異的なんだ。みんなこのアルバムでもフィーチャーされている人たちだけど、彼らは幾つものバンドで経験を積んできている。ジャンディラの存在、あるいはリズム・セクションの存在が大きいね。僕たちはふたりのドラマーがいるんだけど、とくにダビデ・ジョヴァニーニと、それからベースのアーニー・マッコーン。ダビデとアーニーが演奏し始めた途端に、パッと、何かが起こる。ケミストリーというべきマジックがあるんだよ。自発的でとても美しいものだよ。バンドというのは、最初の頃はみんなアレンジなどを正確に演奏しようとしてナーバスなんだけど、僕たちはもうその緊張を解いてできる段階にあるんだ。だから、もうレコードにある通りにやらなくていいし、ステージ上で自発的に音楽が生まれてくる。それに人びとが応えれば、曲をやるたびに新しいことが起こる。
今後はいろいろ外に出て、たくさんライヴをやりたいと思ってるけど、来年はブラジルでできたらいいな。ちょうどサッカーのワールド・カップもあるしね。実際にそういう話をしているところなんだ。まだ何も決まってないけど、可能性はある。グラヴィオラは僕たちのいい友人だし、彼らとやれたらいいなと思うよ。日本にだって行ってやりたいと思っていて、取り組んでいるところさ。今回のダ・ラータは、いままでより数段レベルが上なんだ。ミュージシャンの能力とか、いろいろな点でね。
■日本のファンに向けてメッセージをお願いします。
PF:最後のアルバムを作ってから10年が経ったけれど、日本にも過去の2作で僕たちのことを覚えていてくれる人がいることを願うよ。『Fabiora』も日本で人気になった『Songs From The Tin』のように受け入れてもらえるといいな。それに新しいファンにも出会いたいね。そうした新しいファンは、『Fabiora』を聴いて僕らの前のアルバムにも興味を持ってくれるかもしれない。僕たちは日本が好きだし、この国の音楽文化に対しても深い愛情と尊敬の念を抱いているんだ。なぜなら、日本の人たちは音楽を深く理解して愛しているからね。だから、日本で僕たちのレコードをリリースできることは特別なことだし、みんなに気に入ってもらえたらいいよ。


が、そんなわたしの思惑など関係なく、エレガントな婆様は、うちの息子のTシャツを愛おしそうに撫でていた。シルクハットと髭、懐中時計と自転車がプリントされたその絵柄は、ルネ・マグリットやダリといったシュールレアリストを髣髴とさせるものなのだが、おそらくどっかのデザイナーがショーで使ったから量販店が一気にコピーしはじめた絵柄だ。だのに、何がそんなに嬉しくて婆様はこのTシャツを気に入ってしまったのだろう。UKとイタリアのファッションには、そんなに時差があったのだろうか。





