「Wire」と一致するもの

Mary Halvorson's Code Girl - ele-king

 2021年があけました、めでたい。ここはひとつ、装いもあらたに読者諸兄姉のおひきたてを願いたてまつるところなれど、年があらたまればなにもかもきれいさっぱり片づくとはいかないものらしい。旧年に突いた除夜の鐘の音が新年にひびきわたるように、三山ひろしのけん玉が歌の尺内におさまらないように、七輪にかけた餅がディジー・ガレスピーのほっぺたばりに膨らむように、事物と事象とを問わず、対象が予想の枠組みを越えるとき世界はざわめき、時間や空間、あるいは主体の連続性をあぶりだす──年初から胡乱なものいいで恐縮だが、新型コロナウイルス第三波にともなう緊急事態宣言という昨年からの重たいつみのこしを前に、暮れに脱稿するはずの原稿をしたためる私にとって正月とはなんだったのか。途方に暮れわれ知らず「去年今年(こぞことし) 貫く棒の 如きもの」(虚子)の句をつぶやく私の面前のスピーカーから Line6 でピッチベンドしたギターの音色があたかも棒のごときもので押し出される心太(ところてん)のようににゅるりとはみだしてくる。
 音源の主はコード・ガールを名乗るジャズ集団。かけているのは昨年暮れの新作『Artlessly Falling』である。グループをひきいるメアリー・ハルヴォーソンはウェズリアン大でアンソニー・ブラクストンの薫陶を受け、2000年代初頭に活動をはじめるやいなやニューヨークをハブにしたアヴァンギャルドなジャズの界隈で頭角をあらわしだした米国の女性ギタリストである。これまでトリオ編成による2008年の『Dragon's Head』を皮切りにすでに十指におよぶリーダー作をものしているが、ギター+ベース+ドラムのコンボを基本ユニットにときに七、八重奏団までふくらんだ編成をきりまわし、師匠格のブラクストンはもとよりエリオット・シャープ、マーク・リボー、ノエル・アクショテやジョン・ゾーンといった錚々たる面々と協働し、作曲と即興をよくする彼女をさして現代ジャズ界のキーパーソンと呼ぶことに異論のある方はおられまい。とはいえ上のような説明には難解さやとっつきにくさを感じられる方もおられるかもしれない。ジャズなる分野の性格上、うるさ型のリスナーを納得させないわけにもいかないが、同好の士の想定内にとどまっては元も子もない。彼女がそのように考えたかはさておき、2010年代後半ジャズの岸辺を洗った潮流もあいまって、ハルヴォーソンは新たな領野にむけて漕ぎ出していく、その最初の成果こそ2018年の『Code Girl』であり、この2枚組のレコードは彼女初の歌入りの作品でもあった、その詳細と私の所感は2018年の「別冊ele-king」のジャズ特集号をあたられたいが、その2年後にあたる2020年秋にハルヴォーソンはその続編ともいえる作品を世に問うた。
 それこそがこの『Artlessly Falling』である。まずもって目につく変化は前作の表題だった「Code Girl」を明確にプロジェクト名に格上げしたところか。それによりギター・トリオに1管(トランペット)とヴォーカルを加えた編成にも意味的な比重と持続性が生まれた。ただしメンバーには異同がある。同じく昨年に〈ブルーノート〉からリーダー作を出したアンブローズ・アキンムシーレに変わりアダム・オファーリルが加わっている。ヴィジェイ・アイヤーのグループで名をあげたこのトランペット奏者は冒頭の “Lemon Tree” で、霊妙なコーラスとギターのアルペジオ、抑制的なベースにつづき、マリアッチ風のフレーズを奏で、本作への期待を高めるが、オファーリルのトランペットが鳴り止むやいなや、リスナーはハルヴォーソンが『Artlessly Falling』に仕込んだサプライズに出合うことになる。切々とした管の吹奏にもまして哀切な声がながれはじめる。レギュラーの女性ヴォーカリスト、アミーサ・キダンビともとりちがえようのないささやくような男声、やわらかく耳朶を撃つこの声の主こそ、だれあろう『Artlessly Falling』を基礎づけるロバート・ワイアットである。
 楽曲にふれたことのない方でも名前はご存じかもしれない。プログレッシヴな音楽の道においてワイアットの名は道標である。道祖神のようなものといってもいい。その一方で、その道もなかばをすぎた古株たちからは彼はすでに引退したのではないかとの声が聞こえてきそうである。じっさい2014年の「Uncut」誌で音楽制作の停止(stopping)は明言しているが、停止は引退(retire)ともニュアンスが異なるようである。たしかにその後も参加作をちらほらみかけた気もする。あの声と存在感はなかなか放っておけないのだろう、とはいえ本作への参加もつけ焼き刃ではない。2018年の前作リリースのさい英国の「Wire」誌によせた、歌ものアルバムをつくるにあたっての参照楽曲のプレイリストの冒頭にハルヴォーソンは『Rock Bottom』(1974年)冒頭の “Sea Song” をあげている。今回の参加はハルヴォーソンのラブコールにワイアットが応えた構図だが、ワイアットが彼の音楽をとおして彼女にあたえた示唆とはなんだったのか。
 “Sea Song” を例にとれば、点描的な歌と和声にたいしてポルタメント的なキーボードやコーラスとの位置関係、その総体がかもす持続と移行が私にはコード・ガールないしハルヴォーソンの音楽性を彷彿させる。むろんこれは基調の部分要素にすぎず、そのほかにも作曲の書法や各楽器の音色と合奏の強度、即興の質、歌ということをふまえると歌詞の中身まで、論点は多岐にわかれるが、そのぶん多角的な方向性をとりうるともいえる。もはや形式としてのジャズも埒外なのかもしれないが、しかし今日のジャズとはそのようなものなのだろう。細田成嗣氏の『Code Girl』のレヴューのくりかえしになってしまうが、ここ(https://www.thewire.co.uk/audio/tracks/wire-playlist-mary-halvorson)に選曲があるので興味のある方はご覧いただくと楽しいが、リストを眺めて最初に思うのは1980年生まれのハルヴォーソンらの世代にはジャズもロックもソウルも実験音楽もひとしなみに等価だったという、ありきたりな世代論である。とはいえそれらの参照項が加算的、単線的な働き方をするのではなく面的、領域的な現れ方なのもまた、音楽の内的な蓄積を体験とみるか遍歴と捉えるかという世代論を背景にした認識論に漸近するきらいがある。本稿の主旨をそれるので深追いはしないが、ハルヴォーソンにはネタバレ上等どころか、リスナーとリソースを共有して生まれる聴き方の変化に期待をかけるかまえがある。そしてじっさいコード・ガールの楽曲やハルヴォーソンのギター演奏にこれらの楽曲からの影響を聴きとるのはさほどむずかしいことではない。とはいえそれは下敷きにするというより、掠めるというか寄り道するというか迂回するというか、原典や系譜とのこの微妙な距離こそハルヴォーソンの旨味であろうと私は思う。
 とりわけ歌という回路をもつコード・ガールは彼女の活動でももっとも制約のすくない形態であり、デビュー作である『Code Girl』ではそこに潜在するものをできるかぎり浚おうとしていた。2年後の『Artlessly Falling』もその延長線上だが、歌の比重は前作に積み増したかにみえる。先述の幕開け以外にも3曲目と5曲目でリード・ヴォーカルをとるワイアットの印象もあろうが、小節線を跨ぐハルヴォーソンの軟体めいたギターのごとく、前作の経験をもちこんだことで楽曲の意図と輪郭も明確になった。話題性はワイアットの参加曲に譲るにせよ、“Muzzling Unwashed” や “Mexican War Streets (Pittsburgh)” の後半3曲といったキダンビの歌う曲での充実ぶりも聴き逃せない。
 コード・ガールの人的構成をあえて図式化するなら、ハルヴォーソン、トマス・フジワラのリズム・セクションとキダンビ、オファーリルのフロントにわかれるといえる。ハルヴォーソンはその緩衝地帯の役割を担うといえばよいだろか。バッキングでリズムの影に隠れたかと思えば、アンサンブルにちょっかいをかけ轟音を響かせる。プレイスタイルからはフリゼール、リボー、シャープ、アクショテなどの特異さもトラッドな教養もふまえていることもわかるが、強度だのみの闇雲さやテクニック信奉からくる変態性もない。どこか恬淡とした佇まいは転落事故で下半身不随になったワイアットの復帰後初のアルバムである1974年の『Rock Bottom』の収録曲を霊感源とみなすハルヴォーソンらしい感覚といえるだろうか。「どん底(Rock Bottom)」と名づけたあのアルバムでワイアットは私たちのよく知るワイアットになった。その幕開けの “Sea Song” のエーテルめいた肌ざわりがコード・ガールに通じるのは先に述べたとおりだが、ロックにかぎらず、ジャズや民俗音楽の要素を室内楽的な空間性におとしこむ、ワイアットの方法そのものに彼女たちは親和的だった。パンクとジャズとレゲエが同じカマのメシを食ったワイアットがいたころの〈ラフ・トレード〉みたく、ここでいう方法とは多義性、多様性の謂だが、90年代以降の記号的折衷とは核心においてすれちがう。ことば遊びを承知でいえば、越境的(across the border)というより学際的(Interdisciplinary)、ジャズやロックやソウルやフォークの意匠をシャッフルした上澄みを掬うのでなく、おのおのの領野から自律しつつ、全体を貫く、いわば棒のような一貫性をたくらみながら心太のようにふるまうということではないか。
 ほとんど不条理めいたあり方だが、それらはすでに、規則、符号、暗号、和声など意味をもつコード(code)の語を掲げつつ、規範との奇妙な距離を保つ、彼女らの音楽にあらわれていた。2年ぶりの2作目でその度合いは亢進する一方だが、たやすく気どらせない密やかさも帯びている。この密やかさはハルヴォーソンの言語感覚にも通底し、表題は日本語では「巧まざる落下」とでもなるのだろうが、原題の「Art- less-ly Falling」を深読みすればいくつかの単語がうかびあがってくる。音楽において言語を感傷的に作用させたくなければ共感的、補完的な役割を押しつけてはならない──コード・ガールは音楽と同程度に入り組んだハルヴォーソンの言語感覚を堪能できるおそらく唯一の場でもある。だって “Artlessly Falling” のこざっぱりした韜晦と諧謔なんて “Rock Bottom” とタメをはるもんね。

Sun Ra Arkestra - ele-king

小川充

 1993年の他界(宇宙への帰還)後もいまなお、数多くのサン・ラーのレコードがリリースされている。むしろ生前よりもたくさんのレコードがリリースされているくらいだ。その中にはアンソロジーもあればリイシュー、もしくは未発表の音源もあるのだが、そもそもサン・ラーが残した音源はあまりにも膨大で、いまだその全てが明らかになっていない。まるで宇宙空間のように無尽蔵なレコード・ライブラリーが広がっていて、土星からの使者を名乗ったサン・ラーらしい。彼の作品はいわゆるレコーディング・スタジオに入って録音するものではなく、ライヴ会場で即席で録ったものを自主でレコード化して次のツアー会場で売るというような形が多かったので、行ったコンサートの数だけレコードが存在していると言っても過言ではない。そして、サン・ラーが率いたアーケストラ(方舟の意味であるアークと楽団を指すオーケストラとを合わせた造語)は、サン・ラーの死後も活動を続けている。世界中をツアーしていて、数年前には来日公演も行なった。主なきいまもサン・ラーの名を冠しているのは、サン・ラーの精神が宿った楽団であるということなのだが、それは歌舞伎の屋号のようでもあり、実際サン・ラーは「かぶき者」(変わった風体や行動を美意識とする洒落者、歌舞伎の語源)のようでもあった。

 実際のところ現在のサン・ラー・アーケストラは、1950年代の最初期からのメンバーであるサックス奏者のマーシャル・アレンが中心となっている。彼はずっとサン・ラーと行動を共にしていて(アーケストラの場合、メンバーは演奏以外でも寝食を共にするコミューン活動を行なっていた)、サン・ラーの音楽から思想や信仰などを新しいメンバーに伝えている。アーケストラに在籍したメンバーにはジューン・タイソン、スティーヴ・リード、アーメッド・アブドゥラーなどいろいろいたが、サン・ラー同様に他界したり、音楽業界から引退してしまった者もいる。現アーケストラにはビル・デイヴィス、ジュイニ・ブースなど古くからのメンバーもいれば、ジェイムズ・スチュワート、ジョージ・バートンなど、2010年代より加入したメンバーもいる。総勢20名を越す大所帯にはいろいろな国籍や人種、音楽キャリアを持つ者さまざまだが、そうしたミュージシャンが一種の劇団のように集結し、現座長のマーシャル・アレンのもとに劇(演奏)を行なっているのがサン・ラー楽団と言える。

 このたびリリースされた『Swirling』は、そんな現サン・ラー・アーケストラによるこの20年間での最初のスタジオ録音アルバムである。最初にも述べたようにライヴ録音が主なサン・ラー・アーケストラにとっては異色の企画ではあるが、演奏する作品は新曲というわけではなく、往年のアーケストラのレパートリーをスタジオで実演したものとなっている。レコーディングでは20数名のメンバーから15名ほどが抜擢され、即興的なパートはあるものの、基本的には1950年代後半からおよそ60年ほどやってきた、アーケストラのメソッドに基づく演奏が収められている。これもまた歌舞伎などの伝統芸能に近いだろう。タラ・ミドルトンのヴォーカルも往年のジューン・タイソンのそれに限りなく近く寄せていて、ファリド・バロンのピアノやオルガン、キーボードなども在りし日のサン・ラーが演奏していた機種に近いものを揃えている。マーシャル・アレンはアルト・サックスのほかにエレクトロニクスも手掛けているが、それも古い時代の機材をいまなお使い続けていて、それがアーケストラ独特のレトロ・フューチャリスティックな味わいを生んでいる。いまの時代の新しいジャズに合わせたり、その影響を取り入れようとする姿は微塵もなく、潔いまでに自分たちのジャズを貫いている。たとえそれが古臭いと言われようとも。それによって結果的に彼らは影響を受ける側ではなく、影響を与え続ける側でいられるわけだ。

 サン・ラー・アーケストラの楽曲には宇宙や星、惑星などをテーマにしたものが多い。本アルバムにも “Satellites Are Spinning” “Door Of The Cosmos” “Astro Black” などが収められている。そうした宇宙志向や未来志向がアフロ・フューチャリズムと結びついていったわけだが、サン・ラーの場合はそこに古代や太古の神話との繋がりを持たせ、新しいものと古いものが融合した独自の世界を作りだした。冒頭の “Satellites Are Spinning” から “Lights On A Satellite” へと繋がる流れは、まさにそんなサン・ラー・マジックを象徴するものだ。“Seductive Fantasy” の牧歌性に富む演奏も宇宙空間の遊泳をイメージしているようであり、一方でバリトン・サックスがバグパイプのような音色を紡いで民族色豊かなところも見せる。“Swirling” はまさしく古き良き時代のスウィング・ジャズで、“Angels And Demons At Play” はデューク・エリントンのアフリカ色の強い演奏を電化処理したとでも言うべきか。“天使と悪魔の劇” というタイトルが示すようにサン・ラーの風刺性を代表する1曲だが、後半に向かうにつれてエレクトロニクスを交えて混沌としていく様がまさに戯曲的である。“Sea Of Darkness”~“Darkness” はアカペラ・コーラスからワルツへと展開するクラシカルなモーダル・ジャズで、“Rocket No. 9” はラップの先駆けとも言えるヴォーカリーズ・スタイルの歌。トマス・ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』に触発されたような題名のこの曲は、アメリカのポップ・カルチャーも取り込んだような楽曲で、ディジー・ガレスピーの “Salt Peanuts” を下敷きにしたようなほぼワン・コードのシンプルなトラック上で、ホーン・セクションやピアノがコズミックなSEを交えて即興演奏を見せるという構成。サン・ラー・アーケストラのひとつのスタイルだが、伝統的なジャズのビッグ・バンド・スタイルが底辺にあり、ジャズ界の異端とみなされることが多いサン・ラーだけれども、実はオーソドックスなジャズを土台としていることがわかる一例だ。

 アカペラとコズミックなSEだけで綴る “Astro Black” はサン・ラーならではのゴスペル・ソングであり宇宙賛歌。宇宙の神秘は続く “I'll Wait For You” でのフリー・ジャズへと受け継がれる。各楽器が無秩序状態の音を奏でていく様は暗黒の宇宙空間を飛び交う惑星をイメージさせ、その無秩序や混沌を音楽へと構築していくという現代音楽に接近した作品だ。一方で “Unmask The Batman” はアメコミの世界にコミットしたポップ・カルチャー的作品。演奏も「バットマン」のテーマを下敷きにしたブギウギ~ロックンロール調のもので、前衛的な作品と並立してこうした俗っぽいこともやってしまうところがサン・ラーの凄さでもあった。“Sunology” もムーディーなヴォーカルをフィーチャーしたスウィング・ジャズ調のもので、ジャズの本流からすると異形とされたサン・ラーがこうしたオーソドックスな曲をやってしまうのは、一種の皮肉でもあるかもしれないが、ある種痛快でさえある。“Queer Notions” も「異形」のための作品であるが、デューク・エリントン張りのオーケストラ・ジャズとなっていて、まさに裏エリントンだったサン・ラーならではだろう。宇宙の孤独を綴った “Space Loneliness” はブルース曲で、ジャズにとどまらずブギウギからゴスペル、ブルースなどあらゆる音楽を飲み込んでいったサン・ラーの音楽性を象徴する。“Door Of The Cosmos / Say” はファラオ・サンダースなどにも影響を与えたスピリチュアル・ジャズだが、演奏スタイルはジャズ・バンドのそれというより、大道芸とかチンドン屋のそれに近いものだ。サン・ラー自身もそうした大道芸人的なところがあり、実はとてもサービス精神の旺盛な人だったが、そうした人柄を偲ばせるようなピースフルな1曲である。

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野田努

私の音楽に耳を傾けてくれれば、
人びとはエネルギーを得る。
彼らは家に帰り、
おそらく15年くらい経ってから言うだろう、
「15年前に公園で聴いたあの音楽は素晴らしかった」と。*
サン・ラー (1991)

 これは特別なアルバムだ。理由はふたつある。まず、アーケストラがサン・ラーの死後、20年以上の年月を経て発表する新録のアルバムであるということ。もうひとつは、それを “いま” 発表することの意味。で、しかし、ほかにもうひとつある。『Swirling』は半世紀以上も演奏を続けてきたアーケストラが一回しかできないことをここでやっているという意味においても特別なのだ。

 アーケストラは、自らをサン・ラーと名乗った音楽家であり、思想家でも詩人でもあった人物のバンドの名称である。名前はエジプトの神ラーの箱船(Ra's ark)から取られている。サン・ラーいわく「Arkestraには、最初と最後に “ra” がある。Ra は Ar または Ra と書かれ、“Arkestra” の両端は同じ母音、最初と最後が等しい……音声的に均衡がとれている」(1988)*
 それは1950年代のシカゴ──サウスサイドだけでもジャズ・クラブが75もあった街──で誕生した。

私の音楽のなかではたくさんの小さなメロディーが流れている。まるで音の海のように、海は現れ、戻っていき、うねる。*

 アーケストラはただのバンドではなかった。多くの場合ジャズ・バンドのメンバーは演奏(仕事)においての顔合わせであって、日常での友人関係は持たなかった。が、サン・ラーにとってミュージシャンたちは友であり、バンドはコミュニティだった。アーケストラはサン・ラーという父親が統合するいわば家族であり、学校だった。そこには規律(disciple)があり、ジャズの世界では異例と言えるほどの道徳が要請された。故ジョン・ギルモア(tr)も「サン・ラーとは生徒と教師の関係だ」と言っているが、まあ、大学時代は教職を考えていたサン・ラーは人に教えるのが好きだったろうし、思想を共有することはアーケストラによって最大の任務でもあった。

 ちなみに、アーケストラにおいては、物事には集団で向かうものだった。たとえば演奏中に誰かが間違えたとき、ほかのみんなも間違えれば、それは間違いではなくなる、解決とはこうして共同でおこなうもの、団結して成し遂げるものだった。ホワイト・パンサー党の党首であり MC5 のマネージャーだったジョン・シンクレアが「60年代を生き続けている存在」と呼んだのも、もちろん大いなる否定者であるサン・ラーの態度ゆえなのだろうが、コミュニティ(共同体)へのこだわりにもその一因があるのだろう。
 しかしながら、1914年生まれのサン・ラーは1960年代にはすでに50過ぎである。だから、多くの人が知るところの名曲 “Space Is The Place” の頃はほぼ60。ディスコのリズムを取り入れた “Disco 3000” のときは60代半ば、スリーマイル初頭の原発事故に触発された「Nuclear War」をポストパンク時代に出したときはほぼ70歳だ。

 本作『Swirling』を仕切っているマーシャル・アレンは今年で96歳。アーケストラのオーボエ/アルトサックス奏者、バンドの諸作で聴けるエキゾチックなメロディはたいていアレンのオーボエだったりする。彼はシカゴ時代の1958年にメンバー入りし、以来、ずっとアーケストラとして活動しているが、コミュニティの存命においてもアレンは欠かせない人物だった。
 60年代初頭、アーケストラはシカゴからNYへと移動したが(そこでアミリ・バラカのブラック・アート・ムーヴメントにも合流した)、家賃の高騰とリハーサルにおける騒音問題によって、1968年にはNYを出ていかざるをえない状況になっていた。引っ越しはしかも、決して容易なことではなかった。なにせ、複数の中核メンバーを受け入れ、なおかつ大人数での日々のリハーサル場所を確保しなければならない。
 そんな彼らに救いの手を差し伸べたのが、フィラデルフィアのモートン・ストリートに不動産を持っていたマーシャル・アレンの父親だった。かくしてサン・ラーご一行は長屋のようなところにおさまり、結局、そこがアーケストラにとっての最終的な拠点となった。もちろん本作『Swirling』も同地でリハーサルがなされている。

 アーケストラにとってのリハーサルは、演奏技術を磨くということだけが目的ではなかった。そこはサン・ラーが “宇宙哲学” を語る、いわば講義の場でもあった。ときにそれは何時間にもわたることがあったというが、アーケストラにとって重要なのは、世界を変えるために音楽を利用することだった。「明日のイメージを描くために、すべてをジャズに見せかけた」とジョン・F・スウェッドは評伝『Space Is The Place』のなかで表現しているが、実際1958年に彼らの自主レーベル〈サターン〉からは2枚目としてリリースされた『Jazz In Silhouette』のスリーヴにはこう記されている。「これはジャズに見せかけたシルエット、イメージ、そして明日の予想である」
 リハーサル時におけるサン・ラーの話は、あまりにも多岐に及んだという。歴史学、言語学、占星術、天文学、人智学、数秘学、それから冗談とジャズ話……。彼は弁舌家としても有名なのだ。

 また、サン・ラーはメンバーひとりひとりのために譜面を書いたが、往々にして、譜面には通常の音域外の音が指示されていたという。先日、アーケストラをカヴァーストーリーとして掲載した『Wire』誌10月号では、扉の写真にマーシャル・アレンがぶあつく重ねられた譜面を見ている場面を使っているが、それらぼろぼろの年季の入った紙切れたちこそサン・ラーが書いた譜面である。彼がメンバーそれぞれのパートのために書いた譜面はじつに細部にまでしっかり記述されていたが、しかし演奏がはじまると決して譜面通りにはいかないのがアーケストラだった。かつてサン・ラーはメンバーにこう指導したことがある。「君が “知らない” ことのすべてを演奏せよ(Play all the things you don't know!)」*
 たとえばマーシャル・アレンの場合は、アーケストラに入ったことによって、サックスを使っての吠え、叫び、鳥の歌などを会得したのである。

 そう、本作を読み解くヒントは、サン・ラーの人生とその人物像にある。なのでもう少しおさらいしておこう。そもそも彼は第一次世界大戦がはじまる年に生まれている。日本はまだ大正時代である。
 1920年代の(やがてサン・ラーを名乗ることになる)ハーマン・ブラントは成績優秀な優等生だった。1930年代のハーマンは、それに輪をかけての読書家だった。大恐慌時代に黒人が読書家であることはじつに異例のことで、人種隔離された図書館で黒人が本を借りるには、裏口から黒人職員を呼んで本を取ってきてもらうしかなかったという。
 ハーマン~サン・ラーの読書には、確固たる目的があった。それは西欧文明と聖書の欠点を探るためであり、自分とはいったいどこから来たのかを知るためだった。
 そのため彼は古代文明に着目した。ギリシャ哲学やピタゴラス教団、神秘主義に惹かれた彼はグノーシス派にも向かった。ブラヴァツキー(シュタイナーに影響を与えた人)の人知学に傾倒したこともある。また、エジプトの秘密を知るべく、英語以外の言語で書かれた書物も辞書を引きながら読んだというから、ちょっとした素人学者だ。シカゴ時代は、彼の家に来た誰もが壁を隠すほどその床に積み重ねられた本の量を見て驚くほどだったが、彼が古代アフリカにおける文明を知るに至ったことは、サン・ラーの哲学と音楽にとって大きな収穫となった。
 サン・ラーは自分の信念を曲げない人でもあった。1940年代の第二次大戦中は、身体の障害を理由に兵役拒否を続けた。また、収監されてもなお反論することができるほどの知性を彼はすでに持ち得てもいた。軍の幹部が、よく教育された黒人知識人だと感心したというほどに。
 戦後、貧困な黒人たちのあいだで支持者を拡大していたネーション・オブ・イスラムには、関心は示したものの決して賛同はしなかった。あれだけ “黒さ” にこだわり、白い文化に頼らず自律することを目標としながら、しかしサン・ラーにとって白人だけが悪魔ではなかったし、分離主義を望んでもいなかった。彼はつねに、(特定の人種ではなく)人類に対する否定的な意見を述べていたのだから。それにまあ、ありていに言って彼はマッチョな人間ではなかった。サン・ラーはこうも言っている。「私はリーダーでも、哲学者でも、宗教人でもない。ただ、人間を変えることのできる何かを示したいだけだ」*

私の音楽はいつもうねっている。それは人びとの頭の上に行き、一部の人びとを洗い流し、再活性化し、彼らを通り抜け、宇宙へと戻っていき、再び彼らの元にやって来る。*

 たしかに『Swirling (渦巻く)』はうねっている。まずは女性メンバーのタラ・ミドルトン(vln)が、1970年代初頭から歌い継がれ、かつては故ジューン・タイソン(アーケストラ全盛期の女性メンバー)も歌ったサン・ラーの詩をいままた歌う。

衛星たちは回転している
よき日々が壊れている
銀河たちは待っている
惑星地球が目覚めるのを
私たちはこの歌を勇敢な明日のために歌う
私たちはこの歌を悲しみを廃止するために歌う
 “Satellites Are Spinning” (1971 / 2020)

 小さな渦が集合するコズミック・ジャズの “Lights On A Satellite” が続く。そこから “Seductive Fantasy” までの展開は、晩年にサン・ラーが喩えたように、アーケストラのメンバーひとりひとりが宇宙ニュースを記事にしている「宇宙新聞(Cosmic News Paper)」である。
 “Seductive Fantasy” は1979年の『On Jupiter』に収録されているが、同曲が新鮮なアレンジによって演奏されているように、ほかにも “Angels And Demons At Play” や “Rocket Number Nine” といったお馴染みの曲がみごとに甦っている。批評家のグレッグ・テイトは、「アーケストラの面々は、6つのディケイドに渡って展開されたサン・ラーのコンセプトがいまも魅力的であることを充分わかっている」と評しているが、たしかに彼ら・彼女らはサン・ラーの遺産に新たな生命を吹き込んでいるのだ。
 演奏はおおらかで、総じて祝福めいている。実験性には遊び心があり、アレンの電子音にはユーモアがある。サン・ラーの代わりに鍵盤を操っているファリド・バロンの演奏はまったく生き生きとしているし。つーか、この長老たちときたら……

 マーシャル・アレン作曲による表題曲 “Swirling” はスウィング・ジャズだが、これはアヴァンギャルド全盛の60年代~70年代に敢えてスウィングをやったサン・ラーに捧げているのかもしれない。笑ってしまうというか、なるほどというか、ある意味「らしい」と思えるのは、ロックンロール/リズム&ブルースまで披露しているところだ。
 サン・ラーといえば、いまや「アフロ・フューチャリズム」の古典となっているが、20世紀の初頭に生まれ、黒人文化人として世界大戦も経験しながら活動してきた彼を「アフロ・モダニズムの人」と評する向きもある。彼はたしかに、バンドのメンバーから猛反発をくらってもディスコを取り入れるほどの柔軟性のある人だったし、50年代にいくら批評家たちからぞんざいな扱いを受けようとも実験(電子音、短いソロや反復)もメッセージ(あるいは詩)も宇宙服(白人文化の象徴であるスーツの拒絶)も止めなかったが、サン・ラーがもっとも好きだったのはトラディショナルなビッグバンド・ジャズだったと言われている。ことにブルースであれば、同じフレーズを繰り返さずに延々と弾いていられたそうだ。スピリチュアルな人だったのだろうが、世俗的な音楽もずいぶんと愛していた。サン・ラーのそんな側面も今回の新録盤にはよく出ている。
 だが、そうした嗜好性とは別のところで、彼は「音楽は人間世界以前に存在し、人間がいなくても存在し続けることができた」と真剣に考えてもいた。そして、音楽が人間世界以前に存在するのであれば、音楽とは宇宙のものだ。その宇宙の音をこそ、彼とアーケストラはひたすら探求し続けていたのだ。つまり、トラディショナルなジャズと未来志向とのブレンド。

 1993年1月に卒中で倒れ、それでもライヴ・ツアーを続行したサン・ラーも、いよいよ自らの最期を覚悟したとき、アーケストラの面々にこう言ったという。「この世界は甘やかされた子どもたちによって作られている。狂った熊たちの世界だ。自分の思うところを外に向かって伝えよ。私はもうおまえたちにできる限りの情報を与えた。あとはおまえたち次第だ」*
 その成果がこのアルバム、門下生たちが力を振り絞って録音した『Swirling』というわけだ。サン・ラーが生まれてこのかた100年以上も経った21世紀のいま、こんな作品が聴けるなんて幸せこのうえないことで、アーケストラはこの音楽が超越的であることを身をもって証明しているわけだが、悠長なことを言ってもいられない。コロナ、BLM、そして分断された社会と……、ジ・アーケストラがサン・ラーの哲学をふたたび外に向けて伝えるなら、いましかないのだろう。世界を変えるために音楽をやるなんてことがとてもじゃないけど言えなくなったいま、怒りと、しかし喜びに満ちた宇宙の音楽をやるのは15年後では遅い、いまなのだ。

自分が間違っているとわかっているということをわかっている、
ということを知ったら、君はどうするのかい?
音楽と向き合って
宇宙の歌を聴かなければならない
The Sun Ra Arkestra “Face The Music” (1991)

したがって私は話したのだった
そして今後は星々に書かれる
 『Swirling』のブックレットより

* 引用は、ジョン・F・スウェッド著『サン・ラー伝(原題:Space Is The Place)』(湯浅恵子訳)より

SPARKLE DIVISION - ele-king

 ピアノでの作曲は両腕を使って旋律を考えなきゃいけなかったから、自分には向いていなかったと、アンビエント界のスター、ウィリアム・バシンスキは英紙「WIRE」2020年11月号の巻頭インタヴューで答えている。テキサスはヒューストンに生まれたバシンスキは、クラリネットのクラシック教育を受けた。音大ではジャズ・サックスと作曲も学んだが、作曲家ではなくデヴィッド・ボウイになりたかった彼は、正統派の道からはそそくさとドロップ・アウトし、80年代のブルックリンへと引っ越し、そこから90年代にかけてニューヨークの様々なバンドをテナーとアルトで吹き渡った。
 アンビエント・シーンの巨大な分水嶺になった『The Disintegration Loops』(02)や『Melancholia』(03)といったバシンスキによるアンビエント/ポスト・クラシカル一連の代表作からは、そういった作家個人の楽器特性はあまり見えてこない。いや、むしろ彼の楽器との関係性が見えてこないからこそ、ライヒイーノ由来のテープ・ループ奏法による作曲手法は、「楽音」発生装置の使用そのものに意味を発生させ、聴き手の思弁を誘発させるワームホールを作り上げてきた(ちなみに、先のインタヴューからは、批評は自分の仕事じゃないからと、自らの作品に投じられた多くの言葉から距離をとる彼の姿を知ることもできる)。
 現在、バシンスキが居を構えるのはロサンジェルスだ。電子音楽プロデューサーのプレストン・ウェンデルと彼が組んだプロジェクトがこのスパークル・ディヴィジョンであり、結成から4年を経て発表されたのが『To Feel Embraced』である。LAでウェンデルがバイトしていたコンビニに、バシンスキがコーヒーを飲みにふらっと立ち寄ったのがすべてのはじまりだった。バシンスキのファンだったことがきっかけとなり、ウェンデルは彼のスタジオ・アシスタントとして雇われ、さらにバシンスキが、ウェンデルが取り組んでいたヒップホップやジュークに興味をもち、ふたりは楽曲制作に乗り出していった。
 スパークル・ディヴィジョン──「悦楽局(ジョイ・ディヴィジョン)」ならぬ「輝き局」である。今作には他にも数名がクレジットされており、ジャケット裏側に表記されているパーソネルは以下の通りだ:

ウィリアム・バシンスキ(エグゼキュティヴ・プロデューサー):サキソフォン、シンセ・ストリングス、ループ
プレストン・ウェンデル(プロデューサー):その他全てのシンセサイザー、ビート、グルーヴ、ループ、エンジニアリング
セリ・グラナ:声と歌詞(“To Feel Embraced”)
ヘンリー・グライムス、巨匠:アップライト・ベースとヴァイオリン(“Oh Henry!”)
ミセス・レノーラ・ルッソ、ウィリアムズバーグの女王:声(“Queenie Got Her Blues”)

 レコードの針を落とすと、60年代のアクション映画をサンプリングしたようなビート・ループからアルバムはスタートする。手法やサンプリング対象、「記憶」の観点から、バシンスキの比較対象としても参照されるザ・ケアテイカーのクラシック・ジャズのループにも通じるものがあるかもしれないが、スパークル・ディヴィジョンのそれはひときわグルーヴィである。ウェンデルが作ったビートに、バシンスキが音色の追加や組み合わせを指示する形で制作は進行していったという。そのフィーリングは昨今のLAにおけるコズミックなビート・プロダクションに限りなく近い。
 そして、バシンスキがサックスを吹いている。“For Gato”のトラック名にあるように、彼のスタイルにはアルゼンチンとニューヨークを生きたテナーの巨人、ガトー・バルビエリ(1932‐2016)のような灼熱の旋律と咆哮するフリークトーンによる破壊性が共存している。
 また、そのサックス・リードがウェンデルのダブの手法を通し非現実性を帯びる。ベルリンのミニマルなそれとは強度が異なり、ここにはLAの華やかなサイケデリアが広がっている。A面最後の二曲で展開される、2016年に星になったボウイへと捧げられているであろう “To the Stars Major Tom” から 、ラウンジ・ジャズ的な “Oh No You Did Not!” にいたる、テナーとそれを取り巻く電子的マジックによるナラティヴの変化に脱帽である。
 前半のリード・トラック “Oh Henry!” のリズムはフットワークであり、なんと伝説的前衛ベーシスト、ヘンリー・グライムスが参加している。今年の四月に新型コロナウイルスによって彼が他界したのは非常に残念な出来事だった。60年代に〈ESP Disks〉からのリーダー作『The Call』(1966)や、アルバート・アイラー・クインテット『Spirits Rejoice』(1965)への参加など、グライムスはジャズから飛翔し、自由を求め、歴史を分岐させたひとりだ。近年では2012年にマーク・リボー・トリオに参加し、『Live at the Village Vanguard』という非常に素晴らしい録音を残している(作風はパンク・ミーツ・アイラー!)。
 “Oh Henry!” の主役はもちろんベースだ。ドラムを飲み込まんとする勢いのグライムスの荒ぶるダブル・ベースが、ときに憤怒のチャールズ・ミンガスが憑依したかのごとく熱情的かつ官能的に空間をバウンドし、電子的ハイハットと三連キックとともに鼓膜をノックしまくる。ニ度目の脱帽である。
 レコードをひっくり返すと、異なる宇宙が待っている点も、メディア特性を利用した粋な演出といえる。階層化された電子音とドローンの海 “To Feel” から、今作の表題曲である “To Feel Embraced” への流れ。イギリスのヴィーカリスト、セリ・グラナダが朗誦する「抱擁を感じるために(To Feel Embraced)」というリリックとともに創発するアブストラクトなビートが、このアルバムに様々な形で登場するグライムスからボウイにいたる死者たちを壮大に弔っているかのようだ。
 そこからバシンスキは再びサックスを手にし、前半の楽曲の曲調が続いたのち、突如挿入される “Queenie Got Her Blues” ではクラックル・ノイズ混じりのジャズとともに、女性の肉声が再生される。その声の主はジャケットに映る、ブルックリンのウィリアムズバーグに住んでいたレノーラ・ルッソという人物だ。クレジットにもあるように、彼女の通称は「ウィリアムズバーグの女王」であり、常にドレスアップして通りのベンチに腰掛け、道ゆく人に声をかけるそのアイコニックなキャラクターは、地元の人々に愛された存在だったという。地元のコミュニティの慈善活動にも長年従事していたそうだ。2016年に91歳で亡くなっており、地元のメディアには彼女を称える記事が書かれている(この写真を撮ったアンナ・ジアンフレイトのホームページにミセス・ルッソの写真と紹介文がある:https://www.annagianfrate.com/index.php?/ongoing/leonora-russo/)。ブルックリンに長きに渡って拠点を置いていたバシンスキにとっても彼女は特別な存在だったのだろう。
 そこに続く “Sparkle On Sad Sister Mother Queen” は楽曲からして、同じくミセス・ルッソに捧げられているは確かだ。多くの死者が登場する今作の終曲名は “No Exit”。ここに出口、つまり終わりはなく、スパークル・ディヴィジョンはその魂たちを永遠に輝かせようとしている。
 2020年11 月13日にはソロ名義での新作リリースもバシンスキは控えている。『A Shadow in Time』(2017)、『On Time Out Of Time』(2019)に続くタイトルは『Lamentation』、「哀歌」である。それとは対照的になる形で、『To Feel Embraced』には人間たちへの愛が満ち溢れている。今作はフットワークやコズミック・ビートの単なる器用な再生産で終わっていない。ここには死者を幸福に現在に留めておく手段としての音楽のモードが安らかに、グルーヴィに描かれている。2020年、誰にとってもそのことが大きな意味を持ちうることは言うまでもない。最後に、グライムスとミセス・ルッソに捧げられたジャケットの裏側のメッセージを訳出する:

彼らが楽園で輝かんことを! さあ、 ケツが上がるうちに、みんなでカクテルを仰ごう!

Wool & The Pants - ele-king

 先日は限定でアルバムのカセットテープ版まで出たWool & The Pants。英『Wire』誌でも評価されるなど、じょじょに国際的に認知されていっているようです。まあ、あのサウンドなので、当然といえば当然ですかね。
 で、じつは9月にNTSラジオでミックスを披露しているんですが、これがかなり格好いい内容なので、ぜひ共有させてください。ちゃんとECDからはじまってます。未聴の方、どうぞ!

https://www.nts.live/shows/guests/episodes/wool-and-the-pants-16th-september-2020

Can × VIVA Strange Boutique - ele-king

 自由が丘のVIVA Strange BoutiqueがCANのアートワークを元にデザインしたスウェット、MA-1ジャケット、パーカー、ロングスリーヴTシャツを10月17日(土)より販売します。
 これまでもロッビング・グリッスルのクリス・アンド・コージー、モノクローム・セット, WIRE,、DNA、ドゥルッティ・コラムといったアーティストとのコラボレーション・アパレルの制作をしてきましたが、今回のCANもかなりかっこいいです。編集部的には「DELAY」にやられました。
 なお商品はなくなり次第終了です。また、CANのリリース元であるトラッフィックからは『エーゲ・バミヤージ』と『フューチャー・デイズ』のTシャツ付き限定盤が出ていますが、次は『タゴ・マゴ』のTシャツ付限定盤が11月27日に発売されます
 で、別冊エレキング『カン大全~永遠の未来派』は10月31日に刊行予定……です!!(果たして……ただいま編集の佳境です)

Bob Dylan - ele-king

 5分31秒間、僕は神を信じたことがある。といっても困ったときについ頼んでしまう「神さま」のことじゃない。ユダヤ教とキリスト教で等しく信じられているあの「神」だ。見た目は、ルネサンス期の絵画によれば、カリフラワーライスでダイエット中のサンタ・クロースって感じ。
 へんな話だけど、神はポップソングにのってやってきた。僕が11歳のときだ。
 ポップソングということは、中学校でのダンスタイムとか、ガソリンスタンドでのトイレ休憩中とかに、スピーカーから流れ出てきた神に出くわしてもおかしくなかったわけだけど、さすがは全知全能の神、きっちり礼拝堂シナゴーグで現れた。
 日曜学校でヘブライ語の授業を受けているときの出来事だった。
 僕たちは毎回、聖典トーラーの重苦しい物語を読まなくちゃならない。それで時々、司祭ラビは教室の雰囲気を盛り立てようとユダヤ系ロッカーの曲をかけてくれた。
 この日もラビが1本のカセットテープをラジカセに突っ込み、再生ボタンを押した。流れてきたのは、ボブ・ディランの“ミスター・タンブリン・マン”。
 アコギのシンプルなストロークではじまった。DからG、Aと行きDに戻る。
 そこへディランの声が重なる。忘れ去られたいにしえの街のこと、そして一夜にして砂へと崩れ落ちた帝国のことを歌いだす。
 ディランの詞が僕の脳に、不思議なじゅつをかけたようだ。1番を聴きはじめたとたん、サイケデリックな砂漠文明の光景が目の前に広がった。僕は遠くから、その古代文明が勃興し衰退していく様を早送り再生で眺めている。アリの巣みたい。僕は壮大な物語のジオラマから目が離せなくなった。
 なんだか少し怖かった。
 でも、ディランの穏やかな声が気分を落ち着かせてくれる──そう思ったのもつかの間、今度は僕の空想が翼を広げて空高く舞い上がっていく。よくあるたとえに聞こえるけれど、実際その通りのことが起きた。“ミスター・タンブリン・マン”の2番と3番の歌詞には、「魔法の渦巻き船(マジック・スワーリング・シップ)」で太陽を目指す旅が出てくる。この詞とともに、僕の心の目はシナゴーグを飛び出し、空を突き抜けて、宇宙まで行ってしまったのだ。
 僕はそこでたしかに神の存在を感じた。
 最後のコーラスにさしかかる頃には、ディランの“ミスター・タンブリン・マン”がモーセの「割れる海」や「燃える柴」と同じくらい、いや、それ以上の奇跡といえる気がしていた。
 ラビが停止ボタンに指をおく。ハーモニカの音がやわらかにフェイドアウトして、曲はおわりを告げていた。

 2020年になったいま、僕は先祖代々の信仰を手放して久しいけれど、ディランはハーモニカに奇跡を吹き込みつづけている。最新作『ラフ&ロウディ・ウェイズ』も奇跡のひとつ。このアルバムのなかの曲で、79歳のシンガーソングライターは自身初となるビルボードのシングルチャート1位を獲得した。しかも驚いたことに、この曲は約17分もある。
 COVID-19パンデミックのさなかにリリースされたから、聴く側はかつてないほど時間をかけて、自宅でじっくりディランを堪能しているだろう。近年のビルボードヒット曲は、あきらかにどんどん短くなる傾向にあった。2019年の平均は約3分、ディランの大作に比べると6分の1程度だ。
 コロナウイルスへの不安とともに生きるなかで、ディランの新しいアルバムに流れるゆったりとした時間は心地よく感じる。ハーブティーみたいに気持ちを落ち着かせてくれる。
 だけど穏やかなサウンドとは裏腹に、詞は挑発的で刺激に満ちている。男性器のジョークあり、陰謀論あり、死についてもあり余るほど語られる。みんながよく知る人物も登場する。インディ・ジョーンズ、アンネ・フランク、ジークムント・フロイトにカール・マルクスまで。
 ヴォーカルはこのアルバムの要だ。演奏をバックに、歌詞がスポットライトを浴びた名画のように掲げられる。
 79歳を迎えたディランの声はひびわれて揺らいでいる。音程補正ソフトが当たり前の時代だからこそ、その魅力はいっそう際立つ。
 歌い方もクールだし、年齢を重ねたしゃがれ声と相まって、もはやトム・ウェイツよりもトム・ウェイツっぽい。
 昔から変わらない部分もある。本作でもディランは自分が影響を受けたものを見てくれと言わんばかりだ。おなじみのモチーフがときに姿を変えながら、アルバムのあちこちで顔を出す。1940年代のウディ・ガスリーのスタイルに、アパラチア音楽文化の影。グレイト・アメリカン・ソングブックに手を出したかと思えば、アラン・ローマックスの収集音源もちらり。象徴派の詩、自身のフォーク・ソングのロックンロール・アレンジ、それからジャーナリスティックな語り口。もう挙げ出したらきりがない。
 『ラフ&ロウディ・ウェイズ』は、傘寿を迎えるディランの輝かしい到達点だ。繰り返し聴きたくなるのはもちろん、底が知れない。あらゆる方向へ広がり、さまざまなものを含みもつ。
 ディランはこれまでに何度もポップ・カルチャーの価値をより高みへと更新してきたけれど、今回もそれに成功している。もしも万が一(そうなりませんように!)、本作が最後のアルバムになったとしたら、まさに有終の美というにふさわしい。でも僕はまだまだディランが嬉しい驚きを届けてくれると期待している。2020年のいまも、1964年の頃と変わらず、唯一無二の存在だから。
 それに、ディランのような年齢のポップ・アーティストがこんなにも独創的な歌詞を書いているのをみると、すごく励まされる。
 僕はもう何十年もディランの文学的な歌詞に心を奪われている。お気に入りの作家や映画監督と同じように、ディランは、未熟な僕が見逃してしまいそうな物事にいつも気づかせてくれる。だから、11歳のときにシナゴーグのラジカセを通じてディランと出会えた僕は、本当に運がいい。
 そして、振り返ってみるとちょっと妙な話ではあるけれど、ディランの詞が(ほんの数分間とはいえ)僕に信仰をもたせたというのはちゃんと筋が通っている。だって、結局、歌というのは僕らが神とつながるすべなんだから。音楽と無縁な宗教というのは聞いたことがないし、人類史上ずっと、歌うことは霊的な儀式の中心的な役割を担っている。
 俗な世界に生きる現代の僕らもいまだに神経言語的なレベルでは、ポップ・ミュージックを宗教的なものに結びつけている。このアルバムには「ソウル」がある、なんて言ったりするし、ディランみたいなロックスターを「神」と呼んだりもする。
 いまだって、僕も心のどこかでディランの詞に神聖なものを感じている。新しいアルバムで聴くあのしゃがれ声には、あらゆるものの解が入っているのだろう。


by Matthew Chozick

For five minutes and thirty-one seconds, I once believed in God. Not just any deity, but the Judeo-Christian one, who, in Renaissance paintings, looks like Santa Claus on a cauliflower rice diet.
   Oddly, He came to me in a pop song ― I was eleven.
   Although I might’ve found the Almighty in the stereo of a junior high dance or speakered into a gas station bathroom, remarkably, He appeared to me in synagogue.
   At the time I was in a Sunday Hebrew school class for children.
   Every weekend we kids studied gloomy Torah stories, and sometimes a rabbi would lighten the mood with music from Jewish rockers.
   During a lull one Sunday, my rabbi inserted a cassette tape into a boombox, pressed play, and out came Bob Dylan’s “Mr. Tambourine Man.”
   It began with simple acoustic guitar chords: D to G to A to D.
   Then Dylan started to sing of forgotten ancient streets and of an empire that, in one night, crumbled to sand.
   The lyrics did something weird to my brain. The first verse conjured a psychedelic vision of desert civilizations that, from afar, looked like ant colonies. They rose and fell, in time-lapse, on a massive, geological scale.
   It was a little scary.
   But Dylan’s gentle voice relaxed me ― until it sent my imagination soaring, literally. The second and third verses of “Mr. Tambourine Man” included a journey towards the Sun on a “magic swirling ship.” The lyrics carried my mind’s eye up, out of the synagogue, through the sky, into space.
   I felt the presence of God.
   By its final chorus, “Mr. Tambourine Man” seemed no less a miracle than the Burning Bush or the parting of the Red Sea.
   And then my rabbi readied his finger above the boombox’s stop button, right before the track ended with a soft fadeout of the harmonica.


Now, in 2020, long after I left my ancestral religion behind, Dylan is still packing harmonica with miracles. One such miracle is that the singer-songwriter’s new record, Rough and Rowdy Ways, has given the seventy-nine-year-old his first chart-topping Billboard single ever. And extraordinarily, the hit is some seventeen minutes long.
   Released amid our COVID-19 pandemic, listeners have had an unprecedented amount of time at home to parse Dylan. Tellingly, in recent years Billboard hits had been shrinking in size. In 2019 they averaged about three minutes ― roughly 1/6 of Dylan’s 2020 opus.
   The new album’s gentle pacing feels soothing in our era of coronavirus anxieties. It relaxes like a cup of herbal tea.
   But the record’s sonic mildness belies provocative lyrics. There’s a penis joke, a conspiracy theory, plenty of death, and notable references to Indiana Jones, Anne Frank, Sigmund Freud, and Karl Marx.
The vocals serve as the centerpiece of the album; lyrics hang like spotlit paintings in front of instrumental accompaniments.
   Dylan’s voice at seventy-nine cracks and wavers, which makes the record even more compelling in our age of autotune and pitch correction software.
   The singing sounds cool; Dylan’s gotten gravellier with age. He’s now more Tom Waits than Tom Waits.
   Some things haven’t changed; Dylan still wears his influences on his sleeve. His old muses are reflected and refracted on the new album ― familiar 1940s Woodie Guthrie stylings, Appalachian refrains, forays into the Great American Songbook, hints of Allen Lomax’s field recordings, symbolist poetry, rock n’ roll covers of his own folk music, journalistic storytelling, and oh so much more.
    Rough and Rowdy Ways works as a bold culmination of the near-octogenarian’s career. It warrants many relistens and it feels bottomless, expansive. It contains multitudes.
   Like Dylan has done time and time again, the new album elevates pop culture orders of magnitude. And if ― knock on wood ― this turns out to be Dylan’s final release, it would be a brilliant note to finish on. Yet I expect more pleasant surprises to come from Dylan. He is still as peerless in 2020 as he was in 1964.
   To be sure, it’s heartening to see such lyrical originality from a pop artist of Dylan’s age.
   For decades Dylan’s writerly lyrics have captivated me. Like my favorite novelists and filmmakers, Dylan has continually helped me notice things about the world that, in my own stupidity, I would have otherwise missed. So I’m very lucky that, at age eleven, I discovered Dylan in a synagogue boombox.
    And while it seems a little weird now, it makes sense that Dylan’s lyrics made me a believer ― if only for a few minutes. After all, good songs are how we communicate with the divine. Every major faith uses music, and singing has been central to spiritual practice throughout human history.
    In our secular era today, we’re still neurolinguistically wired to experience pop music as religious. We discuss albums as having “soul” and we refer to rock heroes, like Dylan, as “gods.”
    Even now part of me finds Dylan’s songwriting to be divine. His gravelly voice on the new record sounds as if it has all the answers to life’s questions.


電気グルーヴ - ele-king

 ウィー・アー・バック宣言から2ヶ月、電気グルーヴ、ついに完全復活である!
 2019年3月のピエール瀧の逮捕を受け、一時は全作品が出荷停止~配信停止状態になっていた電気グルーヴであるが、去る23日、コロナの影響で開催が延期されたフジロックの配信番組において新曲 “Set you Free” のMVが公開され、昨日、配信も開始となった。
 新たなマネジメント会社「macht inc.」を設立してから初となるリリースで、シングルとしては2018年1月の「MAN HUMAN」以来2年半ぶり、アルバムを含めると2019年1月の『30』以来1年半ぶりのリリースとなる。作詞・作曲・プロデュースを石野卓球が、アディショナル・プロダクションを agraph が担当。
 驚くべきは、アンビエント・タッチのハウスが描くこの暗い時代におけるこのポジティヴなヴァイブだが、「おまえを自由にする」というメッセージの込められたタイトル、そしてその「Set you Free」と「先住民」をかけることば遊びなど、相変わらずというか、表現にもますます磨きがかかっている。
 ここまで来たらもう電気が止まることはないでしょう。まずはこの曲を耳にぶち込んで、卓球&瀧の新たな船出を大いに祝福しよう(配信はこちらから)。

電気グルーヴ、2年半振りのシングル「Set you Free」配信開始

電気グルーヴの新曲「Set you Free」が、8月24日より各配信ストア及びサブスクリプションサービスでリリースされた。

https://linkco.re/DY8tPG5n

同楽曲は、8/23に行われた「FUJI ROCK FESTIVAL'20 LIVE ON YOUTUBE(DAY3)」内でMUSIC VIDEOと共に初公開されたもの。
シングルとしては、「MAN HUMAN」(2018年1月)以来、約2年半振りとなる。

作詞・作曲・プロデュースは石野卓球、ギターを吉田サトシ、アディショナルプロダクションを牛尾憲輔(agraph)が手掛け、ミックスは石野卓球と兼重哲哉、マスタリングは兼重哲哉が担当。

ジャケットはMUSIC VIDEOと同じく、田中秀幸(FRAME GRAPHICS)が手掛けた。

尚、「Set you Free(Video Edit)」MUSIC VIDEOは、「FUJI ROCK FESTIVAL’20 LIVE ON YOUTUBE DAY3(リピート放送)」(8/24(月)07:00から)で配信される。
FUJI ROCK FESTIVAL チャンネル → https://www.youtube.com/fujirockfestival

[“Set you Free”クレジット]
Denki Groove are Takkyu Ishino and Pierre Taki
Produced by Takkyu Ishino
Lyric and Music by Takkyu Ishino
Guitar : Satoshi Yoshida
Additional Productions : Kensuke Ushio(agraph)
Recorded at Takkyu Studio, STUDIO Somewhere
Mixed by Takkyu Ishino, Tetsuya Kaneshige
Mastered by Tetsuya Kaneshige
Designed by Hideyuki Tanaka(Frame Graphics)

[電気グルーヴ プロフィール]
1989年、石野卓球とピエール瀧らが中心となり結成。1991年、アルバム『FLASHPAPA』でメジャーデビュー。1995年頃より、海外でも精力的に活動を開始。2001年、石野卓球主宰の国内最大級屋内ダンスフェスティバル“WIRE01”のステージを最後に活動休止。それぞれのソロ活動を経て、2004年に活動を再開。以後、継続的に作品のリリースやライブを行う。2015年、これまでの活動を総括したドキュメンタリームービー「DENKI GROOVE THE MOVIE?-石野卓球とピエール瀧-」(監督・大根仁)を公
開。
2016年、20周年となるFUJI ROCK FESTIVAL’16のGREEN STAGEにクロージングアクトとして出演。2019年、結成30周年を迎えた。


Julianna Barwick - ele-king

 昔から……、といってもたかだか数十年の話だが、ある言い伝えに、ポップ・ミュージックの20周期説がある。ポップのモードは20年で一週するので20年ぐらい前が新しく、10年ぐらい前がいちばん古く感じるというわけだ。この説を鵜呑みするわけではないけれど、ここ最近のシーンの動きで面白くなりそうだなと思っているひとつはインプロヴィゼーションで、これは『The Wire』の寄稿者ジェイムズ・ハットフィールドからグラスゴーのStill House Plantsを教えてもらって、やや確信に近づいている。70年代のカンタベリー・シーンの系譜におけるもっとも先鋭的だったアート・ベアーズをUKにおける即興の先駆AMMと交差させながら、ポストパンクのフラスコのなかで蒸留させたかのようなサウンドは、20年前のフリー・フォークを思い出させる。(そしてSHPのほかにも興味深いアクトがいくつかいる)

 そうなると、およそ10年前に登場したジュリアナ・バーウィックは現時点においては古い音楽になるわけだが、どうだろう。うん、たしかに懐かしいかもしれないし、自分の時間感覚もだいぶ狂っているので、もうよくわからないというのが正直なところだ。
 『The Magic Place』はよく聴いたし、ノー・ニューヨーク一派のひとり、イクエ・モリとの共作も忘れがたいアルバムだ。この当時は、おお、こんなユニークで美しい、しかも喜びに満ちたエレクトロニック・ミュージックを作る人がブルックリンから出て来たとずいぶん感動したと記憶している。
 そしてバーウィックが喜びであるなら、まるで同じカードの表裏のようにポートランドには憂鬱なグルーパーがいた。このふたりは、まず自分の声にリヴァーブをかけ、それを抽象的なレヴェルで使うという点で似ている。ロングトーンを多用したメロディもじつは似ている。が、そよ風に揺れる新緑のバーウィックと廃墟でひとり佇むグルーパーとでは、その音楽の色味や性格は正反対のように見えがちである。ノートパソコンのバーウィックとギターのグルーパー。ぼくがその後熱心に聴き続けたのは、言うまでもなく後者のほうだった。
 
 これは半分笑い話というか、日本人の適当さにも依拠する話だが、初来日が品川の教会だったバーウィックと上野方面の禅寺だったグルーパーというのも、まあ、象徴的ではある。グルーパーの禅寺というのは、これはしかしたまたまというか、いや、あまり深く考えずに、ホントにたまたまそうなっただけなのだろうが、バーウィックの教会というのはバーウィックだからそうなったのだろう。
 わからなくはない。彼女の音楽には神聖さがある。それは宗教的ということではない。ある種の清らかさということである。だいたい本人は、先日掲載したインタヴューにあるように、けっこう気さくな方だったりするし。

 昨年のDAZEDに掲載された彼女のインタヴューの最後の発言に、こんな言葉がある──「できる限り、地球の現状と悪に対抗する方法を考える必要がある。そして人生を楽しむこと。人生はいまでもほんとうに素晴らしく、ほんとうにそうなんだから」
 まるで大島弓子の『バナナブレッドのプティング』の主人公が物語の最後につぶやく言葉のようじゃないか。そうかぁ、なるほどなぁ、わかってきたぞ。バーウィックとはつまり、たとえどんな苦難があろうとも最終的には「人生は素晴らしい」と言えるのであって、だから彼女の音楽からは喜びが聴こえるのだろう。それは逞しさと言えるものかもしれない。

 新作『ヒーリング・イズ・ア・ミラクル』は、彼女がブルックリンからLAに引っ越して作った作品で、通算4枚目のアルバムとなる。階層化されたループを基調とする彼女のコンポジションは、ベルリンのベーシック・チャンネルのミニマル・ダブと同様にひとつの発明だ。グルーパーもそうだが、最初から彼女は自分の“サウンド”、自分の“型”を持っていた。3人のゲスト(ハーブ奏者のメアリー・ラティモア、シガー・ロスのヨンシ―、LAビートメイカーのノサッジ・シング)が参加しているものの、基本的には『The Magic Place』の頃と大きな変化はない。音数は最小限で、声が電子的に加工され、そよ風のような音響が展開されている。ただ、その音響の階層にある隙間はより広く、空間的で、より心地良く、清々しくもある。しかもその音響は、ぼくが思うに『The Magic Place』の頃よりもグルーパーに近づいている。そう思えてならない。
 4年前にThe Quietusで、彼女のオールタイム・フェイヴァリット・アルバムを紹介する記事があった。そのなかで彼女は、アニマル・コレクティヴからの影響を語り、ビュークやホイットニー・ヒューストンやニュー・オーダーのファンであることを明かし、また、アーサー・ラッセルやスフィアン・スティーヴンについて話し、そしてグルーパーへの惜しみない讃辞を述べている。「私はこれまで彼女が出した作品すべてを持っている」、バーウィックは話をこうはじめると「素晴らしい、まったく素晴らしい」と手放しに誉めつつ、「彼女には部屋を静かに破壊する術がある。(略)彼女のパンクの美的表現が好きだし、それはとてもクール」だと言う。

 そのときようやくわかった。彼女がイクエ・モリと共演したのも、たまたまではなかったと。ぼくはジュリアナ・バーウィックを聴き直さなければならない。それは古くはなく、いや、それどころかこれから必要とされるであろう、パンクの美的表現の一種として。

Wire - ele-king

 パンクが大衆の認識に与えた衝撃が完全に浸透するよりも前に、ワイアーはすでにパンクを弄び、嘲笑い、その限界を超越していた。新興のパンク世代が、より純粋であると思われる1950年代のロックンロールの価値観を称揚し、1970年代のプログレッシヴ・ロックの大仰さを軽蔑して根絶を望んでいたのをよそに、ワイアーは〈Harvest Records〉と契約を結んでピンク・フロイドと同じレーベルの所属となり、伝統的ロックンロールに残るブルース・ロックの影響を自分たちのサウンドから排除しようとした。パンク・ムーヴメントの中核に残された者たちは、パンクの限界をより深く突き詰めようとしたが、それがあまりにもあっさりと超えられたことに、ほとんど気づいてさえいなかった。

 それから40年以上が経ったいま、ワイアーの音楽が反ロックの衝撃をもたらすことはなくとも、その栄誉の一部はワイアー自身に与えられるべきだろう。彼らが短期間で鮮烈にロックの形態を歪め、解体したことによる影響は長くくすぶり続け、ここ数十年に渡ってロックを再構築しようとする動きに力を与えており、状況は1970年代の終わりに彼らが目指した方針に近づいている。一方でワイアーが少なくとも2008年の『Object 47』以来切り開いてきた道は、ロックとの和解を目指しているかのようであり、ロックの構造に対する遠回しでぎこちない攻撃は健在ながら、自分たちの言葉で曲作りの方法論を探求することで、以前より遙かに心地よい状態に繋がっている。

 また現在のワイアーは、過去の自分たちとの対話にますます没頭しているように見受けられる。ロックの既成概念を解剖するアイデアと、ほとばしるポップスの輝きを組み合わせるスタイルは当初から変わっておらず、バンドは過去の自分たちを折に触れて肯定することを厭わない。コリン・ニューマンが皮肉とともに“Cactused”の切迫感のあるサビに込めたメッセージは、バンドによる1979年の珠玉のポップ・ソング“Map Ref. 41 Degrees N 93 Degrees W(北緯41度西経93度)”と同じ無味乾燥なほのめかしを表している。それでもワイアーが現在のロックのあり方を受け入れるなかで辛辣さはわずかに鳴りを潜め、うまくいっているときに得られる純然たる喜びも多少は感じられるようになってきた。

 そこには以前に比べて少しだけ緩さも生じているのかもしれない。1970年代のワイアーの楽曲は槍のように脳をきつく刺激するもので、リリース時点ですでに彼らのミニマリズムは完成されており、バンドはそこにさらなる活力を与えて展開させることは望んでいないように見受けられたが、現在、その音楽のなかに新たな活気が生まれる余地が徐々に認識できるようになっており、とくに『Mind Hive』ではその狙いが見事に開花している。“Unrepentant”や最後の“Humming”のような曲では、ブライアン・イーノ風と言ってもいいほどの広大なアンビエントの流れができており、一方“Hung”は、8分近くにおよぶ曲の中で核となるグルーヴを乗りこなせるという自信に満ちている。そうしたエネルギーは、新たに加入したギタリストのマシュー・シムスが持ち込んだ幻惑的な色合いにもたしかに受け継がれており、彼の存在感はますます高まっているが、それはまたバンドが少なくとも過去12年間で辿ってきた進化の道筋に欠かせないものでもある。

 ワイアーが変わらず妥協のない挑戦的なワイアーらしさを保っていることは、歌詞に現れている。その歌詞は、現在のインディ・ロック・シーンで彼らの影響を受けているどの若手バンドと比べてもなお、鮮烈で鋭く、謎めいていると言っていいだろう。多くの楽曲では、オンライン空間のまとまりのない空虚な世界観が断片的な形で漂っており、“Humming”では謎めいたロシア人の存在に言及し、喪失感やうまくいかないものごとや頭をよぎる失われた自由について述べていて、“Hung”においては混乱のなかで制御を失われる感覚や「一瞬の疑念」から生まれた些細な混沌がひたすら描かれる。『Mind Hive』全体を貫いているのは、現在まさに動揺し崩壊しようとするこの世界に対する明白な意識だが、それぞれの歌が具体的な何かから引き出されたものだとしても、その直感の閃きを歌詞から辿ることはできない。歌詞に唯一残されているのは、断片的な糸口と脅迫めいた暗示であり、それは力強く感情を込めた、憂鬱と偏執からなる筆致で描かれている。これはおそらくロック・ミュージックに限らず、世界の全体が、ようやくワイアーに追いついたということなのかもしれない。

訳:尾形正弘(Lively Up)


Ian F. Martin

Before punk had even fully made an impact on the public imagination, Wire were already kicking it around, mocking it, transcending its limitations. As the emergent punk generation championed the supposedly purer values of 1950s rock’n’roll and sneered the pomposity of 1970s progressive rock into what they hoped was oblivion, Wire signed to Harvest Records as label mates to Pink Floyd and set about expelling the blues-rock influences of classic rock’n’roll from their sound, leaving the core of the punk movement digging deeper into its own limitations, mostly not even aware of how swiftly they’d been surpassed.
Now, more than 40 years on, Wire’s music doesn’t land the anti-rock impact, but part of the credit for that should probably go to Wire themselves. The slow-burning influence of their short, sharp distortions and deconstructions of rock forms has helped rock music over these past few decades to reassemble itself in a way that brings it closer to the path that Wire had begun charting in the late 1970s. Meanwhile, the path Wire have carved themselves, at least since 2008’s Object 47, feels like a sort of reconciliation with rock, retaining the band’s oblique and angular attacks on its structures but combining that with a greater comfort in exploring its songwriting conventions on their own terms.
The Wire of today also seem to be increasingly engaged in a dialogue with their own past selves. The combination of ideas that dissect rock conventions and bursts of glorious pop has been there since the beginning, and the band aren’t averse to the occasional nod to their past selves. Colin Newman’s irony-laced announcement of the impending chorus in Cactused directly references a similar dry aside in the band’s 1979 pop gem Map Ref. 41 Degrees N 93 Degrees W. Still, there’s a little less sarcasm in Wire’s nods to convention nowadays, a little more comfort in the simple joys of what works.
There’s perhaps a bit more looseness too. Where Wire’s songs in the 1970s were tightly-wound lances to the brain, already at such a point of minimalist completion by the time of release that the band seemed to feel no need to let them breathe and develop, there’s increasingly a sense of breathing space to their music now that is in particularly full bloom on Mind Hive. Songs like Unrepentant and the closing Humming have an expansive, almost Eno-esque ambient drift to them, while Hung has the confidence to ride its central groove for nearly eight minutes. Some of this must surely be down to the psychedelic tint brought by new guitarist Matthew Simms as he increasingly makes his mark, but it’s also part of an evolutionary course the band have been on for at least the past twelve years.
Where Wire are still uncompromisingly and defiantly Wire is in the lyrics, which are still fresher, sharper, more cryptic than nearly any of the younger bands that carry their influence in the contemporary indie scene. The disconnected, spectral presence of the online world haunts many of the songs in a fragmentary fashion; references to an ambiguous Russian presence, a sense of loss, of something gone wrong, of freedoms lost flicker through Humming; the sense of something spinning out of control, of mere chaos born out of a “moment of doubt” pounds its way through Hung. There’s a definite sense running through Mind Hive of our current shivering, crumbling world, but if the songs are drawn from anything specific, access to that spark of inspiration is closed off by lyrics that leave only fragmentary evocations and menacing hints, painted in powerfully emotional strokes of melancholic paranoia. Perhaps it’s not just rock music but the whole world that has only just caught up with Wire.

Guided By Voices - ele-king

 ガイデッド・バイ・ヴォイシズはもうアルバムを作らなくなっている。というか、少なくとも一般的な意味での「アルバム」は作らない。だが、ガイデッド・バイ・ヴォイシズはそもそも通念的な「ロック・バンド」ではないわけで、したがってそうなっても不思議はないのかもしれない。
 いつ頃からこの状態になったかははっきりと特定しにくい。1980年代のオハイオ州デイトンで、中心人物にして全活動期間通して参加している唯一のメンバーであるロバート・ポラード宅の地下室にふらりとやって来たほとんど雑多と言っていい顔ぶれからはじまった彼らは、ある意味普通に言うところの「バンド」だったためしはなかったのだから。そこから彼らの生み出したボロくくたびれたローファイな傑作群は、USインディ界のオリジン・ストーリーのひとつに型破りでときに困惑させられもする奇妙な背景をもたらしていった。それでも、バンド初期にあたる80年代からもっとも長い散開期に入った2004年までの間に彼らの放出した作品の多くは、ユニークかつしばしば特筆に値する内容を誇る一連の作品群として熱く聴きこめる。これらのアルバムは、ひっきりなしに変化を潜っていたこのバンドがそのときそのときの状況に応じて発した反応をくっきり刻んだものとして理解し消化できると思う。

 そうなった理由として、レコード・レーベル側のプロモーションおよび作品流通スケジュールという縛りは部分的に影響していたかもしれない。ゆえにガイデッド・ヴォイシズというブランド名が発する作品は1年か2年に1作程度に絞られることになり、ポラードは氾濫する膨大なソングライティングの流れをソロ作や数多のサイド・プロジェクトへと向けることになった。実際、2004年に起こったガイデッド・バイ・ヴォイシズの「終結」以来(註1)、ポラードは自らのレーベルを通じ、復活したガイデッド・バイ・ヴォイシズのふた通りのラインナップも含む多種多様な自己プロジェクトで実に50枚以上(数えてみてほしい!)のアルバムを発表してきた。折りに触れてでたらめにすごい勢いで時間の裂け目から流れ出し現在に漂着する、忘れられていたガレージ・パンクの古いヒットやレア曲の尽きることのない泉か何かのように。
 では2020年のいま、ガイデッド・バイ・ヴォイシズのようなバンドをどうとらえればいいのだろう?
 1994年に丁寧に歌の形で提示してくれたように(註2)、ロバート・ポラードにはじつは4つの異なる顔がある。まず彼は、作品を通じて自らを検証し理解するという意味で科学者だ。また彼はロック・ヒストリーに対する意識が非常に強く、ゆえに彼の音楽はよくロックの伝統やインディ音楽ファンのライフスタイルに対する一種の間接的な解説になってもいて、その意味では記者ということになる。自分自身のために音楽を作っているだけではなく、それが聴き手のくそったれな日常への癒しを処方薬のように振り出すことになってもいる意味で、彼は薬剤師でもある。そして彼は迷える魂でもある――彼に自由をもたらす唯一の径路を約束してくれるものの、やればやるほど彼をつまはじきにしていく、このインディ・ミュージック界というものにますます深くはまって自らを窮地に陥れているという意味で。もっと平たく言えば、ポラードの音楽は常に内省とポップ感覚とのバランスをとってきたし、かつそのオタクな起源に対する自覚とひたむきな傾倒とのつり合いも見事に保ってきた、ということだ。
 さまざまな要素が複雑に絡まったこれと同様のバランスは、ガイデッド・バイ・ヴォイシズのファン連中がなかば皮肉混じりに、しかし同時に心底からの思いで彼らを「現代最高のロック・バンド」だのそれに近い表現で賞賛する様にも表れている。そうした形容は、バンドの誇る否定しようのないパフォーマンスおよび作曲技巧の熟練ぶりを褒め称えるとともに、じつにマニアックでニッチな居場所におさまって満足している何かに対してそれこそスタジアム・ロック・バンドを祭り上げるような大袈裟なフレーズを投げかけている、彼らファン自身を自ら笑い飛ばすものでもある。その意味で、ガイデッド・バイ・ヴォイシズはオルタナティヴとインディの気風に内在する、直観に反するあまのじゃくな核を代表するバンドと言える。パワフルな共有体験で人びとをひとつにしようとする一方で、彼らはまたメインストリーム側に定義された「普遍的な体験」なる概念をあえて覆そうとしてもいるのだから。
 というわけで、『Surrender Your Poppy Field』に話を移そう。ローファイな地下室レコーディングの美学とプログレのスケール感、崇高なポップ錬金術とガタついたポスト・パンクの無秩序とが楽しげにぶつかり合うこの作品は、それらすべてをドクドク鼓動するロックンロールのハートに備わった救済のパワーに対する真摯で子供のように純真な、衰え知らずの情熱的な信頼でもって演奏している。
 ここでまた、ガイデッド・バイ・ヴォイシズから滔々と流れ出す音楽を果たして「アルバム」のように不連続なフォーマットで区切ることはこれ以上可能なのだろうか? という本稿冒頭の疑問が頭をもたげてくる。現行ラインナップになってからわずか3年の間に、彼らは既にアルバムを7枚発表し(うち2作は2枚組)、3枚は2019年に登場している。読者の皆さんがこのレヴューを読む機会に行き当たる前に、また別の作品を発表してしまっている可能性だって大いにあり得る。そうした意味でこの最新作のことは、彼らにとっておなじみのさまざまな影響群・テーマ・創作アプローチの数々をミックスしたものを再び掘り下げ調合し直す、その休みなくえんえんと続くプロセスのもっかの到達点として理解した方がいいだろう。いずれにせよ、本作は見事な名人芸を聴かせてくれる。『Zeppelin Over China』(2019)での威勢のいいガレージ・ロック、『Warp and Woof』(2019)の抑制されたローファイな実験性および脱線ぶり、『Sweating the Plague』(2019)でのプログレへの野心を組み合わせた上で、それらすべてが1枚の誇らしく、タイトに洗練されたレコードとしてまとまっている。1990年代および2000年代初期の〈マタドール・レコーズ〉在籍時以来、ガイデッド・バイ・ヴォイシズの最良作かもしれない。

 “Physician”やアルバム1曲目“Year of the Hard Hitter”のような曲はまったく脈絡のなさそうな別の曲の断片の合間をきまぐれかつスリリングに行き来するが、そのどれもにロックなリフの生々しい調子がみなぎっている。この点に関しては、1997年から2004年までの間(この時期のハイライトとして『Mag Earwhig!』、『Isolation Drills』、『Speak Kindly of Your Volunteer Fire Department』、『Half Smiles of the Decomposed』がある)ポラードとともにバンドを牽引した後、現在の新体制ガイデッド・バイ・ヴォイシズに返り咲いたギタリストのダグ・ギラードの貢献が大きいのはまず間違いないだろう。彼が顔を出すと必ずと言っていいほどキャッチーでヘヴィなハード・ロック/グラム・ロック調のギター・リフが前面に出てくるし、ここでそのリフはポラードのもっとも喜びに満ちて楽しげな、ゴングやジェネシスが残響したかと思えばXTCやワイアーを彷彿させることも、という具合に敏捷に変化するソングライティングとの対比を生んでいる。
 ガイデッド・バイ・ヴォイシズのベストな作品がどれもそうであるように、バンドがロックの伝統相手に繰り広げる支離滅裂かつアナーキックなおもちゃの兵隊ごっこの全編を通じて、このアルバムにもアンセミックで思わずこぶしを突き上げたくなるロックな歓喜のピュアなハートが脈打っている。それがもっとも顕著なのは途方もなくビッグな2曲目“Volcano”であり、ガレージ・ロックの金塊(ナゲッツ)を凝縮したような一聴カジュアルな響きの“Cul-De-Sac Kids”や“Always Gone”、“Queen Parking Lot”にも繰り返し浮上する。聴いていると、1990年代に極まった、ガイデッド・バイ・ヴォイシズのローファイな壮麗さという混沌の中に混じっていた“My Son Cool”や“Gold Star for Robot Boy”といった名曲を発見した際の思いがけない喜びが再燃する。
 ガイデッド・バイ・ヴォイシズのようなバンドの体現する、途切れなく続く爆発的なクリエイティヴィティから受け取るめまいのするほどの歓喜。それをその果てしない作品の流れを感知していない人間相手に伝えようとすると、どうしたって狂信的なファンのように思われてしまうのは仕方がない。とはいえ結局のところ、いちばんのアドヴァイスとしては、ピッチフォークのアルバム評がやるような理性派もどきで冷静なアート・ギャラリー型の言葉(とレヴューに科学的/客観的な気取りを添えている例の採点システム)で新しい音楽を考えようとしてしまうあぶなっかしい思考回路の一部を、まずいったん振り捨ててもらうことだろう。そうしたところでこの変化し続け、つねに歩調がずれている、いつ果てるとも知れない恍惚に満ちたカオスに悔いなく身を投じてみてもらいたい。あなたの内に潜んでいるマニアックな面を受け入れよう。僕らの仲間に加わろうじゃないか。

訳註1――ガイデッド・バイ・ヴォイシズは2004年にいったん解散したことがあり、同年正式に「さよならツアー」もおこなった。
訳註2――以下に続く「Scientist/Journalist/Pharmacist/Lost soul」は“I Am a Scientist”の歌詞の引用。同曲はガイデッド・バイ・ヴォイシズのもっとも有名なアルバム『Bee Thousand』(1994)収録。

Ian F.Martin


Guided By Voices don’t really make albums anymore. At least not in a conventional sense. But then Guided By Voices aren’t really a rock band in a conventional sense either, so maybe that’s to be expected.
Since when this has been the case isn’t entirely clear. In a sense, they’ve never been a normal band, with their roots as an almost random collection of people drifting through the band’s central figure and sole consistent member Robert Pollard’s Dayton, Ohio basement in the 1980s, creating ragged lo-fi masterpieces that formed an offbeat and sometimes bewildering background to the origin tale of indie rock in the United States. Still, much of their output, from their early days in the ‘80s through to their most extended split in 2004, can be absorbed as a series of unique and often striking works — albums that can be understood and processed as distinctive responses to their own unique circumstances at a rapidly changing time for the band.
Partly, this might be down to the restraining influence of record label promotion and distribution schedules, limiting the Guided By Voices brand to one release every year or two, with Pollard directing his songwriting overflow into solo releases and side projects. Indeed, since the 2004 “end” of Guided By Voices, Pollard has used his own labels to release more than 50 (count them!) albums from various of his projects, including two resurrected Guided By Voices lineups, like an endless stream of lost garage-punk hits and oddities flowing through cracks in time and landing in haphazard, explosive bursts in the here and now.

So how do we make sense of a band like Guided By Voices in 2020?
As he helpfully laid out for us in song form back in 1994, Robert Pollard is four different things at heart. He is a scientist, in the sense that he uses his work to examine and understand himself. He is a journalist in the sense that he is extremely conscious of rock history, and his music often forms a sort of oblique commentary on rock’s own traditions and the indie music fan lifestyle. He is a pharmacist, not only making music for himself but also packaging out morsels of comfort to ease his listeners’ fucked up lives. And he is a lost soul: digging himself ever deeper into this indie rock world that only isolates him ever further, even as it promises his only route to freedom. Put more simply, Pollard’s music has always balanced introspection and pop sensibility, as well as self-awareness of and deep dedication to its geeky provenance.
The same interrelated balance of elements is expressed in a way by Guided By Voices fans’ half- ironic yet at the same time deeply sincere celebration of them as “the greatest rock band of the modern era” and similar praise — lines that celebrate the band’s undeniable mastery of performance and song-craft at the same time that they laugh at themselves for piling such stadium rock superlatives on something so comfortable in its maniac niche. In that sense, Guided By Voices represent the counterintuitive core of the alternative and indie ethos: they seek to bring people together in a powerful shared experience, while at the same time deliberately seeking to undermine the notion of a universal experience as defined by the mainstream.
Which brings us to Surrender Your Poppy Field: a joyous collision of lo-fi basement recording aesthetics and prog rock grandeur, sublime pop alchemy and fractured post-punk anarchy, all delivered with the earnest, wide-eyed and ever-passionate belief in the power for salvation that lies in the beating heart of rock’n’roll.
It also brings us back to the question of whether it is even possible to divide the flow of music that comes out of Guided By Voices into something as discrete as an album anymore. The current lineup of the band has only been together for three years and has already released seven albums (including two double-albums), with three of them coming out in 2019. It’s entirely possible that the band will have released another before you even get a chance to read this review. In that sense, this latest is better understood as a progress marker in a process of constant re- exploration and re-formulation of the band's familiar cocktail of influences, themes and creative approaches. Either way, it’s a masterful one, combining the garage rock swagger of Zeppelin Over China (2019), the pared-down lo-fi experimentations and excursions of Warp and Woof (2019) and the progressive rock ambition of Sweating the Plague (2019) in a way that melds them all into one glorious, tightly-refined record — possibly Guided By Voices’ finest since their Matador Records days back in the ‘90s and early 2000s.

Songs like Physician and the opening Year of the Hard Hitter ricochet capriciously and thrillingly between what feel like fragments of entirely different songs, all equally rich in raw veins of rock riffage. For this, a lot of credit must surely go to guitarist Doug Gillard, returned to this new GBV fold after co-navigating with Pollard the years 1997-2004 (highlights include Mag Earwhig, Isolation Drills, Speak Kindly of Your Volunteer Fire Department and Half Smiles of the Decomposed). Gillard’s presence always flags up the presence of catchy, heavy, hard rock/glam riffs, which here are set against Pollard’s songwriting at its most joyously playful, skating between echoes of Gong and Genesis just as easily as it recalls XTC and Wire.
Like all Guided By Voices at their best, there is a pure heart of anthemic, fist-pumping rock elation running through the whole scrappy, anarchic game of toy soldiers with rock traditions that the band are playing. Most obviously on display in the monumental second track Volcano, it also surfaces again and again in casual-seeming miniature garage-rock nuggets like Cul-De-Sac Kids, Always Gone and Queen Parking Lot, in a way that rekindles some of the unexpected joy of discovering tracks like My Son Cool or Gold Star for Robot Boy bursting out of the chaos of Guided By Voices’ at the peak of their 1990s lo-fi pomp.
Communicating the dizzy joy of the constant, explosive creativity a band like Guided By Voices embody to anyone not plugged into the endless stream without coming across as insane is always a challenge. In the end, though, the best advice is to throw off that treacherous part of your mind that thinks of new music in the faux-rational art gallery terms of a Pitchfork album review (complete with the scientific affections of a numerical grade) and cast yourself into the ever-evolving, always out-of-step, never-ending ecstatic chaos without regrets. Embrace your inner maniac. Join us.

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