「S」と一致するもの

interview with Jun Miyake - ele-king


三宅純
Lost Memory Theatre act-1

Pヴァイン

Amazon iTunes

 三宅純はインターナショナルに活動しているパリ在住の日本人作曲家である。わりと最近では、2009年の寺山修司版『中国の不思議な役人』の音楽を担当して国内外で話題になった。昨年は、ドイツの高名な舞踏家、ピナ・バウシュを描いたヴィム・ベンダースの映画『Pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』にも楽曲を提供しているが、映像や彼女のパフォーマンスもさることながら、その音楽も国内外で賞賛されている(そういえば、1996年の大友克洋の『MEMORIES』にもフィーチャーされています)。
 近年欧米では、賛辞の意を込めて、現代のクルト・ワイル、新時代のギル・エヴァンス、未来のバート・バカラック……などと喩えられているが、こうした表現が正しいか否かはさておき、それが多彩な音楽(ジャズ、ボサノヴァ、エレクトロニカ、クラシック等々)がミックスされた魅力的なものであることはたしかだ。エレガントで静謐で、そしておおらかで、想像力を喚起する面白さがある。「記憶を喚起するような音楽」を主題とした新作『ロスト・メモリー・シアター-Act-1』には、とくにそうした魔法があるように感じる。一流の料理人が用意したご馳走であり、旅人の描いたオデッセイアの断片でもあり、美しいミュータント音楽でもある。 
 ゲストも豪華で、アート・リンゼイをはじめ、大御所デヴィッド・バーン、ピーター・シェラー(exアンビシャス・ラバーズ)、かつて〈4AD〉からの作品で一世を風靡したブルガリアン・ヴォイス、天才ベーシストのメルヴィン・ギブスなどなど……、それからなんとニナ・ハーゲンの名前まであるじゃないですか。

小学6年のときにチャーリー・パーカーとマイルス・デイビスを聴かされて、雷に打たれたようになりました。その和声感、リズムの躍動、即興で奏でられる旋律、すべてにスリルを覚え、自分のやりたいことはこれしかないと思いました。

『Lost Memory Theatre act-1』はとても美しい作品ですが、まず、「失われた記憶の劇場」という主題が興味深く思いました。ヴィム・ヴェンダースがライナーで言っているように、それは「心象風景」に関する音楽ということなのでしょうか? 

三宅純(MJ):ヴェンダースさんにはご自身が感じられた通りに書いて下さいとお願いしました 。僕は常々言葉で限定することで、リスナーの感性を制限するようなことはしたくないと思ってきました。コンセプトノートに書いたように、失われた記憶が流入する劇場が自分のために欲しかったのです。そして結果的に失われた記憶を喚起するような音楽を創れたら良いと思いました。

それは、郷愁という言葉にも置き換えられる感覚なのでしょうか?

MJ:むしろ単に懐古的にはしたくありませんでした。「過去はいつも新しく、未来はいつも懐かしい」という言葉が好きです。パーツを見ると層になった記憶の断片から作られているのに、全体として聴くといままで聴いたことがないものが出来上がったという風にしたかったのです。

「失われた記憶が流入する劇場があってもいい」という考えは、音楽がしうることのひとつを表していると思います。記憶を喚起する音楽、思い出すことを促すであろう音楽を今回お作りするにあたって、何を重視されましたか? 

MJ:僕個人の記憶を投影するのではなく、 失った記憶を呼び覚ますトリガーになるような音楽とはどんなものだろう? というのが大きな課題でした。言うのは簡単ですが、実現は極めて困難です。まだ語り尽くせていないと感じるのでシリーズ化するかもしれません、『act-2』の曲はすでに出揃っています。

三宅さんご自身のリスナー体験として、自らの記憶を刺激するような音楽というと何がありますか?

MJ:物心ついた時から音楽とともに生きて来たので、数限りない音楽 、そして風景や香りが、さまざまな記憶と結びついています。特定するつもりはありません。

ご自身の記憶の風景のなかで、いつか音楽の主題にしたいものがあれば教えてください。

MJ:脳裏に残る情景があったとしても、実際に音にするかどうか、そのときが来るまでわからないのです。僕にはいつか音にしたい「感情の備蓄」のようなものがありますが、風景の備蓄はそれに比べると少ないように思えます。

三宅さんとジャズとの出会い、トランペットとの出会いについて教えて下さい。日野皓正さんに憧れて、ジャズの入ったと聞いたことがありますが、ジャズのどんなところが三宅さんにとって魅力だったのでしょう?

MJ:小学6年のときにジャズ狂のお母さんを持つ友人宅で、チャーリー・パーカーとマイルス・デイビスを聴かされて、雷に打たれたようになりました。その和声感、リズムの躍動、即興で奏でられる旋律、すべてにスリルを覚え、自分のやりたいことはこれしか無いと思いました。当時はまだジャズは進化の途中でしたから、音楽の様式に惹かれたというよりも、日進月歩で進化する自由な魂に憧れたのだと思います。
 それから独学でやみくもに練習をはじめましたが、大学受験の時期に両親の反対にあって、日本でもっとも尊敬できるトランペッター日野皓正さんの門を叩き、彼に才能が無いと言われたらやめようと思ったのです。彼は僕を沼津の自宅に連れていってくれ、聴音の試験をし、奏法上の問題を指摘し、音楽家として生きる厳しさについて話をしてくれました。つまりやめろということだと思った時 、心配した母親から電話があって、日野さんはいきなり電話口で「お宅の息子さんはアメリカに行くことが決まりました」と宣言されたのです。大騒動になりました。

バークリー音楽院では学んだことで、いまでも大きな財産となっていることは何でしょう?

MJ:むしろ学校外の演奏活動で多くのことを学びました。学校では……良くも悪くも楽曲をシステマチックにアナライズすることでしょうか。

とくにアメリカではジャズの演奏家の層も厚いと思いますが、そういう競争率の高い、演奏能力の高い次元で活動することは、それなりのプレッシャーやストレスもあったと思うのですが、いかがでしょうか?

MJ:日々が他流試合の連続だったのでプレッシャーやストレスもあったと思いますが、そういう環境のなかで突出できないのなら、やる意味がないとも思っていました。

[[SplitPage]]

日本は美しく愛すべき祖国ですが、地理的には残りの世界から隔絶していますし、文化的にも閉塞しています。僕は一定の国や文化に執着せずいつも浮遊していたい、自分の創作のためのコラボレーションの起点になりうる場所に身を置きたいたいと思うのです。


三宅純
Lost Memory Theatre act-1

Pヴァイン

Amazon iTunes

アート・リンゼイとは長いお付き合いになっているかと思いますが、彼との出会いについて教えて下さい。

MJ:89年頃プロデュースした作品のミックスをNYでしているときに、当時アンビシャスラヴァーズでアートのパートナーだったピーター・シェラーが隣のスタジオで仕事をしていて、話すうちに仲良くなり。アートにも紹介され、その後交流がはじまりました。彼らが初めて僕の作品に参加したのは93年の『星ノ玉ノ緒』で、ピーターもいまだ参加ミュージシャンの常連です。

彼のどんなところがお好きで、また、彼とはどんなところで気が合うのでしょうか? 

MJ:彼のなかには天使と悪魔が同居していて、そのふたりともがインテリで、壊れやすく、ユーモアに富んで います。 音楽のセンスは合うと思いますが、よく喧嘩もするので、気が合うと言えるのかなぁ……

アート・リンゼイもある種、自由人というか、エクレクティックというか、ひとつの型に固執しないタイプのミュージシャンという点では似ていると思います。三宅さんはジャズ出身ですが、クラシック音楽の要素もありますし、ブラジル音楽の要素も、キューバっぽいリズムや東洋の旋律もあります。どのような過程をもって、現在のようなハイブリッドな音楽に辿り着いたのでしょうか?

MJ:80年代のバブル期に創造的な広告制作の現場に携わった経験が、ハイブリッドな手法やセンスを磨いてくれました。 僕らは音楽様式が飽和した時代に生きているわけで、そんな時代に自分の『ヴォイス』を探し出すには、ハイブリッドな異種交配という手法がふさわしい気がしたのです。

“The World I Know ”はブリジット・フォンテーヌみたいだと思ったのですが、いかがでしょう?

MJ:全然意識していませんでした。ストリングスのバックトラックは アニメのサントラに書いたもので、そのスコアを活かして、全く別のリピートしないメロディを乗せてみようと思って作りました。

“Ich Bin Schon”はドイツ語ですが、何を歌っているのでしょう?

MJ:そんな時、Google translationは役に立ちます。ある程度。

『Lost Memory Theatre act-1』にはいろんな言語で歌われていますね。“White Rose”はロシア語ですか? 他に英語、日本語、フランス語、ポルトガル語の歌がありますね? 他にあるのはスワヒリ語ですか? 

MJ:White Rose”はブルガリア語です。後はスワヒリ語ではなく……シラブルだけで言語ではないものがあります。

こうした試みは何を意味しているのでしょう?

MJ:試みという意識はありませんでした。僕を取り巻く、この星の日常です。

広い意味での、ワールド・ミュージックというコンセプトは意識されましたか?

MJ:いいえ、僕を取り巻く、この星の、そして自分の脳内の日常です。

ちなみに“Calluna”の旋律はどこから来ているのでしょう?

MJ:え? 頭の中からです。

三宅さんにとってブラジル音楽、とくにボサノヴァにはどのような魅力を感じていますか?

MJ:人びとの暮らしの一部として音楽が存在している国から生まれた、メロディとハーモニーとリズムの関係性が素敵な音楽です。

アメリカで活動して、帰国したものの、2005年からはパリを拠点にしていますが、日本に居続けるよりは外に出た方が活動しやすいからですか? 

MJ:日本は美しく愛すべき祖国ですが、地理的には残りの世界から隔絶していますし、文化的にも閉塞しています。僕は一定の国や文化に執着せずいつも浮遊していたい、自分の創作のためのコラボレーションの起点になりうる場所に身を置きたいたいと思うのです。

ここ10年ぐらいはアンダーグランドなミュージシャンでも海外を拠点に活動している人たちが少なくありません。そういう人たちはたいてい実験的なことをやっていて、海外のほうが、耳がオープンなオーディエンスが多くいると感じています。ミュージシャンが挑戦しやすい環境は、やはり欧米のほうがあると思いますか?

MJ:場所がどこであれ 、ヴィジョンがはっきりしていれば関係無いと思います。ただ、欧米では音楽は独立した言語のひとつとして存在していて、あえて他の言語に置き換えずとも音を聞けば通じるという側面があり、それは僕らにとって非常に楽なところです。

『Lost Memory Theatre act-1』はエレガントで、穏やかなアルバムだと思います。エレガントさ、穏やかさについては意識されていますか? 

MJ:いいえ。 お言葉は嬉しいですが、意識はしていませんでした。

穏やかではない音楽、エレガントではない音楽にもご興味はありますか? たとえばノイズとか、ダンス・ミュージックとか。

MJ:世のなかのすべてのものは表裏一体です。

たとえば“Still Life”のような曲ではエレクトロニクスも使って実験的なアプローチをしていますが、しかし、三宅さんは、敢えて前衛的な方向に、敢えて難しい方向に行かないように心がけているように思います。その理由を教えてください。

MJ:理由はわかりませんが、自分で何度も聴きたい音楽、反復に耐えうる音楽、しかもいままでに無かった音楽を作りたいと思っています。前衛(という言葉がすでに前衛的ではないですが)に含まれる独善的な成分は排除したい要素のひとつです。

ビョークのやっているような電子音楽にはご興味ありますか?

MJ:彼女のやっていることを電子音楽という言葉で括れるのかどうかわかりませんが、彼女の存在自体に興味とリスペクトがあります。

『Lost Memory Theatre act-1』に限らずですが、三宅さんがもっとも表現したい感情はなんでしょう? 

MJ:感情は脆く移ろいやすく、常に複数のレイヤーによって構成されています。音楽はそれが表現できるメディアです。

『Lost Memory Theatre act-1』のアートワークは何を暗示しているのでしょう?

MJ:自ら限定するつもりはありません。

デヴィッド・バーンは今回のアルバムでどのような役割を果たしていますか?

MJ:皆さんがそれぞれ感じられた通りで良いかと思います。

ヴィム・ヴェンダースの映画でお好きな作品を教えて下さい。その理由なども話してもらえるとありがたいです。

MJ:個人的には初期の作品群が好きですが、それを限定してしまうのは避けたいです。どんな芸術にも一度見たり聴いたりしただけでは感じ取れない要素があり、個人の体験値によって感じ方も変わって来るものだと思うからです。

パリでの生活のなかで水泳もされているそうですが、体力というものと音楽とはどのように関連づけて考えているのでしょう?

MJ:パリだけではなく、この26年間どこにいても365日毎朝泳いでいます。どんなに体調が悪くても泳ぐので、体力のためかどうかは疑問……ただ脳の疲労と体の疲労のバランスを取るには良いのかもしれませんね。屈折した心象風景を描くためには、健全な身体が必要だと思います。朝の水泳だけでなく、 放電のため深夜に1時間ほど散歩をする習慣があります。

パリの街を歩いたことは2回しかないのですが、とても美しい街並みと美味しい料理、あとクラブでのフレンドリーな感覚はいまでも忘れられません。しかし、散歩していると必ずイヌの糞を践んでしまったのですが、あれもフランス的な自由さの表れなんだと受け止めています。日本だったら、怒る人は本当に怒るじゃないかと思うのですが、いかがでしょう?

MJ:自由さの表れ……アハハまさか! フランス人が自由かどうかわかりませんが、少なくとも皆自己中心的で、「横並び」という意識の対極にあります。パリの街を良くしようと思ったら、フランス人にはブランディングだけを任せ、実務をドイツ人に、外交をスイス人に、料理をイタリア人と日本人に、衛生面をシンガポール人に任せれば良いのではないかと思う次第です。

アメリカでもっとも好きなところ、パリでもっとも好きなところ、日本でもっとも好きなところと嫌いなところをそれぞれ挙げてください。

MJ:挙げるのは簡単なのですが、やめておきます。繰り返しになりますが、感情は脆く移ろいやすく、常に複数のレイヤーによって構成されています。国や政治も同じ……アメリカはかつてのアメリカではないし、日本も違う。いまの日本はとても心配です。個人としてどのようにいまを生き、どのような意識をもって行動するかが大切ではないかと思います。

最後に、三宅さんにとって重要なインスピレーションをもらった5枚のアルバムを教えてください。

MJ:5枚に限定する事なんて「言ってはいけないこと」のひとつです。

Senking - ele-king

 2013年の〈ラスター・ノートン〉は、フランク・ブレットシュナイダー(『スーパー.トリガー』)、ピクセル(『マントル』)、アトムTM(『HD』)、そして待望の青木孝允(『RV8』)などのアルバム・リリースが相次いでおり、いわば「オールスター・リリース」ともいえる状況になっている(しかも11月には池田亮司の新作のリリースも控えている!)。その上、どの作品もある種のアップデートが極端に行われており、00年代以降の電子音響と、それ以前の音楽史が複雑に交錯することで、いわば快楽性と批評性が同時に刺激される極めて豊穣な事態になっているのだ。

 そのような状況のなか、センキングのアルバムが遂にリリースされた。前作『ポン』(2010)より実に3年ぶりである。その名も『キャプサイズ・リカバリー』。このアルバムはまるで電子音とノイズとビートによる、ひとつ(にして複数の)のイマジネーションのサウンド・トラックのようである。ミニマル、ノイズ、電子音、ビート、空間、時間、無重力、反転。過剰な情報、その音響物質的な転換。情報化社会のポスト・インダストリー・ミュージック。

  結論らしきものへと先を急ぐ前に基礎的な情報を確認しておこう。センキングとはイェンス・マッセル(1969年生まれ)のソロ・ユニットである。マッセルは1990年代より音楽活動を開始し、1998年に〈カラオケ・カーク〉から1998年にアルバム『センキング』をリリースする。2000年以降は〈ラスター・ノートン〉から『トライアル』(00)、『サイレンサー』(01)、『タップ』(03)、『リスト』(07)、『ポン』(10)とコンスタントにアルバムなどを発表していく(〈カラオケ・カーク〉からは2001年に『ピン・ソー』をリリース)。彼はラップトップなどのコンピューターを使わないことで知られている音楽家である。その結果、トラックには独特の音響/リズム(低音)の揺らぎやタイム感などが横溢しており、一度ハマると抜け出せないような中毒的な魅力があるトラック(ある種、ダブ的な?)を生み出しているのだ。そこはかとないユーモアや、イマジネーションを添えて。

 本作『キャプサイズ・リカバリー』リリース前に、センキングは2011年にEP『ツウィーク』、2012年に同じくEP『デイズド』を〈ラスター・ノートン〉からリリースしている。青の地にタイポグラフィという鮮烈なアートワークを纏ったこれからのトラック(特に『デイズド』)は、ダブ・ステップ的なビートを内側からズラすかのような独特なビート感がある。いまにして思えばインダストリーな質感も含めてアルバム・リリースの前哨戦ともいえるトラック・ワークといえよう。

 さて、コンピューターを使用しないことで知られるセンキングの音楽/音響には、ある独特のタイム・ストレッチ感覚がある。いわば伸縮する感覚とでもいうべきか。先のEPを経由した上で生まれたこの『キャプサイズ・リカバリー』においては、その伸縮感がこれまで以上に拡張させられている。ある種のダブ的な音響でもあるのだ。そのビートには時間の伸縮感覚をコントロールしたドラムン・ベースのリズムを、ロウテンポのビートに不意に挿入させていく。ダイナミックに蠢く電子音/ノイズの奔流が聴覚へのさらなるアディクト・コントロールを促していく。さらには、シンプルなメロディを奏でる夢見心地のシンセサイザー・メロディ。とくに、マリンバ的なミニマル・フレーズと粘着的なノイズ/ビートが交錯する“コーナード”と、ダブ的な処理は素晴らしくイマジナティブなアルバム・タイトル・トラック“キャプサイズ・リカバリー”は最高である。まるでダブ・ミックスされたクラフトワークが、TG的なインダストリーな音響の渦の中でスティーヴ・ライヒと正面衝突したような……。そして、このアルバムのノイズやビートの交錯には、どこかロックな快楽すら宿っており、複雑怪奇になったスーサイドとも形容したくなるのだ(また音楽的には一見正反対だが、ミカ・ヴァイニオの今年リリースの新作『キロ』の音響処理に近いものを感じた)。

 そう、複雑怪奇と言いたくなるほどに本作の音響の情報量は濃厚である。しかし、このアルバムにおいては、そのサウンドの奔流がカオスにならずに、見事にデザインされているのだ。まるで都市の雑踏が情報の洪水に転換され、それをひとつのデザインとしてコンポジションされていくかのように。まさにサウンドのカオスを「転覆を修復する」ように、 サウンドのアマルガムに適切なエディットを施すこと。つまりは音響(=情報)をデザインすること。その音楽/音響は、ひとつの(複数の)音響のシグナルのように聴覚から脳を刺激するだろう。

 いわゆる、ノイズやインダストリアル・ミュージックと本作を大きく隔てるのは、そのデザインへの数学的ともいえる繊細にしてダイナミックな感性と技術ゆえ、ではないか。これはカールステン・ニコライをはじめ〈ラスター・ノートン〉の音楽家/アーティストに共通する感覚だが、同時に、彼らは時代と共にその個性をアップデートしており、本年のリリース作品にはどれも強靭なビート感覚に支えられたダイナミックなポップネス(エレクトロ的ともいえる?)を獲得している。そう、いまや、サウンド・アートはあるポップネスを内包するに至った、とはいえないか。

「現在の電子音響/エレクトロニクス・ミュージックを聴きたい」という方には、まずは〈ラスター・ノートン〉の2013年リリース作品をお勧めしたい。なかでも、センキングの本作品は、いわゆるミニマル的な状況から一歩先に脱出したような魅惑があり、現代社会特有の複雑さを快楽的な音響とともに提示している。時代の情報と知覚のスピードが、音楽/音響の速度にトレースされている、とでもいうべきか。より多くのリスナーの耳に届いてほしい作品である。

山下達郎 - ele-king

再発見され続ける音楽 松村正人

 1972年、昭和でいえば47年、沖縄は本土に復帰したが、いまのような夏のリゾートのイメージに結びつくのはまだ先のことである。沖縄より先に本土に復帰した奄美は、72年生まれの私が子どもだった70年代後半までは、最南端のリゾート地としてそれなりににぎわっていて、夏ともなると毎日、建ったばかりの近所の白亜のホテルから──レンタカーなんてなかったから──自転車でくりだしてくる新婚さんたちに私が目を細めたのは、太陽のまぶしさのせいばかりではなかった。子どもだった私にとって彼らは大人であるとともに都会的であった。そこには時間と距離という乗り越えがたい壁があって、私はいつか私が恋や愛や性や分別を弁えた大人になるだろうとはうすうす勘づいていたが、海を渡り、この閉域の外へ、都市生活者となった自分を想像することはできなかった。しばらくしてそんなことを考えなくなったのは、観光客を海外や沖縄に奪われたから、というのも詮ないが、山下達郎が前々作『MOONGLOW』収録の初のタイアップ曲でありJALの沖縄キャンペーン・ソングだった“愛を描いて─LET'S KISS THE SUN─”を出した79年には80年代がフライングしていて、30年前の 1983年、『MELODIES 』の2曲目、ANAの沖縄キャンペーン・ソングでもあった“高気圧ガール”が先行シングルとしてリリースされたとき、だからシマはすっかり鄙びていた。
 それなのに、この曲が頭から離れなかったのは、楽曲の解放感もさることながら「擬人法的なラヴソング」と山下達郎みずからライナーで注解する通り、高気圧という気象用語を人称につなぎ、語彙の飛躍が海を隔てた場所と場所をむすぶイメージの飛距離となるからだ。イメージの跳躍は海を渡る。それはすぐれて広告的だが、欲望を誘うのではなく情動を解放する。目の前に開ける光景はコバルトブルーと真砂の白に塗りこめられ、風景のなかで匿名ゆえの存在感できわだつ女性というよりも記号としての女性をとらえるが、同時にそれは天気予報に使用する衛星写真のようなカメラアイのようなメタフィジカルな高度もそなえている。
 時代は消費に舵をきっていた。しかしながら、山下達郎は80年のシングル“ライド・オン・タイム”でようやくブレイクしてからというもの、「夏だ、海だ、タツローだ」なるコピーに開放感を感じるとともに、風俗的発散の道具として消費される不安も抱いていた、と自筆ライナーにある。折しも彼は〈RCA〉を離れ、7枚目のアルバム『MELODIES』はその第一弾として〈MOON〉からリリースした。そのためここではビジネスマンでありプロデューサーでありシンガーでありソングライターである者の、音楽がポップとして求められるかぎりの葛藤がうずいていたはずだが、それを取らせないこともまた、ポップのポップたるゆえんである。もちろんおくびにもださないのではない。趣味志向思想信条は音となり、『MELODIES』の場合、言葉にもなった。本作で山下達郎は長年吉田美奈子が重要な役割を担ってきた歌詞をみずから書くことになる。自分の言葉で歌を作ることは、この先音楽を続けていく上で、とても重要なことに思えました、とこれもライナーに書いている。複数の職業作家のプロフェッショナリズムの集積で曲を作る体制からの脱却は賭けに近い試みだったかもしれないが、職業作家の作家性がスキルを担保し、保険として働くのにくらべ、作家性はもとより私性である。それは職能におさまりきらない個を晒すことであり、アマチュアリズムを内に抱えるものだ。いいすぎだろうか? そんなことはないですよね。それは初心であり終心(という言葉はないけれども)だと私は思う。

 30歳になった山下達郎は、前作『FOR YOU』で体制を整えたコンボを支えに、リスナーへの配慮を欠くことなく、そこを突き詰める。16ビート基調のクロス・オーヴァーよりの演奏から、宅録に近い自演も含め、曲想は多様になり、作品に奥行きがうまれた。単なる奥行きであれば一望できなくもないが、ここには翳りがある。シカゴ・ソウルのタイトなリズムとゴージャスなホーンがあり、ブライアン・ウィルソンのカヴァーがある。メランコリックなムードがあり、これまでの路線を継承したバイオニックなファンク“メリー・ゴー・ラウンド”があるが、そこにはシュガー・ベイブのころから変わらぬ愛情を注ぐブラッドベリのやわらかく乾いた詩情が降り注いでいる。メロディーはそれらの言葉を載せるヴィークルであり、旋律に乗った言葉は歌となり、私性と時制を離れ、幾度も回帰する。ときにシティ・ポップの元祖として、あるいは“BOMBER”がディスコ・ヒットしたように、クラブミュージックに対応可能なグルーヴ・ミュージックとして。そのたびに私たちは山下達郎を再認識するのだが、つねに新しさとともにあった。50年代、60、70年代の職人の手になる佳曲は山のようにあるが、山下達郎はそれらを援用はしてもそれが目的ではない(モチベーションにはなるかもしれない)。音楽は再生される音のなかにあるから、聴き直すたびに発見することも多々。シティ・ポップなる恣意的な括りで例証されるのはその一面にすぎない。もちろんそこから多面を見いだすこともあるだろう。つまり閉じていないのだ。余談になるが、いまではシュガー・ベイブのやりそうな曲をやるのがコンセプトのあっぷるぱいなるバンドもあるそうである。これは私が先日、ウルトラデーモン以後のトレンドと風俗をふまえ、脳内で結成したポストロック・バンド、シー&パンケイクに勝るとも劣らない秀逸なネーミングである。
 『MELODIES』の掉尾を飾る“クリスマス・イブ”は畢竟の名曲だが、私はこの曲を日本語でいまさら説明する必要は感じない。ひとつだけ。この曲をふたたび、今度はテレビで聴いたのは90年前後、バブルまっただ中だった。音楽で国民的なコンセンサスが成り立つ最後の時代だった、かもしれない。私はシマを出て都市生活者の仲間入りをしていた、思い出深い曲なのである。

松村正人

»Next 野田 努

[[SplitPage]]

Tatsuro As Rare Groove, Tatsuro As Culture Crash 野田 努

 池袋には、どこかくすんだ空気が漂っているように感じる。バブルの頃は高価な“文化”で賑わったものだが、いまやその跡形はほとんどない。池袋にはヒップホップの拠点として知られるベッドというクラブがある。池袋は山下達郎が生まれ育ったところでもある。歩いてみよう。頭のなかでは空しさをなだめるように“ウインディ・レイディ”が鳴っている。

 1. ネット普及後の世界においては、かつて世界中のコレクターが探したアメリカのレアグルーヴはアーカイヴ化されているが、未整理な領域のひとつに70年代後半~80年代前半の日本がある。ジャズ・ファンクのコレクターが探しているのは、山下達郎、細野春臣、吉田美奈子、大貫妙子、鈴木茂などなど。彼らのメロウでグルーヴィーなダンス・ミュージックだ。
 2. 90年代の日本では、70年代のマーヴィン・ゲイ、カーティス・メイフィールド、スティーヴィ・ワンダーないしはハービー・ハンコックなどの再発盤がレコード店の棚に並んだとき、山下達郎は再発見されている。周知のように、山下達郎自身がDJカルチャー顔負けの超マニアックなリスナーなのだが。

 東京在住のフランス人DJ、Alix-kunに訊いてみる。彼は日本のジャズ・ファンクを集めているコレクターのひとりだ。日本全国のレコード店を訪ねながら70年代後半~80年代初頭の山下達郎や細野春臣、吉田美奈子や大貫妙子といった人たちの作品を蒐集している彼は、DJとしては主にデトロイト・テクノやディープ・ハウスをプレイしているだが、“いつも通り”もDJミックスする。彼はハウスに痺れるのと同じように山下達郎のグルーヴに痺れている、ある意味では。今年再発された『PACIFIC』(いわゆる和モノレアグルーヴの定番)はマストだし、“あまく危険な香り”はキラーチューンだ。が、別の意味では、これらアメリカの影響下で生まれた日本の音楽に独自な個性を感じている。そしてそこには、エキゾティック・ジャパンに想定されることのない領域が広がっている。
 たとえば(個人的に大好きな)『オン・ザ・ストリート・コーナー・2』のB面には“ユー・メイク・ミー・フィール・ブランド・ニュー”が収録されている。スタイリスティックスのあんな美しいソウルをアカペラでカヴァーするという試みそれ自体がひとつの文化的実験だ。影響を自分の血肉としながら、しかしオリジナルとはまたひと味違った滑らかな光沢を感じる。躊躇することなくアメリカに飛び込んでいったところは、寺田創一、富家哲、テイトウワなどなど、日本の初期のハウス・シーンのプロデューサーとも重なる(テクノはヨーロッパ志向)。

 エレキングの読者においても、ここ2~3年でたとえば鴨田潤がファンクラブに入会するほど心酔、レイヴ・カルチャーにどっぷりだったラヴ・ミー・テンダーが敬意を表すなど、山下達郎再評価が高まっていることは記憶に新しい。文化的アンビヴァレンス──長いあいだ日本のロック/ポップスは欧米の物真似だと言われてきたが、エキゾティック・ジャパンが我々を救ってくれるわけでもない──を払いのけて、サウンドを追い求めるDJカルチャーだけの話ならわかりやすいが、00年代以降の日本のクラブ/インディ・シーンで活動してきた人たちが山下達郎をいま支持している現象はこれまた興味深い。さらに、山下達郎はディストピアとしての都会を主題にしたパンク前夜からニューウェイヴの時代にかけて名作を出しているので、最近はどちらかと言えばパンク/ニューウェイヴの側にいた人間(たとえば僕や松村のことだが)にさえも求心力を持ちはじめているという事実は、一考の価値がある。
 もっとも、ドリーミーな音楽がポップのモードとなり、とくにR&Bが若い世代に好まれている現代では、それは当然の成り行きだとも言える。『ノー・ワールド』の後に『サーカス・タウン』を聴いても根幹のフィーリングに近しいところがあるからだろう、それほどの違和感はない。トロ・イ・モワの後に『スペイシー』を聴いたら前者が貧弱に思えるかもしれない……のように、一連の達郎再評価現象には批評と問題提起も内包されている。自閉的なJ-POPへの反論もあるだろう。価値の多様化にともなうシーンの細分化や素人の氾濫という名のポストモダン「アーティスト」への異論もあるかもしれない。あるいは、下北のインディ・キッズがAORをディグりはじめたこのご時世だ、純粋にアーバン・ポップ・ミュージックへの探求心に火が付いたのかもしれない。フィラデルフィア・ソウルとビーチ・ボーイズとの奇跡的な出会いにただただ感動したのかもしれない。そもそもフィリー・サウンドはディスコの青写真であり、すなわちハウスの重要な起源のひとつでもある。そう考えれば、(((さらうんど)))のバックボーンと必ずしも遠いわけではない。そしてAlix-kunは「“いつも通り”こそシティ・ポップの誕生」だと主張し、来日したエヂ・モッタ(ブラジリアンAORの巨匠)はブルーノートで“ウインディ・レイディ”をカヴァーする。

 1983年、彼自身のレーベル〈MOON〉の第一弾としてリリースされた『MELODIES』は、周知のようにシュガー・ベイブのアルバムや最初の2枚(『FOR YOU』を入れて3枚?)と並んで山下達郎のクラシックな1枚として有名だ。発売から30周年を記念してリマスターされた本作には、“悲しみのJODY”のインストゥルメンタル、“高気圧ガール”のロング・ヴァージョン、“BLUE MIDNIGHT”や“クリスマス・イブ”のミックス違いなどレア・トラックが5曲収録されている。テナー・サックス以外のパートすべてを自分で演奏している多重録音の“JODY”(圧倒的なファルセットのヴォーカリゼーション)は後に英語でも歌われている。
 前作までは夏や南国のイメージでヒットを飛ばしている山下達郎だが、『MELODIES』は、本人がライナーで書いているように内省的な曲が多く、『サーカス・タウン』や『スペイシー』と同様に、都会の夜の切ない空気が詰まっている。コーラスとパーカッションの“高気圧ガール”やファンキーな“メリー・ゴー・ラウンド”をのぞけば、おおよそメランコリックな響きが耳にこびりつく。個人的には“夜翔”や“BLUE MIDNIGHT”を好んでいるのだが、Alix-kunは「やっぱ“メリー・ゴー・ラウンド”だ」と言う。これぞDJ目線。山下達郎のトレードマークとも言える陶酔的なグルーヴがたまらないのだろう、などと言うと「でなければ“ひととき”だね」と言う。
 このように、こと『MELODIES』は聴き手によって好きな曲がばらけている作品なのではないだろうか(『サーカス・タウン』ならほぼ満場一致で“ウインディ・レイディ”でしょう?)。アルバムにはブライアン・ウィルソンの超レア・シングルのカヴァーという、マニアックなリスナーとして知られるこの人らしい“GUESS I'M DUMB”なる曲も収録されている。
 アメリカの影響下で生まれたポップにおける日本らしさはメロディにあると外国の人はたびたび指摘する。「日本語は、外国人の耳では音として柔らかい」とフランス人のAlix-kunも言うが、日本語の歌は子音で止まることがないので、滑らかに聴こえるのだ。

 とはいえ、江利チエミや雪村いづみが少女歌手としてジャズを歌ったとき、彼女たちの歌は「英語発音の祖国を喪失したあやしげな日本語」だと知識人から批判されている。同時代の歌手として知られる美空ひばりが農村や老年までの幅広い層に受け入れられたのに対して、江利チエミや雪村いづみのファンは主に都会で暮らす若者に限られていた(*)。今日の日本のアーバン・ミュージックは、この頃、つまり戦後「祖国を喪失したあやしげな日本語」を彼女たちが歌いはじめたときに端を発しているのだろう。そして、それがいつの間にか大衆音楽の本流となっているわけである。日本語で歌われる“JODY”と英語ヴァージョンとの境界線は素晴らしく揺れている。
 山下達郎の音楽はマニア受けもしているが、マニアにしかわからない音楽ではない。むしろ彼は意識的にマニアの壁を突破してきている。彼には職業作家としての自覚があるが、それは大衆に迎することを意味しない。『MELODIES』と同時発売されたリマスター盤『SEASON'S GREETINGS』はアカペラのクリスマス・ソング集、こちらは20周年記念盤だそうで、ちなみに今年はプリンスの『ラヴ・セクシー』から25周年。若い世代がR&Bで盛り上がっているのは「いま」。清志郎は南部だったが達郎は北部。初のリマスタリングCD化、聴いていない人はこの機会を逃さないように。これは日本で生まれた永遠の都会情緒、アーバン・ソウル・クラシックである。
 
(*)加太こうじ・佃実夫編集『流行歌の秘密』(1970年)

野田 努

Blind Boys of Alabama - ele-king

 「ブラインド・ボーイズ」とは、1930年代にアラバマの盲学校で生まれたそのグループのアイデンティティと誇りが込められた呼び名である。が、ここにおいては「ブラインド」も「ボーイズ」もひとつのメタファーとして機能している。キリスト教時代のボブ・ディランのカヴァー、“エヴリー・グレイン・オブ・サンド”を聴いてみよう。本作のプロデューサーを務めたジャスティン・ヴァーノンはライナーノーツでこのように説明している……「この歌は僕の人生のもっとも暗い時期を支えてくれた」。その歌を、ゴスペルを何十年も歌い続けてきた高齢の「ボーイズ」とともに、地元の音楽仲間たちの演奏でヴァーノンは歌う。81年のディランの歌が時空を超えて、ゴスペルのレジェンドの力を借りてシェアされる……ここでは、様々な「ブラインド」な人間が集まり、そして同じ歌のなかを生きようとしている。

 ブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマは1939年から現在まで70年以上の活動を誇るゴスペル・グループであり(初期の音源もまとめられている、創設メンバーであるジミー・カーターはいまなお堂々とその歌声を披露している。2004年のフジロックのステージで観て僕は彼らの存在を知ったが、その魂と活気に満ちたステージに圧倒された記憶がある。
 本作はボン・イヴェールのジャスティン・ヴァーノンがプロデュースし、彼の幼なじみである音楽仲間フィル・クックが中心となって制作したボーイズの新作だ。どういう経緯で実現したプロジェクトなのかは知らない。ヴァーノンは恐らくプロデュース・ワークをやることになるだろうと僕は以前から予想していたのでその点では驚きはしなかったが、それでもこの理想主義的な振る舞いにはただ、強く胸を打たれる。伝統的なフォークをはじめとするルーツ・ミュージックを掘り起こし、それに現代的な文脈を乗せることをアメリカのインディ・ミュージシャンは近年試みており、ヴァーノンもそのひとりだが、ここではその道をさらに先まで繋げようとする。そもそもボン・イヴェールにしてもヴォルケーノ・クワイアにしても、ヴァーノンの音楽的な支柱にはフォーク以上にゴスペルがあり、彼のファルセット・ヴォイスはゴスペルやソウルを歌う黒人シンガーたちの影響を強く受けていることはよく知られている。
 だからこれは彼にとって夢の実現となる企画だっただろうが、このアルバムでは大御所との共演に過剰に気負うことなく自分たちの土俵に持ち込んでおり、たとえば“ゼア・ウィル・ネヴァー・ビー・エニー・ピース”におけるフォークトロニカ的なガチャガチャとしたパーカッションが聴けるイントロなどは、文句なくいまの耳に対応している。ゲスト・ヴォーカリストにフォーク・シンガーのサム・アミドン、マイ・ブライテスト・ダイアモンドのシャラ・ウォルデン、ホワイト・ヒンターランドのケイシー・ダイネル、そしてチューンヤーズ(tUnE-yArDs)のメリル・ガーバスと、若いインディ・ミュージシャンが参加しているのもいい。

 アルバムは“ゴッド・プット・ア・レインボウ・イン・ザ・クラウド”のゴキゲンなゴスペル・ロックで幕を開ける。パワフルなストンプ・ビート、弾むブラスと鍵盤、ヴァーノンいわく「クックのアイディアによるライ・クーダー風グルーヴ」、そしてしゃがれ気味の黒いヴォーカルとそれと重なる見事に温かいコーラス。オーガニックで喜びに満ち溢れ、なんというか、とにかく人間味が感じられる音楽だ。続くタイトル・トラック“アイル・ファインド・ア・ウェイ(トゥ・キャリー・オン)”でどこまでも広がる優しさと慈愛。メリル・ガーバスがセクシーでスウィートなハスキー・ヴォイスで魅了するソウル“アイヴ・ビーン・サーチング”。そしてハイ・テンポで疾走するブルージーなロックンロール“ジュビリー”のクロージングまで……トラディショナルなゴスペルを引用し、それに新しい音響を与え、過去の遺産の再発見を全身で歓喜する。そして歌う……希望と光について。
 ゴスペルをスピリチュアルな意味で霊歌と呼ぶとき、このアルバムにも様々な霊たちが息づいているように錯覚する。この歌たちを歌ってきた、歴史の表舞台には出ることのなかったひとびとの霊たち……。そして、様々な人種と年齢と宗教と性の人間たちが集い、共存し、彼らの魂を召喚する。これこそが現代においてもっともコミューナルな音楽のあり方に思える。歌は人間たちによって歌い継がれ、物語を語り継いでいく。声なき「ブラインド」なひとびとの人生と感情を。「I'll Find a Way」……けれどもこの「I」は、紛れもなく「We」であるだろう。道を見つけていくのはきっと、いつだってそんな「わたしたち」であるだろう。

interview with Tiny Mix Tapes - ele-king

 まずはいくつかのサンプルを読んでみよう。

Vondelpark / Seabed [R&S; 2013]
By DEFORREST BROWN JR. Rating: 2/5
STYLES: post-internet romanticization of commodified history, simulated heart worn on sleeve
OTHERS: 2009-2010 post-dubstep for the uninitiated

 (形式や表現の陳腐さに関して)ネット上には以下のような引用があふれている。「フォーク・ミュージックって大好き。牧場に住めたらホントにすてきだと思う。ゆったりしたスカートをはいて、髪をアフロスタイルにして、はだしでバンジョーを手にもったりして、足元には私の子供たちが走り回ってる……。はぁ、 こういう音楽を聴くといつもこういうことを思い浮かべるの(笑)」

注:(訳者)fav: favorite  smh: shake my head  lol: laugh out loud

 いったい何が言いたいんだろう? めちゃくちゃなサインやシンボルを詰め込むことがポスト・インターネット世界の方法論だ。ポスト・インターネットという用語は近年やたらに使われている。それは膨張するコミュニケーション手段の影響や、ある意味においての退化をもたらした異常な接続性を正確に見極めることを意味する。即効性に距離を置いて、ものごとのぼんやりとした空間に焦点をあてる。そこには既知のことと示唆的な低コンテクストの間に離散性があるままだ
 自分の興味や経験を表現する方法は以下のふたつのうちどちらかだ。
 1. 説明的に、ある時点についての自分の立ち位置について、自分自身について語るか/内省的に述べる。
 2. 感傷的に、安っぽい涙もの。自己認識がこれらの問題についてはとても重要で、そして今回の問題はVondelparkのデビュー・アルバム『Seabed』だ。
 簡潔にいって、『Seabed』は自己表現を吸い取られている。Youtubeでみつかる型の寄せ集めである。これは褒め言葉ではない。例えばチルウェイヴやヴェイパーウェイヴは大量生産や低俗な芸術品に対する批評を含んでいる。後者については状況主義者が反論する手段としてBGM的クオリティの音楽を反転させた。しかし、『Seabed』はこれらのカテゴリーに当てはまらない。注釈をつけられるような音楽ではない。言い換えればVondelparkはこのアルバムに使った美意識についてナイーヴになっているだけだ。
https://www.tinymixtapes.com/music-review/vondelpark-seabed

inc. / no world [4AD; 2013]
By JAKOB DOROF Rating: 4.5/5
STYLES: ascetic R&B
OTHERS: the idea of Prince, A.R. Kane

 影響からは逃れられない。そんな使い古された格言を繰り返す必要も無い。あるものを作るときには他のものを思い浮かべる。たぶん誰かがそれを新しいと思うだろうと考える。物事は往々にしてそのようにできている。何世紀にも渡るとどめを知らないロマンティシズムによって長いあいだ抑圧されていた普遍的な事実がいま、創造的で批評的な直感になろうとしている。
 L.A.のデュオinc.に対する一般的な反応は、いまのところ、この点をよく描き出している。inc.の根底にあるテクニックはPrinceの『パープル・レイン』にある音を香水のように感じさせる。けれども、彼の膨大なレパートリーのなかにはinc.の曲にあるパターンを明らかに持つものは1曲もない。実際、大多数のinc.に似たバンドとは違って『no world』のどの曲からも明らかな影響を見つけるのは大変苦労するだろう。2月の下旬にリリースされたファーストアルバムのときから、たくさんの間違った類推がなされてきたけれども。
 『no world』はまずその音楽が何よりも素晴らしいが、現代のミュージシャンの影響とモダン・ミュージックの批評家がもつ専門的な知識のあいだに(意図的でないにしろ)乖離を表したことも特筆すべきだ。Autre Ne VeutからJames Blakeまで、近年のもっとも魅力的なアーティストたちは総じてR&Bに対して根本的な負債を抱えている。それだけにというわけではないが、まず第一に1990年代のポスト・ヒップホップにだ。そして、以前「インディ・ロック」と呼ばれていた分野とR&Bが巧みに混ざりあったいまだからこそ、この十年で最高にロックな姿勢が、批評的に言って、わざとらしくて恥ずかしいものに見えるのだ。(加えて、エレクトロニック・ミュージックへの安易な親和性。そしてこれは最終的に皆が一斉にMissyや『Voodo』に同調したとしても、90年代にも同じことが言えるはずだ)
(中略)
 『no world』はユニークである。Daniel Agedの見事なベースラインはまるでジョージ・クリントンのホーン・セクションとツアーをしながら食い扶持を稼いだ人間の仕事のようだ。Andrew Agedの音楽的感性は崇拝とも言えるディテールで古いD’Angeloのデモをなぞったようである。しかし、この40分間を通して、Aged兄弟はそのどれとも異なる音にしながらも、豊かな音楽の伝統に対して敬虔な(価値のある)離れ業を成し遂げた。
 「3 EP」は比較的ニュー・ジャック・スウィングの忘れられていたポテンシャルを直接的に表現したものだったが、『no world』はそのように簡単に特定できない。抽象的に言えば、それはなにか表と裏が逆になったR&B、瞑想的な厳格さまでそぎ落とされた音楽だ。装飾はわずかであるか、まったくない。“black wings” や “desert rose (war prayer)”でのアンドリューのギターはクラシックなスマッシング・パンプキンズに対する思春期前のオブセッションを物語っている。“5 days”のありえないくらいにゴージャスなコード進行を支えるパーカッションは解放されるのを待っているドラム&ベースのブレークビートのようだ(ライヴ以外では、実際にそうなることはないのだが)。“angel”はGinuwineの“Only When ur Lonely”を彷彿とさせる甲高いシンセサイザーが特徴的であるが、同時にAndrewの鮮やかな詩が地上につないでいる。そして、より穏やかな “nariah’s song”はGil Scott-Heronが古いフェンダー・ローズに取り組んだ”Winter in America”を思い起こさせる。ジャンルを雑食さと、同時にそのどれにも当てはまらないことが(表面的にでさえ)新しい音楽の必須条件になった。しかし、多種多様の影響を実際に感じさせないほどにできるアーティストは稀である。
 inc.の血統をその同志たちから考えることはもっとも有益だろう。私が思うにもっとも近い存在は80年代のロンドンのアクト、A.R. Kaneだ。inc.と同様に彼らも〈4AD〉と契約して最近のトレンドと表面的に近い音楽を生み出した。主にドリーム・ポップの類であるが、彼らはそれとはまったく異なる勢力として紹介されていた。A.R. Kaneがおそらくマイルス・デイヴィスやヴェルヴェット・アンダーグランド以外はほとんど聴かずに、10年後のイギリス(シューゲイズ・トリップポップ・アシッド・ハウス)を予見していたように、inc.は教会のゴスペルや初めや二度目のR&Bの波、ネイティヴ・アメリカンの儀式の歌に対する形式的な愛情を抽出することで彼らのマニフェストを提示している。
 つまり、“PBR&B”くらい不快な混成語があり得るとしても、それは『no world』とは何の関係もない。もし、このアルバムがR&Bとして語られるなら、それはこのジャンルが生みだした音楽のなかでもっとも一貫性のある充実した作品だろう。もしあなたがR&Bについて詳しかったらinc.がいまやっているような音楽性や感性を持つR&Bは他にないと理解できるだろう。それが要点なのである。『no world』はどんなアートもそうであるように、さまざまな影響の要約である。しかし、このふたりはどんなジャンル、アーティスト、トレンドからも類推されうるまでに自分たちを昇華することに熟達しすぎている。彼らは『no world』はフィーリングなのだという。そして、それがいま私たちが近づくことの出来るもっとも近い場所なのだ。
https://www.tinymixtapes.com/music-review/inc-no-world

 僕は音楽について書くのが好きなように、読むのも好きである。いや、本当は読むほうが好きかもしれない。僕が愛読している音楽メディアのひとつにアメリカの『タイニー・ミックス・テープス(TMT)』がある。ここにはアメリカの音楽ジャーナリズムに受け継がれている批評眼と『ピッチフォーク』以降と言って良いのでしょうか、アンダーグラウンドへのとめどない愛情があるわけだが、『ピッチフォーク』以上に、ここ10年のUSインディ/アンダーグラウンドの勢いが表現されているメディアだと思う。彼らの自由な発想のレヴューを読んでいると、USインディ/アンダーグラウンドの熱量を感じ取ることができる。
 冒頭のサンプルとして取りあげたVondelparkのレヴューのように、インターネット普及後の社会における音楽文化を意識しているところもTMTの特徴で、ヴェイパーウェイヴ議論の加熱にもひと役もふた役も買っている。ユーモアを忘れないところもいいが、映画を重視しているところにもシンパシーを感じている。
 また、TMTは日本の音楽(灰野敬二から坂田明、メルト・バナナからペイズリー・パークス、きゃりーぱみゅぱみゅまで)も積極的に取りあげている。坂田明のような人の新譜がわりとすぐに取りあげられるのを目の当たりにすると、USインディ・シーンにおけるジム・オルークという存在の大きさをあらためて思い知るわけだが、自分もしっかり聴かなければなーという気にもさせられる。
 いつの時代にも変化すなわちポップの更新を受け入れることのできない人はいるものだが、若い人はこの変化を楽しめばいい。TMTが良いのは、音楽について考え、話すことの楽しさを持っているところにある。インタヴューに答えてくれたのはMr.PことMarvin。

人をポジティヴに促したり、明らかな政治的な見解を持っている音楽でさえも、すべての音楽は現実逃避として議論できると思う。逃避主義には有効性があるとも思うんだ。少なくとも文化的なニッチを創造しうるものは、文化全体の問題に達することが可能だと思っている。

いつも楽しく読ませてもらっています。まずはTMTがどうしてはじまったのか教えてください。

Marvin(以下、M):実際に『タイニー・ミックス・テープス』をはじめたのは2001年。そのときは何をしてるのかわからなかったし、ブログが何かも知らなかった。ただ僕たちはインディペンデント・ミュージックについて話すのが好きだったし、大学のため突然離れ離れになってしまった友たちと音楽について話すのにウエブサイトが僕らを繋げる良い方法だと思った。ビジネスとしては2007年にはじまったね。

スタッフは何人ですか? 

M:8人のエディターと、定期/不定期な150人のコントリビューターがいる。

この10年のアンダーグラウンドな音楽、エクスペリメンタルな音楽を追っていくと、多くがアメリカから出ていることに気がつきます。NYの街からタワーレコードがなくなってから、むしろインディペンデントな音楽シーンは活気づいているように思うんですが、当事者としてはどう思いますか?

M:タワーレコードがなくなったことが直接アメリカのインディペンデント・シーンの成長に相関するとは思わない。ただ両方とも明らかに避けられなかった、大きな文化的かつ経済的シフトの徴候だったね。

OPN、エメラルズ、グルーパー、あるいはジュリアナ・バーウィックやジュリア・ホルター、ローレル・ヘイローなどなど、ユニークでエクスペリメンタルな音楽の多くがアメリカから出てきています。何故なんでしょう? 

M:僕がアメリカの音楽が好きなのは、土地柄だと思っていたけど違うのかもね。だけど、探そうとしたら面白い音楽はどこででも見つけられると思う。おそらく、事態はいまちょうど「アメリカ美学」に賛成しているんじゃないかな。レーベルにサインすることは、ウエブを通して、世界を縮めているのかもしれない。

Graham LambkinのようなアーティストをTMTが推す理由を教えてください。こういうアーティストとラナ・デル・レィが並列して批評されているところが良いと思います。

M:僕らのほとんどがグラハム・ランブキンが好きなんだ。シャドウ・リング(Shadow Ring)は、見事に見落とされた90年代のバンドだった。彼がいまソロ・アーティスト(コラボレーター)として、批評的に賞賛されるのは素晴らしいことだ。『サーモン・ラン(Salmon Run)』(2007年)へのユニークなアプローチが、彼を目立たせたね。新しいことにトライし続け、エレクトロ・アコースティック・インプロヴィゼーション(EAI)シーンの新しい領域を探索している。彼のレーベル〈KYE〉のリリースは素敵だよ。審美的な次元で言えばラナ・デル・レィは好きじゃないけれど、彼女はモダン・ミュージックにおいて興味深い存在だし、彼女について書くことは、ランブキンについて書くのと同じぐらい大事だと思っている。

ばかばかしい質問かもしれませんが、オバマ政権はこうしたインディペンデント・シーンの活況にどのように関連づけられますか?

M:オバマ政権がそれに影響を与えているか、僕には検知できないし、アンビエント/ドローンのインディペンデント・シーンがピークを迎えているのかどうかもわからない。カセット文化など、いま実行されているドローン・アンダーグラウンド・ミュージックの世界は、2000年初期~中期に芽生えている。その多くを僕は好きだけど、いま、ドローンやアンビエントにフォーカスしているアーティストは僕にとってその頃のものだ。

チルウェイヴ、ヒプナゴジック・ポップ、ドリーム・ポップなどと呼ばれたここ5年間に流行した現実逃避型の音楽に関しては、どのような見解を持っていますか?

M:たとえ人をポジティヴに促したり、明らかな政治的な見解を持っている音楽でさえも、すべての音楽は現実逃避として議論できると思う。逃避主義には有効性があるとも思うんだ。少なくとも文化的なニッチを創造しうるものは、文化全体に達することが可能だと思っている。

ダブステップやインダストリアルをのぞくと、最近の英国のインディ・シーンは、90年代以前に比べて停滞しているように思えますが、TMTはどのように見ていますか?

M:英国のインディ・シーンにはたくさんの素晴らしいアーティストがいる。たしかに僕もいまそれほど刺激的だとは思わないけど、その考えを一般化するのは難しいね。

vaperwaveやハイプ・ウィリアムス、ジェームス・フェラーロのようなポストモダンな動きにTMTが期待するところは何でしょうか?

M:僕はそのシーンには何も期待していない。ジェイムス・フェラーロとディーン・ブラントは好きだけどね。

[[SplitPage]]

リンクレイターが「うんざりすることでどん引きすることは、無関心ということではない」と言っている。もし、政治的な音楽というものを考えるのであれば、そのなかに自分らのコミュニティを創出するために「うんざりすることでどん引き」しているアーティストについても考慮すべきだ。

やたら日本の音楽を取りあげていますが、日本の音楽に対してはどのように見ていますか? 

M:とくに日本のアーティストを探しているわけじゃないけど、サウンドクラウド、バンドキャンプ、他のストリーミング・サーヴィスを通して、おのずとオブスキュアなものに遭遇する。自分と離れたところにいるアーティストを探す素晴らしい方法だね。

ペイズリー・パークスやフードマンなど日本のジュークのどこを面白く感じていますか?

M:ペイズリー・パークスやフードマンのようなアーティストは、サウンドクラウドやバンドキャンプをクリックして見つけたんだよ。日本のミュージシャンやダンサーは、独創的な次元にまでフットワークを押し進めていると思うよ。その発展型を見るのはとても面白いんだ。

きゃりーぱみゅぱみゅのレヴューを読んで、いまだに日本を三島由紀夫というエキゾティジムを通して見ているのかとがっかりしたのですが、逆に言えば、きゃりーぱみゅぱみゅにはアメリカ人からみた日本人の特殊性が凝縮されているように見えるのでしょうか?

M:このレビューは僕たちの論争の的でもあった。面白いと思ったときに、ライターが物神化したもので、TMTのアルバムの一般的な見解を反映しているわけではない。僕たちは、誰も故意に怒らせるつもりはなかった、そう思われて申し訳ない。

ずーっと言われてきているのですが、やっぱ正直な話、日本人が白人のインディ・キッズみたいな格好でロックをやって、英語で歌われるとゲンナリ(lame)しますか?

M:僕には「ゲンナリ(lame)」というより「面白い(interesting)」という風に見える。

Kyary Pamyu Pamyu / Nanda Collection [Warner Music Japan; 2013]
By GABRIEL SAMACH Rating: 4/5
STYLES: J-pop, sugar and spice and everything nice, ritual suicide OTHERS: Grimes, Lady Gaga, PSY, Japanese game shows

 1970年11月25日の朝、国民的スターであり、戦後日本でもっとも祝福された作家である三島由紀夫はプレスに対してクーデターを起こし、東京の軍本部を制圧すると警告した。何時間か過ぎた後総監を彼のオフィスに監禁し、ジャーナリストの群衆が窓の外に集結するなか三島は切腹した。翌月、アメリカの国民はライフ誌に見開きで載せられた内臓を取り除かれた彼の死骸を見た。
 この出来事は私たちにきゃりーぱみゅぱみゅを思い起こさせる。      
 ファッションブロガ?/つけまつげ界の重鎮から音楽界にセンセーションを巻き起こすに至ったきゃりーぱみゅぱみゅのセカン・ドアルバム。『なんだこれくしょん』は光沢のあるグラビア雑誌の見開きページに原宿のポップ・アイドルが彼女の腹部を薄切りにして開いてみせたようなアルバムだ。美しくないか? 聴いてくれ! 生命が噴出し、カラフルに脈打ち、熱狂的に痙攣を起こして床をバタバタとのたうちまわるくらいに口角から泡を飛ばして歓喜に身悶える音を聴いて欲しい。三島の肉体から解放された真新しい内臓のように『なんだこれくしょん』はただ、炸裂し、慎重に構成された日本的パフォーマンスの噴火である。それはまさに、美しい。
 『なんだコレクション』はただ単にずば抜けたJポップなのではない、究極のJポップなのである。多面的にカットされた超次元プリズムのようであり、同時に明確に、パロディーとして、あるジャンル・瞬間・文化について問題提起している。そしてそれこそが私たちがこの作品に特別な注意を払わなければならない理由なのだ。
 Jポップがその祖国でどのように機能しているかは別として、西洋の観客にとってJポップの魅力はいつも「のぞき見する喜び」である。漏れて聞える電話の会話や中を覗きたくなるような窓のすきまのように、自分が見ていることにさえ気づかない世界を未編集のままのぞき見ることが出来るということに、私たちは惹かれるのだ。そして、Jポップはそれが私たちにとってどうしようもないほどの他者性を備えているがために、ことさら興味をそそるのである。
 もし、まだその窓を覗いてみたことがなかったとしても、彼女のミュージック・ヴィデオを一度見てみればわかるだろう。ただこれは、誰も見ていないときの日本の姿に違いないと自分に言い聞かせることだ。そのときにこそ、このJポップの奇妙なカーニバルが西洋的な心に、歪んで切断された日本のイメージとして浮かび上がるからだ。
 ただ、彼女に先立つ永続的なアクターである三島のように、きゃりーぱみゅぱみゅは完璧に彼女の生のオーディエンスを想定する要領を不可思議なほどに得ている。たしかに、『なんだこれくしょん』は日本人にとって、三島の自殺ほどの意味をもたない。きゃりーぱみゅぱみゅ:アメリカの名前である’Carrie’を日本語の音に作り替えた意味のない人造語。’なんだこれくしょん’: ふたつの言語のあいだの微妙なスペースでのみ意味をなす言葉遊び。「君に百パーセント」、「にんじゃりばんばん」、「最後のアイスクリーム」:日本語とでたらめな言葉と英語のシュガースイートなミックス。ひどく滑稽で時代錯誤なサムライのストイシズムの振る舞いのように、きゃりーぱみゅぱみゅのイメージは日本のアイデンティティを示すものというよりも、海外に向けた(どこよりも西洋人にとっての)日本のイメージに対する表現なのである。
 なぜなら、結局すべては我々を、世界の反対側をのぞき見すること意味しているからである。そしてそれは私たちについての冗談なのだ。なぜなら、私たちがなかを覗いていた世界こそ、私たちのいる場所なのだ。そしてそれに気づいた瞬間、そのすべてがパフォーマンスになってしまう。フィクションに。
 『なんだこれくしょん』はエンターテイニングで良く作られたアルバム以上の意味がある。それは日本に対するイメージを当たり前に考えているナイーヴな西洋に向けられた鏡だ。実在しない日本に対するグロテスクなファンタジーのばかばかしくて、恐ろしくて、大がかりな映し鏡なのである。それはサムライのような死を遂げる作家とハラジュクのプリンセスのように生きるミュージシャンが同時並行的に存在する世界の投影だ。そして彼らがその腹を切り開くとき、流れる血はチェリーシロップの味がする。気づくべくもないが、血を流しているのは私たちなのだ。
https://www.tinymixtapes.com/music-review/kyary-pamyu-pamyu-nanda-collection

Factory Floor / Factory Floor [DFA; 2013]
By DEFORREST BROWN JR. / Rating: 4.5/5
STYLES: post-industrial, post-Krautrock, liminal techno
OTHERS: HTRK, Liars, These New Puritans, Tropic of Cancer

 『The Quietus』での興味深いインタヴューの最後に、Factory Floorのドラマー/ドラムプログラーのGabe Gurnseyはバンドのモットーをシンプルにこう表した。「反復こそ自由な思想の基盤なんだ」
 彼らの徹底して管理する曲作りは有名だが、彼ら自身について語るときでさえも効率的なのは興味をそそられる。ひと言ひと言になにか情熱が見え隠れするのだが、心の底から率直にある場所に突き進み、結晶のような構造を形作るのだ。
 Factory Floorが〈DFA〉と契約したことについてはJames Murphyのクールで簡潔な影響があったのだろうというような意見が飛び交った。しかし、〈DFA〉がFactory Floorにオファーしたのは彼らが奮起する文脈的な(あるいは文脈のない)土台である。〈Mute〉/〈Rough Trade〉からリリースされた作品は、彼らのリスナーの耳に届く前に既に体系化され詰め込まれすぎていた。突然Facotry Floorの活動に多くの期待が重くのしかかってきたのだ。音楽産業にはアーティストを類型化したがる傾向があり、FFのタイトルのないEPについても同じことが起こったのだ。それはNik ColkがThrobbing Gristleの生き残ったふたりのメンバーとライヴをやったことに対してなんの助けにもならなかった。しかし、そこにはある手法があった。彼らはFFのコードが欲しかったのだ。彼らのDNAが。他のどんな優秀な機械と同じように、FFは発展し、消耗した。レコードとして〈Mute Record〉が手慣れたアンビエント、自由造形、婉曲的な傾向とは相容れなかったのだ。
 〈DFA〉は彼らの持っていたコード(特徴)を残したまま、より「アメリカ的な」視点でくまなく探求と衝突を繰り返させた。James MurphyのLCD Soundsystemにおける優れた作品はコラージュであり、Velvet Undergroundのプロト・パンク、トーキング・ヘッズの世俗的なディスコ、ブライアン・イーノのポップやエレクトロに対する探索やその解釈の拡大といった異質な要素を混ぜ合わせたものだ。これらのパッチワークにおいてMurphyはオブザーバーであって、参加者ではない。このポストモダン的な立ち位置はFFのアプローチにも言えることだ。ウォーホル的な重要なパーツにたいする観念。つまり、彼らはそのジャンルのセレブリティやアーティストをプラスチックや柔軟な素材に近づけてしまおうと考えたのだ。
 このセルフ・タイトルのアルバムはまさに彼らの重要な挑戦が結実したものだ。たとえば、このアルバムは圧倒的に表現の仕方に重きが置かれていない。彼らのクラフトワーク的なストラクチャーやコードに関して言えば、それは労働者の体感する音楽だ。観念としての身体より、生身の身体に焦点をあてた音楽だといえる。リスナーにとって彼らの魅力は機械化された状態で、還元され、大量生産されることだ。FFは抽象的な認識論におけるメカニクスであり、身体とパーフォーマーを「私」ではなく「物」として表現する。
 Nik Colk、Gabriel Gurnsey、Mark Harrisの3人はインダストリアル・ミュージックの重要な要素には興味を持っていない。その歴史や影響についてもだ。彼らの関心はその機能についてにある。機械はどのようにして動くのか? 何をもって工業的たりうるのか? FFは工業的なアイデアや工場の形態や機能を引き上げて、それを人間の機械的な不可能性、人間の非効率性に適用する。
 工業的であるということは製品を可能な限り迅速に効率よく大量に生産するということであり、結果までのひとつひとつの工程は具体的なものであり、現在進行形だ。休むことをしらない反復力によって、思考は分解され、見識が生まれる。空間が崩壊すればするほどそれ自身はより自由になる。これは傑出した存在には非常に明らかである。
 “Two Different Ways”の新しいヴァージョンは2011年にリリースされたふたつのヴァージョンのゆがんだ融合として完成した。この曲は出だしにキックドラムと切れ切れのスネアの組み合わせによる強く推進力のある間があって、素晴らしく奇妙なシンセサイザーの浮かれたようなサイクルがかぶさる。合間合間に様々なパターンのドラムが代わる代わる挿入され、その方法やアングルが絶え間なく変化していく。
 このような簡潔な構造はまさにウェアハウス・テクノが作り上げようとしたものだ。シンセサイザーがより暴力的に、より集中的になるにつれて軽快なドラムが低音で増幅する。そして、Voidが優しく語りかける。「ふたつの異なった方法でそれをまた受け入れる」
 このレコードを興味深くさせているのはヴィンテージの、体系化されたサウンドとテクスチャーを咀嚼して、それらを別の時空間へ突き抜けさせた方法だ。それはまさに工業的であり、文化的コードの抽出、梱包、販売である。この均質的に雑多のコレクションはテック・ハウスの原理をハイ・アートとして翻訳したものだ。メトロノームのような倉庫群を彷彿とする音楽の変異体である。このアルバムは工業的なアイディアの熱心なファンをあざけるものではない。これはFacotory Floor にとっての文脈的空間と彼らが取り入れてきた物に対するより客観的な発展の形なのだ。
https://www.tinymixtapes.com/music-review/factory-floor-factory-floor

音楽から「反抗(resistance)」が薄まった理由をどのように考えていますか?

M:「反抗」をどのように定義するかにもよるけれど、君が政治的なメッセージが入った曲が少なくなったことを言っているなら本当かもしれない。僕の意見を言えば、美学(Aesthetic)そのものが実は明示的に反抗を形作る。悪くはなっていない。『Slacker』という映画で、監督のリチャード・リンクレイターが「うんざりすることでどん引きすることは、無関心ということではない(Withdrawing in disgust is not the same thing as apathy)」と言っている。もし、政治的な音楽というものを考えるのであれば、そのなかに自分らのコミュニティを創出するために「うんざりすることでどん引き」しているアーティストについても考慮すべきだ。僕はそう思う。

TMTがいま注目のアーティストを何人か挙げて下さい。

M:アンダーグラウンド──D/P/I, Lucrecia Dalt, E+E, 18+, ahnnu, Vektroid, Diamond Black Hearted Boy, Susan Balmar, YYU, Vatican Shadow
よく知られているもの──Oneohtrix Point Never, Arca, Lil B, Dean Blunt, James Ferraro, DJ Rashad, Danny Brown, Mount Eerie

TMTのレヴューが哲学からの引用が多いのは、意図的なんでしょうか?

M:いや全然! 僕たちは、文化研究、批判理論、哲学優越から音楽評論にアプローチすることもあるから、ライターが文章を書いていくうちに、最終的に哲学/理論的な表現になったんじゃないかな。

TMTといえば、音楽に負けず劣らず映画もかなりの数のレヴューを取り上げ、かつ、メジャーからインディペンデントまで幅広く扱っていることに驚かされます。日本では音楽のリスナーと映画の観客とが分断されていて、そこを繋ぐことが近年難しくなりつつあるのですが、アメリカにも似た状況はあるのでしょうか。そうしたことを踏まえた上で、音楽と映画を同時に扱うことの重要性について聞かせてください。

M:それは面白い話だね。アメリカでは、音楽と映画好きが重なることがたくさんあるし、そのあいだに大きなギャップがあるとも思わない。たくさんのインディ映画がアメリカ中で上映されないのが問題だけど、これはアクセス問題。今日にしてこれは悲しいよね。TMTは映画を5年ぐらい前からカバーしはじめたけど、これは自然な流れで、避けられない選択だと感じている。もっとセクションを広げられたらいいと思っているよ。

ネット・メディアの更新のスピードについての見解を教えてください。というのも、TMTはトップ・ページに出る情報量が比較的少なめで、更新のスピードが速く感じられるのです。インターネットにおける情報の移り変わりの速さを、好意的に捉えているからなのでしょうか。

M:インターネットが創造したダイナミックはすごいね。それを悲しがる人びとの気持ちもわかるが、僕は昔のやり方にこだわるより、それに適合し変わったほうが良いという見解を持っている。メディアのアップデートの速度に一致することは、文化を違った風に経験する方法で、僕たちがどのように生活を送るかを有効に変更するんじゃないかと思っている。

読者とのコミュニケーションについてはどのようなものがあり、それをどのように生かしていますか。

M:Eメールのフィードバック以外、そんなに読者とコミニュケーションをしていないけど、もうすぐサイトに討論セクションを加える予定で、タイムリーな討論トピック上で、読者と僕たちが直対話する場所になるかな。コミニュケーションは一方的でないから読者ともっと関わるのは良いことだし、TMTでいつも強調したいと思っていたものである。

TMTがベストワンに選んだ映画『ツリー・オブ・ライフ』が日本の映画評論家からけちょんけちょんでした。あのときTMTは、なにゆえにあの映画を評価したのでしょうか?

M:僕の個人的な2011年のナンバー・ワンではないけど、説得力のある興味深い方法で、巨大なトピックに取り組むマリックのような監督には、信じられないほど美しく大胆なモノがあるし、ナンバー・ワンに値すると思う(投票の結果)。なぜ日本の映画批評家で良いレヴューが得られなかったのかわからないけれど、アメリカでも満場一致で愛されたわけじゃない。

TMTの「EURIKA!」の基準は?

M:ユリイカ。僕たちは「とくに興味深くて、冒険的で、重要なもの」という、音楽のハイライトを目指している。「実験的」「アヴァンギャルド」など、常に変わる定義に適合するための、連続的な探求の一部を反映するから定義は時間とともに変わるけどね。おおよそ僕たちは、境界を越えようとしたり、興味深い方法で現在を表すアルバムが好きだ。それは「ベスト?ミュージック」セクションではないけどね。僕たちが好きなものがすべてが「ユリイカ!」というわけでもない。

あらためめ音楽メディアの役割をどのように考えているのか教えてください。

M:それはとても重要だと思う。僕のキャリアがそれに依存しているというだけでなく、書くこと、考えること、音楽について話すことは音楽そのものと同じぐらい重要だと思う。もちろん、どうしようもない文章もあるけど、この文化的シフトを心から歓迎する。

嫁入りランド - ele-king

 半袖の季節が終わりきる前に、ある7月のイヴェントの強烈な印象について書いておきたい。スーパーボールの原色や蛍光が目の前を乱れ飛び、逆光のなかでカメラのシャッターがこちらに向かって切られたあの瞬間を、わたしはスローモーションで思い出すことができる。たくさん女子が笑っていた。いや、人数にすれば大したことがないかもしれないけれど、この日の記憶に焼きついているのはとにかく女子が笑っていたということで、どんな規模であれどんなトライブであれ女子が笑うところには天の岩屋戸を動かすエネルギーがある。黄色い声が飛び交うイヴェントはたくさんあるけれども、あのとき目にしていたのはちょっと予想外の感触。その感触を解きほぐせないうちから「“何かの瞬間”に立ち会っているかもしれない」感に心が躍った。ステージの上にいたのは嫁入りランドである。

 見ようによってはちょっと文化系の女芸人とも解釈できそうなたたずまいの女性3人組。彼女たちはすでにシーンでは熱い注目を浴びる“噂の”ラップ・グループだ。彼女たちの存在をヒップホップの文化史に照らしたり、そのなかに位置づけたりする能力は筆者にはないが、「新世代のスチャダラパー」のように言われたり、日本の「歌謡ラップ」をスネークマンショーから説き起こす磯部涼の論考(「ニッポンのラップ」第四回、『エリス』収録)の末尾にもその名が登場するなど、語るべきエネルギーと検証すべき魅力が詰まったグループであることは間違いない。

 だが、ひとまずそういうことは後回しだ。ぼんやりしているうちに彼女たちはリングにはやくも学祭のように賑やかなノリを引っ張ってきてしまった(〈月刊ウォンブ!〉なのでステージはリング。翌8月には実際にレスリングが行われた)。爪を見せ合って「見て、WOMB仕様。」「カワイイ。」なんてやっている。DJがついているわけではなく、ポチッと機材のボタンを押すだけのカラオケ・スタイルでトラックがはじまり、ラップがはじまる。

 たとえばMARIAのようなスキルを持っているわけではないけれど、彼女たちには彼女たち一流の言葉のセンスがあり、その斡旋に長けている。そしてたたずまいそのものにもとてもスマートな批評性がある。なんとなく学校を出たわたしたち、というような学生とも社会人ともいえない時間感覚、かつそうした枠の外のワイルド・サイドとは縁遠い「平均的な」風貌に親しみを覚える人も少なくないだろう。実際のところ彼女たちがどういう境遇にあるのかは知らないが、そのパフォーマンスからは「平均」や「普通」ということが持つクリティカルな側面がなめらかに切り出されていて、とてもいまらしさを感じる。

 「普通」問題は繊細だ。実際、「普通の女の子」というときの普通の水準はけっこう高い。「非モテ」から「貧困」まで、社会的文化的な関心が、より高いものではなくより低いものに向けられるようになってから、普通という言葉が示すところは揺らぎ、多様化したように思う。嫁入りランドのステージは、そんなバランスの上で成立する「普通」のひとつがおおらかに楽しげに歌われ謳歌されているようで、ぐっときた。そもそも“郊外の憂鬱”とか “嫁入りランドのLOCAL DISTANCE”“暮らしのジャングル”など、曲名だけをとってみてもかなり意識的に2000年代の風俗や社会感覚が切りとられていて、彼女たちがけっして若さや女子ユニットという華やぎに寄りかかる芸風でないことは明らかだ。そして批評的に機能する力を持ったそれらキーワードに寄りかかることもない。彼女たちは彼女たちの言葉を持っている。「ヤーマン越え 谷越え 川越~」という軽やかな言葉遊びのひとつから、ばーっと視界が開けていって、2013年の風景がみえる……そしてなぜだか女子がみんな楽しそう……そんなステージなのだ。

 さて、「えんたけー」「えんもたけなわってヤツですね!?」とまた奇妙な角度からのMCがはじまり、どうやら宴もたけなわになった。「ここはヤグラなんですよ」「これは盆踊り大会なんですよ」「びっくりでしょー!?」とさらに急角度で設定が加えられて、〈WOMB〉は盆踊り会場になった。たしかに、オーディエンスには何か見たことのないものに触れる興奮のようなものが伝播していたけれども、そこに唐突に盆踊りというコンセプトが与えられたことで、一気にエネルギーが放出口を見出して流れ出した。
 「ちょっと、目つむって!」「スゴーイ!!」「ヤグラじゃん!!」「ヤッター!」「ヤッター!」夏祭りのお囃子の音とともにリングはヤグラに変わり、この急展開のなかで〈月刊ウォンブ!〉も新しいステージを踏んだ……のだろうか。なんだか楽しくてヤグラにむかってへらへらしていると、今度は「ペンシルカルパス」と印刷された古ダンボールが引っ張り出されてくる。そしてこのレポートの冒頭へ場面は移る。ダンボールのなかから小さめのスーパーボールがバラバラとオーディエンスに向かって投げられはじめ、女子も男子もきゃあきゃあ笑ってそれを拾うというさらなる謎展開、そして舞台の上からカメラのシャッターが切られ、これまた唐突にわれわれの姿は無作為にフィルムのなかに収められることになる。彼女たちは自撮りにも余念がない。これは宴もたけなわというか、宴の底が抜けた瞬間で、その後また急に幕引きを迎えるまで不思議な恍惚状態がつづいた。アルコールでも薬物でもなく、また黄色い声援が生む熱狂でもなく、何かもっと透明なものを火元に燃えているこのヤグラの炎を、筆者は憧れとリスペクトの眼差しで見つめた。

 言葉の達者だけれども言葉だけではない、音やビートの彫琢によってでもない、しかし芸というよりは生きた音楽として、嫁入りランドのライヴは際立った印象を残した。宴会芸や学芸会の出し物のようでいて、それは素人の起こした奇跡とは違う。青文字も赤文字もオタクもすり抜けて、職業意識からもアマチュア意識からも表現活動や芸術活動の使命感等々からも自由に、強いて言えばおもてなし感覚くらいを添えて……。

 明確な計算のもとに行われたものではないだろうけれども、彼女たちは何かを描き、取り出しているということがはっきりと伝わった。そしてその根元を支える普通さの感覚にしびれた。それがダイレクトに女子を笑わせているところに感激した。ちょっと女子女子と言い過ぎだと自分でも思うけれど、だって、たとえば同じ年頃でも、140文字で必死に虚勢とカッコをつけあい、フォロワー増やしゲームに絡め取られるツイート男子たちが、彼女たちの言葉より女子を楽しくさせることができるだろうか、と考えると感じ入ってしまう。
 ここで見たものが何だったのか、誰かもっとうまい言葉にしてくれたらうれしい。さわるとゴムがねちゃねちゃするこのスーパーボールが、未来の礎になることを期待して。

LIQUIDROOM - ele-king

 すっかり秋だなーと思いに耽っていたらいきなり台風、甚大な被害をもたらした26号が通り過ぎてくれたかと思ってひと息つけば27号。まるで『スローターハウス5』のように、あっち行ったりこっち行ったりと、不条理極まりないこの世界でいちばん大事なモノ、それは俺の自由。10月最終週のリキッドルームが熱すぎるぜ。
 エレキングでは先日、WOODMANとKES(ペイズリー・パークス)との対談をやったばかり。シミラボのマリアちゃんのロング・インタヴューももうすぐUPされるであろう。大変な時代だが、面白い時代である。


▼10月23日(水曜日)
BLACK OUT SPECIAL@LIQUIDROOM + LIQUID LOFT + Time OUt Cafe & Diner
概要→https://www.liquidroom.net/schedule/20131023/16833/

▼10月26日(土曜日)
THE HEAVYMANNERS@LIQUIDROOM
概要→https://www.liquidroom.net/schedule/20131026/16006/

▼10月27日(日曜日)
Battle Train Tokyo -footwork battle tournament-@KATA + Time Out Cafe & Diner
概要→https://www.kata-gallery.net/events/btt/
*こちらは23日(水曜日)にDOMMUNEにて開催記念番組があります。

Oneohtrix Point Never - ele-king

 僕はいま、ロープウェイを乗り継いでやって来た箱根の山奥のホテルの一室で、世にも美しく、しかし名状しがたい音楽を聴いている。ブルックリン・ベースのワンオートリックス・ポイント・ネヴァー、OPNとして知られるダニエル・ロパーティンは、〈ワープ〉からの新作において、我々に新たな音響体験を提示している。80年代の、賞味期限切れのCMをカット&ペースト&ルーピングして作られた前作『複製(Replica)』から露骨な変化は感じないが、予想外の変化はある。
 20世紀のデジタルの墓場、彼いわく「ポスト黙示録的世界における社会の残滓」から音源を拾い、カット&ペースト&ルーピングして作られるOPNの音楽は、ライナーノーツで三田格がいみじくも書いているように「ここ数年、とんでもない勢いで変貌し続けるUSアンダーグラウンドの中心」だと言えよう。『リターナル』以降、我々は可能な限りダニエル・ロパーティンを追いかけている。あのアルバムの1曲目のノイズに度肝を抜かれ、そしてそれ以降の彼の静寂にやや緊張しながら耳を傾けている。
 前作『レプリカ』になくて『Rプラス・セヴン』にあるもの、それは官能である。『レプリカ』には、アートワークが暗示するようにある種の悪意が混じっている。アイロニカルな響きがあり、音もローファイだった。それに比べると新作はずいぶんとクリーンな音だ。とっちらかっているのに関わらず、信じられないほどの調和があり、美がある。

 1曲目の"退屈な天使"は、驚異的な曲のひとつだ。薄ぼんやりとしたデジタルのルーピングは、輪のように重なり、神聖な響きと冗長さを合成させる。ロパーティンの音楽はおおよそリスナーの解釈に関わっている。少年だとか夢だとか、あるいは何かの具象性もなく、ダンス・ミュージックを当てにすることもない。タルコフスキーやヘルツォークといったヨーロッパの映画を好んでいるようだが、とくに映像的だとも思えない。とはいえ、『サクリファイス』ではないが、ユートピアとディトピアの断片が混線しているようにも感じる。ひどく分裂的で、スピード感があるというのに平穏でもある。落ち着きがないのに陶酔的で、醒めていながら瞑想的でもある。"アメリカ人たち"や"彼・彼女"、"内側の世界"といった曲のカット&ペースト&ルーピング&エディティング(スタッターリング)には、分裂的なイメージが散文的に展開されている。そして、アンビエントでもなくダンスでもないこの音楽は、耳を飽きさせないどころか、僕に不思議な心地よさをもたらす。
 5曲目の"ゼブラ"には彼らしいユーモアがはっきり見える。〈ワープ〉へのオマージュかと思わずにはいられないほどベタな循環コードのシンセリフではじまるものの、曲は支離滅裂に崩れていく。また、"問題の領域"のベタなシーケンスも、クラウトロック・リヴァイヴァルがノスタルジックに思えるほど、パロディと言うよりは新鮮な世界に誘導する。
 たとえばリチャード・D・ジェイムスのアンビエントのような、ロパーティンにはごく当たり前の、誰もが馴染みやすいメロディを作ろうという意識はないのかもしれない。だが、交錯するルーピングは恍惚を帯びた美しいメロディを描いている。その描写は、アナログ機材への郷愁によるものではない。インターネット世代のデジタル・アーティストがなしうるそれである......などと言いたくほど、90年代テクノとは根本が違っているように思う。エモーショナルだとも言えるのだが、だとしたらこの感情表現はあまりにも新しい。さもなければ、いま新しく引き起こされるファンタジーだ。
 最後の2曲"静かな生活"と"クロームの国"には、この傑作を締めるのに相応しい、感動的な分裂と静寂がある。アートワークが物語るように、このアルバムは音のシュールレアリズムだ。それは、TMTが言うように「非宗教的かつユートピア的理想主義」を思わせる。『Rプラス・セヴン』は、間違いなく2013年のベスト・アルバムである。いわゆる実験音楽と括ってしまうのがもったいないほど煌めいている。いや、本当に素晴らしい作品だと思います。朝方、窓の外に見える芦ノ湖を囲む木々は、ひと晩を経て黄色に近づいてきた。

- ele-king

Silent Poets - ele-king

 サイレント・ポエツ(下田法晴)は、ワイルド・バンチやネイティヴ・タンへのリアクションのひとつで、今日ダウンテンと呼ばれているスタイル(ヒップホップ、ダブ、ジャズ、ソウルなどの混合)の、90年代の日本の代表格(オリジナル・メンバーにはリトル・テンポの土生剛もいた)。ロービートの叙情主義。2005年にアルバム『Sun』を発表して以来、8年もの長い沈黙を守っていたサイレント・ポエツだが、この度自身のレーベル〈ANOTHER TRIP〉を立ち上げ、新たにミックスしなおされた『Sun』、そのダブ・ヴァージョンのアルバム『ANOTHER TRIP from Sun』の2枚を発表する。この日を待っていたファンも多いことでしょう。11月20日、Jazzy Sport経由にて2枚同時発売。


Silent Poets
SUN

ANOTHER TRIP

Amazon iTunes

 
Silent Poets
ANOTHER TRIP from SUN

ANOTHER TRIP

Amazon



  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 218 219 220 221 222 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247 248 249 250 251 252 253 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 264 265 266 267 268 269 270 271 272 273 274 275 276 277 278 279 280 281 282 283 284 285 286 287 288 289 290 291 292 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315 316 317 318 319 320 321 322 323 324 325 326 327 328 329 330 331 332 333 334 335 336 337 338 339 340 341 342 343 344 345 346 347 348 349 350 351 352 353 354 355 356 357 358 359 360 361 362 363 364 365 366 367 368 369 370 371 372 373 374 375 376 377 378 379 380 381 382 383 384 385 386 387 388 389 390 391 392 393 394 395 396 397 398 399 400 401 402 403 404 405 406 407 408 409 410 411 412 413 414 415 416 417 418 419 420 421 422 423 424 425 426 427 428 429 430 431 432 433 434 435 436 437 438 439 440 441 442 443 444 445 446 447 448 449 450 451 452 453 454 455 456 457 458 459 460 461 462 463 464 465 466 467 468 469 470 471 472 473 474 475 476 477 478 479 480 481 482 483 484 485 486 487 488 489 490 491 492 493 494 495 496 497 498 499 500 501 502 503 504 505 506 507 508 509 510 511 512 513 514 515 516 517 518 519 520 521 522 523 524 525 526 527 528 529 530 531 532 533 534 535 536 537 538 539 540 541 542 543 544 545 546 547 548 549 550 551 552 553 554 555 556 557 558 559 560 561 562 563 564 565 566 567 568 569 570 571 572 573 574 575 576 577 578 579 580 581 582 583 584 585 586 587 588 589 590 591 592 593 594 595 596 597 598 599 600 601 602 603 604 605 606 607 608 609 610 611 612 613 614 615 616 617 618 619 620 621 622 623 624 625 626 627 628 629 630 631 632 633 634 635 636 637 638 639 640 641 642 643 644 645 646 647 648 649 650 651 652 653 654 655 656 657 658 659 660 661 662 663 664 665 666 667 668 669 670 671 672 673 674 675 676 677 678 679 680 681 682 683 684 685 686 687 688 689 690 691 692 693 694 695 696 697 698 699 700 701 702 703 704 705 706 707 708 709 710 711 712 713 714 715 716 717 718 719 720 721 722 723 724 725 726 727 728 729 730 731 732 733 734 735 736 737 738 739 740 741 742 743 744 745 746 747 748 749 750 751 752 753 754 755 756 757 758 759 760 761 762 763 764 765 766 767 768 769 770 771 772 773 774 775 776 777 778 779 780 781 782 783 784 785 786 787 788 789 790 791 792 793 794 795 796 797 798 799 800 801 802 803 804 805 806 807 808 809 810 811 812 813 814 815 816 817 818 819 820 821 822 823 824 825 826 827 828 829 830 831 832 833 834 835 836 837 838 839 840 841 842 843 844 845 846 847 848 849 850 851 852 853 854 855 856 857 858 859 860 861 862 863 864 865 866 867 868 869 870 871 872 873 874 875 876 877 878 879 880 881 882 883 884 885 886 887 888 889 890 891 892 893 894 895 896 897 898 899 900 901 902 903 904 905 906 907 908 909 910 911 912 913 914 915 916 917 918 919 920 921 922 923 924 925 926 927 928 929 930 931 932 933 934 935 936 937 938 939 940 941 942 943 944 945 946 947 948 949 950 951 952 953 954 955 956 957 958 959 960 961 962 963 964 965 966 967 968 969 970 971 972 973 974 975 976 977 978 979 980 981 982 983 984 985 986 987 988 989 990 991 992 993 994 995 996 997 998 999 1000 1001 1002 1003 1004 1005 1006 1007 1008 1009 1010 1011 1012 1013 1014 1015 1016 1017 1018 1019 1020 1021 1022 1023 1024 1025 1026